最終章「雪降る野原に、愛を繋いで」
<最終章序編 がんじがらめの小鳥、と、もの悲しげな庭師>
第一幕「あそびとぼくらの日々」
ぼくは、木が好きだった。
ぼくの周りには、小さな苗木がいくつも植えてあって、そこがほくのためだけの庭だという事実が、ぼくを幸せにした。そう、たとえ友だちを作ることができなくたって、たとえ外の景色を見て回ることができなくたって、ぼくは、この庭さえあってくれれば、ぼくがここで呼吸して、寝ころんで、草の匂いをかいで、あちこち走り回って、そして夜になって、草や木がぼくに話しかけてくれて、その中でぐっすりと眠れさえすれば、ぼくは満足だった。いっぱい、いろんな宝物があったから、ぼくはほかの子よりも、きっと、幸せだった。
苗木だけじゃない。ぼくががんばって見上げても全然てっぺんの見えないくらいの大きな大きなやさしい木が、いつもぼくのそばにいてくれた。ぼくはその時、かれの言葉がわからなかったし、しかたなく名前をきけなかったけど、かれの近くに行くときまって、かれはざわざわ、とあいさつしたから、ほくもその音を口まねしてあいさつ代わりにしていた。
かれに寄りかかって、おいしいくだものを食べて、ひる寝をすることもあったけど、一番に良くやったのは、何より木のぼりだった。何度もやったのもあったし、何度もころげ落ちたものだから、手はちまめだらけだった。でも、ぼくは大好きだったから何度でもやった。かれのあたたかい体に思いきりしがみつくのが楽しかった。ぼくは、そのぬくもりが大好きだった。
てっぺんに行けば、緑色の葉がきれいにまぶしく輝いていた。てぢかな枝をいすにして、太陽の光を手でさえぎるようにして、景色を眺めた。どこまでも広い草原が、あたりいちめんに広がっていた。青い空も。でもその空は、少し "うそ" が混じっているということは、幼いながらも感じていた。だから、ぼくはあまり空を見上げるということはなかったように思う。
ぼくがこどもだった頃は、香りのないさりげない風のように、静かな速さで流れていった。
第二幕「力弱き者」
僕は少年になった。それが証拠に僕は自然と語らうだけでなく、他人というものにも自覚的になった。
彼はずっと前から僕の世話をしていてくれた。名前は知らない。ただ、彼が自分を何とも呼ばないでくれと言っていたから、そうしていた。
ずっと以前から顔を合わせ続けてきたにもかかわらず、僕と彼とがまともな会話を交わすことはただの一度もなかった。僕が避けていたのもあったろうし、彼自身、特にそれを求めているようでもなかった。時折服の替えや食事を持ってきてくれたり、風呂を沸かしてくれたりする。それが、僕にとってある時期までの彼の全てだった。
いい加減しびれを切らしたとでも言うように、僕と彼とが共に過ごす時間が爆発的に増えた。いろんなことを聞いた。いろんな疑問をぶつけた。そして僕は、段々と、自分の置かれた立場を知るまでに至った。
彼が言うには、どうでも良いことだが僕は王子だった。僕はたいそう親である王に可愛がられているということで、寵児として半ば幽閉するようにこの庭での生活を強いられているとのことだった。気持ちの悪い愛の形にウンザリしながら、それでもこのお気に入りの庭をくれたには、形骸的に慕う気持ちを持っていた。なら何故会いに来ないのかと聞くと、遠くで見守るだけで十分だからそれで良いということで、それ以上を聞き出すことはできなかった。
文化を学ぶ。歴史を学ぶ。エリクエク・エスタル、「輝ける真実の光」という国の、レ・フという王のただ一人の愛し子として、ハルクトという星の小さな一点で、僕は、彼の口から流れ出る知識の一つ一つを、溶解液に満ちた飢えたスポンジのように、吸収し続けていった。言ってみれば僕は、それ以外に能のない、そのほかに取るべき行動のない、呼吸を続け、水を飲むだけの〈苗木〉同然だった。苗木は、一人で何処までも何処までも、寂しさに体を軋ませながら、天を目指さなければならないのだろうか。
第三幕「Princess of songs Singalio Rou' Se lef」
ボクは天使と出会った。
