ある春の日の旅立ち
これにて、長々しくも退屈な冗長な物語は一応完結でございます。
後は直して……もう一度違う賞へチャレンジ!
……出来たらいいなぁ……。
兎にも角にも、お目汚しをして申し訳ありませんでした。
何かありましたら、一方的にでも結構ですのでご一報を。
ああ、でも誹謗中傷だけはご勘弁して頂きたく……。再起不能になりますから……。
<16>
夜の街道は見通しが悪い。しかも、街道の端に立っている魔力で発光する街灯が消えているから、足元には十分に気を付けて進まなければいけない。それにしても、いつも点いているはずの街灯が何で消えているんだろう? まさか、さっきのあれが――。
脳裏に焼き付いた奇妙な光景を振り払う。赤い翼と、赤い鎧――そして遠くからでも判るほどに赤く、憎しみに満ちた眼。そのどれもがティナに似ているようで似ていない――天使のような姿。あれは――ティナに関係があるのか。
何にせよ、此処まで来てしまったからには引き返せない。ティナの面倒は最後まで看るって決めたじゃないか。それに、ニナと話す事はまだ沢山ある。あのまま、消化不良のままで話を終わらせて堪るか。自分は――まだ彼女に何も言えていないのだから。
走れど走れど自分の足音しか聞こえない。ニナは一体どっちへ向かったのだろうか。
目印になるのは、先程から点滅するようにぶつかっている二つの光のみだ。幸い当てずっぽうで進んでも、この城下街の道は然程入り組んではいないので。それらしい道を進んでいれば目的の場所には行き着く。
とは言っても、この暗がりの中だ、思ったようには進めていないのが事実である。
おそらく二ナは赤色魔法か、十八番の紫魔法で夜道を照らしている。しかし、あたしの場合、行く先を照らそうにも、赤色魔法も紫魔法も思ったように制御が出来ない。本当は黒色魔法で視界の明度を調節するか、白色魔法で光源を得るかすれば良いのだが、あたしはそのどちらの魔法も使用不可である。適正が無いのだ。
息が――切れてきた。そろそろ、着く筈なのだが――。
「――っ!」
小道を抜け、大きな街道へと入り込んだ途端、痛いほどの閃光があたしの眼を突き刺した。
白い光が見えたかと思ったら、何も見えなくなった。ちくしょう、何が起きている。
自分の状況がどうなっているかなんて考えている内に、誰かに両肩を掴まれた。
「ユーリ……! 何で来たの……!」
二ナの声だ。光に少しずつ目が慣れてきた。輪郭だけだが――いや、もう見える。目の前には、心配そうな顔であたしの肩を掴んでいる二ナが居る。
「まだ――話終わってないだろ……! それに、さっきの二つの光の片方――白い方の奴は、あたしの友達なんだ……!」
視界の中を白い塊と赤い塊が横切った。次の瞬間、それら二つは凄まじい速さで地面へと落下した。あたしと二ナは言葉を失い、もくもくとした土煙の立ち込める落下地点を見詰めた。
薄い黄土色の煙幕の中に二つの人影が見える。一つは最早ただの腰布と化した真紅のスカートを乱し、背から銀色の翼を伸ばしている紅眼の少女――ティナが白い光剣を支えに立っている。その少し離れた場所には、赤い刺刺しい鎧を身に纏った赤眼、赤翼の――おそらく少女だ。白い布を無理矢理赤く染め上げたかのような翼を持つ赤眼の少女が、黒い剣を好戦的な表情で構えていた。
それだけではない。家々の軒先は削り取られており、見慣れた街並は子供に踏み潰された砂山のように無残な姿を呈している。地面は砕け、瓦礫は散乱し、その周囲には飛び散った赤黒い血――そして、そんな血に塗れている黄金の杖の紋章――近衛魔道師達が力なく倒れている。
「何だよ……これは……」
現実味の無い光景を受け入れられないあたしを余所に、黒光を帯びた赤い旋風がティナに向かって突進していく。悪夢のようだ――いや、これは本当に悪夢の中ではないのか。
「その程度か、銀翼ぁぁ! 私の翼を奪った時のような剣技を今一度見せてみろ!」
鈍色の剣閃が、ほぼ同色の闇の中で、月夜に眩しい銀の翼へと牙を剥く。
「っく……あっ……!」
激しい剣撃に、防戦一方のティリナは体を光の剣ごと弾かれ、既に人気の消えている商店の成れの果てへと吹き飛ばされた。
「ティナぁッ!」
助けなきゃいけない――そう思い、走り出そうとしたあたしの腕を二ナが掴んだ。
「離して! 行かないと、あの子が――ティナが死んじゃう……!」
「待ちなさい……! 今行っても、貴女も多分……殺される……!」
「だったらどうしろってんだ……!」
いいから話を聞きなさい――と二ナは静かな声を響かせた。
「……いい? 私があの赤い鎧の奴を惹き付ける……タイミングを合わせてね……。貴女はその隙に、助けに行って……! 先に私から行くから――全力で走るのよ……!」
二ナはゆっくりとティナに近づいていく赤い眼の少女から視線を動かさずに、声を潜めた。
「でもそんな事したら……二ナが……!」
彼女は一瞬呆気に取られたように、口を半開きにすると、苦笑いを顔に浮かべた。
「……これぐらいさせてよ……。今までの償いには大分少ないけど……ね」
彼女をまだ許しきれていない自分が何処かに居る。あたしは二ナの言葉に応えられなかった。
「行くわよ……!」
小道の陰から二ナが飛び出した。道の中央まで走り、赤い眼の少女へと指先を向ける。
「さぁ、こっちを見なさい! 雷の矢!」
高らかな声を挙げ、二ナは雷の光弾を前方に打ち出した。紫色の雷光が、一直線に赤い眼の少女へと突き進んでいく。あたしはそれを確認した後、二ナに続いて広い街道へと飛び出した。
足取りが重い。走っているのに全然進んでいないような気さえする。泥沼のような闇夜に足を取られつつもがむしゃらに進み、あたしはどうにかティナの飛ばされた場所へと辿り着いた。
「ティナ! 返事して! どこに居るの……!」
硝子が砕け散り、木材が悉く折れている店内に足を踏み入れる。闇の中に視線を遣りながら歩み進んでいると、荒い息遣いが聞こえてきた。声を頼りに更に奥へと、足場を確かめながら進む。
「――ユーリ……? ですか……?」
声に驚きつつも歩を止める。周囲をぐるりと見回すと、破れた窓から射し込む月光に照らされた、崩れかけの壁に凭れかかっているティナの姿が見えた。
「ティナ……! よかった……! 怪我は――」
「……こんなの――……掠り傷です……」
「あんた、何言ってんの……! この大馬鹿野郎……!」
ティナは口端に黒々とした血を溜めている。白いシャツには血が滲み、スカートから覗ける足は切り傷でボロボロだ。見るだけでも痛々しい傷跡――こんな状態を掠り傷とは言わない。
「それよりも……っ……アズルが……」
そうだ――あいつはどこに――ティナと一緒に居た筈だ――。
「彼は……アルマティにやられました……。致命傷は……はぁはぁ……喰らってませんが……相当な深手を負ったはずです……。申し訳ありません……」
死んでいなくて本当によかった――本当に――本当によかった――……!
