イヌになったイス
古道具屋に置いてあったイスを、通りがかった男が気まぐれで買っていきました。
そのイスのちょっと変わった見た目が気に入ったからです。
イスは短い2本の脚と長い2本の脚がすじかいで固定されており、座面と背もたれの役割を果たせるように曲げられた1枚の茶色い革を4本の脚で支えている造りでした。
座り心地は男にとって申し分なかったようですが、どういうわけかその男はこのイスを見て『こっちに背を向けたイヌみたいだ』と言って笑っていました。
イスにはイヌというものが良く分かりませんでしたが、イスが連れて行かれた家にいた男の子も『大きいイヌの背中みたい』と言ったので、どうやらイヌというのは自分とよく似た生き物なんだなと考える事にしました。
実はこのイスは、長い間使われているうちに意識のようなものが宿っていたのです。
しゃべったり動いたりすることは出来ませんが、周りの景色の様子や、人が何を言っているかを感じ取る事は出来ました。
イスを買った男の奥さんは『また無駄遣いをして』と怒っていましたが、男の子はイスをだいぶ気に入ったようでした。
彼は時たまイスに座って『お前ぐらいの大きさのイヌがいたらいいんだけどな』と言って、イヌの写真を見せてくれることがありました。
そんな事がくり返されるうちに、イスは段々イヌという生き物がどんなものか分かってきました。
イヌは4本足でしっぽが生えていて、人間の友だちとでも言うべき生き物だそうです。
イス自身も、自由に動き回れる生き物になれることは素晴らしい事だと感じていました。
人間が座れるように同じ姿勢を取り続けるのも、意識があるのにだれにも相手にされないのも、とても退屈だったからです。
この家に買われてから1か月が経った時、イスに座っている男の子がこんな話をしていました。
「今日は流れ星が見えるかもしれないんだって!! ぼくは大きなイヌが欲しいってお願いしようかな!?」
彼と母親の会話によると、どうやら流れ星に向かって3回お願いをすると、どんな願いも叶うそうです。
どんな願いも叶うというなら、自分がイヌになってみる事も出来るのだろうか。
イスはそんな風に考えて、窓の方に注意を向けて流れ星が現れるのを待つことにしました。
夜になった時、窓をずっとながめていた男の子が声を上げました。
「あっ、流れ星だ!!」
その時、窓の外に一本の光の線が描かれるのをイスは感じ取りました。
「大きなイヌが……ああっ、間に合わなかった。よし今度こそ!!」
子供は窓に自分の顔を押し当てて、次こそ願い事を言おうと待ち構えています。
イスも声を出す事は出来ませんが、願い事を念じる準備をしました。
その次の瞬間です。
ひときわ強い光が窓の外に現れて、さっきと同じように線を引いていきます。
子供はすかさず願い事を唱えます。
「大きなイヌが欲しいです! 大きなイヌが欲しいです! 大きなイヌが欲しいです!」
イスも念じます。
(私をイヌにしてください私をイヌにしてください私をイヌにしてください……)
願い事を3回くり返して念じたその時です。
外が急に明るくなり、部屋じゅうが窓から入ってきた強い光に包まれました。
部屋の景色が、男の子や母親の姿が、光の中にとけていきます。
(これは……一体……)
強い光を浴びながら、自分の意識が遠くに消えていくのをイスは感じていました。
(何だ……これは……不思議な感覚が……)
意識を取りもどした時に、イスはいつもと同じ部屋にいました。
ずいぶんと長い時間気を失っていたようで、窓の外には星ではなく、太陽がかがやいています。
ただ、自分の身体にとてつもない変化が起こっていることはすぐに分かりました。
イスの4本の脚は、毛が生えたイヌの足に。
イスの座面と背もたれだった1枚の革は、イヌの大きな背中に。
ふさふさのしっぽと垂れた耳。
イスの時には無かった目も鼻も口もあります。
イヌの目はあまり良くないので、自分の姿をはっきりと確認することは出来ませんが、イスだった時よりははっきりと周りの事が分かります。
イスは、大きなイヌになっていたのです。
(本当に、願いが叶ったのか……?)