空の嘘が何であるか、その頃にはもうすでに悟っていた。これは過去のものだ。知るよしはないのだ。鳥が、空を切り裂くように軽やかに通り過ぎて行くし、雲も忙しく空の色を塗り替えて、塗り替えては違う彩りを添えていく。青白く不健康そうな空がいちどき顔を見せていたかと思えば雲はその顔を異常なまでに白いナプキンで強引に拭い、強烈な汚れで炭と灰のミックスジュースを含みだし、そしてその絞り汁が空を見上げるボクの顔面を襲う。やめてくれ。何をやめて欲しいのか、それはまず確実に、降り注ぐ雨に対しての思念ではなかった。たぶん、ボクに嘘をついた空に対して。ボクをとりまく、匂いのない温もりのない感情のない意味のない、不快で不気味な空気に対して。そして、ボクのいるこの庭と、この体に対して。青い嘘つきの壁を貫いて、その向こうの本当の、ボクがきっと力強く踏むことのできる大地に、飛んで行きたかった。それがたとえ嘘でも、ただ一度でもいいから、力強く、自らの生を歩む実感が欲しかった。
その日も、ボクは降りしきる雨の中、横たわりながら青い天井に向かって声を失うほどに鳴咽していた。子供でもこんな泣き方はしないだろうというほどに、止めどなく目からいたいいたいと叫ぶ涙を流して、無邪気に転げ回った。うわあい、うわあい。心は、痛みを麻痺させる精神薬として、過去の、少なくとも幸福を味わっていた幼少期のことを、ジグソーパズルのように滅茶苦茶に脳に繋いでいた。
そんなことをしているうちに、だ。ボクは一瞬、見た。美しい草原の、いや、美しくなった草原の、そのただなかに、輝かしい太陽があったのを、見た。背筋をそれこそ何か細長い生物が勢い良く駆け上がった気がした。大きくボク自身がのけぞったような気がした。ただ目だけが、それを正常に追っていた。
太陽の下。薫り高く空気を演出するありとあらゆる緑の天才たち。熱せられた空気の中で、何かにたぐりよせられるように優雅に揺れ動く虫たち。瞬間ごとに、それぞれが皆一分の隙もない位置へと確実に移動している。ある者は草の葉の間を、ある者は彼らの空の空気と空気の流れの隙間を、ある者は、引かれ合うお互いの、縮むことのない小さな宇宙の周りを、ある者は、笑顔を振りまく花々に、一生懸命の挨拶を、ある者は、高貴で可憐な、土と水と太陽の彫刻に口づけを。それを、手に取る者がある。手に取り、ゆっくりと軽やかに、鼻に近づけ、すっと香りをかぐ。まるで、花がため息をついて、その人の姿に見とれているようだ。清浄な口元から、小さく吐息が漏れて花にかかる。だが、もうその花は動きを完全に止められてしまったようだ。かかってきた息に当たり前に花びらを揺らされると、後はじっとそのままだ。
そこで、僕の意識は現実に戻らざるを得なくなった。何故なら、彼が僕を揺さぶってきたからだ。目を瞬いて彼に目を向けると、何か困った顔で、僕を見つめている。僕はすぐさま今まで心を捉えていた光景についての疑問を刺々しくぶつけた。最初は言うのを拒んでいたが、最後には口を割って話す気になってくれた。
結局、何のことはないのだ。つまり、僕の直感通り、僕の周りの全ての光景は、過去、この地がそうであった映像を垂れ流しにしているに過ぎず、実際に存在している物などごく僅かなのだそうだ。元々感づいていたことなので、衝撃もごく微少だったし、科学の欺麟にも躍らされていなかったのだと、自分の人間的な感覚が生きていたことが嬉しくもあった。
彼女、つまり、過去この地で、花を摘み、花の匂いをかいだであろう人物については、あまり多くを語ってはくれなかった。ただ聞くことができたのは、彼女が我々人類にとって重要な、歌姫、という人だということだ。シンガリオ・ロウ・ザ・リーフ、という、立派な仕事なんだそうだ。僕は、でもそれだけで十分に満足して、彼にさらに疑問を投げかけるのをよした。シンガリオ・ロウ・ザ・リーフ、か……。僕は勝手な鼻歌を口ずさんで、彼を後にした。服は、濡れっぱなしだった。
その後その言葉の真意を知るまでには、いくらかの歳月を経ることになる。
<最終章 雪降る野原に、愛を繋いで>
第一幕「歲月」
あれから、幾年かがたち……。そういえば、随分と似てきたものだと思った。アイカのことだ。どうしても、記憶にある歌姫の姿と今の彼女の姿とが、重なって見えてしまうのだ。いや、私の記憶さえ確かならば、彼女とそれとは全く同一だ。そこで私は、ある驚愕すべきか驚喜すべきかの思考に辿り着いてしまった。つまりは、私の心の中にある、小さな一つの、それでいてその存在は圧倒的な光彩の球となって私を捉えて離さない、微かな恒久の憧れである歌の君の姿そのままが、今こうして何事もないように私の目の前にいるような気がするのだ。 恍惚する精神がある中で、脳裏は確実にその異様さを感じ取っていた。
