ホーム下の記憶
額を滑り頬へと垂れたベタつく汗を手の甲で拭う、ここ数週間の仕事はハードで自然に睡眠時間が少なくなっていた。
課長の重責というものが、こんなにも重いものだなんて思ってもいなかった。
「それにしても暑いな……」
通い慣れたはずの駅構内の一画をあてどなく歩くが、いつまで経っても馴染みのある場所へはたどり着けない。
会社が終わり、最寄り駅へとたどり着いたまでは覚えているのだけど、ここまでどこをどう通ってきたのかが何故だか思い出すことが出来なかった。迷宮などと揶揄される事はあっても本当に迷うだなんて。
「缶ジュース一本買えないなんて、笑えないな」
慣れた駅で迷うほど疲れている原因は睡眠不足のせいだろう、今日は帰ったらすぐ寝ないと。
ならばと重い足を動かして構内を再び歩き出した。
「あ」
三叉路の真ん中にこれまでは見なかった人影を見つけた、それも良く見知った服装の。
「駅員さん」
帽子を目深に被っているので表情は見えないが、自分以外の人がいる事に安堵した。
「すみません、少し迷ってしまいまして」
自分の言った言葉に気恥ずかしくなるが、今はそんな恥など捨てて置こう。
「4番線に行きたいのですが、どちらへと行けばいいのでしょうか?」
直立不動の態勢だった駅員は少しだけ顔を上げると、ゆっくりと左手を持ち上げそのまま真横の道を指さした。顔を上げたというのに目が見えない事に違和感を覚えたが、その口は口角が上がっていて笑っている事が分かった。
「あっちですね? ありがとうございます」
私は一言も話さない駅員にお礼を告げると、その道へと向かった。
※
「本当に合っているのか?」
駅員と別れ、かれこれ十分ほど歩いているはずなのだがどこにも辿り着かない。
こんなおかしな事があるのだろうか?
「流石に疲れた、ちょっと休むか」
さっきから誰ともすれ違わない構内に自分の声が響く、どうせ誰も聞いていないんだから気にならないが。
ゆっくりと壁に背を預けながら腰を下ろす、体全体から疲労感が湧き起こり視界まで霞む。
なによりも、
「はぁ、喉がカラカラだ。もう歩けないな」
サウナかのように暑い中を歩き続け、喉の渇きは限界を迎えそうだった。
とはいえ明日も仕事があるのだから早く家に帰らなければ。
歩けないなんて子供みたいな愚痴は無意味だ。
仕方ない、もう少し頑張るか。
「うん?」
霞んだ視界の中に売店のようなものが見え、目を擦る。
間違いなく、それは売店だった。
先程までそこには何もなかったと思ったけど、そんな事はどうでもいい! 何か飲み物を!
「すみません! なにか飲み物を!」
掘っ立て小屋のような木造の売店にはたくさんの新聞や駅弁、おつまみなどが売っていたが、どれも見た事のない物ばかりだった。
その奥に笑顔でこちらを見ている女性が立っている。その笑みは穏やかなのだけど、なにか違和感があった。不気味だ。
「あの、飲み物を」
異様な雰囲気に飲まれ声が小さくなるが、売店の彼女は笑みを崩さずに商品棚の影へと姿を消した。
棚の向こうで作業をしているような音はせず、ただ時間が流れる。その間、軽めにストレッチをして筋肉を解すが、学生時代とは勝手が違い関節が痛む。
そうやって全身を一通り動かしたが、店員は姿を見せない。どうしたんだ?
「すみません」
声をかけるが返事はない、いくらなんでも時間がかかり過ぎている。
「どうかしましたか?」
不気味な笑みを思い出したが売店の中で熱中症かなにかで倒れていたら、と考えると様子を見ない訳にはいかなかった。
ゆっくりと売店へと一歩近づく、ふと鳥肌が立っている事に気づいた。なぜだ?
そんな事を気にしていてもしょうがないと、更に一歩近づき売店に手を……
目の前にあの笑顔が現れた、鼻先数センチをいうほどの距離に。
「ウッ……!」
声を出しそうになったが、慌てて口を押えた。
「す、すみません……ちょっと驚いてしまって」
体を後ろに反らして距離を取る、どうしてか彼女の顔を直視出来ない。
いや、したくない。理由は分からないが長く見たくないんだ、失礼な事だと頭では分かっているが心は拒否している。
視線を顔から落とすと彼女の手に何か握られているのが見えた、それは見慣れた缶ジュースだった。
「それ下さい!」
慌てて財布の中から千円札を渡し、缶を受け取るとプルタブを一気に剥がした。
このジュースを飲むのは小学生の時以来だから、ちょっとだけ楽しみだったのだが、
「ん? 味がしない?」
このジュースはブドウ味のはずなのだが、なぜか水を飲んでいるような気分だ。よく分からないが、二十年以上経ち色んな改良が施された結果なのだろうか?