とりあえず、大きくのびをしてから部屋の中を4本の足でゆっくり歩いてみました。
イスの時には動く事は出来ず、同じ姿勢を取り続けるよりほかなかったので、動き回れること自体がイスだったイヌにとっては新鮮な体験でした。
窓から差しこんでくる日の光を浴びると、身体全体にイスだった時には感じなかった温かさを感じました。
そのまま部屋の中を見て回ります。
イスだった時より身体の大きさはひと回りくらい小さくなっていますが、イスだった時には広いと思っていた部屋がイヌになるとずいぶんとせまく感じました。
ある程度部屋の中を見て回ってみると、やる事が無くなってしまいました。
仕方がないので、元々イスが置かれていた場所でじっと座っておくことにしました。
それからしばらく経つと、部屋のドアが開けられて、あの男の子が入ってきました。
(おや、あの男の子がお帰りか。彼はどんな反応をするだろうか。念願のイヌが部屋にいるんだから、さぞおどろく事だろうな)
そんな風にイヌが考えていると、男の子は意外な反応をしました。
「ただいま、ダニエル! さびしくなかった?」
男の子は、そこにイヌがいるのが当然といった感じであいさつをして、イスだったイヌの全身をなでまわしました。
ごていねいに、ダニエルなんて名前までつけられています。
(これは一体……)
イヌは少しとまどいました。
まるで自分が元々ずっとイヌだったかのように接してくる男の子にされるがままになっています。
「少し休んだら散歩に連れて行ってあげるからね!」
ひとしきりイヌをなで終わった男の子が部屋を出ていくと、改めてイヌはこの状況が摩訶不思議なものだと感じました。
散歩に連れて行ってくれた男の子は、色々とイヌに話しかけてくれました。
1か月前に、彼の父親がイヌを連れてきたこと。
男の子はイヌをたいそう気に入って、こうして学校の帰りによく散歩に連れて行ってくれていること。
それ以外にも、学校の話などをしながら、イヌの首輪につながれたリードを引っ張っていきました。
イヌは男の子と一緒にゆっくりと歩いていきます。
これほど長く外の世界を歩き回ったことはありませんでした。
周りの景色、鼻から伝わってくる匂い、耳に響いてくる様々な音。
そのどれもがイヌにとっては未知のものでした。
命ある生き物になって自由に動き回り、様々なものを感じ取れるというのは素晴らしい事だと考えました。
しばらく散歩をすると、男の子は公園のベンチに座りました。
イヌも男の子の前にしゃがみこみます。
男の子はイヌの頭をなでたりしていましたが、少し離れたところを通りかかった女の子に気が付いて、声をかけました。
その子は、何やら小さな生き物を抱えている様子でした。
「マリア! 君も散歩かい?」
男の子に声をかけられると、その子は立ち止まって振り向きました。
「ああ、アレクじゃない。今日もダニエルと一緒にいるのね」
女の子は、抱えていた生き物をなでながら言いました。
なでられた生き物は、ニャーオという声を上げています。
「ネコと散歩とはめずらしいね。それにしても小さいなぁ」
「この子はケティって言うのよ。かわいいでしょ?」
ネコという生き物は、イヌも聞いたことがあります。
男の子から、イヌと同じように人間の友だちと言うべき生き物だと聞かされていました。
イヌは、女の子が抱えている小さなネコを興味津々(きょうみしんしん)で見つめました。
「ちょっと、じろじろ見るなんてしつけがなっていないじゃない」
