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暗転三転

 今度は短くなったでござる。


 短いので、期待せずに読むといいでござる。


 

 

 <14>


「あの……さっきから何してるんだ……?」

「練習です」

 アズルの問いかけにティリナはぷるぷると震えている顔の動きを一旦止めた。

 蒼く暗い濃紺の空には硝子の破片のような星屑が散らばっている。時折吹く春風は妙にひんやりとしており、未だ冬の気配が抜け切っていない事を思わせる。

「……ユーリは連れて来なくてよかったのでしょうか」

 ティリナは空を仰ぐようにアズルに向けて言った。

「ああいう時は邪魔しちゃいけないんだ。じっくり考えさせてあげないと」

 アズルは自分の背後にぴったりと付いて歩くティリナに向かって振り返った。

「じっくり……。ふむ……」

 闇の濃くなった城下街を、ティリナとアズルの二人は歩んでいる。

 ゼナの部屋ですっかり打ち解けた彼らは、一度学院の寮へと戻ってから再度街に繰り出した。

 ティリナは『ユリアも一緒に』と言ったのだが、むっつりと考え込むユリアを見たアズルがそれを制した。ユリアには自分の将来を考える時間が必要である――とアズルは判断したのである。

「あの手紙は一体誰からのものなのですか?」

 ティリナが言っているのは、ユリアはゼナから受け取った手紙の事だ。

「ああ、あれ? あれはね、ワルンベル=クライトっていう人からの手紙だよ。ええっと……魔法自動構成道具《ACTM》――じゃあ何の事かさっぱりか……。ワルンベルさんは、魔法が使えない人でも魔法が使えるようになる道具を専門で作ってる魔道師なんだ」

「魔法が使えない? それは――」

 ユリアの言葉の先を察したアズルは頷きながら続けた。

「君達天使からすれば理解出来ないのだろうけど、僕達人間は『天刻印』っていう印が無きゃ魔法は使えない。一般の――その辺で歩いてる人達の殆どが魔法を使えないのさ」

「……難儀ですね」

 ティリナは紅い眼を暗闇の渦中に遣った。

「難儀だよ。でもね、さっき言った魔法自動構成道具(ACTM)があれば世界は変わる。魔法が普通の人達にも使えるようになったら――人間は目覚しい発展を遂げるだろうな。あの手紙はその第一人者、ワルベル=クライトからのお誘いの手紙。どうやらユーリの事をゼナ先生から聞いていたらしくて、その伝手で弟子に来ないかって――ね。そういう事だ。昔からユーリは魔法工学の成績が良かったから――機械弄りというか、道具弄りは得意なんだ。それをワルンベルさんはゼナ先生から聞いたんだろうね」

 温かい黄色の光を放ち始めている街灯に近寄ったアズルは、その黒い柱の中心を、軽く手の甲で叩き、『これも魔法自動構成道具(ACTM)だよ』と言った。

「ユーリはそのワルンベルという方に弟子入りするのが嫌なのでしょうか?」

「違うよ。ユーリは誰よりも魔法自動構成道具(ACTM)の発展を望んでる筈だ。……彼女は……魔法が上手く使えない。視点が一般人に近いんだ。そう、魔法の使えない一般人にね。そういう立場にあるからこそ、彼女は魔法自動構成道具(ACTM)に夢を持ってる。あれが広まれば、魔法が使えない人でも魔法が使えるようになる――ってさ」

 静かな夜風がティリナとアズルの間を、すり抜けていく。

「では何故――。私にはどう見ても悩んでいるようにしか見えませんでしたが」

「悩んでいるんだよ。彼女はあれで心が弱い子だから」

「弱い――……似合いませんね」

 ティリナが首を傾げると、アズルはおかしそうに顔をゆがめた。

「うん、似合わない。それでもユーリはそうなってしまった(、、、、、、、、、)んだよ。……毎日のように才能がないって言われてると、人間なんて簡単に挫けちゃうんだ。夢は叶わないって――。そんな努力無駄だって――。……そんな事を毎日言われたら誰だってそうなるぜ」

