ネヴァー・イズ・ア・プロミス(後篇)
付き合い始めて二カ月ほどして、フレッドとスカーレットは彼の家で一緒に暮らし始めた。
「おはよう、アルフレッド」
スカーレットは朝食の用意をしながら、席に着いたフレッドにニコリと微笑む。
「……おはよう……」
彼は低血圧で朝が弱く、起き抜けは少し機嫌が悪い。そんな彼にすっかり慣れてしまったスカーレットは、気にせず言葉を続ける。
「マフィンに挟むのは、ハムかチーズ、どっちが良い??」
「……チーズ……」
「はーい」
スカーレットはチーズをナイフで切り取りマフィンに挟むと、茹でたキャベツとニンジンを乗せた皿の上にマフィンも乗せ、フレッドの前へと置く。
「できたわよ」
「……ん」
スカーレットは、ふと彼の胸元に目を留める。
「ボタン掛け違えてる」
指摘されたフレッドはシャツを確認する。シャツの三番目のボタンが四番目の穴に掛かっており、それ以降、一つずつずれて掛かっている。
「気が付かなかったの??」
「…………」
フレッドは思い切り眉間に皴を寄せ、唇の両端を引き結ぶ。
「……直してくれないか」
スカーレットは唖然とする。彼は自分より五歳年上でもうすぐ三十一歳になるというのに、まるで小さな子供がぐずるような甘えん坊ぶりだ。
「……もうっ、私も忙しいのよ??」
そう言いながらも、スカーレットは彼のシャツの裾をズボンから引き出し、ボタンを掛け直す。かつての自分が彼に抱いていたような畏怖と憧憬の念を抱えている若い音楽家達や、彼のバンドメンバーがこの姿を見たら、さぞや驚愕するに違いない。「貴女、フレッドを余り甘やかしては駄目よ」とメアリにも注意されるが、普段は厭味なくらい冷静で人に隙を見せない彼の無防備な姿が愛おしくて、つい甘やかしてしまうのだ。
「直したわよ」
スカーレットがボタンの掛け違いを直すと、フレッドはシャツをゴソゴソとズボンの中に入れ直す。その姿が可笑しくて、堪え切れなくなったスカーレットはとうとう盛大に噴き出した。笑われたフレッドは、更に不機嫌そうに顔を顰める。元の顔の作りが良いと顰めっ面さえも絵になるのだから狡い。
「……スカーレット、仕事から帰ったら覚えておけよ」
「はいはい」
「『はい』は一回だろ」
「はーい」
不貞腐れるフレッドを適当にあしらいながら、スカーレットは朝食の準備を再開したのだった。
暮らし始めたばかりの頃は、彼の不機嫌な態度に腹を立て朝から大喧嘩をしたこともあったが、半年近く経った今では何とも思わなくなった。このように二人の仲は益々深まる一方だった。
その証拠に、フレッドはスカーレットをオールドマン家に連れていき、家族に紹介したのだ。
六歳下の次弟のマシューはすでに家庭を持ち二人の子に恵まれているにも関わらず、いつまで経っても身を固めようとせず独身でい続けるフレッドの身を人知れず案じていた父チェスターは大いに喜んだ。
「優しくて気立ての良さそうな、笑顔が可愛い子じゃないか。あと、どことなく、『あいつ』に似てる気が……」
「……まぁ、似てるかもしれないな。でも、『あの人』よりも彼女は世間や物事を知っているし、俺のことをちゃんと見てくれる」
「……そうか、それなら良い。あと、『あいつ』よりあの子の方がずっと色気があるな」
「……どこ見てるんだよ……」
冗談とも本気とも取れる父の言葉に、フレッドは呆れる。
「……チェスター、息子の未来の妻になるかもしれない子をいやらしい目で見てるんじゃないわよ……」
ジルがチェスターを鋭い目で睨みつける。
「何だ??妬いてんのか??」
「……はぁ?!馬っ鹿じゃないの?!」
結婚して二十年近く経つのに相変わらず仲の良い両親の姿がフレッドは微笑ましくて、目を細めてやり取りを眺める。
「……どっかの色ボケ親父はほっといたとして」
「……おい、ジル。お前、実は俺が嫌いだろ……」
一人傷付くチェスターは無視してジルはフレッドに向き合う。
「……私の勘だけど、貴方とスカーレットさんは上手くいきそうな気がする。……何となくだけど、彼女も、この家に集ってくる人達と同じ匂いを感じるの……」
