歌い鳥、嘯く
――ペットボトルでも持って乗れば良かったなあ。
恐ろしいほど乾燥した地下鉄内で、私はまた少し背中を丸める。喉が痛い。
新年初の出社日、予定は会議だけだから重いものなんてひとつも入っていないのに、帆布のトートバッグは鉄アレイみたいにずしりと肩にくる。これは罪悪感の重さだろうか。
「……けほ」
乾いた咳をひとつ零すと、すぐ前に立っていたサラリーマンが迷惑そうに顔を背けた。申し訳なさがバッグの中でさらに膨れ上がる。重い。重すぎる。
風邪を引いたくらいで仕事始めから欠席するのはどうかと思ったけれど――病気のときに閉じこもるのは、あれ、自分のためだけじゃなくて他人様のためだったりする? よね。
いつだってそういう肝心なことになかなか気付けない、暢気な自分に嫌気がさしてしまう。
ごめんなさい。どうか皆さん、降車後に手荒いうがいを徹底なさってください。
脳内でクロスを切ってそう懺悔する私は、本宮いつか(もとみや・いつか)、二十七歳。小さなデザイン事務所に勤める、アシスタントデザイナーとは仮の姿。現在は風邪の病原体を飛散して回る質の悪い生物兵器なのだ。
「げほっ……」
喉の奥からせり上がってくるような酷い咳。苦しい。どうして政府はこういう、ウィルスのるつぼに加湿器設置を義務付けないのだろう。手荒いうがいのCMをするより、よっぽど効果がありそうなのに。
思わず上半身を屈めると、ふいに、背中に温かいものが触れた。優しく肩甲骨の間を過ぎては戻るそれが、背中をさすってくれているのだと気付いて、首だけで振り返る。
つり革にゆるりと手首を引っかけている、大学生風の男性とばっちり目が合った。
大丈夫? とでも言いたげに、心配そうに歪んだ瞳。微熱の影響か、元来の暢気さからか、綺麗だなあと真っ先に思った。
茶褐色の虹彩は私のものより断然大きくて、お正月休みに姉の子供が携えていたブライスの人形を彷彿とさせる。けれど残念なことに彼も私と同じようなマスクをしていたから、その下の容貌まではうかがえなかった。
「す、みませ……ごほっ」
申し訳なさと苦しさでもう一段階折り曲げた背を、彼は無言でさすってくれる。そのうえ、持参ののど飴まで分けてくれるという稀に見る親切ぶりに、向いの席のおばさま集団からは感嘆の声が漏れ聞こえて来た。
お礼を言いたいけれど、言えそうにない。今、声を発したら、せっかくおさまった咳のスイッチがまた入ってしまいそうで。
数分考えた結果、私は携帯電話のメール画面に文字を打ち込み、それを読んでもらおうと思い至った。
《ありがとうございます。助かりました》
不躾だろうか。躊躇しつつも画面を彼に見せると、
《いいえ。風邪ですか? お大事に》
ご丁寧にそんな文章を打ち込んでから、返してくれた。やっぱり親切だ。じんわりと胸の奥があたたかくなったのは、気遣わしい文章をもらったからじゃない。
彼の両目が、優しく細められていたことこそ最大の理由。透き通った瞳は、細めると涼しげな雰囲気が凝縮されて煌めきが増すみたいだった。
《おにいさんもですか? 最近流行ってますよね、風邪》
《そうみたいだね。インフルエンザじゃなくて、良かったと言うべきか否か》
《そうですね。咳だけで十分辛いですよね》
細いけれど節のある、男性の指。短く切りそろえられた清潔感のある爪。見慣れない手が自分の携帯電話を弄っている様が不思議で、鼓動は、いつになく駆け足。
《大学生ですか?》
《そんなに若く見えるんだ。君より年上だと思うけど》
《うそ!》
