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次点の憂鬱

 


「し、城さんがそんなにバカだったなんて思いませんでした……っ」



 泣いているのか怒っているのか、困っているのか喜んでいるのか、よくわからない顔を真っ赤にして彼女は言う。


「僕も同感だ」


 自ら絶望的状況を招いてしまった。

 それなのに僕は、彼女の涙が水元くんの前にさらされなくて良かった、と、それだけをひたすら安堵していた。


「自分から振られてどうするんですか。小野原さんのこと、好きだって言ってたくせに」

「君だって同じだろう。どうして断らなかった。こんな仕事」


 君はどうして傷つきたがるのだろう。

 僕はどうしてこんなに必死になって、君を護ろうしているのだろう。


「どうしてだよ」


 強引に抱き寄せると、重い機材を運び慣れているはずの肩は思っていた以上に華奢だった。


「僕は君が君を大切にしないのが気に入らない」

「し、城さ――」

「僕ならもっと大切にするのに」


 誰より、一番、大切にするのに。



「そんなに乱暴に扱うなら、……僕のものにしてやる」



 ***



 城秋也しろ・あきなり、というのが僕のフルネームだ。


 秋也、は中原中也に傾倒している父が、『空しき秋』の秋と、中也の也を組み合わせてつくった名前。

 両親の教育がそうだったわけではないけれど、幼い頃から一貫して、僕は“頂点”というものを愛していた。

 つまり一番だ。

 範囲は狭ければ狭いほどいい。

 座右の銘は、鶏口となるも牛後となるなかれ、だ。

 小学生の頃からクラス委員長は常、しかし生徒会長を目指したことはない。

 高校受験も自分の偏差値よりいくらか低いレベルを選んだお陰で、首席合格を果たした。

 そこへきて近所にある某美術大学の芸術学部をわざわざ受験したのは、叔父が日本画家だったこともあり、コネクションの宝庫だったからだ。

 ここでなら趣味と実益が兼ねられる。頂点が取れる。僕の人生設計は完璧だ。そう思った。

 だがしかし、現実は甘くなどなかった。


「城くん、あの、これ」


 振り向けば、可憐な女子学生が僕に向かって手作りクッキーを差し出している。

 ここでぬか喜びをしてはいけない。僕はそれを、入学してからの三週間で嫌というほど思い知っていた。


「これ、神保くんに渡してもらえないかな」


 こうなるからだ。

 今は素直に尊敬しているし、克之のことは親友だと思っている。

 けれどあのころ、自分のはるか上を行く天才の存在は、正直目の上のたんこぶだった。

 克之は年少のころから秀でた偉才の持ち主で、絵を描けば数百万の高値がつくし、デザインならばヒットは確実で―― さらにそのマスクの秀麗さといったら、僕の比ではなかった。

