シーズ・ソー・ビューティフル(前篇)
「シーズ・ソー・ビューティフル」
フレッドとスカーレットが結婚してから五ヶ月が過ぎた。
「おかえりーー」
仕事から帰ってきたフレッドを、スカーレットがニコニコしながら玄関までやっ て来て出迎える。
「ただいま」
フレッドはスカーレットに軽くキスをする。結婚前ーー、一緒に暮らし始めた頃からいつしか毎日の習慣になっている。
「実は今日出掛けてて、ご飯作るのいつもより遅くなっちゃったから、まだ作ってる途中なの。なるべく急いで作るから、悪いけど少し待ってて!」
そ う言うと、スカーレットは慌てて台所へ駆け込んでいった。
結婚と同時にスカーレットは長年勤めていた縫製工場を辞めた。本人は結婚後も子供が出来るまでは……と働きたがっていたが、「子供が出来る前に痛めた腕を治した方がいいだろ。仕事続けている限り、治ることはないぞ??あんたや子供の一人二人養える甲斐性くらい、俺にだってある」と、以前から仕事が原因で痛めている彼女の腕のことを考え、辞めるよう説得し、仕事を辞めた途端、完全とまでは行かないが痛みは大分軽減されたようである。
自室にて、眼鏡を外し、仕事着のジャケットとワイシャツ、サスペンダー付きのズボンからラフな私服に着替えると、台所へ向かう。夕餉の匂いが鼻腔を刺激する。
「手伝おうか」
「ありがとう、助かるわ。じゃあ、戸棚から大皿と小皿、スープ皿を二枚ずつ出してもらっていい??」
「あとは??」
「スープをお皿につけ分けて」
言われた通りに戸棚から三種類の皿を出し、スープ皿にスープをつける。スカーレットは残りの二種類の皿にそれぞれ料理を付け分ける。白身魚のトマトソース和え、ほうれん草とじゃがいものソテー、白菜とベーコンのスープ、コッペパンがテーブルの上に並んだ。
「今日は魚料理なら、館長から貰った白ワインでも空けるか」
結婚した時にフレッドの職場の上司である、図書館の館長に餞別として貰ったものだが、中々空ける機会がなく今日まできてしまった。せっかくだから思い立った時に空けよう。
すると、スカーレットが困ったような、何とも言い難い微妙な表情を浮かべ、返事に窮している。彼女も酒が好きで女性の割に結構強いので、いつもなら嬉しそうにするはずだが。体調でも良くないのだろうか。
「どうした??今日は飲みたくないのか??」
「そういう訳じゃないんだけど……」
「??」
スカーレットは小さな子供のように手をもじもじさせ、少しはにかみながら言った。
「赤ちゃんが出来たの」
フレッドは予想外の返事に、思わず全身を固まらせる。
「最近、ちょっと熱っぽくて、風邪引いたかなって思ってたんだけど、生理も遅れてるし、もしかしたら……って。今日遅くなったのは、病院に行ってたからなの。今、二ヶ月半らしいわ」
「……そうか……」
茫然と固まったまま、上手く反応できずにいるフレッドの姿を見て、子供が出来たことが嬉しくないのかもしれないと勘違いしたのか、スカーレットが不安そうに彼の顔色を伺うように見つめる。
「スカーレット、誤解しないでくれ。違うんだ。いきなりのことで戸惑っているだけなんだ」
「……本当??」
「あぁ、本当だ。俺とあんたとの子供なんだ、嬉しくない訳ないだろう??……いや、違う。嬉しいに決まってるだろう……!!」
気付くとフレッドは、スカーレットを思い切り力強く抱きしめていた。
「……く、苦しいよ、アルフレッド!!喜んでくれてるのは、わ、分かったから!もう少し、腕の力緩めて!!」
スカーレットは息苦しさの余り、フレッドの胸を両手でトントン叩き、彼の腕の中でジタバタともがく。スカーレットの抵抗に遭い、フレッドは腕の中から彼女を解放する。
「……すまない。嬉しくてつい……」
「……うん、ちょっとびっくりした。でも、こんなに喜んでくれて、嬉しいな」
スカーレットは嬉しそうに、にっこりと微笑む。彼女のあどけなく柔らかい笑顔を見ると、こちらまで優しい気持ちになる。フレッドはスカーレットの下腹部をそっと撫でる。
「まだお腹は出てきてないわよ」
「知ってる」
一時はすっかり忘れ去っていた、「温かい家庭を作る」という夢が着実に叶えられつつあることに、フレッドはひそかに胸を踊らせるのだった。
「よく眠ってるな」