《本当。ただし、君が見た目より老けていなければ、の話》
《うーん、私、二十七ですけど》
《じゃ、僕のほうがみっつ年上だ》
小さな画面を介しての奇妙なやりとりは、私が下車するまでの間、四駅分続いた。時間にすると、十五分程度。いつもなら退屈な通勤時間はあっけないほど短すぎて――ほんの一分の、たかが十五回分、としか感じられなかった。
その間に私は、彼が『神保』という名前であること、社会人であること、毎日この電車で通勤しているということを知ったのだった。
別れ際、また明日も同じ時間場所で、と約束を交わしたのは特別な感情からじゃあない。きちんとしたお礼をしようと思ったから、なのだけれど。
ともあれ、これが、はじまり。
***
最寄りの駅から徒歩十分の雑居ビル。三階の角にオフィスをかまえる私の勤務先は、小野原デザイン事務所、という。
大通りから一本裏道にそれた立地のせいか、交通の便はいいのに割に静かな環境。そんなところが凄く気に入っていて、採用されてから今日まで皆勤賞の私。
うるさいのは苦手だ。カラオケだとか飲み会だとか、賑やかなのも正直、遠慮したいくらい。ついでに言えば派手なのも嫌いだし、奇抜っていうガラでもない。もちろん、可愛すぎるのもちょっと。
だから、いつも無難。ファッションも、インテリアも――――アイデアも。
こんな地味で突出したところのない自分に、デザイナーとしての資質なんてあるはずもないのだと気付いたのは、最近のこと。
「そうね、決めたわ」
会議室に並んだコンセプトボードの前を行ったり来たりしていた先生は、ぴたりと足を止めてこちらを振り返る。長い髪がさらりとシルクみたいに翻って、フローラルの香りが漂った。香水じゃなくてシャンプーなのだと思うけれど、先生が纏えばなんだって、セクシーの象徴みたいになる。
先生――小野原惟さん、二十九歳。
細い体に、ナチュラルメイクでも映えるはっきりとした顔かたち。にもかかわらず男顔負けの仕事をこなす彼女は、敏腕デザイナーであり事務所の代表、つまり私の雇い主なのだ。
「今回は杳のアイデアでいきましょう。プレゼンは金曜、それまでにサンプル作成とデザインの詰めをお願いね」
ああ、やっぱりね。
抜擢されて歓喜の声を上げる同僚の隣、私はやはり今回もクロコの役に決定で、主人公の座には何年かかっても届きそうになかった。もともと野心も目標も持ち合わせていないから、このままでいいや、と、諦めてはいるけれど。
だって、デザイナーになれただけで快挙だ。……なんて、それこそ凡人らしい思考なのかもしれないと思うと、少し、虚しい。かといって二十代も半ばを越えて身の丈を知らないなんてありえない。
私は、言ってみれば先生みたいに綺麗でも、細くもない、不格好でありふれた、つまらない器。そこに詰め込まれているのは、平凡、凡庸、平均点――。
普通が一番難しいのよ、って口癖のように母は言うけれど、私はいつも何かが足りないと感じていた。何かが欠けていることに、気付いていた。
それが埋めようのないものだ、ってことにも。
だって私の中身はもう、つまらないものでいっぱいだから。
「あ、あと、追加連絡なんだけど」
私には到底似合わないような珊瑚色の爪で、先生は手帳を捲る。同じ女なのに、別の生き物みたいだ。憧れはするけれど、真似はしない。このうえ自分の分際を忘れたら、私はもっと彼らから遠ざかる。そんな気がするから。
影でいい。それでも光の側にいようとするのは、生物の習性だろうか。それとも、未練がましいだけ?
