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忘れ花、咲う

 

 創造の原動力は何かと問われたら、懐かしさだ、と僕は答えるだろう。


 時を経れば、実物の色は褪せる。形状は着実に失われていく。

 しかしそういった変化とは真逆の道筋を辿るものこそ懐かしさなのだと僕は思う。

 一度目にしたものを再び目にする、もしくは心に蘇らせるとき―― 人は、最初の印象の上に新たな印象を重ね付けする。

 同時に、感情のフィルターを被せる。よって、結果的に対象の輪郭は濃くなる。

 そうして、より鮮やかに記憶に残す行為。

 何度も。何度でも、摩耗する事無くその上書きは続けられる。

 毎回。毎回、存在を厚くしながら。ゆえに。

 懐かしい、に勝る感情はない。それこそが僕に想像力を与えてくれる。常々、そう考えていた。


 神保克之じんぼかつゆき、それは今年三十一になる僕の名でありながら、世間の評価を示すものでもある。


 僕は僕の名を忘れたことは無い。

 だから世間の評価を、忘れたことも無い。


《もう、やめようと思う。仕事》


 最後に二文字を付け足したのは、そう念を押しておかなければ茶化されて、誤摩化されて、なかったことにされそうだったからだ。

 僕がペンを置くと同時に、テーブルの向かいにいた城が俯く。そうしてすぐに、今まで見たことのないような切なげな顔で天井を見上げた。

 両目が真っ赤に充血している。見なければ良かった、と即刻後悔した。

 しろ 秋也あきなりは大学時代の同級生で、現在は僕が代表を務めるデザイン事務所“人望舎”の営業担当だ。

 学生時代から何かと僕の世話を焼いてくれる、古女房みたいな親友。


《どうしてだよ。連絡ならメールでも十分取れるだろ。今までだってそうだったじゃんか》


 斜め右に座していた船橋が、僕のボールペンを奪ってそう殴り書いた。

 勢い余って、メモ帳の端から『か』の文字が半分はみ出している。いかにもやりきれない、といいたげな感情がそこに表れていた。

 船橋ふなばし ゆずるは僕の後輩だ。

 学生時代から何かと突飛な発想をすることで有名だった彼は今、僕の元で企画立案を手掛けてくれている。

 城も船橋も、大切な親友だ。戦友とも言える。良い時も悪い時も、なんだって笑い飛ばして側にいてくれた、かけがえのない存在なのだ。

 お陰で今の僕がいる。心から感謝している。それゆえにこれ以上気を揉ませることを、僕は簡単に良しとしたくはなかった。


《無理だよ。もうつくれない。創意が湧かないんだ。ごめん》


 それだけ書いて、畳の六畳間を出た。萎れきった自分のフォローを、もう、彼らにさせたくはなかった。

 想像力を失ったデザイナーなんて何の価値もない。

(これで終わりだ。何もかも。終わりにしよう。終わりにするんだ)