そこには、私の胸を締め付けるような、悲しい裏づけが幾つかある。一つには、服。アイカの、締麗な、黒いドレスだ。なぜそうまで艶やかなのかというくらい、清楚で整然としたその衣装は、彼女の髪にも負けず劣らず、その体にとても良く合っている。何故だか、合わさっているのだ。彼女の背丈に合わせて、その服もまた大きくなっているのだ。しばらくは気づかなかったがそのうちになって私は気づいて慄然とした。これじゃまるで.……植物だ。静かで、自らを華やかに見せる力を持っていて、逞しく、他に依る術を知っている力強い、一個体の生命体なのではないか。だとしたら、私は……寄生されているのではないのか。そう思った後すぐに、私は自分の考えの不気味さと醜さに怯えた。
他にも幾つかある。アイカが意識なく自らという深く暗い海の底の漂流者であった時、彼女は碌に食事をしなかった。植物の液を飲ませたり、水を飲ませたり、そうしたことはできたのだが、ただ、最近ではそれだけではどうしても不十分だったように思えてきた。そして、それらよりも何よりも、私は、決定的にアイカに関する私の知らない何かを意味する光景を、見てしまっているのだ。考えたくもなく、幻覚だとして押し込めていた苦い記憶だが、私は、もうそれを無視することができなくなってしまっていた。
今、私と向き合って、可愛らしく潤った唇から美しく歌声のような声で語りかけてくるこのか弱そうな可憐な少女は、一体何なのだろう。私は、遂に最愛の人を疑ることとなってしまった。
第二幕「残火」
アイカは眠りついている。もう夜なのだ。だがしかし、私は安易に眠りつくことのできない精神を抱えていた。ともすれば負の思考を肥大化させてくる脳と闘いながら、私は、激しい渇きに癒しを渇望していた。他に望む物はすでになかった。肉体にとって必要不可欠な物はもうありあまるほどに私を満たしている。だが、私の精神に渦巻く飢餓は、それを以てしてもその心を安息の場に留めて置いてはくれないのだった。
いたずらに涼しい夜風を顔に浴びながら、荒れ狂う落ち着きのない海に少しでも穏やかな場所を創ろうと専心する。星空、か。昔は塵のように貧相な光の粒が無意味に漂っているだけとしか思わなかったが、今は、気持ちの良い懐かしさを提供してくれる好もしい存在となった。よく観るようになってからは、星々にもそれぞれ随分といろいろな表情があることを知った。明るい星もあれば暗い星もある。今にも消え入りそうな星の周りには、自らの輝きを誇示するような星々がところ狭しと瞬いている。赤い星に緑色に光る星。全天に、毎夜こんなに多彩で巨大な劇が繰り広げられている事実に、私は心から感動している。
名前をつけた星もある。私の知る名は、思い出となるような物に関してほとんどない。だからそれに因んで名づけられた星の数もそれこそ数えるほどでしかない。が、それでも私は気に入った星に、私の心に残る名をあてがった。大きくて大切な思い出と共に、思いを込めて、縋るように。
夜空を手に入れたのは、霧が全て飛散して空が晴れ渡ったからだ。自然を、もはや完全な形で手に入れたといっていいのだろう。
これから、私はどうなっていくのだろう。心に描いた風景に思いを馳せて、その風景のために命を繋いできた私には、何が残されているのだろう。二人で、幸せに生きていく未来が残されているのだろうか、それとも……。
あの霧に問うこともかなわない。自分に問うことにも星屑ほどの意味もない。それでもこの星空を見上げていると、自分の心がひらけて、光の、希望の無数の粒で満たされていくような気がした。
<最終章序編 がんじがらめの小鳥、と、もの悲しげな庭師>
第四幕「君の言葉を聞かせて」
静かな夜だ。音もなく、昼間の光景は全て闇の中へとその姿を潜めている。
ひそやかに冷ややかに瞬く星々は、僕の視界に入っていながらにしてまるきり風景の中に開いた場違いな穴のようだ。夜という固く凍てついた無限の宝石のそこかしこに、かろうじて開けられた寂しがり屋の臆病な光たちの抜け道。夜それ自体の輝きと呼ぶにはあまりに不釣合いな、たくさんの光の粒の一瞬の声を、僕は聞くのだ。