フレッドは二つに並ぶベビーベッドの中をそれぞれ覗き込みながら、メアリに話し掛ける。
「ようやく寝付いたのよ。フレッドが来るまでは、二人してぎゃんぎゃん泣き喚いていたから大変だったわ。貴方、丁度良い時に来たわね」
「そうか……。……しかし、本当にそっくり過ぎて、どっちがロビンでどっちがベンジーか分からないな……」
「右側のベッドで寝てるのがベンジーで、左側がロビンよ」
「…………」
メアリは三ヶ月前に双子の男の子を出産していた。
生まれてすぐよりも少し落ち着いてから出産祝いを渡しに出向こうと思っていた矢先、スカーレットの妊娠が発覚し、今度は自分の方が慌ただしい状況になったため、お祝いが少し遅れてしまったのだ。
「本当はスカーレットも行くはずだったが……、生憎、体調が悪くてな……。『メアリと息子君達に会いたかった!』と物凄く残念がってたよ」
「それは仕方ないわよ。今、三ヶ月目を過ぎたのだっけ。悪阻がひどいの??」
「いや、悪阻はさほどたいしたことはないんだ。悪阻より貧血が酷い」
「そう……。妊娠中は身体や体調に色々な変化が生じるから辛い時があるし、気持ちも不安定になりやすいの。だから、しっかり支えてあげてね」
「あぁ、分かってる」
メアリ自身も出産を終えたばかりで育児もまだ慣れないだろうに、スカーレットの身を案じるところはいつまでも変わらない。
「あの子は小柄で身体も弱いから、ちょっと心配なのよ」
「あんた、相変わらずスカーレットに過保護だな」
「あら、貴方には言われたくないわ」
幼なじみ同士の憎まれ口の応酬も健在だ。
「貴方とスカーレットの子が生まれたら、息子達と仲良くなるかしらね」
「歳も近いから、なるんじゃないか??」
「私と貴方とエドみたいな関係になったりして」
「そうなったら面白いな」
メアリは楽しそうに顔を綻ばせた。
メアリの元から帰宅したフレッドは、寝込んでいるスカーレットの様子を見に寝室に入る。
「……おかえりなさい……」
スカーレットはベッドから起き上がろうとするが、フレッドが制止する。
「……寝たままで良い。具合はどうだ??」
「……ん、ちょっとはマシになったかな……。もうちょっとしたら、洗濯物取り込まなきゃ……」
「俺がやっておくから、今日は一日ゆっくり寝ていろ」
「……ごめんね、色々負担掛けて」
「別に気にする必要はない」
「……ありがとう」
フレッドはベッドの脇に腰掛けると、スカーレットの髪を優しい手つきで撫でる。
「……やっぱり、今日のライブは断ろう」
「ダメよ!」
思わずスカーレットはガバッと勢いよく身を起こすが、いきなり起き上がったせいで眩暈が生じたのか、顔色を青くして俯く。
「だから、大人しく寝てろって」
「……アルフレッドがライブをドタキャンしないなら寝る」
「…………」
「……マスターに迷惑掛けることになるし、貴方の歌が聴けることを楽しみにしてる人だっているかもしれないのよ??」
今日の夜、フレッドはウーリにて弾き語りで一時間程歌う予定なのだ。ウーリではライブが入っていない平日の夜に、マスターに声を掛けられた常連の音楽家達がミニライブを行うことがあり、フレッドやスカーレットも何度かマスターから誘われ、歌うことがあった。
「……ただの貧血で病気って訳じゃないし、私は寝てれば大丈夫だから……」
「……しかし……」
「……じゃあ、これがウーリじゃなくてノルマが発生するライブハウスだったらどうする気なの??断れる??」
「…………」
「余程の理由がない限り、ライブを断るのはダメよ」
スカーレットの言うことは至極正論だ。
アマチュアの音楽家とはいえ、人前で演奏するのであれば気持ちだけでも、ある程度プロ意識を持つのは当然である。ライブ当日にドタキャンするのはアマチュアで割とありがちなことなのだが、急な仕事や急病、家族の不幸等やむを得ない場合を除いて、あまり感心できることではない。ライブハウスでドタキャンした場合、今後は出演させてもらえなかったりキャンセル料が発生したりと罰則があるが、ウーリのような小さなライブバーだと特に罰則はないため、簡単にドタキャンを繰り返す音楽家がいたりする。
