ちょうどいい優しさを、あなたに ―羊の執事見習いと令嬢の話―
初投稿です。宜しくお願いいたします。
夕影が差しはじめた谷に、淡い霧がそっと降りてきた頃。
古いアセイトゥーナ領の領主館、その石造りの軒先に、 一人の青年がじっと立っていた。
彼の名はアオイ。
羊の耳と、ふわふわな銀灰色の髪、背に控えめに揺れるもこもこの尻尾。獣人の中でも温厚な種とされる“白羊族”の血を引く執事見習いだった。
白い制服の袖をぴしりと整え、指先に力をこめる。
「……5年ぶり、か」
静かに口に出す。館の前にひとり立つ彼に応えるものは、ただ風と小鳥のさえずりだけ。
「……もうすぐ、来る」
アオイはそっと顔を上げる。久々に迎えるご当主の娘。
王都から遠く離れたこの辺境の地に、貴族のご令嬢が来るのは、久しぶりだった。林道の向こうに、揺れる馬車の影が見えた気がした。
あの子が戻ってくる。幼い頃、あの小さな手で、羊と戯れていたあの子が――
「お嬢様……」
アオイは胸の前で手を重ね、姿勢を正した。
車輪の音が砂利道に弾み、館の前でゆっくりと止まる。馬車の扉が開き、ゆっくりと降りてきたのは……
「お待ちしておりました。お嬢様、おかえりなさいませ」
お嬢様――クララ・アセイトゥーナは、微かに笑った。けれど、その頬は青白く、唇の色も薄い。
輝く稲穂のような、淡い金髪を持つ彼女は、頬にかかるサイドの髪をゆるやかに後頭部でまとめている。
かつてのあどけなさを若干残していたが、背筋はすらりと伸び、今そこに立つ彼女はもう、“子供”の佇まいではなかった。
「……ひさしぶりね、アオイ」
◇◇◇
長旅で少し疲れた足取りのクララに、アオイは寄り添うように歩幅を合わせていた。
「お嬢様のお部屋は、昔のまま二階の南側でご用意しました」
「……ありがとう」
部屋に通されたクララがベッドに腰を下ろした瞬間、ふっと肩から力を抜いたのを、アオイは見逃さなかった。
「少しお休みになりますか?夕食はお嬢様の体調に合わせてご用意します。」
「うん、ありがとう……。アオイ、なんだかあなた、だいぶ落ち着いて執事っぽくなったわね」
「……執事っぽく、ですか?」
「うん。子供の頃のあなたは、いつもチョコチョコと動き回っていたもの」
「……そうでしたか?記憶にはございませんね」
クララがくすりと笑ったのを見て、アオイの胸の奥に、ほのかな安堵がじんわりと広がった。
夕暮れが深まり、館にランプの灯がともる頃。
あたたかなパンと蒸した白身魚のハーブソースあえ、南瓜のポタージュ、小さな野菜のテリーヌが並ぶ。
「……私の好きなものばかりね」
クララが笑う。けれど、一口食べるとゆっくりとした息を漏らした。
「優しい味……」
「お嬢様の胃に負担がかからないよう、厨房と相談して決めました。デザートには桃のコンポートをご用意しています」
そう告げると、クララはふと呟いた。
「……アオイ、こんなに気遣いできるようになったのね…」
「はい?何でしょう?」
「ううん、何でもないわ。……色々とありがとう」
少しだけ言葉のトーンが沈んだのを見て、アオイは何も言わず、そっとティーカップに新しいお茶を注いだ。
◇◇◇
旅の疲れか、それとも心の奥にずっと潜んでいる痛みのせいか。
私は部屋のベッドに横たわっても、眠気がやってこなかった。
ナイトガウンの上から薄手のショールを羽織り、ランプの灯る談話室に足を踏み入れる。
そこにはアオイが、ティーセットを手に待っていた。
「眠れませんか?」
そう聞かれた瞬間、私は“平気よ”と言うつもりだったのに。
「少しだけ。久々の領地で興奮しているのかも」
用意されたティーカップから、ラベンダーの匂いが立ち上る。
「パッションフラワーと蜂蜜も少々加えました。どうぞお召し上がりください。」
「ありがとう。」
そこに漂うハーブの香りに、心がゆっくりほどけていくようだった。
「昔みたいに、眠くなるまでおしゃべりに付きあってくれる?」
わざと冗談めかして言うと、彼は目を細めた。
「……私がここに来た理由、知っているのね」
「完全ではありませんが、だいたいは」
やっぱり。
「…伯爵令嬢として、家名に泥を塗ってしまったわ。」
「怒らないの?」
「なぜ、僕が?」
静かに、さらりと返ってくる。
今の彼は、私の言葉の奥にある感情を、全部わかった上で、余計なことを言わない。
それが、少し懐かしくて心地よかった。
熱くも冷たくもない“ちょうどいい”お茶を口に運ぶ。ほんの少しの沈黙。
「……婚約解消になってしまったの」
口にしてみると、思ったよりも冷たく響いた。
まるで他人のことを語っているみたいで、自分でも不思議な気分だった。
「……王城での夜会だったわ 」
王都の本邸では、自分の気持ちを口にすることなどなかった。
「しばらく静養を」とだけ告げられ、私はただ頷くしかなかった。
騒動の火がこれ以上広がらぬようにと、私は静かに領地へと戻ることになった。
