星降る夜に
今日も暑いですね……。
と言っても、これを書いているのは昨日なんですけども……。
さあ! 暑さなんて吹き飛ばして張り切って――(以下、無理でした
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ドアを叩く音が聞こえる。ユリアはその音によって眠りの世界から現実へと引き戻された。彼女はカーテン越しに仄かな橙色の光が射し込む部屋の中心で数回寝返りを打ち、その末にやっと体を起こした。
寝ていたのか――ユリアは寝ぼけ眼を擦りつつ欠伸をした。
体を丸めた体勢でずっと寝ていたからだろうか、背中がやけに軋む。
ユリアは壁に掛かっている大きな丸時計に視線を遣った。十五時四十七分。彼女が部屋に戻ってからそこまで時間は経っていない。せっかくの休日を寝る事だけに費やさないで済んだと彼女は胸を撫で下ろした。あの後――ニーナ=クリスティアと口論になった後、真っ直ぐ寮に帰ったユリアは自分の部屋に飛び込み、服を脱ぎ散らかし、ほぼ下着姿でやけ寝をしていたのである。
ユリアはボタンを全て外した白いシャツの襟を正した。悠長な動作だが、考えうるに自分の部屋を訪ねる人物は一人しか思い当たる人物がいない。故に身支度はそこまで早くなくても良い。その人物は律儀にも部屋の前で、自らに黒色魔法でも施して待っているだろう――と彼女は踏んだのだ。学院内での彼の身の安全を考えれば急ぐべきだが、生憎、彼と自身の眠気を天秤にかけると眠気の方に若干傾くユリアには関係があっても無きに等しい。
ユリアは眼を瞬かせ、白黒の部屋の中の大きな姿見に映る自分の姿を見た。
単調な色彩に彩られる自分の姿は、入学した頃よりは少しは成長している。一部発育不全だと思われる部分が上半身に存在するが、別段見せる相手も居ないのだから問題はない。
ベッドから立ち上がったユリアは、脱ぎ散らかした榛色のハーフパンツのようなものを掴み取り、姿見の前に出た。よたよたとした動きで彼女は膝までのハーフパンツのようなものを穿いていく。眠りの世界に麻痺している現在の彼女では衣服を着ることでさえ億劫だ。漸く穿き終わった彼女は、開きっぱなしになっているシャツのボタンを留めに掛かった。しかし、部屋の中の光量が少ないせいか、手元が狂い、中々ボタンが留まらない。
ふいに、だらりと乱れた女性もののタンクトップから覗く自分の貧相――否、控えめな胸元が視界に入った。慎ましい胸の上部にはデフォルメされた心臓のような痣が刻まれている。ユリアはそれを見ると、居た堪れない気分になる。
それは『天刻印』と言うものである。天刻印は生まれながらにして魔法を使う事が出来得る特性を持った者のみに顕現する印である。この天刻印が現れる者はどの地域、国でも僅かであり、この刻印が無ければ魔法を使う事は出来ない。
選ばれた者が持つ印――それはユリアにとって苦痛でしか無かった。何故ならユリアは魔道師の中では異端であり、半端者であるからだ。魔法がろくに使えない魔道師など、刻印が無い人間とあまり変わりが無い。魔法使えてこその魔道師なのに、それが出来ないのなら存在価値は無きに等しいのだ。
曲りなりにも刻印を刻まれた身、選ばれた身である彼女は選ばれたが故に苦痛を感じる。選ばれたのにも関わらず、それが意味を為さないからである。最初か刻印など無ければ諦めも付いた。だが、刻印はユリアを選び、その身に刻まれてしまったのだ。劣等感が、胸を締め付ける。郷里の父母の顔、友の顔を思うと余計に苦しくなる。期待されて送り出され、それに応えるのが自分の役目であるのに、それは叶わない。ユリアは胸元を軽く爪で引っ掻いた。薄く白い雪のような皮膚がぷつんと弾け、一筋の血が流れ落ちていく。一筋の血は胸元の『心臓』を紅く染め、更に下の方へと流れ落ちていった。
暫くして再び扉を叩く音が響いた。
「……ちょっと待って、今行くから」
ユリアは落ち着いた声で応えると、手早く胸のボタンを留め、扉へと向かった。
扉の前で待つぐらいなら、さっさと部屋に入ってくればいいのに――とユリアは微かに微笑んだ。彼女自身が気にしないのにも関わらず、律儀に扉の向こうで待っている友人をユリアは憎からず思っている。口は軽いが、本質的には誠実な男なのだろう。
ユリアは細かい事はあまり気にしない性質である。別に先程のような姿を見られた所で恥ずかしくも無い。それを一般的にはおおらかとも、男らしいとも言うが、別の意味で言えば、ずぼらで、女らしさが半壊滅状態であるという事の裏返しでもある。学院の男性はそんな彼女の性格を把握しているので、劣情を抱くに抱けなかった。下手をすれば自分よりも男らしい可能性が大いにあるからだ。
「よっ! たっぷり眠ったか?」
扉の向こうには、黒色魔法、それも隠匿の術を解除したアズルが立っていた。ユリアは顔だけ出していた扉を、アズルを招き入れるかのように大きく開いた。
「……お陰さまで。目覚めもすっきり……。中、入る? そのまんま廊下に出てると寮長に殺されるよ?」
「いや、ここでいいよ。ほれ」
アズルは程々の大きさの紙袋をユリアに投げ渡した。ユリアは落としそうにながらも、その紙袋をどうにか受け取り、中身を覗いた。
「何これ? あれ? これ、虹色パンケーキじゃん」
紙袋の中の包み紙からは、毒々しい色が垣間見える。食べたら中毒症状を起こしそうな色合いである。
「君の食べ残し。包んで貰ったんだ。殆ど喰ってなかったろ? いや……喰ってたか……」
「はぁ~わざわざ悪いね……。お金……」
部屋に戻りかけたユリアの背中をアズルは軽く拳で小突いた。
「いいっていいって。これぐらい奢るって。それよりもおまけもあるから」
ユリアはもう一度紙袋の中を見た。先程の包み紙の他にも丸い包み紙に包まれた物がある。肉の香ばしい匂いがその包み紙から香っている。
「おーありがとな! ……でもどうして?」
「……太ったら胸に栄養がちょっとは行き渡るんじゃないかって思ったんだ」
大真面目な顔でアズルは地雷地帯へと自ら進んだ。非常に勇気のある行動である。結果、ユリアの手に頬を握りつぶされてしまったが。
「お? 何か言ったか? お? お? やるか? だれが洗濯板だと? 洗濯板舐めんなよ? 大抵の汚れは全部削ぎ落とせんのよ? 試してみる? その体で」
「いえ、何でもありまへん。ありまほへんから、その物騒な拳を治めて下はい……」
ユリアに片手で頬を握り掴まれ、もう片方の高く挙がった拳に怯えるアズルは、両手を翳しユリアを宥めた。ユリアは笑っていたが、彼女の眼は全く笑っていなかった。
「まぁ……ありがとね……。……そうだ。ちょっとあんた付き合ってよ」
「お断り出来るでしょうかー……?」
「出来ませんし、させません」
何を想像したのか、アズルは怯え震え、首をぶるんぶるんと勢いよく振った。
「こ、殺さないで下さい……」
「殺さねーよっ! 人を何だと思ってんの!?」
「鬼。人の皮を被った、僕を襲う鬼」
「逆でしょうに……普通、あたしが襲われる側でしょ。男は鬼と――あれ、狼だっけ? とにかくこれが世の常識よ」
ユリアはやれやれとでも言いたげに首を振る。
