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蒼い黎明

 お気づきの方もいらっしゃるとは思いますが、段々と増えています(、、、、、、)

 

 <11>

  

 眩しさを感じて眼を開けると、朝の陽射しが容赦なく瞳に入り込んできた。

 金色のような、白色のような、どうとも取れる光が窓の外からあたしの顔を照らしている。

 どうしようか――二度寝しようか。まだ眠い。

 通常、春という季節は、草木は芽吹き、獣は眼を覚ますのが通例なのだが、どうにもあたしに限っては、自力で身を起こす気力を根こそぎ削いでしまうらしい。

 気持ちの良い光に当てられていると、とろとろに溶解してしまいそうな気分に陥いった。いいや、もしかしたらとっくに溶けているのかも。ベッドの上でゲル状になっている自分を想像したら、薄ら笑いが零れ出た。ああ、素晴らしきかな、朝の一時。夜が明け、眠りが浅くなるこの時間が一番心地よく感じる。

 楽園とは地上の――それもベッドの上にあったか。この楽園は失う事があってはならない。仮にこの楽園をぶち壊しにする野郎が居たら、それはもう――この世の地獄を見せてやる。

 ふう――。こうまで気持ちが良いと、寝返りを打つのも億劫になってくる。それでもずっと同じ姿勢のままというのも息苦しく、否応なしに体勢を変えなければいけない。

 面倒ではあるが、あたしは半開きの眼で煌く陽光を感じつつ、反対側に体を返した。

 さて、楽園には天使が付き物である。天使が居ないと楽園はどうにも締まらない(、、、、、)。天使ありきの楽園であるからして、楽園と天使はセットで取り扱う。あたしの場合、ベッドの上が楽園であるので、何ら不思議ではないし問題は無いのだが――寝返りを打った先には本物の天使の顔が見えた。

「…………忘れてた」

 そう――完全にこの子の事を忘れていた。そして、二度寝なんてしている場合じゃなかった。

 寝る。起きる。寝る。起きる。寝る。起きる。寝る起きる寝る起きる寝る起きる寝起きる起きる寝る寝る寝る寝る寝起きる寝る寝る寝る寝る寝――じゃなかった。起きる寝る寝る――――じゃなくて、起きる起きる起きる起きる起きる起きる――。よーし、起きるぞ。起きる――起きる? 

 ――何やってんだ。『起きる?』じゃない。起きなければ。

 『二度寝』という議題の自己問答は埒が明かないので、とりあえず両手で頬を叩き、眼を覚ます。

「よっしゃ……」

 まだだ。まだ七十五パーセント程の、抗い難い眠気が残っている。早く駆逐せねば。

 地上の楽園を自ら手放すのは辛いものがあるが、あたしは眼を擦り、霞む視界を鮮明にしようとした。軽く眼の縁を擦ると徐々に瞳が潤んできて、少々生暖かい潤いが瞳の表面に蘇った。

 これで五十パーセント。半分まできた。もうここまでくれば大丈夫だ。後は流れに身を任せて、すっきりとした目覚めを迎えるだけである。そう、目覚めを。目覚め――めざ――。

「………………ぐぅ」

 八十五パーセント。

「……んごッ……。……はっ……!?」

 ――って戻ったら駄目じゃないか。何をやっているんだ、あたしは。

「ううう……うあぁぁぁあっ! んーッ! 起きたッ! 起きたぞっ!」

 これ以上続けても、泥沼の睡眠延長戦が繰り広げられそうであったので、あたしはとてつもなく、血反吐を吐く思いで頑張って、無理やり上半身を起こした。

 こうでもしないと睡魔は倒せないのだ。うっかりしたら、再び夢の世界に直行してしまう。

「んん……あぁぁあッんッ!! うおおおおおんっ! …………ふぅ……」

 欠伸をしながら背伸びをしてみたら、完全に眼が覚めた。悪くない目覚めだ。

 それにしても――どういう事だろう? あたし、確か床で寝ていなかったっけ?

 部屋の中を隅々まで見渡す。何か物足りない。あれ? 昨日は確かベッドの下に何かしまったままだった気がするんだけど、何だったか。とりあえずベッドの下を覗いて見た。

「…………ああ、そうか」

 そうだったそうだった。あたしはベッドの下にアズルを仕舞っていた――ではなく寝かせていたのだ。ふうむ。姿が消えているという事は、あいつは部屋に戻ったのか。

「……連れない奴……」

 何も無言で行ってしまう事は無かったのに。別に起こしても――。んん? もしかして――ベッドの上にティリナとあたしを寝かせてくれたのあいつか? ――というか、あいつやってくれたとしか考えられない。ベッドの縁に座り、軽く脚を動かしてみる。奇妙な浮遊感が足先から伝わる。

 まぁ、後でお礼言って置かないといけないよな、うん。何だかんだで色々と面倒も見てもらってるし、うん。それが最低限の礼儀ってもんだし――そうだよね、たまには――。

「――何をニヤニヤとしているのですか、ユリア」

 ベッドから落ちそうになった。

「しっ、してないよッ!? してないしてない! こういう顔だから!」

 あたしが耽っていた間に起きたのか、ティリナがこちらを不思議そうな顔で首を傾けながら見ていた。

「そうですか? 私にはそうには見えませんでしたが――」

 ティリナは慇懃な口調でそう言った。

 むくりと半身を起こしている彼女は、完全に体を起こし切ると、ベッドの上に正座した。

「おはようございます」

「お、おはよう……」

 ――何か違う。どうしてだろう。昨日の彼女とは少し違っている様な――。

 あたしはじっくりとティリナの顔を拝見させて貰った。人形のような可愛らしい顔は、ぱちくりと瞬きを繰り返している。この様子だけを鑑みると、ティリナが幼子みたいにも感じられるが、その奥の思慮深そうな色を湛えている。白い光がティリナの横顔を撫でた。彼女の透明度の高い瞳は朝日を吸い込み、鮮やかな緋色に輝く。それはまるで夕刻に揺らめく太陽のような色だった。

「ねぇティリナ……さん?」

「ティリナで結構です」

 判らない。些細な差異なのだろうが、間違え探しの如く、違い(、、)が判り辛い。

「じゃあ……ティリナ……?」

 あたしの言葉に天使の少女は、やんわりと眼を閉じた。

 笑って――いるのか。あたしには笑っているように見えるけど。

 そうか。表情が柔らかいのだ。昨日のようにカチコチに固まった表情では無いのである。

「あんた……今――笑ってる?」

 我ながら身も蓋も無い質問だと思う。いきなり『笑ってる?』と訊かれても困るだろう。

 ティリナはあたしの発した中身の無い質問に、軽く口元を押さえながら応えた。

「私は……笑っているのでしょうか?」

 あたしに聞かれましても。質問が回り回って自分に返ってくるとは思いもしなかった。

「笑ってる――んじゃないかな? 少なくともあたしにはそう見えたけど……」

 何とも歯切れの悪い返答だ。しかし、こうとしか言えないのだ。って、それよりもこの子――本当に笑えないのか? 

 ティリナはくりくりとした邪気の無い眼をあたしに向けている。そうされていると、もっと明確な回答は無いのかとせがまれているようにも思えてくる。

「そうなのですか?」

「……もうこの際、こうしちゃえっ」

 言葉に詰まったあたしは、悩んだ末に突飛な行動へと至ってしまった。両手の人差し指で、それぞれティリナの口の端を押し上げる。抵抗もしないティリアの唇はあたしの指によって湾曲し、あたか彼女がも笑っているかのようにも見える。少々不恰好な笑顔であるが、ユーモラスであり、結構いける――とあたしは思う。あたしは入り口扉の脇にある姿見に、ティリナの顔を指で向け動かした。鏡には彼女の変てこな笑顔と、その背後にあたしの意地の悪い顔がくっきりと映っている。

「あはは! 可愛いじゃん。ほらティリナ、鏡見てみなよ。ちゃんと笑えてるよ」

 正しくは笑わせている(、、、、、、)とも言う。

「なるほろ、これがわらへへいるほいふもほでひゅか」

 ティリナは不自由な口を動かし、眼をぱちぱちと瞬かせた。

「一応な。でも……本当の笑顔って心の底から幸せじゃないと出てこないんだ。それに自分から笑わないとね。これじゃあ、あたしが無理やり笑わせてるだけだもん」

 あたしはティリナの口端から、それを押し上げている自分の指を離した。

 一転してティリナは無表情へと変わる。

「心の底から――ですか。……私に出来るでしょうか。練習しなければ出来ないのでは?」

「笑顔なんて練習しなくても出来るって。あはは……変な天使だなぁ。笑えないなんてさ」

「変……ですか?」

 天使というものは、案外皆こんな感じなのだろうか? あたしは彼女以外の天使を知らないから何とも言えないけど。

 あたしがティリナの顔を眺めていると、突然彼女の顔がぴくぴくと動き始めた。

「何やってんの……?」

「………………!」

 磁器人形(ビスクドール)のような肌に赤みが差し、ぷるぷると震えている。

「は、吐くなよ!? 吐くならトイレ連れて行ってあげるから――」

 いや――違う。彼女は、ティリナは何も嘔吐しようとしているのではない。彼女は――。

「もしかして……笑おうとしてる?」

「……どうでしたか?」

 笑おうとしていたらしい。どう見ても痙攣だったが。

「……練習しようか」

「分かりました。練習ですね」

 あたしの言葉は数分もしない内に覆る事となった。 

 時計を見る。丁度良い頃合である。まぁ、あたし達最上級生に時間もへったくれも無いが、いつまでもこうしている訳にもいかない。ぱっぱと身支度してしまうのが得策だ。

「それじゃ、そろそろ準備して行こうか」

 人肌に温まったベッドの上は、眼が覚めていても眠気を誘う。早く抜け出さなくては。

 あたしはベッドから降り、板張りの寒々とした床に足を着いた。

 ひんやりとした感触に、本格的な覚醒が促される。あまりにも冷たいので、鳥肌が立ってきた。春先はいつもこんな感じだから起きるのも一苦労だ。寒くて堪ったもんじゃない。

「行くとは、何処にですか?」

「ん……どうしよっか。ふあぁぁぁあっ……っと」

 もう一度欠伸をし、部屋の中を少し歩いて寒さに体を慣らす。

 机の上に見慣れない便箋が無造作に置かれている。折り畳まれたそれを開いてみると、アズルの几帳面な文字で、先に学院で待っているとの旨が書いてあった。

「とりあえずは――学院に行こうか。部屋に一人で残っているのもアレでしょ?」

「学院……? ああ、昨晩少し話に出た――」

「そうそうそれそれ。アルロイト魔術学院」

 部外者であるティリナは目立つだろうが、あたしの従妹とでも言って置けば問題無いだろう。それに、この子を右も左も分からない状態で、一人残しておくのも忍びない。何かに巻き込まれたとなれば事だ。一度関わったからには最後まで面倒は看よう。

