アバウト・ア・ガール(前篇)
「アバウト・ア・ガール」
「貴方、いつか女に刺されるわよ」
メイプルシロップまみれになっている郵便受けの中をタワシと濡れた雑巾を駆使しながら、汗だくになって掃除するフレッドの後ろ姿に向かって、メアリは氷のような冷たい視線を浴びせながら鋭く言い放つ。
「……あ?……何がだよ??」
ドロドロにこびりついた蜜の塊は、何度タワシで擦っても思いの他強固でしぶとく、中々落ちない。
「俺の背後で監視するなら、手伝ってくれよ」
「嫌よ。貴方が撒いた種なんだから、自分で何とかしなさいよね」
フレッドは、わざとらしくため息をつく。
「……エドとルーに、先に飲むのはいいが俺の分をちゃんと残しておけ、と言っておいてくれ」
フレッドのバンドメンバーのエドとルー、ルーの妻でフレッドの幼なじみであるメアリとで、いつものように皆で酒を飲もうと彼の部屋を訪れたらば、郵便受けの前でフレッドがしゃがみこんで何やら必死に掃除をしている。
「……俺が仕事に行ってる間に、誰かが郵便受けの中にメイプルシロップをぶちまけやがったんだ……」
エドは腹を抱えてひとしきり爆笑すると「……女じゃね??」と言い、ルーは躊躇いながらも「……こういうのは……、女の人がやりそうだよな……」と言い、メアリに至っては「……貴方、何をやらかしたのよ……」と頭を抱える。
「……ちょっと待て。何で、女だって決め付けるんだ??」
すると、三人は声を揃えて言った。
「それしか考えられない」
一度はプロの音楽家になりかけたものの、その道を捨てて音楽活動自体をすっぱりと辞めてしまったフレッドは大学を卒業後、役所の採用試験に合格し、かねてから希望していた図書館の職員として働いている。この仕事は基本的に定時で帰宅できるため、帰ってからは本を読むか、メアリが働くカフェを訪れるか、バーで酒を嗜んだりしていた。
彼は人目を引く美しい顔立ちをしていたので、バーで一人飲んでいるとよく女性から声を掛けられ、成り行きで一夜を共にすることが度々あったが、フレッドは関係を持った女性達の中で誰一人として恋人として付き合うことはなく、大抵一夜限りの関係で終わらせていたし、続いたとしても割り切った身体だけの付き合いに留めていた。それだけならまだしも、フレッドは自分から誘うことは絶対しなかったが、誘ってくる女とは手当たり次第関係を持つため、気がつくと同時に二、三人セックスフレンドがいた、ということもあった。
彼と幼なじみであるメアリとエドは彼の豹変ぶりにすっかり閉口していたが、「時期が過ぎれば、そのうち落ち着くだろう」と黙って見守ることにしたのだった。
数年後、無為な生活を送るフレッドにエドが「新しくバンドをやるつもりなんだが、お前に歌って欲しいんだ」と誘った。
「ギターは壊したし、歌も声がちゃんと出るか分からない」と渋るフレッドだったが、エドの熱意に押されたことと自身も音楽への情熱が再び沸き始めたことで最終的には承諾をし、大学時代からの友人ルーをベースに加えて「ブラックシープ」というスリーピースバンドを結成したのだった。
あくまでアマチュア志向で楽しむことが第一、という緩いスタンスのバンドだったが、三人とも揃いも揃って実力もセンスも相当高かったので、徐々にバンドの人気は上がり、固定のファンがつく程だった。
しかし、バンドの人気が上がったことにより、フレッドの女遊びはますます重症化した。
音楽仲間やファンの女の子達に関しては大切に思っていた(面倒を起こしたくない気持ちもあったが)ので絶対に男女の関係を持ち込むことはなかったのだが、純粋に音楽を楽しむことよりも人気のある音楽家と関係を持つことを目的に、ライブハウスに出没する女達と寝るようになったのだ。