少年は想像してみる。目の前の少女が数人の男に取り囲まれる姿を。縦に見ても横に見ても、どう考えても襲われているようには見えない。むしろアズルの想像の中のユリアは、その男共を顎で使い、従えている。
「まあ、全部返り討ちにしたけど……。あっ……。……こほん……するわよ」
ユリアはうっかり口を滑らせかけたが、咄嗟に言い直した。アズルはそんな彼女の両肩を掴み、酷く揺さぶった。ユリアは、苦笑いで肩を揺すり続けるアズルから眼を逸らした。
「ねぇ、今凄い事言い掛けなかった? ねぇ、僕の気のせいだよな?」
アズルが察するに、ユリアは相当の修羅場を、拳一つ、もしくは暴走する魔法で切り抜けてきたらしい。彼女を襲おうとする方も方だが、それを撃退する彼女も彼女だ。尋常ではない。
「気のせいだよ、アズル。あんたは疲れているんだ。ま……それはともかくとして……」
ユリアは開きっぱなしの扉の中へ半身を入れ、扉の近くに掛かっている外套を取り、アズルに被せた。
「はいはい、もう終わり終わり、この話題は。それよりも行くよー」
アズルの手を引くユリアは廊下を足早に進んでいく。
「行くよって何処に!?」
視界が真っ暗になったアズルはなす術もなくユリアに手を引っ張られていく。
「何処でもいいだろ。男なんだから細かい事言わないの! いいから付いてきて」
「こんな事をしなくても僕には黒色魔法が……」
「いちいち魔法を使うのも面倒でしょ? いいよ、これで」
ユリア達は廊下に立っている二名の女子生徒の横を通り過ぎた。一瞬にして女子生徒達の表情が強張り、直立不動となる。それはユリアが異様な風体の、顔の見えない人物の手を引いているのも理由の一つにあるが、主な原因は、ユリアそのものである。彼女の悪名の高さと極悪非道な行いは生徒達の間では有名であり、大いに恐れられているのだ。
「ユーリ……僕、さっきの子達にすっげえ見られていた気がするんだけど……」
「大丈夫だってー。心配し過ぎだよアズルはさぁ」
長い廊下を渡り終え、短い回り階段を下りると大理石のエントランスへと至る。ひんやりとしたエントランスには誰も居ない。向かい側には男子寮へ続く階段が見える。
「ふむ……誰もいない……と。アズル、そこで待っててね」
「ちょ、ちょっとユーリ!?」
「だいじょーぶだって! 靴取ってくるだけだから。靴はいつもの所だよね?」
ユリアは玄関口に備え付けてある大きな四列の下駄箱の一つから、靴を二足の革靴を取り出し、灰色の石畳の上に置いた。そしてアズルの許へと戻り、盲目状態の彼を靴の近くへ導くと、足元に跪いて靴を履かせに掛かった。
「痛い痛い痛いって! 自分で履けるって!」
それは履かせるというよりも、捻じ込むという方が的確である。
「あはは、つべこべ言わずにサービスを受けろ。日々の苦労にあたしが報いてあげる」
「これサービス!? サービスって痛いの!?」
靴に捻じ込まれたアズルの足は苦痛を伴いながらも、何とか無事に収まった。
「――ふう。じゃあ~行こう!」
一仕事終えたような顔でユリアは笑う。
「痛い……足……痛い……」
痛む足の甲を靴の上から擦り、アズルは呻いた。
「もう、しょうがないなぁ……。はい!」
何も見えないアズルの手を、柔らかいユリアの手が包んだ。
「ありがとう……。ってこれユーリのせいじゃないか!」
「気にしない、気にしない」
ユリアはアズルの手を優しく引っ張りつつ、樫の扉を開き、外へ飛び出した。
外はオレンジ色の彩光で満ちていた。光が照らす合間を縫って濃い影が巡っていて、燃やされてしまいそうな程に明るい輝きと飲み込まれてしまいそうな暗闇の渦が、ユリア達と古めかしい石造りの洋館――先程ユリア達が出てきた学院寮を取り囲んでいる。
何の事も無い――ただの夕暮れの光景に、ユリアは満足そうな声を発しつつ背伸びをした。
「ん――……! 丁度良い感じ……。……アズルー。それ、もう取っていいよー」
ユリアはそう言いながらアズルの被っている外套を剥ぎ取り、アズルに貸していた外套を腰に巻き付けると、前の方で軽く結んだ。
急に明るくなった視界に、アズルはすっと眼を細める。
「さて……どこに行きましょうか? お供しますよ? お姫様」
アズルはわざと畏まった口調でユリアに言い、本物の従者の如きお辞儀をした。
「……あははッ! ……うん。付いて参れ!」
同じ『姫』と呼ばれるのでも、呼ぶ人間が違うとここまで受ける印象も違うのか――。
一瞬呆気に取られたユリアだったが、直ぐにアズルの調子に合わせ、花のような笑顔で返事をした。アズルの言葉が内心嬉しいのだ。その証拠に薄っすらと頬が赤く染まっている。彼の言葉は自分を傷つけようとするものではない。友に向けられた他愛のない冗談混じりの言葉である。当たり前の事が当たり前ではない彼女にとっては、それだけでも嬉しいのである。
必要が無くなったのにも関わらず、相変わらず繋いだままの手を引いて、ユリアは寮の脇に聳える長い階段へと向かった。
「ユーリ、この上って……」
「……いやさ、ちょっと……ね」
言い淀んだユリアの顔が温かい色の光に照らされていく。その表情は普段の彼女から想像も付かない程に壊れやすそうな――頼りなさげな少女らしい表情であった。
「君、あの場所好きだなぁ……」
「いいでしょ? あそこはあたしの土地よ」
「公共の土地じゃないんだ……」
「いずれ、買ってもらうからいいの……アズルに」
聞き捨てならぬ言葉を聞いたアズルは口を尖らせた。
「僕が買うのかよ」
「友達だろ。買え」
少年は思った。目の前を進む少女は、友達の意味を少々――いや大分履き違えていないだろうか――と。
「もうあれだよな。脅迫とかそういう域だよな……」
「だってさー。アズルの方が出世しそうだしさあ。なら、買ってくれるじゃん?」
からからとユリアは笑う。
「『なら』の使い方がおかしい……」
そんな事を言い合っている内に、二人は階段を昇り終えてしまった。
夕暮れの日が街並に降り注いでいる。黄金に輝く街は、それ自体が輝きを放っているかのようだ。そしてその中心――正確言うと空中には金塊と見紛うばかりの巨城が聳えている。
ユリアがアズルを連れてきたのは、学生寮の上部に構える見晴らしの良い丘である。丘にはぽつんと古びたベンチがあるのみで、後は転落防止用の手すりぐらいしか無い。剥き出しの地面からは野草が生い茂り、日向に向かって伸びている。春や秋に来ると中々に香りの良い風が吹く――そんな丘である。
この場所からは魔道都市『キールソミヤ』の全貌が一望出来る。
魔道都市キールソミヤ。其処は魔道教皇アミュレリアの治める土地である。アミュレリアのここ数百年に及ぶ善政は諸国にも名高く、国民からの信頼も厚い。それを反映してか、キールソミヤ自体の発展も目覚しい。しかし、魔法は未だ天刻印を持つ者のみしか使用出来ず、魔法の本場であるキールソミヤでも大衆には広まっていない。そんなキールソミヤの中心地にはアミュレリアの居城である『空飛ぶ巨岩』がその巨体を浮遊させていおり、魔道都市のシンボルとなっている。
「――アズル。覚えてる? あんたとあたしが始めて此処で話した時の事――」
