檻の中で
竜二の拳が壁に当たる音はいつも雨に似ていた。鈍くて、重くて、どこか遠くで響いているような。美咲は台所で味噌汁をかき混ぜながら、その音を数えていた。一回、二回、三回。今回は三回で終わる。案の定、三回で音は止んだ。美咲は火を止めふたをして振り返る。竜二が荒い息で立っていた。目は血走っている。床には割れたグラス。美咲は黙って破片を拾う。その手を、竜二が踏む。踵でぐりぐりと。痛みは最初だけ。美咲は眉一つ動かさない。
「ごめん、今、味噌汁が」
「てめえ!俺の話!聞いてたのか!?」
「聞いてたよ。でも、吹きこぼれそうで」
竜二は舌打ちをしてソファに座った。美咲は茶碗を運ぶ。一口飲んで、美味いと言う。美咲は微笑む。
「……なあ、美咲」
竜二がビールを開けながら言う。
「お前さ、なんで逃げねえの」
美咲は流しで手を洗いながら少し考えた。
「逃げるって、どこに」
「別にどこでもいいだろ」
「実家はないし、友達もいないよ」
「……お前変わってるよな」
「そう?」
美咲は手を拭いて振り返る。微笑んでさえいた。
竜二は少しだけ目をそらした。
竜二は知らない。この部屋の家賃を払っているのが美咲だということを。携帯の名義も、車のローンも、自分が払っていると思っている飲み代の一部も、全部美咲の口座から出ている。竜二が仕事に出ている間、美咲は副業でそれ以上に稼いでいた。寝ている間に、財布から少しずつ現金を抜く。まともに管理すらしてないからバレることはない。殴るたびに、美咲は心の中で小さく印をつける。あと何回殴られたら彼が完全に自分のものになるか。前の彼は、三十七回目で自分から「もう殴らない」と言った。
夜、竜二は寝息を立てている。美咲は隣で目を開けていた。天井のシミを数える。今日は夕飯に混ぜた市販の眠剤のせいで、いつもより早く眠りに落ちている。そっと手を伸ばして、髪に触れる。起きない。枕の下からノートを取り出した。
日付と天気。今日の暴力は三回。壁に拳が二度、グラスを踏まれたのが一度。夜は静かで、髪を触っても起きない。美咲はボールペンを走らせる。そのページの端に小さな数字を書く。三十一。あと六回。
ノートを戻して横たわる。
「……ふふ」
寝顔は子供みたいで、無防備だ。
朝、味噌汁の匂いがする。竜二は体を起こして頭をかいた。昨日のことはあまり覚えていない。でも、隣で美咲が静かに眠っていた気配だけは覚えている。その静けさが、妙に安心した。
「おはよう」
美咲が振り返る。エプロンをつけ、髪を後ろで束ねている。首筋に小さなアザがあった。
「今日、何時に帰る?」
「わかんねえ。たぶん遅くなる」
「そっか。じゃあ、ご飯は保温しておくね」
立ち上がって後ろを通る。竜二は一瞬、肩に手を置く。壊れそうな肩。でも壊れない。美咲は少しだけ振り返って微笑む。
「どうしたの?」
「別に」
手を離して洗面所に向かう。鏡に映る自分の顔は、少し疲れていた。
玄関で靴を履きながら、竜二は振り返った。
「おい、美咲」
「なあに?」
「お前、俺のこと、好きなんだよな」
美咲は少し間を置いて、微笑む。
「うん。好きだよ」
竜二は満足そうに頷いて、ドアを閉める。美咲はドアの向こうの足音が遠ざかるのを聞きながら、そっと手のひらを見た。昨日踏まれた手のひら。まだ少し痛む。
冷蔵庫から卵を取り出す。
今日は竜二の好きな、甘い卵焼きを作ろう。
その夜、竜二は帰ってこなかった。美咲は待った。味噌汁を温め直し、卵焼きを皿に載せ、電気をつけたまま。午前一時の時計を見るたびに、小さな点を打った。
三十六個目の点を打った朝、竜二が帰ってきた。
女の匂いがした。竜二は何も言わなかった。
美咲も何も言わなかった。ただ、味噌汁を出した。一口飲んで不味いと言った。美咲は微笑む。
上着をハンガーにかける。ポケットから出てきたレシートを、そっと見る。ホテルの名前。二人分の朝食。レシートを元に戻し、ノートの端に書く。三十六。
その日からは、もう食事に何も混ぜなくなった。
竜二はよく眠り、よく笑い、美咲に優しくなった。暴力はピタリと止み、穏やかな日常が流れていく。
そして、三十七回目の朝。
「美咲?おーい飯は?」
目を覚ますと、美咲はいなかった。台所にも、玄関には靴もない。
テーブルの上には一通の手紙と、表紙に正の字が並んだ一冊のノート。
『あなたはもう大丈夫』
手紙にはそれだけが書いてあった。
ノートを開く。
一から三十七までの数字と、びっしりと書かれた日々の記録。竜二はその意味がわからないまま、最後のページをめくった。
《三十七人目、卒業。次は、誰にしようかな》
窓の外では雨が降っていた。竜二は静かな部屋で、一人で味噌汁を作る。少し薄かったが、竜二はそれを全部飲んだ。