「次の仕事のアイデアを、各自来週末までに提出して頂戴」
もう次の仕事ですかあ、と今回の主役が発言する。私には、台詞なんてない場面。
「ええもちろん。今年もガンガン行くわよ。内容はこれね」
「わ、大手メーカーのチョコレートじゃないですか」
「そ。パッケージのリニューアルなの。各自最低でも十種は制作すること。いいわね」
エネルギーの塊みたいに、先生は力強く采配を振るう。ここにいられるだけで幸運だと思うのは事実。そして疑問に思うのも、また、事実。
***
私の『平凡』はきっと、生まれる前から始まっていた。
父は商社に勤めるサラリーマン、母はたまにスーパーでレジ打ちのパートをする主婦。彼らが私の誕生に備えて用意したものは、ほとんどが黄色だった。よくある話だ。男女、どちらが生まれても良いようにピンクでもブルーでもない、中間色を選ぶという、あれ。
その名残か、以来、私が身につけるものは常に黄色だった。疑問には思わなかったし、反発することもなかった。ただ、受け入れるように身につけていた色。
それは徐々に、内側にまで染み込んで――染み付いたのだ。
女の子らしくも、ボーイッシュでもない。良くも悪くもない。可も不可もない。
無難な、私の、はじまり。
「ねえねえ、いっちゃん聞いた?」
デスクに向かって印刷の上がりをチェックしていると、パーテーションの向こうから同僚が私を呼んだ。いっちゃん、それが私の、ここでのあだ名。クロコには分不相応な、役の名前。光栄だ。
「何を?」
「今度のあのチョコレートのパッケージ、競合が人望舎なんだって。勝てたら快挙だって先生が言ってた」
「ジンボウシャ、って」
「知らないの!?」
驚きのあまり、ひっくり返りそうな声を発して杳は立ち上がる。本当にひっくり返ったのは、彼の椅子だったのだけれど。
そんなに驚くことだろうか。
「人望舎、デザイナーの神保克之が率いる日本屈指のデザイン事務所だよ」
そう言って彼が差し出した雑誌の切り抜きには、見覚えのある顔がでかでかと掲載されていた。ううん、本当に覚えがあるのは顔全体じゃなくて両の目に、だったのだけれど。
「ああ!」
今朝の、『神保』さん!
スポットライトの形状がはっきりわかるほど綺麗に映り込んだ、水鏡みたいな瞳。見間違えるはずがない。彼だ。
「実は今朝、親切にしてもらったんだけど……」
「へえ。すっごい偶然」
「だよねえ」
マスクに阻まれてうかがい知ることの出来なかった下半分は、想像以上に細面。目元だけでなく全体を総合的に見たほうが、さらに幼い印象が増すみたいだ。
私よりみっつ年上、ということは三十歳なのだろうけれど、思い切って多めに見積もっても二十五くらいにしか見えない。余計な手を加えていない潔い黒髪と、飾り気のないファッションもそこに一役かっている。
それにしてもこれは、何と言うか。
「カッコいいよねえ、神保さん。同性でも見蕩れるよ」
先を越されて、うんと頷くしかなくなる。風邪薬という一種の麻酔にやられた私の脳内にも、全く同じ単語が浮かんでいた。
彼の容姿は二枚目俳優にも引けを取らないほど充分整っていて、有り体に言えば……美形。そのうえ親切で才能まであるなんて、まさに非の打ちどころがない。
彼はきっと、先生と同じ種類の人間なのだ。綺麗な器に、必要なものが必要なだけ、センスよく盛られているような。
つまらない容れ物にありきたりのものが無造作に詰め込まれている私とは、違う。きっと――欠けている所なんか、ないはず。
「でも、噂によると今回が最後の仕事になるらしいんだよね、神保さん」
「えっ、嘘」
最後? どうして。
焦って声を上げると、先を競うようにして咳が飛び出した。
「げほっ」
「大丈夫? もう今日は早退したら?」
「う、ううん。それより」
それより最後の仕事ってどういうこと。
言わんとしていることに気付いたのか、彼は心配そうに眉をひそめたまま答えた。
「引退するらしいんだよ」
「い、いん……ごほっ、な、なんでっ」
デザイナーに引退なんてあるのだろうか。そんなの、聞いたことがない。
それに、だって、まだ三十歳だよ? 誌面での扱いを見るに仕事がないとは思えないし、むしろ引く手あまただろうに。