落ちかけの太陽の匂いが混ざった風がユリアの頬を撫でる。彼女は少々癖のある髪を、穏やかな撫で風に靡かせながら眩しそうに空を見上げた。
「覚えているよ。君、すっごい笑ってた」
「あはは……そうだったなー」
アズルの手を引きつつユリアは踊るような軽やかな足取りで手すりの方へと向かった。そしてその手前でアズルの手を離すと、手すりに腰を凭れ掛けさせた。
「…………さっき、そん時の夢を見てさあ……」
ユリアは口を閉じ、地平線の彼方で傾いている太陽をじっと見詰めた。
長い沈黙が訪れる。その間、アズルは黙ってユリアの言葉を待っていた。それは素直に自分の感情を吐露できない友人への配慮である。何も無いのにこんな場所にユリアが自分を連れてくるとは思わない。何かある――悩みがあるからこそユリアはアズルを外に連れ出した。彼は彼女の性格をよく理解しているのだ。熟れかけの果実のような色彩が少年と少女を照らす。躊躇いがちにユリアは口を開いた。
「…………あたしってつくづく……駄目だなぁ……」
今更こんな不毛な言葉を投げかけて何の意味があるのだ――とユリアは自嘲気味に笑った。
夢に届かないとしても捨て切れない。だが――現実は容赦なく自分を追い詰める。
叶わないと――叶う筈が無いと――自分は夢を持っても無駄であると――。
「……また自信無くしたか? ……君ってあれだよね。意外と繊細だよな」
アズルはからかうように口を歪めてユリアに言った。
「うるさい……ほっとけ」
ユリアは眼を細め、むっつりとした拗ねた顔をした。
彼女はもしかしたらこれが――この考えが気に入らないのかも知れない。夢を否定し、自己を否定するこの考えが。だからあの時――。
「前にも言ったろ? 叶うよ、君の夢は」
遠くの方で鳥が鳴いた。澄んだ美しい声色である。アズルはいつもの微笑みを浮かべていた。
心の底が擽られるようなむず痒さを感じたユリアは、照れ隠しに笑い返した。
が、矢張り彼女はアズルの顔を直視出来なかった。
「……どうしてあんたはそんなに自信たっぷりに……断言出来るの……?」
苦し紛れに繋いだ言葉は、自分の意思とは反しているものである。本当に言いたかった事はこんな言葉ではない。本当に伝えたい気持ちはこんな懐疑的な色を帯びてはいないのだ。
「ユーリは本当は夢を諦めていないからね。怖がってるだけだろ」
アズルはユリアの横に並び、手すりに腰掛けた。
「……あたしは……」
アズルは顔を逸らしたユリアの横顔を見詰めながら、仕方が無いとでも言いたげに片眉を上げた。
「……必要なのはきっかけ。きっかけさえあれば君は空を飛べる。でもそれは僕じゃない」
「そ、そんな事ないよッ!」
ユリアはいきなり立ち上がり、ほんのりと紅色に染まった顔で、何か言いたそうに口を動かした。
「ア、アズルは……あ、あ…………」
急に元気になったユリアに吃驚したアズルは、手すりに腰を掛けたまま引っくり返っていた。
「ぎゃぁぁぁーッ!! 助けてぇぇぇぇ!」
「――お? 悪い悪い」
完全に引っくり返る前にユリアに引き戻され、アズルは何とか一命を取り留めた。
「はぁはぁはぁ……せっかく、格好付けたのに、し、死ぬかと思った……」
色の抜けた白い顔で、アズルは息も絶え絶えに言った。
「そんな大げさなー」
ユリアは肩を竦めながら首を横に振った。ユリアの両肩が掴まれる。ニヒルな笑顔の彼女の額に、アズルは自らの額をゴリゴリと擦り付けた。
「大げさじゃないんだけど。ちょっとした走馬灯が見えたんだけど」
「ほう、やるかねアズル君よ」
ユリアの表情は一転して好戦的な笑顔へと変化した。ユリアの額を削っていたアズルの額が押し戻される。そう――ユリアの額はとても硬いのだ。
「はははは、頭の硬さじゃあ君に負けるよ、こんちくしょうッ」
アズルは頑張った。ユリアの額の硬さ――否、頭全体の驚異的硬さに対し、必死で喰らい付いた。しかし――。
「いい度胸だ……ならば喰らうべしッ!」
ユリアは頭を後ろに引き、前方へと強力な首の力で撃ち出した。頭部に突き刺さるすさまじい衝撃と共に、少年の意識が遠退く。
――見事な頭突きである。
「どうだ見たか! 天下の石頭を舐めんじゃ――」
甲高い音がユリアの鼓膜を振るわせる。不審な音に気付き、その音が何処から来ているのかと空を見上げたユリアの視界に、大きな光の塊が映った。
「へ……?」
遥か彼方、遠方の空より光の塊が大気を裂きながら突き進み、見えない空気の壁が一枚、また一枚と打ち破られていく。流麗な流れ星のようにも見えるそれは、一直線にユリア達の方へと向かっていた。
「あ……あ……アズルーっ! お、お、起きろぉぉぉぉぉ! 何かきた! 凄いのきた! 逃げないと死ぬって! 起きろってばぁ!」
ユリアは気絶しかけているアズルの頬をぺちぺちと叩いた。アズルの涙に濡れた瞼が僅かに動く。
「――ッ……僕は……何を……」
アズルは痛む額を右手で押さえた。ユリアと話していた所までは覚えている。だが、その先が思い出せない。自分は何をした――いや、されたのだろうか? 確か引っくり返って――? 自身の記憶の欠落に、アズルは首を捻った。
「何をじゃなくて上見ろ! 上!」
「上…………上?」
ユリアはぼんやりとしているアズルの肩を痛いぐらいに叩き、上を指差した。夜の闇と夕日の光が混ざった藍色の空から、何やら眩い物体が落下して来ている。
アズルは眼を擦った。消えない。空には星が出始めているが、流れ星という訳でもない。落ちて来ているのは確実に実体のある物体である。
「…………ユーリ! また変な魔法使ったのか!? 何で君はいつもろくでもない事を!」
少年は目の前の現象を引き起こした犯人を、隣で慌てている友人だと判定した。
「違うわボケッ! 勝手に落ちてきたんだよっ!」
「…………えー……」
ユリアに疑わしそうな視線が注がれる。ユリアは反射的にアズルから眼を逸らし、それから取り繕うように彼の方へ向き直った。
「こ、今回はホントにあたしじゃないって! 信じてよ!」
落つる光は空気に削がれるように徐々に散らばっていく。青、緑、赤、黄――色とりどりの光の粒子が薄闇に降り注ぐ。星空すら霞むそれは、蜉蝣が薄い虹色の羽を広げたかの如き艶やかな光景であった。
「綺麗……」
雨のように絶え間なく、雪のように儚い光を放つ蜉蝣は宝玉のような羽を広げながら落ちていく。その瞬間、ユリアの胸が強く高鳴った――自分の運命と初めて出逢ったかのように。
アズルは眼を細め、光の中心を見た。
「あれ……人間か……?」
光の束が大きく拡散する。唐突に剥けた光の中心から一つの影が現れた。
「人が……落ちてきた……? あ――キャッチ! キャッチしないと! いけユーリ!」
「男だろ! アズルが行けよ!」
「君は僕より力強いだろっ!」
「おい、どういう事だ! あたしも一応女なんだぞ!?」
「そんな事言ってる間に――!」
アズルは落下する少女の真下へと駆け出し、飛び込んだ。しかし、少女は完全に落下する事無く、空中へと――丁度ユリアの頭の少し上の辺りに静止した。
「後は任せろ」
「後は任せた……」