オールドマン家には「一般的な温かい家庭や、親の愛情と縁遠い人々が何故か集まる」という法則がある。
父チェスターは七歳の時に父が家を出て母一人子一人で生きてきたし、「あの人」も幼い頃に父親を亡くし、母子家庭で育った。母ジルも、夫婦仲が悪い両親の間に挟まれ随分鬱屈した家庭で育ってきたらしい。種類は違えど、痛みを抱えた人々が集まり、寄り添い、支え合って生きている。
スカーレットも何かしら傷を抱えていることは、フレッドも勘付いている。
何度か彼女を抱くうちに、彼女の腕や二の腕、内股に無数の切り傷の跡が残っていることに気付いたのだ。それは目をよく凝らさなければ分からない程に薄れて目立たなかったが、そこに直に触れると他の部分と肌の質感がごく微妙に変わる。
一度だけ、問い質したが「……若気の至りよ。今はこんな馬鹿なことしてないわ」と彼女にしては珍しく憮然とした顔をされてしまったため、それ以上は聞くことが出来なかった。
今や、フレッドにとってスカーレットはなくてはならない、かけがえのない存在になっている。
彼は大学を卒業する辺りから、ある悪夢にうなされ、眠れなくなることがしばしばあった。酷い時は、毎日のようにその悪夢を見るため、不眠症に陥りかけたこともある。さすがにまいったフレッドは、一度だけルーのカウンセリングを受けた。 ルーは心理カウンセラーの仕事をしていて、直接彼には話したことはないが、恐らくメアリから自分の出生等を聞いていると思ったのだ。
「心的外傷だね」
「あ??でも、『あの人』が出て行った直後とかは何ともなかったぞ??」
「すぐに発症するとは限らないんだ」
フレッドは今でも時々悪夢を見る。そうすると、スカーレットが小さな子供のように怯える彼を黙って抱きしめ、背中を撫でてくれる。たったそれだけのことだが、彼女のその温もりを失うことは何よりも耐え難いし、自分に安心感を与えてくれるスカーレットの隠された痛みに寄り添いたいとも思う。しかし、彼女は自分の痛みに触れられることを嫌がる。
「……貴方の受けた痛みに比べたら、私の痛みなんかちっぽけだもの」と。
「スカーレットさん、また家に遊びに来てくださいね。なんなら、一人で来てくれても構わない。うちは大所帯だから、一人二人増えたくらい変わらないから」
帰り際、チェスターはスカーレットにそう告げた。年を取って皴が増え、髪もプラチナブロンドからシルバーに変化したものの、彼は他の五十代の男性より若くて見映えがする。
「ありがとうございます」
スカーレットはニコリと微笑む。その笑顔は誰から見ても魅力的だった。
それと言うのも、フレッドと付き合い出してからスカーレットはとても綺麗になったからだ。元々、可愛らしい雰囲気を持っていたのに加え、ふとした何気ない表情や仕種が妙に色っぽくなり、しばしば周りの人間が見とれてしまう程だった。 特に、ステージで歌う彼女の妖艶さは人々の目を引き付けた。
「相変わらず、いつ見てもスカーレットは可愛いねぇ。フレッド、絶対指一本触れないから、一日貸してくれ」
「あ?却下に決まってんだろ」
エドは、以前からスカーレットのことを妹のように可愛がっていたので、二人の付き合いを知るとスカーレットを餌にフレッドをよくからかう。
「過保護だな」
エドはわざとスカーレットを後ろから羽交い締めにする。
「触るな、汚らわしい」
フレッドは、エドからスカーレットを引き剥がすとメアリに託す。ルー曰く「スカーレット総奪戦ゲーム」の始まりである。ブラックシープメンバーとメアリ、スカーレットで、フレッドの家で飲む時に勃発する。
「メアリは良くて、何で俺は駄目なんだ??」
「メアリは女だからだ」
「それは男女差別だ」
とても三十路とは思えぬようなフレッドとエドの幼稚な言い争いを、スカーレットを抱きしめながらメアリは心底呆れたように眺める。
「……あの二人はいつまで経っても、本当子供ねぇ」