それほどまでに、大きな醜聞となってしまっていたのだ。
腫れ物のように扱われているのは、自分でもわかっていた。
誰も聞きたがらないし、私も話す気にはなれなかった。
――でも、アオイには話してもいいような気がした。
ここは、私がまだ無邪気で、何も背負わずに過ごしていた頃の場所。
そしてアオイは、その頃と変わらぬ目で私を見てくれる。
そのまなざしが、どうしようもなく懐かしくて、心がほどけてしまう。
「婚約者とのお披露目も兼ねての夜会だった。皆様にご挨拶回りをする予定だったの。でも彼は……いきなりあの方の前で跪いたのよ」
口の中が少しだけ苦くなる。
記憶が鮮明になる。
「“あなたこそ私の番です”――そう言ったの」
本能で選ばれること。
それが、獣人にとっての“真実”であり、誰にも否定できない“運命”なのだと。
「犬の獣人は、つがいを見つけると他の誰も目に入らなくなるらしいわ。家名も、その立場も……全部、番の本能に負けてしまう。特に、あの種族はその衝動が強いって、前に聞いたことがあるの。」
語りながら、指先がかすかに震えていることに気づいた。
気づかないふりをしてくれるアオイが、ありがたかった。
「……私のことなんて、まるで――最初からいなかったみたいに。」
喉の奥が詰まりそうになって、ひとつ息を吐く。
胸の奥が、じわりと痛んだ。
「……理性じゃ、どうにもならない。あれが、獣人らしさなんでしょう?」
「それを“正しさ”とするなら、僕は一生、元婚約者のあの方を許しませんよ。」
アオイの声は静かだった。
でもその言葉の奥には、まっすぐな怒りが確かにあった。
私は思わず彼の顔を見た。
淡い銀の髪の下、羊の耳がぴくりと揺れる。
ちょっと怒っている、と思った。
いや――だいぶ怒っている、かもしれない。
「ねえ、アオイ。私、もう“番”には関わりたくないの」
そう口にした瞬間、自分でも驚くほどすっきりしていた。
涙が出るわけでもなく、胸の奥に張りついていた薄氷が、静かに溶けていくような――。
「運命とか本能とか……そんなものに、これ以上振り回されたくない。」
少しだけうつむくと、アオイの気配がすぐそばにあった。
声も、手も、出さない。
でも、それが何よりありがたかった。
かつて、獣人たちは“番”という衝動に抗うことができず、その本能に飲み込まれては暴走を繰り返していた。
この国では獣人の数が少なく、そのせいで“番”に選ばれるのは、どうしても人間が多くなってしまう。けれど、“番”に出会える確率はごくわずかで、獣人たちは“番”以外の誰かをパートナーに選ばざるを得なかった。
人間たちには、“番”の存在も、その強烈な衝動も理解できなかった。そして、番に出会った獣人たちの深い想いも、人間に理解されることはなかった。
その結果、望まぬ縛りや、無理やりの契約破棄、そして命を落とす悲劇さえ起こった。
そんな悲しい過去を繰り返さぬように――成人した獣人たちには、“番”の衝動を鎮めるための縁鎮剤が開発され、国はその使用を支援する制度を整えた。今では、縁鎮剤を買うための支度金も支給されている。
そしてさらに――獣人が誰かと婚姻に準ずる関係を結んだときは、縁鎮剤の服用が法律で義務づけられているのだ。
衝動で人を傷つけないように。
“番”という本能を盾に、すべてをひっくり返さないように。
「……ほぼ全ての獣人は縁鎮剤を服用しているでしょう?」
「ええ。暴走や衝動の抑制――そして、社会生活を円滑に送るために。」
「彼にももちろん処方されていたわ。婚約は、服用義務の対象になるから。」
苦笑が喉に引っかかった。
でも笑えなかった。
「”飲んでいるから大丈夫”……そう言って、彼は笑っていた」
そのときの彼は、私の目をまっすぐ見て言った。
自分の気持ちは本物だと。ちゃんと制御しているから、大丈夫だと――。
でも、私は、獣人の本能を――“番”の衝動というものを、きちんと理解していなかった。
あの笑顔が、今でも焼きついて離れない。
そこにあるのは理屈じゃない。
話し合いも、選択も、今まで積み上げてきたもの全て、何もかも置き去りにするような衝動。
「……自分が“番”になれなかったから、っていうのもあるかもしれない。 でも、もう“番”が理由で振り回されて……心をぐちゃぐちゃにされたくないの。」
声は静かだったけれど、自分でも驚くくらいはっきりしていた。
「アオイ……番に縛られずに生きることって、できると思う?」
その問いに、彼は少しだけ目を見開き――私を見た。
「……お嬢様がそれを望むなら、僕はその言葉に従います。……本能に、負けるつもりはありません」
まっすぐだった。
ほんの少し、視界がにじんだ。
「ありがとう、アオイ」
彼の落ち着いた声と、優しいまなざしが、心のざわつきを静かに撫でてくれるようだった。
話し終えてふと目を上げると、自然とアオイの姿に視線が留まる。
銀灰色の髪が優しく揺れ、頭の上で羊の耳が小さく動いていた。