倒れているアズルの頭を撫で、ユリアは空中に浮遊する少女を見上げた。
風が吹く。少女の身に着けている白い布が流され、それまで布に覆い隠され見えなかった少女の顔が明らかになった。月の色の如き白の髪。芸術品のような均整の取れた造形。陶器のような無機質な白い肌。お伽噺から抜け出したかのようなその少女は、ユリアには天から舞い降りた天使にも――。
「嘘…………」
ユリアの眼に少女の背中から生えたそれが映る――。
それはどう考えても人間には無いものである。否――あってはならないものだ。
銀の翼――弱弱しくも気高い一対の翼が少女の背中から生えている。
少女は天使のように見えるのではない。紛れも無く天使なのだ。
「こ――この子……天使……?」
銀色の翼は、夕霧のように空気へと溶け消えた。
「――呆けてないで逃げるよ……! 誰か来てる……!」
むくりと起き上がったアズルは、呆気に取られているユリアの手を掴んだ。
騒がしい。幾つかの足音が近づいて来ている。それはおそらくこちら――少女の方へ向かっている。この騒ぎを聞きつけて来たのだろう。ユリアは迷いを振り払うように両頬を強く手で叩くと、宙に留まっている少女の脚へと手を伸ばした。
「ユーリ!? 何やってんの! その子は――」
「このまんまにして置く訳にもいかないでしょ! 近衛魔道師に捕まったら絶対面倒な事になるって!」
近衛魔道師――それは魔道教皇に仕えるキールソミヤの守護者である。彼らは魔道師の中でも選ばれた者達であり、その実力も折り紙付きだ。近衛魔道師は魔道都市の治安を守る為にはどんな状況であれ、迅速に行動する。このままこの場に留まれば数分も経たない内に確実に出くわす事となるだろう。彼らに捕まれば執拗な取調べは避けられない。
「アズル! 頼む……! 手伝って……!」
ユリアの懇願に、アズルはガリガリと頭を乱暴に掻いてから、浮遊する少女に視線を送った。
「……ああーッ! どうなっても知らないからな!」
自棄気味に首を振った少年は、無鉄砲な少女を手伝う事にした。
「……あんたならそう言ってくれると思った……! じゃあゆっくり下ろすよ……」
ユリアは掴んだ少女の足首を優しく引っ張った。少女はすんなりと空中から地面へ静かに下りていき、下で待ち構えていたアズルの両腕に背中から納まった。
「アズルは腕の方持って! あたしは脚の方持つから!」
ユリアに促されるまま、アズルは少女の腕を掴んだ。
――冷たい。少女の腕は――いいや、体は金属で出来ているかのように恐ろしい程冷え切っている。アズルの動きがぴたりと止まった。
「……どうしたんだよ?」
「いや――なんでもないよ。……ところでこの子は何処に運ぶんだい?」
「とりあえずあたしの部屋に……」
「ちょっと待とうか。僕……もう一度女子寮に入るのか?」
一度危険を冒した身としては、再度の侵入を試みる勇気は無い。
「遠慮すんなよ~。これ被っとけば大丈夫だってー」
ユリアは腰に巻いた外套を片手で解き、アズルの頭に放り投げた。
「!? ユ、ユーリ! ま……前が!」
外套を被せられたアズルは覚束ない足取りとなった。ユリアは少女の脚を一旦下ろすとアズルの被る外套の位置を調節し、彼の視界の妨げにならないようにした。
「これならいいでしょ? どう? ちゃんと見えてる?」
「まぁこれなら……」
ユリアは頷き、再び少女の脚を担ぎ上げた。
階段を下る。夕暮れともなると流石に見通しが悪い。アズルとユリアの二人は転ばないように、少女を落とす事が無いようにと慎重に階段を降りていく。
アズルは足元を確認しつつ、脈絡もなくユリアに問いかけた。
「それで――……。少しは気分は晴れた? 悩んでいたみたいだけどさ?」
ユリアの足が止まった。彼女は意外そうな表情でアズルを真っ直ぐ見詰めている。
殆ど沈み切った太陽の末期の光が仄かにユリアの顔に射し込む。ユリアの表情は氷が解けていくかのように、徐々に微笑へと変化していった。
「あはは……色々あり過ぎて――悩みなんて忘れちゃった!」
蒼い眼が星明りを映し出す。ユリアは八重歯を少し覗かせ、満面の笑みをその顔に浮かべた。
咲き誇る少女の笑顔はアズルにとって何よりも眩しく見えた。
「……そっか」
アズルは空を仰いだ。熟れた太陽の火が消えていく。昼と夜――その境界にある夕暮れという時間が終わりを告げているのだ。空は黒に差し替えられ、街並には明かりが灯り始める。
夜が始まる。夜天に輝く星達の煌きがユリアとアズルに降り注いだ。
<5>
ニーナはユリアに突き飛ばされた肩を擦った。
肩が痛む。そんなに強くはなかったが――肩が――痛い――。
――違う。本当に痛いのは――違う場所――。
とっぷりと日の暮れた道を彼女は一人で歩く。ニーナを取り巻いていた知人達とは道中別れた。共に歩く気分には到底なれなかったからである。彼ら――または彼女はニーナの家柄に惹かれて集まった者なのだ。彼女の人格、彼女という人間自身には興味は無い。その証拠に先程一人で帰るとニーナが告げた際には、皆ほっとしたような安堵の表情をしていた。彼らは『クリスティア』という家名を外した、ニーナ個人はどうでも良いのだ。
ニーナはそんな彼らを嫌っていた。表面上は友好的に見えても、それは全て見せかけの演技なのだ。全ては学院内での自分の立場を確保する為、そして魔道師の名門である『クリスティア』の名に恥じぬ立ち振る舞いを心掛けているが故の行動である。
名門たる者、学院内での挙動には気を付けなければいけない。例え自分の嫌っている相手だとしても、ニーナが最も嫌う、上辺だけをすくって自分を判断する人種であるとしても、寛大な態度で接さなければならない。それが名門としての義務であり、彼女を苦しめて止まない枷でもある。
数人の男達の横をニーナは通過した。瞬間、ひそひそとした声が彼女の耳に届く。男達はニーナの方を見ていた。珍しいものでも見たかのような好奇の視線がニーナに刺さる。
嫌だった。ジロジロと見られる事を彼女は好まない。嫌で、嫌で、嫌で堪らない――。
男の一人が立ち塞がるようにニーナの前に歩み出た。髪の長い女々しい外見の男だ。女慣れしている雰囲気が体中から滲み出ている。ニーナはきつとした鋭い視線で男を睨んだ。
「どうも始めまして。……あんた、クリスティアのお嬢さんだろ? ……へぇ……」
男の視線が舐めるようにニーナの体を動いていく。鳥肌が立ちそうだ――気分が悪い。
それは身分や立場からの差別ではない。ニーナは誰にでも公平だ。だが――。
心が卑しい者に対しては辛辣である。
「……何でしょうか。退いて頂けます? はっきり言って邪魔です」
「連れない事言うなよ。なぁ、もう直ぐ日も完全に落ちる……どうだ? 俺達と遊ばない?」
石造りの壁に凭れ掛かり、男はニーナを上から見下ろした。
「結構です。生憎娯楽には家に帰った方が不自由しませんので」
「そうかなあ。外じゃないと知らない遊びだってあるんだぜ? あんたそんなに綺麗な外見なのに、まだ生娘なんだろ? 俺達が大人の遊びを教えてやるって」
何という下種な考えの持ち主なのだろう――ニーナは眉を強く顰め、顔を逸らした。
