おまわりさん
※夏のホラー2022の題材がラジオであることを見逃していたため、タグから夏のホラー2022を削除しました。
妻子を私の生家に案内するのは、今年で八回目になる。普段家族を旅行に連れていくほどの長期の休暇が取れない身としては、久々の遠出がこんなうらさびれた場所であることに、大変心苦しい思いで一杯だ。八回目にもなると言うのに私に気を遣って故郷での思い出を聞いてくる妻や、社内の空気を全て二酸化炭素に変えかねない勢いで欠伸をする息子を見ると、その思いは更に募っていく。大手携帯電話会社の回線が何とか届く様になったことで、携帯で手持無沙汰を解消出来るようになったことは幸いだが、しかし帰郷した先に喜んで案内できるような場所がないと言うのは、中々辛いものがあるものだ。
延々と続く新緑と活気のない道路、老朽化した家々。そんなものしかないこの場所で、子供の頃の私はよくそこまで倦まずに過ごせたものだと思う。そうして昔日を振り返ると、親友二人の存在がどれだけ大きなものであったかを今一度感じずにはいられなかった。
気が強く、向こう見ずながらも情のあった同級生のAや、そんなAの後ろをよく追いかけていたB。残念ながら、彼らの顔を鮮明に思い出すことは出来ない。通う高校が別になってから疎遠になってしまったとは言え、過ごした時間以上に会わない時間を経れば、まるで鋭利な刃物で切り取られたかのように、こんなにも簡単に忘れてしまえるのだと愕然としてしまう。
だが、十年近く連絡一つ取らなかった彼らを思い出すことになったのは、帰郷から生じた懐古に因るものだけではない。
AとBが亡くなった。それも、非常に近い時期に、心不全で。一か月ほど前、両親からそのような内容の連絡が送られてきたのだ。疎遠になっていたとはいえ旧友の唐突な、そして同時の死は、記憶の奥底に眠っていた在りし日を想起させるには十分だった。
学校の帰りによく河で釣りをした。半日もの間、何の目的もなく木々の生い茂る山を駆け回った。近所の家の外壁に落書きをして一緒に怒られた。何度も言い合いをして仲直りし、何度も取っ組み合いになって翌日には手を取り合った。
そんな懐古を共有出来る相手が誰一人としていなくなったことと、今回の帰郷は実のところそれ程関係は無い。級友たちの悲報を聞く前から、予定していたことだったのだから。だが戻るたびに何一つ面白くも、感じるところもないと思っていた故郷が今は少し変わって見える。変化に乏しいながらも長閑だと思えた田舎の風景が、陰鬱としたものに映るのだ。
舗装がされていない私道に四苦八苦しながらハンドルを切り、駐車場と言うにはあまりに草の生い茂った空き地に車を止めてから、後部座席で携帯を握りしめながらうつらうつらとしていた息子に声を掛ける。やっと着いたのかとばかりに背を伸ばし、大口を開けて息を吸い込んだ息子はしかし、大して喜ぶわけでもなくゆっくりと車から降りた。ここがテーマパークなら勢いよく飛び出しただろうが、子供の反応は実に正直なものだ。
車を降りて私も一つ大きく息をつき、肩を回す。田舎は都会と比べると空気が美味い、とはよく耳にする文言だがそれほど違いは分からない。冷たい澄んだ空気が肺を満たす感覚はあるが、都会でも立ち止まって大きく息を吸い込めば、同じように感じるのではないかと思う。ただ誰もが忙しなく動き続ける都会ではそんな暇が、心持ちがないだけのような気がするのだ。
私は荷物を担ぎ、携帯をいじりながら歩く息子を注意して、自らも実家に向けて歩き始めた。と、言っても家はすぐ傍だ。年季が入ったその建物はボロ家と言えるほどではないが、背負った歳月の重みの分だけは確実に痛みが見て取れた。
喜んで迎えてくれた両親と少しばかり会話を交わした後、私は夕ご飯の準備へと取り掛かる祖母や母、そして妻に対して申し訳なく思いながらも、香典とお供え物を持って外へ出た。
行き先は、AとBの家だ。
しばらく歩いて気付いたことは、こんな田舎でも変化はあるのだと言うことだ。Aの家へと遊びに行く際には必ず通っていた畦道はコンクリートで舗装され、その両脇に広がっていた畑は右側のみではあるが完全に埋め立てられて倉庫のようなものが建てられていた。もっともその変化は、私が今更になって実感しただけだ。AやBと毎日のように遊んだ記憶が、その差異を改めて感じさせたのだろう。