 仕事部屋に戻って作業途中のモニタに向かうと、ヘッドセットのイヤホンをはめた。オーディオのスイッチを入れ念入りにボリュームを調節し、集中する環境を整える。

 どうせ、アイデアなんて湧いて来ない。音だって、聞こえやしないのに。


 聴力を失ったのは、一年ほど前のこと。

 高校の同窓会の帰り、久々に再会した友人の運転で、自宅へと送ってもらう途中の出来事だった。

 交差点に差し掛かったところで、赤信号を無視したトラックに衝突され、車が大破したらしい。

 らしい、というのも僕はそのときのことを全くと言っていいほど記憶していないのだ。

 ただ、次に気づいたとき僕は病院のベッドの上で、すでに、静寂に近い世界にいた。

 訳もわからず、しばらくは放心状態だった。誰に何を告げられても、わからなかった。わかりたくなかった。

 事故で失ったのは何も音だけではなかったから、余計にそう思ったのかもしれない。

 ハンドルを握っていた懐かしい友人―― 彼は運転席で車体に潰され、即死したのだ。

 やりきれなかった。誰のことも、責められなかった。亡くなった友人の両親にも頭を下げられて、もういいですよと答えるしかなかった。

 生きているだけで奇跡だと、主治医に言われたせいもある。


 命が、あるだけでも。

 確かに、その通りなのだ。


 ようやくこれが現実なのだと受け止めたのは、一ヶ月もあとのこと。憤るとか絶望するとか、嘆き悲しむとか、ひととおりの感情を経由した後、僕は未来を案じた。


 この先、どう生きたら。どう生きたら良いのか。

 わからなかった。


 無音の世界は恐ろしい。背後から呼び止められても僕は気付けない。

 一方、呼び止めようとするほうは必死で、何とか気付いてもらおうと駆け寄ってくる。そして突如として肩を叩くのだ。

 その衝撃は静かな世界にいる僕にとって、存外強い。

 心臓が、内からはみ出すほど。萎縮せずにはいられないほど、驚かされる。

 些細なことだなんて言わないで欲しい。言うなら経験して欲しい。あんなに恐ろしいことはない。手にしていたものを取り落とすほど怖いのだ。

 だから、外で人と会うことが徐々に恐ろしくなった。克服なんて出来る気はしなかった。

 あたりまえのことが酷く難しくなった、そんなとき、僕が出逢ったのはどこか懐かしい匂いのする女の子だった。

 女の子、というのは正しくないかもしれない。二十代も半ばを過ぎれば、女性と言うべきだろう。

 けれど彼女は見るからに余裕がなくて、きょろきょろと忙しく動く瞳はまるで幼い子供のようだ。最初に見かけたとき、咳き込みながら通勤する姿が健気すぎて、手を差し伸べずにはいられなかった。

 話しかけられるかもしれない、という恐怖よりも、このときばかりは親切心が勝ってしまった。

 すると彼女はどうやら喉が痛むらしく、メール画面でお礼の言葉をくれたのだ。

 これは本当に都合が良かった。耳がはっきり聞こえなくなってから僕は、必然的に言葉を発することも難しくなっていたからだ。


《いつもこの電車ですか? 今度、きちんとしたお礼をさせてください》


 彼女―――― 本宮もとみやさんは律儀にもそう言って、一日置いた翌々日、本当に手みやげを持参してきた。

 飴玉ひとつに対し、紙袋をひとつ。

 驚いてしまった。いや、本当に驚いたのはそれを開封してからだったのだけれど。

 キュウリが三本。手製のぬか漬けだった。

 買ったものを手渡しては、僕が逆に恐縮すると思ったらしい。小さな気遣いが、たまらなく嬉しかった。それを早速昼食にいただきながら、僕はふと、数年前に亡くした祖母を思い出した。同じ匂いだったからだ。


