サーキスたちの日常、それからギル(3)
リリカが指示する前にサフランは革ひもで作られたメジャーを用いて胎児のこめかみ、お腹まわり、ふとももの骨の長さをだいたいであるが調べる。この時、彼女は器用に左手のみでお腹にメジャーを押し当てていた。
それからサフランはエリプス法という計算式で胎児の体重をはかる。出した答えをリリカも確認して二千グラムはいってないと二人で言い合う。先ほどから小声でささやく医者と看護師の部屋には重たい空気が降りかかっている。
「すみませんが、トレイルさん」
リリカが患者に言った。
「まずは胎盤について説明しますね。トレイルさんはへその緒はご存知ですか?」
「それは知ってるわよ。お母さんと赤ちゃんが繋がっていて、生まれた時にチョキって切るんでしょ?」
「そうです。そのへその緒の先には胎盤というものがあって、それから赤ちゃんへ栄養と酸素が送られています。胎盤は子宮内膜…、お腹の壁にくっついているのですが、トレイルさんの胎盤は赤ちゃんが生まれる前に剥がれる予兆があります」
「それじゃあ、赤ちゃんに酸素とか栄養が行かなくなるじゃない…。死んじゃうわよ…」
患者の理解は早かった。
「それで申し訳ありませんが、トレイルさんには普通の分娩を諦めてもらって、…あ、自然に赤ちゃんを産むことですね。帝王切開を受けてもらおうと思います。お腹を切って赤ちゃんを取り出すこと、ですね」
「え、はあ…」
「赤ちゃんの発育がまだ三十四週に足りてないと計算しまして、帝王切開はもう少し先になります。それでここに入院してもらって毎日検査を受けてもらいます。私や看護師が判断すれば即帝王切開を受けてもらいます。あなたの常位胎盤早期剝離はまだ軽症です。もっと赤ちゃんが育ってから産んでもらいましょう」
表情がなくなった妊婦にリリカが柔らかく言う。
「今、隣にいる外科医が手術します。ブラウン先生は自分の奥さんを帝王切開して赤ちゃんを取り出したんですよ」
「まあ、素敵…」
妊婦の表情がゆるんだ。
「うちの外科医の腕は確かです」
「ここに来て…よかったかしら…」
「大正解でしたよ! ではトレイルさんにお部屋のご案内を」
とリリカが男性看護師に命じる。妊婦は診察室を去り際に、
「若い院長先生で一見頼りないと感じたけど、全然違った。頼もしい。それからあなた、見た目と違って優秀なのね。かわいい看護師さん」
とサフランも褒められた。
「うふふ」
サフランの愛想笑い。なんとサフランは普通に笑うことができた。相手に合わせて態度を変えるのは育ての親から学んだ処世術だ。
隣の部屋のサーキスは目の前の患者を診ながら、妊婦のトレイルのようすを聞いていた。
(俺がファナを帝王切開した話はみんな感心して聞いてくれるから嬉しいぜ。…あの人の赤ちゃん、ちゃんと育ってくれ…。胎盤まだまだもってくれ…)
そんな折、突然部屋にギルが患者を連れてやって来た。ギルは普段はカスケード病院で働いている。連れているのはあちらに来院した患者だ。
「急患だ、サーキス…。はぁはぁ…」
背中の患者をギルは診察ベッドに乗せる。患者は女性。
「はぁはぁ…骨盤腹膜炎だ。あっちはドクターパディが手術中で手が離せなかったので俺たちでこの患者を透視した。満場一致で骨盤腹膜炎だった。緊急で手術が必要だ。…はぁはぁ…骨盤腹膜炎ならこっちの方が専門だしな…。はぁはぁ…しかし息が整わない…。これぐらい走っただけで…。はぁ…」
骨盤腹膜炎。細菌が感染して生殖器が炎症する病気だ。膿瘍が大きいと手術する必要もある。
「ありがとう、ギル!」
「あとは頼むぞ」
ギルは息を切らせたままカスケード病院の方へ帰って行った。サーキスは患者の方に集中してそんなギルに気づかなかった。
