シーズ・ソー・ビューティフル(後篇)
『アルフレッドがパパに似ていて本当に良かったわ。じゃなきゃ、私一人で育てる自信なんてなかったもの』
アビゲイルが幼いフレッドに向かって、何度となく言っていた台詞だ。無邪気に笑いながら。その度にフレッドは思った。
『お母さんは、僕がお父さんに似ていなかったり女の子だったら、一体どうしていたんだろう』と。
不安の余り、ついチェスターに心情を吐露してしまったこともある。チェスターは「アルフレッドがパパに似てなくても女の子だったとしても、ママはお前のことが好きだよ」と言ったが、嘘だと思った。アビゲイルはマクダウェル氏の身代わりが欲しかっただけだ。
アビゲイルが自分のことを、息子と言うより男を見るような目で見ていると、しばしば感じる時があった。正直、気持ちが悪かったし、故に素直に甘えることが出来ずにいた。
「……アルフレッド、いつまでこうしているの??」
オールドマン家から自宅に戻り、玄関まで出迎えに来たスカーレットを抱きしめたまま、フレッドはいつまでも彼女から離れなかった。
「今日はいつもより甘えん坊さんね」
スカーレットは困ったように、その割に少し嬉しそうにクスクス笑う。彼女はフレッドに甘えられることが好きなのだ。
フレッドは母に上手く甘えられなかった分、スカーレットに甘えている。スカーレットもそれを承知しているので、黙って受け入れる。しかし、子供が生まれたら、こんなことをしている場合ではなくなるし、スカーレットにも負担を掛けてしまうことになる。
変わらなければいけない。
だが、気持ちとは裏腹にフレッドは行動することができずにいる。自分はつくづく情けない男だと心の中で自嘲した。
「……ねぇ、アルフレッド。私はね、貴方がただ側にいてくれるだけでいいの。それだけでいいのよ」
スカーレットは、いつもフレッドが一番求めている言葉をくれる。
「……それは、こっちの台詞だ……。俺は……、あんたが……、あんたと子供さえ側にいてくれれば……、それでいい……」
フレッドはスカーレットの、膨らみが目立ち始めた腹を掌で撫でさするが、彼の言葉を聞いたスカーレットが一瞬、悲しげな顔をしたことにフレッドは気付かずにいた。
「雨だわ」
屋根を打つ微かな雨音を聞き、ソファーに座りながら編み物をしていたスカーレットは手を止めて、外の様子を窓越しに眺めた。
「良かった。ちょっと前に洗濯物を入れておいて」
そう言うと、編み物の続きをするためにまた手を動かし始める。彼女の隣ではフレッドがギターを爪弾いていた。
雨足は強まる一方だった。
「あっ……、ふふっ」
一人で楽しそうに笑うスカーレットを、フレッドが訝しげに見返す。
「あのね、アルフレッドがギターを鳴らすと、この子がお腹をポンポン蹴るのよ。音が止まると静かになるんだけど、弾き出すとまた蹴るの。きっと、この子も音楽が好きなのね」
スカーレットは今、妊娠七ヶ月目を迎えたところだった。
フレッドはギターを抱えたまま、すっかり大きくなったスカーレットの腹に耳を当てながら、適当に音を鳴らしてみる。確かに、僅かながらポコンポコンという音が聞こえる。今度は、わざとギターを弾く手を少しの間止めてみる。すると、さっきとは打って変わり、お腹からは何も聞こえない。そして、またギターを弾き始めると、ポコポコと軽快な音がし始めた。
「面白いな」
「でしょ??」
フレッドは珍しく笑顔を浮かべ、それを見たスカーレットは良いことをして褒められた子供のような得意げな顔をする。
「身体は小さいかもしれないけど、元気は有り余ってるみたい」
「まだ生まれるまで二ヶ月はある。それまでに多少は大きくなるだろ」
妊娠してからスカーレットは六㎏程体重が増え、少しぽっちゃりしてきたのだが、昼前に病院に行った際、「増えた体重の割に子供が小さい」と医師に指摘され、落ち込んでいたのだ。
「そうね……、二ヶ月後までには大きくなるわよね」
スカーレットは力無く微笑むが、気を取り直すかのように「そう言えば、そろそろ夕方の新聞が配られてくる頃だから見てくるわ」とソファーから立ち上がり、部屋から出て行った。
しかし、郵便受けが外にあるとはいえ、ものの一、二分もあればすぐに戻って来れるにも関わらず、五分以上経ってもスカーレットは居間に戻ってこなかった。さすがに心配になり居間から出ていくと、フレッドは傘を持って玄関の扉を開ける。
「……スカーレット、何をしてるんだ」
目にした光景に不快感を示すかのように、フレッドは眉間に深い皺を刻んで鋭い口調でスカーレットに言い放った。傘を差したスカーレットと共に、サスキアがそこに立っていたからだ。
