【SS】バレンタインデー
2/14バレンタインデーに書いたSSです。
ホワイトデーを過ぎた3/15に投稿すみません。
たくさんお読みいただき、ありがとうございました!
ご感想もいただき、大変感謝しております!
SS<バレンタインデー>です。
---------------------------------------
ゼヴィレンは研究室の雑然とした机に頬杖をつきながら、乱雑に積み重なった魔道具の試作品をぼんやりと眺めていた。机の上には大小さまざまな魔道具が転がり、未完成の設計図や試験紙が無造作に散乱している。
ランプの橙色の灯りがその黒髪にぼんやりとした陰影を作り、深紅の瞳に微かな輝きを落とす。彼の視線は虚ろだったが、頭の中ではただひたすらにアルテイシアのことを考えていた。
窓の外には澄み切った青空が広がり、雲一つない快晴だった。
けれど、自分の心はまるで真っ黒な雲に覆われたまま、ざわざわと騒がしい。空はこんなにも晴れやかで、学院の中庭ではきっと生徒たちが楽しげに笑い合い、贈り物を手に踊るように駆け回っているのだろう。
だが、自分にとって今日という日は、甘い期待と苦い現実がせめぎ合う「試練の日」だった。
──バレンタインデー。
恋人たちが甘い言葉を囁き、贈り物を交換し合う日。
だが、ゼヴィレンにとってそれは毎年恒例の苦行にほかならなかった。
幼い頃から片思いし続けてきた彼女が、学院に入学すると同時に、ローゼンベルク家のアルフレッドとかいうどこの馬の骨とも知れぬ男と婚約したという話を聞かされたときの衝撃を、彼は今でも鮮明に覚えている。
面白くない。
実に面白くない。
自分はただの幼馴染で、勝手に彼女を好きでいるだけなのだとは、理屈では理解している。それでも、いずれ彼女を振り向かせる気だけは満々だったし、その機会を虎視眈々と狙っていた身としては、この現状を素直に受け入れることなど到底できるはずもなかった。
毎年この日だけは、いっそ部屋に鍵をかけ、誰も立ち入れないようにしてしまいたい──そう思うのに、ある一つの「幼い頃からの恒例行事」のせいで、結局今年も期待してしまっている。
扉の方を見つめながらゼヴィレンは重くため息をついた。
研究室の扉には、彼の思考と同じように雑然とした書類や設計図が縦横無尽に張り付けられている。時刻は昼過ぎ。今日は午後の授業がなく、研究棟の周囲も静まり返っている。
──今年はもう、来ないのか。
諦めの念が心を覆い始めたその時だった。
研究室の扉が小さくノックされ、扉の隙間から淡く光を反射する銀の髪が覗く。
「ゼヴィレン、いる?」
透き通るような赤紫の瞳が、不安げにこちらを見上げていた。
心にすっとさし入る陽光のような眩さを伴う存在。
アルテイシアだった。
返事もできないまま固まるゼヴィレンを見て、アルテイシアは「いつものことだ」と言わんばかりに扉を押し開け、気まずそうに視線を泳がせながら彼の前に立った。
それから小さな包みを差し出し、ため息混じりに言う。
「あの、毎年のアレ……。あんたには、いつも助けてもらってるから。一応」
手のひらにすっぽりと収まるほどの小さな箱は黒く、リボンも装飾もない。武骨で飾り気のない外観が、彼女のまっすぐな性格をそのまま映し出しているようだった。ゼヴィレンは僅かに緊張しながら、顔を強張らせて頷き、手を伸ばす。
その瞬間、彼女の指先がふと手のひらに触れた。
ひんやりとした感触。
細やかで、柔らかい指先。
その僅かな接触が引き金となり、ゼヴィレンの意識は遠のいた。
頭の中で走馬灯のように未来が駆け巡る。
結婚式。
アルテイシアの純白のドレス。
誓いのキス。
キス。
唇。
「え、ゼヴィレン!? 大丈夫?」
「……うん」
問題は山積みだったが、なんとか立っていられる自信だけはあった。手の震えを隠しながら、慎重に包みを開ける。中から現れたのは、無造作に固められた黒い……。
「ん? 黒?」
「生チョコよ! 生チョコ!! ねっとりとした濃厚なチョコレート!!」
「よかった。一昨年みたいに炭の状態だと、完食するの大変だから」
「悪かったわね、一昨年のガトーショコラ失敗して炭にして!」
だいたい破棄しようと思っていたのに、食べると意地張って平らげたのあんたじゃない、とブツブツ言うアルテイシアの横顔は赤く紅潮している。
「今回は、焼くとかそういう工程ないし。温めて混ぜて固めるだけだから。味は、普通よ、普通」