「ごめん、詳しくは知らないんだ。先生は知ってるみたいだけど……なんにせよ、大物の最後の作品になるわけだから、強敵なんだよ」
***
翌日、三十九度なる大熱を表示した体温計にため息をひとつ吹きかけ、私は人生初の欠勤を決めた。仕方がない。今日出社したところで、仕事にはならないだろうから。
心配そうにりんごを剥いてくれる母の目を盗み、ここぞとばかりにベッドの中で携帯電話に齧りつく。もちろん、彼について調べるためだ。
神保克之――――キーワードを打ち込むと、すぐに何千件というヒットがあった。流石、とでもいうべきだろうか。
得られた情報はというと、彼がT美大在学中に『人望舎』を設立したことと、紙媒体のみならず映像も手がけるクリエイターだということ。そして自由で独特ながら温かくユーモア溢れた表現が、日本のレイモン・サヴィニャックと称されていることだった。
サヴィニャックといえば、ペリエのポスターだろう。やや抽象的で個性的な表現は、どこか親しみがあって日本でも人気が高い。もちろん、私も大好き。
検索に引っかかった児童書の装丁を眺めると、『サヴィニャック』という評価にもすんなり頷けた。全体は澄んだイメージなのに表現はぬくもりに満ちていて、ひたすらやさしい。神保さんそのものみたい。柔らかくてあったかい作品たち。
もっと、もっと沢山、見てみたい。彼の世界に触れたい。
貪るように画像を検索し、目に焼き付けた。
けれど、その引退に関する記述は半日調べても見つからなくて、日が沈む頃、とろとろまどろみながら夢と現実の狭間で彼の笑顔を思った。
(もしかしてデマなんじゃないのかなあ。……うん。そうだと、いいのにな……)
睡眠をたっぷりとったおかげか、翌朝の体温計に表示されていたのは三十六度二分と至って平熱。こうして、すっきりした頭で地下鉄に乗り込んだ私は、一日ぶりに彼と再会したのだった。
《神保さんって、下の名前、克之さんですよね?》
《……バレたか。もしかして業界人なのかな、本宮さんも》
《はい、正解です。しがないアシスタントですけど》
《しがなくなんてないでしょう。仲間は大切だよ。仕事なんて、ひとりじゃできないんだから》
《優しすぎますよ、神保さん》
《よく言われる。優柔不断だって》
《そういう意味じゃないです。……いつもそんなふうなんですか》
《そんなふう、って?》
――誰にでも、こんなふうに優しいんですか。
続く言葉を、打ち込む勇気はない。
再会から一週間、私たちは毎朝八時の電車内で落ち合っては、こんなふうに携帯電話の画面を使って会話をすることが恒例になっていた。
おはようございます、と会釈をすると必ず笑顔で返してくれる神保さん。日を重ねるごとに私の中で、その視線に感じる戸惑いは増していく。
しかし私の顔からマスクが消えても、彼は一度としてそれを外そうとはしなかった。風邪にしては、長い。そう、違和感は持っていたのに。私はまだ、彼が何を背負っているのか、気付いてはいなかったのだ。
こんなに、近くにいたのに。
「……いっちゃん?」
背後から声を掛けられて振り返ると、そこには偶然にも先生が乗り合わせていた。
「あ、おはようございます」
「おはようじゃないわよ、一体どういうこと」
険しい顔をして髪をかきあげた様子を見、思わず背筋が伸びる。怒ってる? どうして。
彼女はそのままの表情で、正面から神保さんを瞳の中心に捉える。
「あなた、人望舎の神保さんですよね。うちのアシスタントに何のご用が?」
問われても、彼は困ったように目線を泳がせるだけで反論をするでもない。はっとして、同時に青ざめた。
「言い訳もしないの? 疑いたくはないけど、疑わざるを得ない状況ね」
情報をリークしたのではないか、と言いたいのだろう。
そうだ、次の仕事、私たちはライバルなのだ。考えの甘さを、気付きの遅さを、ずばり指摘されたみたいだった。どうして私はいつもこう、重要な場面で配慮を欠いてしまうのか――いつもどこか、足りないのか。
次の駅で無理矢理ホームへと連れ出された私は、必死で弁解を試みるしかなかった。
「神保さんは何も知らないんです。私が、先生のアシスタントだってことも、まだ。だから」
