夜半の回想
今日も暑い! 多分! (これを書いているのは二日前です)
こんな日はそうだ! プールに行こう――ではなく小説を読もう……?
冗談?はさておき、三話目をどうぞ!
<8>
――上手くいかない。
ユリアは手に持った部品を組み合わせては離し、組み合わせては離しを繰り返していた。
机上の上には、先程食べた七色の毒々しい物体の包み紙がくしゃくしゃと丸められている。
細かい作業をする時だけに身に付ける紺縁の眼鏡を外し、ユリアは目頭を押さえた。
最近はいつもこんな感じなのだ。どうにも作業が捗らない。思考が様々なものによって掻き乱されているからなのだろうか。ユリアは指先で濁った白色の丸い鉱石を弄んだ。研磨され、滑らかになっている白い石は、容易く彼女の指先から零れ落ち、ころころと机の上を転がった。
それは、魔法自動構成道具――『ACTM』と呼ばれる物の構成部品である。魔法自動構成道具とは、極めて僅かな魔力を注ぎ込むと、第五級――生活に役立つ程度の魔法ならば、魔道師ではない人々でも使用が可能になるという道具類の事を指す。魔道師でなくとも、一般的な人間には微量ながら魔力はあり、それを増幅して利用するのである。
非常に便利な道具ではあるが、一般的な流通は為されておらず、此処、『アルロイト魔道学院』でのみ試作品が提供されている。流通が滞っている原因には、単純に素材が高価であるという事もあるのだが、それ以上に製作をする魔道師自体が少ないという問題が考えられる。『魔道師』という看板を背負っている事で特権を得ている人間からすれば、一般人が魔法を使えるようになってしまうと非常に厄介なのである。
魔道教皇は大衆の発展に繋がるとして、大いに魔法自動構成道具の研究、開発を推奨しているのだが、一部の魔道師は、『容易に魔法が使えるようになってしまえば自分達の存在意義を揺るがしかねない』と反論し、本腰を入れて魔法自動構成道具の開発に着手する事を渋っている。彼らは魔法の普及によって、自らの威光が失墜する事を危惧しているのだ。
先程彼女が弄っていたのは、魔法自動構成道具を分解したものである。懇意にしている教師から引き払い品を貰い受けたのだ。机の上に落ちた白濁とした石――魔法自動構成道具の増幅器となるムーンストーンを見詰め、ユリアはいつに無く大人しい溜息を零した。
行き詰ったユリアは思い付いたように振り返り、ベッドの上で眠っている不思議な少女を見た。見る度に彼女は本当に天使なのか――そういう疑問がふつふつと湧き出してくる。
「考えても無駄かー……」
ユリアは椅子に背中を預け、反り返った。逆さまになった視界の中にベッドの下で横たわるアズルの姿が映り込む。だらしないアズルの表情を見ていると、自然と苦笑いが零れてくる。
彼女は反り返ったままの格好で暫く彼の寝顔を見ていようとしたのだが――。
ユリアの視線がアズルの頬に動いた。それは先程自分が――。
「う――うわあああああ!」
その瞬間彼女は元の体勢へと戻り、机の端へ頭をガンガンと打ち付け始めた。
――照れ隠しである。
「――状況確認」
不意にユリアの耳に、抑揚の無い透明感のある声が届いた。
「のぁぁああああああ!」
しかし、机への頭突きに執心しているユリアには全く気にならなかった。
「うおらぁあああああっ!」
地響きのような音がユリアの部屋には鳴り響いている。彼女が机に頭を打ち付けている音である。凄まじい音が部屋のみならず、寮全体を揺るがす。その爆音で何人かの生徒が目を覚まし、恐怖に震えた事は言うまでもない。
「――不審音以外は安全だと判断します」
「せぃぃぃぃ! い…………?」
そこで漸くユリアは、自分の叫びに紛れる違和感を感じた。
「――魔力発生源確認。接触を試みます」
その声はユリアの背後から聞こえている。機械が喋っているような声音である。
「せ……接触……? って何……」
ユリアに素朴な疑問が浮かぶ。さっきから聞こえるこの声は誰のものか――と。
「だ……誰だよ……? あ、アズルなら悪戯は……」
アズルでは無いだろう。彼はとっくに声変わりをしている。だとすれば――。
ユリアは再び振り返った。ベッドの上には誰も居ない。その代わりに其処で寝ていた筈の人物がユリアの背後に静かに佇んでいた。
赤い双眸がユリアをじっと凝視している。瞬きを一度もしない様は不気味というよりも、神秘的にさえ見える。完璧な造形の顔にはおおよそ表情と呼べるものが無い。そこに納まる真紅の瞳は、硝子玉のように清く儚く透き通っていた。
「あ――あんた……起きたんだ……」
人形が動いているみたいだ――と、ユリアは目の前の少女を見て、何とも言えぬ違和感を感じた。動いているのが不思議だと感じる。どうしても芸術品が口を開いているようにしか見えないのだ。
「――お初にお目にかかります」
先程まで気を失っていた少女はユリアに対し、丁寧に頭を下げた。
「ど、どういたしまして……」
そこいらの男性よりも剛胆なユリアでさえ、人形のような少女の様子には戸惑った。何せ、少女からは一切の感情らしい感情が読み取れないのだ。だからと言って別段隠しているようにも思えない。本当に感情が無いように思えるのである。
「それでは」
表情の無い少女はユリアにぐっと顔を近づけた。一方ユリアは少女の顔から逃れるように首を引いた。動揺するユリアを気にも留めず、人形のような少女は更に顔を近づけ、ユリアの頭を両手で横から鷲掴みにした。通常の場合ならば、この時点でユリアは自分の頭を鷲掴みにした相手に頭突きをかましている筈なのだが、恐怖と訳の解らなさなどが混ざり合った結果、脳の活動を一時中断させ、硬直した。
つまり理解が追いつかないから考える事を放棄したのである。
「いきなりですが、私と契約をして頂けないでしょうか」
天から落ちてきた銀色の翼を持つ少女は、無表情のままでそう言った。
「けーやくね……はいはい、けーや……ん? ……契約……契約……? 契約ぅ!?」
虚ろな眼でユリアは少女の言葉を復唱する。表情のない少女はそれに頷いた。
「そうです。契約です」