生真面目なスカーレットは「ライブハウスだろうが小さなライブバーだろうが、人前で演奏することに変わりないのに。どんなに上手くて才能があっても、平気でドタキャンするような意識が低くて自分勝手な人、私は大嫌いだわ」とよく憤っていたし、フレッドもその意見に賛同していた。そんな彼女だからこそ、フレッドが今夜のライブを断ることを阻止しようとするのだ。
根負けしたフレッドは、「全く。変な所であんたは頑固だ。やれやれ」と肩を竦め、「分かったよ、行ってくる。その代わり、何か異変が起きたらすぐウーリに電話をするんだぞ??いいな??」と予定通り、ウーリに出掛けることにしたのだった。
スカーレットの様子を見がてら、ある程度の家事をすませてから出掛けたため、フレッドがウーリに到着したのは十九時半過ぎだった。
「マスター、おはようございます。今日はよろしくお願いします。それと、入りが遅れてしまってすみませんでした」
「いえいえ、ライブの開始予定は二十時からですし、大丈夫ですよ。こちらこそ、よろしくお願いします」
マスターに挨拶を済ますと、フレッドはハードケースを床に降ろし、中からギターを出す。それから、チューニングをして軽くギターを掻き鳴らす。
メアリの妊娠をきっかけに、ブラックシープは活動を休止し(と言っても解散した訳ではないため、状況が落ち着き次第再開する予定だが)、今はフレッドが一人で弾き語りで活動している。しかし、今度はフレッド自身がしばらく活動できなくなるので、今夜のライブで一旦音楽活動は休止となる。
ライブ終了後、マスターにその旨を伝えたところ、「そうですか……。残念ですが、また活動再開するのを楽しみに待ってます。あ、あと、おめでとうございます。スカーレットさんにもよろしく伝えてくださいね」
「分かりました。こちらこそ、ありがとうございます」
「しかし、フレッドさんとスカーレットさんとのお子さんなら、凄い才能持って生まれそうですね」
「どうですかね。それよりも、今は無事に生まれてくることの方が気になっています」
マスターと談笑しつつも、自分の帰りを一人で待っているスカーレットのことが気になるので、今飲んでいるこのグラスの酒がなくなったら会計をすませて家に帰ろう、と思っていた矢先のことだった。
扉が開き、一人の若い女が店に入ってきたのだ。
どうやら「いちげん」の客のようだったが、他に席が空いているにも関わらず、わざわざフレッドが座っているカウンター席の隣に座った。横目で女をちらりと見るが、彼の知り合いではない。
女はメニュー表に目を通すことなく、「赤のグラスワイン」とマスターに注文する。程なくして出されてきた赤ワインを一口飲むと、露骨に顔をしかめた。
「安酒ね。これだから、下町のバーは嫌なのよ」
嫌なら始めから来なければいいのに、とフレッドは不快な気分になった。顔ははっきり見ていないものの、着ている服や身につけている装飾品の質からして、恐らく富裕層のお嬢様かなんかだろう。
態度の悪さは元より、女がつけている香水の匂いがきつく、さっきからフレッドは辟易している。この匂いが自分に染み付いてスカーレットにあらぬ誤解をされたくないので帰るとするか、と席を立ち上がろうとした時だった。
「貴方、アルフレッド・オールドマンでしょ??」
突然、女の方からフレッドに話し掛けた。
「あぁ、そうだが??」
この時、フレッドは初めて女の顔をはっきりと目にする。化粧は濃いものの、かなり若そうだ。二十歳前後だろうか。艶のあるブルネットの長い髪に、切れ長の薄いグレーの瞳、すっきりとした高い鼻に酷薄そうな薄い唇……。
フレッドは愕然とした。
女の顔は、気味が悪い程自分と瓜二つだったのだ。
「そんなに驚かないで頂戴よ。仮にも血の繋がった妹なんだもの。顔が似ていたところで何もおかしいことはないでしょう??」
そう言えば一度だけ、父チェスターから聞いたことがある。「あの人」と「あの男」の間に娘が生まれていたーー、と。
「もうちょっと感動的な初対面になるかと思ったけど、現実はそうでもないわね。つまらないこと。……まぁ、いいわ。今日はとりあえず、貴方に私の存在を知らせるだけのつもりだったし」
そう言うと、女はカウンターに飲み代を置いて立ち上がり、マスターに「お釣りはいらないわ」と言い、店から立ち去ろうとした。
「……あんた、何が目的で、今更俺の前に現れたんだ」