「いいから来いよ。澄ました顔しやがって」
男の手がニーナの手首を強引に掴む。その行為がニーナの逆鱗に触れてしまった。
「ッ……!」
小気味良い音が響く。ニーナが男の横面を平手で張ったのである。相当に勢いが強かったのだろう、男の首は左向きから右向きへと変わっている。呆然とする男をニーナは冷たい瞳で蔑視した。
「恥を知りなさい……!」
場の雰囲気が一気に凍りついた。男達は臨戦態勢に入り、ニーナを取り囲んでいく。
「この女……! ふざけんなよ……! 下手に出りゃ調子に乗りやがって……!」
本性を現した男の顔は、ニーナには酷く醜く見えた。いつもなら軽く往なして終わりなのだが、今日のニーナはとてつもなく機嫌が悪い。ニーナはガリッと歯を噛み鳴らした。
「……水よ……、炎よ……!」
呟くように、噛んで含めるようにニーナは言葉を紡ぐ。言葉に出さなくても発動は可能であるが、言葉に出した方が威力は格段に高いのだ。次の瞬間、水と炎――二つの相容れない属性が空中から湧き上がり、鷹のような鳥の形を成した。それは青色魔法と赤色魔法の混り合った魔法である。
赤と青、二色が入り混じった鷹は威嚇するような声を発し、大きな翼を広げた。
「……やりなさい」
ニーナは首を親指で掻き切るような仕草をした。すると炎と水で出来た鳥は、最初に声を掛けてきた男の足元に嘴から突っ込み、けたたましい爆発音と共にレンガ造りの地面を大きく抉り取った。
「ひいっ……!」
男は眼と鼻の先の跡形も無く消失している地面を見て、情けない悲鳴を発した。
土煙の昇る地面から再び二色の鳥が舞い上がる。鳥は今にも襲い掛かりそうな様子で嘶いた。
「……今すぐ目の前から消えなさい。命までは取りませんから。でも――この事を誰かに喋ったらどうなるかは知りませんが――」
「あっ……あ……」
言葉が出てこないのか、最初にニーナに声を掛けてきた男は仲間の方を仰いで何度も頷いた。男の仲間もこれ以上ニーナに立ち向かう気など更々無いようで、大人しく引き下がっていく。
ニーナは男達に背を向けた。顔など見たくないし、覚える必要もないからである。一寸してから振り返ると男達の姿は既に消えていた。
街灯に光が灯る。光が照らす街道をニーナは静かに歩いていく。彼女は堪らない倦怠感に顔を歪ませた。彼女は魔力が極端に少ない。魔法を連発、しかも先程のように混ぜ合わせたりすれば体力もそれなりに消耗する。
先程の魔法――あれは混合魔法と言う。混合魔法はニーナが自身の魔力不足を補う為に考えた手段である。一度に大きな魔法を構成し放つ事が出来ないニーナは、中級――おおよそ二級辺りの魔法を複数組み合わせ重ねる事で強力な魔法へと変化させる。二級より上の一級の魔法を組み合わせる事も可能ではあるが、それだと組み合わせる前、つまり混合魔法の元となる魔法自体が発動しない場合もある。故に中級の魔法を彼女は多用する。
魔法を組み合わせる――簡単そうにも聞こえるが、実際の難易度はかなり高い。弛まぬ努力と試行錯誤の結果があって初めて為し得る魔法なのだ。並大抵の努力で扱える代物ではないのである。
二年間。それがニーナが混合魔法を編み出すに至った年数――。それを聞けば彼女が混合魔法を編み出すまでにどれだけの失敗を重ねたか、それも想像に難くないだろう。
才能が無くともニーナは努力した。それは魔道師の名門である自分の家の名に泥を塗らぬ為。そして自分の夢を必ず叶えるという固い意志が彼女の中に存在するからである。
才能の有無は自分では決められない。結局は割り振られた才能でしか勝負するしか無いのだ。彼女は魔術の構成に長けていた。術式を丁寧に重ね合わせ、織っていく。そうして出来たのが先程のような強力な魔法なのである。ニーナが術式の構成に長けているのは彼女の才能ではない。偏に彼女の血の吐くような努力の賜物なのだ。彼女は自分の貧弱な才能を最大限の努力をもって伸ばし、誇るべきものへと育て上げた。これを短絡的に『才能』だと判断する事は出来ない。彼女は自身の持つ才能だけで勝負しているのである。
だからこそ彼女は自分に誇りを持っている。他人がニーナが学院内で優秀な成績を修めるのを『親の七光り』だと形容しても彼女は動じない。そうではない事を彼女が一番よく解っているからだ。
ニーナは軽く自分の頬に触れた。滑らかな肌を彼女は慰めるように優しく撫でていく。
――解ってんだ……あたしの夢は叶わない……。
嫌な言葉だ。夢が叶わないなんて――そんなの聞くだけでも吐き気がする。
夢は叶う――そう思わなければやっていけない。無理にでも思い込まなければ自分の心はとうの昔に折れてしまっていただろう。それを否定されるなど、自分自身の存在意義を否定されているのに等しい。
あの時の自分はそれが嫌で彼女を遠ざけ、決別したのだろうか。彼女の夢を肯定もせずに、ただ病巣を取り除くように彼女だけを遠ざけた。『夢が叶わない』という言葉を聞きたくないばかりに――。
ニーナは頬を爪でなぞった。肌が裂け、小さい血の玉が彼女の肌に浮かぶ。
表面張力で何とか形を保っている紅い玉はやがてその形を保持出来なくなり、ニーナの目の下を伝い、まるで彼女の涙のように流れた。
道幅の広い街道を往く。レンガで組まれた地面を踏み締めニーナはぼんやりと街の様子を眺めた。
夜になってもニーナの歩いている道は比較的賑わっているように見える。明るい光が満ち、辺りのは良い匂いが立ち込めている。活気のある商店からは大きな声が飛び交っている。
夕飯の買出しをする主婦。仕事を終え、家族の待つ家へと向かう青年。魔法を扱わない一般的な学校の制服を着た、自分と同じぐらいの歳の少年達。皆愉しそうな声を挙げている。
二ーナの横を二人の幼い少女が横切った。ニーナより少し暗い金髪の少女と茶色の髪の少女だ。
胸が――痛くなる。二人の少女を見ていると昔の事がどうしても頭の中に蘇ってくるのだ。
無邪気な少女達はお互いの顔を見て笑っている。影と光が入り乱れる風景の中でその少女達の姿だけがニーナの眼に焼き付いて離れない。眼を逸らそうとしてもどうしても見てしまう。
手に入らない――もう二度と手に入れる事が出来ない。家の名前ではなく、『ニーナ』という個人を始めて直視してくれた友人との関係を、彼女は自らの手で壊してしまった。一度壊れた友情を修復する事は出来ないし、出来るとも思わない。
――馬鹿みたい……。
彼の――アズルの言う通りなのだ。つまらない意地を張らなければ、今頃自分と彼女もあのように笑い合っていたのかも知れないのに、それなのに――。
少女達が遠ざかっていく。離れて、流され、消えていく――。
ニーナはその光景を繋ぎ止めるかのように思わず手を伸ばしてしまった。
彼女は知らない。幻想に手を伸ばし捕まえた所で、掴んだ幻は雪のように消えてしまう事を。
――行かないで……。
遠ざかる――掌が捕まえるのは空気だけ、何も掴めはしない。
――行かないで……!
遠ざかる――届くのは現実ばかり。後には何も残らない。
――行かないで……行かないで……!
遠ざかる――幻想は霞のように空気に溶ける。溶けた空気は風流され何処へと消えゆく。
――行かないで!
