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僕とハルちゃんは突然出逢い当たり前のように恋に落ちた

「あなたが毎日飽きもせず取り憑かれたように大量にお酒を飲んでしまうのは、あなたの生家にある池のせいです。あなたの実家には埋められた池がありませんか?」


僕は畳敷の和室の中である女性と話をしていた。

その40代くらいの女性は座布団の上に正座していて、時々瞬きをする以外は微動だにせず、全ての光を吸収しているような漆黒の瞳を僕の方に向けて穏やかに淡々と話しかけてきた。僕もこの女性に向き合って座布団の上で正座をしていた。


僕はこの時新潟市内にある平屋の一室にいた。季節は春でこの平屋がある閑静な住宅街には優しい陽光が差し、風には新緑の香りが風味づけしてあった。

話せば長くなるのだがここには当時付き合っていた彼女の母親に連れてきてもらった。彼女の母親には「一度はこの女性に会って話を聞いた方がいい」と以前から勧めてもらっていたのだが、この日はたまたま埼玉から彼女と一緒に新潟に遊びに来ていて、今ちょうどその女性が新潟に戻ってきているのでどうかという話になった。この女性は特殊な仕事をしているようで不在なことが多いらしい。僕がその女性と「お話」をしている間、彼女とその母親は僕達のいる部屋の隣で待機していた。


この女性が言う様に兵庫県神戸市の僕の実家には池があった。過去形にしたのはその池は既に埋められてしまい、池ではなくなっているからだ。池のサイズは長さが2メートルほど奥行きは1メートルくらいで池の真ん中にはコンクリート製の橋が掛かっていた。祖父が生前その池で鯉を飼っていて、幼かった僕は祖父と一緒に夕飯の残りを鯉にあげていた記憶がある。その祖父が亡くなり、母は管理するのが難しいと言って完全に水を抜いて土を盛り、そこに菖蒲などの花を植えた。ここから500km以上も離れているのにも関わらずこの女性はなぜか縁もゆかりも無い我が家の池の事を話していた。


うちの家系は代々お酒が強く、祖父も父も叔父も妹も酒豪で、盆正月は大量の酒を皆で飲みながら宴会をしていた。僕は大学一年の頃から本格的に飲酒を始め、その頃からもう10年になるのだが最近では毎晩晩酌をし、友人と飲みに出る時は明け方まで飲むこともあった。確かに一般の人と比べると桁違いの量のお酒を飲んでいた。


「池が水を失い埋められてしまったことで、あなたは潤いを失い、乾いてしまっていました。」女性は続けて言った。「あなたはその干上がった池の底にいて、底から元あった水面の辺りをまるで子供がおもちゃ屋さんで欲しいおもちゃを名残惜しそうに見ているように見ています。」

「それがあなたなのです。」その女性は見通しの良さそうな眼を見開いて念を押した。

僕は何がなんだかよく分からない突然の指摘に頭の中が真っ白になった。

「確かにうちの実家に埋められた池があります。池を埋めて、僕が乾いて、それで多量の飲酒をするようになったという事でありますが、大変申し訳ないのですがお話を上手く理解することができません。それにお酒を飲むのは純粋に好きなだけで、ご指摘のような乾きを自覚したことは今までありません。」僕は頭に浮かんだことをそのまま質問した。「乾くとはどのような状態のことを指すのですか?」

その女性は少し間を置いて言った。

「池を埋めた事実があなたに大きく影響しているのですが、ただしその事を言葉で説明する事は不可能です。なぜならそれは人の科学で解明がなされていない分野の事柄であって、分かりやすくて俗っぽい言い方をすればそれは霊的な事柄であるからです。しかしそれは人の目に見えていないだけで、人の言葉で説明がなされていないだけであって、確実な因果関係が存在しているのです。」

少し間を置いてから「乾いている状態は霊的な状態であるため、お酒では埋めることはできません。しかしあなたはその霊的な渇きを霊的なものとして捉えることが出来ておらず、魂が枯渇しているのにも関わらず、お酒を飲んでしまっています。それは転嫁行動であり、問題の解決にはなっていないのです。」

眉に唾をつけるような話に僕は返す言葉を失っていた。するとその女性は「乾いたあなたがお酒を飲む行為は、穴の空いたペットボトルの中にワインを注いでいるのに似ています。それでは満たされることはないのです。」

埋められた池の存在をなぜこの人は知っているのだろうか?乾いて満たされない?


僕がここ新潟でこの不思議な話を聞いているその理由については少し時間を遡って説明する必要がある。


その当時20代後半だった僕はある女性と付き合っていた。

その女性は僕より一つ年上で国際公認会計士という何だか恐ろしそうな仕事していて、渋谷の道玄坂を登り切ってしばらく歩いた所にある高級ワンルームマンションに住んでいた。僕は当時大学5年生でその彼女とはサラリーマン時代の友人を介して知り合った。友人は会社で事務をしているOLで、サラリーマン時代の僕は営業をしていた。

「良い子がいるから紹介してあげるよ。」僕のサラリーマン時代の友人は突然電話してきてとても事務的に要件を述べた。この友人とは僕が会社を辞めた後も飲み会を開いたりコンパをしたりして交流を持ち続けていた。「三神君好みの大和撫子よ。」僕は別に大和撫子が好きなわけではないのだが友人はそう言ってきた。その当時彼女はいなかったし「一つ年上で、国際公認会計士をしている大和撫子」に会いたくない理由は特段なく、いつものコンパに行く気分でその誘いに乗ってみることにした。相手は年上のしっかりとした仕事をしている人であり、僕は学生なので相手にされず恋愛に発展することはまずないだろうと思っていた。

季節は五月で昼間は気温が上がり半袖で快適に過ごせるようになり、夜の帳が下りてくるとジャケットがあると丁度よく、そんな初夏のとある金曜日の夜に新宿にあるベトナム料理屋で友人とその大和撫子と食事をすることになったのだった。