「普通……?」
「一応ね。でも、期待しないで。例年通り、見た目はあんまりいい出来じゃないの」
ゼヴィレンは距離を詰めてこちらを見上げてくるアルテイシアを見下ろした。気を抜けばへにゃりと締まりがなくだらけてしまいそうになる唇にぎゅっと力を込めて平常心を装い、受け取った箱をまじまじと見降ろす。
「開けてもいい?」
「ど、どうぞ」
緊張しているのは自分のはずなのに、何故だかアルテイシアの顔がさらに真っ赤に染まっている。
素っ気なく放たれたその一言すら愛おしい響きを持っていて、ゼヴィレンは指先が震えそうになるのを必死で押しとどめ、箱の蓋をそっと開けた。
一面は黒だった。というか焦げ茶色のパウダーのようなものが表面にかかっている。
切れ込みがあって、正方形に近い形で切り分けられているようだが、まっすぐというかやや斜めでギザギザになっている。表面は波打ったようになっていて、お世辞にもうまく成形されているとは言えなかった。
「……、がたがた」
「がたがたで悪かったわね! 小さいものを切るのは苦手なのよ!」
少し強めの語調に、ゼヴィレンは思わず口元を緩めた。ならば大きいものを切るのは得意なのか、という問いは飲み込み、彼は吸い寄せられるように指を伸ばす。端の一欠片を摘まみ上げると、ぐにゃりとした弾力が指先に伝わった。柔らかすぎるわけではないが、形が崩れるほどの繊細さもない。
小さな欠片を口に運ぶ。
舌の上でねっとりと、少し苦みを含んだ甘さが広がる。
「あまい……」
「チョコレートですからね、一応」
アルテイシアはそっけなく答えながらも、落ち着かない様子で視線を逸らした。指先がわずかに揺れ、どこか居心地の悪そうな素振りを見せる。
甘すぎず、それでいてどこか彼女らしい、不器用な温かみのある味だった。
「これ、……アルフレッドにも渡したんだよね?」
その名前を口にした瞬間、胸の奥が鋭く締めつけられた。
彼女の婚約者。ローゼンベルク家の侯爵子息。
幼い頃からずっとそばにいたのは自分だというのに、横から掻っ攫われる形で突然正式に隣に立つことを許された男。
「あげるわけないでしょ!」
アルテイシアの声が跳ねた。
顔を真っ赤に染め、腕を組んでそっぽを向いている。
「そもそも、自分で食べるつもりだったの。レシピが簡単だったから作ってみようと思ったら、なんか失敗して……でも、材料がもったいないし……お金もかかってるし……」
言い訳は次第に尻すぼみになり、アルテイシアの声がか細くなる。ゼヴィレンはそんな彼女の横顔をじっと見つめ、微かに目を細めた。
「あの人には……店で買ったのを渡したわよ」
たったそれだけの言葉なのに、ゼヴィレンの心臓が妙に強く打った。
出来が悪いものを婚約者に渡せるわけがない、と彼女はそう言いたかったのかもしれない。
それでも、胸の奥にふわりと灯る温もりを無視できなかった。そんな感情を悟られぬよう、彼は肩をすくめて鼻で笑う。
「ふぅん……それは、それは」
「な、なによ」
アルテイシアはむっとした顔で拳を腰に当てるが、その頬は先ほどよりも赤みを増している。いつもの勝気な態度を崩したくないのか、わざと大げさに腕を振ると、逃げるようにドアへ向かった。
「ほら、とにかく渡したから! じゃ、またね!」
彼女のブーツが床を鳴らし、扉がばたんと閉まる。ゼヴィレンはその余韻を噛みしめるように、静かに瞬きをした。
研究室に一人取り残され、彼は目の前の小さな箱をじっと見つめる。紙の包みの端には、わずかに彼女の指の跡が残っていた。微かな温もりを宿したままの箱を指先で撫でながら、ゼヴィレンはふと前髪をかき上げる。
露わになった真紅の瞳が、淡い灯火の下で妖しく光を帯びた。
「……うん」
独り言のように唸ると、彼は箱の中から一欠片を摘まみ、ゆっくりと口に放る。柔らかく、それでいて舌の上でねっとりと余韻を残す生チョコは、甘さ控えめで、ココアのほろ苦さが心地よく残る。
指先についたココアパウダーを舌先で舐める。
甘さと苦さが混じる余韻を噛みしめながら、彼は瞳を細め、彼女からの贈物を改めて見つめた。
「これは……本格的に証拠を集めた方がよさそうだ」
独り言のように呟きながら、箱の蓋をそっと閉じる。指先に残る微かなぬくもりを握りしめるようにして、ゼヴィレンはゆっくりと口角を上げた。
――彼女を、今度こそ自分の腕の中に閉じ込めるために。