 祖母はいつも、僕を宝物だと言っていた。克之は克之であれば、それだけでいいんだよと。

 幼い頃から天才だ奇才だと絵の才能を褒めちぎられていた僕にとって、祖母は心の拠り所だった。

 損得も世間の評判も関係なしに、僕の絵を見て素直に喜んでくれる、数少ない人間だったともいえる。

 今もなお懐かしさの頂点に君臨する、感情の宝庫。とはいえ、それももう、あまり思い出したくはなかった。

 僕は僕でなくなってしまったから。祖母が望む僕は、この世に存在しないから。欠けてしまったから。


 耳のことを彼女に伝えなかったのは、タイミングがなかったからだといいたいところだけれど、本当は少し、いや大いに躊躇していたのだと思う。

 知られるのは時間の問題だとわかってもいたけれど、それでも、一日でも長く、このままでいたかった。

 何の前提も、同情も、余計な気を遣わせることもなく対等なコミュニケーションをとれる彼女と、共に過ごしたかった。

 この先、こんな出会いは二度と訪れないだろうから。

 一生、だなんて贅沢は言わない。せめて今だけはと、毎日、祈るように願っていた。


 ***


 真実が明らかになったその時、本宮さんは泣いた。

 子供のように人目も気にせず、ぼろぼろと大粒の涙を流して泣いた。胸が痛かった。船橋や城と同じように、僕の所為で心を痛めているのだとわかったからだ。

 しかし同時に、僕は苦心した。彼女が必死で訴えかけてくる言葉を、上手く聞き取ることが出来なかったからだ。酷くもどかしかった。

 だから、その涙が同情からではないことに気付いたのは、彼女の挑戦的なメッセージを目にしたときだった。


《そんなに評価が大切なら、評価で私と勝負してください》


 何を言っているのだろう、と。


《今度のパッケージ、もし神保さんじゃなくて私の作品が採用されたら、引退を撤回してください》


 必死でそう綴る指先はわずかに震えていて、僕は、わかった、と伝えるのが精一杯だった。

 複雑すぎる感情の波に押し流されるようにしてその場を去り、仕事場へと向かった。

 彼女の言っていることは無茶苦茶だ。

 負けたら仕事に復帰しろと。評価が得られなかったら辞めるなと。

 普通、真逆じゃないか。勝者こそ、未来を手にするものだろう。

 僕は彼女に負かされて、再び夢を追うのか? おかしくはないか。

 いや、それがあの子の望みなのか。

 例え敗北した僕でも、仕事を続けて欲しいとそう言うのか。

 僕が僕であれば、それだけで?

 世間の評価など何も関係ないと?

 忘れかけていた―― 忘れたつもりになっていた感情が飛沫を上げて、一気に噴き出す。

 仕事部屋に着くと、倒れ込むようにして床の上に転がり、仰向けに寝返った。


―――― 僕はまだ、僕のままだろうか。


 あの頃のように。誰かがそのままでいいよと言ってくれる、僕だったのだろうか。 

 涙が、こめかみへと伝う。それはあっという間に、聞こえなくなった耳のすぐ横を通り過ぎて畳の上に落ちた。

 こんな気持ちになったのは久しぶりだ。

 喜びが、苦しい。胸に詰まって、痛い。ああ、懐かしい。懐かしさが、痛い。

 もう二度と抱かないだろうと思っていた感情が、僕の中に充満していた。

 そうだ。僕は、彼女のことが好きなのだ。

 あの子がいてくれたら僕はきっと、果てのない創造が出来る。

 いつも目新しく、懐かしい日々が循環していく。そう思える。

 好きだ。好きだ。好きだ。何度も口に出して、呟いた。そうして僕は咽び泣いた。

 もう、過去には戻れない。戻りたくない。彼女に出会えた今を、どの瞬間よりも大切にしたいから。だから。


《自分勝手でごめん。でも、今度の仕事は勝ちにいきたいんだ》


 勝って、未来を手にしたいと思った。

 あの子の望む、僕になりたいと思った。


《これからも、僕の勝手に付き合ってもらえるかな》

 

 告げると、城も船橋もいつも通り笑い飛ばして。

 あんなの、本気にしちゃいねえよ―― とありきたりな嘘を言って僕の背を叩いた。

 叩き返した。叩き合いになった。

 そのまま暖房の効いた部屋で、小一時間ほど馬鹿騒ぎをした。言葉通り、本当に馬鹿馬鹿しいことしかしなかった。腹がよじれるほどおかしかった。何度か涙がこみ上げて来て、泣いてるだろと城にからかわれた。

 籠りきった熱気を逃がそうと窓を開けると、凍えるように澄み渡った冬空。

 枯木を揺らして、懐かしい風が吹く。


 今度は笑って欲しい。

 僕は、君を笑顔にすることが出来るだろうか。

 僕のままで。


 パソコンの電源を入れた。覚えのある起動音が、聞こえたような気がした。


*忘れ花、咲う(わすればな、わらう)fin.*

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