背中のもこもこした尻尾も、控えめに揺れている。
以前よりも背が高くなり、引き締まった肩やしなやかな筋肉のラインが、彼が誰にも見せずにひそかに鍛えてきた努力を物語っていた。
( いつの間にか、こんなに“男の子”から“男の人”になっていたんだ……。 )
小さい頃、振り返ればいつも彼がいて、何かあれば一番に手を差し伸べてくれていた。
ランプの火が、小さく揺れる。
ソファに体を沈めると、代わりに眠気が近づいてくる。
アオイがそっとブランケットを肩にかけた。
「アオイ」
呼ぶと、すぐに「はい」と返事が来る。
“ここにいる”って返事。
目を閉じると、羊の尻尾がランプの明かりに影を落として揺れるのが、瞼の裏で分かる。
それがやけに心地よくて、眠りに落ちる直前、私はつぶやいた。
「ねえ、アオイ。……私がここにいる間だけでいいの。ちゃんと、甘やかして?」
「もちろんです」
すぐ答えが来る。
ちょうどいい優しさで。
ランプの火がまた揺れる。
その向こうで、アオイの「おやすみなさいませ」という声が、静かに落ちてくる。
私は眠ったふりをしていたつもりが、いつの間にかちゃんと眠っていた。
だからそのあとのアオイの呟きは聞こえなかった。
「では、これからは遠慮なく僕が全部守ります。体も、心も……わがままも、全て」
◇◇◇
王城の中庭。王女殿下主催の茶会が開かれていた。花々の甘い香りが漂うなか、貴族令嬢たちは互いに挨拶を交わしていたが――
「……あら、どなたかいらっしゃらないようですね?」
招待されていた子爵令嬢のひとり、姿を見せていないという。誰も確かな居場所を知らなかった。
その時、庭園の入口に一組の男女が現れた。
「失礼いたします。こちらの令嬢が道に迷われていたようで、お連れいたしました」
落ち着いた声音で報告したのは、顔立ちが鋭く整っていて彫りの深い目元の獣人――。どうやら、王城内で迷っていた子爵令嬢を見つけ案内してくれたらしい。
ちょうどクララは移動しようと庭園の入口近くに立っており、ふと所在なげに佇む令嬢と目が合った。
「まあ、ご親切にありがとうございます。それでは、ご令嬢はこちらでお預かりいたしますね」
クララが柔らかく微笑むと、男性はほんの一瞬、驚いたように目を見開いた。
「あなたは……」
「アセイトゥーナ伯爵家の娘、クララ・アセイトゥーナと申します」
「……ワイマラナー・カザです。カザ侯爵家の者です」
名乗り合った瞬間――
ワイマラナーの鼻がふっと動いた。風に乗って香るのは、甘く、やさしい香り。
それが花のせいなのか、彼女自身のものなのか、彼には判断がつかなかった。
ただひとつだけ、「心地よい」と感じた。
犬種の獣人であるワイマラナーにとって、“安心”できる匂いというのは、警戒心を緩めてしまう。
そして彼は、その日から彼女の姿が妙に気になるようになっていた。
それから間もなく。
アセイトゥーナ家には、カザ侯爵家からの正式な婚約の打診が届いた。
「――あの出会いは、偶然ではなく“縁”だと感じました」
と、侯爵令息は手紙に記していたという。
伯爵家と侯爵家の政略としても不自然ではない申し出であったが、クララにとってはその文面に添えられた素直な言葉が、なぜか胸に残ったのだった。
婚約成立後は穏やかな日々が続いた。
「お嬢様、カザ侯爵令息様からの贈り物でございます」
メイドが手にしていたのは、丁寧に包まれた箱と、封蝋が押された手紙だった。
封を切ると、そこには几帳面な字で綴られた短い文。
“あなたが以前好きだと言っていた花の香りがする茶葉を見つけました。気に入ってもらえたら嬉しい”
――ワイマラナー・カザ
箱を開けると、ラベンダーの香るハーブティーがそっと詰められていた。
クララは、静かに微笑む。
「……本当に、よく見ている方」
言葉は少なくとも、彼の贈り物や話題にはいつも細やかな配慮があった。
ふと、領地で過ごしていた幼い頃を思い出す。
眠れない夜――羊の獣人、アオイがよく、ラベンダーティーに蜂蜜を落として出してくれたこと。
(アオイも、いつも私のことをよく見てくれていたわね……)
ワイマラナーは知識も礼儀も申し分ない。「理想的な婚約者」だった。
獣人特有の縁鎮剤について聞いても、彼は“飲んでいるから大丈夫”と笑っていた。
定期の診療記録も自ら管理し、次回の補充時には必ず医師の確認を仰ぐようにしていると言っていた。
そして彼自身も、態度の端々にクララへの明らかな好意を滲ませていたのだ。
そんな彼の律儀で素直な姿勢に、クララは自然と安心感を覚えていた。
彼から信頼を寄せられているのだと、素直に喜んでいた。
あの夜会の“事件”が起こるまでは。
◇◇◇
天井のクリスタルシャンデリアがまばゆい光を広げている。演奏隊が優雅な調べを奏でる中、招待客たちが次々と入場していた。
この夜会は、隣国との貿易協定の締結を祝うもの。
