呪いの絵画事件 ~黒の中の赤~ 前編
――散々な一日だった。
マリキュア女史にこってりと絞られてから数時間後。夕食と湯あみを済ませ、部屋をこっそり抜け出して女子寮の屋根の上に寝そべったアルテイシアは、星だけが輝く夜の風景をぼんやりと見上げていた。
今日は新月だから、星が漆黒の中で強く輝くのだ。
指先に絡めているのは赤い宝石が雫のようになっている、美しい縦長の耳飾りだった。
柘榴石のようでもあるが、深みのある赤はオレンジを帯びておらず、ルビーのように明るく濃く強い光を宿している。微量な魔力を感じることから、おそらくは魔石なのだとは思うのだが、そうした類に詳しくないアルテイシアは、ただ綺麗な贈り物、という印象しかない。
ただ奇妙なのは、ペアで箱に入っているべき宝飾品なのに、なぜか片側しかなかったこと。あの騒動の間でどこかに落としてしまったか、はたまた検品の最中にどこかに消えてしまったのか。
とにかく片一歩だけの耳飾りではあるが、色もデザインもとても美しく好むところであった。
「はぁ……」
明らかに不可抗力による事件、として片付けられたのでこれ以上罰則はなしということになったのだが、ゼヴィレンは違ったようだ。
アルテイシアが解放された後も、しっかり絞られたようでいい気味である。
アルテイシアを閉じ込めた、呪いの絵画と呼ばれたものは、四五〇年ほど前に学園の創始者のひとりであるとある高位貴族が製作した魔道具の一つで、元々は既にこの世から失われた婚約者を偲んで製作されたものだったという。もちろん、魂を入れる器として使ったわけではなくて、魔石を砕いて彩色をし、その微量な魔力によって描かれた女性が僅かに動くという類のものだったらしい。
玩具のような魔道具は彼の死後、誰にも知られることなくひっそりと備品室に置かれ、忘れ去られたのだという。今ではもう製法が失われた貴重な魔道具でもあるそうで、元クッキーの塊を完全に除去した後、丁寧に手動で汚れを流したのだが、絵画にかけられていた魔術回路は跡形もなく消失してしまったのだという。
悪用をされるのは問題だが、正しく使えばかなり有益だったというから驚きだ。
あんな人の魂を封じ込めるような魔道具を作り出すなんてなんて変態だ、とは思ったものの、実際の用途や魔道具としての機能はそうではなかったということも驚きだった。
魔道具に人の魂を閉じ込めることはできない。
分かってはいるのだが、実際に絵画に閉じ込められた身の上としては全く解せない。魔物学の教授であるラドレインによれば、絵画はあくまでも魔道具であり、魔物ではないということだった。だから、アルテイシアが閉じ込められたこともどうしても納得できないのだという。
「疲れた」
上半身を起こし、足を抱えて、膝に頬を付けて長くため息を吐いても、今日の疲取れそうにないない。
今回は長い時間を経て、魔道具である絵の額縁に取り憑いた魔物がたまたまアルテイシアの魔力を食べて肥大化し、成長して狂暴化したという話だった。絵画に取り込まれたのは全くもって想定外のアクシデントで、通常は額縁に住み着いた魔物に魔力を奪われるだけだったのだと説明を受けた。
そもそも、あの絵画には触った者を「閉じ込める」とかそういう種類の魔道具ではない。ただ、描かれた人物が動くだけ。魔物の正体は額縁だから、一体どうしてアルテイシアが絵になってしまったのか誰もわからないのだという。
多少魔力は吸われただけで、この通り健康そのものではあるが、なんだか最近身辺がきな臭い。
それはきっと、あのバカ婚約者との婚約がいつまで経っても解消されないまま、ずるずると引き延ばしの状態になっているからだとは思うのだが、こんなにも悪質かつ偶然を装った風に足元に害意をばらまかれてはたまらない。
しかも何より謎なのは、結局ゼヴィレンがどうやって自分を絵画の中から救出したのか、最後まで分からなかったことである。
「今回のことは落ち度だけど、そもそも絵画は別の場所に保管されていたらしいのよね」
カッとなって振り上げた箒がたまたま棚に当たって、上に乗せられていた絵画が落ちてきたのは自分のせいだが、偶然の一致にしてはできすぎている。
誰かが未来を垣間見て、予測する行動を算出して呪いの絵画を設置したのだとしたら。
いや。それはないか。
未来を予知できる能力者など、この世にはいない。
夜も更けた。悪い思考をこのあたりで止めておかないと、変な夢を見そうだとアルテイシアは立ち上がろうとした。
ぴたり、と動きを止めて、暗闇の中の気配をじっと追う。
「何か用――?」
鋭く視線を走らせれば、もこり、と大きな黒い犬が現れた。艶やかだがうねるような癖毛が特徴的な赤い目の獣。屋根の上に犬など登って来れるわけがないので、あれは紛れもなくあいつだ。
「ゼヴィレン」
立ち上がると大きく風が吹いて、アルテイシアの髪を横に凪いでいく。栗色の髪を片手で押さえつけるようにしながら、それに対峙すると、もこもことした大きな黒い犬がすっと影を伸ばして人の形に変化した。