大和撫子は仕事で遅れると連絡があり、僕は友人と先にビールで乾杯した。

「三神君はこの娘のこと好きになると思う。」友人は自信いっぱいにそう言い切った。

この友人は最近彼氏ができた様で、彼氏の愚痴と惚気話を聞きながら、大和撫子の到着を待った。2杯目のビールを頼んだ後にその娘は到着した。


「三神君、友達の石橋ハルちゃんよ。ハルちゃん、こちらが三神サキ君。今は学生なんだけど将来はお医者さんになるんだって。」

「ハルちゃん」はどちらかと言えば背が低い方で、髪の毛は肩の高さくらいでカットしてあり、目鼻立ちのしっかりした色白の女性だった。その時は白いブラウスの上にベージュのジャケットを着ていて、キャリアウーマンらしい知性と育ちの良さを感じさせる品のよさと清潔感があった。初め想像していた職業的な威圧感は全くなく、和風か洋風かどちらかと尋ねられれば和洋折衷と答えたくなるような印象だった。

僕はとりあえず飲み物を何にするか尋ねた。ハルちゃんはお酒が全く飲めないようで、ジンジャーエールを注文した。受け答えは穏やかで友人が「大和撫子」と言うのはそんな態度からくる印象によるところが大きいのだろう(外見的な和撫子の典型はなんなのだろうか?)。

その時交わした会話を僕ははっきりと記憶はしていない。恐らくありきたりな世間話をしたのだろう。友人は気の利いた合いの手を出せるタイプではなかったので会話は自然に任せられていた。そんな中でお互い良い印象を持てた事は相性が良かったのだと思う。必要以上に気を使わなくても心地よく時間を過ごすことが出来た。ちょうどその日は学校から直接やって来たのでカバンの中には「アレルギー疾患」と書かれた講義用の配布資料が入っていたので、それを皆に見せると、友達とハルちゃんは物珍しそうに見ていた。そして最後に僕たちは電話番号とメアドを交換した。


初めて会った日から交際を始める日までの間は一月くらいだったと思う。

食事会の後の帰りの電車の中でメールを送信し、翌日は電話で話をして、次の週末は食事に出かけた。お互い学業と仕事があったので会うのは週末だけで、どちらかが忙しいと会えない週もあった。世間の恋人たちがするように毎日メールをして相手の様子を聞き、時間があるときは電話をかけた。僕が3回目のデートで付き合って欲しいというと彼女は少し笑いながら「ちょっと早いんじゃ無いかな?」と言い、すぐに「でも、いいよ。付き合ってあげる。」その日は原宿で食事をしていた。竹下通りを歩き、その途中にある東郷神社の境内をお借りし告白した。東郷提督といえば敵前で大回頭を行う世界の海軍史上でも類を見ない戦術行動を行いバルチック艦隊を撃滅したのだが、その東郷平八郎が眠る神社をお借りしたにも関わらず僕の告白は典型的でオーソドックスなものだった。出会いから付き合い始めるまでの常識的な期間がどれくらいなのか知らないけど、その時の僕達にこれ以上期間を置く意味はなく、また気の利いたレトリックや変化球も必要なかったのだと思う。



二人で過ごす場所は渋谷がほとんどで、ハルちゃんが埼玉県の僕の下宿に遊びに来ることは滅多になかった。やはり渋谷の方が圧倒的に便利で魅力的なのは言うまでもない。それにハルちゃんの住んでいるマンションはハルちゃんの親族が所有する高級ワンルームマンションで僕の住んでいたマンションと比べるとまさに「月とスッポン」でもあった。しかし渋谷の物価はとても高く二人で焼き鳥を軽く食べただけで8000円も食事代がかかっていた。初めの数回だけ僕が費用を支払っていたのだけどなんせ仕送りをもらって生活している立場であり、そんなお金の使い方をしているとすぐに生活費がなくなってしまうため、食事等の支払いはハルちゃんが自然とするようになった。僕が申し訳なさそうにすると「私は高級取りだから気にしないでね、サキちゃんは好きなだけ食べてね。」


交際するようになって分かったことなのだけどハルちゃんの性格は「大和撫子」とは言い難く強気で独立心と独占欲が強くて(だから国際公認会計士が務まるのだろう)マイペースな僕はよくハルちゃんを怒らせてしまい、ケンカになる事も少なくなかった。ハルちゃんは思いやりのない僕の言動に対して怒る事もあれば僕がテレビに出てくる女子アナの事を綺麗だと褒めると怒る事もあった。

ハルちゃんは都内の大手会計事務所で働いていて、そこは海外法人を持っている国際的な大企業の会計を行なっていた。同僚には東大や京大出身者が大勢いて、仕事は楽ではなく平日は遅くまで残業をしていた。ハルちゃんは英語がペラペラで外国人を相手に仕事して接待も行いお客の外人に結構モテるのが自慢の一つだった。


また一緒に時間を過ごして行くにつれハルちゃんの実家は色々な事業をしている新潟の資産家である事が分かってきた。恐らく並の金持ちとは桁が違うのだろうという事が生活から透けて見えた。ハルちゃんの給料も当時の僕からしてみれば驚くべき金額であり、身につけている物も世間の29歳が持っている被服品、装飾品のそれではなかった。学生が行けるよう場所ではないレストランでご馳走になり、高価なジーンズもプレゼントしてくれた。自分の中で経済感覚が麻痺してくるような感覚があった。お互いの生まれ育った環境は乖離していて別世界であると言っても過言ではないのだけど、それでも世間知らずで若かった僕は差し当たり特別な不都合もないし誰にも迷惑をかけないので「それでいいのだ」と思っていた。彼女もそれを受け入れているようで、ケンカはすれども楽しい日々を送っていたのだと思う。B型とO型で相性が良かったのかもしれない。そんなこんなで生活には新たなリズムが生まれ、僕達はすぐに新しい生活に慣れていった。


時間は緩やかに流れ気がつけば夏休みは終わり病院実習が始まる9月になっていた。

ハルちゃんが旅行に行かないかと言ったのはまだまだ残暑が厳しい土曜日だった。

病院実習が始まると土曜も登院する事になるので連休が取りにくくなってしまう。今後旅行には行き難くなるのだろうから実習の始まる直前の土日で函館に行く事になった。北海道を目的地にしたのは東京があまりにも暑すぎるからだった。


