表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

湖底の囁き

作者: 憂月

1.

八月の陽射しは容赦なく、蝉の声が耳をつんざくように響いていた。遥花ようかは、汗で額に張り付いた前髪を払いながら、霧谷村のバス停に降り立った。


東京から五時間の長旅だった。都会の広告代理店での過労とストレスに疲弊し、母方の祖母・静江の訃報を機に、この山奥の村に帰ってきた。遺品整理のためとはいえ、子供の頃の夏の思い出が詰まったこの村は、どこか不穏な空気を漂わせていた。


特に、村の中心にある「霧ノ湖」


子供の頃、祖母から「湖には古い神様がいる。決して近づくな」と繰り返し言われた。だが、子供心にその警告は好奇心を掻き立てた。湖畔で遊んだ記憶は、懐かしさと同時に、名前のない不安を呼び起こす。バスが山道を揺れ、窓の外に湖の水面がキラキラと光るのを見たとき、遥花の胸に冷たいものが広がった。祖母の家は、湖を見下ろす丘に建つ古い木造家屋だった。


軋む床と湿った匂いが、過去の夏を思い出させた。迎えに来た従兄の翔太は、三十歳を過ぎた日焼けした顔に疲れた笑みを浮かべていた。


「久しぶりだな、遥花。元気だったか?」


彼の声は温かかったが、どこかぎこちなかった。

その夜、祖母の寝室だった部屋で寝袋にくるまる遥花。窓の外から、カエルの鳴き声と風に揺れる木々の音が聞こえる。


だが、深夜、目を覚ましたとき、別の音が耳に届いた。


「…はるか…」


女の声。湖の方角から響く囁きに、遥花は飛び起きた。心臓が早鐘のように鳴り、冷や汗が背中を伝う。


気のせいだと自分に言い聞かせたが、眠気は完全に吹き飛んでいた。


2.

翌朝、遥花は祖母の遺品整理を始めた。古い箪笥の中から見つけたアルバムには、子供の頃の自分が湖畔で笑う写真が並んでいた。


だが、一枚の写真に目が止まる。湖を背景に、知らない少女が写っている。白いワンピースに長い黒髪、カメラを見ず、湖の奥をじっと見つめるその姿は、どこか不自然にぼやけていた。


「この子、誰?」


遥花は翔太に尋ねた。彼の顔が一瞬こわばる。


「…さあ、覚えてないな。昔の友達じゃないか?」


曖昧な答えに、遥花は違和感を覚えた。記憶にない少女の顔が、頭から離れない。村の夏祭りの準備を手伝うため、遥花は湖畔に足を運んだ。昼間の霧ノ湖は美しく、陽光を反射して鏡のようだった。


だが、水面を見つめると、背筋がゾクッとした。

村の古老、佐藤のおじいさんが、タバコを燻らせながら話しかけてきた。


「霧ノ湖には、『水の女』が棲むって話があるよ。戦前、疫病から村を救うため、若い娘が湖に身を投げた。それ以来、湖は神聖な場所だが…夜になると、声が聞こえる。よそ者を呼ぶんだ」


「よそ者?」


遥花は眉をひそめた。


「都会から来た人間は、湖の声に弱い。昔、湖に消えた人間もいた。みんな、呼ばれたんだよ」


佐藤さんの目には、恐怖と諦めが混じっていた。

その夜、遥花は再び湖の声を聞いた。


「はるか…来て…」


甘く誘うような声に、恐怖と好奇心が交錯する。懐中電灯を手に湖畔に向かうと、水面に少女の姿が映った。白いワンピース、長い黒髪。彼女が近づくにつれ、湖の水が這い上がるように動き、冷たい手が足首をつかんだ。


「ひっ!」


遥花は叫び、懐中電灯を落とした。闇に包まれた瞬間、凍えるような感触が全身を貫いた。気がつくと、彼女は湖畔に倒れ、足首には青黒い痣が残っていた。


3.

