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檻の中で

作者: ならやまわ
掲載日:2026/09/16


竜二たつじの拳が壁に当たる音はいつも雨に似ていた。鈍くて、重くて、どこか遠くで響いているような。美咲は台所で味噌汁をかき混ぜながら、その音を数えていた。一回、二回、三回。今回は三回で終わる。案の定、三回で音は止んだ。美咲みさくは火を止めふたをして振り返る。竜二が荒い息で立っていた。目は血走っている。床には割れたグラス。美咲は黙って破片を拾う。その手を、竜二が踏む。踵でぐりぐりと。痛みは最初だけ。美咲は眉一つ動かさない。

「ごめん、今、味噌汁が」

「てめえ!俺の話!聞いてたのか!?」

「聞いてたよ。でも、吹きこぼれそうで」

竜二は舌打ちをしてソファに座った。美咲は茶碗を運ぶ。一口飲んで、美味いと言う。美咲は微笑む。

「……なあ、美咲」

竜二がビールを開けながら言う。

「お前さ、なんで逃げねえの」

美咲は流しで手を洗いながら少し考えた。

「逃げるって、どこに」

「別にどこでもいいだろ」

「実家はないし、友達もいないよ」

「……お前変わってるよな」

「そう?」

美咲は手を拭いて振り返る。微笑んでさえいた。

竜二は少しだけ目をそらした。

竜二は知らない。この部屋の家賃を払っているのが美咲だということを。携帯の名義も、車のローンも、自分が払っていると思っている飲み代の一部も、全部美咲の口座から出ている。竜二が仕事に出ている間、美咲は副業でそれ以上に稼いでいた。寝ている間に、財布から少しずつ現金を抜く。まともに管理すらしてないからバレることはない。殴るたびに、美咲は心の中で小さく印をつける。あと何回殴られたら彼が完全に自分のものになるか。前の彼は、三十七回目で自分から「もう殴らない」と言った。


夜、竜二は寝息を立てている。美咲は隣で目を開けていた。天井のシミを数える。今日は夕飯に混ぜた市販の眠剤のせいで、いつもより早く眠りに落ちている。そっと手を伸ばして、髪に触れる。起きない。枕の下からノートを取り出した。

日付と天気。今日の暴力は三回。壁に拳が二度、グラスを踏まれたのが一度。夜は静かで、髪を触っても起きない。美咲はボールペンを走らせる。そのページの端に小さな数字を書く。三十一。あと六回。

ノートを戻して横たわる。

「……ふふ」

寝顔は子供みたいで、無防備だ。


朝、味噌汁の匂いがする。竜二は体を起こして頭をかいた。昨日のことはあまり覚えていない。でも、隣で美咲が静かに眠っていた気配だけは覚えている。その静けさが、妙に安心した。

「おはよう」

美咲が振り返る。エプロンをつけ、髪を後ろで束ねている。首筋に小さなアザがあった。

「今日、何時に帰る?」

「わかんねえ。たぶん遅くなる」

「そっか。じゃあ、ご飯は保温しておくね」

立ち上がって後ろを通る。竜二は一瞬、肩に手を置く。壊れそうな肩。でも壊れない。美咲は少しだけ振り返って微笑む。

「どうしたの?」

「別に」

手を離して洗面所に向かう。鏡に映る自分の顔は、少し疲れていた。

玄関で靴を履きながら、竜二は振り返った。

「おい、美咲」

「なあに?」

「お前、俺のこと、好きなんだよな」

美咲は少し間を置いて、微笑む。

「うん。好きだよ」

竜二は満足そうに頷いて、ドアを閉める。美咲はドアの向こうの足音が遠ざかるのを聞きながら、そっと手のひらを見た。昨日踏まれた手のひら。まだ少し痛む。

冷蔵庫から卵を取り出す。

今日は竜二の好きな、甘い卵焼きを作ろう。

その夜、竜二は帰ってこなかった。美咲は待った。味噌汁を温め直し、卵焼きを皿に載せ、電気をつけたまま。午前一時の時計を見るたびに、小さな点を打った。


三十六個目の点を打った朝、竜二が帰ってきた。

女の匂いがした。竜二は何も言わなかった。

美咲も何も言わなかった。ただ、味噌汁を出した。一口飲んで不味いと言った。美咲は微笑む。

上着をハンガーにかける。ポケットから出てきたレシートを、そっと見る。ホテルの名前。二人分の朝食。レシートを元に戻し、ノートの端に書く。三十六。

その日からは、もう食事に何も混ぜなくなった。

竜二はよく眠り、よく笑い、美咲に優しくなった。暴力はピタリと止み、穏やかな日常が流れていく。

そして、三十七回目の朝。


「美咲?おーい飯は?」

目を覚ますと、美咲はいなかった。台所にも、玄関には靴もない。

テーブルの上には一通の手紙と、表紙に正の字が並んだ一冊のノート。

『あなたはもう大丈夫』

手紙にはそれだけが書いてあった。

ノートを開く。

一から三十七までの数字と、びっしりと書かれた日々の記録。竜二はその意味がわからないまま、最後のページをめくった。

《三十七人目、卒業。次は、誰にしようかな》

窓の外では雨が降っていた。竜二は静かな部屋で、一人で味噌汁を作る。少し薄かったが、竜二はそれを全部飲んだ。


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