 ちやほやされているのが気に入らなくて、僕は克之を冷たくあしらい続けた。


「城くんって近所なんだ? 今度遊びに行ってもいいかなあ」


 こちらの嫉妬心を煽るように、彼はいつも少年のような笑みを浮かべていた。


「冗談じゃない。どうして僕が君を招かなきゃならない」

「どうしても駄目? 城くんの作品面白いし、僕、いろいろ話したいなと思っ……」

「断る。女子ならまだしも、男を部屋に連れ込む趣味はないね」


 だから僕は、彼の本音に長いこと気付けなかったのだ。


 ***


 あれは某テレビ局主催のビエンナーレを控えた秋のことだった。

 ちなみにビエンナーレというのは“二年ごと”という意味で、隔年に開催される展覧会のことを言う。

 克之はそこで、招待作家としてメインスペースを飾ることになっていたのだが。


「駄目なところ、言ってもらえないかな」


 克之は僕を作業室に呼びつけて、縋るような目でそう問うた。

 イーゼルには完成間近の油絵が乗っている。どうやら、批評をして欲しいようだった。どうして僕が。

 一瞬、バカにされているのかと思った。

 しかし、そっちがそのつもりなら、こちらだって全力でバカにしかえしてやろう。そんな意地悪な考えが頭をもたげた。


「静物ねえ、ありきたりだよ。モチーフが良くないんじゃないの。神保くんはもっと、子供っぽいものを描いていたほうがお似合いだと思うけど。いちから描き直したら?」


 言いたい放題こき下ろした僕を前に、克之は安堵したように肩の力を抜いた。


「……ありがとう」


 そうして、やつれた顔で情けなく笑ったかと思うと、大粒の涙をこぼしたのだ。


「は!?」


 焦ってしまった。

 悪いのは僕か。そうなんだろうな。言い過ぎたのか。いや、だが、礼を言ってから泣く奴があるか。

 誰かが見ていたらどう言い訳しよう、と思わず背後を振り返ってしまった。

 彼の作業場は個室だったから、第三者がいるはずなどなかったのだが。


「……ひさしぶりなんだ。こんな、本音で批評してもらったの」

「おまえ……」

「ありがとう、城くん。ありがとう」


 克之は孤独だった。立場が確立しすぎていたからだろう。

 周囲の人間はすでに、彼の作品にケチを付けることなど恐ろしくて出来なくなっていたのだ。

 孤高の天才、というのはこういう奴のことを言うのだろうと思った。

 僕は何故か、頂点で立ち竦む克之がいたたまれなくなってしまった。

 狭い範囲でのみ、一番を目指して来た自分。

 それは、転落したところで致命傷を負わない高さだとわかっていたからだ。だから、簡単に傾斜を登れた。

 なのにこいつは勝手に担ぎ上げられて、とてつもない高さに怯えている。


「なんだよ。そんなにバカにされたいなら、いつだってしてやるよ」


 僕と克之はこの日を境に、親友になった。

 こいつの下になら、いてもいいと思った。


 ***


 そうして迎えた春、僕は克之とふたりでデザイン事務所『人望舎』を立ち上げた。

 とはいえ当時の活動はサークルの延長のようなもので、ビジネスらしいビジネスとは到底言い難かった。

 それでも僕の目的は半分達成されたようなものだった。


 もともと克之は、作品依頼が殺到しても仕事を選ばないし、金銭のやり取りが何より苦手で、危なっかしかった。

 だからそれらを僕が代わってやって、克之には作品づくりに没頭できる環境を与えてやりたかったのだ。

 なにしろ僕が唯一認めた男なのだ。

 もっともっと、登りつめてもらわなければ困る。

 いや、僕がいたから頂点に辿り着けたのだと、いずれはそう言ってもらいたい。


 次の年、新入生の船橋譲ふなばし・ゆずるをブレーンとしてスカウトしたのは、発想が群を抜いて変だったからだ。

 個性は時に珍味となるし、克之にとってもいい刺激になると思ったのだ。

 人望舎のメンバーは徐々に増えていった。そのたび、克之はよく笑うようになった。以前の薄い笑みではなくて、年相応の馬鹿笑いで、だ。

 よかった、と心から言えた。

 だから、僕は自らが頂点を目指すことをやめたのだ。


 ***


 デザイナーズラボから、取材のオファーが舞い込んで来たのは僕らが大学を卒業した年の夏だった。

 デザイナーズラボというのは割と玄人向けのデザイン誌で、人望舎のオフィスにも常に新しいものを置いている。

 要するに憧れの雑誌からの思ってもみないオファーだったのだ。


 僕は乗り気だった。

 しかし、珍しく克之が渋った。彼には譲れないポリシーがあったからだ。

 仕事は仕事として評価されるべきで、見た目や人となりが加味されるべきではない、と。


 無駄に整ったルックスのことばかり取りざたされてきた克之にとっては、これ以上の露出は避けたいところだったのだろう。

 気持ちはわからないでもない。

 けれど大所帯の事務所を切り盛りしている僕の立場からすれば、それは清らかな理想論だった。


「じゃあさ、俺らもカッコ付けたらいいんじゃね? 克之が霞むくらい。それならいいっしょ」


 変人・船橋はそう言ってのけた。


「……それ、根本的な解決とは言えない気がするけど」

「いいじゃんいいじゃん。克之はさ、俺らが騒がれることで存在感うすくなるから大丈夫」

「そうかなあ」

「そうそう。あー、俺が一番モテたらどうすっかな」

「おいコラ、おまえに一番は譲らないぞ」

「ほら、城も乗り気だし」

「いや僕はべつにモテたいとかいうわけじゃ」

「うーん、じゃあ今回だけだよ? 今後は絶対に出ないよ?」


 こうして、一度きりという約束で取材が入ることになったのだった。

 そう、最初はこれっきりのつもりだった。一度の掲載が付加価値になって、客単価が上がれば、とそれくらいの気持ちだったのだ。

 まさかその記事で人気に火がついて、オファーが殺到することになるなんて僕は夢にも思わなかった。


 最初のうちは、大量に舞い込んだ仕事を振り分けるだけで手一杯だった。

 なにしろ大人数のスケジュールを日々作り替えていかねばならないのだ。余裕なんて一切無かった。

 睡眠時間も取れるか取れないかギリギリのところで、食事が喉を通らない状態にまで陥ったりもした。

 体重が五キロ落ちたところで、見兼ねた克之が雑務を少し肩代わりしてくれ、ようやく少しの安息がおとずれた。そう思ったのだが。


「取材、もう入れないんじゃなかったのか!?」

「うん。そのつもりだったんだけどね、どうしてもってお願いされたら断りきれなくなっちゃって……ごめんね。僕、城に迷惑かけてばっかりだよね……」

「いや、克之がいいって言うなら僕は別にかまわないけど」

「……きらいになった?」

「なるわけないじゃないか!」

「そっか。良かったー」


 油断した隙に、それまで断り続けていたデザイナーズラボでの連載企画が決まってしまったのだ。心優しい克之に電話番を頼むなんて迂闊だった。

 しかし、これを機に克之がメディアへの抵抗を無くしてくれたから結果的には良かったと言える。

 連載は五年続いた。意外に長寿企画だったと思う。

 彼女のとの出会いも、そのうちのひとつだったのだ。

 新しい担当カメラマンとして彼女を紹介されたのは、神保が例の、交通事故に遭う直前のことだった。



都築佐奈つづき・さなです。今号からお世話になります!」

 


 カメラマンとして駆け出しだった彼女は、一言でいえば快活な女の子だった。

 常に元気の塊といった感じで、気取ったところもないし、仕事に対して責任感がある。好感度は高かった。

 僕は彼女を見るにつけ、こんな妹がいたら楽しいだろうなと思ったものだった。

 そう、妹だ。それ以上でも、以下でもない。当然、邪な感情を抱いたことなんて一度もなかった。

 ともあれ連載は好評のうちに幕を閉じ、人望舎にはそれまでより少し穏やかな日々がやってきたのだった。

 そんな折りだ。克之の身に、突如不幸が襲い掛かったのは。


「城ッ、今、克之の親父から電話があって。克之が、克之が……っ」


 電話を受けたのは船橋で、直後、彼は縋るようにして僕の体を揺さぶった。


「こ、交通事故で瀕死の重体だって……!」


 目の前が真っ暗になった。

 高校の同窓会へ出席すると言って、克之が仙台へ帰省したのはついおとといのこと。

 すぐ帰るから、データはデスクトップにあるからと笑顔で出て行ったのに。


 交通事故? 重体だって? 嘘だろう。


 急ぎ新幹線に飛び乗った僕はもう、恐怖のあまり膝が震えて直立出来ないほどだった。

 克之は僕の夢。僕の未来そのものだ。

 もし失ったら。克之がいなくなったら僕はこの先どう生きたらいい?


 しかし本当に絶望したのはその後だった。

 克之は辛くも命を取り留めたものの、耳に酷いダメージを負い、音を失っていたのだ。


 職場に復帰してからも常に何かに怯えている様子で、一日に一度は酷く塞ぎ込むし、以前のような笑顔は見られなくなった。

 言葉も交わせない。何を考えているのかもわからない。人望舎は電気を消したかのように、全体が暗くなった。

 いつしか彼は、周囲とのコミュニケーションを厭うように、マスクで顔を覆いはじめた。

 そうして、仕事を辞める、とまで言い出したのだ。


 僕はまるで、自分のやってきたことが全て否定されているかのように思えた。


 人望舎を立ち上げたのは、克之のためだった。

 自由に創作出来る場を与えているつもりだった。

 もっと昇りつめてもらいたかった。

 だから、担ぎ上げられて戸惑う彼を、更なる高みに押し上げ続けた。


 ああ、きっと。

 僕は克之の才能にぶら下がりたかったのだ。


 自分の才能だけでは成し遂げられないことを、彼の力で達成しようとしただけなのだ。

 だとしたらなんて狡い――。


 こんな奴につけ込まれて、克之はどれだけ迷惑しただろう。

 そのうえ何故、あんな目に遭わされなければならない?