ぼくは、ここに、いるよ。
きみの、こえを、きかせてよ……。
深く深く深呼吸をする。星を見上げたままのけぞらせた頭に、長い時を経てきた大木の、ごつごつした岩肌のような若くない幹が触れる。ふうっとため息をつく。この木と経てきた年月が、この木の経てきたそれと比べてどんなに短かろうと、僕はこの木が好きだ。たぶんそれは事実であり、僕の感情ではない。僕は、どうしてもこの木が好きであるようにできているのだと思う。僕が、僕を持たずに生きてきた頃から、僕のそばにあり、僕が見上げてきたこの木が、そう、僕にとっての木であることの……。
彼の言葉を、僕は知った気でいる。星々の泣き声に、耳を傾けた気でいる。でも僕は、自分の言葉を知らない。僕には、自分の声に耳を傾ける、その勇気はない。僕が本当に何を望むのか、それも知らない気がするし、思い描くほどの力も、ひょっとすると持っていなのかもしれない。
でもひとつだけ、僕には確かなことがあるんだ。あの人の微笑が、僕にとって、揺るぎようのなく、白い砂のように僕を鮮やかに彩っているのを知っているし、また、僕に手を握るその力がなくなっても、落ちずにずっと僕の手の中にいてくれる物だということも、僕にはわかっている。それが、僕に生きる衝動を与えているのだと思うし、それが、僕を前へ、前へと紡いでいく糧なのだと思う。
そうして僕は、自分の言葉を持って、自分の声で言えるようになった。
ぼくは、ここに、いるよ。
きみの、ことばを、きかせてよ……。
それが、いまを生きていくための僕の力の全てだ。
第五幕「破られた、嘘と沈黙」
しばらく会わなかった人に会う、というのは、懐かしさが第一にあって、知っているのに知らない人と会うようで、もどかしい嬉しさと奇妙な刺激と新鮮さがある。昔のように語り合いたい、という思いが込み上げてきて、僕の中の人との絆の在処を再認識する。この絆が深かったら深かっただけ、心の中も大騒ぎを始めるのだろうが、ただ、この人とはそんなに強い繋がりが持てたわけではない。久し振りに二人して会えたというのに、それが残念だ。
会った人というのは、僕にいろんなことを教えてくれた——飽くまで知識の上での話、だ。僕がそこから何か大切な物を学べたのかというと、本当をいうとよくわからない——、名前のない彼だ。僕は会うなりすぐさま、彼につけようつけようと思っていた名前をつけて勝手にそれで呼び始めた。エリクエク・エスタルから名前を取って、エリックという名を作ったのだ。きっとこの国に奉仕することを良しとして生きてきた人だ、喜んでくれるに違いないと思ってのことだったが、案の定、少し嫌そうな顔をして見せていたが目や口元で、心は喜んでいるんだなとわかった。こんな風に人を細かく観察したり、難しげな思考をしてみたり、僕は子供の頃からませていたが、こんなのん気な名前をつけてみたりするのは、意外に子供っぽい側面は人一倍大きかったかもしれない。きっと、親というものに面倒を見てもらったことがない分、背伸びをしつつもその子供のように甘えたいという願望の表れは捨てきれなかったのだろう。ほら、今だって妙に醒めた目で自分を見つめてみたりしている。まるで、親にそうしてもらいたいとでもいうような、そんな視点だ。
歌姫、あの人の微笑みを見た日から六年、彼と最後に会ってから五年。彼によればそれだけの月日が、流れ過ぎているということだった。僕は、嬉しいことに、彼と親子のように過ごすことができた。人恋しかったというのがその理由だとは、僕は思っていない。僕なりに親という存在、その愛について考えたのが大きな理由だろう。彼の目は僕を愛していると言ってくれていた。僕には、彼が本当の親でなくたって、もしかして人ですらなくたって、それで十分だと思えた。うれしい日々が、子供の心で躍り回れる日が、また来てくれた。本当にそう思ったんだ。その時は、まだ全然、あんなに痛くて苦しい別れが来るなんて、思っても見なかったんだもの……。
そう、でも僕は、逃げないでそれについて振り返ってみようと思う。僕が、この空間にあって、今の自分を見失わないためにも、未来の先から来る日に身構えるためにも、まだ、眠っちゃダメなんだ。 そうだ、これからの日々は、僕と世界のみんなの闘いなんだ……!