だが、全く変わらないものもある。それは、経年劣化があちこちに見て取れる田舎でも特にうらぶれたある建物だ。私は少し右に傾いた鳥居を視界に収めて、暗澹たる心地になった。
その鳥居の十メートル程度先にあるのは神社の本殿だ。本殿、と言えば聞こえはいいがこの神社にあるのはそれだけ。手水舎や拝殿と言ったものはなく、瓦は何か所も剥がれ落ちていて、鳥の糞などで汚れた鈴から垂れ下がる縄は、黒ずみ軽くほつれている。伸び放題の雑草を踏みしめる人影は一人たりとも見えず、そこはとても神を祀る場所とは思えない。
一体誰が管理しているのか分からないこの神社に興味を持てたのは、子供の頃だけだった。ただただ不気味。それだけでこの田舎では刺激的な場所だったのだ。
では神様を祀るにはあまりに失礼なこの場所に何か曰くがあるのか、と言うとそんなものは特にない。両親に聞いてみたことも、学校の担任に聞いてみたこともある。だが、ありそうな場所だろう?それが只の一つも無いんだ、と言う彼ら自身もかつて同じことを聞いてがっかりした事があるかのような返答が返ってくるのみだ。そう考えると、この神社の歴史は古いのかもしれない。が、由緒看板の一つもないのだから、それを知る術はないのだろう。或いは、村唯一の図書館も兼ねている小さな公民館には資料があるのかもしれないが、わざわざ探す気にはなれない。
私とAやBは、よくここである遊びをしていた。まあそれは、私たちだけが楽しんでいたわけではなかったが、夜半に家から抜け出す必要のあるこの遊びを行う者たちは、そう多くはなかった。
おまわりさん。
確か、そんな名前だった。この遊びを誰から聞いたのか思い出せない。AやBから持ち掛けてきたのかもしれない。確かなことは、私と同じ小学校に通っていた数少ない生徒たちでこれを知らない者は、ほとんどいなかったと言うことだ。
やり方は非常に簡単だ。まず、一人一本線香を持ってくる。次に鳥居の下で線香に火を付けて、この神社の本殿の裏を抜けて大回りに、つまり外周をぐるりと一周して線香の元まで戻ってくる。
ただ、これだけだ。
実に単純で、面白味もない遊び。だがそう思うのは、歳月を経たからだろう。夜間に不気味な場所で肝試しをする。それだけで強く、偉く、大人になれたのだと当時は感じたのだろう。
さて、そんなおまわりさんにはこの手の話にありがちなオチがある。線香が燃え切る前に神社を周り、鳥居の下に戻って来ること。もし線香が燃え切ってからも神社内に居ると、おまわりさん、と言う霊が後ろから追いかけて来る、と言うものだ。ただ、それなりに面積だけはある敷地を、子供の歩幅で一周するにはある程度の時間が掛かるとはいえ、だとしても線香が燃え尽きてしまうほどではない。
だからこそと言うべきか、子供にありがちなことだがダメと言われれば当然試してみたくなるもの。わざわざ線香が燃え切るのを待ってから神社を一周した記憶が、僅かながら思い出せる。当然霊が出てくるはずもなく、安堵と、その余裕からくる残念な気持ちで一杯になったものだ。
それにしても、この遊びを一切やらなくなった切っ掛けは何だったか。
私は、強めの地震が起きればすぐにも崩れそうな本殿を見やった。生暖かい風に晒されて揺れる雑草に囲まれた、薄気味悪い建物。この田舎の中でも一層朽ち果てたその場から、突然亡き級友の呼び声が微かに聞こえた気がして、一度身震いした。
しかしそれは、風に靡いた雑草が身を擦れ合わせて生じた小さな空耳だったのだろう。
耳を澄ましてもそのような声は聞こえない。
私は、Aの家へと向かった。
Aの家は、神社から二十分ほど歩いた先にある。辿り着くまでに家が一軒も建っていないのは流石と言うべきか、限界集落の悲哀を感じるべきか。家どころか、人一人とすらすれ違わない孤独の道のりに聞こえるのは、私の呼吸音と夏のじめじめとした風が吹き抜ける音だけだ。