「……そう。今回だけは信じてもいいわ。ただし、これからは気をつけることね」
「こ、これから?」
「当たり前でしょ。自覚なさい。いくら個人的なつきあいとはいえ、彼は競合相手なのよ」
そんな。
「だ、だけど、私、情報なんて漏らしません。ただ、」
ただ、彼の側にいたいだけ。
縋るように訴えた私を見下ろし、先生は肺の中を空っぽにするくらい大きく息を吐く。
「……それで、世間はどう思うかしら?」
「えっ」
「言ってみればこれは、神保克之の引退試合なのよ。どちらが勝ったにせよ、少しでも黒い噂がたったら最後の作品に泥がつく。困るのは彼だわ」
こくりと喉が鳴った。食道が、詰まるほど狭くなっている。情けないことに、私はその瞬間まで彼が引退するということをすっかり失念してしまっていたのだ。
また、また――欠けている。欠けてばかり。
「意地悪で言っているわけじゃないのよ。わかってちょうだい。本当に彼を思うなら、せめてこの案件が片付くまで……春までは距離を置くべきよ」
春。とてつもなく、遠い場所にあるような気がする。けれどそれが神保さんのためになるなら。
わかっているのに、咄嗟には頷けない。切なすぎて……息苦しくて。
錆びたみたいに固い首。それでもどうにか縦に振ろうとしたときだった。
声が、喧噪の向こうから、私たちの間に投げ込まれたのは。
「――――ん!」
独特の抑揚と滑舌に、もとみやさん、と呼ばれたのだと理解するまで数秒。
それが神保さんの口から発せられたもので、彼が反対のホームにいるのだと気付くまで、さらに数秒かかって。
「じん、ぼ、さん……?」
なんだろう、この、既視感。
同じような場面を、昔、どこかで見たような。そうだ。あれは確か……手話を。
手話を、取り扱ったドラマだった。
(まさか)
驚きに目を見開く。
こうして私はようやく、彼の耳が正常に機能していないことを悟ったのだった。
***
人目につかないように、との先生の配慮で私たちは個室のカフェに場所を移した。テーブルの上にはそれぞれ、可愛らしいアートが施されたカプチーノが手付けずの状態で放置されている。
彼は慣れた手つきで胸ポケットからメモ帳を取り出し、そこにペンを走らせる。一行目には、すみませんと初めて見る筆跡で殴り書かれた。
《本宮さんに非はありません。彼女を責めないでください》
こんな時でも神保さんは私のことを優先して気遣ってくれる。いっそわあっと声を上げて、子供みたいに泣いてしまいたかった。
(どうしてそんなに優しいんですか)
俯いた私の視界に割り込むようにして、手招きをした彼は、続けてメモ帳に綴り始める。一年ほど前に、悲運な事故で聴力のほとんどを失ったこと。周囲とのコミュニケーションに、困難を感じていること。もう、今の仕事を辞めてしまおうと思っていることを。
敷き詰めるように羅列される文字。刺みたいだ。胸が、痛い。
先生は納得がいかない様子で、手帳に何やら書き込むと彼に向けてそっと置いた。
《私たちの仕事は言語に頼らない表現をすることでは? 引退なんて、どうして》
答えて、神保さんが文章を綴る。
《僕は自分の作品に、この障害に対する加点を与えられたくはない》
《加点?》
《同情とか、共感とか、そんなもので評価されたくないんです》
それは、先生が言うところの『世間はどう思うか』に該当する部分なのだろう。
悲運――いちど知れ渡れば、彼はそのラベルなしに表現をすることはできない。きっと、二度と。例えば評論家が正当に評価しても、一般的には難しい。それは私にも予想できる。
今はまだ世間に認知されずにいるけれど、いつまで隠し通せるかは疑問だ。
「だけど、わ、私」
私は神保さんの作品が好きです。言いかけたところで、先生がボールペンを貸してくれた。
《これからも神保さんの作品が見たいです》
好き、とは書けなかった。今の私には、何故だかとても難しい単語のように感じられて。
《ごめんね、無理だよ。僕はもう、欠けてしまったから》
何が、だろう。理解できなかった。だって、本当に欠けているのは私のほう。彼には必要なものが全部揃っているとしか。
《嫌です》
嫌です――なんて陳腐で安易でありきたりな言葉。咄嗟に気の利いたことが言えない私は、どれだけつまらない人間だろう。それでもしがみつくようにペンを握った。それしか出来なかった。