スカーレットも二人の様子に苦笑いする。
「でも、まさかフレッドがここまで貴女に惚れ込むなんて意外だわ」
「……私も、そう思う。何で、私なのかな??って」
スカーレットはメアリを見上げ、メアリも黒耀石のような美しい瞳で見返す。
「私にも分からないけれど……、ただ私が思うに貴女達は似た者同士よね」
「私は彼みたいに美しくもないし才能もないわ」
「そういうことじゃないのよ」
「おい、メアリ。いい加減、スカーレットから離れろ」
「もう、貴方どこまで嫉妬深いのよ??いっそのこと、名前でも書いておいたら??」
そう言うと、メアリはスカーレットをルーに託す。
「……ちょっ、メアリ!俺まで巻き込むなっ」
慌ててルーが、スカーレットをフレッドの元へ返還しに行く。
「良かったわね、姫君を奪還できて」
「……もうっ、皆で私を玩具にして遊ばないでよっ」
そうこうする内に飲みがお開きになり、三人が帰宅すると、スカーレットはテーブルの上のグラスや酒瓶を手際よく片付け出す。
「手伝おうか」
「ありがとう。……じゃあ、私はグラスを洗うから、洗ったグラスを拭いて、閉まっておいてくれる??」
「分かった」
しばらく無言でそれぞれ作業に徹する。スカーレットが洗い物を終え、肘までまくり上げた袖を元に戻そうとした時、フレッドがその腕を掴む。
「何??」
怪訝な顔をするスカーレットに構わず、フレッドはその腕に残る、ほとんど消えかけている傷痕に、唇を寄せる。
「……つっっ!……」
スカーレットは腕を引き離そうとするが、体格と力の差により動かすことすらできない。
「……やめて、アルフレッド……」
「嫌だ」
獣が我が子を慈しむように、もしくは傷痕を労るように舐められ、スカーレットの全身にゾクゾクと快感の波が押し寄せる。
「……酔ってるでしょ」
「……酔ってない……」
「……嘘……」
「……そんな目するな。歯止めが利かなくなる……」
「……止めるつもりないくせに……」
ここまで来たら、スカーレット自身も止められたくないと思った。そのまま、二人はベッドの上で気が済むまで抱き合った。
「……ねぇ、何で私なの??」
フレッドの腕の中で、それぞれ色の違う両の目で彼の目を真っ直ぐ見つめる。フレッドは少し考えると、答えた。
「……そうだな。正直なことを言ったら、『あの人』に似ているからと言うのもある。だけど、それだけじゃない。俺の弱い部分や痛みを受け入れて、寄り添ってくれる」
「……だって、それくらいしかできないもの……」
「……それでいいんだ。なぁ、スカーレット。俺は弱くて情けない男だ。今まで、誰かに弱さを見せるのが嫌だった。はっきり言えば、弱さを見せた時に拒絶されるのが怖いんだ。容姿の良さや才能、学歴が目当てで寄って来る奴が信用できなかった。でも、あんたはそのどれにも目をくれず、素の俺自身に目を向けてくれた。だから、俺もあんたの痛みを知りたいんだ」
「……私のは、大したことないもの……」
「……じゃあ、何で自傷痕があるんだ……」
「……単に、精神的に弱すぎただけよ……」
そう言うと、スカーレットはフレッドにくるりと背を向ける。
「……もう過ぎたことよ。私は今、怖いくらい幸せだから、昔のことなんてどうでもいいの」
「リュシアン先生、さようなら」
「はい、さようなら。気をつけて」
ルーは普段、ある個人病院で心理カウンセラーとして働いているが、週初めのある曜日には母校の大学で心理学の臨時講師を務めている。
彼はもうすぐ二十八歳になるが、大変小柄な体格で若い女の子と見紛うような可愛らしい童顔だったため、現役の学生と間違われるくらい若く見える。それゆえ、学生達からは姓のグリーンウッドではなく、名前の方ーー、リュシアン先生と呼ばれ、親しまれている。
「グリーンウッド君、君に来客だ」
講義を終えて教室から出た途端、世話になっている教授にそう告げられた。この曜日にしか大学にいない自分の元を訪れる人物は一人しかしない。
「……どうも、リュシアン先生」