たった五分程度だと言うのに変に徒労感を覚えながら、Aの家にたどり着いてチャイムを鳴らす。だが、音が鳴った様子が無かったため、私は木製の扉を軽くノックした。少しして、疲れた様子の年配の女性が出てくる。その女性は私の姿を見てしばし押し黙った後、事前に両親に連絡を頼んでいたこともあって私が誰だか分かったのか、その隈の濃い目から涙を滲ませた。
私は手土産を渡しながら、ありがちなお悔やみの言葉しか出てこない自らを呪った。旧友の死に対するものだと言うのに、私はとことん社会に染まってしまったらしい。
だがAの母は、快く私を仏壇まで案内してくれた。薄暗い家内は、Aの母の心境を代弁しているようだ。途中で気付いたのか、ごめんね、と一度頭を下げてから灯りを強めにしてくれる。
居間を抜け、小さな和室の襖が開けられるとそこに仏壇があった。私は大人と呼べる年齢になってからも、仏壇と言うものをじっくりと眺めることが無かった。実家には祖父の仏壇があるが、ほとんど顔を合わせたことのない父の父のために行うことは、言い方は悪いが幼少の頃から続けて来た合掌と言うただの動作だ。掃除を手伝うことも当然何度もあったが、仏壇自体に注視したことはなかった。
今、旧友がそこに眠っている。仏壇を前にして、ようやく私はそのことを実感した。同時に、一緒に何度も馬鹿をやった思い出が脳内に去来し、目が滲む。
私はAの母に断りを入れてから座布団に正座し、一礼した。そうしてAの家の宗派に合わせ、蝋燭に火を付けてそこへ線香を運ぶ。仏壇の前で淡く燃える線香を見ると、一緒におまわりさんを何度か行っていたあの頃の記憶がより鮮明に浮かんできた。折しもあれは、今と同じく生暖かな夏の時分だったか。
香炉に線香を立て、私は手を合わせて頭を下げた。
小、中を共に過ごしたと言うのに、顔すらろくに思い出せなくて本当にごめんなさい。どうか、安らかにお眠りください。
手と手を離し、目を開く。その矢先、私の視界に飛び込んで来たのはえらく古びたハサミだった。掃除の行き届いたこの仏壇に供えられたそのハサミは、ことさら異様に写る。元々が緑色だったと思われる持ち手は酷く色褪せていて、刃の部分は何も切れなさそうなほど錆びついている。そのハサミがどれだけの年月を重ねたのかは分からない。が、ボロボロながらも形状を保っているそれからは執念のようなものすら感じてしまう。
それにしても、言っては何だが例え大切な遺品だとしても物騒なイメージもあるハサミを仏壇に置いていることにはあまり快い理解を示せない。私が黙り込んでしまったのはそんな思いもあったのだが何より、そのハサミを見たことがある気がして記憶を探り返していたからだ。
沈黙し続けている私を不思議に思ったのだろうか。Aの母が躊躇いがちに大丈夫かと問いかけてきた。私は適当に応じながら、ハサミのことを聞こうかと逡巡し、今一度仏壇に視線を向けて私の思考は停止した。
Aの母に返事をするためにハサミから目を離していたのは僅か五、六秒の事だ。だがその一瞬の間に、あの薄汚れたハサミは影も形もなく消えていた。私の記憶の中にしか、それは残っていない。
「それにしても、〇〇君が来てくれて本当に良かった。あの子ったら亡くなる前、あなたの名前を必死に呼んでいたのよ。きっとあの子の中では、遠く離れても大切な友達だったのね」
何度も仏壇に視線を向ける私の挙動をどう受け取ったのか、Aの母はしみじみとそう言った。
「……本当ですか。でしたら私も、Aに手を合わせることが出来て、本当に良かったです」
私はハサミの事を聞こうかと少しだけ迷ったが、我が子を思いながら語りかけてくるAの母にそのような場違いなことは聞けず、それに死の悲報を聞いてもAの顔も思い出せなかった罪悪感から言葉を詰まらせながらやっとそう返す。それから三十分ほどAの母親と昔話をして、私は判然としない古びたハサミの存在に不気味に覚えながらもAの家からお暇した。
やはり人気のない道を進み、Bの家を目指す。夕方と言うには少し早く、夏の太陽は落ちるまでが長い。そのことに、どこかほっとしてしまう。どれだけ綺麗にコンクリートで舗装しても、人と言う血液が通わなければ道は道と言えない。