9月も後半であるにも関わらず依然として蒸し暑い東京とは一変し函館空港に降り立つと湿気のないからりとした空気が歓迎してくれた。

せっかくなので函館郊外の観光地まで足を伸ばしたい所なのだけど一泊二日しかないので大きな移動は行わず函館市内の観光スポットを回ることにした。西波止場を散策しながらビールを飲み、トラピスト教会が立ち並ぶエリアまで足を伸ばし、涼しげで異国情緒漂う函館の街並みを満喫した。太陽が沈み街灯に火が入り始める時間になると兼ねてから下調べして予約していたすき焼き屋に入った。そこで赤ワインを飲みながら濃厚な割下で煮込んだすき焼きをお腹いっぱい食べた。

食事した後はタクシーで宿泊先の函館グランドホテルに移動してチェックインし、部屋で一息ついてからホテルバーでカクテルを楽しんだあと(ハルちゃんはソフトドリンクを飲んだ)それから部屋に戻り、翌日は早いので早めに就寝する事にした。

二人とも疲れていたのだけど横になると自然に優しい気持ちになった。それはいつもと似ているのだけどどこか渋谷とは違っていた。確認した後は取り止めのない無邪気な話をした。

「…サキちゃんは私と結婚したい?」ハルちゃんは言った。僕は少し考えて「まだ付き合い始めて4ヶ月しかたってないよ笑。」微笑しながら応えた。でもそういうとハルちゃんは急に話をしなくなった。

その時は分からなかったのだけれどもこの時の沈黙には意味が含まれていて、我々がこれから体験する事になる奇妙な出来事の到来を能弁に説明していたのだと思う。ただその時の僕には当然これからの事を想像することは一切出来なかった。

お酒も飲んでいたし旅の疲れでまどろみ始めて目を閉じようとしている僕をハルちゃんはすぐ隣で見ていた。「また先に寝ちゃうのね。でも、いいよ。私はあなたの事が好きだから。」

窓の外には函館の百万ドルの夜景が広がっていたのだけど僕達はそんな風景にはほとんど興味は示さずに、お互いの事だけを丁寧さは欠けていたのだけど大事に見つめ合っていた。この気持ちはおそらく薄れてしまう事はあっても消え去る事はなく、二人で過ごす時間は無限に続くように思っていた。


旅行が終わり、東京(埼玉)に戻ってからは淡々と時間が流れていった。

月曜から土曜の午前までは埼玉で病院実習を行い、病院が終わると東武東上線に乗って都内まで移動し渋谷で週末を過ごした。月曜の朝は5時起きで大学まで行っていた。

土曜の夜は渋谷か恵比寿で外食することが多く、彼女は肉が好きだったのでよく焼肉とかステーキを食べていた。それが大の男に負けず仕事しているエネルギー源なのだろう。僕は食事をしながら酒を飲みハルちゃんはお茶を飲みながら飲酒している僕を見ていた。

過ごす時間が長くなるにつれてハルちゃんが信心深い人だという事が言葉の端々から伝わってきた。テレビのスピリチュアルな番組を真剣に見てその内容を詳しく教えてくれた。

100坪くらいある実家の庭には稲荷神社が立っているという話だった。ハルちゃんのお母さんは霊感が強く、人に合うとその人が発する波動を見分けることができるという話だった。なんでもそのお母さんは巫女の子孫だという。


それから季節は進みあっという間に12月になっていた。

冬休みも間近になった頃に突然ハルちゃんが「サキちゃん、今度クリスマスに新潟の私の実家に来ない?」僕がハルちゃんの高級ワンルームマンションでテレビを観ながらワインを飲んでいる時に話し始めた。新潟には一度も行ったことなかったので是非とも行ってみたかった。しかし常識的に「彼女の実家」は気楽に行ってはいけない場所の一つであり、その訪問が深い意味を生み出してしまう事もあるだろう。しかしその時の僕は若く悪気もなく無邪気であり「別に悪いことは何もしていないのだから」と何も考えずに同意をしてしまった。まさか自分たちの存在を否定する者などこの世にいてたまるかとでも言わんばかりに。僕があっさりと同意するとハルちゃんはとても嬉しそうに早速母親に電話をし始めた。「・・・もしもし、ママ。今度のクリスマスなんだけどさきちゃんを家に連れて帰ってもいい?・・・そうそう、うちに泊めるの。・・・お酒?大丈夫さきちゃんはお酒強いから。パパにもちゃんと伝えてね。・・・じゃあね、また電話します。」


その日から新潟に行くクリスマスまでの数日間、ハルちゃんはとても機嫌が良かった。強気な性格は影を潜め、まるで少女がサンタクロースのプレゼント待つかのようにその日を楽しみにしていた。僕がつけているマフラーが古くなっている事を発見するなりマンションから歩いて10分くらいの位置にある西武百貨店まで行ってアルパカの毛で編んである肌触りの良いマフラーを買ってきてくれた。ただ時々「・・・私の両親はとてもキャラが濃いいの。パパは死んじゃった元総理大臣の田中角栄に似ててヤクザみたいなんだよ。強面だけど多分サキちゃんの事は気にいるんじゃないかと思う。」と不安になるようなことも言った。当時娘の彼氏と初めて会う父親の気持ちは到底理解できなかった。もし今同じようなシュチエーションでこの話を聞いていたら新潟行きは中止になったと思う。その時の僕はその「角栄」を恐れるのではなく遠い親戚のおじさんに会いに行くような感覚を持っていた。」


東京駅から上越新幹線「かがやき」に乗って新潟まで移動した。乗車時間は1時間半くらいで駅弁を食べてビールを飲んでいたらあっという間に到着した。ハルちゃんは車内で終始上機嫌で新潟のことを色々と教えてくれていたのだけど時折不安げな表情をして僕の手を座席越しに握ってきた。

新潟駅からはJRに乗り最寄りの駅まで移動した。

「パパが駅前で待っているはずよ。」ハルちゃんは言った。

電車を降りて改札を出ると閑静な住宅街が広がっていた。時刻は夕方で街灯に火が入り始めた頃だった。ハルちゃんは周囲を見渡し父親の車を探していたが見つからずどうやらまだ到着していないようだった。僕達はお迎えを待つ人達に混じって「角栄」の到着を待った。しばらくすると大型で濃緑色のBMWがこちらに向かってきているのが見えた。