「まずは支度をしないとね。あたしの服入るかなぁ……。胸が……ちくしょうめ」

 クローゼットを開けて中を確認した。ショートパンツなどの動きやすい衣類ばかりが並んでいる。 あまりひらひらした服装は似合わないから好きじゃないのだ。

 胸囲はともかく、それ以外はおそらく大丈夫だろう。最悪無理矢理押し込めば――。

「ティリナー? どういうのが良いー? あんま可愛いのは無いけど勘弁してな――」

 と、あたしはティリナの方に視線を動かした。彼女は入り口扉の前に立ち、肌色の過多な危うい(、、、)格好で今、正に部屋の中から出ようとしていた。

「――支度は出来ました。さぁ行きましょう」

「出来てない出来てない出来てない」

 あたしはティリアの肩を全力で引き止め、何とか『籠の中の鳥』ならぬ、『部屋の中のほぼ全裸の少女』を外界に出すという不測の事態を阻止した。

「何故ですか。何故止めるのですか」

「止めるわ、ド阿呆! 服を着ろ! 服を!」

 危なかった、色々な意味で危なかった。あたしの部屋から、殆ど裸に近い翼の生えた少女が出てきたとなれば、大騒ぎじゃ済まないだろう。ひょっとしたら、あの有名な、『アルロイト七不思議』に名前を連ねる事になってしまうかも分からない。そんなの嫌に決まっている。ただでさえ、もう名前がある(、、、、、)というのに、これ以上自分の名義の怪談を増やして堪るか。

「ほらほらっ! こっち来て!」

 ティリナの手を引き、鏡も前に立たせてから適当にクローゼットから服を取り出す。ごちゃごちゃと足元に積まれた服の山をティリナは不可解な顔で見詰めている。

「――んんん……これはサイズが駄目か。いいなあ……」

 彼女の羨ましい体型に自分の服を次々に合わせていく。

「そういえば、あの翼ってどうしているの? 魔法の一種?」

 あたしの方に向けられているティリナの白い背中には、昨晩見た銀の翼が見当たらない。

「翼ですか? ……広がれ(エクスパンデ)

 ティリナがそう言うのと同時に、太陽の光を反射しながら銀の翼が彼女の背中から飛び出してきた。銀の翼は太陽の光を一身に浴び、ぎらぎらとした光を放っている。そして妙な事に昨日はボロボロだった翼には傷一つ付いていない。

「折りたたみ式なので、魔法ではありません。隠せ《パブンデレ》。……これなら目立たないでしょう?」

 輝いていた翼は、光の粒になって消えた。折りたたみ式というか、魔法式に見える。

「はぁー、便利なもんだなぁ」

 翼の消えたティリナの背中を撫でてみる。先程まで、そこに翼があったとは到底思えない。

「……ふむふむ……こいつは良い背中だ……」

「むず痒いのですが。そんなに背中を撫でられると照れます」

 肌理(きめ)の細かい肌は滑らかで素晴らしい。あたしもそれなりに自信はあるが、ティリナのはそれ以上だ。いつまでも撫でていたい。例えるなら、犬や猫の肉球を愛でている感覚に近い。

「後ちょっと……三分だけ。三分でいいから」

 思う存分ティリナの背中を撫でた後、再び彼女の服選びを再開した。

「――これは? あたしには胸――じゃなくてサイズが合わなかった奴なんだけど……」

 滞りなく試した後、彼女に髪の色に似合いそうな白いシャツと、紅赤のスカートを選び取った。個人的には悪くないと思う。スカートの色はティリナの瞳の色を意識してみた。無論、彼女の眼の色のように鮮烈な発色ではないが、上が白いのでかなり映えるだろう。

「――どう? ちょっと派手だったかな?」

 あたしが声を掛けると、着替え終わったティリナは、赤いスカートを薔薇の花のように翻しながら、くるりと一回転して見せた。

「いえ、そんな事ありません。風通しが良いので快適です」

 選ぶ基準はそこなのか。

 ――おっと、自分も着替えないといけない。これまた適当に引っ張り出した錆色のショートパンツなどで簡単に着替えを済ませ、身支度を整える。昨日は体を洗っていないから、体がべとつく。学院から帰ってきたら、ティリナを伴って寮の大浴場にでも行ってこようか。

「――よし終わり。じゃ、行こうか!」

 色々なものが入れっぱなしになっている皮の手提げとティリナの手を掴み、あたしは寮の廊下へと出た。あたしのように卒業真近で授業に出なくてもいい最上級生を除き、下の学年の生徒達は既に出払っている。人気(ひとけ)の無い廊下は、石で出来ている訳でもないのに肌寒く感じた。人が居る空間特有の温もりというものがすっかり消え失せているのだ。

 ぬくもりと言えば――昨日と違って今日のティリナの手は温かい。どくどくという血の通う音も手先から伝わってくる。それが普通なのだが――昨日の彼女からは――。

「――ユリア?」

 ティリナに名前を呼ばれ、あたしは我に返った。

 部屋から出て、ずっと彼女の手を握ったまま立ち竦んでいた様だ。

「な――何でもないよ。ごめん、勝手に止まっちゃって……」

「私は気にしていませんので。それよりもユリアの方が心配です」

 ――何を――おかしな事なんて一つも無いんだ。全部杞憂だ。そうに決まっている。例え、目の前のこの子が何者であったとしても、それに何の問題があるというのだ。彼女が何かをした訳じゃない。第一に天使っていうだけで既に異常なのだ。これ以上何に驚く必要がある?

「……ユーリでいいよ。親しい奴は皆そう呼んでるの」

「愛称のようなものですか?」

 ティリアは興味深げに瞳を輝かせた。

「そんな所かな。って言っても、あたしをそう呼ぶ奴は少ないけどね」

 そもそも親しい人間自体が少ないのだ。殆ど愛称で呼ばれる機会は無いと言って良い。

「あんたも無理に呼ばなくて――」

「ユーリですね。了解しました……では私はティナという所でしょうか?」

 ティリナは意外と乗り気だった。

「でもこれは親しい間柄での呼び名で……」

「私とユーリは親しくないのですか? 友人ではないと?」

 顔色は殆ど変わっていないが、酷く残念そうな声音でティリナは言った。

「そ、そんな事は……! あたしだってあんたがそう思ってくれているなら嬉しい……です」

「それを聞いて安心しました。ユーリも私の事はティナと気兼ねなく呼んで下さい」

 思わず笑ってしまう。こうもすんなりと受け入れられるとは思いもしなかった。

「あはっ……! そうだね……。うん……ティナかぁ……いいかも」

 友人――か。考えてみれば、愛称で呼ぶ程に仲が良くなった友達は、二ナ以来だ。アズルは『アズ』とか、『アル』って呼ぼうとすると女っぽいって嫌がるし――こういうの本当に久しぶり。

 あたしはティリナの手を引き、擦り傷の目立つ木組みの廊下を歩き出した。

 自室は寮の二階の一番端、丁度太陽のよく当たる表に面している。下へと降りる階段は、あたしの部屋の反対側の突き当たりの横にある。つまり、外に出るには自分の部屋の窓から飛び降りるか、この長ったらしい廊下を渡っていくしか無いのである。時間の無い時には本当に窓から飛び降りたりもするが、今回に限ってはティリナを連れているのでそんな訳にもいかない。大人しく長い廊下を歩き進み、階段を下り、外へと出るしかないのだ。

 それが普通なんだろうけど。

 首筋にじりじりとした、硝子窓を通し濃縮された熱さの陽光が当たる。光の差し込む方向とは逆に進んでいるにも関わらず、進んでも進んでも焼け付く光線が弱まる気配は無い。

 古びた匂いのする廊下を渡り終え、階段へと差し掛かった。曲線状になっている階段は、中間辺りで折り返り、下へと続いている。急激なカーブを終えると、白い大理石の斑模様が視界へと入ってくる。木造建築なのに、このエントランス部分だけ大理石で出来ているというのはどういう事なのだろうか。設計ミスなのか――はたまた学院長の趣味なのか。いずれにしても変わっている。

 ぺたぺたという音が玄関に響き渡る。足音はティリナのものだ。考えてみれば彼女は素足のままだ。靴下を貸すのをすっかり忘れていた。そしてあたしも素足のままだ。これもすっかり忘れていた。寮内では素足でも大丈夫だが、外ではそうもいかない。どうすべきか――。

 複製魔法なんて器用な事は出来ないし、かと言って他人のものを拝借するのも気が咎める。

 ――ああ、そうだ。あれがまだあったかも――。

「ちょっと待ってて」

 あたしはティリナにそう言い残し、玄関近くに四つ並んでいる、欅の木で出来た両面の下駄箱へと向かった。一列目――学年も何も関係なしに、無造作に履物が突っ込まれている大きな下駄箱の右端の一番下。薄汚れた小さな前開きの扉を開け、中の懐かしい物を取り出す。それは入学当初、頻繁に靴を隠されていたあたしが、もしもの時の為にと用意していた予備の革靴である。

 外へと繋がる石畳の土間にその革靴を置いて、爪先を入れてみる。よし――きつくない。

 続いて踵を入れる。少々きつく感じるが、気にはならない。これなら大丈夫だ。あたしの今の靴はティリナに貸して、あたしはこちらの予備の革靴の方を使おう。

「ティナー! おいでー!」

 踵を慣らしながら、大声でティリナを呼ぶ。

「三列目の下駄箱のねー! 裏っ側の右から数えて十一番目、上から三番目にぃー! あたしの靴があるから、それ使ってー!」

 ティリナの湿った足音を響く。直ぐにティリナは、毒々しい紫の棘が生えている訳の分からない靴を持って来た。最初は見間違いかと思ったが、目を擦ってもそれは確かにティリナの手に掴まれていた。

「――これですか?」

「あ、うん。それ違うわ。つーか、よくそんな珍品見つけてきたね……」

 持ち主は誰だろう。凄く気になる。

「そうですか。中々にくーるだと思うのですが……」

 いやいや、天使がそんな悪魔の履きそうな靴を名残惜しそうに見ちゃ駄目だろう。

 残念そうなティリナには悪いが、あたしの靴はそんなに尖っていない(、、、、、、)

 無事にあたしの靴を取ってきたティリナは、土間に靴を置いた。

「痛くない?」

 地面の感触を確かめるように、ティリナは軽く、その場で足踏みをした。

「ぴったりです」

「それじゃあ、こっち!」

 再び手を繋ぎ、ティリナを引っ張っていく。

 外に出ると、穏やかな陽光が眼の覚めるような蒼さの空に満ちていた。

 少し強い風には、春特有の気分が高揚する香り紛れている。夏のように噎せ返りそうな日に焼けた深緑の匂いでもなく、冬や秋のように乾いた寂しげな枯れ枝の匂いでもない。咲いたばかりの花の香りにも似た、正真正銘の春の匂いである。

