呪いの絵画事件 ~絵の鑑賞は飲食厳禁~
「貴重そうだから、生け捕りにして研究したいけど」
「いい加減にしないと、髪の毛毟るわよ」
この研究狂いめ、と吐き捨てるようにして睨みつけると、ゼヴィレンは黒髪の下の赤い瞳を鮮やかに煌めかせて、アルテイシアがちょっとびっくりするほど怜悧に笑った。
「しょうがないね。シア。君に社会的に抹殺されそうな事態は避けないと」
しゅるん、と大きく額縁の茶色の触手が四方八方に伸びた。棚を左右から中央に倒してこちらを攻撃する気らしい。挟撃しようとはなかなかに知恵が回るらしい。
同時に正面からイソギンチャクの群れのような毛束が、うねうねと迫ってくる。
「ギャー! 焼いてー! 消し炭にしてー!!」
「だから、魔法は使えないんだよ」
ごそ、と彼はジャケットの内ポケットから何かを取りだし、えいっと投げた。
ゼヴィレンの首に縋りついたままの状態で、アルテイシアがそれを横目で確認したところによれば、あれは先日アルテイシアに送られたクッキー型の――。
「え」
ボォン、と音を立てて、真っ白な煙が立ち上る。
甘い、焦がしたキャラメル様な実に小腹がすく良い香りが立ち込め始めた。もこもこ、なのかごぼごぼなのか。黙々と上がる白い煙は天井に伝い、横方向に沿ってあっという間に空間を蹂躙する。
ジリリリリリリ、と煙を感知したことによってけたたましく火災報知器が鳴り響く。
煙から逃げるようにたまらず顔の半分を覆うように腕で包んだアルテイシアは、ゼヴィレンにしっかりと抱き寄せられたままその空間を油断なく見据えた。濃い煙の向こうは何も見えないが、蠢くようなシルエットは見えない。
「……終わった?」
「多分」
「多分?」
「魔力の気配はないようだから……多分」
次第に晴れていく煙の向こう側は静かだ。物音ひとつすらしない。
本来ならば、確実に仕留められたかどうか確認するまで警戒を続けた方がいいのはわかっているのだが、ゼヴィレンが言うように魔力のようなものは何一つ感じない。けれど、確認しに行くような危険な真似はできないし、頼まれたとしても絶対嫌だとアルテイシアは強くゼヴィレンの服の裾を握り込んだ。
その時である。
ぱた、ぱたた。と音を立てて、冷たい雫が額に、頬に、鼻の頭に落ちてきた。
「あ」
「あ」
二人して見上げれば、頭上から水が落ち始めた。最初は小さく、次第に強く。雨のように。
透明な膜のようなものが備品室の天井全体を覆っていることに気づく。魔力を含んだ水が備品室全体に降り注いでいるようだった。煙によって火事が起きたと誤認した備品室に設置された魔道具によるものだとわかる。
バタバタと音を立てながら、大量の水が足元を川のように流れゆくのを見下ろしながら、ようやく晴れてきた霧の中でシェイリーンはそれを見つけた。
「……うわっ。溶けてる」
「やっぱり水とは相性悪いんだな」
びたびたになった床の上。
大量に出現したクッキーが絵画を押しつぶしていた。水を含んでふやけて端から崩れていく焼き菓子が、油と甘い香りを漂わせながら土くれのように一つの塊になっていく姿は非常にグロテスクでさえあった。おそらく魔道具で作り出された水には、魔法を分解する作用があるのだろう。
その根元の端っこから僅かに見えた額縁からは、おそらく絵画のものであろう茶色の液体がゆっくりと水に滲み、流れていく。油絵なら弾いただろうに、まさか水彩性質の画材だったということなのだろうか。それとも鎮火のための魔力を含んだ水が、魔物を溶かしてしまったということなのだろうか。
いずれにしても茶色く濁った水がじんわりと広がる中、警報機の音はそのままに雨は静かに降り注いでいた。
「エーデワルト! グリムリッジ! 大丈夫ですか!?」
バァン、と備品室に繋がる美術室の扉が開いた音が遠くでする。バタバタと人の足音と声が連なる中、大量に流れ出ていく水にマリキュア女史のものだと思われる悲鳴が重なった。
「あなたたち、何が、――は?」
全身びしゃびしゃ水濡れ状態。というより、備品室の悲惨すぎる状況にさしもの彼女も言葉を失ったようである。
硬直する学年主任の後ろで、到着したばかりの別の教授たちが顎を落としたり、天井を見上げたり、興味深そうにきょろきょろ周囲を見渡したりしているのが他人事のように見える。
「わぁ。これはなかなかすごいね。水浸しだぁ」
のんびりと声を出した教師の声に、マリキュア女史のこめかみに青筋が走った。
鳴り響き続ける警報機の音を、指一つ弾いて止めると、同時に天井から降り注いでいた雨がすっかりと止んで、床が次第に渇いていく。
ただし、全身ずぶ濡れの二人の学生はそのままである。
「あ、の。……えっと、これは、ですね」
「呪いの絵画に襲われまして、機転を利かせて退治をしたところです」
頭上から、棚の上に跳びあがっていたらしいクッキーが一つ、ぽこん、と音を立てて床の上に転がった。ころん、と行きついた先は、ブクブクと膨れ上がった茶色い粘土状の塊に押しつぶされている一つの額縁の端っこだ。
「二人とも、――あとで私のお部屋にいらっしゃい!!」
取り敢えず、誰もが無言で備品室の大掃除をすることになった。




