保田まこと 腹部動脈瘤(1)
木蔵夫妻が帰って数日経った頃。ユヅキの母、美月がおもちゃを持ってユヅキの部屋にやって来た。
「これ、昔買ってあげたユヅキのおもちゃだったけど、サフランにどうかなって持って来たの。いらなかったら持って帰るけど…」
それはドールハウスだった。二階建ての家を横から両開きにして室内で遊べるタイプ。人形は父母、女の子の三人家族でペットに白い大型犬が付いている。その人形は洋風で三体とも金髪だ。
サフランは目を輝かせて人形を触った。
「うわー、もらっていいのー⁉」
「もちろん」
「ユヅちゃんのお母さん、ありがとう! …うわ、すごい! 人形がすごく動いてテーブルにも座れるよ! それに食器に食べ物が乗ってる! 冷蔵庫も開くよ! 洗濯物を干したりできるー!」
サフランはそのおもちゃで遊び始める。ユヅキと美月はテーブルでお茶を飲みながらそれを眺める。
「あの子にはちょっと年齢が合わないかと思ったんだけど…」
「まあ、違う世界生まれだし、あの子の頭の中はちょっと幼いから!」
「あなたもね、ユヅキ。今も子供の頃と変わらないところがあるわ」
「あの、あう…」
ユヅキが顔を赤くする。照れたユヅキはその場をごまかそうとドールハウスで遊ぶサフランに近づいた。すると、おままごとに勤しむサフランはこんなことを言っていた。
「『では、俺様は仕事に行ってくるぞ! いい子にしているんだぞサフラン』『行ってらっしゃい、あなた』『お父さん、お仕事頑張ってー!』」
ユヅキはどんな世界観なのか関心を持ちながら思う。
(お父さんが仕事に行っちゃったわ。変なしゃべり方のお父さんなのね。それにこの子供の人形はサフラン本人っていう設定なんだ。ふーん)
「『さてサフラン。一緒にお洗濯しましょう』
『するー!』」
人形サフランのキャラクターに、ユヅキが驚愕する。
(するんだ⁉ この人形の世界のサフランはお手伝いするんだ⁉)
「『洗濯機に洗濯物と洗剤を入れてスイッチ、ポチ』
『お利口さんですわよ、頭をなでてあげましょう』
『イヒヒ』
『さて、洗濯機が終わりました。では洗濯物を干しましょう』
『洗濯物を干し、干し』
『サフランはとってもいい子ですわ。またまた頭をなでてあげましょう』
『わーい!』」
それから二人でキッチンで料理をしてサフランが食器をテーブルに並べるとお父さんが帰って来た。
「『ただいま帰ったぞ』」
ユヅキは思う。
(もう帰って来た。あたしのお父さんなら船旅だから四か月は帰って来ない設定にするわ。私のお父さん、『ユヅキとお別れするの寂しいよー!』とか叫んで、ほんと家を出て行く時、面倒くさい)
「『おかえりなさい、あなた』
『お父さんおかえりー!』
『みやげにプリンを買って来たぞ』
『わーい!』」
人形親子三人が食卓に座る。
「『今日は胃が悪い患者の手術が立て続けにあったぞ。珍しいことがたまにはあるものだ』」
(お父さんも病院関係者なんだ。お医者さんかしら?)
「『お疲れ様です、あなた』
『お父さん、そんなに疲れてないでしょー? お父さんは呪文をいくら唱えても疲れないし、この前もこっそり病院に行ったら暇そうにしてたもん』
『そ、そんなことはないぞ! お、俺様は毎日、激務で日夜働いてお前を養っているんだ!』
『イヒヒ、そんなお父さんにビールをついであげる。冷蔵庫からビールを出して、はいどうぞ』
『グビグビ。うまいぞ、サフラン。お利口さんだ。頭をなでてあげよう』
『ヒヒ―!』」
外野で最後まで黙って眺めていたユヅキ。彼女の頭にはこの人形たちのやり取りがずっと頭に残ることになる。
*
「おんちゃん、ちょっとえーい♪ なんちゃあせんきー♪ ちっくと話聞かせてよー♪」
昼間の仕事中、病院の廊下を歩く二人。ユヅキの隣でサフランが自作の歌を歌っている。ユヅキが訊いた。
「何それ? 何か面白いことあったの?」
「うん。この前、おじいちゃんがね…」
あれからユヅキの祖母と仲良くなったサフランは頻繁に星山瑞江と電話している。夜な夜な、電話で楽しげに語り合うサフランをユヅキは快く思っていた。サフランが続ける。
「おじいちゃんとおばあちゃんが街を歩いていた時に外国人とお巡りさんがものすごい言い合いをしてたんだって。アメリカ人って人種? が、英語ですごい怒鳴ってたって。
『アーユーアングリー⁉』
『いや、ほんまに怒っちょらんって! 道に迷うちゅうがやない? 手伝うき言いゆうがよ!』って。
お巡りさんはアメリカ人が道に迷ってるみたいだったから、道を教えてあげようとしただけだったって。それで木蔵おじいちゃんが間に入って通訳したって。
おじいちゃんは『俺やなかったら解決できんかった。さすが俺やちや』って自慢するからおばあちゃんはすっごくうんざりしたって。面白かったー!」
ユヅキはうなずいて感慨深い表情で目を閉じ、思いに浸る。
(サフランはもう日本人にしか見えないわよね…。それも今は高知県民…。この子って人の口真似とか、言語能力が高いわよね…。あたしにとって嬉しいことだわ…)
ユヅキが目を開けるといつの間にかサフランは消えていた。
「またサフランがいなくなった! うわー!」
*
うまい具合にユヅキを撒いたサフランはご機嫌で廊下を闊歩していた。
通りすがりの職員からサフランはチラチラと顔を見られるが彼女は気にしない。何か面白そうなことを発見するまで散策を続けるつもりだ。
(さて! 今日もユヅちゃんを撒いてやったよ! 私を見失ってきっと焦ってる! さっきスケジュール表を見たけど、私の緊急性がないから遅刻しても大丈夫! 病院探検開始!)
今日は小児科を探索して遊ぶことにした。正直、子供の相手は好みではないが、サフランはこの広い病院を完全に踏破しないと気が済まない。
「やーい、下手くそー!」
何か患者の子供同士が言い合っている。いや、よく見れば一方的に小さな子の方が罵られていた。
(むむー! それは駄目だよ! 私はいたずら好きだけど、そういういじめは許せない!)
サフランは呪文の詠唱を始める。
サフランはいたずらをする時は確固たる美学がある。やられた方に遺恨を残さない面白おかしいいたずら。そして一瞬の快楽のためなら自分のお尻がどうなってもいいという覚悟。
(いじめっ子はダメ!)
サフランが右手をかざして小さな声で呪文を唱える。
「―――!」
口汚い子供の声が急に出なくなる。サフランの沈黙の呪文だった。子供は病気が悪化したと思ったのか泣き出す。そうして声のない涙を流し、自分の病室へ戻って行った。
「こんにちは!」
サフランはスケッチブックを手にしている少年に挨拶をした。唖然とする少年は気を取り直して挨拶を返す。
「こんにちは。…あの、お姉ちゃんって何をしてる人?」
怪訝な顔をする少年。サフランは看護師には見えなかったようだ。
「服の色が違うし、天使みたいな人の刺繍があるし」
少年の瞳に彼女の姿は看護師の格好をしたコスプレーヤーにしか映らない。
「イヒヒ。そう言われたのは初めて。あれ、それ…」
サフランが少年のスケッチブックに気づいた。表紙には猫の絵が描いてある。