人の営みが感じられないあばら家。動かなくなって放置されたトラクター。そんな寂れた光景を通り過ぎながら、ところどころが欠けた階段を上り始める。道路に面していたAの家と違い、Bの家は山の上の方にある。夏の陽光を浴びて伸び伸びと成長する新緑は、遠くから見ればその生命力を感じて心を打たれることもあるが、近くで接するとひたすら邪魔なだけだ。鬱蒼と生い茂る草や葉を手で払いのけ、私は息を切らせながらなんとかBの家へとたどり着く。
Bの家はAの家と比べると大きいが、その分だけこの鬱蒼とした雰囲気にぴったりな腐食が見えた。木製の玄関は少しズレていて、建付けが悪そうだ。表札には蜘蛛の巣が張ってあり、そこに捕らえられた羽虫の亡骸がなんとも気味が悪い。思うがままに伸びる草木は、照り付ける日光を遠ざけている。では人の息吹が見受けられないほど荒れ果てているかと言うとそう言うわけではなく、乱雑に吊り下げられた洗濯物や埃を被っていない車から生活感を感じる。その差異が、何故かわざとらしく感じて心に引っかかった。
どう見ても機能していなさそうなチャイムに指を当て、軽く力を込めると、錆びついているのか、軽く固着しているのか、やや硬い感触が指の動きを邪魔してくる。予想通り押し込んだボタンが機能している様子はなく、私は強く叩くと倒れそうな扉をノックしようと手の甲を向けて、思わずその動きを止めてしまった。
褪せた玄関扉の中央上部に、縦横十数センチ程度の嵌め込みのすりガラスがある。そこから覗ける家中の様子は、非常に暗い上にぼやけていてあまり窺えない。いや、それでも分かることはある。何かが動いている。すりガラスの下側のみは暗闇の黒ではなく、ぼやけた肌色の何かがこちらを窺うようにもぞりと身じろぎしたのだ。
薄い玄関扉の先から生暖かな息づかいを感じて、私は唾を飲み込んだ。すりガラスの先にある肌色の、きっと顔だと思われるその真ん中あたりに見える二つの黒い穴は、絶えずこちらに向けられている。そこが目だとするならば、それは何を思って見つめているのだろう。
努めて冷静に自分に言い聞かせる。きっと、子供でもいるのだろう。玄関から出て行こうとした矢先、客である私が近づいて来たのに気付いて様子を窺うことにでもしたのだ。
額に浮き出た汗をゆっくりと拭う。じっと。じっとその影は動かない。ふと私は、欲しい物を前にして頑なに動かなくなった息子の姿を思い浮かべた。買ってもらえないと理解しながらも、それでも欲求を明け透けに主張するその細められた瞳には、恨めし気な様子がありありと見て取れるもののだ。まさにそんな気配が、玄関一枚を隔てた先から伝わってくる。
息を吸い込み、意を決す。自然と力強く握りしめてしまった拳を、倒壊しそうな玄関に軽く叩きつける。一秒、二秒。私のノックに対する反応はない。それは、正体の分からない何かに限らず、Bの家の中からもだ。両親が事前に連絡を入れてくれているはずなのだが、家中に灯りが灯ることも、客を出迎えるために移動する足音も聞こえてこない。
どうするべきか。私は一瞬だけ迷って、帰宅すべく素早く玄関から後退った。玄関に背中を見せなかったのは、正体の分からない何かが今にも飛び出してくるかもしれないと危惧したからだ。
すぐに、踵が何か硬い物を踏みつけた感触を受けて体が震える。その固形物は私の注意を僅かな間、玄関の何かから逸らさせる。反射的に下を向いてしまった顔を壊れそうな扉にさっと再び向けると、あの肌色の何かの輪郭は露と消えてしまっていた。
何だったんだ、一体。しばし薄暗い周囲を見渡して、私は深く息を吐いた。特に何かされたわけでもないのに、心臓は早鐘を打つ。ただただ不吉な予感がして、私は何かが玄関から居なくなったにも係わらず、再度Bの家の扉を叩く気も、声を上げて在宅中かどうかを確かめる気も無くなってしまっていた。
そう言えば、踵が踏んだ物は何だったんだろう。どうしても気になって、周囲への警戒を出来るだけ保ったまま地面に目を向ける。そこにあったのは、百均で売られていそうな安っぽいライターだった。手垢がついたプラスチックの容器に、錆びた着火部分。すでにオイルは無くなっていて、とても火なんて付かないだろう。