ようやく、声を振り絞るようにフレッドは女に話し掛ける。
そんなフレッドを嘲るような目で一瞥すると女は言った。
「あんたじゃないわ、サスキアよ。私の名前はサスキア・マクダウェル。よく覚えておいて頂戴」
そして、冷たい眼差しで笑いかけた。
「じゃあ、またね。お兄様」
その後、フレッドはウーリから家までどうやって戻ったのか、余り覚えていない。気がつくと、スカーレットが「アルフレッド!アルフレッド!!一体どうしたの?!」と血相を変えて彼の身体を揺さぶり、名を呼び掛けていた。
「……あぁ、スカーレットか……。……ただいま……」
「『……あぁ』じゃないわよ……。そんな虚ろな目で真っ青な顔して帰ってきて……」
「…………」
「……言いたくないなら、無理して言わなくてもいいけど……。貴方が外でそんな表情するなんて、余程何かあったとしか思えないわ……」
フレッドは人前で余り感情を露わにしない。それが、プラスの感情だろうがマイナスの感情だろうが。取り分け、マイナスの感情は育ってきた環境によるのか、彼自身のプライドの高さによるのか、人前で見せることは皆無に等しい。
「……いや、大したことじゃないんだ。心配かけてすまない。それより、あんたの体調はどうなんだ」
「お陰様で、一日寝ていたからか良くなったわ……」
「……そうか……」
まだ何か言いたげなスカーレットから逃げるように、フレッドはギターを置きに居間に移動し、その足で風呂場に向かった。心配してくれるスカーレットには悪いが、自分自身が混乱している以上、まだ話せない。スカーレットもまだ安定期に入る前なので、余計な心配をかけたくもない。
風呂から出て寝室に戻ると、スカーレットは先に眠りについていた。
一日中寝ていて、また夜も眠れるなんて羨ましい奴だ、と呆れつつ、かつては彼女も不眠に悩まされていたという話を聞いたことがあったので、それだけ今の彼女の精神状態が落ち着いている証拠だと思うと安心もする。
眠っているスカーレットの額に軽くキスを落とすと、フレッドも彼女の隣で眠りについた。はずだった。
また例の悪夢を見た。
「あの人」に、「母さん、どこへ行くの」と呼び掛けながら必死で追い縋るのにちっとも追い付くことが出来ず、どんどん距離は拡がっていき、とうとう姿が見えなくなってしまう。そして、「あの人」は栗色の柔らかく長い髪を靡かせながら、フレッドの方を一度も振り返ることはなかった。
ハッと目が覚めた時には、すでに隣にいるスカーレットが目を覚ましていて、フレッドの額に流れる汗を拭ってくれていた。
「……俺はまた、うなされていたのか??……」
スカーレットは無言で頷く。
フレッドが身を起こすと、スカーレットは何も言わず彼を抱きしめ、背中をそっと撫でる。たったこれだけのことなのに、心が落ち着きを取り戻していく。
「……赤ちゃんも、お父さんのことが心配だって。だから、今日は二人で抱きしめているのよ」
スカーレットが何気なく呟いた言葉にフレッドは胸を突かれる思いに駆られたと同時に、自分に情けなさを感じた。そして、スカーレットの身体を離す。
「……ありがとう……」
「いいえ、どういたしまして」
静かに微笑むスカーレットの顔を直視できない。
「……スカーレット……」
「何??」
「……ウーリで、妹に会った。妹と言っても、キーラやシャーロットじゃない」
キーラとシャーロットは、チェスターとジルの間に生まれた娘でフレッドとは血の繋がりが一切ない。しかし、二人ともフレッドをオールドマン家の長兄として慕っていたし、フレッドも二人を可愛がっている。
「……どういうこと??」
スカーレットは、意味が掴めず戸惑っている。
「『あの人』は家族を捨ててマクダウェル氏の元へ行った後、奴の娘を生んだらしい。つまり……、……俺と完全に血の繋がりがある妹だ。そいつが、今日俺に会いにきた。名前は……、サスキア・マクダウェルだ」
スカーレットは、それぞれ色の違うつぶらな瞳を目一杯見開く。彼女が驚くのも無理はない。フレッド自身も混乱しているのだから。
「……だから、あんな顔して帰ってきたのね……」
「……そういうことだ……」
「……でも、今頃になって何でまた……」
「……俺にも分からない……」
(……もしかしたら、俺にマクダウェル家に入れ、ということなんだろうか??)