いつから玄関前にいたのか分からないが、サスキアは雨で全身がびしょびしょに濡れそぼり、唇を青紫色に変色させて身を震わせている。
「スカーレット、そいつから離れるんだ。あんたまで濡れちまう」
スカーレットが差している傘は大人二人で使うには小さく、サスキアに雨が当たらないよう気遣っているせいでスカーレットの肩口が濡れてしまっている。
「そんな奴捨てておけ。気に掛ける必要はない。雨に当たったせいで、大事な時期に風邪でも引いたらどうするんだ」
「そんな奴って……、彼女は貴方の妹でしょ??」
「俺の妹はキーラとシャーロットだけだ」
「アルフレッド!!」
フレッドの冷たい態度に、スカーレットは思わず反発する。
「何の用だか知らないが、勝手に家の前に来て勝手に雨に濡れていただけじゃないか。雨が降ってきた時点ですぐに帰るか、玄関の扉を叩くかすれば良かったのに」
「彼女は迷っていたのよ。貴方に助けを求めたいけど、拒絶されるのが怖くて」
「俺に助けを求めること自体がそもそもの間違いなんだ」
「助けを求められるのが、貴方しかいないのかもしれないじゃない」
「そんなの俺の知ったことか。スカーレット、あんたは何だってそいつの肩を持つんだ??」
「……心身共に、こんなに打ちひしがれた人を目の前にして放っておけないでしょ??」
いつにもまして食い下がるスカーレットに対しても、段々と腹が立ってきたため、つい口調が厳しくなってくる。
「……とにかく、あんたは中へ入れ」
「嫌よ。サスキアも中へ入れてあげて」
「スカーレット、俺の言うことを聞くんだ」
「サスキアを入れてくれるなら、中に入るわ」
普段は聞き分けが良く、素直で従順なスカーレットだが、自分の中でどうしても譲れないことには頑として我を押し通そうとする所がある。それは客観的に見ても正しいことばかりなので、最終的にはいつもフレッドが折れるのだった。
そして、今回もフレッドはスカーレットに根負けした。
「……もういい。好きにしろ」
フレッドはそう言うと、二人に背を向ける。スカーレットは彼の後ろ姿に向かって、小さく「……ありがとう」と礼を述べたのだった。
びしょ濡れのサスキアの身体を拭いて着替えをさせるため、スカーレットは彼女を寝室へと連れ立ち、フレッドは再び居間に戻る。程なくして、スカーレットも着替えを終えたサスキアを伴い、居間に姿を現す。
サスキアの、いつもの傲慢で生意気な態度はすっかり影をひそめ、変わりに世界の全てに怯えているかのような、オドオドとした目をして口も利けずに黙り込んでいる。もしかしたら、こちらの方が本来の彼女の姿なのかもしれない。
「……で、俺に何の用だ」
先に沈黙を破ったのは、フレッドだった。
サスキアは怯えた目のままでフレッドを見る。化粧をしていない素顔は思いの外幼い。
「黙ったままでは分からん。さっさと話せ」
「アルフレッド、もうちょっと優しくしてあげて」
サスキアに対して刺々しい態度で接するフレッドを、スカーレットが咎める。スカーレットは、やけにサスキアの肩を持つ。何故だろうか。
サスキアは二人の様子にたじろぎつつも、ようやく口を開く。
「お母様が……。お母様が、精神病院に強制入院させられることになってしまったの……」
「……で、俺にどうしろと??」
「お母様に会って欲しいの……、お願い……」
「……俺が会ったところで、アビゲイルの強制入院は避けられないと思う。以前も話したが、俺はアビゲイルを一生許すつもりもなければ会う気もない。そもそも、あんたは何故そんなに俺を会わせたがるんだ??」
「……ここ数ヶ月、急にお母様は貴方のことばかり、話すようになったの。私に対しても完全に『アルフレッド』だと思い込んでて話し掛けるのよ。私は貴方と顔が似てるし……」
「いくら顔が似ていても、あんたと俺は性別が違うし、年齢も一回り近く離れている。それを認識できてない時点で正気じゃない。しかるべき治療を受けるために入院させるのは正しいと思うが、何がそんなに気に入らないんだ」
以前のように言い返してくるかと思いきや、サスキアは再び黙り込んでしまった。
「あんた、この間言ってたな。アビゲイルに『貴女さえいなければ……』とか言われていたと。つまり、あんたもアビゲイルの身勝手さに振り回されて苦しんできたんじゃないのか??それなのに、何故庇い立てる??」
「…………」
「答えろよ」
サスキアは縋るようにスカーレットの顔を見る。そんな彼女にスカーレットは、大丈夫だとでも言うように頷き、「サスキア、勇気がいると思うけど打ち明けて」と促した。