「い……いやいや待ってよ……契約ってどういう事……! せ、説明してよ……」
「本契約でなくとも、仮契約をして頂ければ、とりあえず、現在の状態は改善されます」
少女は自分の状態を淡々と述べた。しかし、ユリアには少女が何を言っているのかさっぱり理解出来ない。
「魔力が枯渇してるって……、あんた天使なんだろ……! だったら魔力なんて必要無いんじゃ……」
無表情のままで少女は首を傾げた。
「おっしゃっている意味が解らないのですが。その天使とやらは、一体何なのでしょうか。宜しければご説明願えますか?」
「何って……天使は天使って奴だよ。神様の使いで、羽が生えてて空飛べる奴……。えーっと……ちょっと待ってね……」
少女の手が一時的にユリアの頭から離れた。しかしそれはあくまで一時的なもので、ユリアが背後を向くと直ぐにそれに合わせて掴み直された。そんな事も気にも留めず、ユリアは机の引き出しを上から順に開けていくと、その中の二番目の引き出しから一冊の絵本を取り出し、パラパラと軽く捲った。
鉄面皮の少女は、ユリアの背後から絵本を覗き込んだ。
次々にページが捲られていく。
四方の守護者――。
地上へと向かう翼――。
それを追う者――。
折られた剣――。
妖精の王――。
真実と虚構が入り乱れ、混ざっていく。朽ちた歴史は形骸化された伝説となり、土に埋もれ、礎となった。時代は移り、人々は自分の足元に埋もれる歴史を忘却の彼方へと追いやってしまう。そして歴史は抽象化され、神話となり、民話となり、お伽話へと変化したのである。
「その天使とやらと、天使は何が違うのですか?」
「呼び方が違うだけで一緒かな。あ、ほら、コレ見て」
ページを捲るユリアの手が止まった。
「これ……あんたの仲間でしょ?」
指し示したのは絵本の五ページ目であった。適当にそれらしいものを選んだのである。
「これが――この光が私ですか?」
其処には三つの光が描かれていた。三つの光は上に一つ、その下方、左右に二つあり、丁度三角形の形を成している。最上部の光の中心には何も書き込まれていない。しかし、その斜め下に控える二つの光の中心にはそれぞれ背中から翼の生えた人間と、そうではない通常の人間の図が書かれている。
「そう……なのかなぁ……。うーん……そうだと思うけどなぁ……。あっ、これが天使って言うのな」
ユリアは三つの光の中で、翼の生えた人間が中心に居る方の図を人差し指でなぞった。
「他の二つは?」
「詳しくは知らないけど、一つは神、もう一つは人間……らしい。昔からどの地方でも同じような話が伝わってんだってさ。ちなみにな、この神ってのは東の――」
「なるほど。私はこの天使というものなのですか」
ユリアの話を最後まで聞かず、平坦に少女は言う。
「あ、あたしだって分からないよ? でも……羽生えてたし……」
ユリアは少女の背中の方へ視線を遣った。
「羽……? ああ、これですね」
銀色の翼が部屋を埋め尽くさんとばかりに大きく広がる。ユリアはそれを見て椅子から転げ落ちた。
「止めぇぇぇぇえ! こんな所で広げんなやぁぁぁ!」
「おや、失礼」
悪びれるでもなく少女は無表情で口元を押さえた。
「馬鹿野郎! 飛ぶのか! 飛んじゃうのか! 天井に穴空けたらどーすんのよ!?」
「飛べるのでしょうか。落ちる事は出来た様ですが」
「へ……? これじゃ飛べないの……?」
ユリアは部屋の中で広げられた銀の両翼を眺めた。無機質な色の翼はよくよく見れば傷んでいる。虫に喰われたカーテンのように点々と穴が空いている。言われてみれば確かにあの時――少女は空を飛んできたのではなく、空から落ちてきたのだ。それをユリアとアズルが偶然にも発見したのである。少女は、こほん、と機械的に咳払いをしてから続けた。
「――それでは契約の件ですが、如何でしょうか。承諾して頂けますか」
少女は何事も無かったかのように、自らの背から伸びる翼を小さく畳み――消した。
「ちょちょ……っと待った! いきなり契約とか言われても困るって! それにあんたさ、何者なのよ? 成り行きっていうか……勢いで連れて来ちゃったけどさ! それは謝るよ! だけどさ!」
ユリアの中で疑問が爆発した。彼女は捲くし立てるように少女に迫った。すると再び少女の両手がユリアの頭部をがっちりと挟み込んだ。冷えた感触である。ユリアは少女の手から伝わる異常な冷気に慄いた。
「私は――」
「私は……!?」
緊張が走り、ユリアはごくりと生唾を呑み込んだ。重苦しい沈黙が漂い始める。ユリアは問うているのは自分の方なのにも関わらず、自身が目の前の少女に問い詰められているような心持ちになった。
「……私は――何者なのでしょうか?」
予想外の返答である。
「あたしに聞かれても……困る……!」
ユリアはシリアスな顔のままで返答した。
「………………」
「………………」
終ぞ、ユリアと少女はお互いに黙りこくってしまった。
少女は無機質な瞳で宙を仰いだ。何やってんだ――と、ユリアは少女の視線を追う。少女は何も見ていない。だが、ユリアには何処を見詰めているのかも判ずる事も出来ぬ少女の眼が、底知れない憂いの色で満たされているように見える。それが少女がユリアに初めて見せた感情らしい感情であった。
ユリアは恐る恐る問いかけた。
「……もしかして……記憶が無いの……?」
少女はユリアの方に視線を戻すと軽く頷いた。その顔からは既に、先程見せた人間らしさの片鱗らしきものは消え去っていた。
「申し訳ありません。その様です」
「謝る事は無いけど……。その……ん~……どうしよ……明日、近衛魔道師の所にでも行ってみる? そうすりゃ何か分かるかも」
「く――何ですか?」
「近衛魔道師。……ごめん分からないよね。近衛魔道師っていうのは、この都市――っていうより国か。この国を守ってる魔道師の事ね。……魔道師は解る?」
「ええ、その知識についてはあります。ところで――」
「ん? 何でも聞いてよ」
「私は何故この場所に居るのでしょうか? 『勢いで連れてきた』と先程聞いたような気がしたのですが。出来れば納得のいく形でご説明願えますか」
「……そ、それは……ですね……」