仮にそうだとしても、フレッドははっきり断ると決めている。自分にとっての家族は、今も昔もこれからもオールドマン家の人々だけだし、スカーレットと生まれてくる子供もいる。
フレッドは血の繋がりによる絆なんてものは信じない。血が繋がっていても平気で家族を見捨てる人間も、血の繋がりがなくとも支え合う人間も知っているからだ。
自分の子供だって、自分が最も愛してやまない女との子供だから愛おしいのであって、これが一夜限りの行きずりの女との子供であれば、疎ましいとしか思えないだろう。人として薄情かもしれないが、所詮はそんなものだ。
ふとスカーレットを見ると、何やら考え込んでいる。もしかしたら、自分と同じことを思ったのかもしれない。
「……スカーレット、これだけは約束する。何が起きても、俺はあんたと子供を裏切るような真似だけは絶対にしない」
「……うん。私も貴方を信じてるわ……」
今度はフレッドの方が、スカーレットを抱きしめた。抱きしめた感触自体は彼女一人のものだが、彼女の中にもう一つ、確かに存在する命があると思うと、なおさら愛おしい気持ちが強まっていくのだった。
ある日、仕事を終えたフレッドが、図書館職員専用の出入口から外へ出ていくと、門の側に人が立っていた。
「……また、あんたか……」
フレッドは忌ま忌ましそうに、舌打ちをする。
「だから、あんたじゃないわ、サスキアよ。何度も言わせないでよ。それとも何度も言わなきゃ覚えられないわけ??」
「……一体、何の用だ……」
フレッドは、サスキアと一定の距離を保ちながら歩き出し、サスキアは彼の後をついていく。
「何で、離れて歩こうとするのよ」
「仕事帰りに若い女と二人きりで歩いてたら、人に何を言われるか分からない。それに、あんたの香水がきつくて俺の服や身体に匂いが染み付かれても困る」
「奥さんのこと、気にしてるの??」
「妻は今妊娠中で、心身共に不安定になりやすいんだ。余計な面倒事を持ち込みたくないだけ……」
フレッドは、サスキアを睨みつける。
「……何で、俺が結婚していることまで知ってるんだ。ウーリで会った時は結婚指輪はしていなかったが」
「人を使って、貴方の身辺を調べさせたのよ」
「悪趣味なお嬢様だ……。人の仕事先まで押しかけてきて、一体どういうつもりなんだ」
「話があるのよ。お母様のことで」
フレッドは歩くのをやめてサスキアの方を振り返る。
「……それは、歩きながらできる話じゃなければ、人に聞かれたくない話だな。俺にとってはだが。……サスキア、悪いが俺の家まで来るのであれば、話を聞くだけ聞こう」
「わかったわ」
フレッドは再び歩き出すと、相変わらず距離を保ったままでサスキアを連れ立って家路を急いだのだった。
フレッドと共に家に訪れたサスキアの姿を見て、スカーレットは言葉を失う。そんな彼女を面白いものでも見るかのような表情をしながら、サスキアは言った。
「その様子だと、兄から話を聞いてるみたいね。初めまして、サスキアよ」
「……は、初めまして。アルフレッドの妻の、スカーレットよ……」
スカーレットはひどく戸惑いながらもサスキアを居間に通し、お茶の準備をしに台所へと姿を消した。
「調査した者から聞いた通り、本当に見事なまでに派手な赤毛ね。それに彼女の目、虹彩異色症とか言う病気だったかしら??」
「……病気じゃない。たまたま、生まれつき瞳の色素が片方ずつ違っていただけだ」
「ふぅん、先天的な異常ってことか。犬や猫ならともかく、人間でああも極端に目の色が違うと、何だか気持ち悪いわね」
「……おい、その辺にしておけ。じゃないと、高々としたその鼻をへし折るぞ」
フレッドは大切にしている人間、特にスカーレットを侮辱されることが彼にとって一番許せない事柄のため、普段の彼なら決して口にしない暴力的な言葉をサスキアに投げつけた。だが、サスキアも動じない。