サスキアは、躊躇いがちにゆっくりと左腕の袖をまくりあげる。彼女の白く細い腕には無数の切り傷が残っていた。
「……さっき、服を着替えさせた時に見たんだけど……。見ての通り、彼女は自傷癖があるの……。理由までは分からないけど、きっと誰にも自分の気持ちを打ち明けられなくて、辛くてやっていたんだと思う……」
何も話そうとしないサスキアに代わり、スカーレットが説明する。スカーレット自身もつい数年前までは自傷癖があったからか、通じるものがあるのかもしれない。
「……お母様が周りから冷たくされていたように私も、幼い頃から親族や屋敷の使用人達から冷たくされ続けていたの……。学校の級友達にも、『したたかで卑しい女の子供』だと蔑まれてきた。加えて、お父様は私を無視し続けるし、お母様は心を病んでいる。皆、私を傷つけるばかりだった。私、お兄様が心底羨ましかった。お母様のことではとても傷ついているんだろうけど、オールドマン家の人々から大切にされて、気の置けない幼なじみや仲間がいて、心優しい妻と共に幸せな家庭を築いている。私には、私を思ってくれる家族も友人も恋人もいやしない……。私だって、あんな家や両親の元になんか生まれたくなかったし、私なんて生まれてこなければ良かったってずっと思ってきた……!」
サスキアは、フレッドと同じ色の瞳に涙を浮かべながら、尚も続ける。
「確かに、お母様は狂っているし、何かと私を責めたりする。でもね……、ほんの時たま、お母様が『サスキアは良い子ね。大好きよ』と言ってくれる、その言葉だけが拠り所だったわ。単なる気まぐれでしかないことは分かってる。それでも、私にそう言ってくれるのはお母様しかいなかったの……。だから、例え気が触れていようが何だろうが、お母様には私の側にいて欲しいのよ!」
サスキアの目からは堰を切ったかのごとく涙が溢れ出し、彼女は嗚咽を漏らす。 そんな彼女に掛ける言葉が見つからず、フレッドとスカーレットは成す術もなく、黙って見守るしかなかったのだった。
「……ねぇ、アルフレッド……。サスキア程悲しい境遇ではないけど、私も彼女とちょっとだけ似たような状況で育ってきたから、何となく気持ちが分かるの。私も両親に疎まれていたし、わだかまりがある」
スカーレットの両親は彼女の姉、ヴァイオレットばかりを溺愛し、スカーレットには冷たい態度を取っていた。
フレッドは、結婚の承諾を得るために一度だけ彼女の両親に会ったが、すぐにヴァイオレットの話を持ち出し比較してはスカーレットを責める姿に、内心はらわたが煮え繰り返る気持ちになったと同時に、彼女が両親に対してわだかまりを持っていることが嫌と言うほど理解できた。
「……でもね、どんなに疎まれていても、私は両親を憎むことができないの。だって、本当に私を嫌っていたのなら、捨てるなりして育てることはしなかったはずだもの。少なくとも、あの街を出た十五歳までは衣食住に困らない生活をさせてくれるだけの愛情はあった」
「あんたの両親を悪くは言いたくないが……、『ヴァイオレットの子供達の面倒見なきゃいけないので、汽車で一時間もかかるような場所まで出向くことは出来ない』と結婚式すら迷わず欠席の意を示したんだぞ??出産時も里帰りはせずにこっちで産んでくれ、と言ったんだぞ??それでもか??」
結局、花嫁の親族全員が欠席で大々的に式を行うのは余りに体裁が悪い、ということで、結婚式はフレッドとスカーレットの二人だけでひっそりと行い、出産時はオールドマン家の世話になる予定になったのだった。
「……それでもよ……。それでも、私は両親といつの日か分かり合える日が来る、って信じたいの。きっとサスキアもいつの日か、お母さんが自分をちゃんと見てくれる日が来ることを信じたいのよ。それが限りなく0に近い可能性しかなかったとしても。だって彼女には……、お母さんしか信じられる人がいなかったから……」
スカーレットは、サスキアの背中を流れる艶やかなブルネットの髪を、まるで大切なものに触れるかのように、そっと撫でる。驚いたサスキアは泣くのを止め、泣き腫らした目でスカーレットを凝視する。
「……馴れ馴れしく触ってごめんなさい。貴女の背中が余りに幼気だったから……。不快だった??」
サスキアは首を横に振る。
「ねぇ、サスキア。私は貴女のお母さんじゃないし、代わりを務めることもできない。……けど、これだけは言わせて。……貴女は何も悪くないわ。きっと、私なんかよりもずっと辛い思いをしてきただろうに……、よく耐えてきたね。もう我慢しなくていいのよ」