「あのBMパパの車よ。」

緑のBMWは勢いよく僕達の前で止まり運転席からガッチリとした体格の初老の男性が降りてきた。

「ハル、よく帰ってきたな。」

そして僕の方に目を向けて「お前がサキだな、よく新潟まで来たな。」

ハルちゃんのお父さんはそんなには身長が高くはないのだけど筋肉質で髪の毛が薄く白髪まじりの顎髭をはやしていた。褐色の肌にほり深い顔立ちをしていてハルちゃんがヤクザみたいと言うのがよく理解できた。声も低くて威圧感があった。

僕は迫力に圧倒されて「・・・初めまして、三神サキです。」声を喉から絞り出して挨拶をした。それが「角栄」との初めての出会いだった。


僕とハルちゃんは後部座席に乗りハルちゃんの家まで移動したのだけど、その車内で何を話したのかうまく思い出すことができない。恐らくやっと緊張してきたためだと思う。車で10分も走らないくらいでハルちゃんの家に到着した。


家の敷地の広さは庭も含めると恐らく300坪はあるだろう。その敷地は1.5mくらいの高さの薄茶色の城壁の様な塀で囲まれていた。「石橋」の表札が掲げられている外門をくぐり敷地内に入るとその右手にあるガレージの電動シャッターが上り始め角栄は停まっているベンツの横にBMWを駐車した。車を降りてさらに内門を開けてその中に入るとハルちゃんの広大な実家がその姿を現した。

建物は現代風の重厚な日本家屋で木製の分厚い玄関扉を開けて家の中に入った。するとそこには初老の女性が立っていた。背丈は中くらい、色白でふくよか顔つきをしてその真ん中に迫力のある高い鼻が聳え立っていた。どこかハルちゃんに似ていた。

「サキちゃん、いらっしゃい。話はよくハルから聞いてるわ。どうぞお上りにください。」落ち着いた話し方で歓迎してくれた。この人が波動を見分けることができるという話のハルちゃんの「ママ」だった。


靴を脱ぎ玄関を上がると僕はママとハルちゃんについて廊下を進んでリビングに入った。そこはモダンな西洋風のリビングでソファーが壁沿いに整然とならんでいた。そこを通り抜け隣の部屋になるダイニングに通された。そのダイニングにはイタリア家具と思われる重厚な茶褐色のダイニングテーブルが置かれていて、僕とハルちゃんそこに座るように言われた。ママは僕達と反対側に座った。間も無くして角栄がリビングの引き違い窓を開けて入ってきた。角栄はママの隣に座り、ママと角栄はテーブルの上に置いてあったセブンスターを一本ずつ取り出し同時に火をつけタバコを吸い始めた。


ママは興味深かそうに僕の顔を見て「サキちゃんは可愛い顔をしてるわね。」タバコの煙を吐き出しながら落ち着いた低めの声で言った。角栄は何も言わずタバコを吸っている。

「それに見た目によらず真面目なのよ。」ハルちゃんは言った。

「ご実家は神戸なんですってね。」ママは僕に言った。

「はい、先祖は明治時代になってから淡路島から神戸に移り住んだようで、それ以来東灘区に150年くらい住んでいます。」僕は答えた。角栄は表情ひとつ変えずタバコを吸っている。

「うちの親戚も神戸にいるのよ、ハルちゃんはほとんど知らないかも知れないけど、私の叔父が神戸の名谷って所に住んでるのよ。」ママはフィルターの近くまでタバコを吸うと灰皿に擦り付けて火を消し、2本目に火をつけた。角栄も次のタバコに火をつけた。換気扇が回っている様だけど部屋にはタバコの煙が充満してきた。

「サキちゃんの家は古くて庭には池があり猫を飼っているんだって。」

「そうなの、猫がいるのね・・。あらもう7時前ね。サキちゃんお腹空いたでしょう。食事しに出ましょうか。」ママがそういうと角栄が初めて口を開いた。

「サキ、お前ウナギは好きか?ウナギの美味い店があるからそこでも行ってみるか。」

角栄は少し表情を緩めて言った。

「ああ、いつものあのお店ね。サキちゃんとても美味しいから行ってみましょう。」ハルちゃんは微笑しながら言った。


その料理屋さんは角栄の豪邸から車で15分くらい所にある日本料理屋で、角栄の御用達と言ったところなのか、店に入ると店主が「会長いつもお世話になっています」と頭を下げ大歓迎してくれた。

座敷に上がりテーブルに座ると、うなぎ、天ぷら、お刺身などの料理が次々に卓上に運ばれてきた。初めは生ビールで乾杯し、2杯目から日本酒を飲み始めた。それは新潟の地酒で淡麗な味わいでとても飲みやすかった。僕が美味しそうに日本酒を飲んでいるとママが「サキちゃんはいける口なのね。よかったわ。」ママも冷酒をきっぷよく飲みながら言った。ママはなんでも新潟市内でエステサロンを複数経営している実業家でもあり、飲み屋街では有数の酒豪だった。その一方角栄はママほど飲めないのだがビールをお代わりしながら飲んでいた。角栄もお酒が入ったせいか完全にリラックスし穏やかな笑顔を向けてくれた。「サキの家は旧家らしいじゃないか、我が石橋家は曽祖父の代からこの新潟で大工をしてきた家系だ。」

江戸時代から石橋家は藩お抱えの大工の棟梁をしていた家で、角栄の父親の代からは土木業、不動産業を営むようになった。初めは新潟を中心に事業を展開していたのだけど角栄の代になってからは全国展開に成功し巨万の富を築いた。角栄は会社を今の規模に一代で発展させたようで、この地域では国会議員が地元入りした際には角栄の会社にわざわざ挨拶しに来るほどの有力者のようだ。角栄は美味しそうにビールに口をつけていた。

「あらあなた、今日はよく飲んでるじゃない。」ママは冷酒を水のように飲みながら少し揶揄うように言った。

角栄とママは三神家のこと、医者になり将来どうするつもりなのかなど、僕の身の上について色々質問をしてきた。僕はその質問を一つずつ丁寧に答えた。ハルちゃんは僕の隣でそんなやりとりを楽しんでいる様だった。食事が終わるとお酒を飲んでいないハルちゃんが車を運転し角栄亭まで戻った。