 柔らかい陽光は暖かいが、それに対して朝の空気は冷たく澄んでいる。対比的な温度差が、自分を通して混ざり合い、背中の後ろから抜け、再び解けていく。

 絶えず風は流れ続けているので、息苦しさを全く感じない。いつになく気分の良い朝だ。

 目前に大きな円柱状の巨大な建造物が確認出来る。遠目から見ると巨大な筑紫の様である。

 空に手を伸ばすように背伸びをすると、僅かに残っていた倦怠感が抜けていった。ティリナもあたしと片手を繋いでいるので、釣られて同じ格好になった。

「――んんーッ! 今日も気持ちが良い! な? そう思うでしょ?」

 向かい風に顔を向けると、くすぐったい感触が頬を撫でていくのが分かる。

「はい。此処はいい風が吹きますね。瑞々しくて新鮮な風です」

「風に新鮮も何もあるの? 冷たいとか熱いとかならあると思うけどさ」

「ありますよ。風だって生きています。死にもしますし、生まれもします――……。」

 ティリナはそう言ってから、軽く顎を上に向けた。

 ――空を見ているのだ。

「……何か――思い出した……?」

 あたしは、遠い眼で遥か彼方の空を見詰めるティリナに問いかけた。ティリナは横に立つあたしの方を見ると、そっと首を横に振った。

「残念ながら。でも……ぼんやりと……頭の中で色々な事が――記憶が垣間見えるのです」

「例えば……何が見えるの?」

 彼女は再び空に顔を向け、眼を静かに閉じた。

「空の光景が浮かんでは消え、浮かんでは消え……。それだけですね」

 風がゆるりと凪いだ。靡いていた髪が元の位置へと戻る。

「ふうん……空かぁ。やっぱ飛んでたのかな?」

 あんなに立派な翼があるのだから、飛べる筈だ。

「どうでしょうか。飛べるならさぞや気持ちがいいとは思いますが」

「そう――だろうね。はぁ……いいなぁ。空飛べるなんて卑怯だよ……」

 彼女のように翼があっても、自分は空を翔る事は出来ないだろう。途中で呆気なく落ちてしまうに違いない。落ちて――立ち上がる事もなくそれっきりだ。

「卑怯――ですか? それでは、あの鳥も卑怯なのですか」

 ティリナは遠い空の向こうで自由に翼を広げている白い鳥の群れを指した。

「卑怯だよ……。行きたい所に行けるなんてさ。ずるいよ」

 卑怯なのはあたしじゃないか。飛び立った後に自分が落ちてしまうのではないかと怖がっているだけじゃないか。だからいつまで経っても飛ぼうとしない――。馬鹿みたいだ。うじうじと――ホント――馬鹿らしい。それが理由で、彼女(二ナ)はあたしに愛想を尽かせたっていうのに。

 自覚はある。あたしは卑怯者であり、臆病者なのだ。表面上は強気に出ていても内心は怖くて仕方が無い。だから彼に――アズルに何度も確かめるように訊いてしまう。そんな自分が嫌になる。

 でも――どうすればいいの――自分の非力を知っているのにどうしろって言うのよ――。

「ユーリは何処か行きたい場所があるのですか」

「…………無いよ。そんなの――無い」

 いつものように嘘を吐いた。もしかしたら、彼女も彼のように肯定してくれるかも知れない。

 ――だけど。だけど、他の人間達のように嘲笑うかも知れない。そんなの――耐えられない。

 曇りもなく晴れ渡る空が急に忌々しく思えてきた。

 あたしは苛立ちを誤魔化すようにティリナの手を強く握った。

 彼女の手は矢張り温かくて――安心した。

「……あっち……見てみて」

 あたしは空いている方の右手で目の前に聳える勇壮な塔を指差した。

「アルロイト魔術学院だよ。大きいでしょ」

「あれが――あそこに今から行くんですね。ちょっとわくわくしてきました」

 ほぼ無表情でわくわくと言われても――でも――少しは嬉しそうには見えるかな。

「あはは……そう? さ、進もうか!」

 右側にある城下街に続く階段を降り、朝の喧騒が賑やかな街道へと出る。横幅にして十メートル以上はあろうかとも思われる、広く、美しい茶褐色の煉瓦を敷き詰めた街道である。

 街道では人は絶えず流れ、胸の厚い雄馬が引く荷馬車が幾つも行き来している。皆一様にして、明るい顔をしているのが、この魔道都市キールソミヤの繁栄を表していると言えるだろう。

 このような道は此処以外にも数本通っており、放射状の形で国の象徴(シンボル)である『空飛ぶ巨岩(サクスイボランティ)』の真下へと続いている。空中に浮遊する巨岩は観光名所としても有名で、それを見る為だけに、この都市国家に足を踏み入れるという人も少なくはない。

 賑わっているとはいえ、キールソミヤの城下街は意外と普通だ(、、、)。白い壁の家々は急な傾斜が特徴的な赤銅色の煉瓦屋根を迷路のような形で並べ巡らせており、屋根の中腹辺りでは小さなもう一つの屋根がせり出し、真四角に線を引いたような小窓が付いている。それは子供の頃に見た、人形のお家(、、)のような窓にも似ていて、自分自身が人形になってしまったかのような感覚さえ覚えてしまう。

 ミニチュアのような家の窓からは小さい子供や、洗い物を干そうとしている女性達が顔を出していて、朝日に顔を晒しながら声を張り上げている。この辺りはあたしの故郷と同様であり、懐かしい。

 そんな街の中をティリナは興味深そうにキョロキョロと周囲を見回した。好奇心が旺盛なのだろうか、心なしか愉しそうにも見える。

 活気溢れる市場には、朝の内に収穫した野菜の泥臭さや、新鮮な魚介類の生臭さと潮の匂いが綯い交ぜになった匂いが立ち込める。ほんの僅かな隙間でも、手を叩く行商人は黒いイモリの黒焼きやら、綺麗な模様の織物などを風呂敷の上に広げ、道行く人々に声を掛けている。時々、ティリナがそういった声に惹かれて何処かに行ってしまいそうになるので、手は確りと掴んでなければいけない。

 魔道都市では近衛魔道師(クストス)達によって治安が保たれている故、人買いなどの心配はしなくても良いのだが、手を離せばこの人通りの多い往来ではあっという間にティリナを見失ってしまう。だから、あたしは彼女の手を確りと握り、離さないように気を付けている。

 歩いていると、焼きたてのパンの匂いが香ってきた。生地に練りこまれた濃厚なバターの匂いが食欲をそそる。学院に着く前に、何かお腹に入れておこう。ティリナは昨晩から何も食べてないだろうし。うむ、朝食だ。嫌な事は食べて忘れるのが一番だ。

 十字路を抜けて直ぐの場所にお気に入りの店がある。黄色い屋根の軒先には黒光りした癖のある髪をきっちりと分けている厳しい髭面の大男が腕組みをし、客を待ち構えている店である。

 大男は、一見、無愛想にも見えるが――。

「おじさーん! おはよう!」

「――おう、ユリアちゃん! 相も変わらず可愛いね!」

 こんな調子だ。見た目は恐ろしいが、口は上手い。

 彼は店主のジズ=ドッデム。あたしやアズルは『ジズおじさん』と親しみを籠めて呼んでいる。長い付き合いで、入学当初からアズル共々お世話になっている間柄だ。

「あーやっぱり、ジズおじさんのお世辞を聞かないと、一日が始まった気がしないわぁ……。チーズマフィンとチョコマフィンはある? あったら二つずつ頂戴!」

「あいよ! ちょいと待ってな! 焼きたてがもう直ぐ出来る筈だ」

 お気に入りの品を頼みながら、店内を覗く。店の中はあたし達のように朝食にパンを買い求める人々で、ごった返している。景気はかなり良い様だ。

 店の陳列スペースには、少し黒く、固い石のように罅割れた食事パンから、細長くこれまた固い小麦色のパン。さっくりとした生地の上に甘いチーズと蜂蜜が溶けている菓子パンまで、多種多様なパンが華やいで並んでいる。せっかく注文を決めたのに、こういう美味しそうな光景(、、、、、、、、)を見ていると決心が揺らぎそうになるので、急いで目を逸らした。

 鬼のような風貌のおじさんとは違い、見るからに優しそうな赤い髪の奥さんが、カウンター越しから手を振ってくれた。どうしてあの奥さんと、この、目の前で豪快に笑う強面のおじさんが結婚したのか未だに解らない。訊けば、『一目ぼれ』だそうで、

 しかも奥さんの方が――らしい。

 人の恋心は読めないものだ。斯様(かよう)にも珍しい組み合わせが成立するとは、恐るべし。

 奥へと奥さんが引っ込んでいく。直後、四角い縁のある鉄板に、所狭しと並べられた若干狐色に近いマフィンを持って戻ってきた。奥さんはその鉄板をカウンターの上に置くと、ぱたぱたと慌しく再び奥へと入っていき、次の鉄板を持って帰って来た。二枚目の鉄版を一枚目の鉄板に上に重ねると、あたしの方を見て軽く悪戯っぽい顔で片目を瞑ってみせ、もう一度奥へと消えていった。

「――んむ。出来たみたいだな。本当は冷まさなきゃいけないんだが……うちの家内は焼きたてを食べて欲しいらしいな。まぁ、熱々の方が美味かろうよ。今取ってくるから待ってな」

 おじさんは店の中へと入ると、重ねられた鉄板を台上に並べ直し、二つの鉄板のそれぞれから鉄のトングでマフィンを取り上げると、カウンターの下から小さい紙袋を取り出し、意外にも器用な手付きで中へと入れていった。全てを紙袋に入れ終わったジズおじさんは、店の中のお客に頭を軽く下げつつ、あたし達の方へと大きな足取りで歩いて来た。

「ほらよ! 熱いから気をつけてお食べ!」

 あたしに紙袋を渡しながら、おじさんは強面の顔を歪めて笑った。

「ありがと。おぉ、温かい! お金出すから、ティナ、悪いんだけど、これ持ってて」

「……ほかほかしてますね。良い匂いもします」

 ティリナが紙袋を受け取る前に、おじさんがあたし達の前に掌を翳した。

「いんや、お代はいらんさ。そっちのお穣ちゃんへのサービスだ」

 おじさんは見た目にそぐわぬ穏やかな微笑みをティリアに向けた。ティリアは人形のような眼でおじさんを見返すと、丁寧な動作で頭を下げた。

「ありがとうございます。私はユーリの友人のティリナと申します。以後お見知りおきを」

「おお。こりゃどうも。店主のジズ=ドッデムだ。こちらこそ宜しくな」

 顔を綻ばせながらおじさんは手を差し出す。ティリナもそれに快く応じた。

「……いやあ、ユリアちゃんがアズルの坊やの他に友達を連れてくるなんてなぁ……。ニーナちゃん以来じゃあないか? この前も――」

 こちらの方を一度見てからおじさんは、むう、と唸り、そのまま口を閉ざした。

 多分――あたしの顔色を察してくれたのだろう。

「おっと……すまんな……口が過ぎたらしい……。歳を取ると口が軽くなっていけねえな」

 おじさんはぴしゃりと額を叩いた。二ナは、あれからこの場所に来た事があるのだろうか。おじさんの口ぶりだけで判断するのならば、その可能性は十分にある。

 でも――もうあたしには関係ない。

「……おじさんが気にするような事じゃないからさ……。それよりもマフィンありがとね」

「何のそれぐらい。お得意様への日頃の感謝の気持ちに比べたらな――」

「はいはい、分かった分かった」

 非常に話が長くなりそうな気配がしたので、かわした(、、、、)。おじさんはしょぼくれた顔になったが、流石に最大で二時間続く『お客様への情熱』を聞いている暇は無い。

「あはっ! それじゃあたし達は行くからね。また今度改めて来るよ」

「今度はアズルの坊やもつれて来いよ! サービスするぜ。やっぱユリアちゃんの隣にはあの坊やがいねえとなぁ。目玉焼きにトマトソースが無いのと同じぐらい味気なく感じるわな」