サスキアは再び、大きな声を上げて涙を流した。そんな彼女を慈しむようにスカーレットは背中を撫で続け、フレッドはその光景をただ黙って眺めていた。
どれくらい時間が過ぎただろうか。ようやく泣き止んだサスキアは、スカーレットに向かって、消え入りそうな声で「……ありがとう……」と呟いた。
「……気が済んだか??」
ずっと黙っていたフレッドが口を開くと、サスキアはびくびくと怯えながら彼を見る。
「……あんたの気も知らずに、きつい言葉ばかり言って悪かった……」
サスキアは再び、ゆっくりと首を横に振る。
「だが、それと、俺がアビゲイルと会うかは別の話だ」
スカーレットは批難の目をフレッドに向けるが、彼は構わず続ける。
「俺としては、やはりアビゲイルは入院させるべきだと思う」
「アルフレッド!貴方、まだそんなこと……」
「……スカーレット、最後までちゃんと話を聞いてくれ」
フレッドはスカーレットを制し、更に話し続ける。
「考えてもみろ。屋敷の一室に閉じ込められているのも病院に入院するのも、状況としては何ら変わりない。むしろ、万全の治療を施してもらえる分、入院した方が回復する可能性が出てくる。……俺の友人が働く精神科と心療内科の病院には、別棟として郊外に療養所も開いている。そこは患者一人一人に丁寧に向き合ってくれるし、回復率も高いと評判だ。だから……、俺が友人に口を利いてその療養所に入所できるよう頼んでみる。……それから……。……サスキア、あんたもアビゲイルと一緒にそこに入所するんだ。あんたの自傷癖は、育ってきた環境及びアビゲイルとの母子関係が起因していて根が深い。専門家の元で、きちんとした治療を受けた方がいいと思う。治療を受けることは恥ずかしいことでも何でもない。妻子が同時に治療を受けることをマクダウェル氏が承諾しなければ、こう伝えろ。『他人の家庭を壊して、世間から白い目で見られても構わないくらい愛した女とその子供、と言うことを忘れたのか。あんたが妻や娘に一欠けらでも愛情があるなら、彼女達の病に真剣に向き合えよ。逃げるな』と。……アビゲイルの息子として、サスキアの兄として、俺が出来るのはそれくらいだ……」
フレッドの話をじっと聞いていたスカーレットは、隣に座っているサスキアを心配するかのようにちらりと見る。サスキアは先程までの怯えきった様子ではなく、いつもの強気な目をしてフレッドを見据えていた。
「……やっと、いつものあんたに戻ったな」
「…………あんたじゃないわよ、サスキアよ。さっきまで呼んでたじゃない。もう忘れたの??」
以前ならば癇に障っていた話し方だが、今じゃ逆に安心する。
「生意気な口の利き方できりゃ、もう大丈夫だ」
フレッドは口角をわずかに上げ、サスキアに向かって、ニッと笑いかけた。
「……お兄様」
「何だ」
「……私と母がその療養所に入所した時は……。……お母様に会うのは無理でも……、……私に会いに来てくれる??」
フレッドは一瞬考えたが、「……あぁ……」とだけ答えたのだった。
あれから、更に数ヶ月が過ぎた。
「ただいま」
フレッドは居間にいるシャーロット、台所にいるジルにそれぞれ声を掛ける。しかし、そのどちらの場所にも入って行かず、居間と台所から廊下を挟んだ、客室のドアを開け、中に入った。
客室の中にはベビーベッドが置いてあり、すぐそばの大人用のベッドにスカーレットが腰掛けながら、赤ん坊に乳を与えているところだった。
「あ、おかえり」
フレッドに気付くと、スカーレットは優しく笑い掛ける。
「あら、もうお腹いっぱいになっちゃったの??本当に貴女は少食ねぇ……」
どうやら、そんなに乳を飲まなかったらしく、スカーレットは困ったように子に話し掛ける。スカーレットは服の中に乳房を隠すと、子の頭を支えながら背中を軽く叩く。すると、子は小さく「けふっ」と息を吐き出す。
「……やっぱり、乳を飲む量は変わらないか……」
フレッドもスカーレットの隣に腰掛け、子の姿を一緒に眺める。お腹が膨れたからか、子は欠伸をし出し、うつらうつらとまどろみかけている。フレッドは子の掌を指先で弄びながら言った。
「おい、フィオナ。お前はただでさえ身体が小さいんだから、たくさん飲まなきゃ大きくなれないぞ??大体、毎回少ない量しか飲まないから、すぐにまた腹が空くんだ。一、二時間起きに乳をせがまれる母さんの身にもなれ」
すでに眠ってしまった我が子に真顔で説教するフレッドの姿が可笑しくて、スカーレットは思わず噴き出す。
「もうっ、フィオナにそんなこと言ってもまだ分かんないわよっ」
「知ってる。それより、あんた、また痩せたか??」