「フレッド、貴方もう三十になるんだから、そろそろ女遊びは卒業しなさいよ」
見兼ねたメアリが何度か注意を促すものの、一向に直す気配がない。
「女が勝手に寄ってくるんだよ。俺は据え膳を食ってるだけだ」
フレッドは平然と言ってのける。
「……だから、こういうことになるんじゃないの??ちょっとは自制しなさいよ、馬鹿」
メアリは捨て台詞を吐くと、エドとルーのいる部屋の中へ戻っていった。
ブラックシープは結成してから五年目を過ぎた今でも、公私共にメンバー間の仲が良かった。それぞれの実力差や方向性の違いがないこともあったが、二十年来の親友であるフレッドとエドは元より、ルーの存在が大きかった。
ルーはフレッド達より三歳下の二十七歳の青年だったが、童顔でクリッとした大きな瞳で女の子のような可愛らしい顔立ちをしていて、身長も一六二㎝とかなり小柄な体格なので、二十歳くらいに見えた。そんな一見幼い容姿に反して、性格は温厚で思慮深く、自他共に認める「ブラックシープのスポークスマン」だった。神経質で気難しいフレッドや、口が悪く我が強いエドの幼なじみ二人組の代わりに、ファンや他のバンドとの交流を率先して取り組んでいた。元々、情に厚く面倒見が良いからか、ルーはメンバー以外のファンや音楽仲間との繋がりも大切にしていて、彼等が困っていたり悩んでいると親身になって相談に乗る面もあり、時には相手を思って厳しいことも言ったりしていたので、周囲から多大な信頼を寄せられている。
だから、メアリが彼と付き合い始めた時、「美女と小人」だの「白雪姫が王子じゃなくて七人の小人の一人を選んだ」とか言って散々からかうエドとは対照的にフレッドは素直に祝福できたし、おそらく結婚までいくのでは思っていたら、案の定、一年前に二人は籍を入れた。
「良かったな、三十前に結婚できて。見掛けと年に似合わず、ルーはしっかりした良い男だ。せいぜい愛想尽かされないようにしろよ、ブラッディメアリ様」
結婚式の時でさえ憎まれ口を叩くフレッドとエドに、白いドレスを身に纏い、本物の白雪姫のごとく絶世の美女と化していたはずなのに「余計なお世話よ、この負け犬二人が」とメアリは思い切りアカンベーで切り返し、美しいのに跳ねっ返りな妻の姿にルーは思わず苦笑を漏らした
「おい、王子が隣で唖然としてるぜ??その気の強さ何とかしないと、いつか浮気されるぞ」
「フレッドには言われたくないわよ。貴方と違ってルーは誠実だもの」
ルーは、音楽仲間の中である程度個人的に仲良くなった人間を、男女問わず必ずメアリに紹介する。彼女に対する、彼なりの誠意だ。メアリも仕事柄、人と接することが得意だったし、ルーに紹介された彼の音楽仲間の内何人かは彼女とも友人になった。
特に、ルーが曲作りやライブの手伝いをしている、スカーレット・モートンとはかなり仲が良く、メアリは彼女を実の妹のように可愛がっていた。
ディアンドル風の黒いワンピースを着てアコースティックギターを掻き鳴らして歌う、赤毛の長い髪の女性ーー、スカーレットの隣でルーはカホンを叩く。曲によっては彼がギターを弾き、スカーレットは歌に専念するだけの場合もある。
今夜は、スカーレットがいつもライブを行うウーリというライブバーで、ルーと共にライブをするということで、フレッドとエドとメアリで観に来たのだ。
「あの子、また少しギターも歌も上達したよな」
エドが感心した様子で彼女のステージを観ている。