「……君に本名で呼ばれるのは、違和感しか湧かないよ。フレッド。」
年齢こそ三歳下だが、ルーは飛び級で大学に進学したので、フレッドとエドとは同学年になる。しかも、彼は特待生での飛び級だったので、大学始まって以来の秀才だと騒がれた。
「今日の講義も終わったし、そこのベンチでよければ話をしようか。君が俺の元に来る時は相当追い込まれている時だ。何かあったのかい??」
ルーは先にベンチに腰掛けるが、フレッドは立ち尽くしたままだ。よく見ると、彼にはしては珍しく、落ち込んで憔悴しきった顔をしている。
「……スカーレットが……、……俺の前からいなくなっちまったんだ……。スカーレットは……、週末の休みの前日から姿を消した。朝まではいつも通りだった。いなくなった日から、何であいつが出て行ったのかずっと考えたんだ。でも、俺にはさっぱり分からないんだ」
フレッドは余程強いショックを受けているせいか、子供みたいな朴訥とした話し方で事のあらましをルーに説明する。
「フレッド、とりあえず落ち着いてくれよ。ほら、ここに座って、深呼吸」
ルーは、フレッドを一旦落ち着かせるべく、半ば強制的に彼をベンチに座らせて、息を整えさせるとフレッドは少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「……ルー、すまない」
「いいよ、気にしないで」
傍から見れば、たかが女のことで……と失笑されてしまうのだろうが、フレッドにとってはスカーレットは恋人というだけでなく母親のような存在でもあり、母親の愛情に飢えていた彼にとって、唯一安らぎを得られる女性だった。ルーはそのことを充分すぎる程理解している。
落ち着いたフレッドは気を取り直すように、いつもの冷静な口調で再び話し出す。
「週末の休みの前日、俺が帰宅したら、テーブルの上にこんな書き置きが置いてあった」
フレッドから手渡された一枚の紙にはこう書かれていた。
『しばらく、ここから離れます。戻るかどうかは分かりません』
「喧嘩でもしたのか??……って、そんなことくらいじゃ俺のところには来ないか……」
「……その日の夜も週末の二日間も帰って来なかった。もしかしたら、仕事には行ってるかもしれないと思って、今朝彼女の働いてる工場に連絡した」
「……そしたら??」
「急に、『ちょっと事情がある』と言って一週間程休みを申請していたらしい」
「……実家に帰ったとかは??」
スカーレットの実家は、この街の隣にある小さな田舎町にある。
「スカーレットの実家の場所や連絡先は……」
「……知らないんだ。彼女は家族や実家の話を俺にはほとんどしないんだ。実家がどこにあるのか、両親の名前とか、俺は全く知らない。だから、今彼女の実家の町のモートン姓の電話番号を調べては片っ端から掛けている……」
「……で、俺に聞きたいことは何??」
「……スカーレットの実家に関する話を知ってたら、どんな些細なことでもいいから教えて欲しい。手掛かりになるかもしれない。それと……」
フレッドはずっと気になっていることを口に出す。
「彼女の自傷痕……、あれは一体何なんだ……??もしかして、彼女の家族や生まれ育った街と何か関係があるのか??」
「……そうか、気付いてたんだね。もうほとんど消えてるのに、よく気付いたね」
「やっぱり、あんたも知ってたのか」
「知ってるも何も……、スカーレットの自傷癖をやめさせたのは、メアリなんだ。……四年前、スカーレットと初めて会った時のことを覚えているかい??」
「……あぁ。笑顔のない、怯えたような暗い目をした大人しい女の子だった……」
「俺もそう思ったよ。何で、この子はいつも下ばかり向いているのだろう。人としても女の子としても音楽やってる者としても、光るものを持っているのに勿体ない。メアリも同じことを思ったみたいで、二人で彼女を後押ししようって。で、スカーレットと交流をしだしたんだ」
「…………」