フレッドは心配そうにスカーレットを見つめる。
子を産む時、スカーレットは妊娠前の体重より七㎏増えたが、子の体重は中々増えず小さいままだった。更に、早産の可能性が高くなったため、妊娠八ヶ月を過ぎてから病院に入院させられた。そして、九ヶ月に入るか入らないかの時期に陣痛が起き始めたのだ。そこからは長かった。
陣痛が微弱で半日過ぎても子宮口が開いて来ず、始めの陣痛から一日以上過ぎてようやく開き、分娩に移った。しかし、産道が狭すぎるのとスカーレットのいきむ力が少し弱かったため(元々、身体が余り強くない上に長い陣痛で食事も睡眠もろくに摂れず、体力が落ちていた)難産となり、一時はスカーレットも子も危険な状態に陥った。
その時、フレッドは三十二年間生きてきた中で初めて心から神に祈りを捧げた。 どうか、最愛の妻と我が子を助けて欲しい――、と。
フレッドの願いが通じたのか、分娩室に入ってから二日目の朝、「おめでとうございます。元気で可愛い女の子が産まれましたよ。奥様も衰弱はしていますが、無事です」という朗報が知らされた。
スカーレットは娘を産んでから数日間高熱に苦しむも、その後は順調に回復していったが、出産時に相当体力を労したことで体質が変わったため、産後二ヶ月を過ぎた今では妊娠前よりも痩せてしまったのだ。
スカーレットは、どちらかと言うと太りやすい体質で日頃から体型を気にしていて、妊娠中も増えていく体重に「赤ちゃんのためとはいえ、産んだ後が恐ろしい……」と戦々恐々としていたのに。
「母乳の出が悪くなっては困るから食べてるんだけどなぁ。そんなに痩せたように見える??」
「顔がやつれた気がする」
「えぇーー?!多分、寝不足もあるのかも」
「だからフィオナに、説教したんだよ」
「いや、まだ分からないってば」
フィオナと名付けられた二人の娘は、身体こそ小さいが元気に育ちつつある。赤ん坊なのに、やけに鼻筋の通った顔立ちからして、おそらくフレッド似だ。
「お父さんに似て良かったねぇ、フィオナ。将来はきっと美人になるわ」
すっかり眠ってしまったフィオナを抱きながら、スカーレットは言った。
「……変な虫がつかないか、今から心配だ」
フレッドは、スカーレットの腕からフィオナを奪い、起こさないようそっと抱き上げる。
初めてフィオナを抱いた時、余りの小ささと軽さに驚いたものだ。だが、実際の大きさや重さとは別に、愛する我が子の命は何よりも重みのある、かけがえのない大切なものであった。夜中に泣き喚いて中々収まらない時もオムツを変えたりあやしたりと、彼は率先してフィオナの世話をしていたので、スカーレット同様に寝不足で疲れ気味だったが、こうして寝顔を見ていると疲れなど全く気にならなくなる。
フィオナをベビーベッドに移した後もフレッドは引き続き、その寝顔を黙って眺めていた。フィオナが生まれてからというもの、彼の中である変化が生じていて、人知れず葛藤していることがあった。
部屋でルームメイトの少女と談笑していたサスキアは、看護師に呼び出しを受ける。せっかく話が弾んでいた所に水を差され、不機嫌そうにサスキアは看護師の下へ赴く。
「何か用??」
「貴女に面会よ」
するとサスキアは、すぐに同室の少女に「ごめんなさい、また後で話の続きを聞かせてくれる??」と申し訳なさそうに言うと少女は、「分かったわ」と言い、「あの美形のお兄さんが来たんでしょ??」と顔をニヤニヤさせる。
「えぇ、そうよ。私への面会はお兄様しか来ないし」
「サスキアは良いなぁ、心配してくれる人がいて。にしても、あのお兄さんが妻子持ちじゃなかったら、貴女に紹介してもらうのに」
冗談っぽく話す少女の言葉にサスキアは微かに笑い、看護師に伴われ、フレッドが待つ面会室まで向かった。
面会室に入ってきたサスキアに「……元気そうだな」とフレッドは声を掛ける。それに対し、「……まあね」とサスキアは素っ気なく応える。
その後、猛反対するマクダウェル氏をどうにか説得したサスキアはアビゲイル共々、フレッドに薦められた療養所に入所した。
「思えば、お父様と腰を据えて話をしたのは、あれが初めてだったかも」とサスキアは言う。
二人が入所してから、一ヶ月に一度、フレッドはサスキアの面会に訪れた。サスキアは表面上は相変わらず素っ気ない態度だったが、フレッドが会いに来てくれることを密かに心待ちにしていた。
「日に日に表情が明るくなっていく気がする」
「そう??」
「やっぱり、友人が出来たことが大きいんだろうな」
「友人??」
「前に言ってたじゃないか。同室の子と妙に気が合うから、話していて楽しい、と」