イヌがネコを見続けていると、女の子が警戒した様子で距離を取りました。
「ああ、ごめんね」
「ごめんじゃないわよ。こんな大きい生き物にせまられて、ケティがどう思うか考えてごらんなさいよ」
女の子からは、怒っている人間の匂いがしているのをイヌは感じ取りました。
男の子は、リードをしっかり握り直しながら言いました。
「ああ、悪かったよ。でも見てごらんよ。ダニエルはぼくの友だちで、何でも言うことを聞いてくれるんだよ。君のネコも、ダニエルと友だちになってみればいいんだよ。そうすれば、怖く感じるどころかむしろ頼もしく感じるんじゃないかな?」
「イヌとあなたが友だち? よく言うわね。イヌってのは、ネコと違ってだれかに従わないと生きていけない生き物じゃないの。ただ自分に従っているだけの生き物を、普通は友だちとは言わないわ。ネコは自由に生きる生き物だから人間の友だちになれるけど、イヌじゃ無理よ」
女の子は、ネコを抱えながら男の子を見下ろして言います。
「……それは言いすぎだよ。君が何と言おうと、ダニエルはぼくの友だちだし、少なくとも君なんかよりぼくを分かってくれてるよ」
男の子はそう答えましたが、女の子はさらに言い返しました。
「男っていつもそうね。自分に従うものや自分より弱いものとしか本心で向き合えないのよね。私もケイトも、あなたやあなたのかわいそうなイヌなんかと友だちになりたいなんて思ったりしないわ」
女の子の言葉に、男の子は顔を真っ赤にしています。
怒っているような、悲しんでいるような、さびしげな、何とも言えない匂いが漂ってきて、イヌはとまどいました。
「大人しくて暗いだけならまだ良かったのに。イヌが来てから変に気が大きくなったみたいで、本当にどうしようもないわね」
そう言うと、女の子はぷいっとそっぽを向いて立ち去ってしまいました。
「……ダニエル、帰るよ」
男の子はしばらくぼうぜんとしていましたが、立ち上がってリードを引っ張ると、家へと歩き出しました。
「だれもぼくの事をすごいと思ってくれない。ダニエルとはこんなに仲良くしているし、世話だってしているのに……」
家に帰る道中、男の子はぽつりぽつりと独り言をもらしています。
「ダニエルの事をほめてくれる子もいない。こんなはずじゃなかったのに。大きなイヌと仲良くなれば、自分に自信が持てるようになるし友だちも増えると思っていたのに……」
男の子からずっとさびしげな匂いがするのが、イヌには気がかりでした。
「ダニエル、お前はぼくの友だちだよな?」
話しかけてきた男の子を元気づけようと、イヌはワンッ、と鳴きました。
「そうか……」
男の子は、あまりうれしそうではありません。
「主人に従うのがイヌの本能だとしたら、それは従わせているだけで本当の友だちではない、ってことになってしまうのかな」
その後も独り言は止まる気配がありませんでした。
「だとしたら、ぼくもイヌを友だちだと思っていない、って事なのかな……?」
男の子の口からもれた言葉が、イヌには引っかかりました。
家族みんなが寝静まった後で、イヌは考えました。
どうも様子がおかしい。
イヌは人間の友だちではないのか?
男の子は、そう言ってイヌを欲しがっていたではないか。
でもさっきのマリアという女の子の話や、帰り道の男の子の話を聞くとどうも違うようです。
イヌは主人に従うもの。
自分も本当はそういう役割を期待されているのでしょうか?