 だからさ――とアズルはティリナに向き直った。

「君が彼女の背中を押してやってくれないか。恥ずかしい話だけど、僕じゃ力不足だ。君のように何処からともなく吹いてきた風がないと、彼女はずっと飛べないままだ」

 アズルは声の調子を低くして、早口に言った。その表情には何故か悔しさが滲み出ていた。

 彼は知っているのだ。ユリアは良くも悪くも、現在の環境に慣れてしまっている。そして、その環境の中には自分も含まれている。彼女が一歩踏み出す為には、自分のように慣れ親しんだ存在ではなく、ティリナのように大きくユリアの心境を転換させる新たな存在が必要なのだ。

「私にそんな事が出来ますか」

「出来る。だって君が落ちてきた時のユーリの眼は、久しぶりに輝いていたから。何と言うか――根拠は無いけど確信したんだ。君ならユーリを飛ばしてくれるって」

 街灯の灯を反射し、鮮やかな炎のように輝く瞳を、アズルは真正面から見据えた。

「一つ聞かせてください。貴方がユーリの夢に拘る理由は何ですか」

「……理由? んー……僕の夢はとっくに叶ってるからなぁ。どうせなら今度は大好きな人が夢を叶えた所を見たいじゃないか。それだけだよ。冷静に考えてみると、かなり自分勝手だな……僕……」

 アズルは明るい夜道で、苦笑いを零した。

「私の――私の夢も叶いました」

 ふいにティリナが口を開いた。静かな口調である。アズルは彼女が何を言わんとしているのか判りかねたが、何か重要な事を言おうとしているのだと思い、黙って耳を傾ける事にした。

「ユーリと出逢ってから、いいえ――彼女に魔力を分け与えて頂いたその時から、私の冷たい心臓は動き始めました。……何の事かお解かりになられないでしょう。私にも未だに解らない。……でも、確かにあの時、私の心臓には火が燈ったのです」

 誰でもよかった訳ではない。ティリナはあの瞬間に欲していたのは、ユリアだけであった。

 運命なのか、偶然なのか――それは判らぬ。

 ただ、その偶然すらも運命の範疇だったのなら――。

「おそらくそれこそが、私が求めて止まないものであったのでしょう。空っぽの胸の中にユーリは『命』を与えてくれた――彼女は私の夢を叶えてくれた――その恩は計り知れません。何せ『人形』に命を吹き込んで下さったのですから」

 ――それは必然ではないか。

 日の暮れた雑踏の中で、ティリナは親指を上げた拳をアズルの前に突き出した。

「……彼女が飛べないのなら、私も微力ながらお手伝い致しましょう」

 ティリナの言葉にアズルは眼を丸くしたが、直ぐに立ち直り、軽快な笑い声を挙げた。

「ハハハっ! そうか、君も僕と一緒の口か。なるほどね……。それが昨日……だからあんな変な格好で君達は……」

 アズルはふと微笑みながらティリナの出した拳に自分の拳を突き合わせ、応じた。

 ティリナの言っている事の殆どはアズルには解らない。しかし、昨晩の内に、ユリアとティリナの間に何か劇的な出来事が起きたのだと――アズルは理解した。それはティリナを変化させ、彼女の言う所の『夢』を叶えたのだ。故に落ちてきた時のティリナと、その後のティリナでは印象が大きく異なっている。それならば、昨晩自分が感じた違和感(、、、)にも合点がいく。