「あぁ、ルーシーのこと??」
同室の少女、ルーシーとは入所時から一緒にいるが、彼女は食事を摂ることを極度に拒むことを除けば人懐っこくユーモアに溢れる少女で、頑なに心を閉ざしがちなサスキアも次第に心を開いていった。
「……そっか、ああいうのを友人と呼ぶのね……」
サスキアはほんの少し、表情を緩める。
「お兄様こそ、顔つきがどことなく優しくなった気がするわ」
「そうか??」
「スカーレットさんとフィオナは元気にしている??」
「あぁ」
「……そう、それは良かった……」
「…………」
「…………」
会話が途切れ、沈黙が続く。どうやら、外見だけでなく口数が少ない点も兄妹揃って似ているようだ。そうこうしている内に看護師が入ってくる。この療養所では患者と面会できる時間は三十分だけと決められている。
去り際にサスキアはフレッドに尋ねた。
「今日もお母様には会っていかないつもり??」
サスキアの面会には何度も訪れているが、アビゲイルには一度も面会していない。
「……あぁ……」
「……そうなの……」
サスキアは寂しそうに目を伏せながら、看護師に付き添われて面会室から出ていった。
フレッドは、この療養所に訪れる度に迷っていた。
フィオナが生まれ、自身が父親になったことで、親が子へ向ける無償の愛情を実感してからは特に。
フレッドはアビゲイルに捨てられたこと以上に、彼女がマクダウェル氏の身代わりが欲しいと言うだけで自分を産んだこと、成長するに従って男を見るような目で見られていたことの方が嫌だった。
だが、フィオナが無事に生まれた時、それだけで言葉では言い表せない程の強い愛しさだけが込み上げてきた。そして、ふと思った。
ひょっとしたら、アビゲイルも自分が生まれた時は同じ気持ちだったのではないだろうか、と。
そうであれば、生まれた時に自分はマクダウェル氏の身代わりではなく、息子のアルフレッドとしてアビゲイルに必要とされていたかもしれない。しかし、残念なことに彼女は人より心が弱い女だったから、マクダウェル氏に瓜二つのフレッドについ複雑な愛情を持ってしまったんだと。
以前は、そんな風にしか自分を愛してくれなかったアビゲイルを憎んでいたが、今は方法は間違っていたとはいえ、彼女が自分を愛していたことには変わりなかったんだと思えるようになった。憎むべきは彼女自身ではなく、彼女の心の弱さであって、全てを憎むのは止めよう、と。
だが、アビゲイルと会うことがフレッドは怖かった。彼女の姿を目にした時、自分がどういう反応を示すのかまるで予想がつかない。もしかしたら、悪魔でさえも恐れをなして逃げ出す程の、凶暴な悪意に満ちた言葉の数々を放ってしまうかもしれない。何にしろ、いつものように冷静でいられる自信がないことだけは確かだった。
そんなことを考えながら療養所を出て、最寄りの駅まで向かう。
駅に向かう途中、道の真ん中に親子らしき猫が二匹いた。うずくまる親猫の側に子猫が寄り添っている。よく見ると親猫は死んでいて、荷馬車にでも轢かれたのか、血にまみれて臓器が飛び出し、付近に散乱している。それに気付いたフレッドは思わず顔をしかめる。子猫は、肉塊と化した親猫の側から離れず、微動だにしない。
このままでは、子猫も荷馬車等に轢かれて死んでしまうかしれない。
そう思ったフレッドは子猫に近付き、なるべく親猫の死骸を視界に入れないようにしながら、拾い上げた。子猫は急に捕まえられたことで軽くパニックに陥り、フレッドの手の中で爪を思い切り立てたりして大暴れし始める。
「おい、暴れるな。何も取って食おうとしてる訳じゃない」
こんな小さな身体のどこにそんな力があるんだ、と言うくらい、子猫はもがきにもがき、やがて噛みつかれた時のあまりの痛さで掴む力を緩めた隙に、子猫はフレッドの手の中から抜け出し、再び親猫だった肉塊に寄り添う。
「もう親猫は死んでいるんだ。そこにいたら、あんたまで轢かれて死ぬかもしれないぞ」
フレッドは溜息をつくと、子猫を助けることを諦める。その時だった。
『例え、気が触れていようが何だろうが、お母様には私の側にいて欲しいのよ!』
突然、サスキアの言葉が脳裏に浮かんだ。
変わり果てた親猫の側を離れようとしない子猫、気が触れて自分と兄とを混同しているにも関わらず、アビゲイルに側にいてほしいと願ったサスキア。
果たして自分はどうなのか。
娘フィオナに無償の愛情を抱いたように、母アビゲイルにも無償の愛情を抱いていたのではないだろうか。
もしかしたら、それをアビゲイルと会うことで素直に認めざるを得なくなってしまうことが、許せなかっただけなのかもしれない。