何だかよく分からないまま、イヌは眠りにつきました。
それからしばらく経ったある日のことです。
男の子はしばしば散歩をさぼるようになり、母親が代わりに散歩に連れていく事もありました。
どうしても毛が落ちてしまうのですが、その掃除をするのも母親です。
エサやりやトイレの掃除も、母親がやる回数が増えていました。
「まったく、アレクの気を引くために、よりによってこんな大きなイヌを連れて来て……本当に信じられない」
母親はよく、そんな風に独り言を言っていました。
「父さんもアレクも、好きな時に世話をするだけで。いつもの世話は全部私じゃないの。ダニエルも……」
自分の名前を呼ばれた気がして、イヌは振り返りました。
母親は一瞬目線を合わせたかと思ったら、すぐに目をそらして続けました。
「ダニエルも、自分の事は自分でしてくれたらいいのに。食べて寝て、そればっかりじゃない」
不機嫌そうな様子で言っているので、おそらく自分の事について文句を言っているのだなとイヌは考えました。
その日の夜、男の子の父親が帰ってくると、何やら母親と言い合いを始めました。
言っていることは良く分かりませんでしたが、ともかく日中よりも不機嫌な様子で母親が部屋から出ていき、父親だけが部屋に残されました。
しばらく何も言わないでいた父親でしたが、イヌの近くに寄ってきて、頭をなで始めました。
「全く。アレクもあいつもおれの事なんかなんとも思っちゃいないんだ。おれは本当に不幸な中年だよな」
何となくですが、父親は自分に相手をしてほしそうだと言うことが分かったので、イヌは左の前足を父親の右前足にポンと置いてやりました。
「お、少しは機嫌を取ることを覚えたのか? 飼われているっていう立場を分かっているじゃないか」
父親のは少し機嫌が良くなったようでしたが、イヌはその言葉に何かふくみがあるのを感じました。
「全く、家族が生活するための金をだれが稼いできているか、分からないって訳でもあるまいに。かといってそれを言った日にゃ『トーゼンのギム』とか『テイシュのセキニン』とかって返されるんだぜ? 嫌になるよなぁ。与えられるのは当たり前で感謝のそぶりもない。こっちの間違いや不手際は目をらんらんとさせて文句付けてくるんだぜ? 嫌になるのも無理ないよなぁ?」
父親からは怒りとやるせなさ、それとアルコールの匂いが漂ってきています。
「引っこみ思案のアレクがイヌを飼いたいって言うから連れて来てやったのに。おれが悪い事になっちまったら世話ねぇよな。ダニエル、分かるか? お前のせいでこっちは怒られてるんだぞ?」
ずいっと顔を近づけられて、さっきよりもアルコールの匂いを強く感じました。
「人間ってのは気まぐれなんだよ。お前みたいな飼われている存在に出来る事は、気まぐれな人間のご機嫌取りをせいいっぱい頑張る事だ」
父親はそう言うと、上着のポケットから何かを出しました。
それはひとかけらのビーフジャーキーで、とても美味しそうな匂いを放っています。
なぜかは分からないものの、イヌの意識はすっかりその肉のかけらに引き付けられてしまいました。
「よしよし、こいつが欲しいんだな。だったらおれの気分が良くなるようなことをしてみろ。ほら、さっさと考えるんだよ」
父親は立ち上がって、ビーフジャーキーを高いところでひらひらさせながらイヌをあおりました。
人間を喜ばせるにはどうすればいいか、イヌには良く分かりませんでした。
お手をしたりすればいいのでしょうか?
その場で回ったりすればいいのでしょうか?
色々考えているうちに、女の子の言葉や男の子の言葉、そうして父親の言葉を思い出しました。
人間は、本当はイヌが自分に従うことを求めているのでしょう。
男の子はイヌは友だちだと言っていましたが、それはもしかしたら本当ではないのかもしれません。
ともかく、自分が相手に従っている、というのを見せないと、ビーフジャーキーはもらえないのではとイヌは考えました。
不本意ではありましたが、その場であお向けになって、父親にお腹を見せてみる事にしました。
どうやらイヌというのは、自分が従う相手にはそうするもののようです。
「はは、こいつはいいや!」
父親は笑い声をあげると、イヌの口の近くにビーフジャーキーを持ってきました。
「ほら、ご主人様からのごほうびだ。ありがたく頂けよ」
口の前にあるビーフジャーキーを反射的に加えようとしたその時。
「おっと、気が変わった」
父親はビーフジャーキーを引っこめると、自分の口の中にそれを放りこんでしまいました。
イヌはぼうぜんとしています。
「分かったか? 気まぐれな人間の機嫌をとるってこういう事なんだぞ? 傑作だな、マヌケな面しやがって」
父親はそう言うと部屋を出ていこうとドアの方に近づいていきました。
ドアを開ける際に振り返って、
「くやしいか? なら野良犬にでもなって独りで生きていく事だな。野垂れ死にしたければの話だけどな! バーカ」
そう言ってひとしきり笑うと、バタンと音を立ててドアを閉めてしまいました。
話が違う。
友だちってこういうものなのか?
しかし、ネコと人間の関係というのはまた違うみたいだし、同じ友だちという言葉でもその関係性は異なっているのかもしれない。
人間ってこういうものなのか?