「君は――」

 ふいに辺り一辺が黒い影に覆われた。

 月が翳ったのか――。

 アズルの肩に赤い羽根が舞い落ちる。それは乾いた血液の色によく似ていた。

 はらり。

 はらり。

 はらり――。

 血雨が空中で固まり、柔らかい雪に変化しているかのような異様な光景である。

 赤い雪は止む事を知らず、周囲の音すらも掻き消しながら降りしきる。

 強い春の風が凪ぎ、得体の知れない暗澹とした闇が落ちてきた。

 何か居る――アズルとティリナは同時に天を仰いだ。

 夜空には何も無い。はっきりしない星座と、顔を出し始めた月があるのみである。

 気のせいだったか――とアズルが息を吐く間も無く、地面に何かが降り立った。

「誰――」

 降り立ったのは一人の少女である。体には赤く、角ばった甲冑を身に付け、手には星明りすらも吸い込みそうな黒い光の収束した実体の無い剣を握り、地面に片膝を着いている。

 姿は形からすれば小柄な男性にも見えるが、兜を被っていない剥き出しの頭部から覗く光を失った金色の長髪と、闇夜に薄れるまだ幼い輪郭から辛うじて少女である事が解る。

「――見つけた……見つけたぞ……! 銀翼(アルゼラミナ)ぁ……!」

 膝を着いていた少女が立ち上がる。恨めしげな高い声が静寂に響き、黒い空を背景におぞましくも美しい赤い翼が大きく広がった。

「殺す……。殺す……! 殺す!」

 月光が赤き翼を照らす。夜に映える赤い翼の少女の眼は、その翼と同色の気味の悪い赤色に染まっていた。

「……穏やかではありませんね。銀翼(アルゼラミナ)とは、私の事ですか?」

 ティリナは澄んだ紅の瞳を、赤い翼の少女へと向けた。

「ふざけた事を……! 恍けたつもりか……!」

 赤い翼の少女は端整な顔に燃え滾る憎しみを浮かべた。その風貌はティリナに似通っている。

 空気が唸る。赤眼の少女は赤い翼を折り畳み、黒い剣を振り翳してティリナへと襲い掛かった。ティリナは突然の強襲に、瞬時に白い光の剣を形成し、応戦した。

 黒い光と白い光が交差する。爆音が轟き、地面に嵌め込まれた煉瓦が捲れていく。

「なっ……!」

 凄まじい衝撃にアズルは弾き飛ばされた。それ程に二つの光が激突した余波は凄まじい。

「貴女は何者ですか? 何故こんな事を?」

 ティリナは歪んだ光彩の向こう側に居る少女に臆せず、冷静な口調で問いかけた。

「敵に……! 決まっているッ!」

 雄叫びを上げた赤い翼の少女は、ティリナの胸部を蹴りを入れ、獣のように身を翻した。少女はそのまま赤い翼を劇幕のように夜天に伸ばしていき、空中へと飛び上がった。

 月夜に映える赤い光――それはまさしく赤い天使の様――。

 そして何処からとも無く悲鳴が上がり、人々は我先にと逃げ出し始めた。

「ティナ!」

 立ち上がったアズルが、ティリナに駆け寄った。強烈な蹴撃に、さしものティリナの鉄面皮も崩れ、苦しそうに顔を歪めている。

「大丈夫――じゃないな……! 今手当てを――くそっ! あいつは何なんだ……!」

 ティリナと同じ翼を持つ少女――だが、その外見は、天使と悪魔ほどに違っている。

「アズル……逃げてください。おそらく彼女は私を狙って――」

 ティリナが口を開きかけたその時――。

「――君達! 何をやっている! 此処は危険だ、早く離れなさい!」 

 黒いコートを身に着けた若い男性がティリアとアズルの前に背中を向けて現れた。背には、薄い羽の生えた黄金の杖の紋章――魔道都市キールソミヤを守護する近衛魔道師(クストス)の紋章がある。

「……近衛魔師――……」

 気付いた時には、数人の近衛魔道師達がティリア達を囲むように出現していた。

「俺達が時間を稼ごう……! その内に避難を」

 近衛魔道師の青年は、上空からティリア達を見下ろしている赤い眼の少女を睨んだ。

「昨日といい、今日といい……結界を無闇に破ってくれやがって……!」

 赤い眼の少女は、しきりに翼を羽ばたかせながら宙に留まり、無言のままで、がらくたでも見るような視線を近衛魔道師の青年へと送った。

「………………」

 無反応に業を煮やした近衛魔道師の青年は、上空――赤い眼の少女へと手を翳した。

「そっちがそのつもりなら、後でゆっくり尋問させて貰うさ――水よ捕らえよ(チェイピエッド)!」

 少女の周りに人間の腕程の大きさの水の触手が幾つも現れ、螺旋を描きながら少女へと迫っていく。だが――水の触手は、赤い眼の少女に到達する前に、少女の持つ黒い剣によって、眼にも止まらぬ速さで切り裂かれた。

「抵抗するか……全員、攻撃開始! 痛め付けるだけにしておけ、怪我はさせるな!」

 ティリナ達の周囲に立つ近衛魔道師達は、一斉に各々が得意とする魔法を赤い眼の少女に向け放った。捕縛目的とは言えどその威力は凄まじく、様々な色の光によって赤い眼の少女の全身は塗りつぶされ、完全に見えなくなった。