「ううん……! ティナのせいじゃない……。それにあいつ――勝手に死んだりしたら、あたしがもう一度あの世に行ってぶっ殺す……! ……ところで、アルマティって……」
「私と剣を交えていた赤い翼の天使の事です……」
夜空に広がった赤い翼が脳裏に蘇る。憎しみに満ちた赤い瞳――忘れようにも忘れられない。
「ティナは……何か知ってるの……? あのやばそうな奴の事……」
「いえ……何も……。ただ――あちらは私の事を知っている様でした……」
という事は、矢張りティナと何か関係が――。
「一先ず此処を出よう……! 肩貸すけど、立てる?」
あたしはティナの返事も待たず、自分の右肩を彼女の左脇に潜らせ、支えになるようにした。
「ありがとうございます……」
「礼なんて……。それよりも早く逃げないと……二ナが惹き付けてくれてる間に……」
「二ナ……? どなたですか?」
「学院で遇ったでしょ? あたしの――あたしの――……」
何でその先が言えないのだろう。とても簡単な事なのに。
あたしは首を傾げるティナに誤魔化すような作り笑いを向け、残骸と化した店の外へと出た。
外では二ナと赤目の少女――ティナがアルマティと呼んでいた奴とが、睨み合いながら対峙していた。よくよく見れば、その近くにアズルだと思われる人物が瓦礫を上手く避けて倒れているのが分かる。
「人間……! 私にかかって来た勇気だけは買ってやろう……! だが――私に刃を向けたというのは、死する覚悟があっての事だろうな……!」
「貴女を倒す覚悟はあっても、死ぬ覚悟は無いわ。残念ね――」
二ナは、顔だけはアルマティに向けながら、ちらりとこちらに眼を動かした。
視線が交わる――二ナはあたしに『逃げろ』と目配せしている。確かに近衛魔道師達が軒並み倒されている状況を考えれば、共倒れになるよりあたしとティナで逃げた方がいいだろう。この場に下手に留まって、巻き添えを喰ってしまえば元も子もない。
だけど、二ナは? そしてアズルは? 倒れている近衛魔道師達は? 優先すべき事など判り切っている。しかし、そこまで冷徹に割り切る事など出来ない。愚かだが、大切な人達を見捨てて逃げるなんて絶対に出来ない。それをしてしまったら自分は自分ではなくなってしまう。
「――ティナ……。あんた……一人で逃げられる……?」
これがあたしの思いつく最善の方法――。
「大丈夫だと思いますが……ユーリ、貴女は一体何を……」
「……何をしたいんだろうね……あはは……あたしにも解んないや」
あたしはティナに手を向けた。構成する術式は、緑魔法。物質の治癒を促す魔法だ。
「|癒せ……」
掌の魔力孔から力強い魔力が一気に溢れ出してくる。それを無理矢理術式に押し留め、形にする。逆流した魔力が、自分の手先を蝕んでいくのが解る。行き過ぎた回復の光は正反対の性質を帯び、細胞を少しずつ食い破っていっている。歯を噛み締め――痛みを堪えた。
まだ大丈夫だ――二ナと赤眼の少女にはお互いに動きが無い。
強引に制御した彩光がティナの体を包んでいく――肉は繋がれ、血は止まり、皮膚は閉じていく。ついでに血だらけになったあたしの手も、回復の緑光の余波で元通りになった。
「っはあ……! っはあ……! や……やった……! ……っつう……!」
今までに一度もまともに成功した事の無い魔法が成功した。本当なら喜ぶ所なのだが、そんな場合でもない。激痛で手は、頭は痺れているし、何より時間が無い。
あたしはティナに小さい声で言った。
「逃げて……! あたしはあの赤眼を……どうにかする……!」
どにかするも何も無いものだ。具体的に何が出来るという訳でもないのである。
「ユーリ……行っては――……」
「解ってる……でも……やっぱ駄目なんだなぁ……」
あたしは夢中で駆け出した。二ナの居る場所へと。赤き翼の天使が居る場所へと。
時は動き出している。飛び出した時には、既に二ナとアルマティの戦いが始まっていた。
「――せいぜい足掻け! 大地よ踊れ!」
足元に落ちている瓦礫、いや――そればかりではない。無数の岩石が空中へと浮かび上がり、雪崩のように二ナに向かって降り注いだ。重苦しい衝撃が一斉に足元を揺るがす。
「うおっ……! あ――っ……! ……たっ……!」
岩石の雨粒は目前へも突き刺さり、それを避けようとした弾みで転んでしまった。
二ナは無事か――あたしは急いで立ち上がり、二ナがつい先程まで居た――今は岩石に埋もれる場所を見た。
「――舐めないで頂戴。これぐらいじゃまだまだくたばらないわよ」
藤色の光が視界の中を素早く駆け回る。二ナの紫魔法の光だ。その光は俊敏な動きで岩石を避けつつ、アルマティへと向かっていく。
「……ふん……、その程度で得意になるなッ!」
アルマティは黒い光剣を構え、藤色の光を正面から迎え撃った。
二つの色が混ざり合った光の波が広がる――。
「……! な……! 魔法が……!」
藤色の光が弾かれるように黒い光から離れた。
様子が変だ。二ナは藤色の彩光を消し、腑に落ちない表情で自分の両手を確かめるように握っている。
「ふふ……どうした、魔法がどうかしたか――」
月が満ちる薄闇の中で赤い口が愉しそうに哂う。それはとても不吉で――不気味に思えた。何だか嫌な予感がする――あたしは身の内から込み上げてくる不安感に駆られ、突発的に魔法を放った。補助系魔法はともかく、攻撃系の魔法なら術式は、壊れる可能性があっても魔力の逆流は起こりえない。攻撃手段が減るのは聊か心配ではあるが、それ以上の嫌な予兆があたしを突き動かしたのだ。
「氷柱よ……!」
青色魔法の光と共に、不恰好な氷柱がアルマティに飛んでいく。
「邪魔だ」
黒い光が一閃――たったそれのみであたしの作り出した氷柱は真っ二つに切り捨てられた。しかも魔法を放った直後、術式が限界を迎え、壊れてしまった。
「……嘘……そんな……」
不味い――この距離から攻撃らしい攻撃の出来る青色魔法の術式はあれだけだ。
「ユーリ……! 逃げてって言ったでしょう!」
あたしの姿を認めた二ナが眼を大きく見開いた。あたしは何か言おうとしたが――声が出ない。アルマティの赤い眼がこちらを睨む。憎しみに燃え滾る瞳を見た途端に、膝から力が抜けそうになった。
「先程からちょこまかと……気付いていないとでも思っていたか? これの次はお前と、銀翼の番だ。末期の祈りでも考えておけ」
吐き捨てるようにアルマティは言うと、二ナに黒剣の先を向けた。
「どうした、かかって来ないのか――さあ、来るがいい!」
「……言われなくても……! 何をしたのか知らないけど――これで決めるわ……ッ!」
黄色と紫の光が入り乱れる。それは二ナの腕に巻きつくように広がり、鎖の如き形となった。いや違う――本物の鎖に帯電しているのだ。術者の体を傷付けない電光は、代わりに周囲の地面を削り取っていき、生物のような動きでアルマティへと襲い掛かった。
アルマティは赤い翼を翻し、遥か上空へと飛び上がった。それを電光を帯びた鎖が猛烈な勢いで加速しながら追いかけていく。
「逃げても無駄よ! さっきみたいにはいかない……! 今度は……!」
紫電を纏う鎖はアルマティの赤い翼を追い抜かし、上方から彼女の翼の根元へと絡んだ。鎖は朽木に絡む草蔓のように赤い鎧に巻き付き、締め上げた。
「やった……!」
二ナがそう言った瞬間――電光を光らせる強靭な鎖は粉々に砕け散った。
「――『やった』? ……片腹痛い」
鷹の如き急降下――一気に二ナの目前へと迫ったアルマティは、矢張り哂っていた。
「な――何で――鎖は確かに捕らえた筈――」
「いい事を教えてやろう……。お前の使った魔法――それは私には効かない」
「うぐっ……! ぐ……あ……」
二ナの首を片手で掴み上げ、アルマティは再び上空へと浮上していく。
「二ナッ! くそ……! 燃えろ!」
あたしは掌を天に翳した。赤い翼に向かって不安定な火球が打ち出される。だが、残り一つの攻撃魔法――あたしの放った炎の魔法は、アルマティに到達する前に解けるように消えた。
「何で……っ、燃えろ! 燃えろ! 燃えろ……!」
届かない届かない届かない。何度放っても届かない。届く前に全部消えてしまう。
その間も、二ナの苦しげな呻き声が夜中を貫き、鼓膜を震わせる。アルマティはあたしを狂気染みた赤い眼で見下し、身の竦むような大きな声を発した。
「天使の作った魔法が天使に効くと思うか? その魔法は私には意味を為さない」
「燃えろ! 燃えろ! 燃えろッ! 燃えろ……! 燃え――」
氷の砕けるような音と同時に赤色魔法の術式が壊れた。
「何でよ……! 何でこんな時に壊れんのよ……! ちくしょう……! 何でだよッ……!」
赤い眼は、侮蔑するように、哀れむようにあたしに冷たい視線を投げかけた。
「……哀れだな。貴様の魔法など私には一生届かない。しかも、貴様の魔法――それは一時的な威力こそこの娘には勝っているが、不安定で制御しきれていないな? そのような愚劣な出来損ないの魔法で私に立ち向かおうなど、呆れて物も言えぬ。……安心しろ、事が済み次第、お前と銀翼を殺す……! 其処で大人しく見ていろ!」
どこまでも冷たくて、その辺に落ちている塵屑でも見るような軽蔑に満ちた視線。それは昔からあたしが大嫌いだった、あたしを虐げ、鼻で笑う人間達の視線によく似ていた。
嫌だ。嫌だ。止めて。その眼で――そのあたしを侮蔑するような眼で見るな――。
嫌な記憶の蓋が少しずつ開いていく。努力など無駄だと貶され、何一つまともに出来ないと嘲笑の的にされ、夢など叶わないと汚され――その度に虚勢を張って生きてきた、その記憶が。
体が震えてくる。そんなつもりはないのに、喉の奥から熱いものが吐き出されそうになってしまう。見るな。見るな。その眼で――あたしを見るな――。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。もうそんな視線に哂い声に晒されるなんて嫌だ。無駄な努力を重ねるのだって疲れた。いちいち何か失敗する毎に哂われるのだって慣れる訳が無い。ずっと嫌だった。怖い――あたしを嘲笑う声が怖い。