《辞めないでください。お願いします。神保さんの作品、待ってる人、きっと沢山います》
けれど返って来たのは、ありがとう、という優しくて悲しい諦めの言葉で。
《いい子だね、本宮さん》
そんなことを言わないでほしかった。
どうか萎れた顔をしないで。諦めてしまわないで。伝えきれない気持ちは、綴る前に涙と一緒に、テーブルの上へと滴り落ちる。
どうしたら引き止められるだろう。彼をもう一度、舞台に上げられるだろう。
だって、こんなの。
こんなの、欠けている人間は夢を見るな、って言われているみたいだ。
確かに私には目標も野心もなかった。もう夢は叶ったと思っていたから。だけど。
「……だけど」
あなたの目には、その先が映っているはず。
彼の耳に順調に届いていないことは予想できたけれど、言葉は雪崩みたいに押し寄せて来て、唇の堰を越えた。
「神保さんは私とは違う。か、欠けてるのは私だけで」
「いっちゃん……」
珊瑚色のピカピカの爪。特別な、選ばれた人のそれが平凡でちっぽけな私の手を包み込むように触れる。
「あなたはちゃんと、ぜんぶ持ってます。ぜんぶ、持ってます……っ」
「いっちゃん、落ち着いて」
落ち着けるはずがなかった。涙の向こうにいる彼は、ボールペンを掴んだままの体勢でこちらを見ている。あなたは今でも、私にとって完璧だ。
完璧だ。なのにどうして。
どうして。
「ひ、評価がそんなに大事ですか。頼りにしてくれるクライアントさんより、表現することそのものより、ま、待っていてくれるひとより、……大事なことなんですかっ」
悔しさと歯痒さで、一気にまくしたてた。メール画面のほうがずっと、上手に言葉をまとめられたと思う。しかし、天下の神保克之に勢い余って説教をしていることにも気付けなかったのは、元来の性質の問題ではなかった。
それだけ、伝えたい気持ちが強かったから。
思えば私は過去、これだけ強い感情を、何かに込めようとしたことなどなかった。仕事にも、言葉にも。
涙をぐいぐい拭って、その上さらに溢れ出したものは放置して、ペンをかまえた。
メディアで取り上げられるような『選ばれた特別な者』に必ず訪れる、奮起すべきとき。そんなものが平凡な私にもあるのなら、きっと、今だと思った。
《そんなに評価が大切なら、評価で私と勝負してください》
《どんな?》
《今度のパッケージ、もし神保さんじゃなくて私の作品が採用されたら、引退を撤回してください》
先生が「はあっ!?」裏返った声を発して、口元を押さえる。無理もない。無茶を言っていることは承知の上だ。こんな大博打、ラスベガスでも打てない。
それでも私は、彼が世の中にとって特別な存在であることをどうにかして伝えたかった。
《わかった》
神保さんはそれだけを書いてすぐにメモ帳を閉じると、コーヒー代を置き、マスクで顔の半分を覆ってから店を出て行った。あれが彼を外界から守る鎧だったのだと、気付いたのはそのとき。
どうすんのよ、と独語のように漏らした先生を横目に見、私はただ、両の手をテーブルの上で握りしめた。
***
翌日から、出勤時間を一時間早めた。仕事に集中したかったこともあるけれど、神保さんと出くわさないように、というのが本当のところだった。
八時の約束を復活させるのは、春が来てからだ。
例えばそのとき彼が、もう、そこにいなくても。
「全部だめね。まずはコンセプトをしっかり決めなさい。そこが基本よ」
「はい!」
週末の締め切りに向けて、朝に晩に、しつこく作品を提出しては批評を貰った。だめ、と言われることには慣れているから、大丈夫。へこたれたりなんてしない。
そんなふうに強気でいられるのも、私が愚か者で考えが足りなくて、資質に欠けていて――ゆえに、怖いもの知らずだからなのかもしれなかった。
毎日、電車の中では資料を読みあさり、帰宅してからも仕事に没頭して、やがて私はどこへ行ってもチョコレートの棚しか目に入らなくなっていた。そうしてようやく思い知ったのだ。
皆がこれまで、どんなふうに仕事と向き合っていたのか。どれだけ表現しようとしていたのか。どれだけ伝えようとしていたのかを。