幼い少女達の姿は人ごみに流され、見えなくなった。
「……何……やってるの……私は……」
夜の怪しい空気に中てられたのだろうか。口の端を悲しそうに歪めたニーナは瞼を震わせた。
束の間の蜃気楼を自分は追いかけ、終ぞ何も掴む事は出来なかった。手に入れられる筈も無い――自分の方から手を離してしまったのだから――。彼女は静かに項垂れた。
<6>
「……で……結局この子は何なのさ」
ユリアと共に彼女の部屋の床に座るアズルは、ベッドの上で横たわる少女を見ながら小声で言った。
翼の生えた少女はすうすうと安らかな寝息を立てている。先程から全く起きる気配が無い。
「あたしが知るか……。……でも――」
己が寝床を占拠されているユリアは一瞬口を噤み、眠りに就いている少女の顔をマジマジと眺めた。白髪の少女は人間離れした雰囲気を崩さない。今のように寝ていてもそれは変わらないのである。
ユリアよりも少し長い白い髪。人形のような色を欠いた表皮。現在は折り畳まれ、異様に小さくなった件の銀の翼。そのどれもが同じ人間のものだとは思えない。
「少なくとも普通の人間では無さそうだよね……」
わざと作った渋い顔でユリアは言う。
「……だよなぁ……」
見れば見るほど人間離れした姿に思える。アズルは自分の膝頭を景気よく叩くと、その場から立ち上がった。
「よし……! じゃあ……僕は自分の部屋に……」
彼はとりあえずこの場から逃亡しようとした。
「戻ります――」
出口は近い。一メートル、たった一メートル程で自分は面倒事から逃げられる。
アズルは頑張った。自由を掴み取る為に。彼は一歩踏み出そうと――。
「戻らせないよ! うん、絶対に戻らせない! ……泊まってけコラ」
――と思ったのだが、ユリアの魔手がアズルの両足に絡み付いた。
「ユーリ……ユーリ……ユーリ……」
寝転がるユリアに足を抱き抱えられるようにされている少年は、遠い眼でドアを見た。
「いいかい? 僕は男だ。君は女の子だ。ついでに言えば其処の子も女の子だ……」
目前まで迫ったドアノブは、果てしなく遠くにあるようにアズルには思える。
「ああ、そうだね。あたしは女だ。あんたは男」
それがどうしたとでも言わんばかりに、ユリアの腕の力は強くなり、アズルの脚を締め上げ、声にならぬ悲鳴を上げた。
「男女が一つ屋根の下……いや! 一つ部屋の下、同衾する……それがどういう事か解っているんだな……!? その気が無くてもそうなるかも知れないぜ……!?」
少年は努力した。もう少しで自由への扉が開け放たれるのだ。目の前の少女なぞ、舌先三寸で突付いてやれば、きっと顔を赤くして自分を追い出す筈なのだ――。
「ああ! 問題ないね! アズルだけ縄で縛っとけば問題ないもんな!」
――と踏んでいたがそういう訳でも無かった。ユリアはとてもいい笑顔でアズルを見上げている。一方アズルは顔色をどこかに落っことした。
「……よ、夜中に抜け出して襲うかも……」
「返り討ち」
ユリアは急に真顔になった。この娘なら本当に殺りかねない――アズルの表情が凍りつく。
「心配すんなよー。変な事しなきゃ一緒に寝たって平気だって」
ユリアは朗らかに笑い、アズルを床に引き倒した。
アズルの記憶が蘇る。以前何かの弾み――彼が試しにとユリアに酒類を飲ませた時の記憶である。酒を飲ませたユリアはとてつもない状態となり、この部屋内で阿鼻叫喚の地獄絵図を再現した。その後、身動きの取れないアズルを抱き枕にし、寝たという出来事があったのだ。
あの夜、アズルは自分を抱き枕に眠る少女に劣情を抱く所か恐怖を覚えた。体は震え、動悸は止まらなかった。ドキドキというよりガクガクしていた。そしてその夜、アズルは一睡も出来なかった。
彼がこの出来事から学んだ事は二つ――。
決してユリアに酒を飲ませてはいけないという事と、決してユリアとは寝てはいけないという事だ。その二つを守れぬ者は命を脅かされる。いいや、事実彼は脅かされた。
「そ、そもそも何で僕がこ、こ、此処に居なきゃならないんだ!?」
少年は苦し紛れの上擦った声で言った。アズルの言葉を聞いたユリアは、何故か明後日の方向を向き、彼から顔を逸らした。
「それは――……い……から」
やけにぼそぼそとした物言いである。
「えっ? 今何て!? 怖い!? うっそだぁー」
「うるせーッ! 黙って寝ろッ!」
ユリアは指を打ち鳴らした。部屋の明かりが落ち、アズルは暗黒の真っ只中へとユリアによって引きずり込まれていく。
「ハッ……!? いやだァァァァ! 寝たら死んじゃう! 死ぬ死ぬ死ぬって! あ――」
声が消えた。得体の知れない静けさがとぐろを巻く。
どろどろと。どろどろと。どろどろと。音の消えた部屋で何かが蠢く。
数分後、アズルは何らかの理由によって安らかな眠りに落ちた。
暫くして再び部屋の明かりが灯った。明るい部屋の中には、壮絶な顔でベッドの下で転がっているアズルと、相変わらず健やかな寝息を立てる少女が居る。
ユリアは何処かと言うと、ベッドの下から這い出てきた所である。
「――さて、じゃあやるか……」
ユリアは立ち上がり、様々な物の散らかった自分の机へと向かった。
「おおっと……」
思い出したようにベッドの方へと戻ったユリアは、その下で就寝しているアズルの顔に自分の顔を近づけた。
「……まあ……」
彼女は膝を屈め、アズルに囁く。
「今日のお礼って事で……」
少年の頬に柔らかい唇が触れる。初々しい口付けは臆病な様子で静かに震え、ものの数秒で少年の頬から離れた。
「あー……やっぱ恥ずかしい……」
ユリアは再び立ち上がった。心なしか彼女の顔は少し上気しているようにも思える。彼女は机の上部に付いている水晶に触れた。それは魔力を光に変換する照明器具である。
ユリアはその透き通る水晶に魔力をほんの少しだけ注いだ。目の眩むような光が迸る。次第にそれは落ち着いていき、優しい色の光となった。
ぱちんと指を弾く音が響く。ユリアの発したものだ。彼女が指を鳴らすのと同時に部屋全体を照らしていた明かりが再度消えた。部屋の中には、ぼんやりとした光だけが存在する。それは先程ユリアが灯した水晶から発せられている光である。
唯一の光源を頼りにユリアは机に仕舞い込まれている椅子を引き、座った。机には複数の図面と共に、様々な色の鉱石、そして用途不明なものばかりが存在している。
肩を回し、ユリアは作業を開始した。
<7>
私が彼女と出逢ったのは、冬が終わり春が始まる――丁度そんな季節の変わり目の事だった。
あの時の私は入学早々、新入生の代表として退屈なスピーチを披露し終え、私は自分の席へと戻った。壇上では私の次に控えていた校長が長々とした祝辞を述べていた。