「やっぱり熱があるな…。初めまして、医者のサーキスです! ちょっとこれからあなたは入院してもらいますねー! 抗生物質を…。いや、俺自身が患者さんを透視しておく必要があるか…」
*
ギルはその日、帰還の呪文で家に帰って来た。
「帰ったぞ…」
異変に気づいたのは妻のミアだ。
「また呪文で帰って来たんですね! これで三日連続ですよ!」
ミアはギルの体を心配していた。
人好きのするギルは他の僧侶と交流が欠かせなかった。寺院の門を出て誰かと一緒になれば仕事のことやお互いのことに対して議論したりと、話好きのギルは対象を追って帰り道でもない方に歩いて行くことも多々あった。足を使うことは筋肉を鍛えることにもなる。
「それからセリーンの盾もずっと棚に飾ったままです…」
勇者のセレオスから借りたセリーンの盾をギルはダンベルのように使って腕の筋力を鍛えていた。打倒ガドラフが常に頭をよぎる彼にとって数年前からのルーティンワークだ。
時には世界のことわりを筋肉でねじ伏せて盾だけでなく、セリーンの剣や兜を装備し、自分をセリーンの勇者と称して子供たちを爆笑させていた。あまりの重みで老人のような動きになっていたが、それがまた笑いを誘った。
しかし、ギルはしばらく前からそれが重くて動かせないと、セリーンの盾はテーブルの上に置かれたまま。仕方なくスプリウスが盾を持ち上げ、棚に立てかけていた。
「あなたはどこか具合が悪いのですよ! パディ先生に診てもらわないと!」
「そうだな…。明日相談するとしよう…」
ギルはもう床に就くと言い、寝室で眠ることにした。そうすると三十分も置かず、パディがやって来た。ミアが言った。
「ギル、パディ先生です」
ミアが彼を呼んだわけではない。パディの方が勝手にやって来たのだ。
「あんたか…。明日あんたに言おうと思っていたが…」
「ちょっと前から君には気にかかってて。…うん、ちょっと熱があるね」
パディはギルの額を触ると、今度は両手で首を触る。
「少し血をもらうね」
パディは鞄から注射器を出してギルの腕から血を抜いた。そうして血液を皿に移して血を伸ばしたり、薬品で染めたりして、また違うケースから顕微鏡を取り出した。それで血液の観察を始める。しばらく経ってからギルから、「どうだ?」と質問が上がる。
「うん、白血球が増殖して、赤血球が減ってる…」
その間で一時間が流れていた。会話はそれだけ。不穏な空気にミアはギルの腕や背中をずっとさすっていた。
「ミアさん、シム君を呼んで来てくれない?」
そして籠手のシムエストがふわふわと飛んでくるとパディの指示でギルを眠らせた。
その前にギルからは「いいぞ、ドクター。チクッとするぐらいだろう」と睡眠呪文を拒否されるが、パディからは「駄目だよ、ギル君。結構痛いんだ。患者さんには無理をさせられないよ」とたしなめられた。
うつぶせになったギルの腰にパディは注射器を当てて、ほんの少しの骨髄を抜く。血のような赤い液体だった。その液体をスライドガラスに一滴かけて、また別のスライドガラスを使って引き伸ばす。細胞を一層に広がった状態にした。それからそれを乾燥、染色して色分けをする。水で洗い流して再び乾燥。煩雑な手順を踏んでやっと顕微鏡での観察が始まる。
骨髄を抜いてさらに一時間以上が経過していた。ここまで、日頃ひょうきんなパディがほとんど口を開かない。ミアは不安な表情でベッドの上のギルを抱きしめていた。
ギルの方は何の検査かもうわかっていた。そしてこれまでに治療法もなく、幾人もの患者がその病で亡くなる姿を見てきた。パディが言った。
「ギル君は急性骨髄白血病だ。僕に君は治せない。病気の進行を止めるために今すぐ死んでもらおう」