ただのゴミだ。そう思おうとしているのに、私は古びたハサミを見たその時のように、ガラクタ同然のライターに目を奪われていた。辛うじて黄色と分かるプラスチックのライターにも、見覚えがある気がしたのだ。
手に取る。それは、少し強く握ればすぐに割れてしまいそうな脆い感触を掌に返してきた。
呼んでいる。握りしめたライターをゆっくり地に置き、私はそんな胸騒ぎを覚えた。いや、思い出したのだ。ハサミにライター。それは、最後におまわりさんを行った際に私が使ったものだ。ちょっとした子供の悪戯で、出来心で、友達を驚かせるために使った物だった。
いや、何を考えているんだ。頭を振って、そのまさに子供のような妄想を両断する。おまわりさんは、この田舎で昔からある妙な遊びに過ぎない。それを行ったのは、私やAやBだけではないのだ。
Aの家からここまで歩いてどれぐらい時間が経ったのだろう。そう長い間ではない気がするが、田舎には街灯なんてほとんどなく、更に人の営みから漏れ出した明かりなんてものもほとんどない。旧盆の夕方にしては少し陰りが強く差しただけで、たった一人でここに取り残されたような疎外感を感じてしまう。生家を出て都会で生活しているからこそ、一層強く。
おまわりさん。おまわりさん。小さな灯りを点します。小さな灯りを捧げます。捧げた灯りがあるあいだ。決してこの身を消さないで。
気が付くと、私は朽ち果てた神社の前まで戻ってきていたようだった。とうに忘れていたおまわりさんを始める際の文言を、二人の子供が一緒に唱えている姿が視界に入り、思わず注視してしまう。田舎と言えど娯楽の増えた今日に、未だにこんな遊びが行われていることに驚愕してしまうと共に、ふと郷愁の念が込上げて来る。伸びに伸びた雑草を掻き分け、鳥居から本殿へと向かう子供たちの後ろ姿を、自分と重ねてしまう。
しばし私は、子供たちの背中を眺めていた。と、彼らは唐突に、そして二人一緒に静止した。何かあったのだろうか。そう疑問を浮かべた私に、振り返った子供たちの四つの黒々とした眼が一斉に向けられる。張り付けたような笑みを浮かべた彼らはそれから、小さな手を私に向けてひらりひらりと舞わせて見せた。
私を誘っているのだろうか。人差し指を自分の顔に向けると、二人の子供は小さな頭を軽く下に揺らす。一瞬懐かしさが私の背と足を押したが、一歩だけ足を進めてすぐに疑問が浮かんできた。
この限界集落のこの辺りに、こんな年頃の子供なんていただろうか。帰郷の度に住民の流出を嘆く両親から、そのようなことを聞いた記憶はない。もしかすると、私と同じように帰郷した者の子供かもしれないが、だとすると何故おまわりさんの事を知っているんだ。親から教えられて試しているのか。
改めて、少年二人をじっと眺める。様子に変わりはない。ただ顔をそう変えただけのような笑みを浮かべ、何度も何度も機械的に手招きしている。チグハグながら感情のない動作は、子供らしさの無いものだ。そして私を見つめる黒い目。その目から放たれているのは好意的なものではない。つい先ほど、Bの家の玄関に居た何かかから感じたそれと全く同じものを感じる。
恨み。辛み。嫉み。それらが入り混じった複雑ながらも確かな敵意。
あれは私を歓迎しているのではない。招いているのだ。
悪寒が背中を駆け抜ける。鳥肌が立ち、少し汗を吸って重くなったシャツの不快な感触をより強く感じる。
私はBの家族に渡すはずだった品物を落として、無我夢中で逃げ出した。心の中で何度も謝りながら。私があの二人に出来ることなんてもう何もない。そうも言い訳しながら。だが、もう逃れられないだろうことは薄々感じていた。
彼らは私を待っているのだ。
私は心配する両親や妻の言葉に生半に応じながら、食事を取らずかつて自室だった部屋に引き籠った。何度か部屋の外から呼びかけられたと思うが、それに答える余裕もなかった。
しばらく部屋を漁り、埃の被ったアルバムを見つけ出し開ける。小学生の私の両隣で満面の笑顔を浮かべるAとB。その二人の目鼻立ちは、神社で見た少年二人と相違ない。ただ違うのは、少年らしい純粋で朗らかな笑顔を浮かべるアルバムのAとBのその表情が、神社の二人からは微塵も見られなかったことだ。