「その例え意味が解んないって」

 味気ない――か。言われてみれば確かにいつもと違う感じがする。違和感があるのだ。あるべきものが無いというか――肉体の一部が欠けているような――そういった感覚である。毎日のように一緒に出歩いていれば無理もないか。情けない事に、あいつが隣に居る事にすっかり慣れてしまっている様だ。

「それじゃあね、おじさん! ティナー」

 あたしは手を振りながらティリナを呼んだ。

 ティリアはあたしの声に軽く頷き、もう一度おじさんに向かって頭を下げた。

「それでは、ジズさん。これにて失礼します」

「ティリナちゃんも、またおいで!」

 あたし達は街道へと戻り、適当な商店に立ち寄って、真っ白な牛乳の入った小瓶を二つ買った。朝は矢張りこれが無ければ始まらない。牛乳を飲んでこそ、成長は促進されるのだ。現在効果が無くとも、将来は分からないのである。きっと牛の乳から(いずる)ものであるからして、効果が無いという事はありえない。古来から人は言う。病気になったのなら、動物の――自分が病気になったのと同じ部分を食べろ――と。つまり足が悪いのならば、鳥の足を。眼が悪いのならば魚の眼を。それならば、牛の乳を飲めば乳が大きくなるのも道理である。いいや――そうでなければいけない。でないと詐欺だ。

 飲めば飲むほど大きくなる――それを考えると意識せずとも笑いが零れ出してしまう。

「――あーっはっはっはっはっはっはっはっは!! 牛乳は最高だぁぁッ!」

「ユーリ? しっかりー。……どうしましょう、ユーリが壊れてしまった」

 マフィンが冷めてしまう。早い所食べてしまわないと。アズルも待っているだろう。

「ふふふ……あたしは正常よ、ティナ……」

 あたしは体から吹き上がる歓喜の感情を押し殺しつつ、紙袋を開いた。袋の口を開くのと同時に、バター特有の柔らかな香りが鼻を通り抜ける。

 普段の冷めた奴もかなり良い匂いがするのだが、焼きたては更にそれが際立っている。溶けかけたダイスチーズや、チョコの甘い香りも相まって、眠っていた食欲が起き始める。

「……食べようか! 美味しさはあたしが保障する」

 あたしはティリナに二種類のマフィンを差し出した。ティリナはまだ温かいマフィンを両手で受け止めると、しげしげと顔を近づけた。

「甘い匂い――ところでこれは何と言うのですか」

「これはね、『マフィン』だよ。カップケーキみたいだけど、それよりも少し硬い……。あれ? カップケーキとマフィンって一緒なんだっけ……? と、とにかくまずは食べてみて!」

 正直に言うと自分でも違いが判らなくなってきたのである。ティリナは両手の上のマフィンの匂いを嗅いでから、チョコマフィンの方の包み紙を剥がし、小さな口でそれに噛り付いた。

「…………! これは……! 革命ですね……!」

「そ、そう? 革命なの……?」

 あたしは黙々と咀嚼を繰り返すティリナをじっくりと眺めた。こうも口一杯にマフィンを溜めていると栗鼠の様である。不意に口が止まる。どうやらこれが(、、、)が必要な時が来たらしい。

 あたしはティリナに牛乳の入った瓶を渡し掛けた(、、、、、)

「はい、これ飲んで。絞りたてを沸かした奴だから美味しいよ」

「もが……む……? ありがとうございま――」

 待てよ? これ以上ティリナの胸が大きくなったら――。

 咄嗟に瓶を渡そうとした手に力が籠った。

「あの、ユーリ。瓶から手を離して下さい。飲めません」

 あたしの本能は、牛乳の入った瓶をティリアに渡すのを拒んでいる。

「うんうん、分かってる。すっごく分かってる。今離すから」

 指が――離れない。これ以上大きくさせたくないのだ。それはある種の危機感にも似ていた。

 大きくさせては駄目だ。大きくさせては駄目だ。そんな考えばかりが浮かぶ。

「離してないじゃないですか」

「だって大きいだもん! 必要じゃないぐらいに大きいんだもん!」

 少しでいいから分けて欲しい。

「何の事を言っているのか私には解りかねます。いいから離して下さい。嫌いになりますよ」

 何となくティリナの瞳が冷たく光った気がしたので、あたしは大人しく手を離した。

「くそう……。神は平等に人間を作ったんじゃねぇのかよぅ……」

 ティリナの手が優しくあたしの肩を包んだ。

「人にはそれぞれ短所と長所があります。それをいちいち嘆いていたらきりがありません。ユーリは今のままでも十分に素敵ですよ。足りない所は補えばいい」

 心遣いは非常に有難い。嬉しい――とても嬉しいのだが、補えないから嘆いているのだ。

「そうだよね……うん……そうだ。マフィン……美味しかった?」

 もう考えても仕方が無いので諦めた。いつか大きくなる事を願うばかりだ。

「ええ、ふわふわでした。ところでおかわりは?」

「ありません。さて――お腹も膨れたし……」

 腹の虫を黙らせた後、あたし達はゆっくりと街の景観を見物しながら歩み出した。

 街道を真っ直ぐ行くと、途中で二つに分岐する。真ん中の道は中央――魔道教皇の城の真下へと続く道。もう一方、左の方は緩やかな曲がり道で、こちらを進んで行くと『アルロイト魔術学院』へと繋がる。あたし達が進むのは当然左の方の道だ。

 左の方の道へ入っても、多くの人が行き交いするのに変わりは無い。少々道幅は狭くなるが、それでもかなり広い部類だ。魔術学院自体も、『空飛ぶ巨岩(サクスイボランティ)』と同じく、観光の目玉となっているので、人が多いのも頷ける。

 感覚的には直線のように感じられる曲線道を暫く進むと、急に切り込みを入れたような曲がり道があり、其処をまたもや左に歩いて行くと、眼前に天を突く大きな石塔の根元が見えてくる。石塔は公園の広場の如き障害物が悉く排除された空間に根を下ろしており、首を左から右に精一杯動かして、やっとその全貌を確認出来る程の巨大な建築物である。塔は灰鼠色の石を刳り貫いたような貌を呈し、中心部には黒々とした黒檀の門が訪れる者を待ち構えている。

 あたしとティリナは、そんな石塔に向かって歩み寄って行った。

「これが――魔術学院……」

 ティリナは眼前に広がる厳粛な門を見上げながら呟いた。

「そっ。んじゃ、まぁ……門を開きますか」

 遠くから見ても存在感のあった黒檀の門は近づくにつれ、威圧的な雰囲気を発するようになっていく。あたしは門に片手を触れた。装飾の一つも無い門の表面に白く輝く文字が浮かび上がる。

 其処には古代の――魔法の基礎となる文字でこう書いてある。


 三界より三つの法を授けられん。


 一つは妖精の王より。一つは堕天した者より。一つは大いなる天より。


 学びを得たくば神の御印を示せ。志高く門を叩け。


 妖精には秩序ある調和を。魔には秩序ある混沌を。天には秩序ある正義を。


 なれば魔道の門は開かれり。

 

 大地を揺らすような音が響き渡る。文字の浮かび上がった門が徐々に開いていく。

 門の先には長い石廊下が伸び、その脇には松明の灯火が炯炯と内部を照らしている。

 暗所であるにも関わらず薄暗さを感じさせない、廊下の先に何が待ち受けているか期待させられるような印象を受ける石の直線道である。

 ――いつ見ても、この門が開くときだけは初心に返れる。初めてこの門を叩いた時に。自分の夢を信じていたあの頃に――。 

「……いらっしゃい! 此処がアルロイト魔術学院だよ」

 精一杯の明るい顔で、あたしはティリナに向かって言った。

 紅い瞳は静かに――奥の光景に視線を向けず、あたしだけをじっと見ていた。


 <12>

 

 炎の燃ゆる音が静寂の湖面に波紋を広げる。

 光の注がれぬ暗く冷たく広い石の道の両横を、赤々とした炎が走っている。

 見通しの悪い道を照らす松明の光である。光源はこの松明の灯火のみ――。

 それに対して音は二つ――石牢へ続くかのような陰鬱な道には、枯れ枝を絶えずへし折っているかの如き音と、霞んだ静かな息遣いだけが響き渡る。石に反響し、増幅された音は、小さいながらも強く自己主張する。二つの音は石で閉ざされた空間であるからこそ際立って聞こえるのだ。

 蛇の舌のように不規則に動き続ける焔により、道中に巣食う闇は取り払われている。端へと追い遣られた闇は濃縮し、強い陰影を作り出す。粘り気のある沈み切った影である。影はごつごつとした壁面を苔のように覆っている。黒色が強まる。唐突に重厚な影の束がぐにゃりと引き伸ばされ、覆う範囲を広げた。

 影が増殖したのか――。いや、そうではない。新たに現れた影が元々其処にあった影に重なったのだ。

 影の中から染み出るように、二人の少女の姿が現れた。一方は考え込むような表情をしており、もう一人は無表情である。どちらも絹のように色が白く、艶かしい火焔の色をそのまま自らの肌に写し取っている、十代後半のうら若き少女達である。

 二人の少女には大きな差異がある。無表情の少女の方の色はどこか作り物めいているのだ。思惟に耽っている少女が自然(、、)であるとするならば、表情を欠いている少女は不自然(、、、)なのである。それは少女の真紅の瞳や、白鳥の羽のように白い頭髪に起因しているのかも知れない。

 炎よりも紅く艶やかな瞳を持つ少女は、不意に隣の歩く少女の顔へと視線を動かした。

「どうしましたか。先程から浮かない顔をしていますが」

 紅い眼の少女――ティリナは気遣うような声で、脇を歩くユリア=クロスウェルスに尋ねた。

「……あたし……あんまりこの道好きじゃないんだよね……」

 歩を緩めながらユリアはティリナの方を向いた。横で、めらめらと燃え続ける炎の彩光に照り付けられ、ユリアの表情にはいつもよりも一層暗い影が落ちている。

「ついでにこの先の学院の中も好きじゃない。どっちかって言うと苦手かな……」

 ユリアは先へと続く暗中の足元を俯き加減に見つめた。

「苦手――ですか」

「うん……。あんまり良い思い出は無いからね。まあ、愉しい思い出もあるんだけど――」

 懐かしむようにユリアは少しだけ含みのある微笑を浮かべた。

 悪い思い出も、良き思い出も、全てこの道や、この先の場所での事なのだ。どちらも同じ数だけあり、どちらも同じだけ自分の心に響いた。それらが蓄積して現在の自分を形作っているのかと思うと、悲しむべきなのか喜ぶべきなのか判りかねる複雑な気分になるのである。