世界がぐるぐる回っている。不快だ。気持ちが悪いから耳を塞いだ。それでも哂い声は消えない。無力だと誰かが哂っている。あたしでは二ナを助けられないと、全て無駄だと。その通りだ。助けたいのに助けられない。大切な友達が殺されそうなっているっていうのに――。
「くそ……! くそ……! ふざけんなよ……! どうしてあたしは……!」
――どうしてあたしにはいつも何も出来ないのだろう。
唇を強く噛み締めた。悔しさを紛らわすために何度も噛んだ。
「――そんな事はありません」
突然誰かの手が、耳を塞いでいるあたしの両手を優しく握り、ゆっくりと外した。
何でだろう。嫌な哂い声は――消えている。代わりに逃がした筈の彼女の声が聞こえた。
「……矢張りそんな顔は貴女らしくないですね」
何故彼女が此処に居るのだろうか。
「ティ……ナ……?」
包む手は温かく、心臓の鼓動がひしひしと伝わってくる。
「一人では怖いですか」
鈴のような声が耳元で囁く。背後に彼女の気配を感じる。次第に彼女の温もりが指先から染みてきた。
「……怖いよ……とっても怖い……」
彼女の問いかけに真っ先に出た言葉がそれだった。怖くて何も出来ないかも知れない。意味が無いかも知れない。でも――それでもあたしは――。
「でも……二ナを、あたしの友達を助けたい……」
――漸く言えた。体の震えは既に治まっている。
「それを聞いて安心しました」
あたしは意を決して振り返った。そこには相変わらずの無表情のティナの顔があった。
「逃げて――無かったの……?」
「私も駄目でした。貴女を見捨てる事なんて出来ません」
「ばか……」
「それはお互い様ですよ」
音の戻った世界であたしは笑った。何だか泣いてしまいそうだったけど我慢した。
「――さて、その辺で茶番は終わりにしてくれるか? そろそろ首を落としたいのでな!」
アルマティの低い声が薄らいだ闇に響き渡った。
「二ナ……ッ!」
ぐったりとした二ナの姿が夜天に浮かぶ。声すらもまともに出せていない様だ。
どうする。もう攻撃系の術式は――。
考えあぐねていると、突然ティナに袖を引っ張られた。
「心配ありません。彼はやる男です」
「か、彼? それ、誰――」
嫌な高笑いが空気を震わせる。アルマティが哂っているのだ。
「さぁ……よく見るがいい――」
その時――。
「――っく……!?」
突如として赤い翼がふらふらと揺らぎ始めた。強い風――それによって煽られているのだ。体の均衡を崩したアルマティの手の周囲で風が吹き、彼女の手から二ナを奪うように強く逆巻いた。赤い手甲を嵌めた手から二ナが離れていく。アルマティは取りこぼした獲物を再度捕まえようと手を泳がせたが、風に姿勢を崩され、まともに羽ばたく事すらもままならない。
「何……! 誰が……!」
「――やっぱりこっちは効くんだな……!」
聞き覚えのある声――アズルの声だ。横を向くと、少し離れた所に、血だらけの――いかにも立っているのがやっとだという感じのアズルが見えた。
「小僧……! 貴様何故……!」
「何故魔法が効くか――って? 君が自分で言ってたんじゃないか……! 『天使の作った魔法は天使に効かない』って……! ご生憎様……僕が今使ってるのは、悪魔魔法だ……!」
風に掴み取られた二ナの体が地面へと静かに着地する。
アズルはこちらを向くと大きな声で言った。
「今の内に! あんまり長くは押さえられない……!」
「ア……アズルぅぅ……お前何で……」
彼の顔を見た途端に、安堵感からか、眼の端に涙が滲んできた。
「女の子が頑張ってんのに寝てる訳にもいかないだろ……ッ! ほら! 泣くのは後……!」
彼はこちらに向かって頷いた。それにあたしも頷き返す。そしてティナに向き直った。するとティナは何を思ったのか、昨晩のように自分の胸元にあたしの手を引き寄せた。
「あっ、ちょ……! なっ、何すんの!?」
心臓の鼓動が掌から体へと流れ込む。それは自分の心臓の音と少しずつ重なっていった。
「私の心臓を貸します」
「心……臓……?」
「心臓です。申し訳ありませんが、今の私ではアルマティに太刀打ち出来ません。ですが、貴女ならば――貴女のその膨大な魔力放出があれば、起動出来る筈です」
白銀の光がティナの胸の中心から漏れ出す。次の瞬間、あたしの掌の中に何かが形成され始めた。最初に黒色の中央に赤く太い線の入った握り手が。次に銀色の粒子が固まり、星のような輝きを持つ長方形の金属の固まりになった。それは握り手に対して横になるように付いている。そしてその長方形の金属塊の中心には、手の平大の真っ赤な球体が収まっていた。
紅い球体はまるで炎に包まれた紅い心臓のように脈々と鼓動を打っており、内部で歯車のようなものが忙しなく動き続けている。
「な――何だこりゃ……」
握り手はしっかり握ると手に馴染み、人の体温のような温かさを感じた。人差し指がくる部分は出っ張っており、指を差し込めるようになっている。指を差し入れると可動する部分があり、そこが人差し指で引けるようになっていた。試しに引いてみたが何も起きない。長方形の金属の固まりの正面には小指程の太さの穴が空いていて、指を差し込んでみたが矢張りこちらも何も起きなかった。
「――天機銃ラーフィル。それの名です」
天機銃と呼ばれた、月の光を照り返すその物体を、あたしはしげしげと眺めた。
「これ……どうすればいいの……!? 投げんの……!?」
「投げては駄目です。その引き金に指を掛けて――ああ、今人差し指が掛かっている所」
ティナはあたしの手に自分の手を添えた。
「そこを引き金と言います。そこを人差し指で引いてください」
さっきと同様に指を引いてみる。何も――起きない。かちりという音がするのみだ。
「……何も起きないけど……」
「ええ、魔力を変換していませんから。それはユーリの魔力を変換して使うのです。とりあえず魔力を籠めてみて下さい。あ、ちなみに先程ユーリが小指を入れていた部分は銃口と言って、危険な光線の出る場所ですから、決して指などを入れないように」
ずいとあたしに詰め寄り、ティナは若干怖い顔で言った。
「お、おう……ごめん……って危険な光線って何だよ……!?」
「………………危険です」
ティナは暫しの沈黙の後、顔を逸らした。とにかく――危険らしい。
天機銃を手の中で握り直していると、怒号が耳を劈いた。
「貴様ら……! 随分と悠長にやってくれているな……! 人間風情が私を舐めるなあぁッ! 大地よ踊れ! 奴らを潰せ!」
岩々が再び浮上し、見ることの叶わない風の檻をかき乱し、打ち壊していく。
――気付いた時には、目の前に唸る巨岩が迫っていた。
「あ――……」
死ぬのだろうか。時が遅くなっているような――そんな風にゆっくりと時が動いていく。
「――死なせませんよ」
岩肌に白い線が、二つ――それだけで巨岩はあたしを避けるように四方へと散らばった。
「……怪我はありませんか……」
絶え絶えの息を吐きながら、ティナは弱弱しく輝く白い光剣を地面に突き刺した。杖のようにティナの体を支えていた光剣は、何回か明滅すると、白銀の粒となり、最初から無かったかのように消えた。
「ティナ……。あっ……!」
支えを失ったティナの体が荒れ果てた地面へと倒れていく。あたしは咄嗟に手を突き出し、彼女の体が地に着く前に受け止めた。
「……行って下さい。時間がありません……」
「で、でも……。あたしのせいで……!」
額に珠のような汗を浮かべるティナを放って置くことなど――。
ティナはあたしの頬に手を当てた。
「……大丈夫。貴女なら……。ユーリ……貴女にも翼はきっと生えている」
ティナの言葉を聞いた瞬間、胸の奥で焼け付くような熱さを感じた。
心臓に火が点いたような――心が燃え上がるような、熱っぽくて心地のいい感覚――。勇気なんて臭過ぎるが、それに近い感情が自分の底から湧き上がってくる。それが何と言うのかは知らない。だけどこんなのは――初めてだ。
一度だけ――今だけは自分を信じてみよう。ここまで言われて立ち止まるなんて、女が廃る。
ティナの体をゆっくりと寝かせ、自分の両頬をいつもより強めに叩き、気合を入れた。
「……行ってくる……!」
「それでこそ、ユーリらしいというものです……」
空を睨む。風は弱まっている。赤い眼光が黒い空に禍々しく輝く。
「――あぁぁああぁああぁぁッ!!」
アルマティの絶叫に呼応するように岩石が不規則に動く。流れを断ち切られた風は一気に拘束力が弱まり、空に縛り付けられていた赤き翼の天使は動き始めた。
魔力を天機銃に籠めてみる。
『過大魔力放出感知、認証完了、変換開始――二十パーセント――……』
ティナの声に似た音声でのカウントダウンが始まった。それを合図にあたしも走り出す。
『――四十パーセント――六十パーセント』
相手は身動きを完全には取れていない。ならば間合いを出来る限り詰めて、確実に当てる。
「風よ固まれッ!」
紫魔法で空気を圧縮し、魔力で固定させる。そうして出来た足場にあたしは飛び乗った。
『――八十パーセント』
聊か大き過ぎるが、落ちなければ問題は無い。
「風よ固まれ、風よ固まれ、風よ固まれ!」
今ある足場と同じような足場を、連続で空中に作っていく。不安定な空気の固まりは、足を進める度に解けていきそうだ。だが、止まっている暇なんて無い。ただ前だけを目指して天空を――風の階段を駆け上がる。
「げっ……!」
次の足場を形成した瞬間、紫魔法の術式が壊れてしまった。もう後には退けない。
――止まるな――。
心臓の鼓動が大きくなる。
――止まるな――。
息は早くも荒くなり、足が棒のように硬くなった。
――立ち止まるな――!