国王の主催で、両国の上位貴族や高官が一堂に会し、皆、正式な礼装に身を包んでいる。色とりどりのドレスが会場を華やかに彩っていた。
「カザ侯爵令息、ワイマラナー・カザ様、アセイトゥーナ伯爵令嬢、クララ・アセイトゥーナ様。」
入場の扉前で高らかに名が読み上げられると、クララは軽やかにドレスの裾を持ち上げ一礼した。
クララはオリーブグリーンの瞳を伏せ気味にしながらも、優雅に広間へ足を踏み入れる。
直毛の金髪はサイドから丁寧に編み込まれ、後頭部でゆるくまとめられている。大きな瞳と小さめの口元は、まだ少女らしさを残しつつも、纏う雰囲気には確かな気品が宿っていた。
隣に立ち、クララを優しくエスコートするのは、婚約者であるワイマラナー・カザ。
会場の奥では、婚約後初めてそろって姿を現した二人を見届けながら、アセイトゥーナ伯爵夫妻は静かに頷き、慈しむような眼差しを向けていた。隣に並ぶカザ侯爵夫妻もまた、息子の立派な立ち姿に満足げな笑みを浮かべていた。
各家の令嬢や若い跡取りたちが順に紹介され、広間に入っていく中――
ついに、来賓の入場が告げられた。
淡いアイボリーを基調にし、純金の糸で織られた刺繍と宝石で飾られたドレスを纏った、気高くも柔らかな風貌の女性が隣に立つ男性の手をとり姿を現した瞬間
隣に立つワイマラナー・カザの表情が、変わった。
まるで何かに取り憑かれたかのように、焦点の合わない目でその女性を見つめ、次の瞬間――
「――……っ!」
クララが咄嗟に腕を掴もうとしたが、間に合わなかった。
「あなたこそ……っ、私の“番”です……!」
ワイマラナーは、何も見えていないかのように来賓の列へと突進した。
騒然とする場内。
周囲の護衛たちが咄嗟に動いたが、それよりも先に――
彼は女性の目の前にひざまずき、深く頭を垂れた。
「どうか……どうか、私の手をとってください! あなたと結婚したい。今すぐにでも、あなたの“番”として生きたいのです!」
「――っ!!」
女性あまりのことにその場で後ずさり、隣の男性の腕にすがるようにして怯えた。
「なんという無礼……!」
隣の男性、隣国王弟殿下が激高し、すぐさま周囲の兵へ命じる。
「この男を拘束せよ。即刻、離れさせろ!」
「ワイマラナー、下がれっ!今すぐ!」
カザ侯爵が声を荒らげるも、彼には届かない。
「……私はあなたの番なんです……!どうか……!!!」
兵が数人がかりで彼を取り押さえ、強引にその場から引き離した。
彼は腕をねじられて引き倒される。
その様は、もはや貴族とは呼べないほどに、無様で、狂気を帯びていた。
クララはただ黙って立ち尽くすしかなかった。
あまりにも突然の出来事で、何も、言葉にできなかった。
事件後、宮廷の空気は目に見えて変わった。
王家からの正式な発表こそまだ控えられていたが、あの夜の騒動――
すなわち、ワイマラナー・カザ侯爵令息による“番”の暴走事件――は、瞬く間に上流階級に広がっていった。
他家の貴族たちは一様に沈黙を守った。
誰もが表面上は「遺憾である」と繰り返しながら、裏ではあわただしく情報を集め、
「次は我が家が巻き込まれぬように」と根回しに奔走していた。
さらに世間を揺るがしたのは、
「抑制されているはずの“番の衝動”が発現した」という事実だった。
これは貴族社会の土台である“政略婚”を揺るがす重大な問題であり、明確に国の管理下にある縁鎮剤の“効能そのもの”に疑問を投げかけるものだった。
「王城であのような振る舞いは、本来ありえない 」
「それでもあの衝動は…、薬に何か欠陥があるのではないか?」
薬の信ぴょう性を疑う声が、王城の内外に着実に広まり始めていた。
そして――婚約破棄されたクララ・アセイトゥーナの名は、
しばらくのあいだ、貴族たちの間で静かに、けれど確実にささやかれることとなった。
「お気の毒に」「まさか目の前であんなことが起こるなんて」「令嬢に落ち度はなかったのか」
そんな声が交錯するなか、“悲劇の令嬢”という立場が、皮肉にも彼女の名を広めていった。
社交の場で出会えば、同情めいた言葉が寄せられ、
中には「新たな縁談」をちらつかせる者さえ現れはじめる。
だがクララ自身は騒がれる中心にありながら、ただ静かに、静かに日々を過ごしていた。
そして彼女は、すべての喧騒を背に、領地へと帰ってきたのである。
◇◇◇
次に目を覚ましたとき、窓の外は淡い朝の光に染まっていた。
どこかで鳥が鳴いている。少し肌寒いが、空気は澄んでいた。
まだ、夢と現実の狭間にいるような、そんなふわりとした感覚が残っていた。
それでも、寝起きに感じたのは不思議な安堵――昨夜よりも、ほんの少しだけ息がしやすい気がした。
部屋のドアをノックする音。
「おはようございます、お嬢様。ご朝食のご用意ができております」
アオイの声だった。
落ち着いた、優しい声。
いつもどおりで、でも少し、柔らかくなった気がした。
「……ええ。今行くわ」
唇の端に、自然と浮かんだ笑みは、たぶん私自身が一番驚いていた。