リビングのソファーに座るとママは12年物の山崎を持ってきて、僕とママはそれでオンザロックを作り2次会を開始した。角栄はリビングの端にあるリクライニングチェアに座り同じくオンザロックを飲みながらタバコを吸っていた。ハルちゃんはロックを飲んでいる僕達に近寄ってきて「ねえママ、サキちゃんの波動はどんな感じなの?」と言った。

ママはウイスキーに口をつけて「サキちゃんはとても柔らかい雰囲気の波動をしているわ。私も初めてみるタイプで、それはピンク色なの。ピンク色の波動を醸し出している人はこれまでいなかったわ。」と笑いながら言った。

「ピンクか。」リクライニングチェアに座っている角栄は今日一番の満面の笑みを浮かべて言った。

ハルちゃんは嬉しそうに「それってなんかネオン街で怪しく光る看板みたいね笑ちょっとエッチな感じの」。

僕はママに「波動の色に何か意味があるのですか?」質問した。

「サキちゃん、私は波動を見ることができるのだけど、その意味までは分からないのよ。ただそれはあなたの魂から出ていて全ての人が持っているものなのよ。うちの主人は赤色をしていて、ハルちゃんは紫色、一番多いのはオレンジ色かしら。」ママはその高い鼻を上に持ち上げるように言った。

「ところでサキちゃん、あなたハルとどうするつもりなの。ここに来たのは結婚する意思があるからなの?」ママは担当直入に切り込んできた。ママがそう言うと角栄はリクライニングチェアからママの隣のソファに移動してきて座り、瞬き一つせずに僕の顔を覗き込んできた。

普通彼女の実家に訪れるなら想定できる質問であり、答えを考え準備しておくものだろう。しかし僕は角栄亭には観光気分で来ていたのでその様な準備は一切しておらず、突然の質問に僕は面食らった。

角栄とママは僕の顔を凝視して答えを待っていた。

結婚、函館でハルちゃんはその事に少し触れていた。結婚がどういうものか、その時の僕には全く想像つかなかった。同じ名前を名乗り寝食を共にし、子供を育てて行く。そんな漠然としたイメージしかなく、その瞬間の答えに窮し、しばらくの間ができた。その間は永遠に続くかもしれない様な気がした。これまで真剣に考えていなかったせいだ。横にいるハルちゃんと目が合い、心配しているのが伝わってきた。出会ってまだ1年にも満たないけど、楽しい時間を一緒に過ごし、お互いを深く愛し合っていた。彼女を心配させたくないし、僕の一言で彼女を安心させれるならそうしたいと思った。

「・・・はい、結婚したいと思っています。」しばらく間を置いてから僕はしっかりと答えた。

「そうなのね、良かったわ。あなたの様な人とハルが一緒になってくれるなら、そんなに嬉しい事はないわ。」ママはタバコに火をつけて満足げに答えた。

角栄は左手に付けていた高級腕時計を外して僕の前に出した。

「これはお前にやる、ベルトを調節して使いなさい。」角栄は笑みを浮かべて言った。

僕はそのベルトのサイズが合わない腕時計を左手に付けてみた。それはゴールドのコンビでずっしりとして重く、正直僕にはまだ早い品物だ。ただこのサイズの合わない時計はこの時から石橋家と僕を深くつないだ。会員証の様な効果があり、僕はこの時から温かく石橋家に受け入れられた。ハルちゃんはテーブルの下で僕の手を強く握った。僕も強く握り返した。その手を離すつもりはなかった。


話が終わった時すでに時間はもうすっかり遅くなっていた。

僕は風呂を勧められ、入浴後はハルちゃんの部屋に布団をひいてもらい寝る準備に入った。ハルちゃんは自分のベッドに横になっていた。

「サキちゃん、本当に私と結婚したい?」ハルちゃんは小さな声で呟くように言った。

「もちろんだよ。」僕は答えた。

笑いながら「普通プロポーズが先だよね。」ハルちゃんは言った。

「確かに笑」

「今度改めてプロポーズしてほしいわ。」ハルちゃんは布団から手を出して下に寝ている僕の手を握ろうとしたので、僕はそれに応えるように手を伸ばした。

「また東郷神社にでも行こうか。」僕は冗談ぽく言った。

「神社はいや、もっとロマンチックなところでして。」

「分かった、考えとく。」

ハルちゃんはまだどこか不安げに見えた。それが何なのかは分からない。今日はハルちゃんが寝るまで起きておこう。

こうしてハルちゃんの実家での最初の1日が終わった。


次の日は昼過ぎまで角栄亭に滞在させてもらい、角栄のBMWで新潟駅まで送ってもらった。駅のロータリーで「月に一回は時間を作って来なさい。」角栄は言った。「何か困ったことがあればいつでも連絡してね。」ママも僕達をみながら言った。

ハルちゃんのパパとママは噂通りのキャラの濃さをしていて、出会った瞬間は少し驚きもしたのだけど、とてもいい人達だった。温かく迎えてくれたことに心から感謝した。


東京に帰ってからまず時計屋に行き、頂いた時計のベルト調整をし、大切に使う事にした。ただゴールドのコンビは僕にはまだ早く、生意気に思われる可能性もあるので学校にはつけて行かず、渋谷のマンションに置いて週末つけることにした。


そして年が明けて春が近づいても僕達の生活は相変わらずで、僕は国家試験を控えており、そろそろその勉強に力を入れる必要があった。ハルちゃんは毎日忙しく働いていて、婚約はしたものの、会うのは週末だけで早くも週末婚になっていた。


神戸の両親にもハルちゃんと婚約したことを伝えた。

父は大阪のゼネコンで働く会社員で、年齢は角栄と同じ50代、髪が真っ白になっていた。その父に電話でハルちゃんのことを伝えると神戸に今度つれてくるように言われた。

専業主婦の母はハルちゃんに会うのをとても楽しみにしているようで「ハルちゃんはどんな食べ物が好きなの?」色々ハルちゃんの趣向について聞いてきた。彼女はお肉が好きだから、三宮のステーキハウスにつれて行くと喜ぶと思うと伝えた。


新潟には月に一度は行く様にしていた。

そして石橋家で滞在する時間が長くなるほど、石橋家の凄さを身にしみて感じるようになっていた。食事には様々な所につれて行ってもらい、新潟市内の高級レストランの特別席で食事をし、角栄は僕が来る度にデパートで欲しいものを何でも買ってくれた。スーツを仕立てて、高級ビジネスバッグにレザーのコート、車は最近使っていないフォルクスワーゲンのSUVがあるので自由に使って良いとの事だった。