ユリアは眼を逸らした。言える訳が無い。勢いで掻っ攫ってきたなどとは断じて言えない。
「あ、あんたが……行き倒れていたから……?」
あながち間違ってはいないが、真実でも無い。
「解りました。では、何故貴女が介抱してくれているのですか?」
少女の言葉は重複しながらも的確にユリアの痛い所を突いてくる。
「う……それは……困った時には助け合うという高尚な精神がこの国の人間の体には流れていてですね……。右に倒れている人が居れば飛び込んででも助けに行け、左に悪人が居ればどついたれ、という言葉がありまして……」
「そうなのですか。ですが、それとこれと何の因果関係が?」
煙に巻こうとしても巻き切れていない。淡々とした口調が後ろめたさを増長させる。少女はわざとそうしているかのように、ユリアを会話の袋小路に追い詰めていく。
「ごめんなさい! 物珍しいので思わず拾ってきてしまいました!」
少女の放つ、無垢であり淡白な圧迫感にユリアは折れた。
「拾った――ですか?」
「……本当なら近衛魔道師の所に保護されている筈なんだろうけど、あたしが拾ってきたからあんたは此処に居るの……。ごめん! 明日、近衛魔道師の所に連れて行くから許して!」
どうにもならなくなったユリアは、土下座でもしそうな勢いで開き直る事にした。
「いいえ、それには及びません。おそらく貴女の言葉からして、近衛魔道師というのは治安維持に務めている方達なのでしょう。素性の知れない私が発見されれば当然取り調べが行われます。それは私にとっても好ましくありませんので」
「……どうして? 記憶喪失って言うなら、余計にあいつらを頼った方がいいんじゃないの? ……ちょっと面倒臭いとは思うけどさ……」
近衛魔道師に少女が保護された場合、少女に対し、何度も入念な尋問が行われるだろうという事をユリアは知っている。その手順や、ユリアなら数日で発狂する自信がある程に長いのである。だから、あまりこの目の前の少女を近衛魔道師に引き渡すのは非常に気が進まないのだ。しかし、少女の身の安全などを考えた場合、近衛魔道師を頼った方が絶対的に良いと言える。
「身柄を拘束されては自由に行動出来ないからです。私は常に自由に行動をしていたい」
少女はパチクリと眼を素早く開閉した。
「それが――理由……?」
「私は捜し物を捜さなければなりません。故に自由に行動出来ないと大いに困ります」
「あ~……そういう事ね……。よく分かんないけど訳ありなのかー。……ん? でもあんた記憶無いんじゃ……。その捜し物っていうのは分かるの?」
「分かりません。分かりませんが捜さねばなりません」
「おい、結構無茶苦茶じゃん……。具体的に何を捜しているかぐらい分かりゃあなぁ……」
空を掴むような話だ――とユリアは眉を寄せた。
「そうですね。ですが分からないものは分からないのです」
「まぁ……事情は解ったよ。近衛魔道師ん所に行きたくないってんなら此処に居てもいい。でも、そんな長い間は居られないけどね。あたしもそろそろ荷物纏めなきゃいけないし」
「長期のお出かけですか?」
「いや――此処は寮って……寮は解る?」
「一般的な知識は持ち合わせている様です」
他人事のような口ぶりで少女は言った。
「そ、そうなんだ……。……でさ、此処は『アルロイト魔術学院』って魔法を教えてる学校の寮なんだよ。此処は学院が生徒に貸している仮住まいって事ね。だから卒業したら出て行かないといけないの。……ここまで言えば解ると思うけど、あたしと其処の床で寝てる奴はもう直ぐ卒業なんだわ」
ユリアはふう、と深い息を吐いた。
「ったく……。まだ試験も受かってないし、進路も決まってないのに放っぽり出されるなんて世知辛い世の中だよなぁ……」
「なるほど。貴女は近々此処を出ないといけないのですか」
飲み込みが早いのか、少女はユリアの言葉をすんなり受け入れた。
「そーゆー事……。もう数日――それでも一週間ぐらいか……それぐらいしか無いけど、それでもよけりゃ此処に居てもいいよ。……どうする?」
「――お世話になります」
「うん、よしよし! ……ところでさ」
「何でしょうか?」
「いい加減に……頭……離してくんない?」
先程からユリアの頭部は少女の両手にがっしりと掴まれたままである。
「…………………」
少女は無言で考えるようにちらりと横を見ると、直ぐにユリアに視線を戻し、言った。
「仮契約を結んでくれたら離しましょう」
「と、取引ですか……この野郎……」
ひくりとユリアの面の皮が突っ張る。彼女は椅子から立ち上がった。すると、少女もユリアの頭を確保したまま、それに合わせて動いた。
逃げられない――ユリアの顔が更に引き攣った。
「取引です。そして私は『野郎』ではありません」
「あたしの対しての恩義は……?」
流石に自ら勝手に行った行為を引き合いに出すのは無理があると思いつつも、ユリアは言う。
「それとこれとは話が別です」
ユリアの言葉は呆気なく少女に一蹴された。
「ぬぁああぁああッ! 分かったよ! 分かったけど、さっきから言ってる仮契約ってなんなのよっ!」
観念したユリアは、自分にも責任の一端はあるのだし、ある程度の頼み事なら聞いてあげようと渋々決め、今にも子供のようにほっぺを膨らませそうな不機嫌な顔で少女を見た。
「貴女の魔力を私に注ぎ込んでくれればいいのです」
「ま、魔力を? そんな事したらただじゃ済まないでしょ! 下手したら――」
人間が他人に自分の魔力を受け渡す事は基本的に不可能である。血縁など、精神的、身体的に近しい者で無い限り確実に拒絶反応が出るのだ。ましてや少女とユリアは赤の他人、到底出来るとは思えない。
「問題ありません。私は人間ではありませんので」
やけに説得力のある言葉である。
「――ホントに大丈夫なんだね……? あたしの魔力……かなり強いよ……?」
己の魔力で人を殺してしまっては洒落にならない――ユリアの気持ちは揺れ動いている。
「大丈夫です。今の私は辛うじて活動している状況ですから、むしろ供給される魔力は強ければ強い程良いのではないかと思われます」