今日は、ほんの少しだけ違う予感がしていた。
「お嬢様、今朝のスープはじゃがいものポタージュです。お好きだったでしょう?」
椅子に腰を下ろすと、アオイがふんわりと微笑みながら温かな皿を並べてくれた。パンには自家製のバターが塗られ、小さな花の蜜も添えられている。
「昨日より顔色が良いですね。……このスープ、三口は飲んでください。いい子ですから」
「……アオイ、子供扱いしないで」
「失礼。でも小さい頃は、よくこうして口まで運んでいた気がします。……口開けて?」
「っ……しないわよ!」
くすくすと笑い合いながら、私はスプーンを手に取った。アオイは少し得意げに、立ったまま私の食事を見守っている。
「お嬢様、一昨日、子羊が生まれたそうですよ。体調がよろしければ、見に行かれませんか?」
アオイの誘いに、私はゆっくりと頷いた。
馬車を降り、なだらかな丘を歩く間、アオイは私の足元をちらちらと見ながら、歩幅を合わせてくれた。
「お嬢様、こっちは少しぬかるんでます。僕の首に捕まってください」
「……首? え、それって……まさか、抱える気?」
「そうですね。できればその方が早いですし、確実です」
「アオイ……」
苦笑しながらも、私はそっと彼の袖をつかんだ。
風が髪を優しく揺らす。丘の上は陽射しがやわらかく、子羊の鳴き声が微かに聞こえていた。
かつての私は、先へ駆け出す風のようだった。
アオイはその背中をよく追いかけてくれていた。
袖をつかんだまま、歩くリズムがゆっくりと重なっていく。
また風が、私の髪を優しく揺らした。
◇◇◇
すべての始まりは、一通の匿名の封書だった。
宛先は王城・内政監査局。差出人不明のまま届けられたその書状には、こう記されていた――
「カザ侯爵令息は縁鎮剤を処方されていたにもかかわらず、長期間にわたり服用を怠っている。
服用記録の偽造に関する証拠を提出する。現現物の残薬も確認されたため、早急なる調査を求む」
迅速かつ内密に実施された調査の結果、令息の縁鎮剤服用記録に不自然な改ざんが認められた。
カザ侯爵家への供給記録と、侯爵家側の申請・管理履歴に明らかな齟齬があることを確認され、さらに調査の過程において、カザ侯爵家が本件の発覚を恐れて処方薬の隠蔽・処分を試みていた事実も判明した。その際、未開封のまま保管されていた複数の縁鎮剤が発見され、証拠として押収されるに至った。
王家はついに、公式にこの件の「違法性と偽証」を認定した。
「――縁鎮剤の服用は当然の義務とされていた。匿名の通報がなければ見落とされていた恐れがあり、国の信用を揺るがしかねない重大な違反行為だ。」
そう王室監査官が語るほどに、この“偶然の告発”は、重い意味を持つものとなった。
「該当人物が、少なくとも過去1年間、縁鎮剤を一切服用していなかった事実が明らかとなりました」
室内が静まりかえる。
「記録されていた服用報告は虚偽。薬の成分反応も確認されず。調査官の追跡照会によって、令息が自己判断で“薬を忌避していた”ことが判明しております」
「……まさか、自らの意思で?」
「ええ。副作用が強かったのか、“本能は抑えられる”という驕りがあったのか。結果、外交儀礼を著しく損なう一大醜聞となりました」
誰もが息を呑んだ。
この件をもって、王家は公式に――
「婚約破棄は令嬢クララ・アセイトゥーナに一切の落ち度なし」
「全責任はワイマラナー・カザ侯爵令息にあり」
――との声明を出すに至った。
そしてクララは婚約解消ではなく、元婚約者全面有責による破棄となったのである。
◇◇◇
あれは、まだ僕が屋敷に来て間もない頃。
背丈も今よりずっと低くて、言葉遣いも拙くて、毛並みもまだ柔らかいままだった。
お嬢様――クララ様は、当時から不思議な子だった。
使用人の子供だった僕にも、年が近いというだけで、隔たりなく声をかけてくれた。
まるで動物の言葉がわかるかのように、自然と距離を縮めてしまう子だった。
放牧中の子牛も、逃げる羊も、なぜかクララ様のそばに行くと、すんなりと大人しくなってしまう。
「アオイ!羊って、どこを撫でたら一番喜ぶか知ってる?」
「え、えっと……頭の横とか、耳の根元……とか……?」
「ほら見てアオイ!逃げてたこの子、寄ってきた~♪」
「うわ、ほんとだ……え、なんで……?」
「うふふ、いい子ね~。よしよし、怖くないよ~♪」
にこにこと笑って、羊の角の根元を撫でる彼女の手は、本当にやさしかった。
「うわっ、この子ペロペロ舐めてくる~!ぬるぬるするぅ~!アオイ、タオル!!」
「自分で拭いてくださいよぉ……もうベタベタですよクララ様!」
貴族なのに。
舐められまくって、髪も服もぐしゃぐしゃになってるのに、
「ふふっ、なんか懐かれちゃった♪」って。
僕は、初めてその光景を見たときのことを、今でもよく覚えている。
風が気持ちよくて、草の匂いがして、羊が不思議と笑っているように見えた。
ある日のこと。