<最終章 雪降る野原に、愛を繋いで>
第三幕「微熱」
「あの人と最後に別れる前に、こういう話を聞かされたんだ。僕は全くその星の人々とかかわらなかったと言っていいから、あまり実感が持てる話じゃなかったんだけどね……」
「前にも言ったように、僕はあの人と再会してから、すごく楽しかった。子供の頃以来だったと言っていい。でも、それはそう長くは続かなかったんだ。ここから先は、まだ話したことがなかったよね? あの人は、急にこの話をし始めたんだ。今までになく深刻な顔をしてた。それは、今まで教えられてこなかったあの星の本当の歴史だった」
「人々はある時まで全く何でもなかったんだ。ごくごく平和に暮らしてた。今の僕たちのようにね。だがある時、人々は変わってしまった。人そのものが。人々は突然お互いが心の中で考えていることがわかるようになってしまったんだ。原因は、ある国が作りだした人の体を変えてしまう兵器だった」
「その国は、アーキ・ファルファ帝国、あの『星空を駈ける希望』計画の国だけど、あの計画が本当にどうなったかというと、僕が今まで言って来たことは……実は全部嘘なんだ」
「僕がその計画の宇宙船パイロットだっていうのも嘘。君の星に偶然不時着したっていうのも嘘。だから誰も迎えになんか来てくれやしないんだ、本当はね。僕が星々の瞬く宇宙を見たなんていうのも嘘。僕はただ、気がついたらこの星にいたというだけなんだ。それに君が見たことがなかったっていうあの空にしたって、僕は本当は今まで見たことはなかったんだ」
「いや……そうでもない。見たといえば見たな。でも僕の見たその空はこの星の空のように締麗なものなんかじゃ全然ないんだ。ただ青いだけ。いや、実際の空は、醜くて血のように赤いだけの空になってしまった」
「なんでかっていうと……宇宙船は嘘じゃなくてちゃんとあった。立派で、頼もしくて、僕は写真で見ただけだったけど、本当に素晴らしいと思ったよ。人類の最高の知恵の結晶にして最高の輝かしい希望だった」
「人々の空が爆発した。みんな何が起こったのかと思ったろうね。人々の明るい未来は、数秒で打ち砕かれてしまった。宇宙船『ロウ・ズ・エル』が宇宙までも出ないうちに大破してしまったんだ」
「ひどい有様だった。全世界を、今までありえなかった規模で猛毒の化学物質が覆った。アーキ・ファルファの科学者たちは、莫大なエネルギーを発する代わり人類に致命的な危険性のある物質を極秘裏に使っていたんだ。ただその国の王の言った期限に間に合わせようということだけのために……。それもその危険性を把握していたために、字宙船の発射はその国からあまりに離れた場所で行われていた。その時点でもう、全世界の人々の半数以上が、亡くなってしまったんだ……」
アイカの小さな肩が、そこで微かに動いたように見えた。だが、その後の均一な寝息は、やはり彼女は寝ているのだと私に認識させる。
起きてもいない人間に向かって話しているのかといえば、それは嘘になる。私は、自分自身と対話をしているのだと言っていい。自分の今ここにいる意義を再認識しようとしているのだといえば聞こえも良いが、実際の所この落ち着く間もない現状を幾分でも打破したいがため、またただ単純に自分の過去とアイカをよすがとしたいがため、声にまで出して過去を顧みているというのが本音に近かろう。
話にいくつか彼女を傷つけるような要素があったことに少し罪悪感を感じたが、それらを塗り替えてきた嘘はやはり、今までを生きていくための締麗な冗談だったといっていいことに違いない。私は、話を続ける。
「……空が赤くなってしまったのは、その物質のせい。理由は単純さ。その物質が赤いから。血よりも、他のどんな赤いものよりも」
「こういうのも変だけど、人々に余裕さえあれば世界戦争が始まっていただろう。しかし、人々は生きる道を探すのに手一杯だった」
「残された人々は必死で生きる道を探した。まだ人々には高度な科学力が使えた。それでもって人は、発達した地域の人々は、強力な防壁を都市の周囲に張り、そして防壁内部の空気を清浄することに成功した。もともとは対ミサイル用のもの、ああ、ミサイルっていうのは、人を簡単に殺せちゃう恐ろしい兵器なんだけど、対ミサイル用としてもともとあった物だから、その人たちは運良く迅速に環境の危機に対応できた」
「しばらくは平穏が戻った。そして人々は透明な防壁を通して見える赤い空がとても気持ちが悪いと思った。それで防壁の内側に、かつてあった青い空が見えるようにした。でも、それは美しくはなかった。僕が見たことがあるのは、この空と、赤い空だけなんだ。きっともともとの青い空は、この星のと同じくらい椅麗だったんだと思うよ」
この星……。そう、彼女は、物心ついたときにはこの星にいて、私がかたわらにすでにいたと言っていた。この星……。私は、何故ここにいるのだろう。私自身わからない。そして、彼女は一体何なのだろう。