***
「た、ただいまあ」
「おかえりー。ふふふ、いいものがあるわよー」
週も半ばを過ぎた木曜日、二十二時を過ぎて帰宅した私を待っていたのは、母が押し入れの奥から引っ張り出した古めかしいアルバムだった。角がめくれ上がっているうえに、ページが貼り付いていて、若干、古文書の様相。捲ると、ばりっという小気味良い音とともに幼い日の自分が姿を現した。
「うわ、懐かしい!」
予想通り、どの写真もカナリア色の私。
「でしょ。いつかは黄色、つぐみは桃色」
「……え?」
ツグミはお姉ちゃんの名前だ。今はもう、結婚して家を出て、一児の母なのだけれど。
「あら、話さなかったっけ。いつかが産まれるとき、お姉ちゃんのお下がりじゃ可哀想だから、って混ざらないように全部別の色で揃えたのよ」
なにそれ。
「せ、性別がわからなかったからじゃなくて?」
「やあねえ、わかってたわよ。それで、わざわざいつか用に準備したの」
「わたし用に? とくべつ、に?」
「あたりまえでしょ」
知らなかった……。
女らしくも、ボーイッシュでもない、平凡で無難な私。ありふれた、その他大勢の私。
それがとても『特別な平凡』だったのだと気付いた瞬間、迷っていたいろんなことに、答えが見えた気がした。
「ありがと、お母さん!」
「え、ちょ、いつか、夕飯は」
「仕事、終わったらちゃんとたべる!」
ソファーを乗り越えて、同時に自分の中のくだらない思い込みの柵も飛び越える。
部屋に駆け込んで、Macの電源といっしょに根性のスイッチも押した。今ならきっと、出来る。だって、伝えたいことが溢れてくる。
化学変化みたいに、私の中身が組み変わっていくみたいだった。
そうだ。私が足りないと思っていたものは、すでにここにあったのだ。ただ、本当の形を知らなかっただけ。変化する時を待っていただけ。
誰かの、熱によって。
マウスを握ったまま朝を迎えて、カーテンを開くと、スポットライトみたいな光が新しい私に差し込んだ。
***
そうして、翌週――――。
事務所内で上がったアイデアを選り抜いてから、メーカーに持ち込みにいった先生を、私は事務所のデスクで待っていた。いつも通り、印刷の上がりを地道にチェックしつつ。
最終的な採用が決まるのはまだ先のことだろうけれど、とりあえず今日の第一段階で淘汰されれば、これでおしまいだ。一見穏やかだけれど、行われているのは食うか食われるかという、熾烈な生き残りの競争なわけで。
「戻ったわよー」
ご帰還とともに響いた声。転がり出そうな勢いで玄関に走った私の頭を、先生は優しく撫でてくれる。その顔が笑えていないのを見て、この時ばかりは素早く察知してしまった。
終わりを。
「駄目、だったんですね」
「……ごめんね、うちのアイデアは全滅。流石に人望舎は強かったわ」
「そう、ですか」
わかっていたことだ。無謀だって。それでもこんなに悔しいのは、……欠けているくせに夢を見てしまったから?
「……っ」
「いっちゃん……」
「ふ、……うぅ……っ」
ぬぐってもぬぐっても、悔し涙は枯れない。察したのか、他の皆は作業机に向かったまま見ないふりをしてくれている。
私はやはり、選ばれた人間にはなれなくて。でも、それを認めることに、これまでで一番強い反発を覚えた。クロコのままでいいとは、思えなかった。
「う……っ」
「泣かないで、いっちゃん」
仕立てのいいスーツに、情けなく濡れた顔を引き寄せて、抱きしめてくれる先生。そうして声をひそめ、めそめそしてるといいものあげないわよ、と言った。
「え……?」
桜色に塗り替えられた艶っぽい指先が、こっそりと小さな紙切れを差し出している。
受け取って広げると、そこには見覚えのある筆跡で
《次回も負けないよ》
と、力強いメッセージが記されていた。
隅に添えられているのは、携帯電話のメールアドレスだろうか。
「先生、これ……!」
「見ればわかるでしょ、神保さんからよ。言っとくけど、皆には内緒だからね」
わかったら行きなさい、と背を押してくれる手。特別な、選ばれた人の手。それはもうひとつの神器と思しきモノを私に差し出している。人望舎、と書かれた空の透明ファイルだ。
「え、あの」
行け、って言われてもどこへ?
