湖底の囁き
1.
八月の陽射しは容赦なく、蝉の声が耳をつんざくように響いていた。遥花は、汗で額に張り付いた前髪を払いながら、霧谷村のバス停に降り立った。
東京から五時間の長旅だった。都会の広告代理店での過労とストレスに疲弊し、母方の祖母・静江の訃報を機に、この山奥の村に帰ってきた。遺品整理のためとはいえ、子供の頃の夏の思い出が詰まったこの村は、どこか不穏な空気を漂わせていた。
特に、村の中心にある「霧ノ湖」
子供の頃、祖母から「湖には古い神様がいる。決して近づくな」と繰り返し言われた。だが、子供心にその警告は好奇心を掻き立てた。湖畔で遊んだ記憶は、懐かしさと同時に、名前のない不安を呼び起こす。バスが山道を揺れ、窓の外に湖の水面がキラキラと光るのを見たとき、遥花の胸に冷たいものが広がった。祖母の家は、湖を見下ろす丘に建つ古い木造家屋だった。
軋む床と湿った匂いが、過去の夏を思い出させた。迎えに来た従兄の翔太は、三十歳を過ぎた日焼けした顔に疲れた笑みを浮かべていた。
「久しぶりだな、遥花。元気だったか?」
彼の声は温かかったが、どこかぎこちなかった。
その夜、祖母の寝室だった部屋で寝袋にくるまる遥花。窓の外から、カエルの鳴き声と風に揺れる木々の音が聞こえる。
だが、深夜、目を覚ましたとき、別の音が耳に届いた。
「…はるか…」
女の声。湖の方角から響く囁きに、遥花は飛び起きた。心臓が早鐘のように鳴り、冷や汗が背中を伝う。
気のせいだと自分に言い聞かせたが、眠気は完全に吹き飛んでいた。
2.
翌朝、遥花は祖母の遺品整理を始めた。古い箪笥の中から見つけたアルバムには、子供の頃の自分が湖畔で笑う写真が並んでいた。
だが、一枚の写真に目が止まる。湖を背景に、知らない少女が写っている。白いワンピースに長い黒髪、カメラを見ず、湖の奥をじっと見つめるその姿は、どこか不自然にぼやけていた。
「この子、誰?」
遥花は翔太に尋ねた。彼の顔が一瞬こわばる。
「…さあ、覚えてないな。昔の友達じゃないか?」
曖昧な答えに、遥花は違和感を覚えた。記憶にない少女の顔が、頭から離れない。村の夏祭りの準備を手伝うため、遥花は湖畔に足を運んだ。昼間の霧ノ湖は美しく、陽光を反射して鏡のようだった。
だが、水面を見つめると、背筋がゾクッとした。
村の古老、佐藤のおじいさんが、タバコを燻らせながら話しかけてきた。
「霧ノ湖には、『水の女』が棲むって話があるよ。戦前、疫病から村を救うため、若い娘が湖に身を投げた。それ以来、湖は神聖な場所だが…夜になると、声が聞こえる。よそ者を呼ぶんだ」
「よそ者?」
遥花は眉をひそめた。
「都会から来た人間は、湖の声に弱い。昔、湖に消えた人間もいた。みんな、呼ばれたんだよ」
佐藤さんの目には、恐怖と諦めが混じっていた。
その夜、遥花は再び湖の声を聞いた。
「はるか…来て…」
甘く誘うような声に、恐怖と好奇心が交錯する。懐中電灯を手に湖畔に向かうと、水面に少女の姿が映った。白いワンピース、長い黒髪。彼女が近づくにつれ、湖の水が這い上がるように動き、冷たい手が足首をつかんだ。
「ひっ!」
遥花は叫び、懐中電灯を落とした。闇に包まれた瞬間、凍えるような感触が全身を貫いた。気がつくと、彼女は湖畔に倒れ、足首には青黒い痣が残っていた。
3.