 悪いのは僕じゃないか。

 僕だ。事故に遭わなければならなかったのも、音を失わなければならなかったのも、僕のほうじゃないか。

 才能ある彼が消えるより、狡い僕が消えたほうが、世の中のためにもなるじゃないか。


「……なんでだよっ……」


 ラテのカップを握りつぶす勢いで掴んだ僕は、自分がカフェにいる理由を忘れていた。

 彼女に―― 都築さんに肩を叩かれて、はっと我に返った。

 そうだ。僕は彼女を呼び出したのだ。


「城さん」


 大丈夫ですか、と彼女はポケットティッシュを差し出してくれたけれど、断って自分のハンカチを出した。

 いつの間に泣いていたのだろう。

 気の毒そうに眉を寄せた彼女に、僕は平静を装って経過の報告をした。

 克之の耳の状態は、本人の希望でメディアに箝口令をしいているのだが、中でも彼女はまめに連絡をくれ、常に気にかけてくれていた。

 だから、一番に伝えなければと思ったのだ。


「人望舎、解体するかもしれない」

「そんなに悪いんですか、神保さん」

「……精神的にはもう限界みたいだ」


 僕も。

 俯いて両手を握り合わせると、ふいにあたたかなものがその上に被さった。

 思わず顔をあげると、都築さんは泣き出す一歩手前、といった表情で僕を見ていた。


「神保さんのこと、すごく大切なんですね」


 華奢な手から伝わる体温が、力強かった。


「信じてあげてください」

「え……」

「大切なら、無条件で信じてください。でなければ、きっと後悔します」


 難しいかもしれませんけど、と口角を上げた都築さんは、どこか苦しそうだった。

 その顔を見ていたら、こちらのほうが耐えきれなくなった。

 僕は祈るように、その細い腕に縋って泣いた。

 人目も気にせず、激しく嗚咽を漏らして泣いた。



「……後悔、しないでください。私みたいに……」



 その言葉が意味するところを僕が知るのは、もう少し後のことだ。

 思えば僕はこれまでの人生の中で、あの時ほど誰かを頼もしいと感じたことはなかった。


 ***


 彼女の言う通り、克之は人望舎に戻って来た。

 本宮さんという理解者を得て、以前よりずっと強くなって、戻って来たのだ。

 手掛けていた仕事を「勝ちにいきたい」と言われた時は倒れるかと思うほど嬉しかった。


 この一件がきっかけで僕と都築さんは個人的に会うようになったのだが、もう、彼女は妹には見えなかった。

 言ってみれば五分、対等に思えたのだ。

 会うたび僕は、時を忘れた。こんなに過ごしやすい相手は他にいなかった。


 だから小野原さんへの恋心が芽生えた時も、いちはやく報告したのだ。

 彼女はトレードマークのショートボブを揺らして相づちを打ちながら、興奮気味に話を聞いてくれた。


「素敵な人ですね。小野原さん、私も会ってみたいです!」

「だろう。あの人といたら、僕も船橋もいろいろと勉強になると思う。自分を、高めてもらえるような気がするんだ」

「城さんならきっとうまくいきます。頑張ってくださいね!」


 彼女にそう言われると、何だってうまくいくような気がした。

 例えば宇宙にだって行けるような気がしたのだ。

 彼女さえ出来る、と言ってくれたなら。


「ありがとう。都築さんこそ、そろそろ彼氏を作ったほうがいいんじゃないか」


 茶化して言うと、余計なお世話です、といじけてしまったが。


 ***


《城ってさ、本当に一番が好きだよねえ》


 翌週の始め、仕事のスケジュールの打ち合わせが終わった直後に克之がそんなことを言った。

 言った、といってももちろん声に出して言ったわけではなくて、作業中のパソコンに打ち込んだ、というのが正しい。

 例の事故以来、仕事場ではこれが僕らのコミュニケーション手段となっている。

 つまり現在、タイピングの音こそが克之の“声”なのだ。

 僕は克之の“声”が好きだ。タッチが速いからだろうが、雨音みたいに聞こえる。聞いていると凄く落ち着く。

 以前の、囁くような優しい声も好きだったけれど、今の“声”のほうが何十倍も好きだ。

 気を遣ってるの?なんて言われそうだから、本人には伝えていないけれど。


《もちろん。今回の仕事は市場への挑戦なんだ。負ける訳にはいかないだろ》

《うん、そうだね》


 克之はちらと僕を見、再び続きを打ち込む。


《なのに、不思議なんだよねえ》

《何が》

《そんなに一番が好きな城がさ、小野原さんの一番になりたがらないこと》


 そんなことはない。

 返事を打とうとした手は、意志に反して止まった。

 彼女の一番になりたい、そう思ってはいるが。だが、奪取する気があるかと聞かれればそうでもない。

 何故だ?

