1話 幼い日の約束
春の陽射しが穏やかに降り注ぐグリムリッジ侯爵邸の庭園。色とりどりの花々が風に揺れ、遠くでは噴水の水音が涼やかに響いている。高い生け垣に囲まれた一角には、古びた藤棚があり、その下には年季の入った木製のブランコがゆっくりと揺れていた。
アルテイシア・フォン・エーデワルトは、そのブランコに腰掛け、風にそよぐ栗色の髪をかき上げながら、隣に座る少年を覗き込む。
「ねえ、グリムリッジ侯爵子息様?」
わざと格式ばった呼び方をすると、少年——ゼヴィレン・ノイノワール・グリムリッジは、ほんのわずかに眉をひそめた。
「……からかっているのですか?」
淡々とした口調。ぶっきらぼうだが、どこか柔らかい響きがある。
「ふふ、ちょっとだけ」
アルテイシアがくすくすと笑うと、ゼヴィレンは静かにため息をついた。
「好きに呼んでください。どうせ、そんなことはどうでもいいですし」
「じゃあ、ゼヴィでいい?」
「ええ、お好きに」
ゼヴィレンは藤棚にもたれかかるようにして、静かに目を閉じた。長い黒髪がさらりと肩を滑り、春の光を受けてわずかに艶めく。その横顔はどこか儚げで、けれど揺るぎない何かを秘めているように見えた。
アルテイシアは小さな手でロープを握り、ブランコをゆっくりと揺らす。風に乗って藤の甘い香りが漂い、彼女はその心地よさに目を細めた。けれど、ふと表情を曇らせる。
「……どうしたのですか?」
ゼヴィレンがすぐに気がついた。わずかに目を開け、アルテイシアをじっと見つめる。その紅い瞳は、まるで彼女の些細な変化すら見逃さないと言わんばかりだった。
「ううん……。ちょっと、学校でね……。この前、新しく来た子が、私のことを『高慢ちきな伯爵令嬢』だって言っていたの」
アルテイシアは足元の芝をつつきながら、小さくため息をつく。確かに、自分の家は名門伯爵家で、周りからは一目置かれる立場かもしれない。でも、そんなつもりはないのに……と、少しだけ胸が痛んだ。
ゼヴィレンはしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……その人の名前は?」
「え?」
「家柄は?」
静かな声だった。淡々としていて、感情の起伏はほとんどない。けれど、どこか底知れぬ圧力をはらんでいた。
「えっと、別にいいの。そんなに大したことじゃないし」
アルテイシアがそう言うと、ゼヴィレンはゆっくりとブランコから立ち上がった。陽射しを浴びた黒髪が風に揺れ、その影がアルテイシアの足元に伸びる。
「ダメですね」
彼はぽつりと呟くように言った。
「あなたが困ることがあったら、必ず私を呼んでください。何が何でも、絶対にそいつを許しません」
淡々とした言葉。けれど、その裏に隠された揺るぎない決意に、アルテイシアは思わず息をのむ。
「……ゼヴィ?」
「社会的に抹殺します」
さらりとした口調で、当たり前のように告げられたその言葉に、アルテイシアは目を見開いた。
「……え?」
「私はあなたの味方です。だから、あなたを傷つける者は絶対に許しません」
ゼヴィレンはそう言って、何でもないことのようにふわりと微笑んだ。けれど、その笑顔の奥にある冷たい光に、アルテイシアは背筋がぞわりとするのを感じる。
「な、なにそれ……こわい……」
「怖くありませんよ。ただ、当然のことを言っているだけです」
ゼヴィレンは再び藤棚にもたれかかり、ゆっくりと目を閉じた。まるで、この話はもう終わりだと言わんばかりに。
アルテイシアはしばらく呆然としていたが、やがてゼヴィレンの手をそっと握った。
「……ありがとう、ゼヴィ」
「どういたしまして」
春風がふたりの間を吹き抜け、庭園の花々がさざめいた。
この時の約束が、まさか数年後に本当に果たされることになるとは、幼いアルテイシアはまだ知らなかった——。