「ユーリは嫌いなのですか? この学院という場所が」

「苦手なだけ。此処に来なきゃアズルやあんた、それに――……それに……」

 ユリアはそう言いかけた後、細い声で何かを呟いてから口を閉ざした。

 丁度この場所なのである。彼女が友人(ニーナ)と仲違いした場所は。故に此処を通る度に、その時の光景が頭の中で蘇ってしまう。忘れようとしても忘れようがない記憶である。

 突然ティリナが軽く首を捻ると、その仕草にユリアは過敏に反応し、直立不動となった。

 ティリナに詳しい事を聞かれるのではないかとユリアは恐れたのだ。

「アズル? 誰でしょうか?」

 彼女の杞憂は無駄であった。ティリナの問いは、ユリアの予想とはてんで違う場所へと放たれたのだ。ユリアは凝り固まった表情を崩し、あやふやな身振り手振りを加えて説明を始めた。

「昨日の事、覚えてない? 居たでしょ? ベッドの下で寝ていた変な奴が……」

「覚えていませんが――言われてみれば居たような。……ああ、そういえば――」

 ティリナは何かを思い出したように手を打った。

 そんな事に気が付かないユリアは、照れくさそうに頬を軽く掻きながら話を続けた。

「アズルは……ま、まぁ……あたしの友達だよ。それなりに仲は良いと……思う」

 恥らうように顔を背けるユリアを、ティリナは大きな眼で見据えた。

「なるほど――やっと思い出しました。アズルとは、昨晩、寝ぼけた貴女が、私をきつーくきつーく抱き締めながら呟いていた――」

 ユリアは暗所でも分かるような赤い顔で噴出し、物凄い勢いで首を横に振り始めた。

「あーッ! あーッ! 知らない知らない知らない知らない知らない!!」

「あんまりにもユーリが私に顔をすりすりとするものですから眼が覚め――」

 ユリアは焦点の定まらない眼でティリナに、にじり寄った。鬼気迫る迫力が体から滲み出している。だが、そんな迫力溢れる少女に詰め寄られているティリナからは一向に動じている気配は見受けられない。極めて対照的な二人の少女であると言える。

「ねえティナ!? それ人前で言うのは止めようね!? 特にこれから行く場所ではさ!!」

 ユリアは、もうちょっとで角が生えるのではないか――というような恐ろしい形相で、ティリナの両肩を揺さぶった。実情的には立場が逆であるが、傍から見ればただの脅迫行為である。

「関係の無い話ですが、あのマフィンというものは美味でした。――でもユーリに悪いですね。お世話になっているのに贅沢など言える筈もありません。忘れて下さい。それでは先程の話の続きを――」

 思わせぶりな口調でティリナは淡々と言葉を紡ぐ。

「お、お幾つですかティナさん……」

 『しめた』とティリナは細く笑んだ。表情はほぼ皆無であるが、心の中で確かに細く笑んでいるのだ。そしてティリナはユリアの前に片手を突き出し、五指を大きく広げた。

「五個で。お腹一杯食べてみたいのです」

「くっそお……足元見やがってぇ……」

 目の前の天使が悪魔に思えてきた――と思いつつユリアは口を尖らせた。

「……ふむ……ユーリがそんなにその人の事を想っているとは……興味深いです」

 顎に片手を当てながらティリナはユリアの横顔を眼だけを動かして見た。

「……そ、そんなんじゃないって……! 嫌いではないけどさ……」

 頬を赤くしたまま、不機嫌そうにユリアはティリナから顔を逸らした。

「どんな方なのですか」

「ただの変な奴だよ。でも――嫌いじゃないかな。此処での付き合いも結構長いし……」

 彼は自分にとってどんな存在なのだろう――。

 改めて鑑みてみると、中々に奇妙な関係性ではある。

「……好いているのですか?」

「あはは……どうだろうね。あんまりそういうの意識した事無いからなぁ……」

 ユリアは軽く笑った。アズルに対して思慕の念は大いにある。ただ――それを具体的に口にした事は無い。しようと思っても、そういう時に限って空回りするのである。どうにも上手く伝えられないのだ。

「――お、そろそろ着くよ。足元に気をつけて」

 炎の赤い光が薄まっていく。それに代わり、穏やかな自然光が道の先から射し込んできた。

 徐々に明るくなりつつある道中に幅の広い階段が現れた。光はどうやらその上から射しているらしい。

 階段を一段一段と上がっていく度に幻想的な闇は影を潜め、少しずつ周囲の光景が鮮明に――現実味のあるものへと変化していく。階段を上り詰めた先にあったのは、多くの少年少女達が行き来する、明るくも落ち着いた雰囲気の大広間の光景であった。

 中央には膨大な書物の収められたとてつもなく巨大な柱が通り、異様な存在感を放っている。

 その柱を取り囲むようにそれぞれの階層が成り立っており、程々の隙間を残して柱に密着し、支えられている。外壁は灰色の色褪せた煉瓦でみっちりと隙間無く形作られているが、こういった建築物に付き物の、陰湿な暗さというものは微塵も感じられない。壁自体が光を取り入れているかの様である。

 柱の周囲には、数人の人間が乗れる程の大きさの装飾の施された銀で出来た円盤が偏りなく三つ設置されており、それぞれが床から僅かに浮遊しながらその場に留まっている。

 これは円盤に乗り、魔力を籠めながら目的の階層を口頭で指定すると、その階層へと向かって自動で上昇するという『自動魔力昇降機』と呼ばれる乗り物である。階層と柱の間にある隙間は、この乗り物が滞りなく階と階と移動する為に設えたものなのだ。

 見ている分には不安定で危険な移動手段にも思えるが、乗った瞬間に円盤の縁に沿った形で実体のある光の壁が出現するので落下の心配はまず無い。

 雄雄しく聳える柱の手前には、三体の像が立っている。

 一つは華やかに着飾った女性の像である。頭に煌びやかな冠を頂き、装いとは正反対の簡素な長い杖を天高く掲げ挙げている。

 中心の像はおそらく天使を模したものなのだろう、流れるような衣を腰に巻いている。顔は無く、他の二つの像を囲むように翼を丸く広げている。

 一番右の像は羊頭に、筋骨隆々とした男の体が付いている。男の像は膝を着き、巨体から女性の像の杖と対になるように長い腕を伸ばしている。

 三つの像はまるで生きているかのように三者三様に自己主張し合い、反発し、それでいて妙な調和を見せていた。

 広間の左右からは、五、六メートルの純白の階段が捻りを加えながら曲線状に宙へと伸び出している。螺旋階段を途中で切り取ったような形にも見えるが、実際はなっておらず、次層にて反対側の階段と合流している。

 何よりもこの空間――『アルロイト魔術学院』の中で異様なのは、外観では明らかに外からの光を取り入れられない構造に見えるのにも関わらず、良い具合に調節された太陽光が絶えず降り注ぎ、全てを明るく照らしているという事――。

 そして、これも外から眺めて見れば解るのだが、どう見ても学院の内部は外観から予想出来る広さより広過ぎる(、、、、)――という事である。

 だからこそ、初めてこの学院を訪れたものは皆、入り口から入り、長い石廊下を抜けて出るまでの間に全く別の建物の中へといつの間にか移動していたかの如き違和感を感じるのだ。

 否――事実、別の空間へ移動しているのかも知れぬ。

「これは…………」

 ティリナは大きく息を呑んだ。

「――どう? 驚いた? 外とは全然違うでしょ」

 ユリアは、自らの横で学院内の景観の全てをどうにか視界に収めようとしているティリナにしたり顔を向けてから、何かを捜すかのように周囲を眺め回した。

「――にしても……あいつ……何処だ……? この辺じゃないのかなぁ……」

「……ユーリ。あの三つの像は?」 

 三つの像に気が付いたティリナは、ぐいぐいとユリアの袖を引っ張った。

「ああ、あれ? 昔からある彫像だよ。詳しい事は知らないけど、ずっと昔……この学校が創立した時からあるらしいよ。……あ、そっか。天使! あれも天使か。……でもティナには似てないね」 

 無表情という意味では似ているのかも知れないが、意味が違う。像の方は本当に表情が無い(、、、、、)のだ。ティリナには微かだが確かな表情がある。

「あたしはやっぱりティナの方が好きだな」

「……ふふ。ありがとうございます」

 ティリナの顔は微かな笑みを浮かべたように見えた。

「……ティリナ――……」

 赤い眼の天使は矢張り人形のように無表情であった。

「どうしました?」

「えっと……。……何でもない。……あぁ、そうだ、上にはあの階段を登って行くからね」

 見間違い――なのか。

「あの乗り物は使わないのですか?」

 ティリナは柱の周りにある銀の円盤を示した。

「んーあれか……。あたしがあれに乗ると、たまーに、最上階まで物凄い勢いで飛んでいく(、、、、、)事があるんだよね……。目的地は二階だし、あれを使うまでも無いよ」

「それは残念です……」

 残念そうな声色を発するティリナの肩を、ユリアは励ますようにやんわりと叩いた。

「また今度来る事もあるかも知れないでしょ? そんな落ち込まないの!」

「そうですね。万が一もあるかも知れませんし……」

 ユリアはそうそう、と頷きつつティリナを先導するように歩き出した。

 白い階段をユリアを先頭に登っていく。すると、途中でユリアの歩が止まった。彼女は蒼い眼を細め、ある一点をきつく睨んでいる。ユリアの視線の先には、黒い髪を短く刈り、横方向に幾つか剃り込みを入れている、ユリアと同世代だと思われる立派な体躯の少年が立っていた。

「よお、氷姫(イチェフィリア)。随分とまぁ、遅いご起床で。さぞや枕を高くして眠れたんだろうなぁ? おいおい、そんな剣呑な眼で見るなよ」

「あ~……フーゴ君? 退いてくんないかな? すっごい――邪・魔」

 フーゴと呼ばれた少年は、嫌味ったらしい様子で口端を歪めた。

「邪魔なのはお前だろう? なぁ――魔法もろくに使えないくせして大きな顔しやがって」

「だからどうしたって言うの? あんたに関係あるのかよ?」

「お前のその眼――むかつくんだよ。何も出来ないのに態度だけはでかい。無能なら無能らしく相応の態度を取れよ。全く……こんなのに卒業まで我慢しなきゃならないなんてな」

 あからさまに自分を馬鹿にしている言葉に、ユリアは『またか』とでも言いたげなうんざりとした顔になった。こうした出来事は、彼女にとっていつもの事(、、、、、)なのである。