スカーレットは歌もギターも決して上手くはなかったが、三年前に彼女と知り合った時と比べたら、圧倒的に聴かせる力を身につけている。ルーが様々なアドバイスをしてきたこともあるけれど、それだけ彼女自身が努力を重ねてきた結果でもある。
フレッドは、初めて彼女と会った時のことをふと思い出す。
彼女と会う前から「最近知り合った女の子で、歌もギターも下手くそだし見た目もいまいち野暮ったいんだけど、その子が作る曲はとてつもなくセンスが良いんだ」とルーが褒めちぎっていて、その後、ルーに誘われてブラックシープのライブに遊びに来たスカーレットと会ったのだった。
初対面ということで緊張をしていたのもあったのだろうが、スカーレットは人の顔色を伺うような、どこか怯えを浮かべた卑屈な様子でフレッド達に挨拶をした。笑顔がないし、人と目を合わせない子だな、とその時のフレッドは思った。
しかし、ルーやメアリと打ち解け始め、ルーの勧めによりウーリでライブをしたりする内に(ブラックシープも、アコースティック編成でウーリでライブすることがある)自分に自信がついて来たのか、今ではすっかり明るくなりよく笑うようになったし、メアリの影響なのか、野暮ったかった見た目も垢抜けて随分可愛くなってきた。
「……相変わらず良い胸してるよな」
「いや、それよりも脚が綺麗だ」
メアリが聞いたら「オヤジみたいな会話してんじゃないわよ」と冷たい目で睨まれそうだ。何だかんだ言っても、フレッドもエドも三十路なんだから致し方ない。
冗談を抜きにしても、スカーレットは胸が大きく、全体的に程好い肉付きをしている割りに腰がキュッと括れ、小柄ながら四肢がスラリと細長い、非常に綺麗な身体つきをした女性だった。顔立ちは決して美人ではないものの、笑うとあどけない少女のように可愛らしかったし、メアリやエドなんかはスカーレットと会う度にいつも、可愛い可愛い、と彼女を愛でている。
フレッドが不思議だったのは、客観的に見ても努力家でこれだけ周りから愛され可愛がられている魅力的な女性なのに、スカーレットには恋人がずっといなくて、浮いた話が一つもないのだ。少なくとも、彼女と自分達が出会って三年弱の期間に限るが。
確か、スカーレットは今年二十五歳になるはずだ。ある程度恋愛経験のある女性ならば、彼女の年齢的な面と身体つきならそこそこの色気が身についているはずだが、スカーレットにはそれが全くと言っていいほどになかった。
しかし、そんなことを彼女に問えるような間柄でもない。フレッドのことが嫌いなのか苦手なのかは知らないが、スカーレットは彼に対してだけは未だにぎこちない態度を取る。フレッド自身も、誰とでも打ち解けられるような性格の人間ではなかったので尚更だ。
実力やキャリアは違えど、同じ音楽をやっている者として見た場合、フレッドはスカーレットが好きだった。ルーがセンスを認めただけあって、彼女の作る曲は誰も真似できない独自性や難解さがある一方で、耳なじみが良く分かりやすいし、曲としての完成度が高い。口には出さないものの、彼女は天才肌だと感じていた。
だからこそ、色気が身につけば更に良くなるのに(技術なんてものは、やり続ければ上がっていく、とフレッドは考えている)、と勝手に思っていたフレッドだったが、新曲を歌い始めたスカーレットの姿に目を奪われることになった。
ジャジーな曲調で一筋縄じゃいかない男女の恋の駆け引きを歌った曲で、それ自体が今までの彼女にはなかった(女性にしては珍しく、スカーレットの歌には恋の歌がほとんどない)新しさだったのに加えて、その歌を歌うスカーレットはとても妖艶で煽情的だった。その表情があまりに艶めかしく、フレッドはしばらくずっと見惚れていた。そして、なぜ急にそんな顔をするようになったか、気になって仕方がなかった。