 隙をみて、克之はさらに続ける。


《船橋は勇気がなくてひとりで行けないって言ってたけど、城はそうじゃないよね? どうして抜け駆けしようとしないの》

《だってそんなこと、男らしくないだろう》

《えー、僕ならいつかちゃんのこと、抜け駆けしてでも死守するけどなあ》


 いつかちゃん、というのは克之の彼女―― 本宮さんのことだ。

 ここだけの話だけれど本宮さんは、奥手な彼の初めての彼女だ。


《それに小野原さんって、男だとか女だとか、そういうの気にしない人だと思ったけど……》


 その通りだ。ぐうの音も出なかった。

 半日考えても答えは出ず、作業に熱中した僕はその疑問をいつの間にか忘れてしまった。

 午後一番は新企画を持ち込んだばかりの、デザイナーズラボとの打ち合わせだ。

 出版社に向かうと、編集部の村井さんの横に浮かない顔の都築さんがいた。

 具合でも悪いのだろうか。

 時々見せてくれる笑顔も何故だか今にも剥がれ落ちそうで、気になってたまらなかった。

 だから会議を終えたとき、僕はすかさず彼女を夕食に誘ったのだ。


「仕事、何かあったのか」


 行きつけの寿司屋で赤身を三貫頬張った後尋ねると、彼女は諦めたように笑った。


「……半分正解です。どうしてわかるんですか」

「さあ。どうしてだろう」


 わかりたいと思っているからだろうか。


「もう、全部やめちゃおうかなあって思ってました」

「ええ?」

「才能ないし、それでも頑張っていく理由、なくなっちゃったし……」


 湯のみを握りしめる手はあの日と同じく、とても細い。僕の半分くらいしかない。

 このときばかりは、頼りないな、と思った。


「才能? ないわけないだろう。君は現にカメラで立派に食べているわけだし」

「そういうのじゃなくて。私にはもう、自分に出来る限界が見えちゃってるっていうか」

「先が見えるってことは、ちゃんとその道の上にいるってことだろ」

「そう、ですけど。けど、行き止まりだってわかってて進むメリットなんてあるんでしょうか」


 カウンター越しに、親父に大トロをふたつずつ頼んだ。都築さんがお茶しか口にしていなかったからだ。


「僕は、諦めたから人望舎を作ったんだ」

「……城さんが?」

「そう。僕には克之のような、突き抜けた才能はないからね。その点、君のほうが独り立ちしている分凄いじゃないか。僕は都築さんを純粋に尊敬してる」


 上手に慰めたと思ったのに、彼女は涙ぐんで俯いてしまった。


「私、……そんなふうに言ってもらえる人間じゃないです」


 狡い人間なんです、と言った声は消え入りそうなくらいか細かった。


「卑怯なんです。私、自分から裏切ったくせに、今も同じ夢、追ってるんじゃないかとか、バカみたいなこと考えて」


 何を言っているのだろう。


「だから再会さえできたらって、その日まで頑張ってればいつかやり直せるんじゃないかって、夢と恋愛、混同して追いかけてた。……都合、良すぎますよね」


 恋愛? だれか想う男がいるのか。

 しかしこんなときに限って喉の奥が貼り付いていて、聞けなかった。

 嫌な気分だ。吐きそうだ。


「だけどもうだめ。あんなに素敵な人が相手だなんて、……城さんでさえ夢中になるひとだもの、……勝ち目、ない」


 僕が夢中に? 小野原さんのことか? じゃあつまり。

 わかった途端、腑を握りつぶされたような感覚に陥った。

 目の前に置かれた寿司が、ちっとも旨そうに見えない。


「まさか、君、み、水元くんのこと」


 好きだとか言わないよな。


「はい。高校のとき、付き合ってて。だけど私、彼のこと、信じられなくなって、疑って、……裏切って。酷い、女なんです」


 彼女はついに落涙し、涼しいはずなのに僕は汗をかいていた。

 小野原さんが水元くんと付き合っている、と聞かされた時よりずっとショックだった。



「だけど、ずっと忘れられなくて。毎日、毎日好きだった……」



 信じろ、って。

 あのときああ言ってくれたのは、そんな過去があったからなのか――。


 寿司屋の店主がぎょっとした様子で彼女の涙を見ていた。

 見るな、と思った。僕以外誰も見るな。あっちを向け。見せたくない。

 咄嗟に、手に持っていたスーツのジャケットを彼女の頭から被せた。


「君が卑怯者なら、僕はもっと卑怯だ」

「え?」

「親友を利用して夢を追ってる。僕は克之にぶら下がりっぱなしなんだ。狡いだろう」


 言って煎茶をすすった。眼鏡が曇った。


「……そんなことないです。だって事故のとき、城さん、泣いてたじゃないですか。神保さんのことすごく大切なんだなって感じました」

「泣いているのは君も同じだ。後悔しているんだろ」

「だ、だけど、私は酷い女だから城さんとは違……」

「違わない。本当に酷い人間はそんな顔をして泣かない」


 噛み合わない会話が酷くもどかしかった。

 何を言っても無駄のような気がして、僕は素早く勘定を済ませた。


「行くぞ」


 奪うように手首を掴む。か細いそれは涙に濡れて湿っている。

 痛々しくて、苛々して、僕はつい声を荒げた。


「早く!」

「え、え?」

「スカッとするところに連れてってやる」


 店の外には、うっすらグレーがかった空が広がっていた。

 人目を避けて細い路地に入ってから、船橋に電話を掛ける。

 〆切あけで予定のない彼は、寝ぼけた声でもしもしと出た。


『何だよー。急ぎの仕事なら他にやってくれー』

「違う。今すぐ林ビルの広報に連絡を取ってくれ。おまえが一番親しいだろう」

『ハア? いいけど、なんでまた』

「いいから。今日のナイト上映の予約席、接待で使いたいから二席融通きかせてくれって伝えてもらえないか」

『ん、わかった。でもあそこ、通常より割高だし全席カップルシートっしょ?』

「それでいいんだよっ」


 怒鳴るなり切った。あそことは懇意にしているから多分大丈夫だろう。


「あ、あの、城さ、どこへ――」

「映画館」

「……は? な、なんで」


 泣くなら声を上げて思い切り泣けばいい、とは、小声で付け足した。聞こえていなかったかもしれないが。

 そうだ、泣けばいい。きっとすっきりする。

 だけどその顔を、他の誰かには見せたくない。ひとりにもさせたくない。

 だから僕のすぐ隣で、僕だけが届く位置で、気が済むまで泣けばいいんだ。


 もう大丈夫だ、ってしつこいくらい言ってやる。

 嫌がられたって、笑えるまで付き合ってやる。


(……だからその間は、他の男のことなんか考えるなよ)