「その方はお知り合いですか」

 後ろからユリアの後を付いて来ていたティリナが、ユリアの背後から顔を出した。

「おい、氷姫(イチェフィリア)。誰だこの子? うちの学院の生徒――じゃないな」

 フーゴはティリナの肢体をしげしげと舐め回すように見た。それと時を同じくして、ユリアとティリナの周辺も騒がしくなってきた。通常の人間とは異なるティリナの美貌は、フーゴばかりではなく、道行く学院の生徒達の視線も集めている。しかもその傍らには、とある一定層(、、、、、、)に陰ながら絶大な人気を誇っているユリアも居るのだ。周囲の関心を惹いてしまうのも、ある意味必然ではある。

「始めましてお嬢さん。俺はフーゴ=ハルロフ。いきなりだが、そこの出来損ないとはさっさと縁を切った方がいい。素行も不良、此処では専ら出来損ないと称されている女だ」

 嘲るような調子でフーゴはべらべらと講釈を続ける。勢い付いた彼は、ティリナに向かって親しげに歩み寄って来た。それをユリアが辛うじて間に割って入った。

「何なら今から俺と一緒に来るかい? 本物の魔法を見せてあげよう」

 フーゴはいかにも自信に満ち溢れた表情をユリアの頭の横から覗かせた。下心が透けて見えるような表情である。

 首を傾げるティリナに、ユリアは顔を近づけ、『無視しろ』と囁いた。

「こいつは……えー何というか――でっかい団子虫だ。ほれ、頭見てみ、団子虫でしょ? おっと近づいちゃ駄目だよ、毒持ってるからね。かぶれるよ」

 やりあう気すらなさそうな脱力した表情で、ユリアは前方に立ち塞がるフーゴの頭を指した。

「……何と……団子虫はここまで大きくなるのですか」

 フーゴの唇がひくりと動く。一方ユリアは(きざはし)の隅へと移動した。

「知識にはありますが、実物を見るのは初めてです。団子虫、ああ、団子虫――」

 フーゴの体は怒りに震え始めている。それを階段の隅で後ろ向きに蹲りながら聞いているユリアは、口を押さえ噴出しそうになるのを堪えていた。

「……どうも始めまして団子虫さん。素敵な頭ですね」

 ティリナはフーゴの頭に手を伸ばし、芝のような髪の毛の表面を撫でた。

「……ふほっ……! や、やるじゃん、ティナ……ひひっ! むふっ……!」

 階段に蹲るユリアは堪らず大きな笑い声を漏らした。その瞬間、フーゴの中で何か(、、)が切れた。

「コケにしやがって……! てめえら二人ともただじゃおかねえ……!」

 頭に血が上ったフーゴは、歯を食いしばり、掌を突き出した。魔法を使うつもりなのである。

 だが、彼が魔法を使う前に、階段の隅で散々笑っていたユリアがいつの間にやら立ち上がり、自然な動作で、親しげにフーゴの肩に手を乗せた。

「フーゴ君、ゴミ付いてる」

 ユリアはフーゴの肩を軽く、優しく、白魚のような指で払った。その違和感の無い動きに、怒り心頭であったフーゴも思わず気勢を削がれてしまった。

「あ、すまん。ありがと――」

 反射的にフーゴが礼を述べようとした時の事である。ユリアがぼそりとした低い声で呟いた。

「お礼でいいのかな? あたしはこれからあんたを燃やすんだけど――」

 それを聞いた瞬間、フーゴの体を嫌な予感が駆け抜けた――。

燃えろ(アスティオ)

 ユリアの手が触れている部分――つまりフーゴの肩の辺りで炎が爆ぜた。それは見た目の割りに、威力こそあまり無いが、フーゴの服に火を点けるには十分過ぎる大きな火種であった。

「――うあ熱ッ! てめえ、何すん――熱いッ! だ……誰か水! 水! 水をくれ!」

 肩を炎に焼かれているフーゴは、大声で叫びながら階段を駆け下り、誰彼構わず助けを求めた。しかし、彼に助けの手を差し伸べる人間は誰一人として居ない。

 皆知っているのだ、全てフーゴの自業自得である事を。かの『氷姫(イチェフィリア)』に絡んで、ただで済む筈が無いのだ。通例通り、制裁(、、)を受けるだけである。尤も、火の点いたフーゴを誰も助けようとしないのは、フーゴ自身の人望の低さも無関係ではない。

「――ばぁーか。いちゃもん付けんなら、もう少し上手にやんなさいよ」

 小さく舌を出しながら、ユリアは階下の床で転げ回るフーゴを蔑視した。

「行こ、ティナ! あんな奴に構ってるなんて時間の無駄!」

 ユリアに手を掴まれたティリナは、素直にそれに従った。だが、顔だけはフーゴの方に向いている。ティリナは空いている方の手で軽く手を振った。

「さようなら、団子虫。また会う日まで」

 ユリアはティリナの手を引き、階段を上がっていく。不意にユリアが振り返った。

「……もう。あんなのに触っちゃ駄目でしょ……? 痒くなっても知らないよ?」

 憮然とした表情でユリアはティリナに言う。

「次回から気を付けます。もう団子虫には素手で触れません」

 ティリナは赤い眼でユリアを仰ぎ見た。ユリアは少し表情を崩し、眼を瞑りつつ頷いた。

「そー。それでいいの。あんた、恐ろしい程に美人なんだから、変な虫に引っ掛かんないか、こっちが心配になっちゃうよ。ああいう男には問答無用で拳を叩き込まないと」

 ユリアは空いている右手で拳を作り、ぐるぐると振り回した。彼女の眼は本気である。

「心配しなくても大丈夫ですよ。私も気安く体に触れる輩は切り刻む予定でしたから」

 そう言ったティリナの真紅の瞳は、刃物のような鋭い光を帯びていた。

「……よし。それでこそ――え? 切り刻む? バ、バラバラに?」

 再び頷き掛けたユリアは途中で我に返って、ティリナを凝視した。

「ええ、バランバランに」

 聞き間違いではないらしい。しかも冗談でも無さそうである。

「…………ああ、うん……バランバランにかー……」

 ティリナが具体的にどんな方法を執るのか気懸かりではあったが、ユリアにはそれ以上『バランバラン』に至る道筋を踏み込んで訊く勇気は無かった。

「――ユ~リア先輩ッ!」

 突如としてユリア達に声が落ちてきた。階段の少し上の方に黒い長髪を肩まで垂らしている少女が、無邪気な笑顔を浮かべ、ユリア達を見下ろしている。

「おー、リズベルか。久しぶり――でもないか……」

 黒髪の少女は、階段を下り、子犬のようにユリアに駆け寄った。

「さっきの見てましたよ! やっぱり、先輩は最強ですね! 胸がすっとしました!」

「最強って……。あぁ、この子はリズベル=ワインダー。二つ下の後輩」

 ユリアは苦笑しつつティリナに黒髪の少女を示した。リズベルという名の少女はニコリと微笑み、両膝に手を添え、深く腰を折るようにしてティリナに向かって丁寧に礼をした。

 この少女は、些細なきっかけが元で、ユリアに懐いてしまった。最初こそ、戸惑っていたユリアだったが、可愛らしい後輩を無碍にすることも出来ず、中途半端な親交を深めているのだ。

 アズルともう一人(、、、、)を除けば、リズベルはユリアにとって学院内で最も親しい人物になる。しかして、教師と生徒、先輩後輩という対等ではない関係を含めばもう少し存在する。

「リズベルです! 始めましてッ!」

 自己紹介をされたティリナは、自らも軽く頭を下げ、礼を返した。

「始めまして。私はティリナと言います。天――」

「そぉぉぉぉぉぉいッ!」

 ティリナが自分の素性を口に出す前に、ユリアが彼女の口を素早く塞いだ。

「えっ、今何て――」

 困惑顔のリズベルの前で、ユリアはあわあわと首を振り、片手を泳がせた。

 どう見ても挙動不審である。

「な――何が? ティリナは何も、い、言って無いけど?」

 取り繕った笑顔でユリアはどうにか言葉を繋ぐ。が、声は若干震えている。

「いやでも、さっき、『天』がどうとか……」

 人知を超えた速さでユリアはリズベルへと顔を近づけた。

「聞き間違いじゃあないかなぁー……? っていうか、聞き間違いにしとけ……!」

「は、はい……わ、解りましたー……」

 鬼神のようなユリアの表情に、リズベルは半ば脅されるようにして、何度も頷いた。

「――ふーり。なふぃほふふれふは」

 くぐもった声でティリナは訴える。

 ユリアは口を押さえている手を離してから、ティリナに耳打ちをした。

「天使って事は黙ってなさい……。あの子心臓発作起こして死んじゃうから……!」

「……よく解りませんが、リズベルに悪影響を与えるというのなら、口外は控えます」

 神経の細い後輩を心配しているのである。もしティリナが、伝説上の存在――天使(デイリウス)などと知れれば、リズベルはたちまち気を失い、階段を転げ落ちる事は必至であるからだ。

 それと――無用な公言は極力避けておきたいという思惑もある。ユリアの目の前で怯え切っている後輩だけならば、問題は無かろうが、今の状況にこっそりと聞き耳を立てている輩も居る可能性だって考えられるのだ。此処では無闇に秘密を口にする事は憚れる――何故なら様々な魔法が行使される『アルロイト魔術学院』では、いつ何時誰が会話の内容を盗み聞きしているか分からないからである。

「よぉーし、よぉーし、よぉーし……」

 ティリナの返事を聞いたユリアは、恐ろしい笑顔でリズベルの方に向き直った。

「そういう事だから。……これ以上は深く突っ込まないでねぇー?」

 水色の瞳が恐ろしい色で輝く。それにリズベルは、再度、首を千切れんばかりに縦に振った。

「勿論です……! ……そ、そうだ! さっきアズル先輩を見掛けたんですけど――……」

「アズルを? そういえばあいつ……何処に……?」

 言われてみれば――とユリアは宙を仰いだ。昨日の夜から別行動をしている相棒の姿は、学院内の入り口付近には見当たらなかったのだ。久しく顔を見ていない気すらする。

「珍しいですよね、先輩とアズル先輩が別行動なんて。いつも一緒に居るのに……。あ、まさか……喧嘩でもしましたか……?」

 気遣いながら言うリズベルに、ユリアは今度は本物の笑みを向けた。

「別にしてないけど……。多分、今日はこの子――ティリナが居たからじゃないかなぁ?」

 そうですか――と、リズベルは自分の事でも無いのにも関わらず、安心した様子で胸を撫で下ろした。

「階段上がって直ぐの――ジズ先生の部屋の前に居ましたよ」

「おお、ありがとさん。……先生の部屋の前に居るのか……。おっと……それじゃ! しっかり勉強しなさいよ!」

 ユリアは、水を得た魚のように眼に見えて元気になり、ティリナの手を引きつつ、軽やかな足取りで階段を駆け上がり始めた。

「あっ! 先輩待って――ああ……行っちゃった……」

 制止の声も聞かず、ユリアとティリナは階上へと姿を消した。

「――ユーリ。先程呟いていた『先生』とは誰ですか。一般的な教員の事でしょうか?」

 驀進するユリアに引き摺られているティリナは、ふと思い出したように言った。

「そういう意味も含んでいるけど……、まぁ……行けば解るよ!」

 学院の二階部分は、一階部とは微妙に様相を異にしている。当然、外界に通じる下り階段や、三つの像などは無いのだが、何よりも床の配色が異なっているのだ。一階部では黒と白の二色であった床石は黒と深い藍色に代わっており、落ち着いた印象を受ける。微々たる違いではあるが、これは、二階部分を取り仕切る人物の趣味を顕著に表しているものである。