翌朝、翔太に助けられた遥花は、祖母の家で震えていた。


翔太は「夜中に湖に行くなんてバカだ」と叱ったが、目は湖を避けるように逸らしていた。遥花は祖母の遺品から、古い木箱を見つけた。中には黄ばんだ手帳と、黒い石の勾玉が入っていた。


手帳は祖母のものだった。滲んだ文字には、湖の秘密が綴られていた。


「霧ノ湖は村の命を繋ぐ神聖な場所。だが、代償として、湖は人の命を求める。戦前、疫病から村を救うため、神主の娘・美鈴が湖に身を投げた。彼女の魂は湖に宿り、よそ者を呼ぶ。湖の声を止めるには、彼女の遺骨に勾玉を返すこと。だが、湖はそれを許さない」


遥花は子供の頃、湖畔で「美鈴ちゃん」と呼ぶ声を聞いた記憶が蘇った。曖昧な記憶だったが、胸の奥に冷たい不安が広がる。翔太に手帳を見せると、彼は顔を強張らせ、「そんな昔話、気にするな」と吐き捨てた。


だが、遥花は気づいていた。翔太も何かを知っている。村の夏祭りが翌日に迫る中、遥花は湖の声を無視できなくなっていた。夜ごと聞こえる囁きは、ますますはっきりしていた。


「はるか…一緒に…」


声は甘く、だが怨念が潜む。ある夜、眠りに落ちた遥花は湖に引き込まれる幻を見た。暗い水底で、美鈴の空洞のような目が彼女を見つめる。


「なぜ私を忘れた?」


その声に、遥花は勾玉を握りしめた。勾玉が熱を帯び、微かな光を放つと、美鈴の姿が後退した。遥花は汗だくで目を覚ました。


4.

夏祭りの日、湖畔は提灯の明かりで彩られた。村人たちは笑顔で準備を進めるが、その裏には緊張が漂う。


祭りは湖の神を鎮める儀式だが、近年、その力が弱まっていると囁かれていた。遥花は勾玉を握り、湖の秘密を解く決意を固めた。


美鈴の遺骨は湖底にある。勾玉を捧げれば、彼女の魂は解放される。祭りのクライマックス、太鼓の音が響く中、湖の水面が不気味に沸き立った。提灯の暖かな光と、冷たい水の対比が、場を異様な雰囲気に包む。


村人たちがざわめき始め、突然、誰かが叫んだ。


「水が…動いてる!」


水面に無数の影が浮かび、怨霊の囁きが響き合う。

村人たちは幻覚に襲われ、湖に引き寄せられるようにふらついた。遥花もまた、水底に引き込まれる幻を見た。


暗い湖底には、美鈴だけでなく、過去の犠牲者たちの影が蠢いていた。彼女たちの怨念が、湖を闇で満たす。


「お前もここに残れ」と囁く声に、遥花は恐怖で息が詰まった。


だが、勾玉が再び熱を帯び、光を放つ。美鈴の姿が一瞬怯む。遥花は力を振り絞り、湖に潜った。冷たい水が全身を締め付ける中、岩の隙間に白い骨を見つけた。


美鈴の遺骨だ。勾玉を捧げると、水底が激しく揺れ、怨霊の絶叫が響いた。遥花は意識を失った。


5.

気がつくと、遥花は湖畔に打ち上げられていた。


祭りは終わり、村人たちは放心状態で立ち尽くす。

湖は静かになり、朝日が水面を照らしていた。翔太が駆け寄り、「もう大丈夫だ」と呟いたが、目は湖を避けていた。


遥花は祖母の家で最後の夜を過ごし、東京に戻る準備をした。だが、窓の外から、かすかな囁きが聞こえた。


「はるか…」


湖はまだ彼女を呼んでいるのか、それとも新たな魂が目覚めたのか。勾玉はもう手元にない。遥花は震えながら、都会の喧騒に逃げるように村を後にした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