 都築さんは不思議そうにしていたけれど、大人しく着いて来た。

 アクション映画ばかり三本続けて観て、途中、そろって居眠りをして、気付けば朝だった。

 僕は繋いだ手を離さなかった。席を立っても、戻ってくれば再びしっかり握り合わせた。

 そうしてその度、心の中でもう大丈夫だよ、と唱えた。


 翌朝、真っ赤な目をして朝日を拝んだ彼女は、少し恥ずかしそうに笑って。

 僕はそれを心から可愛いなと思って、誇らしいような、くすぐったいような気分になったのだった。


 ***


 小野原さんが水元くんと正式に婚約した、と聞いたのはその直後のことだった。

 ふたりは簡単なホームパーティーを催すらしく、克之のところに本宮さんが招待状を持って来たのだ。

 その事実を知った船橋は一日の無断欠勤を経て、翌朝、泣きはらした顔で出勤して来た。


「おばようー、うへへへ」

「臭ッ、おまえ酔ってるな!? それで仕事になるのかよっ」

「つ、つめたいな! 振られた者同士、慰め合おうって気がないのかよう」

「冗談じゃない。僕はちゃんと昨日も休まず仕事をしたぞ」

「……なんだよ、好きな女に振られたのにやけに冷静じゃんか、城」


 言う通りだ。

 何故だか僕は、自棄になった船橋をどこか冷静に見ていて、だからショックを受けたかといえばさほどでもなかったのだと思う。

 半分、他人事みたいだった。いや、そんなことより僕は、都築さんがどうしているかが気になっていた。


「でもよぉ、こうなったら最後のチャンスにかけるしかないよな。ホームパーティー、乗り込むぜ俺。城も行くだろ」

「なんで僕が」

「あのなあ、好きなんだろ。このままじゃ諦めきれねえだろうが」


 そう、だろうか。確かに最初のうちはそう思っていたような気もするが――。


「だったらこう、バーンと劇的に告白してさ、皆の前で奪って逃げんだよ。女王様をさ」

「は」

「おまえも来いよ。でないと後悔するぜ」


 乗り気ではなかった。しかし、そこまで言われてむざむざ引き下がるのもおかしいように思えて、僕は克之からパーティーの日時を聞き出したのだった。

 翌週の土曜。

 色々な意味で、この日が僕のターニングポイントとなった。


 ***


 パーティーは品川の住宅街、瀟洒な庭付き一軒家で行われていた。

 僕と船橋は、克之の手引きで庭での立食に辛くも潜入できたのだが、予想以上の豪華な顔ぶれにまず気圧されてしまったのだった。


「お、おい城、あれって奥沢華子じゃねえ? 食品会社のCIを軒並み手掛けた、あの」

「ああ、結婚して一線を退くって聞いたけど、まさか妊娠中だとは。隣にいるのは旦那さんか? うわ、あっちにも知ってる顔がいるぞ。確かヒロサワ……広沢美樹とかいう、アパレル関連の」