「……この後で僕が生まれたんだ。悲しかったよ、生まれたときから、エリクエク・エスタルの王、王妃だったらしい親には忙しくてすこしも構ってもらえずに。それでも、僕は大きな木に見守られていたから平気だった。親の最高のプレゼントだったよ」
「そんなある日だった。本当に唐突だった。エリクエク・エスタルが、他の遠い地域の国々と連絡が取れない中で、宇宙移民計画という、一度この星を捨てなくてはならないと考えた科学者たちが、利用可能だと考えられた近い星に移民しようという計画を進めていたときだ」
「雪が降ってきたんだ。僕は綺麗だと思った。そう、雨や雪は、たとえ戦争になって防壁を長期に渡って張らなくちゃならなくなってもいいように、防壁を通過できるようにしてあったんだ。あの人も、エリックもそれを見上げていた。泣き出しそうな笑顔をしてね。僕は笑った。『どうしたんだ? 目にゴミでも入ったのかい?』って、いつものように悪ふざけでからかってやりながらね」
「その日が、あの星の平和な日々の終わりだったんだと思う。これが、さっき言った人体を変えてしまう兵器だったんだ。アーキ ・ファルファが宇宙船を狙って、エリクエク・エスタルを潰しにかかったんだ」
「人々は、お互いの心が読めるようになった。人々は驚愕した。疲れ切ったお互いの心のあまりの重さに。お互いの傷のあまりの深さに。そう、他人の心がわかるようになった人々は、それは本来喜びであるはずが、逆に他人の苦しみまで共有しなくてはならなくなった。一人分ですら抱えきれなかった物が、何重にも折り重なって罪のない人々を圧迫した。そして人々は、内面への激しい攻撃に対処できなかった」
それから……。それからは、私は知らない。あれから人々はどうなったのか、あの星は、今も呼吸を続けているのか。そして、私自身、あれからどうなったのだろう。この星で目を覚ますまで、私は何をしていたのだろう。
「そうだ……あのシンガリオ・ロウ・ザ・リーフの人たちがいたんだ……」
あの人々の仕事が、あれからの人類を救える物だったかもしれない。私には、知る由もないが。
私にとっての救いは、癒しは、たとえこの子がなんであろうとも、他にはなく全てアイカの中だけにある。星空の星は相変わらず、寂しげに絶え間なく己の体を燃やし続ける。アイカの寝顔も、いつもの様子で穏やかなものだ。
「この子には、感謝をしなくちゃいけないな……」
この子のどんな些細な仕草も、何気ない表情も、私の心をいつでも和ませてくれる。この子が一体何であるか、そんなことは考えるべきではないのだ。この子のそばにいて、この子を愛して、この子のことを考えて、それだけでただひたすら生きて来れたという事実、それだけで、私にはどうしようもないくらいに十分だ。私は、生きたのだ。
力なくその場に大の字になる。こうしただけで、私は小さな命を奪ったかもしれない。ただ大きいというだけで、命を惨たらしく奪う権利もないというのに。小さくて貴重な命。何処にでもあるか弱い命。それでも私は生き抜いてきた。呆気なく、冷徹な力に押し潰されそうになっても、それでも私は今まで自分の存在を保ち続けてきた。強力無比な、運命という脈々と続く大河の名の下において。
静かだ。 聞こえてくるのは、私の匂うくらい確かな呼吸音と、アイカの控えめな寝息だけだ。静けさに瞼を任せて、静けさに身をたゆたわせ、静けさの中で、私は何処までも続いてくれるような、温かい人の肌触りのような夢を見た。白く、濁りなく、底知れない霧の奥深くへ、私は感謝を振りまきながら、アイカと手を携えて待ちきれないように進んで行った。
<最終章序編 がんじがらめの小鳥、と、もの悲しげな庭師>
終幕「唇と別れのアダージョ——Adagio for lips or split」
見上げた空に、
見えるのは。
赤い空と、血に飢えた純白の雪。
少年の瞳に、
映るのは。
涙と恐怖の、鮮烈な原色模様。
痛々しく、
身もだえる人々の、
顔、
声が、
脳裏を掠め、飛び去って行く。
少年の周りに世界はあっても、
少年の心に世界はない。
消えゆく流れ。
思い出深い時間……。
男は、
声を押し殺して鳴咽し始めた
少年の手を取る。
そっと、
愛のこもった手つきで
小さな宝石を握らせる。
唇が、微かに揺れる。
少年は、
驚いて顔を上げる。
そして、
手のうちの宝石を見つめる。
しばらくの間。
轟音と共に、
辺りの空気が、
辺りの草木が、
悲鳴を、
上げる。
強欲な悪魔の
研ぎ澄まされた爪が、
淡く赤に染まった大地を
木の片をえぐるように砕いてゆく。
耳塞ぐ少年。
男は、
少年を見詰める。
不安に満ちた少年の瞳が
男の前で揺れる。
口が、何かを訴えるように、
むしろ自分に向けて発するような動作で、
動く。
また動く。
激しく、無意味に活動的になる。
男は、
黙って少年の口元を見守る。
動く!