地下の片付け中、僕は足場を踏み外し、なかなかの高さから落ちた。
持っていたティーセットを死守しようとして、無理な体勢で落ちたせいで背中を強打し、肘を派手にすりむき、尾もしたたかにぶつけた。
痛みで、しばらくは声さえ出なかった。
「アオイ……っ、どうしたの!?血!!!!血がいっぱい出てるわ!?」
なかなか戻らない僕を心配して、探しに来てくれたクララ様が叫びながら駆け寄ってきた。
「平気です、すぐ治りますから。ほんのかすり傷ですし」
「かすり傷!?これが!?見て!この肘、皮が……皮がないわよ!?ティーセットなんかより、自分の体を大事にしなさいよ!」
「……でも、お気に入りっておっしゃってましたし。割れたら怒るかなって」
「バカ!!誰がそんなことを怒るって言ったの!?怒るわけないでしょ!?何それ!?そんなことで怪我されるほうがよっぽど怒るわよ!……もう、ほんとに……っ」
クララ様の声がかすれた。
目が潤んでいて、手もふるふる震えている。
そんな手で、彼女はそっと自分のハンカチを取り出し、僕の肘に巻いた。
「ごめん、痛くない?痛いよね……」
たどたどしい手つきだけど、丁寧で一生懸命で――
僕は、なんだか変な気分だった。胸の奥が少しずつ熱くなっていく。
「背中は?尾っぽは?……ちょっと、見せて?」
「そ、それは……ちょっと……」
「背負うわ!」
「……え」
「背中を打ったんでしょ?それに尾も。立てないってことじゃない。だったら、私が運ぶわ!」
「いや、それは無理です。クララ様、僕の方が重――」
「むっ……むっっ……無理だわ……!!」
「痛っ……」
「ご、ごめんなさいっ!アオイ、今、誰か呼んでくるから!絶対動かないでね!?動いちゃダメよ!?!!!」
「…はい……」
「アオイ~~~!!死んじゃダメぇ~~~!!」
全力で駆け出していくクララ様の背中を、僕はぽかんと見送った。
たぶん、大丈夫。
死には……しないと思う。
(少し変な子だとは思ってたけど……)
僕のために、あんなに泣きそうな顔をして、全力で心配して、叫んで、走ってくれる人がいる――
それが、なんだか不思議で、あたたかくて、どこか痛かった。
(あの人は、僕のためにあんな顔をしてくれる)
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚が生まれた。
不思議だった。
(この人にとって、自分が「心を動かす存在になれた」ような気がした)
ティーセットは守れて、尾は痛かったけど――それ以上に、大事なものを得た気がしていた。
それが何を意味するのかは、当時の僕にはまだわからなかったけれど、
その日から、僕は自然とクララ様の姿を目で追うようになった。
笑った顔が見たくて、悲しんでいたら助けたくて、
気づけば、心は彼女のことばかりを考えていた。
――もしかしたら、あれが始まりだったのかもしれない。
この胸に、仕える以上の想いが芽生えた、最初の瞬間。
間違いなく、あのときから僕の世界は、
彼女の笑顔を中心に回りはじめたのだ。
彼女が笑ってくれるだけで、一日が明るくなる。
逆に、曇った顔をされると、胸の奥がひどくざわついた。
何かできることはないかと、子どもながらに必死で考えた。
「クララ様の役に立てる自分でいたい」――
それが、僕の原動力になった。
どんな形であれ、傍にいたいと願っていた。
守りたいと、心からそう思っていた。
その想いは、今でも変わらない。
むしろ――年月を重ねるほどに、
深く、強くなっている。
◇◇◇
「ちょっと甘いかも」と言っただけだったのに。
まさかその一言が、厨房をこんなに混乱させるなんて。
食堂に入ると、いつもの席にずらりと、一口サイズのマドレーヌが可愛らしく連なっている。
「こちらは蜂蜜の量を、これはミルクの量を変えています。三番目と四番目は粉の違い、五番目は…」
「ちょっと、アオイ。これは……何の実験?」
「お嬢様のあの一言を聞いたとき、お嬢様の理想の甘さを見極めたくなりまして。こだわりました。」
完璧な笑顔だった。
でもその背後では、使用人たちがこっそり壁にもたれてぐったりしていた。
ごめんなさい、そこまで深い意味じゃなかったのよ。
「もう……全部おいしいから、これで」
「かしこまりました。では一旦こちらで」
一旦の意味が怖いけど、大丈夫かしら。
でも――どれも本当に美味しくて、気づけば黙って食べていた。
またある日は――
庭園の片隅、木々の陰に静かに寄り添うように建つ東屋。その中のテーブルにかけられた白いクロスが、そよ風にやさしく舞い上がっていた。色とりどりのケーキやマカロン、一口サイズのサンドイッチ、ぬるすぎず熱すぎない完璧な温度のハーブティー。
「……アオイ、まさかこれ全部、今日のためだけに?」
庭園を見たいと伝えただけで、どうしてこんな騒ぎに。
「はい。お嬢様に最適なひとときをお届けすることが、僕の使命ですから」
(使命、ってなに?)