 そこへきて我らが神保克之が出席しているのだ。贅沢なんてものじゃない。

 見知った企業のお偉い方がひっきりなしに訪れては帰って行く様などまさに圧巻といった感じで。

 僕は小野原さんの経営手腕に脱帽せざるを得なかった。


「すごいな小野原さん」


 ため息まじりで漏らした船橋も、雰囲気に完全に飲まれてしまっているみたいだ。

 抱えた薔薇の花束でさえ、色を失って見える。

 反して小野原さんは人の輪の中心で、艶やかに笑っていた。


「どうやったらこんな人脈が築けるんだ。ハンパねえよ、あの人のバイタリティー」

「だな。それなりに辛酸も舐めて来ただろうが」

「……それを、水元くんはずっと側で支えて来たんだなあ」


 それきり船橋は黙って、芝生の上に座り込んでしまったのだった。

 気の毒なくらい悄然としていたから、しばらくは一緒にいてやった。

 そのときだった。デザイナーズラボの村井さんが、都築さんを連れて玄関に現れたのは。

 目を疑ってしまった。どうして彼女がここに。


「わあ、人望舎の方もお揃いで。豪華な顔ぶれですねえ」


 村井さんは興奮気味に話しかけてくる。

 僕は都築さんの首から下がるニコンの一眼レフに気付き、もしや、と思わず口元を覆った。

 取材が入るのか。彼女が撮るのか。

 しあわせそうなふたりを?――馬鹿なことを。


「……こんにちは。城さん、この間はありがとうございました」


 小さく下げた頭に、頼りない形のつむじが見えたら胸が破けそうに痛んだ。

 ちっとも笑えていないじゃないか。なのに何故、取り繕うように笑おうとするんだ。

 たまらなかった。

 咄嗟に掴んでいた船橋の襟元を離し、その手で奪うように都築さんの手をとる。


「――小野原さんッ」


 振り向き様に呼ぶと、女王様は人垣の向こうでわずかに顔を上げた。


「あら、来てたの」


 幸せが滲み出ているせいだろうか、普段に輪をかけて美しいと思う。

 けれど、その視線より彼女に触れている右手のほうがずっと熱かった。


「すみませんっ、撮影は船橋にやらせてください。この子、僕との先約があるので!」


 叫んで、都築さんのカメラを船橋の腹の上に乗せる。

 別にいいけど、と言った小野原さんは同時に彼女の存在にも気付いた様子で、申し訳なさそうに口角を上げた。


「アンタ、案外いい男よね」


 知っているのだろう。この子が水元くんの元彼女であることを。

 違う、と思った。

 別にあなたに気を遣ったわけじゃあない。邪魔者を排除しようとしているわけじゃあない。

 僕は、僕はただ――。


「……それ、都築さんに言ってやってください。何度口説いても上手くかわされてしまって」

「し、城さん、何を」

「実を言うと、今日も仕事があるからと誘いを断られてまして。しかしまさかここに来るとは」


 嘘八百だった。

 焦る彼女を無理矢理抱き上げた途端、会場内の女性達が揃ってきゃあっと甲高い声を上げる。


「この子は僕が有り難く頂いて帰ります。村井さん、穴埋めはあとでさせてください」

「や、ヤダ、下ろしてくださいっ」

「断る。――では失礼」


 去り際に水元くんに一瞥をくれると、僕は彼女を担いだまま早足で門を出た。

 自分でも衝動的なことをしたなと思う。それでも止められなかった。

 しばらく行ったところで体を下ろすと、開口一番、彼女は僕を責めた。


「なんてことしてるんですか。し、城さんがそんなにバカだったなんて思いませんでした……っ」


 泣いているのか怒っているのか、困っているのか喜んでいるのか、よくわからない顔を真っ赤にして。

 あちらが興奮しているとなると、こちらは冷静になってくるから不思議だった。


「僕も同感だ」


 自ら絶望的状況を招いてしまった。

 それなのに僕は、彼女の涙が水元くんの前にさらされなくて良かった、と、それだけをひたすら安堵していた。


「自分から振られてどうするんですか。小野原さんのこと、好きだって言ってたくせに」

「君だって同じだろう。どうして断らなかった。こんな仕事」

「私が断れるほどの立場だと思ってるんですか」

「そんなことを言ってるんじゃない。君はもっと自分をいたわったほうがいい。休暇だって必要だろう」


 小さく息をつくと、彼女はきゅっと唇を噛んでから感情的に吐き出した。


「女だから? そのうち仕事なんてやめて家庭に入るかもしれないから? だからいい加減でいいって言うの」

「違う。いい加減にしろなんて言ってない。君、この間と言っていることが違うじゃないか。やめてしまいたいとか、行き詰まってるとか、あれは何だったんだ!」

「それはっ」


 矢継ぎ早の言い争いが続いた。僕は苛々していた。これまでで一番苛々していた。


「それは、だって、城さんが尊敬してるって言ってくれたから。だから私――」

「僕の所為なのか」

「ちがう、そうじゃなくて、私はっ……」


 涙目でじっと見上げられて、身動きが取れなくなる。縋るような瞳だった。


「私、私は、」

「卑怯だから、だから傷ついてもいいって言うのか」

「違うってば!」

「……どうしてわからないんだ。僕は、それでも君を、」


 君を―― 何だ。


「どうしてだよ」


 どうしてこんなにやりきれない気持ちにさせられるんだ。

 強引に抱き寄せると、重い機材を運び慣れているはずの肩は思っていた以上に華奢だった。

 こんなに傷つきやすいくせに。傷ついているくせに。

 無理に平気な顔をしようとするなよ。

 もっと僕を頼ってくれよ。


「僕は君が君を大切にしないのが気に入らない」

「し、城さ――」

「僕ならもっと大切にするのに」


 誰より、一番、大切にするのに。


「そんなに乱暴に扱うなら、……僕のものにしてやる」


 君を大切にしたい。誰よりも大切にしたい。僕だけが大切にしたい。

 けれど彼女は僕の胸をぐいと押し戻し、


「同情ならやめてください」


 涙声で絞り出すように言った。


「……もう、まどわせないで」

「え……?」

「あっちが駄目ならこっち、とか、それじゃあの時と同じ……。そんな卑怯な自分、嫌いなんです。大嫌いなんです」

「つ、都築さん」

「私、城さんに大切にしてもらえるほど価値のある女じゃない。本当のこと知ったらきっと嫌いになる。だから――」


―― もう、逢わないことにしましょう。


 そうして彼女は足早に去って行った。

 晴天の空の下、取り残された僕は、茫然としながらもあっけない終わりを悟った。

 自分が掴みたかったものの正体も見極められないまま。

 だから煮え切らないまま、結局僕は、それを失ってしまったのだ。


 ***


 僕と船橋はそれから同時にやさぐれて、揃ってラブプラスにハマった。


 当然のことだが仕事にはならなかった。

 おかげで僕の営業成績は過去最低を記録して、褒美に克之から笑顔の蹴りを頂戴したのだった。

 彼が笑顔で手を出す時は、怒りが頂点に達しているときだけだ。

 すなわち僕は最高の怒りをかった最低の男なのだった。


《君ら、それでいいの》


 船橋は応接間の畳の上を芋虫のように這う。「寧々ぇー」情けない髭面で、二次元の恋人の名を呟き漏らしながら。

 ちなみに僕のバーチャル嫁は凛子といい、ショートボブとオデコが可愛い年下の女の子である。


《仕事なら来週から復帰するよ》


 先週と同じことを僕が打ち込むと、克之は呆れ返った顔で僕らを見下ろした。