「しばらくして、気付いた。その頃は真夏で一番暑い時期にも関わらず、スカーレットは長袖ばかり着ていた。本人は日焼け対策だと言ってたけど、たまに袖の間から引っ掻き傷みたいな痕が垣間見ることがあって、もしや……とは思ってた。で、少々手荒な真似だったけど、隙を見てメアリに彼女の袖口を強引にまくってもらったら、猫に引っ掛かれたような程度だったけど、無数の傷痕が着いていた。そしたら、メアリが彼女に言ったんだ。『私はスカーレットが大好きだし、ルーも貴女が大好きなの。だから、貴女が自分を傷つけると私達も傷つくの。だって大好きな友達が自分で自分を傷つける姿を見るのは、すごく悲しくなる』ってね。そしたら、スカーレットは自傷を止めた。多分、彼女は誰かに自分の存在を認められたかったんだと思う。フレッドは、スカーレットのお姉さんの話は知ってる??」
「……彼女は、姉の話だけは何度かしてくれた。確か、ヴァイオレットと言う名の四つ上の姉がいて、美人で頭も性格も良く、周りの皆から愛されてる自慢の姉だと。それが何なんだ??」
「……君にはそう言う風に話していたのか」
ルーは、ふぅっと軽く息を吐く。
「……スカーレットは、幼い頃から両親から何かと姉と比較されて育ったらしい。『姉さんは金髪碧眼で陶器人形のように可愛らしいのに、貴女は地味な顔だし赤毛で目の色も変でみっともないったらありゃしない。せめて、姉さんのように勉強が出来て愛嬌があればいいのに、大して頭も良くないしニコリとも笑わない陰気な子とくる。あんたみたいな子、いてもいなくてもどっちでも良い。姉さんさえいてくれればいい』と、よくこう両親から言われていたらしい。それも実の親からだ。それでも親は親だ。彼女は、少しでも両親に自分を見てもらいたくて家の手伝いとかも率先して彼女なりに色々やっていたそうだよ。それでも『そんな無表情な顔して、嫌々手伝いをするくらいならしてくれなくていい。姉さんみたいに、笑顔で手伝ってくれれば気分良いけど』って」
「……信じられないな……。俺達の前では、あんなによく笑うのに……」
「……今ではね。でも、出会った頃は違った。スカーレット自身が言ってたけど『私はメアリやルー達と出会ってウーリで歌うようになってから、ようやく人前で笑えるようになったの』って」
「……何で、そんなに笑うことが怖かったんだ……」
「……スカーレットは赤毛だろ??それも、木苺のように鮮やかな……、彼女の名前そのものを示すような真っ赤な赤色だ。彼女の故郷の街は少し田舎だから、赤毛に対する差別や偏見がまだ残っている。更に、彼女の目は虹彩異色症でそれぞれ色が違う。多様な人々が集まる地方都市のこの街では、彼女の髪と目の色は珍しくて変わっている程度にしか思われないけど、封建的で人の移り変わりが少ない田舎街じゃ、彼女の容姿は何かと差別の対象になる」
「……あ??そんなもの、生まれ持ったものだから仕方ないじゃないか。彼女にはどうしようもない問題だ。最悪、髪の色は染めて変えることはできるが、目の色は無理だ」
スカーレットの髪や目の色を綺麗だと思いこそすれ、蔑むような目で見るなんて……、とフレッドは腹を立てた。
「俺だってフレッドと同じに思うよ。でも悲しいかな、そういう目で見る人間が事実いるんだ。それもいい大人でだ。大人でさえそうなんだから、子供はもっと残酷だ」
「……何が言いたい??……」
「……スカーレットは、学校で級友に虐められていたんだ。赤毛のことは元より、特に目の色のことで。級友達は彼女と目が合う度に『気持ち悪い』と言って吐き真似をしたり、彼女が笑う度に『お前の笑顔は気持ち悪いから笑うな』、偶然手が触れれば『汚い』とか言われたり……。そのうち、靴や教科書を捨てられたり、授業中に『地獄へ堕ちろ』と言う紙を回されたり、ことあるごとに『死ね』と言われて叩かれたり……」
「……もういい」
「……そんなようなことを五年以上されていたってさ」
「……何が、『私の痛みなんてちっぽけだもの』だ。嘘つきめ……」
「そんなこと言ってたのかい??」
「……あぁ……」