まわりの使用人たちの顔がものすごく微妙だった。
なかには“お嬢様、がんばってください”って目で見てくる子までいて、もう笑うしかない。
「ねえ、アオイ。あなたが隣にいるだけで、私は十分気持ち良く過ごせているのよ?」
「……恐れ入ります。」
どこまでも真面目で、どこまでも私に一途で、たまに困る。
でも、こんな風に大事にされるのも、悪くない――と思ってしまう自分がいるのだった。
ある日、外出先から部屋に戻ると、どこか様子が変わっていた。
いや、正確には――ふかふかの羽毛布団、ほのかに漂うラベンダーとカモミールの香り、妙なポーズの人形。そしてカーテンは、落ち着いた色味の遮光性のある生地に替えられていた。
「アオイ、これは……?」
「はい。お嬢様の快眠環境を整えるために、ほんの少しだけ改装を」
「えっ、いつの間に?ていうか“改装”って何?」
「前回はベッドを南東向きに動かしただけでしたから。今回は“第二段階”です。ご意見、お待ちしております」
「……“第二段階”!?ていうか、その人形!なんであんなポーズしてるの!?」
「安眠とリラックスを促すポーズだそうです。」
「こわいわ!!」
ちょっと散歩に出ようとしたときのこと。
薄手のコートを羽織ろうとした私に、アオイがいつになく真剣な顔で告げた。
「お嬢様、そのコートでは不十分です。こちらをどうぞ」
「……え、今日晴れてるわよね?青空出てるじゃない」
「ええ、ですが十五分後に微細な霧が発生します。風も一時的に北寄りに変わる見込みです。こちらの素材なら保温性もばっちりです」
「なにその気象情報!?」
「あと、足元ですが――西の小道、ぬかるみ率60%。替えの靴とタオル、そして僕が抱える準備はできていますのでご安心を」
「ぬかるみ率って何!?抱えないで!歩けるわよ私!!」
「承知しました。では念のため、背負う用の装備だけ持参します」
「装備って何よ!!」
アオイの腕には替え靴・防水カバー・足拭きタオルのほか、何やら折りたたまれた背負子まで揃っていた。
毎日が過保護で。
でもふとした瞬間、アオイのそんな過保護さが恋しくなる自分がいる。
それがちょっと悔しい。けど、たぶん――くすぐったくて嬉しい。
毎日、思いもかけないアオイの甘やかしに囲まれて、いつのまにか、あれほど痛んでいた元婚約者のことを思い出すことも少なくなっていた。
◇◇◇
僕は獣人だ。
そして、縁鎮剤の“意味”も、“重み”も知っている。
それを副作用とはいえ拒むというのは――法を踏みにじるだけでなく、
婚約者に「リスクを一方的に背負わせた」ということ。
そのせいで、クララ様が傷ついた。
クララお嬢様には、何ひとつ落ち度などない。
あの夜会で彼――クララ様の元婚約者は、突如として“番”の衝動を起こした。
そして、その対象となったのは、
隣国からの来賓である、現王弟の妃――だった。
これが何を意味するか。
“単なる失態”では済まされない。
夜会の翌朝、冷えきった空気の中で、国王陛下の第一声は、情の一切を排したものだった。
「外交儀礼を欠いたどころではない。我が国そのものの信用が問われることになる。――カザ侯爵家の令息が起こした騒動は、明らかに外交無礼を超えた“敵対行為”に等しい。」
陛下はゆっくりと机上の書状を手に取り、そこには隣国からの公式な抗議文が記されていた。
「……当国の王弟妃殿下が、貴国貴族により“番認識”の対象として強引な接触を受けた。これは、婚姻の尊厳を貶める行為であり、外交上の侮辱と解釈せざるを得ない――」
「当該令息は、すでに王家の監督下にて拘束され、隔離施設へと移送されている」
王の口調は静かだが、すでに事実上の“幽閉”処分が下されていることを意味していた。
「……この一件について、令嬢に非がなかったことは、当日の状況から確認済みだ。よって、これ以上の影響を避けるためにも、アセイトゥーナ伯爵。ご息女クララ嬢と、カザ侯爵令息との婚約について――即刻、白紙に戻すことを勧告する」
これは命令ではない――だが、それ以上に強い“通達”だった。
アセイトゥーナ家にこれ以上の責任を問う気はない、速やかに関係を断て。
それが、王の意志だった。
アセイトゥーナ伯爵は深く、静かに頭を垂れた。
夜会の騒動の報が広まり始めた直後、アオイは即座に動いていた。
クララがしばらく領地で静養するかもしれないので予め準備をするように――アセイトゥーナ伯爵からの書簡には、王家からの通達内容が記されていた。
その中には、“婚約解消”の知らせも簡単に添えられており、アオイは強い憤りを覚えた。
(このままでは、お嬢様の名がただ“番がみつかって婚約解消された令嬢”という形で記録に残る。それは、僕には――許せなかった)
お嬢様の名誉を、こんな形で終わらせるわけにはいかない。
“縁鎮剤”の効果は獣人であればよくわかっている。服用していて暴走するなどあり得ない。
あれは、“番”としての結びつきを阻害するための薬だ。
もしすでに“番”と出会っている場合は、成人後に服用を続けることで、衝動や暴走を抑える役割を果たす。逆に、まだ“番”に出会っていない場合には、将来的に出会ったとしても、その相手を“番”だと本能が認識しにくくなる――つまり、繋がりそのものを阻むことになるのだ。
(おそらく…彼は服用していなかったのでは?)
