サフランの旅立ち パウンドケーキの思い出
四月。サフランが旅立つ日。
「気をつけてな。向こうで行き詰まったらすぐに帰って来い」
スプリウスとサフランが抱きしめ合う。
「ギルをお願いします」
ミアとサフランもハグを交わすと、ミアがギルの入った小瓶をリュックの奥の奥へ大事に仕舞い込む。
「ミア、私に任せて! 必ずギルを元気にしてくるよ!」
サフランはコットというくすんだ赤のオーバーチュニックを着ていた。胴回りは細く、裾は極端に長い。孤児院の人々に見送られながらサフランは歩いた。着替えが入ったリュックは少し重たい。リュックの中の財布には少ないがパディからもらった日本円が入っている。
いつもの道を歩きながらサフランはギルと出会った日のことを思い出す。
サフランが小さな頃、ロベリアの孤児院では養育者のシスターが病に伏せていた。もう高齢で長いこと起き上がる気配もない。子供たちは食べ物もなく、ただただ泣くばかりだった。飢え死にも考えるほどだった。
そこにミアと人相の悪い年齢不詳の男が現れた。ミアは以前ここに住んでいたお姉さんという。そして男の方は大量の食料を見せ、自分たちに食べさせた。皆喜んで肉やパンをほおばり、飢えから解放されたことに安堵と感動を覚える。
「俺様はギーリウスだ。名字はない! 俺のことはギルと呼べ。貴様らガキどもをいっぱしに育ててやる!」
この顔の怖い人はいい人だ。子供たちは直感的にそう思った。そして道具袋から飛び出した籠手のシムエストも現れて新しい家族としての生活が始まった。
おじさんともお兄さんとも判別しがたい顔のギルは不思議な人間だった。僧侶の呪文も剣も扱える。どうして自分たちを育てようと思ったのかはいささか解せなかったが、パウンドケーキを作ると言い出した彼には皆が興味津々だった。
「粉は適量に計り、砂糖もだ。ここは絶対にいい加減にしない。味が変わる…」
湯煎で溶かしたバターを木のボウルの中で高速に混ぜる。
「すごいすごい!」
この時には子供たちはギルに首ったけ。粉と砂糖を混ぜ合わせて型に流し込む。
「生地の味がだいたいそのまま焼いたケーキの味になる。お前ら、この味を覚えろ」
子供たちはケーキの生地を人差し指ですくってなめた。とろけるような味だ。そしてオーブンで焼き、冷まして翌日にカットして食べてみれば、まるで本格派。お店で買ったケーキのような味だ。
「貴様らはこれからこれを作って売れ。俺様がきっちり指導してやる」
「ほんとにー⁉ 私ケーキ屋さんになれるー!」
「ケーキ屋さん楽しそう!」
不思議な特技を持ち、ユニークな発想のある男だった。子供たちは数日でギルの虜になった。全員が瞳を輝かせてケーキ作りに没頭した。
材料を計ってボウルに混ぜる。レシピ通りやってみるだけでギルが作った生地と同じ味になった。
「おいしーい!」
監修のギルが目を離した隙にサフランたちは指やスプーンで次々と味見。生地のほとんどが子供のお腹の中に消える。戻ったギルに子供たちは怒られるとギュッと目を閉じて叱責に耐えようとしたが、雷は落ちてこなかった。
「俺がガキの頃はあそこまで飢えていなかった…」とギルは落ち込み、ミアに漏らしていたとのちに耳にする。ギルはまずは子供たちに心ゆくまでパウンドケーキを食べさせてやるのだと決意する。
それからポーラという女の子が孤児院にやって来た。ギルの知り合いという人物に連れられてあちこちと旅をして来たらしい。その知り合いとやらはギルに少女を託し、サフランたちはポーラと生活を共にすることになる。
しばらく経ったある日、サフランとクレアがミアにとある質問をした。
「ミアはギルと結婚しないの?」
まだ二人は恋人同士だった。そうするとミアは。
「ええ。先日求婚されました。でもお断りしました」
「なんでー⁉」
「あの人は『俺と結婚して子供たちを共に立派な人間に育てよう』みたいな高尚なことを言ってました。そんなことを言われたら結婚するしかないじゃないですか。あなたたちを盾にとって求婚するなんてずるいですわ。もうちょっと気の利いたことを言ってくれたら結婚してあげますわ」
この美人のお姉さんは考え方が変わっていると二人は顔を見合わせる。それからシムエストもこんなことを言っていた。
《ギルがフラれた話は聞いている。あの女、本当に気に入らない。俺は何百年も生きているのだが、…正確には時折、人間から殺されているのだが…。
昔の…、俺の持ち主の話だが、そいつは自分の腕が飛んでも、仲間が死んでも絶対に涙一つ見せない屈強な男だった。そいつはある日、女に求婚してフラれたんだ。号泣していた。全く涙が止まる気配がない。俺はあまりのおかしさに爆笑していたら、そいつは俺を左腕からはずして足で踏みつけた。俺はそいつの行動が理解できなかった。
次の持ち主も女にフラれて涙を流し、俺はそいつをあざけり笑った。ギャップがすごいんだ。笑ってしまうんだ。やはり俺は地面に叩きつけられた。