 二階部では外壁に沿った形で部屋が連なっており、様々な用途の教室が居を構えている。部屋数はそこまで多くは無く、出入りする教員自体も少ないので、殆どの部屋には通常、施錠がなされている。

 多くの閉じられた教室の中で、常に鍵が開いている扉が一つだけある。其処は二階部を管理する魔道師、『ゼナロエム=ターキ』、生徒達からは『模型狂いのゼナ』と呼ばれている人物の持ち部屋である。

 ゼナという魔道師は授業の時にのみ顔を出し、それ以外の時間を自室に籠って過ごす。その生活サイクルは、あえて人との接触を自ら絶っているかのような奇妙なものであるが、彼の明るい人柄のお陰なのか、彼の部屋を訪れる人足は少ないながらも絶える事は無い。

 奇抜な人物ではあるが、思考は理知的で物腰は穏やかである。一説には(、、、、)魔法の腕も相当なものであるらしい。それが事実であるかどうかは別として――噂話を面白がる生徒達には、冗談めいた形で一目置かれている。

 そして、そんなゼナとユリアは何故か(、、、)仲が良い。学院の生徒間では、『アズルを含めた三人で共謀し、学院の転覆を狙っている』という噂や、『氷姫(イチェフィリア)と、模型狂いは師弟関係である』などという噂が実しやかに囁かれている程に仲が良い。

『師弟関係である』というのはあながち間違いではないのだが、その詳細を知る者は非常に少ない。

 ゼナの部屋は、右の階段を上り詰めて直ぐの場所にある。正に眼と鼻の先に――。

「――さあ~皆、買った買った! 学院内の魔物! あの(、、)氷姫(イチェフィリア)の寝顔を写し撮った転写紙だよー! しかも、何と隣には絶世の美貌を持つ謎めいた女の子も! これはもう買うしかない! はい、そこのお兄さん! 枕に挟めば良い夢見れるよー! 買った買った!」

 そう、眼と鼻の先にゼナの部屋はある。そして、その横では大きな人だかりが出来ている。

 多くの人間――男女問わず入り乱れる人ごみの中心には、調子の良さそうな声を張り上げる少年――アズル=レイジエが、簡素な木机の上へ小銭の入った大きな金属缶と共に、『転写紙』と言われる、指定した物体を魔力を籠める事によって写し取る事が出来る手帳大の厚紙を幾つも広げていた。

「………………」

 無言で立ち竦むユリアの袖を、ティリナがくいくいと引っ張った。

「あれは何でしょうか。凄く賑わっていますね」

 アズルの背後の灰色の煉瓦で出来た壁面には、大きな転写紙に、ユリアの普段からは想像が付かないあどけない寝顔がでかでかとポスターのように写し出され、貼られている。更に、見切れてはいるが、ティリナの姿も見受けられる。

「ユーリ? ユーリ、どうしました? ……おや、あれは私達の顔では――」

「……ちょっと蹴ってくる」

 そう言って、ユリアは突如として走り出した。目標は人海の中心――アズルにだ。

「うおらぁぁぁぁぁああああ!」

 強靭な脚力で怒涛の勢いを付けたユリアは、人波の上を軽業師のように飛び越え、そのまま靴裏からアズル目掛け飛び込んでいった。

「何しとんじゃボケナスがぁぁぁッ!」

「――え? あ……やば――」

 助走を付けたユリアの靴裏は、アズルの頭部すれすれを掠め、彼の頭髪を若干散らした。

 直撃すればただでは済まない――華麗なとび蹴りである。

「うおっ危な――ハッ……!?」

 辛うじて直撃を避けたアズルは、息を吐く間も無く背後に降り立った凶悪な気配に固まった。

 固まる少年の耳元でおぞましい声が囁く。

「――なぁぁにをやってんのかなぁぁ? アズル君よぉぉお?」

 蛇に睨まれた蛙――まな板の上の鯉――現在のアズルには、そんな言葉がよく似合う。

 アズルは襟首を掴まれ、床へと引き倒された。人ごみは蜘蛛の子を散らしたように消え、その場には、少し離れた場所に漠然と立つティリナと、床に横たわるアズルに馬乗りになったユリアだけが残った。

「……やあ、良い朝だな! ギリギリで中てないでくれる所に、君の優しさを感じるね!」

 それは、アズルがこの危機的な状況でどうにか搾り出した言葉であった。

「確かに良い朝だなぁ……その良い朝だけど、あんたの血で真っ赤に染めてやろーか?」

 ユリアは歯をギリギリと食い縛りながらアズルの胸倉を掴み、揺すぶった。

「缶の中の金は没収。売り払った転写紙はいいとして……それ以外の残りのやつは、順次燃やすように」

「そんな! せめて一枚手元に……」

「何か文句でも?」

 蒼い眼が鋭く光る。これ以上何か言おうものなら、即座に殺しに掛かるとでも言いたげな、恫喝的で容赦の無い視線だ。

「無いです……!」 

 蒼褪めたアズルは素直に応じた。でなければ命に関わるからである。

「さて……どうしてくれようか……。股を裂くか……。去勢をするか……。それとも――」

 ユリアの口調は冗談めいているが、彼女の冷たい瞳はその本気の度合いを(つぶさ)に物語っている。

「どうか命だけは……命だけはお助けを……」

 アズルがユリアに顔を近づけられ、失神しそうになっていたその時――突如として隣の部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

「何か騒がしいと思ってたら――君達何やってんの? いつもの痴話喧嘩?」

 扉の陰から、伸ばし切ったぼさぼさの灰髪が特徴的な優男が、眠気の残る顔をひょっこりと覗かせた。

「せ、先生……これはですね……アズルがまた馬鹿をやっていたので……その……はい」

「いやー羨ましくなっちゃうなぁ。若いっていいよね」

 茶化すような男の口調に、ユリアは急に大人しくなった。優男はからからと笑うと、ゆっくりとユリア達を見回した。

「まぁいいや、とりあえず其処で騒いでいたら私が怒られるから部屋に入りなさい。先客も居るけど――……あっれー? その子誰?」

 覇気の無い視線がティリナを捉える。ティリナは待っていたかのように優男の方に歩み出た。

「ティリナと申します。私はて……――」

 素性を語ろうとするティリナの口を、ユリアの手が間一髪の所で塞いだ。

「セ、セーフ――」

 引き攣った笑みを浮かべるユリアに、優男は一度首を傾げると、予想外の一言を言い放った。

「もしかして君、天使(デイリウス)だったりする?」

 ユリアの表情が一層強張った。

「な――なっ! そ、そんな訳無いじゃないですかー……。ははは……やだなぁ、先生……」

「やっぱりそうなんだねー。その子、天使でしょ」

 ユリアが二の句を次げず、皆が沈黙する中、上級近衛魔道師の一人――『模型狂いのゼナ』こと、ゼナロエム=ターキは、矢張り眠そうな顔で笑った。

 

 <13>


「この前渡した、魔法自動構成道具(ACTM)――あれ、どうだった?」

「難しくなかったけど……そうじゃなくて……! さっきの、ティナが天使って何で……」

 二つの声が響き渡る。ゼナとユリアの声である。扉が開かれ、光が部屋の中に射し込んだ。

「ああ、それね、勘。合ってたの? それなら凄いなぁ、本物の天使(デイリウス)かー」

「凄いって……はぁ……この人は……お邪魔しまぁーす……」

 ゼナの部屋を一言で表すのならば、『雑多』と言うのが最も的確であろう。

 一切の装飾が無い、広く実用的な机の上には、うず高く積まれた書物が色とりどりの背表紙を並べており、その隙間には何時いつのものかも判らぬ書類がしおりのように挟まっている。

 その数や数えるのも気が遠くなる冊数に上り、乱雑な机に僅かに見受けられる机の主がうたた寝する為に確保されているスペースに伏してしまえば、人間一人がそっくりそのまま隠れてしまう程だ。

 これは何も机の上に限ったばかりではない。それでなくともゼナの部屋には書物が溢れかえっているのである。壁一面に沿った形で配置されている本棚には、みっしりと隙間なく書物が軒を連ね、ある種の執念すら感じさせる。最早、小さな図書館と化していると言っても過言ではない。

 彼の部屋には膨大な蔵書の他に、もう一つ彼らしい特徴が見受けられる。

 それは宙に浮遊する、無数の天体模型である。模型と言っても通常の模型ではなく、魔力によりまるで本物であるかのように動き回っている――そういった代物である。

 紛い物の宇宙の中心には、赤く燃え盛る太陽が座しており、その周回に宝石のように輝く惑星達が、一見不規則な軌道を描いている。天体の他にも模型は浮いており、持ち主の趣味が統一していないせいか、斑の木星の上に、作り物の燕が止まっているという常軌を逸した光景も確認できる。

「――いらっしゃい。ええと……その辺の本上にでも床にでも座ってね。悪いんだけど椅子、私のしか無いから」

 ごちゃごちゃとした雑多な部屋の主は、自室に招き入れた三人の客の方を振り返った。

「……あれえ? どこかに隠れちゃったみたいだねぇ……」

 部屋の中を眺め回したゼナは、誰に言うでもなく、小さく呟いた。

「お邪魔しまーす……。……ああ、こりゃ相変わらずだわ……」

 一番最初に部屋の中に入ったユリアは、積まれに積まれた書籍の塔を見て、くしゃりと顔を歪めた。彼女の後に入って来たアズルも、似たような表情を浮かべている。

「ゼナ先生、少しは掃除しないと、本に埋もれて死んじゃうんじゃないですか?」

 アズルが苦笑しながら言った。

「掃除は苦手なんだよ。それでも掃除しようとする人は居るんだけどねー」

「シェリア先生ですか。あの人も頑張りますね……」

「いいって言ってるんだけどねー」

 他人事のように言うゼナに、アズルは愛想笑いを返す他無かった。

「そうそう、ユリア君。実はね――」

 ゼナが書類の置かれている椅子の上にある、埃を被った金属杖を片付け始めた時の事である。

「――な……何をするんですか……! 離しなさい! 何!? 何なの!?」

 甲高い声が室内に響き渡った。ユリア達が声のする方へ視線を向けると、無表情のティリナに、後ろで二つに纏めた髪束を掴まれているニーナ=クリスティアがもがいていた。

「ユーリ。大きな金色のカミキリムシを捕まえました。見て下さい、立派な大きさです」

「カミキリムシ!? 違うわよ! 私はニーナ……。あっ」

 横を向いたニーナの視線と、奇天烈な光景を唖然とした表情で見詰めるユリアの視線が交差した。

「な、何で……ニ、ニ……ニ――」

「……っ!」

 何も言えず口元を震わせるユリアの横を、ニーナは眼にも留まらぬ速さで駆け抜けた。その様や、まるで脱兎の如き凄まじいものである。ニーナはそのまま扉の外へと姿を消した。