早く終わらないかな――そんな思いばかりが頭に浮かんだ。
つまらない――他に言うべき事は何一つ無かった。
式典というものは往々にして暇を持て余すものだ。全て形式的に進み、予想が出来てしまう。目新しいものなどは一つも無く、ある意味では期待を裏切られない行事である。皆同じ事を言い、厳しい顔で『精進しろ』だの、『頑張れ』だの野暮ったい言葉ばかりを並べ立てる。
入学式に関わらず、私は多くの式典に関わってきたから解る。あの場にあったのは、上辺だけの言葉ばかりなのだと。だから特別、胸を打たれる事も無い。極稀に奇をてらい面白い演説を繰り広げる人も居たけれど、そういう人は大概外している。
私と一緒。装飾が過多なだけで、中身など殆ど入っていない空っぽの器なのだ。
それでも言葉には特別な力があると言う。何でも、その言葉を放つ人間の真意が現れるのだとか。どんなに表面上を鍍金で覆っても言葉から段々と剥がれ落ちていくらしい。
仮面を被ろうとも声は隠せない。
声色を作ろうとも違和感は隠せない。
役を演じようとも本当の自分は隠せない。
鍍金はゆっくりゆっくり剥がれ落ちていく。
それもそうだろう。表面に貼り付けただけのものなんて直ぐに剥がれるに決まっている。中身が違うものなのだから表面上に何を施そうと無理が出てくる。だからと言って私が非難する資格は無いけれど。
誰しも仮面の一つや二つぐらい持っているだろう。私だって今もこうして表面上を取り繕っている。『ニーナ=クリスティア』という仮面を被りながら、その役に徹している。自分に偽りのない人間なんて存在しないのだ。嘘を吐いて、周囲を欺き、自分すら欺いている。そうでもしないと自分というものを守り切れないから。解っているが――何だか寂しくも感じる。
実際に当時の私にとって本当の自分の素顔を曝け出せるのは、家の中だけであった。本当の家族のように思っている使用人と父と母、それだけが私の支えだった。
――校長の話も終わり、式も終わった。本当はそのまま両親と帰る予定だったが、無性に外を出歩きたくなってしまった。檻の中に閉じ込められているような閉塞感を感じたのだ。
結局途中で両親と別れ、私は学院の周辺を何をするでもなく歩いて回った。自宅は比較的学園から近い場所にあるので、特に目新しいものは無い。ただ歩いて――外の空気を吸いたいそんな気分だった。
学院の裏手、小高い丘の上にその場所はあった。
『…………高い……』
小高いと言っても真近で見ると、とても大きい。右手には赤い三角屋根が帽子のようにひょこんと突き出ている。それはこの丘の直ぐ下に併設されている学院の寮の屋根であった。
学院の寮は丘に食い込むように――というより食い込んでいるのだろう。とにかくおかしな調子で建てられている。だから横を向けば直ぐ近くにその屋根が見えるのだ。そして寮の横に聳える階段を登りつめれば、景色のいい丘の頂上へと出る。
私は何気なくその階段を登った。石段は意外と急傾斜で、登り難かった。当時の私はまだ子供そのものの体型であったから、余計に登り難かった。それでも苦心し、何とか頂上へと到達すると、丘の上の美しい光景が視界へと入ってきた。
ああ、そうだ――あの時――あの時は桃色の花が丘の上に咲いていた。
風が吹いて、その桃色の花弁が舞い、流されていく。丘の上からは堪らない春の匂いがした。
そして丘の上には先客が――ユーリが居た。彼女は丘の上で癖のある栗毛を気持ち良さそうに風に靡かせていたのだ。桃色のモザイクが空気に重なって――。
彼女の髪が桃色に染まる様は、どこか現実離れしていて、私はそれに見蕩れてしまった。
ふいに彼女が後ろを振り向いた。
次の瞬間に私と彼女の視線が交差した。それが全ての始まりだった。
「ん? あんた――」
『え――あ……ご、ごめんなさい……』
『あははッ、何で謝ってんの――』
――それから先はあっと言う間。春が終わり、私達は友達になった。私の――本当の意味での友達だった。がさつなのか何なのか、彼女は剥き出しの心で私にぶつかってきてくれた。それは今までの環境では殆ど有り得なかった出来事であり、何よりも嬉しい出来事でもあった。本心から向き合える、外部では唯一の友達だったのに――。
綻びはいつから始まったのだろう。彼女は魔力放出過多という理由だけで除け者にされていた。そんなの私だって似たようなものなのに。いいや、私の方が酷い。彼女の逆――何のメリットも無い体質なのだから。それなのに煩い周囲の人間達は彼女だけを狙った。
『あんな人達の事なんて気にしないで……。ねっ……?』
『…………無理だよ……』
いや――勝手に綻びを作ったのは私だ。私が逃げなければ、自分の幻影と重なる彼女を遠ざけなければこんなにも苦しい思いをしないでも良かったのだ。
『だって……あいつらの言う通りなんだもん……努力しても……全部……』
『ユーリ……止めて……』
きっかけは一つの言葉。聞きたくない言葉だった。
『――全部無駄じゃないか』
決して彼女の口からそんな言葉を聞きたくなかった。何よりも自分に近しい人間が――。
言葉を聞いた途端に心の奥底から黒い影が染み出してきた。それは内側から私を侵食した。
あの時の彼女は自分自身を哂っていた。私を嘲笑っていた訳じゃない。
でもあの時はそう聞こえなかった。目の前の友人の顔が酷く歪んで見えた。
『止めて……!』
哂っている。私を見て影は哂っている。『お前もそうだろう』と哂っている。
嫌な声が止まらない。聞こえない筈の声が聞こえる。自分が言われた訳でもないのに――声が聞こえる。私は何度も何度も彼女に『止めて』と言った。思えば彼女と私が似ていたからこそ、ここまで過剰に反応してしまったのだ。他の人間が同じ事を言っても私は気にも留めなかっただろう。『だからどうした』と受け流していたに違いない。
しかし私はそれに敏感に反応してしまった。決して私に向けられた言葉ではないのに。
増幅された声は頭の中で反響して、私を苛める。複数の聞き慣れない声が耳元で囁く。
『…………あはは……嫌になっちゃうよね……解ってんだ……あたしの夢は叶わない……』
――夢は叶わないと。
『……もういいって…………』
『こんなに馬鹿にされるぐらいなら……』
『止めてって……! もういいから……!』
その先を言わないで。
『夢なんて見なきゃよかった……』
私の中で自我を繋ぎ止めていたものが壊れそうな気がした。
まるで私自身の夢を否定されているような気分になった。
努力をしても無駄――。
違う。
夢なんて追っても無駄――。
違う違う違う。
今までの私は無駄――。
違う違う違う違う違う違う違う! 私は――! 私の――!
私の夢を踏みにじらないで――!