“縁鎮剤”管理の不備”があったとされれば、有責事項を増やせる。
服用義務を怠っていた事実が判明すれば、婚約関係は「番が見つかったことによる婚約解消」では済まされない。この事案において責任の所在は明白であり、婚約関係は単なる解消ではなく、一方的な「破棄」として正式に扱われるべきだ。
まず、彼の服薬拒否の証拠を集めた。
王都の薬局に残された「副作用が疑われる体調変化」についての聞き取り記録。
診療所に提出された診察記録、薬の受け取り履歴、服薬残量の帳簿。
これら一連の資料は、令息が初回服用時に生じた軽微な副作用をきっかけに、長期間にわたって縁鎮剤の服用を中断していたことを明確に示していた。
重要なのは、それが単なる過失ではなく――
本人の意図による明確な服薬拒否であったという点だ。
それらの証拠を、王城・内政監査局へ匿名で速やかに提出した。
もちろん、その情報が誰から来たかなど、表には出ない。
提出者の身元は、正式な“守秘保護枠”の中で処理された。
根本原因が――「服用義務の放棄」という、ただの怠慢であったこと。
結果――
ワイマラナー・カザ当人は、貴族籍から強制的に抹消、“隔離”処置となった。
彼の家門は“監督責任”を問われ、家名にも傷がついた。
政略結婚が破綻した上に、その理由が「自家の愚息の法令違反」では、擁護の余地もない。
さらに 本件の発覚を恐れて処方薬の隠蔽・処分を試みていた事実も発覚した。
カザ侯爵家の爵位は降格、現当主は家督を退き、近縁の分家筋より新たな当主を“養子”として迎え、改めて家名の再建に努めることになった。
さらに隣国には謝罪の意を示す使節団が速やかに派遣され、王国として誠意ある対応をもって国交の早期回復に努めた。
またクララ・アセイトゥーナ嬢との婚約は解消でなく破棄とし、有責は全面的にワイマラナー側にあると国として明文化。
金銭的慰謝料は貴族間でも前例のない高額が課された。政略的価値があった婚約を毀損したことに対する損害賠償も含め、支払いが滞った場合には、カザ家が保有する領地の一部を担保として提供することになった。
なおカザ家は今後いかなる形式においても、クララ・アセイトゥーナ嬢またはアセイトゥーナ家への接触を禁じられる。違反時は国家への反逆行為と見なされ、厳罰に処すと王命が下された。
その後、ひとつの報告が入った。
「元婚約者殿、療養先でも抑制がうまくいかず、
現在は“接触制限”処置下で拘束状態だそうです。
……すっかり“番症”の後遺症が出ているそうで」
番症。
一方的に番の本能に火がついてしまい、相手と接触できぬまま精神を蝕まれる状態。
それはもはや、獣人としての終着点のひとつだった。
その報告を聞いたあと、僕はただ、静かに紅茶を淹れた。
お嬢様が庭で読書をしている姿を見つけると、迷わずそっと毛布をかけた。
過去の痛みを彼女の胸から遠ざけ、決して思い出させない。
クララが穏やかに笑い、あたたかな日々を過ごせるように――。
再び社交界に戻ったときに、憂いなく堂々と振る舞えるように疑念を払拭する。
僕はどれだけでも、冷たい手を動かせる。
名誉も、未来も、日常も、すべて守る。
彼女は何も知らないままでいい。
それが、“平和を尊ぶはずの羊獣人”であるアオイの、異端ともいえる愛し方だった。
領地の屋敷の庭は、ちょうど夕方の光が差し込むころだった。
◇◇◇
色づいた薔薇が風に揺れ、ほんのりと土の香りがする。
そんな中、私は一人、届いたばかりの報告書を手にしていた。
同封されていた報告書は二通あった。
一通は、当該の事件に関して婚約解消ではなく破棄となったことを伝える、父からの報告書だった。
もう一通は、おそらく父がこっそり混入させた書類――
見慣れた端正な字で、書面のすべてが綴られていた。
”縁鎮剤”未服用の事実と、それを知って隠蔽に動いた人物。
私が傷つかないように、王家や外部に働きかけた記録。
そして、最後に記されていた、執筆者の名。
アオイ・ガルエ
そっと紙の端を撫でる。
あなたはすべてを知っていて、動いていた。
私を守るために。
私の名前を、家を、未来を、守るために――
その夜。
「アオイ」
庭で夜風にあたりながら、彼に声をかける。
アオイは、すっと背を伸ばして振り返った。
「はい。何か、ご用でしょうか」
「…ううん、なんでもない。あ、でも……寒くなってきたから、お茶が飲みたいな。私の好きな、あの甘いやつ」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
彼はいつも通りだった。
変わらず、控えめで、丁寧で、過剰なまでに私に甘い。
私は少しだけ笑って、小さく呟いた。
「ねえアオイ。……ありがとう」
「……え?」
「なんでもない。」
あなたが黙って守ってくれるなら、私は黙って、それを受け取る。
だって今の私はもう、
あなたが影で戦ってくれていることを、ちゃんと知っているから。
そして――私もまた、
その優しさのすべてを、守りたいと思ってしまったのだから。