ユリアは数秒悩み、迷いを振り切るように頭を振った。
「どうなっても知らないからな……。……そ……それで、あたしはどうすればいいの……?」
少女の手が漸くユリアの頭を開放した。自由になった首を鳴らし、ユリアは安堵の溜息を吐いた。
「承諾して頂き感謝します。それでは私の胸に手を当てて下さい」
少女の言葉に従い、ユリアは少女の胸に手を翳す。見れば少女は一枚布で体全体を覆っているだけであり、何かの拍子にその布がいつ、ずり落ちても不思議ではない危なげな格好である。部屋の中だけならまだしも、人通りの多い往来で今のような格好をしているのは危険だ。後で服を貸してあげないと――とユリアは少女の姿を眺めながら思った。
「もっとです」
「へ……? あ、ちょっと!」
少女はユリアの恐々としている手を、自分の胸に引き寄せ、押し付けた。
「……! ……か、格差社会……!!」
ユリアは驚愕した。柔らかな感触により、自分の指の圧力をやんわりと包み込む少女の胸部にである。少女の胸は自分のものとは大きく違い、非常に女性らしい形をしており、大きさも申し分無い。一般的に考えても豊満な部類に入るであろう胸部だ。
「どうかしましたか?」
少女は眉一つ動かさずにそう言ってのけた。刹那、ユリアの中で何か大切なものが瓦解していった。
「有り得ない……! あははは……! そうだよ! 天使だから! あれ天使サイズだもんね……。うんうん天使サイズ……! 天使サイズを基準にするからおかしくなんのよ……! よーし大丈夫だ……あたしは大丈夫だぞー……。人間での平均点は満たしている筈……! 」
最早何を言っているのか判らない口調でユリアは早口に言った。
「よく分かりませんが、早速始めましょう」
「あ? ああ、揉めばいいの?」
ユリアは少女の胸元を憎々しげに睨んだ。その眼は殺意で満ちている。
「違います。魔力を籠めて頂ければ結構です――」
――あれ? 何か――。
ユリアは得体の知れない違和感を少女から感じ取った。
少女からは何か大事なものが欠けている。生きている以上は絶対に聞こえる音が――それにさっきから感じる、この手の冷たさも――。全部おかしいのだ。
「――どうかしましたか?」
少女の声が鼓膜を震わせる。ユリアの思考は途中で遮られた。
「いや……何でも……無いと思う……」
ユリアは妙な感覚を覚えたまま少女の胸に当てている自分の手に神経を集中させた。
「えーっと……魔力ね……じゃ……いくよ……!」
ユリアの魔力孔から魔力が放出し始める。本来なら魔法を構成する筈の魔力は、目的を失い空気に滞留していく。ユリアが『流れ』を与えてやる事で、次第にそれはある一定方向へと流動し始めた。
――少女の心臓部にである。
「な――何……! どういう事……!」
「どうしましたか」
ユリアはそこでやっと少女から感じた違和感の正体に気付いた。
「どうしましたかじゃなくて……! あんた……心臓……動いて……」
心臓の鼓動が聞こえないのだ。本来なら脈打っている筈の生の鼓動が少女からは聞き取れない。聞こえるのは自らの魔力が流動する音のみである。
ユリアが驚いている間にも、魔力の大きな塊は方向性を与えられた事によって急激に勢いを増した。激流となった魔力は少女の身体――それも心臓部のみに滔々と流れていく。空白を満たすように。熱い血潮のように。少女の心臓――歯車の心臓の中へと流れ込む。ユリアの魔力は歯車の心臓を浸し、燃え上がる生の鼓動を与えた。
「――あ……」
錆付いた心臓は動き始め、少女の中で小さな鼓動を刻み出す。
「ね、ねえ……! 大丈夫なの……!? 辛そうだけど……!」
苦悶の表情を浮かべる少女にユリアは情けない声で尋ねた。だが、少女は微かに頷いただけだった。
「続けて下さい。わ――私――はだ――大丈夫ですから」
鼓動は大きくなる。せっかく刻み出した生の音を途絶えさせぬようにと、懸命に脈を打つ。
「そ――それよりも――ひ――一つお聞かせ願えますでしょうか?」
掠れた声で少女はユリアに言った。
「あんた、こんな時に何を言ってんだよ……!」
「こんな時だから聞きたいのです。あ――貴女の名前を――き――聞かせて下さい」
ユリアは困惑した。今の状況にはかなり似つかわしくない平凡な質問であったからだ。
「……あーもーッ! ユリアだよ! ユリア=クロスウェル! あんたは!?」
ユリアの名を聞いた瞬間、少女は自分の心臓に火が点くのを感じた。
生命の灯火――生きている事の証明となる炎である。それは少女の胸の奥で確かに燈った。
「ユリア=クロスウェル……」
「そーだよ! ユリアでも何でも好きに呼べ!」
ユリアの掌に少女の心臓の音が伝わる。
生きている。少女が間違いなく生きている。それは当たり前の事の様で、当たり前では無かった。
「私の名前はありません。いえ――あったのでしょうが、忘れてしまっているのです」
「何じゃそりゃ! あたしが聞いた意味無いじゃんか!」
そろそろユリアの魔力にも限界が来ている。あと数秒で底を尽きるだろう。
「そうですね。だからユリア、貴女が私に名前を付けてくれませんか?」
「あたしが名前を……? でもいいの……?」
魔力の流れが弱まっていく。終わりが近い。
「はい。貴女だからこそ頼んでいるのです」
いきなりそんな事を言われても困る――ユリアはとりあえず目に付いたものを口に出した。
「じゃ、じゃあ……ティリナとか……? 『綺麗な翼』って意味なんだけど……」
「ティリナ……。それが私の名前……」
「だ、駄目だった? 気に入らないなら他に……」
「どうして――その名前にしようと思ったのですか?」
「えっ……そりゃあんたの翼が綺麗だから……。って言ってて恥ずかしくなってきた……」
ユリアは身をブルッと震わせた。
「ご、ごめんね……あたしネーミングセンスってもんが無いからさ……」
いえ――と少女はユリアが最後まで言い切る前に言った。
「素敵な名前です。ありがとうユリア。こんな私に名前をくれて――」
遂に魔力が尽きたユリアは、疲れた様子で少女の胸から手を離し、少女の――ティリナの方を見た。
――笑ってる……?