(……どうやら、俺の捻くれた性分は環境のせいでもなく、生まれ持ったもののようだ……)
フレッドは踵を返すと、元来た道をまた戻っていったのだった。
療養所に戻ったフレッドが「アビゲイル・マクダウェルに面会したい」と職員に告げると、しばらく待つように指示を受けた。が、次の指示が中々返ってこない。サスキアの時はものの五分もしない内に、面会室に通してもらえるのに。
三十分程待たされたのち、一人の医師と看護師が二人、フレッドの前に現れた。
「アビゲイル・マクダウェルを担当している、スミスです」
医師はフレッドに自己紹介をする。
「マクダウェルさんは他の患者達よりも症状が重いので、面会室まで連れていくのが困難な状態です」
「……それは、面会謝絶ということですか??」
フレッドはスミス医師に問う。
「彼女の状態によってはそうなります。だが、今日は比較的落ち着いていますので、面会を許可します。……ただし、面会室ではなく、マクダウェルさんの部屋に来てもらい、私達の立ち会いの下、一〇分間だけの面会となります。が、途中で彼女の様子が変化しだしたら即中断しますが、それでも宜しいでしょうか??」
「……構いません」
「分かりました。では、病室に案内致します」
フレッドはスミス医師らの後に続いて、アビゲイルの病室に向かった。
この療養所では、特に症状が重い患者は個室を宛がわれる。時折記憶が混同し、まともな現状認識が一切出来なくなり、その度に錯乱し大暴れするアビゲイルも個室に入れられている。
スミス医師がアビゲイルの部屋の扉を叩き、「マクダウェルさん、入りますよ」と声を掛ける。
アビゲイルは窓辺の椅子に座り、興味深けに外を眺めていた。丁度、背中を向けているので顔は見えなかったが、痛々しい程にやせ細った背中を丸め、だらしなく伸びきった長い髪は見事なまでに真っ白だった。
彼女は今五十二か三のはずだが、後ろ姿だけ見ると七十歳は超えている老婆のようだった。
アビゲイルは、スミス医師に声を掛けられても聞こえていないかのように全く反応せず、外を眺め続けている。そんな彼女の様子を気にせず、スミス医師はアビゲイルに近付き、しゃがみこむと「今日は、貴女に面会したいという方が来たのでここへ連れて来ましたが、会ってくれますか??」と言う。
アビゲイルは、ひどく緩慢な動きでスミス医師の方に顔を向け、ゆっくりゆっくり首を傾げ、その状態のまま、虚ろな瞳でスミス医師をぼんやりと見つめる。
「オールドマンさん、申し訳ありませんが、こちらまで来ていただけますか??」
スミス医師がフレッドに呼び掛けた時だった。
それまでの緩慢な動きからは考えられない俊敏さで、アビゲイルはフレッドの方を振り返り、立ち上がる。その時、フレッドは初めて、現在のアビゲイルの顔をはっきりと見た。
老婆のようだった後ろ姿からは想像がつかないくらい、アビゲイルは若々しい顔をしていて、まるで少女のようだった。勿論、目を凝らして見れば、年相応に皺や皮膚のたるみがあるものの、不思議とそんなものが目に移らないのだ。もしかしたら、自分が抱くアビゲイルのイメージが投影されて、彼女が実際よりも若く見えてしまうのか、とも思った。
フレッドの姿を見たアビゲイルの虚ろな瞳が僅かに揺れ動き、小刻みに唇が震える。
「……アルフレッド??……」
自分かマクダウェル氏か、どちらのことを言っているのか。答えはすぐに出てきた。
「貴方、いつの間に、こんなに大きくなったの??でも、良かったわね。女の子より背が小さかったから、心配だったの」
アビゲイルは、穏やかに微笑む。しかし、すぐに悲しげに顔を歪ませる。
「ねぇ、チェスターとマシューは私を置いて、どこに行ってしまったの??ねぇ、何で、貴方しかここにいないの??アルフレッドは私からサスキアを奪って何処かに行ってしまったわ。みんなみんな、私を置いていってしまうの。私には貴方しかいないのよ。アルフレッド、貴方だけはママの側にいてくれるわよね??」
アビゲイルは明らかに正気ではない。それを実際に目の当たりにしたフレッドは、予想以上にショックを受けた。これが十歳から、およそ二十二年間憎み続けた女の末路か。
彼女が取った愚かな所業の数々により、自分やチェスター、マシューに祖母達、サスキア……と、何人もの人々の心は深く傷つけられたし、相応の報いを受けることも当然で自業自得だ。だが、気付くとフレッドは哀れな母の姿に涙を流していた。
フレッドは涙を流す自分にひどく驚いた。自分は「泣く」と言う感情だけはどうも欠落しているのではないか、と思う程、小さな頃から泣かなかった。