「ありがとうございました」
ステージを終えると、スカーレットはライブを観に来てくれた人達一人一人にお礼を述べて回り、フレッドにもお礼を述べる。
「フレッドさん、今日は観に来ていただいてありがとうございました!」
ルーやメアリ、エドは呼び捨てで砕けた話し方をするのに、フレッドには敬語で「さん」付けで呼ぶ辺り、彼女との距離を感じる。
「お疲れ様。最後から二番目の曲……、あれは新曲か??」
「はい、そうです」
「かっこいい曲だな。もう少し場に慣らしていけば、あんたの代表曲になるような気がする」
「わわわっ!フレッドさんからお褒めの言葉がっ!!ありがとうございます!!」
フレッドから褒められたのが予想外だったようで、スカーレットはわたわたと慌てふためく。そこにはさっきの妖艶な女の姿はどこにも見当たらない。。
「スカーレットさん、俺、もう帰りますね」
ふいに、スカーレットのライブを観に来ていた一人の青年が彼女に声を掛ける。
「あっ、もう帰る??途中まで見送りに行くよ」
フレッドは、細身で優しそうなこの青年をよく見掛ける。確か、ここ一年ほどスカーレットのライブを毎回観に来ているだけでなく、スカーレットと二人で何度かブラックシープのライブを観に来てくれている。付き合っている訳ではなさそうだが、二人の親しげな雰囲気からすると恋人同士になるのも時間の問題のような気がする。
スカーレットが青年を見送りに外へ出ていくのを視界の端で追いながら、フレッドは煙草を箱から一本取り出そうとして舌打ちをする。そう言えば、丁度切らしたところだった。
(……そう言えば、ウーリの近くに夜中まで営業している煙草屋があったな)
ウーリの近辺はバーや大衆酒場が立ち並んでいるので夜遅くまで人通りが多く、飲みに立ち寄る人々向けの煙草屋が一軒だけあったので、フレッドはマスターに「ちょっと煙草を買いに、外へ出ます」と伝え、店を出た。
(煙草屋は確か、三軒ほど先にあったような……)
おぼろげな記憶を頼りに道を進む。あった。煙草屋を発見した。
しかし、フレッドはそのまま目的の場所に足を進めることができずにいた。
煙草屋のすぐ目の前で、スカーレットと青年が立ち止まっていた。よく見ると、青年は思い詰めたような表情でスカーレットに話し掛けていて、スカーレットは俯いたまま固まっている。
どうやら、スカーレットは青年から告白を受けているようだった。
しかし、青年が必死に想いを伝えれば伝える程、スカーレットは俯かせた顔をますます下に下げていくばかり。
(……あーー……、これは……、駄目だろうな……)
青年が言葉を切ると、スカーレットは相変わらず俯いた姿勢を崩さないまま、申し訳なさそうに身体を縮こませて頭を深々と下げた。フレッドの予想通り、青年は交際を断られたようである。何度も何度も頭を下げるスカーレットに、青年は全然気にしていないから、とでも言うように弱々しい笑顔で両の手の平をぶんぶん振りながらその場から離れていった。
振った方にも関わらず、振られた青年以上に落ち込んだ様子のスカーレットが、初めてフレッドの方を振り返る。途端に、夜目でもはっきり分かるくらいに顔を真っ赤に紅潮させた。
「……あ……」
不可抗力とは言え、告白現場の一部始終を目撃してしまった気まずさに加え、スカーレットに恥ずかしい思いをさせてしまった罪悪感でフレッドは彼女から目を逸らす。
「……いや、そこの店で煙草を買おうと思ってね。……すまない、見るつもりはなかったんだ」