「全くだね。多分、誰にも助けを求められなくて、耐えるためにそう言い聞かせていたんだよ。でも、心が耐え切れなくて自傷を繰り返し始めた。学校を卒業して故郷の街を離れ、この街で働き出してからも治らなかった。一種のストレス発散みたいなものだね。姉と比べたがる両親も虐める級友もいなくなっても、心が傷ついたり不安を感じるとついやってしまう。彼女は常に、誰かに自分を受け入れられたがってた。だいぶ後になって『あの時、メアリに大好きだと言われて本当に嬉しかった。だから、この人達を悲しまるようなことはしたくないって思ったの』と言っていたよ。俺が話せるのはこのくらいだ。他に何かあるかい??」
「……スカーレットは、家族を憎んでいるのか??」
「……いや、憎んではいないよ。ただ、わだかまりは持っている。だから、実家に帰っている可能性は低いと思う」
「……じゃあ、どこに行ってるんだ……」
僅かな可能性を断たれて、フレッドは頭を抱えた。
「……もしかしたら……」
「……何だよ」
「彼女の姉の嫁ぎ先かもしれない。スカーレットは姉とは仲が良かったみたいだ。『さすがに虐められていたことは言えなかったけど、姉さんだけは私に優しかった』と言っていたし、彼女の姉の嫁ぎ先の家族が大家族で気さくに人を受け入れる人達みたいで、たまに帰省すると実家よりそっちに顔出しているそうだよ」
「……姉の嫁ぎ先の姓は??」
「……ごめん、そこまでは分からない……」
「……いや、ありがとう。とにかく、ヴァイオレット・モートンがどこに嫁いだか、それを調べることにしよう」
次の日、フレッドは急遽仕事を昼から早退し(彼は仕事に対して大変勤勉で、早退したのは7年間勤めて初めてのことだった)、スカーレットの故郷の街へ向かった。汽車に一時間近く揺られ、駅に着く。
(……とりあえず、交番にでも行って聞いてみるか……)
駅員に交番の場所を教えてもらい、交番に向かう道中、道行く人々が自分に向ける視線に僅かばかり戸惑った。
三十を過ぎた今でも、彼の人目を引く美しい容姿は変わらず、道行く人の大半が彼と通りすがると振り返る。それだけなら、彼は慣れきっているので気にもしない。だが、この街の人々は、異質なものでも見るかのような警戒心や不躾なまでの好奇心を滲ませた視線を、あからさまにフレッドに浴びせるのだ。
十五分程歩いた後、交番にたどり着く。
「……すみません、ちょっとお尋ねしたいのですが、この街に住むヴァイオレット・モートンさんという女性を捜していまして」
「……あんた、見ない顔だな。この街のもんじゃないだろ」
小肥りの中年の警察官が、不審気にフレッドを見る。予想していた通りの反応だ。
「……少し前に、出先で急病になった私をたまたまその場にいた彼女に応急処置で助けていただいたんです。それなのに、ろくにお礼を言いそびれてしまったので、伝えたいと思ってこの街まで来たんです」
ヴァイオレットは看護師をしていた、という話をスカーレットから聞いたことがあったので、何か聞かれた場合、こう答えようと考えていたのだった。
「ヴァイオレット・モートン??もしかして、テイラー先生の奥さんのことか??」
警官が言うには、ヴァイオレットはテイラーという町医者と結婚し、自宅も兼ねている診療所で働いているという。フレッドは診療所の場所を教えてもらうと、そこに向かった。
診療所の前に着いたはいいが、フレッドは玄関の扉を叩いて中に入るのを躊躇っていた。もしもスカーレットが出てきて自分と顔を合わせた場合、彼女がどういう反応を示すのか、少し怖かったのだ。
(……臆病にも程がある……)
躊躇いを振り切ると、フレッドは扉に近づいた。
「……アルフレッド……」
少し鼻にかかった、呟くような女の声が聞こえた。フレッドが、唯一本名を呼ばれても嫌だと感じない人物はたった一人だけーー、たった一人しかいない。
「…………スカーレット…………」
振り返ると、一人の女性と共にスカーレットが呆然と立ち尽くしていた。
「……知り合い??」