ただ無味無臭な物だとしても、液体は喉を十分に潤わせてくれた。もう少しだけ頑張れる。
「ありがとうございます。あ、おつりは結構ですので」
こんなセリフをいう機会があるなんて思ってもなかった。
「すみません。このゴミ捨てておいてもらえますか?」
店員さんを見ると、あの笑みのまま固まっている。
「じゃ、じゃあ、お願いしますね」
売店のテーブルの上に缶とプルトップを置いて、その場を逃げるように歩き出した
※
再び歩き始めてニ十分ほど経ったはずだが、いまだにホームへと続く道は見えない。
それどころか、一本道の通路の中はだんだんと暗くなってきている気がする。更に空気が肌寒く感じる、さっきまでの熱気が嘘のようだ。
一歩ずつ進むたびにソレは徐々に増して、
プチン!
辺りから光がなくなり、周囲の物が見えなくなった。
「な、なんだ!?」
さらに冷気が通路の向こう側から吹き付けてくる。まるで真冬の風だ、寒さで体の震えが止まらない!
「う、ウゥ……」
足が動かなくなり、膝から崩れ落ちて床に座りこんだ。
もう動けない……寒い……
座った状態のままで頭から地面に突っ伏した、ぶつけた頭が痛いのかどうかもワカラナイ。
「ぁ……ぅ……」
口が動かないが、口の中から音だけ漏れる。
せめてもう少しだけ……先に……
真っすぐに伸ばした手は地面を掴み、体をそこへと近づかせるように縮む。
「うぅ……う?」
視界がはっきりとしている。
「あ、明るい? それに」
寒くない、それに暑くもない、快適だった。
「は、はぁー。なんだったんだ、今のは……」
人生で感じた事のない恐怖に身体が震えている。
「と、とにかく先に進んで」
一気に立ち上がり、また歩き出す。
毎日のように見ている白いタイル壁は明かりを反射している、その中をただ進む。
一歩、また一歩。
白いタイル壁の繋ぎ目の黒が白いタイルを侵食して広がっていく、それは歩行の速度と合わせてどんどんと拡大。
壁一面が黒に染まるまで時間はかからなかった。
「帰らないと」
自分の頭の中にはそれ以外浮かばなかった。
いや、周りの様子ははっきりと見えているし考えているのだけど、自分の体だけがひとりでにそこへと向かって進んでいる感覚だった。
壁の黒さが先程の工程を逆再生しているかのようにタイルが真新しく綺麗になっていく。
そして今度は壁が赤く変わっていく、それはレンガのようだった。地面も同じように変化していた。
このまま進んだらどうなるんだろうか? だけど、なぜか足を止める事は出来ない。
赤い壁がまた変化する、今度は木造で地面は土に。
タイルからレンガ、そして木造。まるでタイムスリップでもしているかのように思える。
カツ、カツ、カツ。
木造から光が溢れる通路へと変化した、そして一歩。
カッ!
右足で地面を踏みしめた途端、地面が割れて体のバランスが崩れる。
ゆっくりと体が横倒しになり、光の世界は見覚えのある場所へと変容していく。
どさっ!
倒れた体を起こして周囲を確認する、手には無数の小石と金属の感触。
ここはホームだ。
フォン!
音の方を見ると眼前にあったのは銀色の金属の塊、それが猛スピードでこちらへと接近していた。
いつの間にか線路に落ちていたのか!?
慌てて体を起こす、さっきまでの違和感はもうない。
誰かの悲鳴が聞こえる、喧騒がどんどんと大きくなる
ふと、思い出した。
ホームの下には転落した時の為に窪みがあるというのを聞いた事がある。
目線を動かしながら少しでも近づこうと体をそちらへと向けた。
ホームの下に開いた穴になにかが詰まっている。
暗い中でなにかが動いていた。
徐々に目が慣れて、それがなにか理解できた。
人だ、人のパーツ。
前腕部、大腿、耳、口、胴、内蔵、そして無数の目。
そんなモノがおびただしい数、詰め込まれていた。
それでも助かるには……! と、腕を必死に伸ばしたが。
グシャ。
内臓が潰れ、体液が飛び出し、腕や足がもげていくのが分かった。
そのまま意識が消えた。
※
「!!」
目を見開き、体を触る。そして辺りを見回した。
「良かった……」
夢だった。
内容に現実味は一切なかったというのに、明確に体験した事だと頭が認識している。
ホームのベンチに腰かけたままの全身が冷や汗でびしょ濡れだった。後味の悪い悪夢を見てしまったものだ。
「……そろそろ来るな」
時計を見ると目的の電車が来る時間だった。
ベンチから立ち上がり、4番線へと向かう。
誰かとすれ違った。
「お前も一緒に……」
ドン。
なにかに突き飛ばされた。
暑さと疲労でボロボロになった体は衝撃に耐える事は出来ずにそのまま後ろへと進む。
カッ!
なんとか無理矢理止めた右足は余計な反動を生んだ。それは体を宙へと浮かすのには十分だった。
フォン!
目の前に見慣れた電車がいた。
誰かが叫び、人々の悲鳴が重なる。
目の端で見たホーム下の穴から無数の誰かがこちらを見ていた。
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