男は、
それを厳しく制した。
しばらくの間。
男は、
内から起こる痛みに耐えている様子で、
今持てる力を振り絞って、
唇から、優しい雰囲気を漏らす。
少年の心を、
その断続的な動きで手繰るようにして、
唇は使命を持って語りかける。
周囲の獣の狂乱の奇声を、
既に自らを見失った辺りの空間を、
なだめるような、
いましめるような、
つつみこむような。
永遠と、唇は、言葉の旋律を紡ぎ出す。
その間。
反発し、
それでも安心したような唇。
さげすみに満ちた、
自己を嘲笑する唇。
愛を、人の温もりを求める
絶えず呼吸を続ける唇。
不安に平静を失い、
上下を合わせることのできない唇。
そして、力のこもった、
一線を描いた唇。
男は領く。
周囲に、
光を発し
うねる食欲な蛇の群が迫る。
蛇の下の生命が、
押しつぶされ、
生命を抜き取られ、
干からびて
大地の上で眠っている。
無慈悲な地上の炎の海で舞っている。
金属の接触する刃物のような音と共に
時間が、
終わりを告げた。
鋼鉄の鎧の中に少年は居る。
全ての人々に別れを告げて。
過去の風景に別れを告げて。
涙を、絶え間なく頬に伝わらせて。
男は巨大な鎧に凭れる。
そして、糸の切れた操り人形のように、
その場に崩れ落ちる。
満足げな、
悲しげな、
愛を貫いた男の表情が、
そこにはあった。
彼の中だけでの、
大切な思い、
大切な真実。
……そして、時間は、
彼を、永遠にその場所に置いた。
しばらくの間。
耳も目も、何もかも塞いだような少年。
しかし唇には、まだ強い決意が残っている。
今より少年だった日の思い。
青白い空へ向けての、
飛翔。
あの、空の、向こうへ。
空の、ほくの、大地へ。
<最終章短編集 星に浮かぶ瞳>
◇開幕の序文
ここまで自分を運んでくれた、
僕の好きな人と、
痛みと、
僕にまつわる全ての環境に、
心から感謝を捧げます。
それが、生きていくことだと思うから。
’99年、自宅の一室にて
◇ハッピーバースデイ・トゥ・ユー
パトリック、元気ですか? いい子にしてますか? おばあさまのごめいわくにはなっていませんか?
一年間もお手紙を出せないでごめんなさい。お手紙はとっても高いの。わかってちょうだいね。でもその代わりね、今度お休みをもらってそちらに帰れることになったの。パットのお誕生日までには帰れるわ。その時にはお祝いをしましょうね。パットの大好きなキュツァ鳥の肉も買って帰るから、楽しみに待ってて。パトリックはお手紙をおばあさまに見せるのとってもいやがるけど、これだけは伝えておいてね。パットはもうすぐ九つで、りっぱなお兄さんなんだから。
お父さんのぐあいはどうですか。パットがいい子だから、きっと元気ですね。お父さんやパットやおばあさまに会えるのを楽しみにしています。じゃあ、あまり書くこともできないからあとはおうちに帰ってからお話ししましょう。体には気をつけてね。
お母さんより、愛を込めて
そう書いたことを思い返してエウルカは満足げな表情になり、郵便受けに入れると、今来た道をそそくさと引き返して行った。会うためには、残りの時間を精一杯働き抜かねばならない。金の入りもあまり良くはないのだが、それでもこの商売にかけては彼女は重大な責任感を背負っている。それは商売というよりも、国から与えられた使命なのだ。
胸に下げられた宝石を握り、残ったノルマに対するやる気を再充填させる。その宝石の反射光は、まるで生き生きとしてはずむ彼女の心が見えてくるようだ。ふと心にかかったもやが、エウルカの心を捕らえたらしい。ほとんど反射的に、エウルカは空を見上げていた。
あの人は、今どうしているのかしら……。手で太陽光を遮りながら、エウルカはそんなことを思った。空には思い出がある。子供の頃に空はいつもあった。恋した日々に空は輝いていた。でも、それから先の空は……。
エウルカは諦めたように首を軽く振ると、空を見上げるのを止め再び歩き出していた。人々の夢。夢見た人たち。ある時期、人々は遥かな無限の宇宙を夢見ていた。宇宙旅行。宇宙人。エウルカも少女の頃から時折そんなことを空想してきたが、それが現実になろうものとは露にも思ったことはなかった。しかし、人類は宇宙船という小さな道具で、宇宙への旅を可能にしようとしていたのだ。
あの時は生まれたばかりのパトリック——この頃には、本当は女の子を望んでいた夫が、パトリシアという名前を捨てきれずにいて、そこから仕方なく妥協案としてこの名前をつけたのだった——を抱いて、子供のようにテレビの前ではしゃぎ回っていたものだ、それが一家団欒の最後になろうとも知らずに。