「――これだけやれば……」

 最初に水の触手を、赤い眼の少女に差し向けた近衛魔道師の青年は、光が薄れるのを待って、少女の身柄を確保しようと、おおよそ予想される落下地点へと歩もうとした。

 しかし――少女が落ちてくる気配は無い。

「――貴様ら人間の脆弱な魔法が効くとでも? ……笑わせるなよッ! クズ共が!」

 空気と共に、魔法による彩光が黒光りする剣によって切り開かれる。

「な……無傷……だと……!?」

 近衛魔道師の青年は、思わずそう呟いてしまった。何故ならこんな事は――有り得ない。

 威力を弱めているとはいえ、仮にも魔道教皇直属の魔道師達の強力無比な魔法を喰らったのだ、多少なりとも損傷(ダメージ)を受けているのが常である。しかし、赤い翼をはためかせている少女には傷一つ付いていない。小ぶりながらも堅牢な胸当ては星明りを照り返し、不気味な艶やかさを保っている。光を失った黄金の長髪は寸分たりとも乱れすら無いのである。

 異常だ――若いながらも明晰な頭脳を持つ近衛魔道師の青年は、ぞくりとした悪寒を感じた。

 悪寒が止まらない。ぞくぞくとした寒気が肌の表面を走る。息は荒くなり、逆に血の気は引いていく。今までに自分が感じた事の無い異質な空気を近衛魔道師の青年は肌身で感じ取った。

 逃げなければ。この場は一刻も早く退避して、作戦を練り直さなければいけない。

 でなければ――。

「各自、最大威力の魔法を目標に向けて放て! 一発だ! 一発だけ当てて退避しろ!」

 ――殺される。

 凄まじい光の乱舞が、再び赤い眼の少女へと放たれる。そこには先程のような容赦は無い。

「虫けら風情が私と銀翼(アルゼラミナ)の戦いを邪魔するか……!」

 赤眼を鮮やかに光らせながら、少女は黒き光の剣にて、全ての魔法を呆気なく切り捨てた。

「いいだろう、本物の魔法をその身に刻むがいい! ……大地よ踊れ(エゴショトレア)ッ!」

 地鳴りと共に大地が裂ける音が鳴り響いた。綺麗に舗装された街道は砕け散り、地面はあられもなく剥き出しになる。素肌のままの地表からは不恰好な――人間の上半身もあろうかと思われる大きさの岩石群がせり出し、重力に逆らうように宙へと浮遊していった。

 赤い眼の少女に憤怒に呼応するように、大地は恐ろしい声で唸る――。

 そして巨大な岩石群はまるで踊るかの如く、急激に回転を始めた。

 防御など無意味。踊り狂う岩石は、次々に近衛魔道師達の骨を砕き、肉を抉っていく。そこには声すら上げる暇などなく、ただ蹂躙されるのみである。唯一、白光の剣で岩を弾いているティリナとその背後で呆然と座り込むアズルのみが硬く重い巌の暴風を免れている。

 だが――奮戦するティリナの剣の合間を掻い潜り、勢いの付いた石礫がアズル目掛け飛んでいった。

「――ぐ……あッ……!」

 鈍重な衝撃がアズルの脇腹を突き刺す。痛みと同時に視界の端が徐々に黒くなっていく。

「アズル! しっかりして下さい! しっかり――」

 ティリナの声が虚ろになっていく意識に届いた。しかして深い海に呑み込まれるようにアズルの意識は遠退いていく。

 ぼんやりとした光景の中でアズルは月夜に翼を広げる赤い天使を見た。

 天使は笑っていた。赤い瞳だけを憎しみに輝かせながら矮小な人間を嘲笑っている。

「――聞け、人間共! 我が名はアルシャスプンタは第四位、アルマティ! 主の命により裁きを下す、天の使者なり! 下賎な身でこの私に拝顔出来る事を光栄に思え!」

 赤い唇を三日月の如く歪め、血のように赤い翼を持つ天使は甲高い高笑いを響かせた。


 <15>


 丸く切り取られた満天の星空は、あたかも黒雲母の塊に金剛石の粒を満遍なく散りばめたかのような美しさを湛えている。其処に懸かる月は優しい光を帯び、輝石の如き一等星や二等星は、それぞれが大粒の蒼玉(サファイア)紅玉(ルビー)にも似た色彩で夜の闇を華やかに彩っている。