翌朝、翔太に助けられた遥花は、祖母の家で震えていた。
翔太は「夜中に湖に行くなんてバカだ」と叱ったが、目は湖を避けるように逸らしていた。遥花は祖母の遺品から、古い木箱を見つけた。中には黄ばんだ手帳と、黒い石の勾玉が入っていた。
手帳は祖母のものだった。滲んだ文字には、湖の秘密が綴られていた。
「霧ノ湖は村の命を繋ぐ神聖な場所。だが、代償として、湖は人の命を求める。戦前、疫病から村を救うため、神主の娘・美鈴が湖に身を投げた。彼女の魂は湖に宿り、よそ者を呼ぶ。湖の声を止めるには、彼女の遺骨に勾玉を返すこと。だが、湖はそれを許さない」
遥花は子供の頃、湖畔で「美鈴ちゃん」と呼ぶ声を聞いた記憶が蘇った。曖昧な記憶だったが、胸の奥に冷たい不安が広がる。翔太に手帳を見せると、彼は顔を強張らせ、「そんな昔話、気にするな」と吐き捨てた。
だが、遥花は気づいていた。翔太も何かを知っている。村の夏祭りが翌日に迫る中、遥花は湖の声を無視できなくなっていた。夜ごと聞こえる囁きは、ますますはっきりしていた。
「はるか…一緒に…」
声は甘く、だが怨念が潜む。ある夜、眠りに落ちた遥花は湖に引き込まれる幻を見た。暗い水底で、美鈴の空洞のような目が彼女を見つめる。
「なぜ私を忘れた?」
その声に、遥花は勾玉を握りしめた。勾玉が熱を帯び、微かな光を放つと、美鈴の姿が後退した。遥花は汗だくで目を覚ました。
4.
夏祭りの日、湖畔は提灯の明かりで彩られた。村人たちは笑顔で準備を進めるが、その裏には緊張が漂う。
祭りは湖の神を鎮める儀式だが、近年、その力が弱まっていると囁かれていた。遥花は勾玉を握り、湖の秘密を解く決意を固めた。
美鈴の遺骨は湖底にある。勾玉を捧げれば、彼女の魂は解放される。祭りのクライマックス、太鼓の音が響く中、湖の水面が不気味に沸き立った。提灯の暖かな光と、冷たい水の対比が、場を異様な雰囲気に包む。
村人たちがざわめき始め、突然、誰かが叫んだ。
「水が…動いてる!」
水面に無数の影が浮かび、怨霊の囁きが響き合う。
村人たちは幻覚に襲われ、湖に引き寄せられるようにふらついた。遥花もまた、水底に引き込まれる幻を見た。
暗い湖底には、美鈴だけでなく、過去の犠牲者たちの影が蠢いていた。彼女たちの怨念が、湖を闇で満たす。
「お前もここに残れ」と囁く声に、遥花は恐怖で息が詰まった。
だが、勾玉が再び熱を帯び、光を放つ。美鈴の姿が一瞬怯む。遥花は力を振り絞り、湖に潜った。冷たい水が全身を締め付ける中、岩の隙間に白い骨を見つけた。
美鈴の遺骨だ。勾玉を捧げると、水底が激しく揺れ、怨霊の絶叫が響いた。遥花は意識を失った。
5.
気がつくと、遥花は湖畔に打ち上げられていた。
祭りは終わり、村人たちは放心状態で立ち尽くす。
湖は静かになり、朝日が水面を照らしていた。翔太が駆け寄り、「もう大丈夫だ」と呟いたが、目は湖を避けていた。
遥花は祖母の家で最後の夜を過ごし、東京に戻る準備をした。だが、窓の外から、かすかな囁きが聞こえた。
「はるか…」
湖はまだ彼女を呼んでいるのか、それとも新たな魂が目覚めたのか。勾玉はもう手元にない。遥花は震えながら、都会の喧騒に逃げるように村を後にした。