27 兄と弟
「兄上」
部屋に戻ろうとしていたニコラは、壁に寄りかかっていたエルネストを見て足を止めた。
「母上とは話をしたのか」
「はい」
「それで?」
「……ここでは何ですから、部屋へ」
自分の部屋に兄を招き入れると、二人は向かい合ってソファへ腰を下ろした。
「母上には驚かれ、怒られました」
「怒られた?」
「どうして黙っていたのかと。言ったところでどうにかなるものでもないからと答えたら、母親は頼りにならないのかと泣かれました」
「……あの人は」
エルネストは苦笑した。
王妃は普段、他の貴族の前では王妃として毅然とした態度を取っているが、身内や一度懐に入れた人間にはかなり甘い。
ニコラの想い人がソフィアであることを知り、おそらく何とかしようとするのだろう。
――だが、個人の恋愛感情だけで何代にも亘って続いてきた慣例を覆すのは難しい。
エルネストの場合は運が良かった。
二十歳で婚約者を決めると言っても、その何年も前から候補者選びは始まっている。
幼馴染であるソフィアは長く候補者筆頭だったが、国内の政情が安定している今は、貴族であればソフィアでなくとも良いのだ。
他国の姫を娶る必要もない。
だからソフィア以外の令嬢も候補として選考したい、などという突拍子もない提案も、賛否はあったものの受け入れられたのだ。
それに、二年前に密かに見初めていたリナに妃となれるだけの素質があったのも幸運だ。
そしてリナに未だ婚約者がいなかったことも。
リナはどの審査官からも及第点を得ている。
それはロンベルク公爵家による教育の賜だろう。
――その公爵家から何度もリナを家に帰すよう訴えがあるのが最大の障害だ。
ソフィアが本人から聞き出したように、あの家はリナに対してかなりの過保護なようだ。
確かに小柄で可憐な見た目のリナだが、自ら傷つくことを恐れず身体を張って友人を守る強さも持っているのに。
「ついでに母上に話しましたよ」
ニコラが口を開いた。
「何をだ」
「リナ嬢は兄上の初恋相手だから、僕の妃になどと言わないでくださいと」
「バラしたのか」
「どうせすぐ知られるでしょう。いつ知り合ったのだと聞かれたから二年前と答えたら、それがきっかけだったのねと納得した顔になりましたよ」
エルネストは弟ニコラや幼馴染のソフィアに対しても少し距離を置くような、まして臣下たちの前になると決して感情を見せない、陰で『氷の王太子』と呼ばれるような少年だった。
それが二年ほど前から、まだ近寄り難さはあるものの顔つきも穏やかになり、人当たりが良くなった。
喜ばしい変化ながらも周囲は戸惑い、ニコラ達も不思議に思い当人に聞き出したところ――まさか恋を知ったことによる心境の変化がきっかけだったとは。
(確かに一目で兄上の心を奪っただけはあるな)
初めて会ったリナ・ロンベルクの顔を思い出してニコラは内心頷いた。
かなり小柄で華奢な身体に白い肌。
無垢なその容姿の中で特に目を引く、濡れたように黒い大きな瞳に見つめられると、心にソフィアがいるニコラでさえ一瞬ドキリとしてしまう。
そんな少女が突然目の前に飛び出してきたのだ。
『帽子の天使に会ったんだ』と、どこか遠くを見つめながら呟いていた兄の顔は初めて見るものでニコラはひどく驚いたが、実際のリナを前にして兄の反応が理解できた。
「……それで、母上から伝言です」
「伝言? 何と」
「リナ嬢は『ライラック』なのだから、本当に妃に娶るつもりなら大切にするようにと」
「ライラック?」
「花の名前ですね、この時期咲いているそうですよ」
「どういう意味だ」
「さあ」
兄弟は顔を見合わせ、首を傾げた。