恐怖を振り切るように、駆け抜ける――。
「――人間如きが……! 私と同じ高みに立つなッ!」
夜空から勢いよく降って来た岩石があたしの右横を掠めた。アルマティの魔法だ。
視界が揺れる。固めた空気が圧倒的な質量を持つ岩の固まりに乱され、足場が崩れていく。
不味い。このままじゃ落ちる。もう紫魔法で空気の足場は作れない――。
その時――強い上昇気流があたしの体を下から突き上げてきた。風が吹き上げて来た方向を見ると、魔力を消耗し過ぎたのだろう、地面に倒れたアズルが掌をこちらに向けていた。
「――ユーリ! 思いっきり飛べッ!」
あいつに後押しされるように――強い追い風に背中を押され、遥か上空へと舞い上がる。
雲すら下に見える空の奥――真っ黒な夜空には無数の星々が不規則に並び、喪服のような色の空を華麗に着飾らせている。その神秘的な光景にあたしは夢中で眼を瞠った。
『――百パーセント。変換完了――』
落ちていく直前の浮遊感――それと共に、あたしは天機銃を両手で構えた。
『――紅の流星――発射可能です』
不吉な翼の羽ばたきが近づいてくる。落下していきつつあるあたしの正面に、幾多の巨岩を従えた赤い天使が現れた。天使は黒い光剣を一振りして、苛立たしげに叫んだ。
「何をしようが無駄だ……! お前の魔法は届かないと言っている!」
怖いけど――さっきより心は揺さぶられない。それはこの握り手の感触に、ティナの手を握った時と似たような温もりを感じるからなのか。それとも、天機銃の中央に収まる赤い球体の鼓動が、ティナの心臓の音にそっくりだからなのだろうか。何にせよ一つだけ分かる事がある。それは彼女は、今、あたしと共にいるという事だ。
「――いーや……今度は届いた……!!」
やっと二ナの言っていた言葉の意味が呑み込めた。あたしの心を縛り付けて離さなかったものは、他人の雑言などではなく。あたし自身であったのだ。自分の殻は自分で破るしかない。自分を信じて一歩踏み出さなければ、硬く厚い殻は破けないままなのだ。アズルや、二ナ。そしてティナの存在がなければ全てを諦めてしまっていた。だけど皆はあたしに言ってくれた。夢は叶うと。自分を信じろと。自分は自分らしくあっていいのだと。
決して一人じゃない。あたしは自分を信じてくれている人達と共にこの引き金を引く。
自分を信じろ。心臓を燃え上がらせろ。もう――迷わない。
「ふッ飛べっ!!」
『心臓』から赫灼とした、紅の炎が吹き上がった。
銃口から光が迸り、紅い輝きが瞬く間もなく視界を多い尽くす。紅色の燐光は空中に浮かぶ岩石を悉く無へと返し、アルマティすらも包み込んだ。
「何だこれは……! 銀翼……! 貴様この娘に何を!」
アルマティは耐えた。しかし数秒も経たない内に黒い光剣の輝きは失われ、砕け散るように消滅した。そして赤い翼の天使は音も無く紅い光へと呆気なく飲み込まれていった。
「……私が……人間な――っが……ぁあッ……! お許し……ください……父様――……」
赤い天使が最後に発した声――それは特別に痛々しい、悲痛な声として聞こえた。
「っはぁ……! っはぁ……! はぁ……!」
静寂が満ちていく。星明りを映す銀色の天機銃は役目を終えたかのように手の内から消え去った。宙にはには赤い羽根がゆらゆらと泳いでいる。全て終わったのだ。あたしは落ちていきながら空へと視線を遣った。紅い閃光の勢いは未だ止まらず、星空に紅色の光線を曳いている。それは昔見た、空を翔る流星の様で美しかった。
「……た……倒……うおっしゃぁっ! よくやったぞ、あた――」
喜ぶ間も無く気が遠くなった。
「……し……っ」
過ぎ去る風が耳元に纏わり付く。魔力を一気に失った虚脱感。どうしようもない眠気が頭を鈍くさせる。地上が段々近づいてくる。
このまま落ちてしまうのだろうか。それは――嫌だな。せっかく色々と変わり始めたのに――二ナにも、ティナにも、アズルにも何も言えないまま死ぬなんて。
ぼすんという優しい衝撃が体に響いた。死とはこういうものなのか。案外痛くないものだ。
瞼はしっかりと閉じている。自分の死に姿など見たくない。おそらく眼も当てられない肉塊になっている事だろう。ここは大人しく死神を待つのが得策というものだ。
「――はぁ……危機一髪だ……」
顔の近くで声が聞こえた。これが死神の声か。何か聞き覚えがあるが、他人の空似だろう。にしても危機一髪とはどういう事だろう? 魂を取り逃す的な意味なのだろうか?
「あれ君、太った?」
「ん? ああ、でもそれは誤差の範囲で」
そう誤差の範囲なのだ。決して太ってなどいない。断じて太っていない。名誉にかけても――ん? 死神ってこんなプライベートな問題に踏み入ってくるものなのか?