《もう、そっちはいいよ。なんとか僕が切り盛りしてるから。そんなことよりふたりとも不本意そうにしちゃってさ。当たって砕けたわけでなし、どうしてそこまで腐るんだよ》

《ラブラブの克之に言われたくないしー。つうか俺は城の足下にも及ばない、チキンでヘタレな男ですよ》


 船橋はPSPから会話に乱入してくる。彼は今、DSとPSPとiPhoneとPCを同時に弄っている。タコみたいだ。


《なんだよそれ》

《パーティーのとき、小野原さんにもいい男だとか言われちゃってさあ、ムカつくから黙ってたけど、あのあと女性陣の話題を独占した罪は重いんだっ》

《ああ、確かにあれは僕も惚れ惚れしちゃったなあ》


 褒められているのに溜息が漏れる。精神というよりもはや、体全体が鈍く重い気がした。


《でさ、やっぱりなって思ったんだよね。やっぱり―― 小野原さんじゃなかったんだ、って》

《なにが》

《城にとって本当に大切な人》


 全てを見切った笑顔で振り返ると、克之はおもむろにスケッチブックを取り出し、真っ白な紙にサインペンを走らせた。


《さて、ここで君らに最後の選択》


 画面でなく紙に書いたのは、こちらに言葉を挟ませたくないからだろう。


《小野原さんと水元くんが大げんかをしたそうだよ》


 えっ、と船橋は瞬時に体を起こした。


《どうする?》


 どうする、って――。

 僕は瞬間的に、都築さんの姿を脳裏に描く。

 教えてやったほうがいいだろうか。恋敵を出し抜くチャンスだと。

 急ぎ携帯電話を求めポケットの中をまさぐる手はしかし、またもや無意識のうちに勢いを失った。

 駄目だ。卑怯をあれほど厭う彼女が、人の不幸を喜ぶはずがない。

 まして僕は、もう二度と逢わないと牽制された身なのだ。もはや電話にすら出てもらえる気がしない。

 あの日―― 一体何を間違えたというのだろう。

 考えるだに混乱して、僕はそのたび、疼く胸を押さえ途方に暮れる。

 答えが……見つからない。


「俺、行く」


 そう言って不気味なほど静かに立ち上がったのは船橋だった。僕は焦って彼の腕を掴む。


「待て。行くってどこにだ」

「どこって、小野原さんのところに決まってるだろ」

「行ってどうするんだよ。この間もそんなこと言ってて何も出来なかったじゃないか。性懲りもなく同じことを――」

「同じじゃねえよ!」


 船橋は僕の手を振り払う。


「船ば……」

「止めんなッ、俺は行く!」


 にこにこ笑ってこちらを見ている克之は、事の重大さに気付いているのかいないのか。

 古びた玄関のブザーが場違いなほど甲高い音を立てたのはその時だ。

 出る気にはなれなくて他のメンバーに対応を頼むと、数秒後、応接間には意外な訪問者が顔を見せた。


「こんにちは。お久しぶりです、お邪魔します」

「み―― 水元くん!」


 噂をすれば影、そこにいたのは紛う事無き小野原さんの婚約者だったのだ。

 僕が背後の船橋を振り返ると、すでにそこに奴の姿はなかった。襖が十センチほど開いている。

 行ったのだろうな、と思った。想い人のところへ、今度こそ、玉砕しに。

 ジャージはきちんと着替えただろうか。無精髭は流石に剃ったほうがいいぞ。

 そんなことが気になって、少し笑えた。


《わざわざ名指しで呼びつけちゃってごめんね》


 そう書かれたスケッチブックの影で克之の右手が丸を作る。まさか謀ったのか。


《いえ。お仕事のお話だとか》

《うん、あのね、コラボ第二弾のマップが出来上がって来たからお渡ししようと思って》

《うわあ、今度も豪華なラインナップですねえ》

《でしょう。でも、本当はこれがメインじゃなくてね。本宮さんのことで聞きたいことがあるんだよね》

《いっちゃんの?》


 水元くんは丸い目をさらに目を丸くする。


《うん。彼女、最近僕に隠してることがあるみたいで》

《隠してること、ですか》

《そう。三週連続で週末のデートを断られたんだけど……何か言ってない? 僕、怒らせるようなことしたかな》

《えーと……僕の口からは言えません。でも、怒ってはいないです。というより、神保さんのためだから必死なんだと思いますよ》

《必死?》

《ええ。毎週仙台まで通ってるんですから》

《仙台、ってどうして》

《もう少し待ってあげてください。僕からはこれしか言えません。すみません》


 各々直筆で綴るふたりを見るに、メールかチャットでやりとりをしたほうがよほど早そうだった。

 元来人が良くて他人を騙すなんて決してしない彼に謀略をそそのかしたのは、友情だろうか。

 なら、僕は有り難く乗っかることにする。


「……水元くん、僕もひとつ聞いていいか」


 彼はなんですか、と答えながら笑顔で僕を見返す。


「都築さんのことなんだが」


 彼女にとっての『卑怯』の原点が何なのか、詳しく聞けたらと思った。

 しかし彼は、ああ、と頷いて、恐らく克之でも把握していなかった事実を―― 口にしたのだ。


「僕も昨日知りました。急ですよね、上海なんて」

「……は?」

「あれ? その話じゃないんですか。佐奈ちゃ、いえ、都築さんが中国に行くっていう」


 なんだって。


「ご存じ無かったですか、城さ――、え!? ちょ、どこへ……!」


 あとのことは、途切れ途切れの記憶しかない。

 息切れをしながら最寄り駅のロータリーを突っ切ったとき、僕の胸はもう、焼き切れてしまいそうになっていた。

 中国だって? 冗談じゃない。

 苦肉の策でデザイナーズラボの編集部に電話を掛け、彼女の居場所を乞うと、意外にもその場にいるとの回答が得られた。

 同じビル内のスタジオで撮影が行われているとか。まったくの僥倖だ。

 電車を待つ時間も惜しくて、タクシーに飛び乗る。

 あとは目的地に至るまで、祈るように両手を組み合わせ心細さに震えた。


 彼女のいない未来なんて、夢にも描けない。

 どこへも行かないで欲しい。


 力になりたいとか頼って欲しいなんて偉そうに思っていたのはどこの誰だ。

 馬鹿だな。本当は彼女のためなんかじゃないだろ。


「え、し、城さんですか!?」


 受付で待っていてくれた編集部の村井さんの第一声はそれだ。

 ようやく僕はよれよれのジャージと髭面のままここまで来てしまったことに気付いた。

 同じタイミングで、村井さんの背後に、三脚をかついだ目的の人物が姿を見せた。

 逃げられるかな、と身構えた僕の前、彼女は落ち着いた様子で歩み寄って来て小さく頭を下げる。


「こんにちは、城さん」

「……都築さん」

「良かった。ちょうどお伺いしようと思っていたところなんです。私来週から中国に赴任することになって、それで」


 こんなに近くに対峙しているのに、遠い。


「それで、お別れを言いに」


 抱き締めてしまいたかった。


 *** 


「どうして急に、……中国なんて」


 ひとつ上の階に設けられている商談スペースに移動すると、気を遣ったのか、村井さんはお茶を入れてきますと言って席を外してくれた。


「僕があんなことをした所為か。迷惑、だったよな。……ごめん」


 謝るから。だからどうにか留まってほしい。

 本音が出かかったところで、都築さんが少し困ったような顔をして目を伏せたから、僕はぐっと続きを飲み込む。

 この間の二の舞になるのはごめんだ。言い合いでなく、冷静に話し合いたい。


「迷惑どころか、むしろ逆なんです。私、嬉しかった。城さんが庇ってくれたこと、何年も片思いしてた人にやっと逢えたときより、夢が叶ったときより、ずっとずっと嬉しかった」