ハルちゃんには兄がいて、今はイギリスに留学中で、年に2回くらい帰ってくるらしく、今度帰る時は紹介するので新潟にまでくる様に言われた。

ただ角栄は「サキ、うちの財産は全てうちの息子のものだ。それに興味を持ってはダメだ。ただ生活の面倒くらいいくらでも見てやるから、好きなことをしていいぞ。」と釘を刺すように言うことがあった。

ママはスピリチュアルな考えが強い方で、細木数子とか著名なスピリチュアリストの本をよく読んでいた。本人も霊感が強いそうで地縛霊がいるとその存在が分かるようで「サキちゃん、そこのビルには悪い霊がいるから近寄ってはダメよ。今度除霊する予定なのよ。」と怖くなるような話もしていた。「・・サキちゃんも一度、ユリコさんに見てもらった方が良いわよ。とても参考になるのは間違いないからね。」何でも石橋家と仲の良い占い師がいるようでその人に合うことを勧められた。ただ全国をよく回っているようでその時は新潟を留守にしているようだ。


4月に入り、学校の病院実習も終盤に差し掛かっていた。国家試験の勉強も本格的にスタートし学業は正念場を迎えていた。ハルちゃんとは交際を初めて1年が経過し、お互いのことをよく理解するようになった反面、二人でいることで生じる避けようがない価値観の違いが目立つようになってきた。そんな中でも月一度の新潟は変わらず続けていて、この4月も下旬の週末を使って新潟まで行った。ママはいつも通りに温かく迎えてくれた。角栄は出張中で今晩戻ってくるらしい。

「サキちゃん、今回はとても良いタイミングで来たわね。今ちょうどユリコさんが新潟に戻ってきた所なのよ。うちから車ですぐのところだから、後で行ってみない?」ママは言った。

「ユリコさんの占いはすごいのよ、本当にあたるの。」ハルちゃんも賛成した。

僕達は角栄亭に荷物を置いて一息付いた後にママの運転する車に乗り、ユリコさんの家を目指した。



「穴の空いたペットボトルにワインを注いでいるような行為です。」

ユリコさんは座布団の上に座り、僕の目を透視するようにみて話を続けた。ユリコさんの占いは一度その人の肩に1分くらい手を当てて内なる魂、霊魂から話を聞き、それを伝える方式で行われる。今はその結果を聞いている所だ。

「渇きの実感は特にありませんが、この霊的に渇いた状態が継続するとどのような問題が生じてくるのでしょうか?」僕は質問した。

「渇いた状態は辛いと思います。渇いていては満足も出来ないし、心が干からびて来ると思います。どれだけ高級なものを買っても、どれだけ高級料理を食べても、どれだけ高いお酒を大量に飲んでも、満足は訪れてこないのです。それは幸福の対極にある状態で、あなたがこの先社会でどれだけ成功を収めたとしても、何かもの足らない、不満感と欠乏感を感じるでしょう。」ユリコさんはさらに続けた。「私はあなたの事を不幸だと烙印を押しているわけではありません。もっと前向きな事をお伝えできれば幸いなのですが、残念ながら渇いた状態にあることは歴然とした事実で、今後あなたが生きて行く上でまず第一に改善するべき大きな問題であると思います。」

「渇いた状態から離脱するにはどのような努力をしたら良いのですか?」僕は突然の全否定とも取れる発言に驚きながら聞いた。

「はい、方法はあります。もし方法がない場合はその方に話はしません。中にはもうすでに手遅れになっている場合もあります。しかしあなたに関しては改善する方法が存在しています。それは池に私が行きいわゆるお祓いをすれば渇きの問題は改善するでしょう。」

「それ以外に手段はないのでしょうか?」僕は尋ねた。

「地元の神社にお願いすることも出来ますが、神主の皆様方にも当然その力があると思うのですが、池の詳しい状況が正確に把握できないと思うので、そのお祓いは漠然としたものになると思います。だから状況を正確に把握している私が行って行うのが一番確実なのです。」

ユリコさんは最後まで微動だにせず、その漆黒の目であらゆるものを吸収しながら話を終えた。


話が終わると僕はハルちゃんとママが待っている部屋に行き、占いの結果を伝えた。霊感商売的な話で鵜呑みには出来ないと思ったが、二人は深刻な顔をして、その話を信じているようだった。

角栄亭に戻る車の中でも二人は僕の渇きの問題について議論していた。

「主人が戻ってからどうするか話し合いましょう。」ママは言った。


角栄はその日の6時くらいに出張から戻ってきた。

北海道に行っていたようで、お土産としてすでに毛蟹が郵送されていた。今日の夕食になる予定だった。ママは毛蟹を茹で始めた。

僕は角栄にユリコさんの占いの結果を伝えた。そしてふうと一息ついてから話し始めた。

「サキ、まずはこの事を神戸のご両親に伝えてはダメだ。この手の霊的な話は世間一般的に受け入れられることではなく、信頼を失う結果になり、結婚が破談になる可能性もあるからだ。ただしかしユリコさんの話は信じていい。それは俺が保証する。俺は商売を手広くしているが、それは占いに頼って行なっているわけではなく、自分の頭で合理的に考えて行っている。人間の心理を理解し社会の仕組みを知り、合理的な判断を行う。これが商売では必須だ。だから俺は自分の判断を占いなど他人が考えたことで行うことは一切ない。ただユリコさんは特殊なまだ科学では解明されていない不思議な力を持っている。あの人には何でもお見通しなのだ。」角栄はタバコを吸いながら一気に喋った。

「ユリコさんの言うとおりで、渇いていては幸せにはなれない。飲みすぎてしまい体を壊すことになるだろう。また人生に物足らなさを感じながら生きていくことになるのかも知れない。サキは今まで認識していなかったようだが、その渇きという事実に向き合わなくてはならない。」

「パパ、じゃどうしたらいいの。サキちゃんのご両親にお伝えすることなく池をお祓いすることができるの?」ハルちゃんは心配していった。

角栄はちょっと考えて「・・俺に任せとけ。何としてやるからな。ただ今は動くべきタイミングではない。サキとハルはこの事を神戸の両親に伝えることだけはしてはならい。」念を押して言った。