「いい大人が小娘相手に何をムキになっているのかしら。それに、本当にそんなことをしたら、困るのは貴方よ。貴方だけじゃない、奥さんと生まれてくる子も困ることになるわ」
「いちいち人の揚げ足取りして楽しいか??そっちこそ、年上への口の利き方を何とかしたらどうだ。それとも、富裕層の人間は皆こういう話し方をするのか??」
大人げないと思いつつ、サスキアと話していると無性に苛々してくるので、こちらの口調も自然と荒くなってしまう。
「そんな口の利き方じゃ、どうせ周りから嫌われてるだろ。友人だっていないんじゃないのか??」
サスキアはほんの一瞬だけ傷ついた目をしたが、すぐに傲慢そうな表情を浮かべて、ふんっと鼻を鳴らす。
「……いいか。スカーレットの前で髪の色が派手だとか目の色が気持ち悪いとか、絶対に言うな。もし言ったら、すぐにここから叩き出す」
そうこうしている内に、スカーレットが二人分のお茶をトレーに乗せて居間にやって来た。フレッドとサスキアの間に流れる不穏な空気を察したのか、お茶をそれぞれの前に置くと部屋から立ち去ろうとしたが、「スカーレット、あんたもここに座れ」とフレッドが自分の隣の席に座るよう促した。
「でも……」
「あんたは俺の妻であり、家族だ。話を聞く権利がある。彼女が聞いても問題はないだろ??」
フレッドはサスキアに尋ねる。
「別に構わないわ」
「なら、さっさと用件を話せ」
「単刀直入に言うわ。母に……、アビゲイル・マクダウェルに会って欲しいの」
以下が、サスキアの話である。
アビゲイルはオールドマン家から出て行った一年程後に、マクダウェル氏との間にサスキアを儲けた。直後に、チェスターとの離婚が成立し、更にその半年後、マクダウェル氏と正式に結婚をした。ここまでは良かった。
中流家庭育ちと言うだけでも富裕層の人々からは蔑まれやすいのに加え、「夫と子供がいるにも関わらず、病弱な妻の髪結いを口実にその夫をたらし込んだあげく、その妻亡き後にあっさり家庭を捨てて、まんまと後釜におさまった、したたかでふしだらな卑しい女」と、マクダウェル氏の親族、彼の友人知人及び仕事関係者、更には屋敷の使用人達にまで批難の目を向けられ、何かと冷たく当たられたのだ。
「母は……、想像を超える周りからの批難や中傷に耐えられなくなって、心を病んでいったの……」
マクダウェル氏も始めのうちはアビゲイルを庇い立てていたが、日に日に壊れていく彼女を次第に持てあますようになり、サスキアが物心つく頃には夫婦仲は完全に破綻していたという。
「……母は、いつも私にこう言っていた。『オールドマン家に帰りたい。チェスターやアルフレッド、マシューと暮らしていた頃に戻りたい』って……。一度だけ、母が幼い私を連れて屋敷を抜け出し、オールドマン家まで行ったことがあるの」
しかし、そこでアビゲイルが目にしたのは、チェスターの隣に大きなお腹を抱えた若く美しい後妻ジルがいて、足元には先に生まれた彼等の娘キーラがいた。更には、自分の息子マシューもジルにまとわりつき、もう一人の息子アルフレッドとも仲良く談笑している光景だった。
「……その日を境に、母は完全に壊れてしまった。『チェスターだけはずっと私の味方だと思ってたのに……、裏切られた、酷い』『あの女さえいなければ、私はオールドマン家に戻ってこれたのに』『貴女さえ生まれてこなければ、すぐにオールドマン家に帰れたのに。貴女さえいなければ、私はこんな所に閉じ込められずにすんだのに』こんな言葉ばかり繰り返すようになった。世間体を気にした父が母を屋敷の一部屋にずっと閉じ込めていて、外に愛人作ってその女の住む屋敷に入り浸りで何年も帰ってこない。だから、母の症状は年々酷くなるばかり。最近になって何年かぶりに屋敷に顔を出した父が『今付き合っている女と結婚したいから、アビゲイルと別れたい。アビゲイルを死んだことにして精神病院に送ることにする』と言い出したから、私は何としても阻止したいのよ」