「残念です。せっかく捕まえたのに……」

 ティリナは心底残念であるといった様子で、自らの両手を見ながら言った。

 一方傍らのユリアは、崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。ユリアの内部では、黒い感情や明るい感情が混ざったものが渦巻いている。どんよりと濁ったそれは、彼女の平衡感覚を失わせた。視界があやふやに柔らかくなっていく。

「……ユーリ……」

 アズルはユリアに何か声を掛けようとしたが、掛けるべき言葉が見付からず、口を噤んだ。

「彼女、近衛魔術師の第一試験に受かったってさ。今日はその報告に来てたんだけど――少々、無神経だったかな」

 ゼナの声である。ゼナは音も無く、ユリアの隣へと忍び寄っていた。

 座り込むユリアは、傍に立つゼナを暗い眼で仰ぎ見た。その瞳に咎めるような色は無い。ただ、曖昧な感情の色だけが窺えた。

「そっか……先生は近衛魔道師だから……だから……。あいつ……」

 途切れ途切れの言葉をどうにか繋ぎ、ユリアは俯いたまま小さい声を絞り出した。

 不快だ。全てのものが悉く湾曲して見える。灰色の感情の波は、今にも自分の喉元から流れ出しそうである。まともな音など一つも無く、頭には雑音(ノイズ)ばかりが広がる。

「――立てますか? ユーリ」

 ふいに竪琴を鳴らしたかのような、美しい声がユリアの耳に届いた。

 その声を聞いた途端――ユリアだけに見えていた気持ちの悪い情景は治まった。

「貴女らしくないですね。ほら掴まって」

 ティリナの白い手がユリアの眼前へと差し出される。

「ティナ……」

 自分らしくない――。

「大丈夫、一人で立てるよ……ちょっと吃驚しただけだから……」

 そう言うと、ユリアは覚束ない不安定な足取りで立ち上がり、気合を入れるように大きな声を発した。

 彼女の――ニーナの事はもう(、、)、自分には関係が無いのだ。何を気にする必要がある。

 別に彼女がどうしようとも、最早、関係の無い事である――ユリアはそう自分自身に言い聞かせ、こんな些細な事で酷く不安定になってしまう己が心を、強引に奮い立たせた。

「……うっし! うん……大丈夫。先生、何か――ごめん。もう……平気です」

 ゼナは、一瞬何か言いたげな表情を見せたが、直ぐに穏やかな微笑を顔に浮かべた。

 微笑を顔に貼り付けてはいるが、彼の胸中は複雑である。ユリアとニーナ、彼女らは曲りなりとも彼の教え子であるのだ。入学当初の仲の良さも、少なからず知っている。あわよくば、二人の教え子の隔たりを取り払えたら――と彼は常々思っているのだ。

 先程の出来事は、その良い機会であった。だが、そのせっかくの機会をふいにしてしまった。

 その場を仕切り直すように、ゼナは机の方にゆったりと歩きながら言を紡いだ。

「……それじゃあ、さっきの話の続きをしよう――と、言いたい所なんだけど、私は其処の少女の――ティリナ君だったっけ? 彼女の話を少し聞きたいなぁ。どういう魔法が使えるんだい? ユリア君との馴れ初め(、、、、)も聞いてみたいね」

 ゼナは余計な物が退けられた椅子へと腰を下し、意外そうな顔をしているユリアと、表情の無いティリナを交互に眺めた。

「ティリナですか? うーん……空から落ちてきた? ……だよね、アズル?」

 ユリアはアズルの方に同意を求めるかのように首を動かした。急に意見を求められたアズルは、唸りながら、考えるように顎に手を当てた。

「それじゃあ説明に……いやでも、そうとしか言い様が無いか。……空から落ちてきました」

 結局それしか言えない。アズルの場合、ティリナとほぼ初対面に近い間柄なのだ。彼はユリアのように、まともに言葉を交わした事すら無いのである。

「しかもこの子……記憶無いって。だから……何も分かんない状況らしいです……」

 躊躇がちにユリアは言う。それを聞いたゼナは片眉を上げた。

「記憶が無いのかぁ。それじゃあ仕方が無いね。残念だけど何も聞けないね」

 これ以上興味のそそられる情報が得られないと判断したぜナは、あっさりと引き下がった。

 元々、執着らしい執着が無い男である。先程ティリナに興味があるような素振りを見せたのも、ほんの気まぐれからなのだ。

「簡単な魔法なら使えますよ。ご覧になりますか」

 唐突にティリナはゼナの前に進み出ると、そう切り出した。

 ゼナの眠気の滞留している瞳が、知識への渇望に少しだけ輝いた。

「是非見せて貰おうか。へぇーどんな魔法使うんだろ」

 期待感を寄せるゼナの声は、まるで見世物小屋(サーカス)に始めて連れて来られた少年の様だ。

 あまりにも愉しそうな声に、ユリアとアズルは顔を見合わせた。

「では……広がれ(エクスパンデ)

 ティリナの背を中心に光が集まり始める。光の濃度は徐々に濃くなり、成形し始めた。

 一迅の風が吹き、埃が巻き上がった。明かりの点けていない部屋に煌く粒子が舞い落ちる。

「如何でしょうか」

 ティリナはニ、三メートルはある銀の翼を軽く羽ばたかせながら言った。 

 見れば見るほどに見事な翼である。風に揺れながら落ちる羽根の一つ一つが銀の短刀の刃の様であり、それらが集まった翼は、一枚の巨大な金属の如き眩い輝きを放っている。その光沢には黄金すら霞み、しなやかさでは絹で織った織物にも勝っているようにも思える。貴金属や織物などとは比べようもない。白髪紅眼の少女から生える翼は、文字通り生きているのである。

 続けてティリナが唱えたのは、ユリアも初めて聞く魔法であった。

「――光よ、断ち切れ(プレシンデレムルクス)

 白い閃光が室内を強く照らす。ティリナの手に集光しているのだ。圧縮され、引き伸ばされ、精錬されていく。完全な形となったそれは、短い剣の形をしていた。

「後は翼を閉じる――閉じろ(パブンデレ)

 銀翼が一瞬にして空中に溶けるように消えた。同時に光の剣も粉々に砕け散った。

「これだけです。私の使える魔法は。……ご満足頂けましたか?」

 ほう、と感心したような声を挙げ、ゼナはティリナの手を引っ掴み、大きく振った。到底握手とは言えないのだが、おそらく彼としては握手のつもりなのだろう。

「面白いねー。実に面白い。やっぱり本場の天使魔法(ルクス)は私達が使うのとは全く違うね。いやはや、興味深いものを見せてくれてありがとう! ……そーいえば……ユリア君。この子の事を近衛魔道師(クストス)には言ったのかい? 天使が落ちてきたなんて聞いたら、彼ら、すっ飛んでくるだろう?」

 ユリアは、ゼナから視線を逸らし、誤魔化すように笑った。

「それが……あたし、この子を勝手に拾ってきちゃったんですよ……。やっぱ不味かったですか……?」

 ゼナは脱力したような顔で微笑んだ。

「別にいいんじゃないかなぁ。この子が何かをしたとかじゃないんでしょ? だったら、近衛魔道師(クストス)のお世話になる謂れも無いしねえ?」

「っていうか、先生も近衛魔道師じゃん……」

 にこやかにゼナはティリナに視線を送った。

「一応ね、一応。私は治安には厳しくても、幼気(いたいけ)な少女を問答無用でしょっぴくような真似はしないから。秩序が守れてれば、天使が降ろうが、槍が降ろうが、隕石群が降ろうが、構わないよ」

 この飄々とした男は、近衛魔道師らしからぬ言動で有名なのである。派閥争いにも関わらず、権力を振りかざすつもりもない。近衛魔道師ではあるが、彼ら特有のしがらみとはほぼ無縁な、何故近衛魔道師になれたのか周囲から不思議がられるような男なのだ。

「せんせー。後者二つに関しては構って下さい。どう考えても死人が出ますから」

 すっかり調子が戻ったユリアは、少しだけ口元を緩めた。

「まぁまぁ、人間であろうが、何であろうが天命には逆らえないんだしさ。運命は訪れるべくして訪れるんだよ。……おっと――君の運命(、、)の話をしなきゃあいけないね。いやあ、気付いたらどんどん話が逸れてしまった」

 ゼナは懐から朱色の蝋で封がされたままの、白い洋封筒を取り出した。

「――ワルンベルさんからの手紙。君にかなり興味を持っていてくれているみたいだよ。推薦状を書くまでも無かったぐらいさ。むしろ大歓迎だって」

 封筒を見たユリアの顔が瞬時に強張った。

「無理に赤色魔道師を目指そうとしないで君は君自身の夢をきちんと追いかけた方がいい。此処も悪くないけど、やっぱり色々なものを見て自らの糧にしないと。じゃないとせっかくの才能が埋もれてしまうからね。何だったら、アズル君と一緒に私の後継になっちゃう? 前途有望な若者が二人も増えてくれれば私として気が楽になるしさ?」

「才能なんて……あたしには……」

 ユリアが俯くのを見たゼナは、彼にとっては珍しい真剣な表情を浮かべた。

「……君がこの学院でどんな仕打ちを受けたかは知ってる。だけどね、他人の戯言を真に受けて自分の夢を捨てるなんて愚かしい真似はしてはいけないよ。後になって後悔するから」

 ゼナはユリアに封筒を差し出した。ユリアはそれを躊躇いながらも両手で受け取った。

「もう少し……考えさせて下さい……」

 手紙を受け取った手に力が入る。

「うん、よろしい。だけど……いつまでも待てないからね。あちらの都合も考えなきゃいけないから。ごめんね」

「ご迷惑をおかけします……」

 ユリアは視線を封筒に落としながら、独り言のように小さな声を出した。

「私でよかったら好きなだけ迷惑を掛けなさい。それを受け止めるのも教師の務めだよ」

 柔らかい微笑のままで、ゼナはユリアの肩を軽く叩いた。 

「ついでにアズル君も、ティリナ君も受け止めてくれるってー。ねぇー? アズル君ー? ティリナ君ー?」

 ゼナは突如としてアズルとティリナに話を振った。

「は、はい? え……ええ、まぁ……というより勿論」

「私に出来る事ならば、何なりと」

 アズルとティリナの二人は、ゼナの言葉に確りと頷いた。それを見たゼナは、再び半分寝ているような表情に戻ると、『良い友達を持ったねえ』と言った。

 ゼナは、待っててと言い、自室の奥に引っ込むと、簡単な茶菓子と紅茶のポット、そして人数分のカップを大きな丸銀板に乗せて持って来た。茶を飲んでいけという事らしい。

 部屋主の勧めもあり、ユリア達は暫くゼナの部屋に留まり、日が暮れ始めた頃に寮へと戻った。その間、ユリアは常にすっきりとしない物憂げな顔をしていた。

  

 ええ、ペース配分をミスったんです……。


 という訳で……。今日は二回目の投稿があるよ! てへぺろ。

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