 冷たく澄んだ空気を囲う冬の夜空と違い、空気が暖まった春の夜空は少し曇って見える。

 ぼんやりと――曖昧に。世界を見る自分の瞳に深い霧がかかっているみたいにどこまでもはっきりとしない。幻想と現世の境目に迷い込んだかのような不思議な気分にさせられる。

 流れる事の無い星の大河はどこまでも果てしなく続き、遥か遠くの物語を語りかけてくる。数多の星は人によって結ばれ、大雑把な像を描く。

 空には色々な星座があるけれど、そのどれもが自分には名前の通りの形には到底見えない。それを考えると、大昔の人の想像力は相当に逞しかったらしい。

 紅い星が一つ――あれは彼女の瞳によく似ている。穢れがなく、眩い光を放っている。

 その近くには似たような赤い星がもう一つ――あちらの方はあまり好きじゃない。何だかこちらを見ている様で不気味にしか思えないのだ。同じような色だが好きにはなれない。

 輝かしい天空に手を透かす。勿論星明りは太陽の光のように手を通り抜けては来ない。

 ただ――ほんのちょっとだけ届きそうな気はする。このまま手を伸ばしたら届きそうな――。

「……届かないに決まってんのに……」

 星空にどれだけ想いを馳せても届く訳が無い。夢を見るのは夢の中だけで十分だ。

 ずっと――言われてきただろう。『夢なんて叶わない』って。『夢を見るだけ無駄だ』って。

 今のあたしの掌の中には、夢の欠片があるのかも知れない。上手く繋ぎ合わせれば、大きな結晶になるかも知れない欠片だ。だけど、それは脆く崩れやすい夢の欠片でもある。うっかり落としてしまえば、粉々に砕け散ってしまう。あたしはそれが怖くて仕方が無い。

 星空に向けていた顔を地上へと戻し、見慣れた青々とした丘へと視線を向けた。星の降りしきる丘には、全く手入れのされていない、甘い香りのするゼラニウムが例年通り花を咲かそうとしている。もう先走って開いているものもあるぐらいだ。

 いつもだ。いつも不安な事があると、此処へ来てしまう。それは学院に始めて訪れた時から変わらない習慣でもある。何一つ――進歩していない。どうすればいいのだろう――。

 頭を抱えても答えなんて出てこない。

「――また一人で此処に来て悩んでいたのね……ユリア……」

 懐かしい声が聞こえた――この声は――――。

「……何であんたが此処に……」

 顔を上げると、暗闇の中にニナが暗闇ですっかり色褪せた金髪を靡かせながら佇んでいた。

「隣……いいかしら……」

 ニナは、ボロボロのベンチに座っているあたしの隣に静かに腰を下ろした。

「……帰る」

 彼女と話す事など今更何がある。思い出も、何もかも、全部過去に消えたというのに。

「待って……! お願い、少しで良いから話を聞いて……!」

 立ち上がったあたしの手首を、弱弱しいニナの手が掴んだ。

 彼女の手はじんわりと染みるよう温かかった。

「許してなんて言わない……! だけど……少しの間だけで良い……謝らせて……!」

 声が震えている――ニナの顔は下を向いていた。言い訳をするつもりなのか。あれだけ遠ざけていたのに? 嫌いだと――大嫌いだと言っていたじゃないか。今になって嘘だとでも?

「離せよ……! あたしは――あんたなんか――」

「……お願い……」

 何を言ったら良いのか解らないまま、あたしは再び軋むベンチへと腰を下してしまった。何か考えがあってそうした訳じゃない。単なる気紛れだ――気紛れに決まっている。

「私――……貴女に酷い事を――、……怖くて――あんな事を――……」

 途切れ途切れの言葉が、静まり返った空気を揺らす。

「意味解んない……! 何なんだよ、何で……。もっと解るように言えよ……!」

 解らない。何なのだ――怖いとは――そんなの意味が解らない――。

「あの時の私は、未熟で……貴女と向き合うのが怖かった……。貴女が辛いって解ってるのに、それを受け止めてあげようともしないで、撥ね退けて……私は貴女に自分を投影して、自分の暗い部分から逃げていた……。私は、こうならないって、こうなりたくないって……結局、本質的には同じなのにね……」