だが、自分がイスだった時には人間からこんな風に扱われることはなかったはずだ。
イヌは真夜中になっても考えていました。
どうやら自分がイヌになりたいと願った結果、こんな事になってしまったようだ。
だとすれば、これをやり直すことは出来ないのだろうか。
動き回ることは出来るし、人間と遊ぶことも出来る。
でも動き回れることは必ずしも自由とは限りませんし、今の自分はまるで人間のなぐさみものです。
イヌは人間に従うしかないのでしょうか。
父親の言葉通り、自分が独りで生きていけるとはとても思えませんでした。
ましてや自分はついこの前までイスだったのです。
せまい世界しか知らないイスが、家の外で生きていけるわけがありません。
自分がイスだった時も、イヌだった時も、人間は常にそばにいました。
しかし、イスだった時とは人間の反応は全く異なっています。
イスは置かれた場所にあるのが当然で、特に気にかける人間もいません。
座り心地や見た目を気にするくらいでしょう。
これがイヌとなると、人間は色々な反応を求めてきます。
イヌと人間の関係と、イスと人間の関係は比べようもありません。
イヌは生きていますしエサも食べます。
人間に負担をかける事もあると思います。
だからこそなのか、人間はイヌに気をかけずにはいられません。
そして、イスにとってそれはなんとも不愉快でつらいものでした。
このままイヌとして残りの一生を過ごすと考えると、とたんに怖くなってきました。
命があるゆえに動いている心臓が、キュウとしめ付けられるようにも感じます。
イヌがどんなものか十分に分かってもいないのに、イヌになりたいなんてお願いをしたせいでこんな事になってしまったのだと考えました。
本当に、もうやり直すことは出来ないのだろうかと、強く後悔しました。
その時です。
窓の外に強い光が現れ、弧を描きながら地上へと向かっていきます。
それはまぎれもなく流れ星です。
とっさにイヌは心の中で願いを念じました。
意識がとぎれるほど、強く強く念じました。
(私をイスにもどしてください私をイスにもどしてください私をイスにもどしてください……)
「……流れ星、消えちゃった」
聞きなれた男の子の声を感じて意識を取りもどすと、自分がイヌではなくイスであることを確認出来ました。
窓の外には星空が広がっており、男の子は流れ星に願いをかけようと窓を見ています。
どうやら、あの日のあの時にもどってしまっているようです。
(私は……今まで見ていたのは一体……)
流れ星に願いが届いたのか、それとも悪い夢でも見ていたのか、それは分かりません。
ただ、自分が人間というものをあまりにも知らなさ過ぎたのではないか、とイスは考えました。
「ママ、やっぱりイヌを飼ってくれないの?」
「ダメよ。イヌだって生き物よ。世話をするのも友だちになるのも大変な事なの。簡単に考えちゃダメ」
母親は男の子の言葉にそっけなく答えました。
イスがこの家に来てから、3か月が経ちました。
最初のころは文句を言っていた母親も、今ではイスがあること自体を意識する事も無くなりました。
男の子も、イスをめずらしがることも、イヌを飼いたがることも無くなっていました。
この家の人間たちは、気まぐれにイスに座る事はありますが、それだけです。
仕事に疲れた様子の父親が座ったり、母親が家事の合間に座ったり、学校から帰ってきた男の子が不機嫌な様子で座ったりすることはありますが、イスに話しかけたり、ああしろこうしろと言うことはありません。
(これで……良かったんだよな……)
イスは独りでそう考えました。
このまま時間が経てば、自分は他の家の持ち物になったり、あるいは古くなって解体される事でしょう。
それまで意識は宿ったままで、自力で動くことも出来ません。
ですが、イヌだった時のようにではなく、人間とはこのぐらいの距離感でいるのが自分にとっては丁度良いんだな、とイスは考えていました。
(だって、イスと友だちになろうとする人間も、イスを従えていい気になろうとする人間も世の中にはいないだろうからね)
窓からかすかに星明りが見える夜、イスはそんな事を考えながら朝の訪れを待っていました。