一度だけ、ナンシーに手酷く別れを告げられたことで自暴自棄になりヤケ酒を飲んだ挙げ句、急性アルコール中毒を起こし、エドに病院に運ばれた時に「家族には絶対に言わないでくれ」と泣きながら懇願したことがあったが、それ以外では少なくとも物心ついてからは泣いた記憶が一切ないのだ。
「……アルフレッド、何故泣いているの??」
不思議そうな顔をしながら、アビゲイルがフレッドに歩み寄り、彼の身体を優しく撫でた、その時、フレッドの中で何かが音を立てて崩れ落ち、アビゲイルにしがみつくように抱きしめていた。
看護師達がそんな彼を制止しようとしたが、スミス医師が「少し待て」と制したのでとりあえず成り行きを見守った。
「……母さん……!……母さんは悪くないよ……!……母さんは子供みたいに、ただ純粋で素直過ぎただけだ……!!」
泣いているフレッドに抱きしめられながらアビゲイルは「アルフレッドったら、一体どうしちゃったの??大きくなったのに、泣き虫さんねぇ」などと、呑気なことを言っていた。
フレッドとアビゲイルはしばらくその状態でいたが、スミス医師が「オールドマンさん、お取り込み中に大変申し訳ありませんが、もう時間になりましたので、病室から出てもらえますか」と言われ、フレッドはアビゲイルから離れた。
「アルフレッド、一体どこへ行くの??私を置いていかないで」
今度は、アビゲイルの方が今にも泣き出しそうな顔になる。
「母さん、俺には俺の帰りを待つ家族がいるから、ここにはずっといられないんだ」
「嫌よ、貴方まで私を置いていくの??」
「あぁ、そうだよ。……でも、ただ置いてく訳じゃない。いつか母さんが元気になったら、必ず迎えに行くから。そしたら、俺の家族やサスキアと共に一緒に暮らそう」
「……本当に??」
「……あぁ、本当だよ……」
「じゃあ、私、良い子で待ってる!!」
アビゲイルは幼い子供のように無邪気に笑う。その顔は、誰よりも美しかった。
アビゲイルの様子からして、おそらく正気に戻る可能性はほぼゼロだろう。しかし、フレッドは彼女はこのままでいた方が幸せなのではないかと思った。だから、嘘をついた。
これが正しいのか間違っているかは分からない。もしかしたら、とてつもなく残酷な仕打ちをしているのかもしれない。だが、せめてアビゲイルが笑顔で余生を過ごせるようにしてあげたい。これが彼女の息子として、アビゲイルに出来る精一杯の親孝行だ。
療養所から家に帰ったフレッドは、真っ先にスカーレットの元へ行き、全てを話した。
フレッドが話し終えると、スカーレットは「……お疲れ様。貴方は充分頑張ったわ」とだけ言った。
「……スカーレット、俺が母さんにしたことは間違っているか??」
スカーレットは少し考え込み、躊躇いがちに答える。
「……そうね……。どちらとも言えない、と言うのが、私の正直な意見かしら。でも、アルフレッドがその時、どうしてもそうしたかったのだったら、結果はどうあれ正しかったんだと思う」
「……そうか……」
スカーレットの言葉に安心したのか、フレッドはスカーレットにもたれ掛かる。
「ちょっ……、アルフレッド!重たいってば!!潰れるっ!!」
「あ??俺は男の割に、そんなに体重は重くないぞ??」
「そういう問題じゃないっ!!大体、貴方の方が私より十六㎝も背が高い時点で支えられる訳ないでしょ!」
「そこを頑張ってみろよ」
「そんなことで頑張りたくない!!」
フレッドとスカーレットの騒ぎにより、目を覚ましたフィオナが激しく泣き出す。
「ほらーー!アルフレッドのせいでフィオナが起きちゃったじゃない!!」
「あ??ギャーギャー騒いでたのはあんた一人だろ。俺のせいにするなよ」
「何ですって?!あぁ、よしよし。良い子だから泣かないで」
フレッドと喧嘩しつつ、スカーレットは必死にフィオナをあやす。やがて、泣き声は次第に小さくなり、寝息に変わっていった。
「寝たか」
フィオナを抱いているスカーレットにフレッドは寄り添う。母に抱かれて安心しきって眠るフィオナと、娘を慈愛に満ちた目で見詰めるスカーレットの姿は、フレッドの目には世界で一番美しく優しい光景として映る。
「……スカーレット」
「何??」
スカーレットはそれぞれ色の違う両の瞳で、フレッドの切れ長の薄いグレーの瞳を見返す。
「俺は、何があろうと、お前達のことは一生掛けて守っていきたい」
スカーレットは目を見開く。
「今、『お前』って言った……」
「あ??」
何言ってんだこいつ、と言いたげなフレッドに構わず、スカーレットは嬉しそうに口許を緩めて微笑むのだった。
(終り)