スカーレットの隣にいる、彼女より背が高く、輝くようなブロンドの巻き毛で鮮やかなエメラルドグリーンの瞳の女性ーー、おそらく、あれが姉のヴァイオレットだろう。少し所帯じみた雰囲気はあるものの、確かに精巧な陶器人形のように美しい女性だ。
押し黙っているスカーレットに、ヴァイオレットは何かを思い出したように言った。
「あぁ!もしかして、彼が例の、貴女の恋人なの??」
スカーレットは頷く。
「きっと貴女が心配で迎えに来たのよ。ほら、いつまでも意地張ってないで、彼と話してらっしゃい」
ヴァイオレットはスカーレットの肩をポンと押すと、診療所の玄関ではなく裏口から中に入っていった。
スカーレットは、フレッドと一定の距離を保ちながら、俯いたまま彼の顔を見ようともしない。
「……スカーレット……」
「………………」
「……顔を上げろ……」
「………………」
スカーレットは頑なに下を向き続けている。
「……俺が嫌いになったのか??……」
「…………」
スカーレットは首を横に振る。
「……じゃあ、何で俺に黙って仕事を休んでまで、家を出て行ったんだよ。こっちは心配でこの五日間、気が気じゃなくて生きた心地がしなかったって言うのに……」
「…………ごめんなさい…………」
彼女を責めてはいけないと頭では分かっている。だが、この時のフレッドはいつもの冷静さを失っていて、感情を抑えることができなくなっていた。
「……あんた言ったじゃないか……。『私はどこにも行かない。アルフレッドの傍にいる』って……。あれは嘘だったのか??あんた知ってるだろ??俺は嘘をつかれることが大嫌いだって……。あんたにだけは、嘘をつかれたくなかったのに……」
まるで小さな子供が駄々を捏ねるように、フレッドはスカーレットに思いの丈をぶつけた。
「…………怖かったのよ!」
ずっと黙り込んでいたスカーレットが振り絞るように小さく叫んだ。
「……貴方が、まさかあんなにも私を愛してくれるなんて思ってなかったから……。それがこんなにも幸せだなんて……。こんな感情、私には無縁だとずっと思ってたし、望まないでいたのに……。もしも貴方が私から離れていってしまったら、私はきっと耐えられない。そうなる前に一番幸せな状態のままで、一度私から離れてみようと思ったの……」
スカーレットは、幸せがいつか壊れてしまうことを何よりも恐れていた。それは、フレッドにとって思いも寄らない答えだった。
「……なぁ、スカーレット。どうすれば、あんたのその不安は消えるんだ??」
「………………」
「……不安なのは俺も同じだ……」
「………………」
「現に、あんたは俺から逃げ出したじゃないか。例え、今回は無事に連れ戻したとしても、また逃げられる可能性がある」
「………………」
「……でも、よく覚えとくんだな。今後、あんたがまた逃げ出しても、俺はあんたをまた探し出す。何回でも何十回でも何百回繰り返したとしてもだ。俺は案外、執着心が強い人間だし、一度手に入れたものはテコでも手放したくないんだよ。俺は以前、最も大事だった人をあっさり失った。それも二回もな。だから、三度目の正直じゃないが、今度は死ぬまで手放す気はないんだ」
スカーレットがつぶらな目を、大きく見開く。
「……それって……、どういう意味……」
フレッドはしまった、と言わんばかりに顔を歪めて舌打ちをする。
「……あんたの思った通りの意味だよ……」
「……それじゃ分からないわ。私が鈍感なこと知ってるでしょ……」
フレッドはスカーレットとの距離を詰めると、強引に彼女の腕を引っ張り、そのはずみでバランスを崩しかけた彼女の身体を支えた。
その時、フレッドはスカーレットの耳元である言葉を囁く。それを聞いたスカーレットは、驚いて彼の薄いグレーの瞳を凝視した後、困ったようなはにかんだ笑顔を僅かに浮かべた。
「……そういうことだ。分かったか??」
ようやく笑顔を見せたスカーレットに満足したのか、フレッドはいつものように少しだけ唇の端を上げて、ニヤリと微笑んだのだった。
(終)