「これね、間違えて持って来ちゃったのよ。だから返却して来てくれる? 人望舎に、直接」
「そ、そんな」
まだ春じゃないのに、逢ってもいいんですか。確かに、彼は引退を撤回したわけだから状況は変わったけれど――だけど。
逡巡する私を前に、先生はジャケットを羽みたいに広げて脱ぎながら、ふふと笑った。
「私、さっき聞いちゃったのよ」
「何を、ですか」
「ウグイス。あれ、別名を春告鳥って言うのよね」
聞くや否や、飛び立つ勢いで駆け出した。
嘯いたのは小鳥か風か、それとも先生か――都合のいいことに思慮の足らない私には、わからない。だけど、コートもジャケットも羽織り忘れた私はそれこそ、一足も二足も早い春の装いだっただろう。それでも寒さなんて感じなかった。
駅まで辿り着くのも待てず、前方不注意で自転車と接触しそうになりながらメールを打った。
《神保さん、今、どこにいますか? 本宮》
《ああ、本宮さん。メールありがとう。どこって、僕ならいま事務所だけど》
《どうやって行ったらいいですか》
《えっ!? 来るの? ここに?》
《あの、わたし、届け物が》
そこまで打って、すぐに打ち直した。
《神保さんに、逢いたいです》
唇より素直に、言葉を紡ぎたかった。だってこれは、彼の『耳』にまっすぐ届くから。
そうだ、最初から私たちは、私たちの間には、意思の疎通に不便なんてなかった。あなたの言葉は私に、私の言葉はあなたに、きちんと届いていたから。
《うん、僕も。僕も、君に逢いたい》
返信は、続けざまにもう一通。開封しながら、スタートを切るように、駅の改札をくぐる。
《オフィスなら本宮さんがいつも降りる駅の、ふたつ先だから気をつけておいで。駅まで迎えにいくよ》
《ありがとうございます。ところで……あの、この間は偉そうなこと言っちゃってすみませんでした》
《いや、ありがとう。お陰で初心を思い出したっていうか、うん、目が覚めたみたいだった》
《ごめんなさい。それ、本当ならいいんですけど》
《本当本当。だから仕事、続けようと思えたんだし》
《良かった。嬉しいです。これからも神保さんの作品が見られることもだけど、私、やっと目標が出来たから》
《目標? 凄いね》
《はい。いつか――――》
私は嘯く。
《神保さんに勝ちたいんです。必ず、参った!って言わせてみせますから。ふふふ》
あなたの耳に。
《それは頼もしいね。と、言いたいところだけど》
《だけど?》
《もう参ってるよ》
《お世辞いわないでくださいっ、私、まだまだだって自分でわかってますから》
《いや、そっちの意味じゃなくて》
《じゃあどういう意味なんですか。もうっ、からかってるなら怒りますよ!》
《あの、むしろ本気なんだけど》
《? 本気で怒らせたいってことですか》
《だから違うって。僕はもうこういうの、縁がない人間だって思ってたから……、だから、あっという間に参ったっていうか》
《えと、何が言いたいのかわからないんですけど》
《いいよ、まだわからなくて》
《えー。いまいち歯切れが悪くて、もやもやします》
《僕は悶々としてるけどね……。まあ、これからじっくりとわからせてあげるから覚悟してて》
《なんか怖い》
《うん。僕も自分が怖い》
初めて降りる駅。嗅ぎ慣れない匂いと人混みの向こう、神保さんは私をまっすぐに見、大きく手を振った。限りなく優しい目をして。
口元からは、規則正しく並んだ歯が一同に外の世界を覗いている。
柔らかい笑顔。胸が詰まるほど、愛しいと思った。
《久しぶり》
左手の中で、震える彼の声。波のように広がって、体の内側で、ゆっくりこだまする。
《お久しぶりです》
ぎこちなく寄り添って歩き出す、見知らぬ町。流石に冷えはじめた肩をすくめると、神保さんはすかさず自分のジャケットを貸してくれた。
(……やっぱりやさしいんだ)
そこに残っていた熱でまたも化学変化を起こしたのか、私の顔面は徐々に熱を持つ。その副産物だろうか。体中がいっぱいまで満たされたような気になる。足りないところなんて、最初からどこにもなかったような気になる。
だから逆にもし、彼が自らを欠けていると言うのなら――そこを埋めるのが、私であったらいいのにと思った。
一本道。いつになく彼の指先は饒舌で。
一緒ならどこまででも行ける。
……そんな気がしたんだ。
*歌い鳥、嘯く(うたいどり、うそぶく)fin.*