何かおかしい気が――。
「本当に誤差なのかなぁ? 僕にはそうは思えないけどなぁ?」
これは確かめなければいけない。あたしは恐々としながら瞼を開いた。真近に血に塗れたアズルの嫌みったらしい笑顔がある。よし、とりあえず殴ろう。
「あっち向いてほいっ!」
「拳で!?」
残念ながら、最後の力を振り絞って突き出した拳は、すれすれの所でかわされてしまった。それではむかっ腹が治まらないので、腕を彼の背中に回し、思いっ切り抱き付いてやった――。
「おいおい……今頃怖くなったのか?」
「うるさい。黙って抱きつかれろ……」
思いっ切り、全力で――絞め殺すように抱き付いてやった。それはあたしの勝利を表す。
「やっぱ怖――……あ!? 骨ぐあああああ!?」
アズルはあたしを抱き抱えたまま、地面へと倒れた。律儀にも落とさないでくれているのは偉い。出来る事なら褒めてあげたいが、肝心の彼が白目を剥いているので止めておく。
「――ユーリ……」
傍にティナに支えられた二ナが立っていた。あたしは立ち上がり彼女達の方へと歩み出た。
何か靴の底で踏んだような感覚を感じたけど――まあいいや。
「……飛べましたか?」
ティナは開口一番にそう言った。今なら自信を持って答えられる。
「……うん。あんた達のおかげだ!」
次にあたしは二ナの方を見た。最初は視線を合わせるのも恥ずかしい気がしたが、少しずつ慣らす様にして、彼女を直視した。
「二ナ……あたし……えっと…………もう……き、気にしてないからさ……」
「………………」
無言の彼女は瞳に溢れんばかりの涙を溜め、暫く真面目な顔で沈痛な表情をしていたかと思うと、急に小さい声を出して泣き出し始めた。
「ど……どうしたんだよ……! お、おい……泣くなよぉ……」
どうしたものか。一先ずあたしは気休め程度に、真っ赤になっている二ナの手を握った。
「……だって……! ……だって嬉しくて……!」
真珠のように光る涙が手の甲に落ちていく。心から汲み取った雫は堪らなくは温かく、あたしの悴んだ手はそれにゆっくりと溶かされていった。
「あははは……泣き虫な所は成長してないのな……」
二ナの顔を見ていたら、こっちまで顔が熱くなったきてしまった。
「貴女だって……。人の事……言えないでしょ……」
胸の奥に溜まり、沈殿していた黒い澱のようなものは、何時の間にか消え去っていた。天機銃が放った紅色の光と共に吐き出されてしまったかの様だ。数年の時の隔たりすら忘れて、あたしと二ナはお互いにみっともない笑顔を向かい合わせた。
「うわっと……」
安心したら腰が抜けた。後ろに下がるように尻餅を着いたので腰に響くかと思ったが、下に柔らかい物体があり、それが衝撃を吸収してくれたので、然程衝撃は感じなかった。何か尻の下から苦しそうな声が聞こえたようにも思えたけど、おそらく幻聴だろう。
「……ティナ、ちょっといい?」
あたしはティナを呼び寄せた。今の内に言いたい事があるのだ。
「何でしょうか」
彼女が来てから、何もかもが変わった。もしかしたら、彼女が来なければ何も変わっていなかったかも知れない。やっぱり――あの時の胸の高鳴りは間違いじゃなかった。
「……あのね――ティナがよければなんだけど――……その……あたしと旅に出ない?」
ティナは首を傾げた。無理もない反応だ。いきなりこんな事を言われたら誰だってこうなる。でも、一応聞いておきたかった。一緒に来るのも来ないのも彼女の自由だ。記憶を失っている以上、彼女の未来はまだ定まっていないと言っていい。それなら――一緒に来てもらうのもいいかもと思ったのだ。誰でもいい訳じゃない。あたしはティナに――錆び付いた心に油を注してくれた恩人に来て欲しい。
束の間の静寂が訪れる。あたしは期待感と緊張感とが綯い交ぜになりながら彼女の返答を待った。
「……旅ですか。いいですよ」
断られる――と思っていたら、意外にもすんなりと承諾された。
「ええええっ? そんなあっさりと!?」
提案した方が驚くというのも間の抜けた話だが、正直、吃驚した。
「どの道、此処に留まっていても仕方がありません――アズルから聞きましたよ、貴女と見る夢は愉しそうです。断る理由などありませんよ」
夢――か。呪いのように忌まわしかったその言葉が、今は希望に満ち溢れたものに思える。
踏ん切りはついた。もう迷う事は無い。
「え――……じゃあですね……よろしく――」
あたしが言い終える前に、地面から幾つかの影が立ち昇った。
「今度は何だ……!?」
影は人の形となり、おぼろげなその姿を明瞭な人間のものへと変化させた。それぞれの服装にあるのは、薄い羽と黄金の杖――近衛魔道師特有の紋章だ。
まさか彼らは――ティナを――。
一番近くに現れた襟首の高い青竹色の上着を羽織っている老年の近衛魔道師が、ジロリと、やけに強い眼力の籠った視線を寄越してきた。あたしはそれに負けじと睨み返した。
「――貴殿がユリア=クロスウェルスか。教皇がお呼びである。ご同行願おう」
「はい……? あたし……?」
どういう事だろうか。ティナではなく、あたしが呼ばれている?
「うむ、そうだ。どれ、今緑魔法で傷を癒してやろう。嫁入り前の娘に怪我をするなど言語道断である。……其処の三名の若人達の治療を優先せよ! ぼんくら共の治療は後回しだ!」
他の近衛魔道師に指示を出し、厳顔で年配の近衛魔道師は跪いてからこちらに手を翳した。
「あ……ありがとうございます……」
緑の光があたしの傷を癒していく。慣れているのだろう、数秒も経たない内に痛みが引いた。
治療が終わると老年の近衛魔道師は立ち上がり、あたしに手を差し出した。
「やれ……若輩と言えど、我ら近衛魔道師が、このような醜態を晒すとな……。嘆かわしい……。いっそ貴殿が近衛魔道師になった方が世の為になりそうだ……。どうだ?」
こちらを見る鋭い目付きは、歳を重ねた鷹のようだ。あたしは差し出された手に掴まり、かなり引き攣った愛想笑いをしながら立ち上がった。
「あははー……どうだと言われましてもー……」
白い髭を蓄えた魔道師は死屍累々たる周囲の惨状を眺め回し、慇懃に一人頷いてから、いかにも残念そうに立派な髭を撫で、溜息を吐いた。その横顔には苦みばしった苦労と哀愁が漂っていた。
<17>
柔らかい月の落涙を一身に浴びる蒼い闇の渦中では、冬の面影を残した迅風が吹き荒んでいる。冷たく厳かに蒼黒を滑る風は何処へかと消え始めており、春がもうすぐそこまで来ている事を暗に示している。そこを流れる淡く薄い雲は星や月のえも言えぬ輝きを一切妨げず、より一層くっきりと際立たせていた。影がある故に光は強まり、よりその存在を揺るがぬ確固たるものとするのである。相容れぬからこそ、潔癖な光と野卑な闇は他の色よりも特別に気高く、孤独であるからこそ二つの色は美しい。
星々を平等に呑み込み、引き立てる闇、そして夢との溝を薄れさせる朧げな光に挟まれ、魔道都市キールソミヤの夜景では、見る者を圧倒する巨岩城――魔道教皇アミュレリアの居城である『空飛ぶ巨岩』が悠々とその身を星空に任せ、地上を見下ろしていた。
『空飛ぶ巨岩』に門は一つしかない。それも一国の女王が住まう門に相応しいものではなく、ニ、三メートル程の小さな門が岩肌の僅かなスペースに苔のように付いているのみである。其処に足場はなく、何らかの方法によって空中に足場を成形しなくては門の前に立つ事すら叶わない。だがそれさえ可能であれば、城内へは容易に侵入出来てしまう。魔道師を多く輩出する国家として名を馳せるキールソミヤだが、隣国でも魔道師を擁するこの情勢を考えた場合、この警備体制は聊か無用心であると一般的には思われている。
――が、この物々しさすら感じる岩の宮殿は、魔法に心得のある者達からは『魔窟』と形容されている通り、侵入さえ簡単であれど、出る事は至難の技である。故に盗人達は口を揃えて言う、『教皇の城に盗みに入るという事は、自死を選ぶ事と同義語である』――と。
そのような物騒な噂の絶えない居城の、鉄で出来た簡素な門を潜ると、一転して壮麗な広間へと出る。広間には蔦のように煌びやかな金の装飾が所狭しと張り巡らされており、壁面は眼が覚める程に白く、一点の曇りもなく磨き上げられている。視線を上へと遣ると、鮮やか筆が冴え渡る美麗な天井絵が大空の代わりに城内を昼夜を問わず照らしていて、それを細かな浮き彫り装飾を施されたアーチが支えているのが解る。広間の宙では虹色の胡蝶と純白の小鳥達が舞い遊び、四季折々の花が、七色の光と共に雨のように降り注ぐ。