 震えている――手も声も、全部震えている。

 気に入らない。今更何を弁解しようというのだろうか。

 あたしは激情に身を任せて立ち上がり、顔も見ずに彼女の胸倉を掴み上げた。

 彼女はどんな顔をしているのだろうか。今の自分にそれを改めて確認する勇気は無い。

「未熟って何だよ……! 同じって……!」

「……ごめんなさい――……」

 ふざけるな――謝るな――いつもみたいに澄ました声で言い返せ――。

 咎めるような口調で言いかけると、彼女は繰言のように何度も『ごめんなさい』と呟いた。

 焼け付いた声を張り上げ、項垂れる彼女を力任せに揺さぶった。そうしていると、何だか無性に虚しい気持ちになってきた。無抵抗の人形を虐めているような気持ちに。

 心臓が押し潰されているみたいで息苦しい。噛み締めていた唇が裂け、ひりひりと痛む。

 月の光がニナの顔を青白く照らした。彼女は普段は凍ったように動かない顔を泣き崩していた。嗚咽が聞こえ、汚泥のような影を映す地面にぽたぽたと透明な雫が滴り落ちていく。

「何でよ……っ! 謝るなよ……! 嫌いだって言えよっ……! 昨日と同じようにあたしを嫌いだって……! 大嫌いだって言えよッ! ねぇっ、二ナッ……! 言ってよ……っ!」

「言える訳ないじゃない……! 私は昔からずっと貴女の事が大好きなんだから……!」

 解らない。何で――嫌いだって――いつもみたいに言えばいいのに――何で、何で――。

「今になってそんな事言わないでよ……! そんなの、あたしが馬鹿みたいじゃんか……っ」

 自分自身が自らの事を嫌っているぐらいなのだから、彼女にも嫌われて当然だと思っていた。意気地の無い――愚痴っぽくて嫌な奴――だからあたしは嫌われた。そうあたしはそう思っていたからこそ、心を強く保てていたのに――それなのに――。

 孤独は自分を鋭く研ぎ澄まさせてくれた。自分から伸びた影が濃くなった分だけ自分が強くなった気がした。事実、アズルが話しかけてくるまで、あたしは強く、固かった。あいつとの日常の中であたしは解き解され、簡単に折れそうなほどに柔らかくなった。その溶け出した心を辛うじて最後まで支えていたものが、今――崩れてしまった。

 二ナを突き放し、あたしは顔を背けた。頬を熱いものが伝っていく。堪らず顔を下に向けると、足元に一輪だけぽつんと咲いている桃色のゼラニウムが酷く滲み霞んで見えた。

「……あたしは――……」

 ふいに耳を劈く轟音が城下街のある方角から聞こえた。

「な――何……?」

 音を頼りに暗中へと眼を凝らすと、空中で銀色の光と、赤い光が激しく衝突し合っているのが見えた。二つの光の一つ――銀色の光の中心には――。

「ティ――ティナ……!?」

 ティナが銀色の翼を広げていた。片手には先生の部屋で見た光の剣を持っている。

 そしてもう一つの赤い光――あれは――。

「――……私、行ってくるわ。貴女はここに居なさい」

 突然肩を叩かれ、あたしは一瞬固まった。見ればニナがこちらに向き直っている。

 彼女の顔は赤いながらも、いつもの落ち着きを取り戻していた。

「い、行くってあんた……」

「卒業前に謝る事が出来てよかった。これだけが心残りだったの――」

「ちょっと待ってよ……! 二ナ……!」

 二ナは泣き腫らした顔を、痛々しい微笑みへと変え、あたしを真っ直ぐ見つめた。

「ユーリ、貴女だけには教えるけど……私の夢は、近衛魔道師(クストス)になってこの街を守る事。こんな私だってもう少しで夢を掴めそうなの……。貴女も……貴女も自分の夢を信じて……」

 そう言うと二ナは暗闇の中へと駆け出して行った。

「何なの……! 意味解らないって……! ……ねえ!」

 黒い海に叫んでも、返事などありはしない。裏返ったあたしの情けない声が響くのみだ。

「くそっ……ああ、もうっ!」

 こんな所で地団太を踏んでいる場合じゃない。しっかりしなきゃいけない。

 涙を拭い、大きく息を吐く。高ぶっていた感情が徐々に治まっていくのが分かる。

 よし――いける。

 頬を叩いて気合を入れる。あたしは深い海の底のような闇を睨み、二ナの後を追いかけた。


 え?『ござる』? 何の話ですか?


 それでは、また明日! 明日は六時からです! ふう……。

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