部屋の襖がいきなり開けられる。高く跳ね上がった心音をすぐに落ち着かせたのは、息子の声。いつも通りの高い声に、私は安堵の息を吐いた。
「父さん、こんな暗い部屋でなにしてるんだ?かーさんが心配してたぞ」
やることがあるんだ。そう伝えると、息子は興味なさげにふーんと唸った。息子のために明かりをつける。そこで私は気が付いた。
息子が何かを握りしめている。いや、何かと誤魔化してしまったのは認めたくなかったからだ。私は恐る恐る、我が子に問うた。
「それ……その握っている物、どうしたんだ?」
「あ、これ?家の前に落ちてたんだ。捨てようかと思って拾ったんだけど、その時かーさんに父さんの様子を見てくるよう言われて」
息子の手から少し姿を覗かせる錆びたそれは、今日Aの仏壇で見た物だ。古びたハサミ。何も切れなさそうなそれは、しかし怪しく明かりを受けて光っている。それだけではない。指と指の間から飛び出ている黄色のフォルムは、Bの家の前で一度拾ったライターだ。
私は息子の手の中からそれらを勢い良く奪った。こんなものに、触れてほしくはなかったのだ。しかし息子は私に、恨みがまし気な視線を向けて来る。事情が分からないのだから当然だろう。それは分かっているのだが、その視線が先ほど神社で見た二人と重なって、思わず怒鳴りつけてしまった。
息子は泣きながら部屋から出て行く。少しすれば、妻や両親がやって来るかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。
用意したオイルを、空になった黄色のライターに注ぐ。分解すれば崩れてしまうかもしれないと思ったそれは、意外にも丈夫だった。それからヤスリを一、二度回すと、オレンジの火がふっと姿を現す。どうやらまだ、使えそうだ。
行かなければ。息子や妻、両親が巻き込まれる可能性もある。現に息子がハサミとライターを拾ったのだ。
いつの間にか空は帳を下ろしている。不審げに、怯えるように私を見る家族に私は、行って来る、とだけ伝えて家を出た。
おまわりさん。おまわりさん。小さな灯りを点します。小さな灯りを捧げます。捧げた灯りがあるあいだ。決してこの身を消さないで。
小学生の頃と比べると声変わりし、低く、重くなった声でこの文言を唱えるのはどこか滑稽だ。そう思いながら、持ってきた線香に黄色のライターを近づける。小さな赤色が闇の中で輝き、独特な匂いが漂う。私はその匂いを胸一杯に満たして、神社に目を向けた。と、言っても明かり一つない中ではその外観を詳しく窺うことは出来ない。
携帯電話を取り出し、ライト機能をオンにする。子供の頃は少しの光もなく神社を一周していたと言うのに、今はこの明かりなしには一歩も踏み出せそうにない。それだけ暗闇から不吉を連想することが多くなったのかもしれない。
雑草だらけの神社の敷地に踏み出す。子供たちの、いや、AとBの姿はない。
一歩、二歩、三歩、四歩。時折吹き付ける風に揺れる雑草が、サラサラと不気味に音をたてるが、特段変わったことはない。
五歩、六歩、七歩。私の思い過ごしだったのだろうか。しかし、ハサミとライターについてはどう考えても道理が通っていない。
八歩、九歩。いや、もしかすると似たような物がたまたま落ちていただけなのでは。Aの仏壇で見たハサミは、私の妄想の産物だったのでは。
十歩。
その時、加えてもう二歩足音がした。後ろから。私の足音に被さる様に。
十一歩。
確かめるために進めた一歩に、再び足音が重なる。
いる。私の後ろに、何かが居る。足音だけではない。それは雑草の靡く音に混じって小さな声を上げている。くすくすと、笑うような声。このおまわりさんを、楽しむような声だ。或いは、私を嘲笑しているのか。
夏だと言うのに、体が冷えている。動かした手足の勢いを止めるブレーキが壊れているかのように、私の動きはチグハグだろう。だが、それを正す余裕もない。
勘弁してくれ。あんなの只の、子供の悪戯だろう。ネタばらしして結局、皆で笑い合ったじゃないか。