天から落ちてきた少女は微かに微笑んでいた。いいや、それは本当は笑っていなかったのかも知れない。だが、その時のユリアには少女が穏やかに微笑んでいるようにしか見えなかった。
「――始めましてユリア=クロスウェル。私はティリナ――おそらく天使です」
一瞬間を置いてから、ユリアはティリナと名付けられた少女の顔を見てクスリと笑った。
「……こちらこそ始めまして! あたしは多分……魔道師かな? 一応ね」
元気よく言ったユリアは次の瞬間、強烈な眩暈を感じ、その場に倒れた。
「……やばっ……魔力……出し過ぎた……」
視界が霞み、途切れ途切れになる。
抗い難い眠気が疲労感と共に襲ってくる。魔力が枯渇しているのだ
「私も――何だか眠く――」
ティリナもユリアに次いで床に倒れ込む。重なり合うように少女達は小奇麗な飴色の床へと伏した。
「あ……もう……無理……。一先ず明…日…ね。……お……やすみ……ティ……リナ……」
ユリアは小さい声で言った。
「おやすみ……なさい……ユリア……」
眠りに落ちる間際、ティリナは自らの体を腕で抱き締めた。
――温かい……。私は……これを……。
満たされている。胸の奥で自分が焦がれていたものが動いている。ティリアは微笑を浮かべながら瞼を閉じた。
――良い夢だ――。
静かな夜の風が窓を叩く。静寂はゆっくと少女達を優しく包んでいく。
遠くの方で梟が啼いた。夜の色は夜明けに向かって段々と濃くなり、深くなる。闇夜に生きる者は目を覚まし、太陽の下で生きる者達は目を閉じる。
小さい息遣いが聞こえる。二つの寝息――ユリアとティリナのものだ。なめらかな闇にどっぷりと浸かりながら、二人の少女は深遠なる眠りの世界へと誘われていった。
<9>
僕が彼女の初めて見かけたのは何時の事だっただろう。
――ああ、そうだ。入学してまだ間もない頃だ。
あの日、僕は学院の寮の近くにある丘で彼女を見かけたのだ。
春風が気持ちの良い日だった。僕は何をするでもなく、丘へと向かった。
あの頃の僕は、『キールソミヤ』に来たばかりだったので、初めての土地――自分がこれから暮らす新天地を一度上から眺めてみたかったのだ。
綺麗な街だった。空は勿忘草色に染まり切り、その中央には名前の通り、巨大な岩をそのまま切り出したかのような風貌の『空と飛ぶ巨岩』、魔道教皇の住まう城が簡素な佇まいで浮いていた。大陸でも随一と名高い魔道教皇が、あのようなおかしな場所に居を構えているのだと思うと、何だか不思議な気分になって、自然と笑みが零れた。
浮遊する巨岩の下、活気のある城下街では魔法が使えない人が多くとも、賑やかで、そして華やかな声が途絶えない。城下街の人々は、自分達に魔法が扱えない事を嘆いていないのだ。自分に与えられたものだけを信じ、己が身に秘められた可能性を信じ、夢に希望を抱きながら生きている。それはこうして回想をしている今現在でも変わらない。良い街だ。都市国家と言うのでもっと物々しい印象を受けていたが、そんな事はない。人々は穏やかだし、食べ物も中々いける。色彩センスに関しては少し言いたい事もあるが、それもご愛嬌だ。魔道教皇の治める国はのんびりとした雰囲気が漂いながらも、活力に溢れる奇妙な場所であった。
キールソミヤに来れたのも、全ては胸に刻まれた刻印のお陰だろう。これが無ければ、僕は一生、行商人の息子で終わっていた。然したる不安もなく、定型に嵌った人生を送っていたに違いない。そんな僕にこの――二匹の蛇が絡み合う、杖の形をした『天刻印』が現れたのは、正に青天の霹靂だったと言える。いや、僕ばかりでは無いだろう。僕の家族にとっても予想外の出来事だった筈だ。
『天刻印』は、一般的に五歳から十一歳までの間に現れる。僕は最後――十一歳の時に『天刻印』が現出した。いきなり現れたから、家族もそれは驚いた。母など泡を吹いていた。
それもその筈、『天刻印』が普通の家系の人間に現れる事なんて滅多に無いのである。魔道師の家系ならそれなりの確率で現れるそうだが、僕の家系はどんなに遡っても、魔道師の『ま』の字も見当たらない。だから、僕に『天刻印』が現れたという事は、ある意味、異常事態であった。
まあ、異常事態と言っても、決して悪い意味ではない。祝福はされたし、激励も貰った。魔道師というのは貴重な人種――というか職種であるから、僕が将来的に魔道師――正確には魔道術式師になる事は、家族にとってもかなり鼻が高かったらしい。
とんとん拍子で事は進み、近衛魔道師による『天刻印』の確認、学院の入学手続きが行われた。学院の入学に試験は無い。『天刻印』を持つ者自体が希少であるからだ。簡単な適性検査が行われるだけなのである。中にはこの風紀に甘い仕組みを悪用――という訳ではないのだろうけど、逆手にとって、悪事を働く者も居るそうだ。そんな者達は、魔道教皇アミュレリアのお仕置きを受けるらしい。そのお仕置きがどんなものを指すのかは知らないが、かなり壮絶なものらしく、帰って来た者は、頭の螺子が数本外れた廃人状態になっていたそうだ。勿論僕にはそんな悪い事をしようだなんて邪な思いはなく、検査は滞りなく行われた。順風満帆、正にそんな感じだった。
そして――荷物を纏め、いよいよ学院へと送り出されようとする時に、兄が僕を呼び止めた。