「……いえ……、……私こそ、お店に入るの邪魔してたし……」
「…………」
「…………」
沈黙が流れる。
先に破ったのはフレッドだった。
「……あんたが嫌じゃなければの話だが、煙草を買う少しの間だけ、そこで待っててくれないか」
「……?……」
「そんな泣きそうな顔してウーリに戻るつもりか??外で立ち話になるが、ちょっとだけなら話くらい聞くぜ??」
柄にもない台詞を言っている、と自分でも思う。メアリやルーの人の良さが移ったか。ただ、肩を落とすスカーレットの姿を見ていたら、何とかしてやりたいと思ってしまったのだ。スカーレットは驚いたように目を見開いていたが、「……ありがとうございます。じゃあ、お願いしよっかな」と困ったような力無い笑顔を見せたのだった。
ライブが入っていない日のウーリは、誰でも自由にステージに上がって演奏が出来る、オープンマイクという形式になっていて、練習がてら遊びに来たりする客もいた。勿論、フレッドのように飲みが目当てで来る客もいる。
仕事帰りにウーリに寄ると、ギターを抱えてステージに立つスカーレットがいた。
彼女のギターはフレッドが持っているアコースティックギターと似た形で、女性が弾くには少しボディが大きいため(スカーレットのギターの方が、フレッドのよりも若干ボディが小さくネックも細いが)、立った方が弾きやすいらしい。
「あ、フレッド。お疲れーー」
あの日以来、フレッドとスカーレットは急速に打ち解けるようになった。
「練習しに来たのか??」
「ええ、そうよ」
スカーレットは一度壁を崩すと、今までのぎこちない態度が嘘のように人懐っこくなる。特に、この間の一件でフレッドに対する警戒心が解けたのと、フレッドが「……いい加減、敬語は止めたらどうだ」と言って以来、妙に慕われている。
「あれ??今日は眼鏡なんだね、初めて見た」
「ああ、仕事の時は眼鏡を掛けているんだ」
珍しいモノを見るかのように、スカーレットはフレッドをじっと見つめる。
(……瞳の色だけじゃなく、性格も猫みたいな子だな……)
前までは余り合わせてくれなかった目線も合わそうとしてくれる。彼女はオッドアイで、左目が鮮やかなエメラルドグリーン、右目がフレッドと同じく薄いグレーだ。一度、「変わっているが、綺麗な目だ」と褒めたら、「そうかな??気持ち悪くない??」と複雑な表情をされたことがある。
その時のスカーレットの顔は出会った頃みたいに、何かに怯えたような陰を含んだものだった。基本的にフレッド達の前では笑顔でいるスカーレットだが、時々、こういう妙に陰のある表情を浮かべることがある。この間みたいに新曲を歌っている時の妖艶さといい、フレッドが思っていた以上にスカーレットは様々な表情を持っている。
彼女が、まだ人には見せていないような顔を見てみたい。人知れず、フレッドはそんな願望を抱くようになっていた。
今日は客が少なく、店内にはマスターとフレッド、スカーレットの三人だけしかいなかったため、しばらくその三人で音楽やちょっとした世間話を肴に酒を飲み交わしていた時だった。
店の扉が開き、一人の男が入ってきた。フレッドは彼の顔を見た途端、僅かに眉間に皺を寄せた。
「あ〜〜、どうもーーフレッドさん。お久しぶりですーー」
男はヘラヘラとした薄笑いを浮かべながら、馴れ馴れしい口調でフレッドに話し掛ける。
「……久しぶりだな、ブノワ」
「あっれーー、なんかノリ悪いですねーー」
「……あ?俺は元からこういう風だが??」
「つれないですね〜〜、まぁ、フレッドさんくらいかっこよくて才能ある人なら、多少愛想悪くても女性がホイホイついてくるから、羨ましいですよーー」