僕は今まで霊とかUFOとか予言とか、そう言った類の事は信じていなかった。

全部自分の頭で考えて決めていた。

ただ角栄はこの話を「信じていい」と言っていた。

角栄ほどの人が確かに判断を他人に委ねることなく、自分の目で見て聞いて決断を下す。その人がお墨付きを与えてくれたのだ。僕はその事に鳥肌が立つような気分がした。自分の知らない世界が存在していることが恐ろしくもあった。しかし今の僕はこの角栄の話に耳を傾けるしかなかった。なぜならこの人たちが神戸にある家の墓の事を知りようはなかったのは事実だから。探偵でも雇って、と言う可能性は排除できないが、そんな事をしても仕方がなかった。


5月に入ってからハルちゃんと二人で神戸の実家を訪れた。

うちの実家はハルちゃんの家の半分くらいの敷地に祖父が僕の生まれる前後に建てた古いのだけどまだしっかりとした家屋が建っていて、その隣には例の池がある割と広めの庭があった。庭には高めの広葉樹が何本か植えられていて、そのうちの一本は枝ぶりもよく見るものを包み込む抱擁感があり、神聖な感じもした。この木は恐らく三神家に力を与えてくれているのだろうと思う。

僕達は家に上がり挨拶した。ハルちゃんはそんなに緊張はしていなくて、母と妹も歓迎してくれていた。その雰囲気は終始和やかだった。挨拶が終わり夕方になると両親と妹も連れて三宮に行き、ステーキハウスに入って食事をした。僕と父はワインを飲みながらステーキを食べ、女性陣は3人で新潟の話や石橋家のこと、またハルちゃんの仕事を聞いて盛り上がっていた。僕と父は二人でワインを一本空けてから、響のハイボールを2杯ずつ飲んだ。食事が終わると阪急に乗り岡本まで戻った。酔っていたので家に帰ってからの飲酒は控えた。順番に入浴してから2階にある僕の部屋に布団を敷いて寝ることになっていた。新潟とは逆に僕がベッド、ハルちゃんが布団で就寝することにした。この日はどう言うわけかよくお酒が回っていた。寝る前の会話はろくにせずに意識を失った。

翌朝僕は若干の二日酔い気味で目を覚ました。遅い目覚めで、ハルちゃんはもうとっくに起床し一階にあるリビングで母と話をしていた。父に「楽しいのは分かるが飲みすぎてはダメだ。」と注意された。

その日は午後の新幹線で東京に戻る予定だった。帰る前にハルちゃんと二人で今は埋められて菖蒲が植えてある元池をみた。「私にお祓いできたらよかったのにね。」僕達は何も出来ない自分にもどかしさを感じた。最後に両親に卒業したら結婚式をしたい旨を伝えると両親は快く受け入れてくれた。そして時間が来たので実家を出て東京に帰るため大阪駅に向かった。


「サキちゃんはせっかちな所があると思うの。」ハルちゃん神戸から帰る新幹線の中で話し始めた。

「判断が早いのは良いと思うんだけど、もっとゆっくり考えたほうがいい場合もあると思う。何か背後から追い立てられているというか、課題が出来るとそれしか考えられなくなり、早く終わらせないと気が済まないみたいな。それは渇きと関係してると思う。」ハルちゃんは続けた。「満足感を得るために、次々と仕事をこなすのだけど、仕事が上手くいっても満足はしてなくて、すぐに他の仕事に移り出す感じ。」

「でも仕事を次々こなして行ってるのならそれはそれで良いんじゃない?とても生産的だよ。」僕は言った。

「生産的かそうじゃないかで言えば、あなたはとても生産的で素晴らしいと思う。ただ私が言いたいのはそこに満足を感じてないってこと。」ハルちゃんは諭すように言った。「言い方は悪いのかも知れないけど、それは不毛な事だわ。皆何のために活動するかと言えばそれは目標を達成することで欲しいものを手に入れて、ほとんどの人はそれに満足感を覚え、幸せを感じる。サキちゃんは自分のやった事に真に満足を感じていなくて、満足したくてまた次の事に移ってしまう。」ハルちゃんは更に言葉を続けた「あなたはそこに気がついていない。恐らく昔からそれが当たり前だから慣れて見えなくなってしまっていると思うの。それは私たちが結婚した後、大きな問題を生じることになるのじゃないかな。家庭に満足出来なくなるかも。」

「ハルちゃん」僕は強めに言った「なんて事を言うんだ、そんな事僕がすると思う?」

「ごめんなさい、否定するつもりはないのよ。あなたが真面目で真っ直ぐで心根の良い人なのはよく知ってる。だから渇きを認識しその渇きを解消して欲しい。」


30年近く生きてきて渇きを自覚することは特になく、自分が満足しているかどうかは考えたこともなかった。学業であり仕事でありとりあえず目の前の課題に取り組み、それが終わると次の課題をこなした。自分が幸せか否かなど考える必要はなかった。課題はあくまで課題であり次に進むために解決しなければならないステップで、幸せになるためにやっている訳ではなかった。女性とも何人かと付き合った。その時はもちろん幸福だった。


渇きで思い当たることがあるとすれば、結構飽きっぽい所があてはまるかもしれない、僕は思った。去年気に入っていたジーンズはシーズンが変わってしまうと魅力が色褪せて違うものが欲しくなってしまう。憧れの時計を手にしても何年かすれば飽きてしまい、愛着がなくなってしまう。ユリコさんはその事を指摘しハルちゃんは心配しているのだろう。

確かに大きな問題なのかもしれない。


東京駅に降り立ち、僕達は山手線に乗り込み渋谷を目指した。

電車の中はそんなに混んではなくて隣座席に座ることができた。

時刻は夕方、お腹も空いてきた。

ハルちゃんは気疲れもあり隣座席の隣でうとうとしている。

両家への挨拶も終わり、ほっと一息と言うところだろう。

ハルちゃんは僕の左肩に頭を持たれてきている。その左腕の手首には角栄からもらったゴールドのコンビの時計をつけていた。自分を受け入れてくれている人たちがいる事が嬉しかった反面、それを裏切ることが怖くもあった。