華やかに。優雅に。自然と人工物の共存した狂った空間は訪れた者を無言で出迎える。贅を尽くしているのにも関わらず、いやらしさを全く感じないのは、それに相応しい主に仕えているからなのだろうか。
絢爛な大広間を抜け、更に進むと長い中廊下に入る。広く、清浄な雰囲気を感じる廊下の脇では、今にも動き出しそうな大理石の彫像が通る者を睥睨している。
流動するように形を変え続ける奇妙なシャンデリアの黄金の光を浴びながら、ユリアは教えられた道順を頭の中で反芻しつつ、老年の近衛魔道師に言われた通り一人でアミュレリアの待つ場所へと不安そうな表情で歩み進んでいた。幾ら男性並みに肝が太い彼女とはいえ、こうも得体の知れない場所へといきなり放り込まれては戸惑いの色を隠しきれない。何処からともなく聞こえる声を潜めた会話や、時折感じる何者かの視線、更には振り返る度に変化している背後の景色を見る限り、どう考えてもまともな城ではない。先程など、天を衝く立派な角を持つ一角獣がユリアに対して頭だけで会釈をして通り過ぎていった。
最早何がまともなのか判らない中で、彼女は床に伏して眠りに就いている尾が三つある雄雄しい毛並みの虎の横をびくびくと通過し、その奥にある、枠組み以外の全面が硝子で出来ている小さな扉を恐る恐る開いた。扉の先は一切の光が無い漆黒の闇が渦巻いている。ユリアが足を踏み入れると扉は閉まり、最初から其処には何も無かったかのように消えた。
後戻りは出来ない――と、ユリアは勇気を振り絞り、先の見通せぬ闇の中を進んだ。地面の感触は硬く、足音を大きく反響させる。
暫く歩いていると、暗がりの中心に紫、青、そして緑の光が揺れ漂う幻惑的な光景が見えてきた。蛍が飛び交っているかのような闇に残滓を残す光だ。
それは暗中にぽつんと唐突に建てられている白い小屋から発せられていた。小屋に壁はなく、天井と簡単な柱のみで、入り口らしい入り口もない。適当な柱と柱の間から中に入るのである。
近づくにつれ、小屋の周囲を浮遊する光の粒子は濃くなり、鮮明になっていく。小屋の内部には空間の殆ど占領している白い丸テーブルがあり、装飾のない光沢のある菜の花色のドレスを身に纏った品の良い美しい婦人がテーブルと対になっている椅子に腰を下ろしている。小屋の前にまで来たユリアが美麗な婦人に声を掛けようかと迷っていると、銀髪を結い上げた婦人は視線を上げ、ユリアを中へと手招いた。
「――ようこそ、ユリア=クロスウェルス。さあ、中にお入りなさい」
「あ……は、はい……!」
ユリアは手と足が同時に出ているようなぎこちない動作で柱の隙間から中へと入り、婦人の前で石の立像のように背筋を伸ばして固まった。
「あらあら、そんなに畏まらなくてもいいのよ。楽な姿勢でお掛けになって」
おずおずと椅子に腰掛けるユリアを見た婦人は、柔和な笑みを顔に浮かべた。
「ふふ……甘いものはお好きかしら。ちょっとお待ちになって」
婦人がそう言って指を軽くニ、三度鳴らすと、三段に重なった銀のトレイがテーブルの上に現れた。スリー・ティアード・ケーキ・スタンドと呼ばれるものである。それぞれのトレイには、一段目に桜色のサーモンが乗ったカナッペや、食べやすい大きさに揃えられた一口大のサンドイッチが、二段目に色彩豊かなきめ細かく作られた甘いケーキ類が並び、三段目に桃のムース、デコレーションされたクッキーなどがある。見れば紅茶のポットと二つのティーカップまでが既に用意されている。
正に魔法だ――と、ユリアは大きく息を呑んだ。自分が知っている魔法とは何もかもが違う。
「すっげ――じゃなくて………すごい……です……」
美しい婦人は、紅茶のポットを手に取り、カップに紅茶を注いだ。
「これが私達の時代の魔法なのよ。限られた者だけが使える神秘――それが魔法ってね。さて……改めて自己紹介をしましょうか。私は魔道都市国家キールソミヤが女王、アミュレリア。貴女の噂はかねがねゼナロエムから聞いているわ。ユリア」
かの魔道教皇――アミュレリアは微笑んだまま、見様によっては老婦人とも、若い三十前後の婦人とも取れるような判別付かぬ顔でユリアを真っ直ぐ見据えた。
「先生から……ですか?」
渋い色の紅茶を注いだカップをアミュレリアはユリアの方に置いた。
「ええそうよ。ゼナは私の弟子ですから。だから貴女は私の孫弟子になる訳ね」
口元を押さえながらアミュレリアは翡翠色の瞳を輝かせて可笑しそうに笑う。そして一頻り笑った後、アミュレリアは気を取り直したかのように口元を結び、真剣な表情となった。
「それはともかくとして――まずは謝らなければなりませんね。結果がこうなったから良かったものの、貴女を危険に晒してしまった。心よりお詫びするわ、あれは私の責任です」
「い、いや、そんな事は……! ……あの……それよりもあの赤い天使は一体……」
ユリアとしては、あのアルマティという赤い眼の少女が気になって仕方が無いのだ。あれだけティリナと容貌が似通っているとなると、無関係とは到底思えない。
教皇は一度口を閉ざしてから、一呼吸置いてから再度口を開いた。
「……天使……ね。……あれは天使ではありません。天機と呼ばれる者です」
聞き慣れない言葉にユリアは眉を顰めた。
「天機……? 天使じゃなくてですか?」
「……この国――いいえ、この大陸に伝わる神話は知っているかしら?」
「はあ……まあ一応……」
「天と魔と精霊――それによって世界は支えられている。天機と言うのはそこに加わる四つ目の要素。神が創造し、地上に送り込んだ三つの光。一つは神の『愛』を。一つは神の『言葉』を。そして三つ目は神の『形』を。これが三つが天機という物――本の中にあったでしょう、三つの光が三角形を描いている図がね。あれが天機を表しているのよ」
ユリアの頭の中にティナに見せた絵本の図が蘇った。
「それじゃあ……アルマティはその天機ってやつ……」
「そうね、大きな枠組みの中で言えばそうかしらね。だけど天機はこの世に三体しか存在しないの。あれは――あのアルマティと名乗る天機はオリジナルではない。天機のオリジナルの一体が作った贋作よ。オリジナルはへイルダル神国、ユーラッタ騎士連合国だけに居る。……それとに貴女のお友達――今はティリナと言ったかしら。その三体だけ」
「ティナが――天機……!? 本当なんですか……!」
眼を見開いたユリアはテーブルに両手を着き、前のめりになりつつ尋ねた。
「そう――彼女は紛れもなくオリジナル……。それは私がよく知っている……。貴女達を襲った天機もどきは、天機の一体が他の天機を壊す為に差し向けた尖兵、アルシャスプンタという者達ですね。あれらは全部で七体いて、アルマティはその四番目よ。……皮肉だけどアルマティの原型はティリナなの」
言われてみれば、確かに似ているかもしれない――とユリアは思った。髪の色や、翼の色は違えど瞳は同じ、厳密には明度の違う『紅』と『赤』だ。
アミュレリアは遠くを見るように顎を上向きにした。何処を見ているのかも分らない彼女の瞳は、果てしなく遠い景色を見ている様であった。
「……悪い事は言わないわ。彼女と――銀翼と関わるのはもうお止しなさい。それが貴女のためでもあり、彼女の為でもある。彼女は天機。貴女は人間。一度関わってしまえば運命は貴女達を悪戯に傷付ける。……私に貴女達を守る事は出来ない。運命に手出しは出来ない。引き返すなら今の内です」
ユリアは俯き、肩を竦ませながら暫く動かなかった。だが、嫌な考えを振り切るように首を大きく振ると、アミュレリアの方を確りと見返した。
「……それは――出来ません……。あたし決めたんです……あの子と一緒に進むって……。あの子が何者であろうと関係ない、ティナはティナです。天機だか何だか知りませんけど、あの子はあたしの友達なんですよ、よく分りませんけど、関わるなっていうのは無理です……!」
頑なな表情で言葉尻を結ぶユリアに迷いなど無かった。ユリアはティリナと出逢った瞬間に彼女と関わる事を決めたのだ――星降る夜に。
彼女の言葉を聞いたアミュレリアは、静かに瞼を閉じ、やんわりと微笑んだ。
「――矢張り……一度回り始めた歯車を止めようだなんて無粋でしたね……」
ユリアは困った顔で大きく首を捻った。アミュレリアは手元にある自分の手前にあるカップに視線を落とし、枯葉色の水面の底を何故か懐かしそうに眺め見ている。