兄と僕はかなり仲が良かった。歳が離れているという事も関係していたのだろう。兄は、家を空ける事が多い父に代わって僕の面倒をよく見ていてくれていたのだ。今でもたまに手紙のやり取りぐらいはしている間柄である。それで――そんな兄は学院に赴く前の僕にこう言った。
『お前の夢が叶ってよかった』と。
全くその通りなのだ。僕の夢は学院に行く前に叶っていたのだ。僕は予め予定の決められている道を進みたくはなかった。贅沢かも知れないが、僕は僕の道を自分で決めたかった。だから『天刻印』が自分の胸に現れ、新しい――思いもしない道が現れた時点で僕の夢はとっくに叶っていたのだ。夢は叶い、僕は満ち足りていた。兄はそんな僕の心境を見透かしていたのだ。
僕は言った。『次はどうしたらいい?』と。
夢は叶ってしまった。目的地には到着したのだ。しかし、その次が分からない。新しい夢を抱けばいいのか、それとも現状の満ち足りた気分を噛み締めるべきなのか――と。
兄は僕の頭を撫で、『簡単だよ。夢が叶ったのなら、誰かの夢を手伝ってあげればいい』と言った。あの日の僕はその意味がよく解らなかった。正直に兄にその事を伝えると、兄はくしゃくしゃと僕の頭を掻き撫で、『その内解る。夢はそうそう叶うもんじゃないんだ』と静かに呟いた。
僕がその言葉の重みを知るのに時間は掛からなかった。僕は運が良かっただけなのだ。大抵の人は夢を勝ち得るまでに挫折し、逃避し、諦めていく。そうして淘汰され、残った僅かな人間が夢を叶えられる。僕のように運良く夢を現実に出来る人間など、極少数なのである。
僕と兄は似ていた。同じ行商人の息子として、定まり切った運命にうんざりしていた。だからこそ自由を渇望して止まなかった。しかし、僕は自由を得た。『天刻印』という証を手に入れただけで、自由という『夢』も同時に手に入れてしまったのだ。
だが、兄は――兄の夢は叶わなかった。弟の僕だけが夢を叶えても、彼の夢は叶わない。兄はそれを知っていたからこそ、『夢はそうそう叶わない』と言ったのだ。
それでも兄は僕を妬みはしなかった。むしろ僕に自己投影した分だけ喜んでくれていた。まだ青臭いガキだった僕に対しての見栄もあったのだと思うが、正確にはそうではない。兄は僕に夢を託したのだ。自由という夢を。幾多の可能性を。自分が見られないものを。だから僕の夢は未だに続いている。僕だけの夢ではないのだから。これは――今のこの僕の人生は、兄と僕の――二人分の夢だ。
そして新しい人生を、二人分の夢を丘の上から噛み締めようとした矢先に――僕は彼女に出逢ってしまった。
あの時の僕は街を俯瞰しながら兄への手紙の内容を考えていたのだ。すると、丘へと続く階段を誰かが登って来るのが解った。静かな小春日和だったが、風に乗った足音は確かな音として僕に伝わった。
その足音に、何を思ったのか、僕は物陰に身を隠した。我ながらどうしてああなったのか、今でも解らない。でもその時は、ともかく隠れてしまったのである。
足音の主は一人の少女だった。胸の真新しい校章――新入生に配られるものだ。それから判断して、自分と同じく新入生の子だという事は判った。
栗色の毛先が少し跳ねた短髪。藍玉のように透明な水色の瞳。触れたら溶けてしまいそうな淡い白色の肌。遠目から見てもかなり可愛らしい子だった。
ただ――彼女はあの時――水色の眼を赤く染め、顔を真っ赤にして泣いていた。誰も見ていないと思ったのか、泣き声を盛大に挙げ、泣いていた。
こうなると出るに出られない。女の子を慰めるなんて度量も無い僕は、彼女が立ち去るのをただひたすらに、貧乏ゆすりをしながら待った。
暫くすると女の子は、とてもすっきりとした顔で立ち去っていき、僕は漸く物陰から身を出す事が出来た。変な子だ――と思った。
その日は他に何事もなく寮へと帰ったのだが、どうしてなのか、あの少女の顔が頭から離れなくなってしまっていた。ある意味印象に残る光景ではあったと思う。女の子の泣き顔なんて見ていて気持ちの良いものではない。来る日も来る日も、あの泣き顔が頭に浮かんだ。
その内会う事もあるだろうと思っていたが、新入生である筈なのに僕とあの少女は不思議と遭遇しなかった。それはそうだろう。彼女と僕は同学年ではあったが、学科が違った。一部の授業を除いて、会う機会など、滅多に無かったのである。
少しして再び僕はあの丘で少女に出会った。しかも二人に増えていた。
僕は何故かまた、物陰に隠れてしまった。自分でも何をやっているんだろうとは思ったが、反射的に隠れてしまったのだから仕方が無い。諦めて待つ事にした。
もう一人は金髪を後ろの方で二つ結びにしている少女だった。灰色の眼が知的に見える――そんな子である。僕はその少女にはかなり見覚えがあった。僕が入学する際に新入生代表として壇上に立っていた子だ。名前はニーナ=クリスティア。魔道師の名門、『クリスティア』の一人娘だ。名門の出らしく、もっと高飛車に周囲に人を侍らしているイメージがあったのだが、その時のニーナは例の蒼い眼の少女だけしか伴っていなかった。更に言うと、いつも見かけるニーナの雰囲気とは少し――何か少し違っていた。 二人の少女は影に潜む僕を尻目に、何やら愉しげに会話をし始めた。
長かった。凄く長かった。女性の話は長いとは聞いていたが、何も日暮れ近くまで話し込む事は無いだろう。だがしかし、僕は待った。せっかくの愉しそうな会話に水を差すのも気が引けたからである。