三人目も女にフラれて俺は同じ目に遭い、何十年とかかってようやく俺は理解した。男は女にフラれるとこの世の終わりのように悲しむ生き物なんだと。俺は人の心がなかったから、そうやって人の痛みを覚えていったんだがな…。
で、何が言いたいかと言えばギルはミアにフラれても泣かなかった。タフな男だぞ。ますます気に入った》
子供たちは失笑する。シムエストは頭が良くて話が面白い。孤児院にスプリウスが現れる前は不動の二番人気であった。
ギルとミアはしばらくして結婚、子供たちは盛大に祝った。
数か月後のある日。パウンドケーキ作りが日常になった子供たち。生地ができあがると味見をお互いに押し付け合う。
「サフランが味見しろよ」
「やだよ、私さっきやったもん」
「じゃあ、マシュー」
「ちぇー…、俺か…。はい、ペロペロ。おいしいおいしい。味は変わりません」
子供たちはパウンドケーキに飽きていた。子供たちで直接売ったり、よろず屋や物産店に納めているが、売れ残ると夕飯や朝ご飯にパウンドケーキが出て来る。家の中は常に甘ったるい匂いで満ちており、食べ飽きたパウンドケーキを毎日口にすることは地獄だった。
そんな中、ギルの一番弟子のジョセフが考えなしに直訴した。
「師匠、パウンドケーキはもう飽き飽き! 食べたくないよ!」
言ってはいけない一声に皆が一斉に緊張し、ジョセフが強烈な尻叩きに遭うと顔をしかめたが、ギルは「ぐむむ…」とうなるだけ。
パウンドケーキが嫌いなことを目の前で言っても怒られない。言葉の自由を奪わないギルに、子供たちは彼のことをさらに好きになった。
サフランだけは尻を叩かれ続けた。脚が悪い女の子を叩くのはどうかと思うが、いたずらを決してやめない、そして使用禁止になっている呪文を大人の許可なく勝手に使う。見知らぬ他人に回復呪文を使ったりもする。叩かれても仕方ないことだった。遂にサフランは誘拐されるが、それでも彼女は反省しなかった。
ある日、腹痛で死にそうになったジョセフがギルにどこかに連れて行かれると、夕方にはケロリとした表情で戻って来た。それからギルはサフランに宝箱の呪文を使うと複雑な表情で考え込んでいた。そうして結果、彼女はライス総合外科病院で脚の治療を受けることになる。
サフランは思う。ギルに出会わなければ自分の脚は治っていなかったと。そして白血病にかかったギルを助けたい、育ててもらった恩を返したいという気持ちは、他の子供たちとも相違ない想いだった。
飽きるまで食べさせてくれたパウンドケーキはギルからのまぎれもない愛情だった。
サフランは皆から託された希望だった。彼女の心には闘志が燃えていた。
サフランはライス総合外科病院の前までやって来た。道端にはドラゴンのオルバンとドレイクが待っていた。ドレイクが家の中に入るとサーキスとリリカを呼んで来る。
先月からリリカにはこう伝えていた。ガルシャ王国の親交国であるマムルーク王朝が優秀な女性看護師を要請しており、それにサフランが選ばれたと。リリカ一人を騙すための方便だった。パディはおいおい、自分の世界に帰らないという意思と証拠を彼女に見せれば良いと考えていた。
見送りのサーキスがもう号泣している。
「うえええー、うえええーーん! 本当に行っちゃうのかサフラン…⁉ ええーん!」
「ヒヒ! あんまり泣かないでよ、ライオンさん。ヒヒ! そのうちまた会えるよ!」
(その、またが来るかわからないから泣いてるんだ…)
自分のことで泣き叫ぶサーキスにサフランはご満悦の表情だ。サーキスの隣でリリカがあきれている。
「サーキスは大げさよねえ! ちょっと遠い国に行くからって。あんたもサフランぐらいの時にはあちこち旅してたじゃない。それもサフランはドレイクさんと一緒だから安全でしょ」
「うん!」とサフランは笑顔を見せる。
「でも優秀なあなたがいなくなるとこれから婦人科がたいへんだわ…」
今日は平日、パディはカスケード病院で勤務中だ。別れは昨日済ませてある。
「じゃあ、行って来るね! またねライオンさん、カカシさん!」
ドレイクに続いてサフランはオルバンに乗る。オルバンはゆっくりと南西の方に飛んだ。翼を羽ばたかせるオルバンは悲しい気持ちに沈んでいた。あの凶悪な顔の人間が病気にならなければこんなことにはならなかったのだと。
オルバンが孤児院まで来るとミアが手を振っていた。左腕にシムエストを携えたスプリウスも手を振っている。
「サフラーン!」
オルバンは高度を低くする。
「サフラン頑張ってー!」
ジョセフ、ポーラ、レナードがこちらを見上げて追って来る。
「お姉ちゃん、元気でねー!」
カシミアや小さな子供たちも一緒だ。サフランを馬鹿にしていたリクトとゼラも涙を流して手を振り走っている。
オルバンの上のサフランは自分を奮い立たせるようにつぶやいた。
「みんな、私頑張るよ…。きっとギルを助けてみせる…」