「は、歯車……?」
風に舞う雪のようなふわりとした光がアミュレリアとユリアの間を通り抜ける。
「さあ――いずれ解るんじゃないかしら――。……ああ、ところで貴女、ワルンベル=クライトに近々弟子入りするとゼナから聞いているのだけれど、支度はしているの?」
ふいに顔を上げたアミュレリアは思い出したようにそう言った。
「……? そうですけど……一応まだ保留にしてもらってます……」
「ゼナが言ってましたよ。彼女は絶対にワルンベル=クライトの許に修行に行くって。私もいいと思いますよ、魔法はもっと公に広まるべきですからね、教皇としても大いに応援します。もし貴女が国益を齎す人材だと判断できた場合、それなりの褒賞をあげましょう」
「マジっすか! あ……じゃなくてマジですか! 丁度決心が付いたところなんですよ!」
思わぬ言葉に、ユリアは声を大きくして腰を浮かせた。それを『まあまあ』と宥めたアミュレリアは、妙に嬉しそうな表情で続けた。
「ええ、本当よ。勿論それで諍いが起きるのは避けられないでしょう。でもね、それは発展のための礎でもある。貴女のような志を持つ者が現れたという事は、そろそろその変革期が来ているという事なのですよ。……ふふ、貴女を見ていると自分の若い頃を思い出すわね。昔は私も迷いながら、夢を捜して色々な国々を旅したものよ。聞けば貴女には面白い才能があるらしいじゃない? 魔力の放出が強いのですって?」
若干ユリアの表情が不貞腐れたかのように曇った。
「あれは――才能なんかじゃありません……」」
「いいえ、才能よ。その才能が無ければ天機銃を起動させる事は出来なかったわ。並みの魔術師ではあれを撃つ事は不可能――勢いが足りないのね」
「え……何で知ってるんですか……? 天機銃の事はまだ誰にも――」
「さて、何でしょうね。耳がいいからかしら」
アミュレリアは眼を細めてユリアに笑いかけた。ユリアはその得体の知れない笑顔にぞくりとした悪寒を覚えた。
「いいですかユリア、人間の欠点は時として長所にもなるのですよ。その欠点――いえ……長所ね、それを活かすか殺すかは貴女次第……。銀翼のように貴女の長所を活かしてくれる存在が現れたという事は決して偶然ではない――それは運命です」
「運命……ですか」
「そうよ――運命。もしその運命が気に入らないのなら、私の許で修行でもしますか。貴女なら十分な素質は持っている。そうね、百年ほど修行すれば、欠点なんてさっぱり消えてしまうわ。どうします? 意外とこっちの運命もお勧めですよ?」
「ひゃ……百年はちょっと――……。あたしはティナとの運命が気に入ってますし……」
「うふふ……やっぱりそう言うと思いました」
微笑んだアミュレリアが指を振ると、三段トレイに盛られた華やかなケーキが二枚の皿に独りでに盛られていく。一通りケーキを乗せ終えた皿はアミュレリアの目の前に静かに着地した。
「……うん、そうね――貴女も旅をしながら、ゆっくり世界を見て回るといいわね――」
アミュレリアは眼前のケーキの乗った二つの皿を見比べ、ユリアに『どっちがいい?』と訊いた。その手にはしっかりとフォークが握られており、顔は少女のように綻んでいた。
<18>
色を付けた硝子玉のような光が浮き沈みする中、魔道教皇アミュレリアは静かに冷めた紅茶を啜った。白い丸テーブルの向かい側には、既に先程まで同席していたユリアは居らず、アミュレリア一人のみが空虚な光の満ちる空間に座している。彼女が中身が半分ほど減ったティーカップを机上に置くと、ふいに小屋の外の暗闇から単調な――それも男女の判別すら付かない奇妙な声が木霊した。
「――冷めた紅茶ほど不味いものは無いぞ、アミュレリア教皇」
声と共に只ならぬ気配がアミュレリアの居る小屋の外に現れた。その気配に静謐な暗黒はざわつき、荒天の海のように揺らぎ、唸り、荒れた。
「……こんな夜更けに一体何の御用でしょうか、法王」
応対するアミュレリアの口調はユリアの時と違い、恐ろしい程に冷たく、無感情である。
「ご挨拶だな。何――娘が家出してしまってな――お主、居場所を知らぬか?」
事も無さげに単調な声は言う。
「あら……過保護ですのね。年頃の娘さんなら、夜遊びも嗜みの範疇でしょうに」
微笑を顔に貼り付け、アミュレリアは銀色の三段トレイに残っているクッキーを摘んだ。
「夜遊びが過ぎて、身を滅ぼしてしまっては元も子もあるまい」
「それを焚き付けたのは貴方でしょう? いい加減にその胡散臭い口調をお止めなさいな」
アミュレリアは微笑を消し、威圧感のある視線を小屋の外の暗闇へと向けた。
「……はははははははははははっ!」
先の見えぬ暗闇から返ってきたのは、先程とは違う子供のような声であった。
「それはお前も同じでしょ? アミュレリア。その婆臭い姿をどうにかしなよ、みっともないからさあ。何で好き好んでそんな姿で居るかなぁ?」
嘲るように、何処から響いているかも判らない声は暗色の中を駆け巡る。
「これも私の姿ですのよ。貴方のように自分を偽ったりしないわ、それこそみっともない。……それで? 用件があるなら、早く仰って下さらならないでしょうか」
翡翠色の眼を鋭く光らせながら、切り捨てるようにアミュレリアは言う。すると――。
「――あのユリアとか言う娘に、お前は一体何の魔法を施した?」
闇の向こうから聞こえてくる子供のような声は、一転して高圧的な声色へと変化した。
「さて、何の事でしょうか。私は彼女と一緒にお茶をしていただけですよ」
「とぼけるな。アルマティの反応と共に銀翼の反応――そして契約者であるあの娘の反応も消え失せた。このような魔法は貴様しか使えないだろう、『傍観者』よ」
ふてぶてしい口調である。傲慢という概念が意思を持ち、勝手に口を開いているかの様だ。
「人聞きの悪い事を仰りますのね。私は自分の国の民を守っただけ――それのどこが悪いのですか。ねぇ、『裁定者』――貴方が私の民に手を出すのをみすみす見過ごすとでも?」
対峙するアミュレリアは涼しげな声音で、上から圧し付けるような声を受け流した。
「ふん……小娘風情が随分偉くなったねえ? 変われば変わるもんだ」
「何一つ変わらない貴方よりはマシでしょう。今回貴方がした事は、役割を持つ者としては、すれすれの行為――もしかしたら『執行者』が来るかも知れませんわ。いいえ―ーもう来ているかも――」
「それは――脅しのつもりか?」
「貴方は彼らを恐れている筈ですが――違ったかしら」
重苦しい沈黙が場に広がった。張り詰めた空気が空間の光と闇をより明確に乖離させる。
「……いずれ居場所は突き止めるよ。その時は君の民とやらも死んじゃうかもね」
先に鈍重な沈黙を破ったのは、子供のような声の方であった。
「死にませんよ。彼女は運命に愛されてますもの」
「神に運命が通用するかな? ……さ、僕は帰るよ、今後の準備もあるし――」
「……おや、もうお帰りに? ご自分の娘さんは宜しいのですか? 捜していたのでは?」
「使えないのなら、出来損ないの紛い物なんていらないね」
まるで最初から『娘』の事など口実であった事を示すかのような興味の無い口調である。それを聞いたアミュレリアは薄っすらと眼を細め、小屋の外の漆黒を意味ありげに一瞥した。
「くれぐれも娘さんに恨まれぬよう――」
「要らぬ忠告をありがとう。どうせ君は何も出来ないんだ、黙って観ているがいいさ――」
異様な気配が消える――暗闇は一気に落ち着きを取り戻した。残るは翡翠色の瞳を輝かせるアミュレリアのみである。彼女は再び冷めた紅茶に口を付け、確かに不味いわね――と呟いた。
アミュレリアはティーカップから口を離し、静かに眼を閉じた。
「……貴方のその驕りが卓上に置き忘れた毒杯にならなければいいですね」
そう言ってアミュレリアは席を立ち、ゆっくりと、滑るように小屋の外へと出た。
瞬間、全ての光が吹き消されるように消えた――。
<19>
通い慣れた学び舎の門を出た時に涙が出なかったのは、『場所』ではなく、その場所に居た『人』に想い入れがあったからなのだろう。だから、門の前で見送りをしようと待ち構えていた後輩や、やる気の無い恩師とその世話焼き役を見た時にはちゃんと涙が出た。嬉しくて、少し悲しくて、ふわふわとした夢心地のような気持ちになった。春の暖かい空気のせいもあるのだろうが、とにかく晴れやかではあった。