空が赤く染まるまで待った挙句、僕は帰った。
幸せそうな少女の姿を見たからなのか、はたまた疲労感からなのか、その日の寝付きはやけに良かった。心のどこかで少女の泣き顔が引っ掛かっていたのだろう。
数年経った後、僕は思いもしない形で、あの蒼い眼の少女の名前を知る事となった。
『氷姫』。学院内に住むという魔物――。上級生への恐喝から、同級生に対する強請り、下級生の恫喝まで、幅広く手掛ける生粋の無頼。
それがどうも、あの少女のあだ名らしかった。そして――。
一度ある事は二度ある。二度ある事は三度ある。その言葉の通りに、僕は三度もあの丘で『氷姫』に出くわしてしまった。
彼女は再び一人になっていた。ニーナ=クリスティアと仲違いしたというのは、風の噂でぼんやりと聞いていたが、よもやその少女が『学院内の魔物』――『氷姫』などと形容されるとは思いもしなかった。
あの日の魔物は、丘のど真ん中にあるベンチに一人で座り、もそもそと弁当を広げていた。
ちなみに僕はまた物陰に隠れていた。三度目ともなると慣れたもので、魔物――もとい彼女が立ち去るまで、地べたで寛ぐ所存だった。
春風に顔を晒しながら、彼女は黙々と食を進めていた。あの頃の彼女の悪名は凄まじく、目を合わせたら殺されるとか、いいや、目が合った瞬間に死んでいるのだとか、根も葉もない噂が飛び交っていた。そんな根拠の無い酷い噂のせいもあったのだろう、僕は彼女の笑った顔を、一度も見た事が無かった。
あの時も、彼女は憂鬱そうな仏頂面で空を眺め、節操無く口も動かしていた。
彼女の横顔は脆そうだった。脆くて――本当に触れたら崩れてしまいそうな横顔だった。
だからなのだろうか――ついつい声を掛けてしまった。何だかそうしないといけない気がして、彼女に、ユリアに声を掛けてしまったのだ。
それから、僕と彼女は一緒に居る事が多くなった。一緒の授業の時はよく組んだし、食事時になると、必ず一緒に居た。休みの日であろうが、何の日であろうが、とにかく一緒に居た。
彼女と過ごす中で気付いた事がある。彼女は男っぽく振舞っているし、事実、粗暴な態度ではあるが、中身は壊れ物のような脆い女の子であった事だ。弱くて、脆くて、折れやすい。それを彼女は無理やりに我慢して、曲げて曲げて曲げ切って耐えていたのである。
僕が夢を聞いた時――彼女は弱弱しい声で自分の夢は叶わないと言った。自分には才能が無いと、今までにずっとそう言われ続けてきたのだと言った。
彼女の心はとっくに折れてしまっていたのだ。折れてないように見えていただけで、本当は根元からぽっきりと周囲の人間達に折られてしまっていたのである。本来ならば、強かに身をかわす事も出来た筈だ。しかし、ユリアは数多の罵詈雑言を真正面から受け止めてしまった。何て不器用な子なんだろうと正直呆れてしまう。それで自分の心が挫けてしまっては駄目だろうに。
僕は兄の言葉に従う事にした。僕の夢は叶った、次は誰かの夢を手伝う番である――と。
それに――あんな感傷的な表情で悲観的な事を言われると、是が非でも応援したくなってしまう。具体的に何が出来る訳でもないが、言葉で励ます事は出来る。
僕が励ますと彼女は少し笑った。吹いたら消えてしまいそうな微かな笑顔だった。
でも――その表情を見たときに僕は確信したのだ。彼女はまだ夢を諦めていない。彼女の中の『夢』という名の火は、燻っているだけで消えてはいないのだと。
夢は叶わないとぼやきつつも、夢を諦めていない。たまに自分の夢をぼんやりと呟くのがその証拠ではないか。彼女は自分の夢を肯定して欲しかったのだろう。なのに、彼女の周りの人間は否定ばかりをしてしまった。その結果、彼女は自己否定と自己肯定の中途半端な間で揺れ動いているのだ。
全く――仕方の無い友人である。しかも面倒でもある。
だが、そんな仕方の無い友人であるからこそ、僕は彼女が飛び立つ所を見てみたい。
もしかしたら、それが今の僕の夢なのかも知れない――。
「――う……」
回想のような夢が終わり、僕は痛む頭を手で押さえながら半身を起こした。
ああ、相変わらずベッドの下だ。
だが――明るい。明かりはユリアの机の辺りから発せられている。僕を強制的に寝かしつけた後に、いつもの日課をやっていたのだろう。その一方僕は寝ていたというか、気絶していたというか、そういう事らしい。全く、あれ程眼を悪くするから夜中にやるのは止めろと言っているのに一向に聞きやしない。
僕はベッド下の薄暗い空間から身を捩り、抜け出した。
「あれ……? ユーリは――」
視界が開けると、部屋の違和感に気付いた。ユリアが机に座っていないのだ。
「……居た」
ユリアは翼の生えた少女と共に、床で高鼾を掻いていた。
いやいや、どうなったらこうなるのだろう? 翼の少女の寝相が悪いのやら、ユリアが何かをやらかしたやら。とにかく何かあったには違いない。
僕が彼女達を見下ろしていると、仰向けになっているユリアの左手が、伏せている翼の少女の胸部へと伸びていき、床と胸部の間に潜り込み――揉みしだき始めた。予想外の事態に僕は喜んでいいのか、それとも眼を逸らすべきなのか真剣に悩んだ。
結果――拝見させて頂く事にした。