自分の事を穴の空いたペットボトルと思うと何とも言いようのない不思議な気持ちだが、それは霊的に深刻で、実生活に大きな影響を及ぼしているそうだ。それは自分を傷つけ、最愛の人を傷つけるかも知れない。自分の力が及ばない事なのだろうか?池をお祓いしなければならないのだろうか?僕は頭がこんがらがって来た。


渋谷駅で降りるとホームはすごい人で大混雑している。改札を出ていつものようにハチ公の前を通って道玄坂に向かった。ハルちゃんはだいぶ疲れているようだ。タクシーを使えばよかったかも知れない。家までは15分、おぶって行ければ良いのだがそれは難しい。道玄坂にひしめく様に並ぶ飲食店からは色々な料理の匂いがして坂中に漂っていた。どこかで食べて帰っても良いのだが今日は疲れているから早く家に帰りたい。だからせめてハルちゃんのマンションに戻ったら僕が料理を作ろう。いつか喜んでもらったキノコのパスタを作ろうと思う。

辺りは大分暗くなってきて街灯に火が入り始めている。5月の道玄坂にはさらりとした心地よい風が吹いていた。

しばらく何も飲まずに歩いていたため、僕は急な喉の渇きに襲われ、ビールを飲みたい衝動に駆られた。

ただ今しなくては行けないことは早く家に着いてパスタを作ることだ。

ビールはパスタを作った後にゆっくり飲もうと思う。

疲れを癒してくれる心地よい5月の風が我々を包んでいた。

僕達はゆっくりではあったのだけど確実に道玄坂を登って行った。



6月になり僕たちは相変わらず忙しい毎日を過ごしていた。平日は埼玉の大学で病院実習をして週末は決まって渋谷にいた。ハルちゃんも仕事が忙しく帰宅するのは毎日10時を過ぎてからだった。金曜と土曜は渋谷や恵比寿の街で過ごすことが多く、外食や買い物を楽しんでいた。僕はよく服を買った(買ってもらっていた)。Tシャツやジーンズでなど気に入ったものがあればお金のこと家に何枚もあるTシャツのことは考えずに買っていた。それは付き合い初めの頃から変わらない事なのだけど、この頃になるとハルちゃんの様子が昔と違っている事に気がついてきた。昔は買い物をしてそれに喜んでいる僕のことを嬉しそうに見ていたのだけど、最近は瞳の奥に何か不安を抱えている事が見てとれた。

「サキちゃん、服は必要な分だけあれば私は良いと思うのだけど、あなたはそれ以上のものを求めてしまう。買うという行為が目的になってしまっている気がするわ。」ハルちゃんは買い物の後に恵比寿ガーデンプレイスの地上階にあるカフェでコーヒーを飲みながら話した。「・・無駄遣いしてしまっているのかな?」僕は自重気味にいった。

「無駄と言えば無駄なのかもしれない。体は一つしかないからジーンズは何本かあればいい。」

ユリコさんの占いは僕たちの間に影を落とし始めていた。

ユリコさんの言う「渇き」は深刻な病気を抱えているのにも関わらずそれに気が付かずある日健康診断でその存在を指摘されるのに似ていた。全く無症状なのに自分は不知の病気に罹患してしまっていると言われたような気分がしていた。僕はまだその「渇き」を捉え切ることができていない。ただその代わりにと言うかハルちゃんが鋭敏に僕の中の「渇き」を感じていた。

「お祓いをしないといけないね。」ハルちゃんはコーヒーカップをソーサーに置きながら呟く様に言った。


そんなある日渋谷のマンションに宅配便が届いた。それは新潟からでママの名前が差出人の欄に書かれていた。包みを開けてみると中には「お香」が入っていた。10cmくらいの長方形の箱の中に線香のような形状をした白檀のお香が入っていて、お香たても一緒だった。ハルちゃんはママに電話をした。

「ハルちゃん、元気にしているかしら?お香が届いたようね。そのお香はねサキちゃんへのプレゼントなのよ。」ママは電話の向こうでタバコを吸いながら話していた。

「実はユリコさんにサキちゃんの渇きを改善する方法がないのか聞いてみたら、毎日一度でいいからこの白檀のお香を炊いてお祈りすれば、しないより渇きが改善するみたいなの。とても簡単な事だから是非やるようにしてみてね。」

ハルちゃんは言った「なんで白檀なの?金木犀ではダメなの?」

「理由は私にもよく分からないのだけどユリコさんが白檀と言っている以上、それ以外は効果ないと思う。」ママはキッパリと言った。

電話を置いてハルちゃんは言った「サキちゃん、ママが言うように白檀のお祈りやってみようよ。確かにお祈りにどんな効果があるかは分かんないのだけど、私たちはユリコさんを信じているの。それは信仰の問題なの。渇き、白檀、祈り、それは一見して脈絡がない事に見えるけど、それらは私たちの分からない所で関連し合っているのだと思うの。」ハルちゃんは力を込めて言った「お願いだからお祈りをして。」


その日から僕は1日の中で1分間だけ時間を作って白檀のお香を焚きながらお祈りを始めた。お香たてに線香状のお香を立てて火をつけると白檀のいい香りが部屋の中に満ちてきてどこか落ち着いた気分になった。僕はそのお香の前で手を合わせて1分間ほど「渇きが癒えますように」と心の中で何度も呟いた。お祈りの後自分に変化がないか鏡で見てみるのだけど、そこにはいつもと何も変わらない「三神サキ」がいた。ハルちゃんは藁をもつかむ気持ちで僕にお香を焚くように言っていた。この一連の不思議な話の中で自分を蝕む「渇き」に対し唯一の有効な対策がこのお香なのだと言う。非科学的ではあるのだけど、その不思議な船に僕はすでに乗ってしまっていた。だからユリコさんの話を信じてお祈りをしてみようと僕は思った。平日に埼玉のアパートに一人でいるとハルちゃんはよく確認の電話を職場からかけてきた。「サキちゃん今日はちゃんとお祈りした?お願いだから毎日忘れずにしてね。」ハルちゃんはそう言うと電話を切ってまた残業に戻っているようだった。

僕は言われるがままにお香を焚いてお祈りをした。しかし時々飲み会の後や忙しかった日は忘れてしまうこともあった。そんな時は朝一番に昨日の分のお祈りもして埋め合わせしていた。



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