サスキアの話を一通り聞き終わると、フレッドは冷たく言い放った。
「……で、俺がアビゲイルと会うことで彼女が正気に戻るとでも思ってるのか??甘いな」
フレッドの言い草に、ムッとした顔をしてサスキアは返す。
「戻るとまでは思っていないわ。ただ、もしかしたら、症状がマシにはなるかもしれないって……。母は、貴方とマシュー・オールドマンを捨てたことに対して、未だに良心の呵責を感じてるのよ」
「……要は、俺とマシューがアビゲイルと会って彼女の行った所業を許してやれってことか??そいつは無理な話だ。俺もマシューも彼女を一生許すことはない。力になれなくて悪いが、話が済んだなら帰ってくれ」
自分とよく似た美しい顔を怒りで歪ませたサスキアを、フレッドはひどく冷めた目で一瞥して、更に言う。
「それと、俺の母ーー、ジル・オールドマンを逆恨みするのだけは止めてくれ。彼女のお陰で父を始め、オールドマン家が救われたんだ。アビゲイルに伝えておけ。今のあんたの状況は誰のせいでもない、自分が人にやった行いが全部跳ね返っただけだ。全部自分のせいだ、とな」
「もういい!!」
サスキアは顔を真っ赤にしてヒステリックに叫ぶと、乱暴に席を立ち、足早に家から出て行ったのだった。
「……本当にこれで良かったの??」
サスキアが出て行った後、スカーレットはようやく口を開く。
「……あぁ。結局はマクダウェル家の問題であって、俺には何の関係もない」
「……そう……」
「俺にとって大事なのはあんたや子供、オールドマン家の人間だけだ」
スカーレットは釈然としない様子でいたが、それ以上は何も言わなかった。
それから一ヶ月が過ぎ、フレッドは休みの日に久しぶりに実家であるオールドマン家に、一人で訪れた。
「あ、フレッド兄さん!!」
双子の弟妹、ビリーとシャーロットが丁度家から出てきて、フレッドの元に二人で駆け寄る。
「二人とも久しぶりだな。元気にしてたか??」
「うん、元気だよ!フレッド兄さんは??」
「まぁ、ぼちぼちだな」
弟のビリーは物怖じしない元気な少年に対し、妹のシャーロットははにかみやで口数が少ない。双子というだけあって、二人してジルとよく似た、鷲鼻が特徴的な顔立ちで彼女にそっくりだったが、性格に関してはまるで正反対だった。その二人の数少ない共通点は「フレッドが大好きで憧れている」ということだった。
「あ、二人とも狡いわ。フレッド兄さん二人占めしちゃって!」
外の様子に気付いて、キーラまで出てきた。キーラはマシューと共に、チェスターの店で美容師として働いている。本来はジル譲りの亜麻色の髪を「フレッド兄さんの艶があるブルネットの髪色を真似したい」と、わざわざブルネットに染めている。
「キーラも元気そうで何よりだ。仕事は順調か??」
「えぇ、たまにお父さんやマシュー兄さんに怒られることもあるけど、何とか頑張ってるわ」
三人ともフレッドと血の繋がりがないことをすでに両親から聞かされているにも関わらず、自分を慕ってくれる。そんな彼等が、フレッドは愛おしかった。
「ところでキーラ、マシューは店にいるか??」
「いるわよ。マシュー兄さんに用事でも??」
「あぁ。ちょっと話したいことがあるから、仕事が終わったら実家に寄ってくれと伝えてくれないか」
マシューを待つ間、フレッドはビリーやシャーロットに勉強を教えたり、ジルに近況報告をしたりして過ごし、夜の十九時を過ぎた頃に仕事を終えたマシューが家に立ち寄った。
「兄さん!久しぶり!!」
