4話 無能さを露呈する「元」婚約者様
(自分の立場が本当によくわかっていないのね。それとも、侯爵夫妻は彼に何も伝えていないのかしら?)
ありえない。婚約の当事者である以上、彼が知らされていないはずがない。未成年の身であったアルテイシアですら、父親から婚約破棄に関する取り決めや期間について知らされていたのだから。
(でも、この様子……。百歩譲って考えても、絶対に知らされていないっていう感じよね)
そもそも事前に知っていたなら、今さら「婚約破棄」などと得意げに言い出すはずがない。
(それとも、私を公衆の面前で貶めて恥をかかせようとでも?)
そんな知恵が回るだろうか。アルフレッドは短慮で直情的な性格であり、感情がそのまま筋肉を動かす典型的な脳筋タイプだ。思慮の浅さゆえに事態を悪化させることには長けているが、策略を巡らせるような器用さはない。
そんな彼の様子を観察していると、突然、パフィーネが泣き出した。その姿を目にしたアルフレッドは、彼女を優しく抱き寄せ、慰めるように言葉を並べ立てる。
だが、その腕の隙間から覗く彼女の瞳には、明らかな愉悦の色が滲んでいた。
(ほぉーん、なるほど。やっぱり仕掛けたのは彼女、ってわけね。とんだ女狐だわ)
ほぼ目論見は成功しているようだが、――詰めが甘い。
貴族社会において何より重視されるのは体面であり、それは信頼へと繋がり、やがて利益を生む。そして社交界には強固なネットワークがあり、異分子は容赦なく排除されるもの。
エーデワルト家は国王の信任も厚く、国内の商業圏をほぼ牛耳る名門貴族だ。その家を敵に回すことがどれほどの意味を持つか、社交界で無知を晒す貴族などほとんどいない。敵意があろうとなかろうと、その影響力にすり寄るのが貴族という生き物なのだから。
とはいえ、アルテイシアにとって他人の行く末などどうでもいい。
会場のあちこちで様子を窺っている家族に任せれば、自分が手を下さずとも勝手に自滅してくれるだろう。さて、どうすべきかと考えを巡らせた、その時だった。
「ハッ。この僕に愛想を尽かされて、言葉も出ないようだな、アルテイシア。そんなに僕のことを深く愛していたのか?」
一瞬、思考が停止した。アルテイシアはゆっくりと瞬きをする。
―――深く、愛している?
いくら王命での婚約とはいえ、そんな勘違いをされるような態度を取った覚えはない。むしろ、彼がパフィーネに入れあげていると知ってからは、婚約者として最低限の体面を保つ会話しか交わしていなかったはずだ。
彼女が呆れ果てている間に、アルフレッドは懐から一枚の書状を取り出した。
「見ろ! これは陛下が正式に承認した、婚約破棄の証だ!」
劇的な仕草で書状を掲げる彼に、会場の貴族たちが息をのむ。
「陛下の承認証……ですか?」
王命による婚約を破棄するには、国王の正式な許可が必要だ。そのため、王の名の下に正式な文書が発行されるのは事実。
だが、それは公の場でひけらかしてよいものではない。王の名が記された公文書であり、本来であれば慎重に扱われるべきものだからだ。
アルテイシアは静かに口を開いた。
「恐れ入りますが、確認させていただいても?」
アルフレッドは得意げに書状を手渡してきた。
紙に触れた瞬間、全てが分かった。
偽物だ。
「……これは偽造ですね?」
途端に、アルフレッドの顔がみるみる紅潮する。
「な……っ!」
周囲がどよめく中、彼は怒りに任せてアルテイシアに詰め寄る。
「アルテイシア、お前、私の言葉を疑うのか!? これは正式な――!」
「王命の書類には必ず御名御璽が押されているはずですが、それがありません。公式書類の紙質も異なりますし、端々のインクが滲んでいる。貴族の一般家庭にとっては高級な紙かもしれませんが、公式書類として相応しいものではありませんね。さらに、用紙には偽造防止用の透かしが四隅に入っているはずですが、それも見当たりません。こんな初歩的な偽造を、私が見抜けないとでも思われましたか?」
ぺらり、と書状を翻す。会場にいた貴族たちが、「確かに」と頷くのが伝わった。
「な、なにを――っ!」
図星を突かれたのか、アルフレッドの手が震え、アルテイシアの手から書類を乱暴に奪い取る。それだけでは飽き足らず、次の瞬間――彼の手が振り上げられた。
ひゅっと風を切る音がする。どこかから女性の驚くような悲鳴がいくつも聞こえた。
「っ!」
思わず目を瞑る。
だが、痛みも衝撃も訪れなかった。
ゆっくりと瞳を開くと、目の前が黒く染まっている。
正確には――漆黒の衣をまとった誰かが、アルテイシアを庇うように立ちはだかっていたのだった。
「おまえは、グリムリッジ侯爵子息、ゼヴィレン……!」
アルフレッドの憎々しげな声が、静まり返った場に響く。
幽鬼のような佇まいと、冷ややかな眼差し――その不気味な印象から「亡霊貴公子」と噂される青年。しかし実際には、四大侯爵家の最大の家門であるグリムリッジ侯爵家の嫡子にして、現皇太子の従兄。母親は現国王の姉にあたる。
ゼヴィレン・ノイノワール・グリムリッジ。
アルテイシアが見上げると、彼の長い指がアルフレッドの手首を無造作に、しかし確実に掴んでいた。その仕草には迷いも容赦もなかった。
ゼヴィレンは静かに息を吐く。
「……くだらない……」
低く抑えた声は淡々としていたが、その指に込められた力は決して優しくはない。アルフレッドの顔が苦痛に歪む。
「……アルフレッド。彼女に何をするつもりだったの?」
静かに問われた言葉に、アルフレッドの肩がびくりと震えた。
ゼヴィレンの真紅の瞳が、じっと彼を見据えていた――。