(……こいつ、自分が何やったのか、全く反省してないな)
フレッドは苛立ちを押さえるために煙草に火を付ける。人の好き嫌いが決して激しくない彼でさえ、ブノワに対しては嫌悪感しか湧いてこない。
ブノワはアコースティックギターのインストを弾いている男で、何年か前にルーが才能を見込んだことからウーリを拠点に活動し始めたのを皮切りに、今ではあちこちのライブハウスやライブバーで引っ張りだこの音楽家だった。
彼は、音楽に対しては真面目でストイックな反面、フレッド以上に女癖が異常なまでに悪く、しかも手を出すのは決まって音楽関係者内の女性だったので、それが原因で周囲に迷惑を掛けることもしばしばだった。
特に、仲間内の相談役的存在のルーは、ブノワとの恋愛沙汰で悩む女性達からしょっちゅう相談を受けていて、彼絡みの悩み相談が余りに多すぎるため、終いには「あいつ……、いい加減にしてくれないかな……」と、彼にしては珍しくげんなりしていた。
それだけじゃなく、ブノワは表立ってはブラックシープのメンバーについて馬鹿みたいに称賛しておきながら、裏では正反対の悪口を吹聴していたり(これはガキの戯れ事程度にしか、三人は思っていないが)、ルーと付き合っているのを承知でメアリにちょっかい掛けたり(当然、メアリは鼻にも引っ掛けなかったが)、あげくの果てにはブラックシープのファンの女の子に強引に手を出して妊娠させたのだ。
これには、さすがのフレッド達も彼を許さず、責任を取るか、堕胎費用を全額払えと迫ったが、ブノワは知らぬ存ぜぬを押し通し、突如姿をくらましたのだ。
仕方なく、ブノワの代わりにフレッドが堕胎する際の同意書に名前を書いたのだが、しばらくして「ブラックシープのフレッドがファンを孕ませた」などという大変不名誉な噂が流され(おそらく、ブノワが保身の為に流した)、一時的にバンドの評判が下がり自分だけならともかく、エドやルーにも少なからず迷惑を掛けてしまったことに、フレッドは人知れず胸を痛めた。彼は、自分よりもエドとルーを貶められることを何よりも嫌う。
そんな経緯がある為、本来なら胸倉掴んで殴り飛ばしたいくらいの気持ちだが、マスターやスカーレットに迷惑を掛けたくなかったので静かに耐えた。ブノワは、フレッドの反応が悪いことが面白くなかったのか、彼から離れてマスターと談笑し始めている。
ふと、隣に座っているスカーレットに目をやると、心なしか顔色が悪く、さっきよりいくらか表情が乏しい。
「どうしたんだ??」
フレッドの問い掛けに、スカーレットはハッと我に返り、困ったような頼りなげな笑顔を無理矢理浮かべる。
「ん?何でもないよ?」
「顔色が悪くないか??」
「そう??あぁ、ちょっと酔ったのかも」
スカーレットは、まだ一杯しか飲んでいない。見掛けによらず彼女は酒が強いので、これくらいで顔色が悪くなるほど酔わないはず。明らかに嘘だ。
「ちょっとトイレ行ってくる」
スカーレットはその場から逃げるように、トイレに向かった。
スカーレットの態度の急変ぶりが、どうにも引っ掛かる。以前も見たことがあるような……、フレッドは記憶を手繰り寄せる。思い出した。
三ヶ月前にも、スカーレットが今みたいに顔を真っ青にしてトイレに向かうのを見た。その時は、彼女にしては珍しく酒に酔って気分を悪くしたか、と思っただけだった。そして、その時も何の前触れもなく、ブノワが店に訪れていた。
ただ、スカーレットがウーリの常連になる頃にはブノワはウーリに来なくなっていて、おそらく二人が店で顔を合わせたのは三ヶ月前と今日との二回だけだろう。
(考えすぎか??)