「んー……その乳……ちょっとあたしにくれ……」
ユリアが呟く。彼女が一体どういう夢を見ているのか、かなり気になる所だ。彼女が自分の胸をコンプレックスに思っているのは知っているし、それをネタにからかいもするが、まさか『乳をくれ』とは。
何だか可哀想に思えてきた。もう少し彼女を労わってあげるべきなのだろうか。
さて、もう一つ気になる事がある――。
僕はうつ伏せの状態でユリアに胸を揉まれている少女へと視線を遣った。
普通の人間とは姿を明らかに異にしている銀の翼の少女。
その少女の様子が違って見えるのは、僕の気のせいなのだろうか。僕が昏倒する前とは表情が随分と違うように見えるのだ。何と言うか――人間味が出てきたというか――。
いや――気のせいだ。僅かな時間の中で何かが変わったとは思えない。
それよりも確かめなければいけない。寝込みを襲うようで少々後ろめたい感じもするが、こればかりは確かめなければ気が済まないのだ。
僕は左手で翼の少女の右手首を掴み、続けて右手の親指で少女の手首の左を軽く押さえた。
――聞こえる。定期的な心音がきちんと刻まれている。体温も正常。問題は無い。
外気に当たっていれば体も冷える。春先なら尚更だ。あの時の少女の冷たさも納得がいく。
杞憂だったのか。だが――。
最早人形のようには見えない端整な横顔を僕は眺めた。多少作り物めいているが、少女の顔はどう見ても人間のそれにしか見えない。――本当にそうなのか。それだけなのか――。
「まぁ……いいか」
考えるのは明日でも出来る。それよりも、今は床に女の子二人を寝かせている方が問題だ。
僕は翼の少女を起こさないように慎重に引っくり返した。こうしないと運び難いのである。そしてそのまま首の後ろと膝後ろに手を回し、持ち上げた。
「ユーリより重いな……」
おそらく胸の差分だと思う。案外ずっしりとしているが、軽い部類――なのだろう。
途中、肌蹴た胸元が見えそうになったりもしたが、僕はどうにかこうにか翼の少女をベッドの上に運ぶ事に成功した。大きいと眼に毒だ。あらぬ考えが浮かびそうになる。大きい事に越した事は無いが、僕にはユリアぐらいの慎み深い謙虚な大きさが丁度良いらしい。
「さあて……次は……お姫様か」
僕は豪快な寝息を立てているユリアを、翼の少女に続いて抱き上げた。栗色の柔らかい髪が手に掛かる。うん、軽い。この貧相な感じがしっくりくる。 何とも少女らしい寝顔だ。黙っていればこんなにも愛らしいのだが。いっそ口を縫うように勧めてみようか。ううむ、それでは逆に味気なくなってしまうか。何にせよ、この子の表情は僕が初めて出逢った時と変わらず、綿雪のように儚く、危うく感じられる。表面上は取り繕い、粗暴を気取っていても、中身までは隠せない様だ。
無理をするぐらいなら隠さなきゃいいのに。わざわざ強気な女の子を気取っている。それでいて不意に素が出ると、途端にしおらしくなってしまうし――。
「困ったお姫様だなぁ……」
僕は抱き上げたユリアをベッドまで運び、翼の少女の隣に寝かせた。
一息吐いてから腰を叩く。慣れない事はするもんじゃない。
あと少しのんびりとしたら部屋を出よう。このまま長居する訳にもいかない。
女の子二人がベッドの上で寝ているという素晴らしい光景は確りと記録に残して――っと。
夜風が窓を叩く音が聞こえる。夜窓に眼を凝らすと、淡い月光が空一面に広がっていた。
<10>
恨めしい――。
恨めしい――。
恨めしい――。
恨めしくて仕方が無い。痛みが、屈辱が、怒りが――様々な不の感情が体の中で増幅する。
激痛が私を苦しめる。背から生えていた純白の翼は折れ、爛れ、呪われたかのような毒々しい赤色へとしてしまった。もう二度とあの美しい色彩へと戻らないだろう。
そればかりではない。私を私たらしめていた自尊心までが引き裂かれ、無残な残骸へと成り果ててしまっている。翼は歪な形で再生しているが、八つ裂きにされた尊厳までは戻らない。
我が父はこのような私の――娘の姿を見て何と仰られるだろうか。きっとお許しにはならない筈だ。
全てはあの銀の翼こそが元凶。あの銀の翼が私の翼を汚し、へし折り、蹂躙し、地上へと私を引き摺り下ろした。
何故私はあのような出来損ないにこのような無残な姿にさせられてしまったのだろう。
あれは私よりも確実に劣っている。
感情も、表情も、何一つ持ち合わせていない、ただの人形め。
私は感情を持っている。表情もある。何より父の――我が神の娘なのだ。
あれが父と同列の存在だとは絶対に認めない。現に私は奴を自分の翼と引き換えに空から落とした。この私にそこまでされる存在が父と並び立つ訳がない。
絶対に許さぬ。あれは私が殺す。今度こそ確実に壊してくれよう。
怨嗟の炎が内側から私を焼き尽くす。いずれ、これを吐き出さなければ私は怒りで自らを焼き焦がしてしまいそうだ。その前に――壊す。
ああ、我が神よ。どうか私に祝福を。そしてあの忌まわしき銀の翼に呪いを。
天には二つの星――。愛しき赤い巨星と、それよりも小さい紅き星。
紅き星――何と忌まわしき星であろうか。あの銀の翼の瞳と同じ色をしている。
消えろ。消えろ。消えろ。消えてしまえ。天機はこの世に一つだけで十分だ。
私は天を仰ぎ、視界に映る紅の星を右手で握りつぶした。
改めて見直すと、我ながら酷いですね……。