「なら、どうしてもう逢わないなんて」

「……引き返せなくなりそうで怖かったんです」


 目を丸くした僕に何故かすみませんと謝って、彼女は言葉を繋げる。


「だけど、そう思うのは私が弱いからなんですよね」


 そんなことはない。

 途切れた台詞を飲み込むと、彼女は少し笑った。


「私、強くなりたくて。このまま、情けない女のままじゃ、城さんのこと……好きになる資格もないですから」

「え?」

「一年間、向こうでたっぷり修行してくるつもりです。自分に自信が持てるように。城さんが尊敬してるって言ってくれた、その言葉に、恥じない人間になれるように」


 真っ直ぐにこちらへと向けられた視線は強い閃光のようで、僕は少し眉をひそめる。

 ああ、もう引き止められないな、と思った。

 そこに確固とした決意を見てしまったから。


「あの……写真、撮らせてもらっていいですか。お守りにしたいんです」

「嫌だよ」


 嫌だよ、君と離ればなれになるのは。


「じゃあ髭を剃るまで待ちますから。ね」

「ひげ剃りがない。それに僕、ジャージだ」


 襟元を引っ張りながら主張すると、都築さんは残念そうに、開きかけていたカメラバッグの蓋を閉めた。


「そのままで充分素敵なのになー」

「お世辞はいらない」

「本音ですよ。私、ずっと城さんに憧れてましたし」

「……僕?」

「そう。私、城さんみたいになりたくて」

「じ、神保じゃなくて?」

「どうして神保さんが出てくるんですか。関係ないでしょ」


 やはり否定も肯定もできずに僕はただ沈黙を続ける。


「城さんは自力で自分の居場所を見つけて、誰のことも恨まず妬まず、自分のすべきことをきちんと全うしてる―― とても潔い人」


 過大評価だ。 

 強く唇を結んだけれど、それでも視界は緩く歪む。


「だから、私も。才能があるとかないとか、それだけじゃ掴めない何かを掴みたいんです」


 複雑になりすぎた気持ちはないまぜになって押し寄せてきて、一粒、ついに溢れる。

 それは手の甲に落ちて、身勝手な僕の本心を叩いた。

 本当はずっと、側にいて欲しいけれど。


「そうか。……気をつけて」

「な……泣かないでください。で、伝染しちゃうから」

「すればいい。そうしたらその顔、君のカメラで撮って残してやるよ」

「意地悪」

「君が悪いんだ。苛めたくなる顔をしてる」

「……酷い。責任転嫁は私の十八番なのに」

「ふうん、自覚してるんだな」

「もちろん。だから自分を変えに行くんです。帰って来た時は生まれ変わって女神みたいになってる予定なんですからね」

「予定は未定だろ。そうそう上手くいくかよ」

「なにそれ、始める前から否定するなんて最低っ」

「最低結構。否定しない。僕こそ自覚症状はしっかりあるんでね。むしろ一年後、驚くのは君のほうだぞ」

「どういう意味ですか」

「僕こそ変わってやる。今度こそ、何が何でも僕の側を離れたくないって君に言わせてやる」

「……え」


 驚きのあまり表情を忘れたのだろう、口をぽかんと開け放った彼女の手を、テーブルの上で乱暴に掴んだ。


「―― 待ってる」


 何年でも待ってる。ずっと待ってる。それは僕が今彼女に贈れる、最高で最上の、精一杯のエールだった。

 照れ隠しでそっぽを向いたら、手を握り返されて、


「はい……」


 引っ込んだはずの涙がまた蘇ってきた。

 こうして彼女は翌週、上海へと飛び立って行った。

 それはすなわち、僕の憂鬱が一年先まで続くことを意味したのだが。

 彼女の残していったものならば、それもまた喜んで受け取れたのだった。

 ……僕はマゾかもしれない。


 ***


 旅行者なのか出張なのか―― 平日午前の成田空港は想像したより人出が多く割に混雑していた。

 かといって熱気が充満しているかといえばそうでもない。ないのに。

 僕は蒸されるような暑さと格闘し、あまつさえ比類無き忍耐をこの身に強いられていた。

 これは紙袋をくれるといってくれた店員さんの親切を踏みにじった報いだろうか。


「出迎えに花束なんてベタすぎたか……」


 それも向日葵とか。(もう初冬なのに)

 ジャケットを被せれば隠せないこともないと思うが、せっかく今日のために仕立てたスーツを花束に着せるなんてとんだお笑いぐさだ。

 だから僕は堂々と目立つ代物を抱える、傍目にはキザな男なのだった。

 早く来てくれ都築さん。


 都築さんが上海へ赴任してから一年。


 僕らは時々メールと電話をする程度の仲で、彼女が帰省したときでも直接顔を合わせてはいない。

 当然告白もしていないしされてもいない。

 けれどお互いにお互いの気持ちはおよそ分かってしまっているという、実に曖昧で宙ぶらりんな関係なのだった。


「はーい、シアオ イ シアオー!(笑って)」


 元気の良い声に振り返ると、そこには旅行者と思しき中国人の親子に向かってカメラを構えている、ワークパンツ姿の女性。

 背格好からすぐに彼女だと分かった。

 カメラが邪魔をして表情までは伺えないものの、流暢な中国語でコミュニケーションをとりながらシャッターを切る様は、溌剌として実に楽しげだ。

 いい一年を過ごしたのだろう。


「あ、城さーんっ」


 直後、こちらに気付いた彼女は大きく手を振りながら挨拶より先にカメラを構える。

 当然、僕に体裁を取り繕う暇は与えられない。

 向日葵を抱えた姿は動かぬ証拠とばかりにフィルムにおさめられてしまった。


「ただいま!」

「……おかえり」


 充実していたようだねと聞いた僕に、はいもちろんと答えた彼女は憎らしいほど清々しい笑顔。

 直視するのが躊躇われるくらい。


「楽しかったです。向こうの人達と別れるのが惜しかったくらい」

「ふうん」

「お土産も沢山頂いちゃいました」


 少々不本意だなと思った。ほんのわずかに、だが。……いや、嘘だ。目一杯不本意だ。


「じゃあこれは余計だったな。帰国祝い、君に似合うと思ってわざわざシーズン外のものを取り寄せたんだが」

「えっ、本当ですか! 私、ひまわり大好きなんです」


 大好き、ねえ。

 言う対象を間違えてないか。


「そうだな、じゃあこういうのはどうだ。君が上手におねだりできたらくれてやってもいい」

「な、なんでそうなるんです」

「妬かせるからだ」

「……もう、城さんってばすぐ人の所為にするとこ、変わってない」


 一気にオデコまで真っ赤にしてぶつぶつ文句を言い始める彼女は、随分髪が伸びて女らしさが増したように思う。

 人間性はお互いに大して進歩していないようだが。

 が、関係性がこのまま、というのは困る。


「言いたい事はそれだけか」


 隙をついてすくいあげるように抱き寄せると、その目は短い悲鳴とともに驚きに見開かれた。


「きゃ!」


 あとの表情はわからない。分からないほど、間近に迫ってから僕は焦らすように囁いた。


「―― 欲しい?」


 通行人に思う。見たければ見ろ、と。

 こっちはもう、散々好奇の目に晒された挙げ句なのだ。

 今更ハグが加わったくらいで羞恥の度合いはさして変わらない。


「言わないなら捨ててしまうが」

「い、じわる……っ」

「語彙に進歩がないな」

「鬼畜! サドメガネッ」

「幼稚。中国語はどうした」

「ちょっ、こ、こんな状態で言える訳な…、放してぇ、城さんといると恥ずかしい事ばっかり……!」


 必死の抵抗を試みる腕はやはり華奢で、けれど今までより圧倒的な可能性を秘めている筈で――

 僕はそれをとても誇らしく思いながら、上体をななめに屈めた。



「なら、もっと恥ずかしい事を教えてやる」



 とん、と軽くぶつかる程度のキスをして、


 向日葵が潰れるほど強く抱き締めたら、


 不意打ちの仕返しを、君に。



「……好きだよ」



 そして、憂鬱の終わりを、僕に。



<fin.>

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