ガラガラと自分が崩れてしまいそうな、そんな予感。それが私の口を突き動かした。
『――うるさいッ!』
『二ナ……? ど、どうしたの……?』
『うるさい……うるさい……! もう聞かせないで……!』
聞きたくなかった。私は耳を塞いだ。きつくきつく何も聞こえないように。
『ね、ねえ……』
『嫌……! 嫌……!』
あの時の私の精神状態は異常だった。壊れそうだったのではなく、既に、この瞬間に私という入れ物には罅が入り、壊れていた。
『あ――貴方なんて……大ッ嫌い……! 嫌い……大嫌い……ッ』
私に入った亀裂は大きくなり、赤い中身が止め処なく満ち溢れ、口から零れていった。
『……ごめん……うざったかったよね……もう言わないから……だから……』
彼女も私の異常な様子に気付いていたのだと思う。諭すような優しい口調だった。
でも、それが余計に私の気に障った。
周囲の――私の夢を汚す人間達への、今まで我慢してきた怒りがユーリの方へ流れていった。
『うるさいうるさいうるさい……! 聞きたくない……! ……嫌なの……! も……もう……私に……ち、ちかっ……近づかな……なっ……いで……』
被害妄想。筋違いの怒り――だが言わずにはいられなかった。そうでもしなければ、自分もいつしかそれを認めてしまそうだったから。認めてドロドロに溶け出してしまいそうだったから。だからあの時私は彼女を否定した。彼女は悲しそうな顔――そう、今日のような顔で――。
『そうかよ……。ごめんね……解った……もう……解った』
――彼女と離れてから惰性的に日々は過ぎていった。私の周囲は再び上辺だけの人間関係で形成され、私もまた新しい仮面を次々に付け替え、彼らにとって理想的な人間を演じた。
彼女には一方的に辛く当たった。彼女は私を見ると、嫌な顔をするようになった。
当たり前だ。私は彼女に暴言を吐くだけ吐いて、逃げたのだから。
彼女が何かを言いたげにこちらを見てくる事もあったが、全て無視した。
もう後戻りは出来なかったのだ。私は彼女を身勝手な理由で傷付けた。それは動かしようも無い事実なのだから。許してなんて言えない。言っても多分許して貰えないだろう。
自分から――そして出来るだけ辛く冷たく当たった。そうしないと彼女の顔を見る度に泣いてしまいそうだった。
感情を籠めない眼で彼女を見るようになった。そうすれば彼女を真っ直ぐ見る事が出来るから。真っ直ぐ――真っ直ぐ――。
違う、それは嘘だ。私はあの日から一度も彼女を真っ直ぐ見詰めた事など無い。直視するのが怖くて見ているふりをしているだけだ。いつも彼女を傷付けるような事ばかりを並べ立てて、自分の形を辛うじて保っている。私は彼女を傷付ける事で自分の鍍金を剥がれないようにしているのである。吐き出される言葉全てが刃物のように尖って彼女へ刺さっていく。刺して、抉って、切り裂いて。でも、汚らしい鍍金の奥、生身の――本当の私の口はこう言いたいのだ。
『 』と――。
「――お嬢様? お嬢様……? 大丈夫ですか、お嬢様!」
目の前の暗闇が急に現実味のあるものへと変化した。
「え――?」
瞼を開けると、見慣れた若い女中の顔が正面に見えた。
「あ~よかった~! 心配しましたよ~」
「レ……イラ? どうして此処に……」
「お嬢の愛くるしい寝顔を見に来たら魘されていたんですよォ。いやいや、心配しました~」
「それについては明日じっくりお話しましょうか」
女中レイラ=セヴァンスは安心したような笑みを浮かべ、手持ちのランプを私の頭の横に置いた。
「眩しい……」
暗闇に慣れていたせいか、光がよく眼に染みる。その気は無くても涙が出てきそうだ。
「あっ……すいません」
「いえ……大丈夫だから……気にしないで……」
夢――だったのか。嫌に現実味のある夢だった。
温かみのある光が枕元を照らしている。いつもの部屋。いつもの景観。夢の中とは違い、全てが確りとした像を結んでいる。私はそれらを見て少し安堵した。
窓の外を見ると夜空に柔らかい光を放つ月が懸かっている。夜か。今――何時だろう。
魔法を使った後に感じる疲労感は抜けている。最低でも二、三時間は寝てしまったらしい。
嫌な夢だった。夢の中というのはどうにも駄目だ。何を見ても輪郭がぼやけて見える。それなのに、見たくないものは悉く鮮明に見えてしまうのだ。
見たくない――本当に私は彼女の夢を見たくないのだろうか。夢は見たくないものまで見せるが、稀に見たいものを映し出す時がある。それは『夢』というものが個人の記憶、願望、そして形容し難い何かに直結しているからなのだろう。故に、夢は特別であり、それ自体に深い意味を持つ。人の心の奥が赤裸々に具現化してしまうのだ。だからもしかしたらあの夢も――。
そんな――違う、そんな訳が無い。あれが私の見たかったものだと? そんなの有り得ない。
あれは悪夢だ。いつも私を苦しめている悪夢だ。
「――あのー! お嬢様、しっかりー!」
「えっ……あ――ああ……ごめんなさい……私ったら少しぼうっとしているみたいね……」
「もうっホントですよぉ……。そうだ、お夕飯はどう致します? ご主人様は先に召し上がられましたが」
雀斑が特徴的な可愛らしい顔を綻ばせると、レイラは『お腹空いたでしょう?』と笑った。
確かに空腹だったが、今頃になって再度食事の準備をさせるのはレイラ達に申し訳ないと思った。もう、相当に遅い時間だろう。私一人の我侭で彼女達を煩わせる訳にはいかない。
「ありがとう……でも、あんまりお腹空いてないの……」
レイラの顔がぬっと私に近づいた。
「お嬢様~……」
「うっ……」
まじまじと正面から顔を見詰められると恥ずかしくなる。私は彼女から顔を背けた。
「……嘘ですねぇ。それは嘘ですよ。きっとお嬢様のお腹はぺこぺこちゃんですよー」
「いや、そんな事は……」
私のお腹の辺りで腹の虫が間の抜けた鳴き声を発した。
「ありますねぇ。ありました~」
彼女は昔と寸分違わぬ笑顔で私に笑いかけた。
「…………はい……」
恥ずかしい。
「小さい頃から二ナお嬢を見てきた私を、誤魔化せるとか思っちゃいけませんよ。今着用なされている下着の色まで知ってるんですからね~」
「それについても明日詳しく聞かせてくれるわね?」
「やだぁー、うっかり口が滑っちゃいました~」
ひょっとしたら彼女は結構危ない人種なのかも知れない。
「それじゃあ支度してきますので、終わり次第呼びに来ますねー」
レイラは枕元にあるランプを掴むと、扉の方へと向かおうとした。
「あっ……! ホントにいいの……」
「……お嬢様は、私共使用人までに気を回し過ぎですよォ」
「そんな事は……ただ貴女達に悪いから……」
「んんん、じゃあこうしましょうか。私が厨房で何か軽いものを作って参りますので、お嬢様はここでお待ちになっていて下さい。それならいいでしょう?」
「…………ありがとう」
気を回されているのは私の方ではないか。結局彼女に余計な気遣いをさせてしまった。
「こんな事お茶の子さいさいですよ。あれですね~。二ナお嬢はもう少し人に頼った方がいいですねぇ」
「もう十分に頼らせて貰ってるわ……」
子供の時分から何度、彼女や他の使用人達に世話になってきたか。だからこそ私は彼女達を本当の家族のように慕っている。
「ええもう存分に頼って下さいよ!」
家族に例えるならばレイラは差し詰め姉という所か。小さい頃からよく遊んで貰った――。
「……二ナお嬢は優しいです。優しいですけど……少々を気を張り過ぎです。あんまり我慢していると壊れちゃいますよォ……。まだあの子とも仲直りしていないんでしょう……?」
「それは――止めて……。それはもういいの……。悪いけど……もう下がって……」
「お嬢様……。……解りました。後でお食事――持ってきますね……」
レイラは静かな足取りで部屋から出て行った。
「………………」
パタンと扉が閉まる音と共に、急激に静けさが強くなった。
静か過ぎる空間は逆に煩く感じる。耳鳴りが――止まらない。頭の中で色々なものが反芻され、再現されていく。先程の夢も、それ以外も、全部全部ごちゃ混ぜになっていく。
「……うるさい……」
頭の中で起きている事象なのだから、耳を塞いでも無駄だ。起きたばかりの中途半端な感覚が夢と現実の境界を曖昧にする。今の私にはどこからが夢なのかが解らない。
鏡台が視界に入った。広い鏡面に自分の顔がぼんやりと映る。
鏡の中の私は、冷たい瞳をしていて――それはまるで彼女を見ている時の私の様で――。
そうじゃない。あの冷たい視線は私自身を見ているのだ。
許せないのは自分自身――。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
肩の痛みはとうに引いていた。代わりに胸が潰れたように痛んだ。
お気づきの点があれば遠慮なくどうぞ。
時折、見苦しい言い訳をする可能性がありますが……ご容赦下さいませ。