それでも――だ。あたしにとっての本番は住み慣れた街を出るこの日なのだ。
住み慣れたキールソミヤの街を出て、あたしは魔法自動構成道具の技術魔道師、ワルンベル=クライトに弟子入りする事となった。ただしこれには『徒歩で旅をし、世に対する見識を深めろ』という妙な条件が付いた。ちなみに同伴するのはティナである。記憶を失っている彼女は、あたしと共に旅をし、自ら記憶の手がかりを探す――らしい。旅は道連れと言うが、矢張り彼女が来てくれるのは嬉しい。
キールソミヤの重苦しく分厚い石の門を潜り抜けると、どこまでも広がる草原に、広い野道が通っていて、ずっと先の景色にまで細い線となって現れている。遠くにある山々は道端に転がるちょっと綺麗な小石に似ていて、どうにも現実味に欠ける。蒼穹に昇ったばかりの太陽はぎらぎらと輝き、顔の前に手を翳しても簡単に擦り抜けてくるほどに眩しい。草原に生い茂る中黄色の野芥子は一つ一つが立派な花を広げている。特別ではないが、多分これから先ずっと思い出し続ける景色の一つになりそうだ。
悪くない朝。いいや――旅に出る日としては最高かも知れない。惜しむらくは、殆ど白に近い花を咲き誇らせている桜の木が遠方にしか無い事だけ。もし、近くに生えていてくれていたら雰囲気も更に増しただろうに――そんなもんだ、後は心残りなんて何一つ無い。
「――いい天気だね、ティナ」
あたしは隣で白いスカートを温かい風に靡かせるティナに顔を向けた。
「そうですね。今日は晴天、お日柄もよく。……愉しみです。私――わくわくしてきました」
ティナは紅い瞳に太陽の光を映しながら、遥か彼方の大地と空の境界線を見ている。
「――ユーリ。おい、ユーリってば」
振り返るとげっそりとした顔のアズルが馬鹿みたいに分厚い紙束を差し出してきた。
「長旅になるだろうから気をつけてな。ほら、これ予備の術式。三級がメインだけど、一級も試作品のやつが混じってるからくれぐれも使用法には注意しなよ。ふふふ……直ぐ壊しちゃうからかなり多めに作っといたぜ。……徹夜でな」
なるほど、だからそんな精根尽き果てた顔をしているのか。
「ありがと、流石はアズルだね。お礼に抱き締めてあげようか?」
あたしは紙束を手に持ったまま手を広げた。いつもの冗談ですら今となっては恥ずかしい。
「いや、断固として遠慮させて頂きます。骨が折れる」
「あはっ、何で拒否すんだよー、バカヤロー」
アズルの胸を軽く叩き、あたしは笑った。すると彼も昔と変わらない優しい笑を返してきた。
アズルはティナの方に顔を向けた。ティナは親指を立てた拳をアズルに突き出している。アズルもそれに一呼吸遅れてから拳を出した。
「元気でな、ティナ」
「アズルもユーリが居ないからといって気を落とさないように」
ティナがそう言った途端、アズルの顔色が更に悪そうになった。
「へえ……アズル……そうだったのかぁ……」
あたしがにやにやと笑いかけると、アズルは目線を逸らした。
「う……そ、そんな事は……」
「あははは……あー……嬉しいなぁ、あたし……」
一頻り笑ってから、あたしは二ナに視線を送った。彼女には何から言えばいいのだろうか。夜通し考えてきた筈の言葉もすっかり忘れてしまった。悩んでいる内に二ナの方から近寄ってきて、あたしの首に両腕を回してきた。
「ちょ――――――!」
「………………」
暫く無言で抱き合っている状態が続いた。顔から本当に火が出そうだったが、我慢した。
やっと体を離した二ナの顔は、晴れやかな泣き笑い顔だった。
「頑張ってね……。私も、貴女に負けないぐらいに頑張るから……!」
「うん……! あっちでも、途中でも……手紙書くから、待っててね……! 遅くなるかも知れないけど、絶対に書くから……! だから待っててね……!」
彼女と――二ナとの空白の時間は埋められるだろうか。いや――大丈夫だ。きっと無駄にした時間なんて、これから先の長い時間に比べれば短いものだ。途中で成長を止めた友情も、これからゆっくりと育んでいけばいい。遠くに居ても、彼女はあたしの友達なのだから。
「ティナ……ユーリをよろしくね……。色々と支えてあげて――ね?」
二ナはティナに歩み寄ると、開口一番にそう言った。
自分の事を頼まれているのかと思うと、ちょっと恥ずかしい。
「任せて下さい。オウゴンカミキリムシ」
「その変な名前で呼ぶのは止めなさい……。二ナって言ったでしょ……」
笑いを堪えるのが大変だった。オウゴンカミキリムシか――一応覚えておこう。
「冗談ですよ。二ナ、貴女もお元気で」
ティナは二ナに手を差し出した。
「ふふ……今度はゆっくり話しましょうね」
それを二ナはしっかりと握り返し、にっこりと笑った。
「そうですね。必ず――」
「――それじゃ……」
あたしとティナはキールソミヤに背を向けた。だが、最初の一歩が一向に踏み出せない。
蒼い空がとても恐ろしく感じられる。一歩踏み出すのがこんなの難しいとは。そうして立ち止まっていると、突然背中を強く叩かれた。
むっとして振り返るとアズルがにっこりと笑っていた。
「なーにやってんだか。もしもの時は僕が嫁に貰ってやるから、安心して行って来い!」
頭が真っ白になって、顔が真っ赤になった。
「あ――あ、あんた……何言ってんの! 馬鹿か! 冗談言うな! 馬鹿!」
「えー結構本気だったんだけどなぁ……駄目?」
何て答えよう――全くこんな時にこんな事を言ってくるなんて本物の大馬鹿者だ。
でも、前から少しだけ期待はしていたかも――だけど何か癪だから――。
「……そ、そうだな……考えとくよ、バーカ!」
「ひゅーですね」
と、ティナが言った。
「ひゅーね」
と、二ナも言った。
「二ナもティナも、うるさいよ!?」
と、あたしは言った。
アズルの隣に立っていた二ナが、ふいにあたしの手を取った。彼女は何故かアズルを物凄い形相で睨んでから、あたしに向かって微笑みながら口を開いた。
「アズル君もこう言ってくれている事だし――貴女は何も心配せずに進みなさい。私や、アズル君だけじゃない――此処では皆が貴女を待っているから。ずっとずっと……ね」
二ナの手に力が入る。心臓の鼓動が重なるにつれ、何だか心が軽くなった気がした。
そうか。何もティナだけが特別だった訳じゃないのだ。此処にいるあたしの大切な人達はみんな特別で、あたしに勇気を与えてくれていた。それを自覚したきっかけがティナだったのだ。あたしは自分しか見えていなくて、自分の事しか考えていなくて、自分を慮ってくれる人の言葉すら真正面から受け止めずに逃げていた。そんな事をずっとずっとやってきた。
何だよ――一番の大馬鹿者は自分じゃないか。それに今更になって気がつくなんて。
「ああ、もうッ! お前ら大好きだ、ちくしょー!」
あたしはティナと二ナとアズルを無理矢理腕に引き寄せ、思いっきり抱き締めた。
「むう……ユーリ……苦しいです」
「ふふふっ! 私も!」
「ユーリ僕だけ締まって――げえ――」
やっぱりあたしはこの二人も、ティナも、キールソミヤの街も人達もみんな大好きだ――!
――それからの足取りは羽根のように軽かった。何度か振り返ろうかとも思ったけど、止めておいた。だって、もう何度も何度も振り返ってきたから。もう十分だろう。いい加減に前を向いて歩くべきだ。
風が頬を撫でる。見れば薄紅色の花弁が流れてきた。それはいつしかあたし達を追い越して、ずっと先の方へと飛び去っていく。一段と強い風が吹くと、視界の横から先程の花弁と同じ薄紅色が両手を広げるように広がった。
息を大きく吸うと太陽と春の匂いがした。何度か息を吐いてから、あたしは横を――ティナが歩いている方をちらりと見た。彼女は白い髪を風に揺らされながら、無邪気な紅い瞳を空へと泳がせていた。
今度は自信を持って言える。その横顔は――。
「ね、ティナ。あんた――今……笑ってる?」
薄紅色のカーテンが視界を覆う。あたしは顔の隠れたティナの手を取り、ぎゅっと握った。
ああ、心臓の音が手から伝わってくる。丁度あたしの心臓の音と彼女の心臓の音が交互に刻まれ、歯車がかみ合っていくような心地のいい旋律が奏でられていく。
「――はい――練習しましたからね」
春の色に染まった花弁のカーテンが外された先で、紅い瞳の天使は嫣然と笑っていた。
<了>
最後にもう一度書いておきますが、これ、今月中には消します。
それでは、またどこかでー!