許してくれ。私はそう呟いたが、反応はない。確かめるために、振り返る勇気もない。狼に追い立てられる羊のように、私は歩いていく。本来のおまわりさんで危惧すべき、線香の燃焼時間なんてどうでもよくなっていた。
百一歩。半分を歩き終え、足音は近くなっていた。二、三メートと言ったところだろうか。乾いた口が激しく呼吸を繰り返しているが、それがとても自分の物とは思えない。奇妙な浮遊感を感じながら、一歩、また一歩と鳥居に近づいていく。
おまわりさん。おまわりさん。小さな灯りを点します。小さな灯りを捧げます。捧げた灯りがあるあいだ。決してこの身を消さないで。
あの文言が、聞こえる。後ろから?いや、前からか?鳥居の下に、一人の少年が居た。それはかつてとてもよく見慣れていた顔で、彼はにやけた顔で手に持ったハサミを何かに向けている。
少しして、二人の少年が鳥居にやって来る。二人は、手に持っていたハサミを隠した少年が見せた何かを確認して、恐怖で顔色を変えた。周囲をぐるりと見渡し、何かがやって来るのを恐れているようだった。
すぐさま三人の少年の姿が霧散する。私は、鳥居にまで無事に戻って来れたようだ。もはや追従する足音は私とほぼ一緒のタイミングで聞こえる様になっていて、それは得体の知れない何かがすぐ後ろに居ることを意味していたが、後は線香を確認して後処理をするだけだ。
線香を見る。
「そんな……」
思わず言葉が飛び出した。線香は、少しも縮んでいなかった。今まさに火を付けたかのような状態で、その身を横たわらせている。どれだけ歩いたか分からないが、少しも燃焼していないなんてあり得るわけがない。
線香を確かめようと、手を伸ばす。
その腕が、青白い手に捕まれた。
私は叫んでいた。何と言ったのか自分でも分からない。私の腕を掴んだそれは。手に負けず劣らず青白い顔をした少年姿のAは、笑いながら凄まじい力で私の動きを留める。
その内にもう一つ、青白い手が伸びてきた。その手は、私のズボンのポケットを素早く弄る。そうしてその中の錆びた物体を取り出し、その手の持ち主、少年姿のBはやはり笑顔でハサミを私の手に握らせた。
おまわりさん。おまわりさん。小さな灯りを点します。小さな灯りを捧げます。捧げた灯りがあるあいだ。決してこの身を消さないで。
二人は低い声で文言を唱える。繰り返し、繰り返し。
私はハサミを離そうとしたが、Aはそうさせなかった。とてつもない力で、私の腕を移動させる。燃える側から、丁度三分の一。ここをこのハサミで切ることを、彼が望んでいることは分かっていた。
頼む、許してくれ。すみません。ごめんなさい。謝罪の言葉を並べ立てた私のハサミを握る指に、Bの手が添えられる。彼は笑顔で、そして躊躇いなく私の指を強く握り潰した。
錆びたハサミの刃先が動く。
それはいともたやすく、線香を両断した。
目を覚ますと、眩しい陽光が視界を襲ってきた。私は、鳥居の真下で大の字になって気絶していたらしい。すぐさまAとBの姿を確認しようとするが、それはどこにもなかった。跡形もなく、消えていた。
ライターも、ハサミも無くなっていた。いや、その破片らしきものは地面に落ちていたが、拾い上げるとすぐに形を崩してしまったのだ。
終わったのか?それとも、私の妄想だったのか?
判然とせず歩き始めた私の足音に、ほんの少し遅れて足音が響いた。意を決して振り返るが、誰もいない。だが、確かに聞こえる。
その出来事から一年が経ち、足音はより近くに聞こえる様になってきている。いつか自分の足音と、この足音が全く一緒に重なった時、AとBが私を迎えに来るのではないかと気が気でない。
だが、それも仕方のないことかもしれない。私も子供の頃、最後に行ったおまわりさんで彼らの線香を三分の一に切ったのだから。それは彼らを驚かせるための子供の悪戯だったのだが、もしそれが原因で彼らが亡くなったのなら、その咎は受けなければならないだろう。
きっと、短くなった線香が燃え尽きたとき私を迎えに来るのだろう。そしてそれは、そう遠いことではない。
だが結局、おまわりさんとは何だったのだろう。私は少しでもそれを明らかにするためにこの話を書いて情報を求めるが、成果はないだろう。
不可思議なものに道理なんて通じないのだろうから。