しかし、他に理由が見当たらない。
ブノワは不穏な雰囲気を察したのか、一杯だけ軽く飲むとさっさと店から出て行った。同時に、スカーレットがトイレの中からようやく姿を現す。
「……ブノワなら、今帰ったぞ」
「え?何??」
「あんたの顔色と挙動不審な態度の原因はあいつだろ??」
「言っている意味がわからないわ」
「とぼけても無駄だ。ちなみに、三ヶ月前にあいつが来た時もトイレに立て篭もってただろ??」
「…………」
「あんたとあいつがどういう関係か知らないが、気分が悪くなるくらい、あいつが嫌いなことはよく分かった。……まぁ、俺も嫌いだが」
「…………」
スカーレットの表情が見る見る内に曇っていく。
「……ーー……、…なの………」
消え入りそうな小さな声でスカーレットが呟く。
「…………昔、ちょっとだけ付き合っていた人なの…………」
「…………そうか…………」
「……私は彼のことが好きだったけど、何て言うか……。若い男の人にはありがちな話で……。……彼は単に、私と寝たかっただけみたいで……」
「言いたくないなら、無理しなくてもいい」
恐らく、ブノワの口車にまんまと乗せられて、弄ばれたのだろう。聞かなくても想像がつく。
「……私も馬鹿だったのよ。それまで、男の人に優しくされたことがなくて、ましてや好きだなんて言われたことなんて初めてだったから……、嬉しくて舞い上がっちゃったの。今だったら、あぁ、この人どう考えても身体目当てでそういうこと言ってるな、って分かるんだけど」
「……若かったんだろ。俺が言うのも何だが、少々高くつく授業料払ったと思えばいいんじゃないか。まぁ、男と女じゃ受ける痛手は違うんだろうが」
「……うん、今ではそう思うの。でもね……」
「……??……」
「……男の人から好きだって言われると、怖くなるの。何て言うか、女として見られてた、って思うと気持ち悪いって思ってしまうの……」
「…………」
「……変だよね……」
「…………」
スカーレットが魅力的な女性にも関わらず、特定の男性との付き合いがない理由が、ようやく分かった。
更にスカーレットは、カウンターに肘をつきながら、何かに耐えるように両手をぎゅっと握りしめる。
「……メアリやルーには言ってないんだけど……。……三ヶ月前に、ブノワが店に顔出してから……、彼から……、『寄り戻さないか』って、しょっちゅう電話が掛かって来るの……。あの頃と電話番号と住んでいる部屋が変わってなかったから、すぐに番号変えたわ……。そしたら……」
スカーレットが、小刻みに身体をガタガタと震わせながら、言った。
「ある曜日になると……、私の部屋の前に来て、『頼むから、また付き合ってくれ』とか言いに来るの……!!絶対に扉を開けてはいけないから、今のところは開けてないけど……」
「……絶対に開けるな。開けたら最後、あんたが傷つくだけだ」
「……わかってる。……でも、時々、開けてしまった方がいっそのこと楽になるんじゃないか、って思ってしまうの……」
「駄目だ。それこそ、あいつの狙い通りだ」
「……そうよね……」
どうやら、フレッドが思っていた以上に事態は深刻だ。皆の前で屈託ない笑顔を見せつつ、その裏でスカーレットはたった一人で恐怖と闘っている。
彼女をどうにか守ってやりたいーー、フレッドの中で使命感にも似た思いが生まれる。それは、仲間としてなのか女としてなのかは分からないが。
「あいつが来るのは、決まってある曜日って言ったな。それはいつだ??」
フレッドの問いに、スカーレットが答える。その曜日はウーリの定休日だ。
(……成る程、ウーリが休みの日の夜中なら、確実に家にいるって分かるからな……)
「……だから、今、引っ越そうかと思ってて……」
「必要ない」
「……え??……」
「その曜日なら、バンドの練習が入ることはない。エドの仕事が1番忙しい日だからな」
「……??……」
「俺が働いている図書館の近くに遅くまで営業しているカフェ兼バーがある。仕事が終わったら俺はそこに行くから、あんたも来いよ」
「……?!……」
「俺が相手じゃ不服かもしれんが、一人で怯えながら部屋にいるよりはマシだろ。あいつもあんたんとこ訪ねたはいいが、毎回留守が続けば、いい加減諦めるだろう」
「……えぇっ?!そんなの悪いよ!!」
「あ?別に俺は構わない。あんたが、こんな三十路の女癖悪いと評判の男なんかと食事できるか!って思ってるなら、無理にとは言わないが」
「……そ、そそそんな!滅相もない!むしろ、有り難いです!!」
「おい、敬語はやめてくれ」
そんな訳で、スカーレットをブノワから守るという名目で、フレッドとスカーレットは週に一回、共に食事をする約束を交わしたのだったーー。
(続く)