マシューは若い頃のチェスターと瓜二つで、性格も同様に明るく、快活な青年だった。唯一違う点は、明るさの中にもどこか陰を背負っていたチェスターに対し、マシューの明るさには一点の曇りも混じっていない。自分とは違い、捻くれることなく素直に育った弟に、フレッドは心から安堵している。
「そう言えば、兄さんとこも子供が出来たんだって??おめでとう。子育てで分からないことがあったら、何でも聞いてくれよ。そっちのことは俺のが先輩だし」
マシューにはすでに二人の子供がいて、もうすぐ三人目が生まれる。
「そうだな。子育てに関しては、あんたに色々と教えてもらおうか」
「おう、任せてくれよ」
カラカラと屈託なく笑うマシューの姿を見て、フレッドはかすかに口元に笑みを浮かべた。
「ところで、俺に話って何??」
「ちょっと込み入った内容になる。少し二人きりになりたい」
フレッドの様子にただならぬものを感じたマシューは「分かった。外に出よう」と一旦家の外へ二人で出て行った。
フレッドは、一ヶ月前に起きたことをマシューに全て話した。さっきとは打って変わり、マシューは終始神妙な面持ちで話を聞いていた。やがてフレッドが話し終わると、それまで黙って話を聞いていたマシューから思わぬ言葉が飛び出した。
「サスキアっていう女、俺の所にも来たよ」
「……本当か?!……」
「あぁ。二週間くらい前だったかな。兄さんから今聞いた話と同じことを俺にも言ってきた」
おそらく、フレッドがアビゲイルと会うことを拒否したため、今度はマシューに交渉しにいったのだろう。
「ちなみに、俺も断った。アビゲイルなんて女は知らない、俺の母親はジル・オールドマンだけだって。そしたら、兄弟揃ってとんだ薄情者だと激怒して出て行った。……確かに俺は薄情かもしれない。だけど、はっきり言うと『あの人』のことをほとんど覚えていないんだ。周りからは、『あの人』を恋しがってよく泣いていた、って言われるけど、記憶にないものはないんだから仕方ないじゃないか……」
「『あの人』が出て行った時、あんた四つだったからな。覚えていないのも無理はない。気にするなよ」
逆に覚えていないからこそ、彼は素直に育ったのだ。
「会いたくないと言うより、会うことに意味を感じないんだ。だから、断った」
「それでいいんじゃないか。ちゃんとした理由だ」
「兄さんはどうなんだよ??」
「俺か??勝手に子供を作って生んでおきながら、勝手に捨てるような女、母親だなんて認めたくない」
「本当に??」
マシューは、チェスター譲りの茶色い瞳で兄を見据える。
「自分のことを棚に上げるようだけど……、俺、兄さんは会った方がいいと思う」
「……何故そう思う??」
フレッドも、切れ長の薄いグレーの瞳で弟を見返す。
「かなり以前の話だけど……、俺に『あの人の夢を見たことがあるか??』って聞いたよな??」
「……あぁ」
一時期、毎晩のように「あの人」の夢にうなされ不眠症になりかかっていた時、一度だけマシューに聞いたのだ。マシューの答えは「一回も見たことがない」だった。
「……兄さんは、今も『あの人』の夢を見るのか??」
少し間を置いて、フレッドは答える。
「……あぁ。時々な」
「…じゃあ、会うべきだ」
「何故だ??」
マシューは一瞬返事に詰まるも、すぐに言葉を続けた。
「それって、兄さんが未だに『あの人』のことで苦しんでいる証拠だろ??だったら、いっそのこと会って、踏ん切りをつけるべきだと思う……」
「………………」
フレッドは、顔付きを険しくさせて黙り込んでしまった。
自分の言葉でフレッドの気分を害してしまった、と思ったマシューは慌てて「……ごめん、出過ぎたこと言って。これは、あくまで馬鹿な弟の戯れ事だと思って聞き流してくれよ」と取り繕う。
「……いや、大丈夫だ。あんたが俺を思って言ってくれたってことは充分分かるし、むしろ感謝するよ」
フレッドの言葉に、マシューは胸を撫で下ろして安心するのだった。
(続く)