『星空を駈ける希望』、ロウ・ズ・エルという、宇宙開拓委員長の演説の中の言葉を採った宇宙船は、人々の期待と眼差しを一身に受けて、轟音と共に天高く飛び上がっていった。
夫は、何だか不満がまだあるらしく、テーブルに悪態をつき酒とおつまみのスナックを齧って一人でふんぞり返っていた。
エウルカは、そんな夫を後目に「あーあ、もうちょっと給料がもらえてれば、生で宇宙船が見られたのになあ」と、テレビに映った観衆を見て一人でぐちっていた。その時だった。
けたたましい爆発音が、直接耳に飛び込んできた。地震が直撃したような、そんな衝撃だった。爆発音が収まるまで、エウルカはパトリックを抱いたまま床に伏せていた。それが収まり、いったん辺りが静まり返ると、今度はパトリックの泣き声が耳をつんざいた。
「いったい何だったんだ……?」
夫は酒びんが倒れて全てこぼれて台なしになってしまったのにも気づかずに、唖然として立
ちつくしていた。
エウルカはそれに答えずに、泣き続けるパトリックをあやしながら、視線をテレビの方へと戻した。
そこには、それが当たり前だとでもいうように、何の映像も映っていなかった。
「こりゃあ、大変だ!」
夫の言葉に振り返ると、彼は二階の自室に駆け上がっていった。エウルカは何が起こったのかさっぱりわからず、ただ茫然自失とパトリックをあやし続けた。
しばらくすると、夫がいつもの仕事着姿に着替え終えて戻ってきて、玄関から外へ出ようとした。エウルカはそこで突然動物的な不安に襲われ夫に叫んでいた。
「どこに行くの? 外は危険よ!」
しかし、夫はそれに構わずに行ってしまった。
「君はここにいるんだ! すぐ戻る!」
それきり、エウルカが夫の健康な姿を見ることはなかった。
言われた通りにエウルカは待った。
一ヵ月待った。
二ヵ月待った。
三ヵ月……待った。
しかし、夫は帰って来なかった。
エウルカは不安で不安で毎日泣きながら眠った。
テレビ放送は復活した。エリクエク・エスタルの国営放送だ。放送は、三ヵ月経った今でもあの宇宙船爆発事故のことで持ちきりだった。
「宇宙船爆発により蒸発した大陸に海水が流れ込み、水位が著しく低下したため、今では海洋生物の五○パーセントが、死滅したと科学者たちは見ています」
「アーキ側のこの事件の責任追及のため、アーキ側に対し世界ではあわただしい抗議の動きが見られます。人々の間では戦争を危棋する声も上がっています」
「世界の空は浮遊性有害物質ディオニス=キプスに徐々に犯され始め、あと一ヵ月もすればエリクエク・エスタル上空を覆い始めるだろうと見られています。政府側は、……」
ニュースキャスターの夫が映ってはいまいかと期待してみるテレビだったが、その期待はことごとく裏切られるのだった。こんな暗いニュースばっかり。その上あの人は帰って来ない。変な事件に巻き込まれてなけりゃいいけど……。不安は募る一方だった。
しばらくして、夫が帰って来た。ひどく体はぼろぼろになっていた。見るなり、エウルカは絶叫して気を失った。
そして次に目が覚めたのは、薄暗い白い部屋のベッドの上だった。窓から外を眺めると、一面鮮やかな夕焼け空が広がっていた。とても鮮やかな夕焼けだった。
「わあ、締麗……」
エウルカは自分の置かれた状況も考えずうっとりした。だが、夢心地はすぐに打ち切られてしまった。
「世界はもう地獄ですよ、奥さん……」
エウルカは我に返ると、自分が仕事場に戻って来ていることに気づいた。久し振りに我が家へ帰ろうというのに、気分は沈んでしまっていた。これから来る幸せを思い浮かべ、自分を奮い立たせると、エウルカは自分の成すべきことをしに行った。
歌うこと。それはどんなに素晴らしいだろう。辛いことも、悲しいことも、歌を歌うだけで全て洗い流されていく。引っ込み思案だった小さな少女の心を、どんなに励まし羽ばたかせてくれたことだろう。エウルカは、今もこうして歌いながら、自分の中でもその行為を賛美していた。
しかしその彼女をまるで神を崇めるように、狂信的にとりつかれたように焦点の定まらない聴衆の瞳が、彼女には悲しかった。ほんと、これじゃ偶像か道化ね。それがあながちはずれでもないことは、もっと悲しかった。
こんなことを、夢に思い描いていたんじゃない。彼女の心は昔から定まっていた。歌で人々の心を潤したい。歌うことで人々に辛さや寂しさを和らげてもらいたい、幸せを分かち合って欲しい……。そうした思いがあったから、ずっと "歌姫" になる日を夢見て生きてきたのだ。
歌姫。シンガリオ・ロウ・ザ・リーフ。この国、エリクエク・エスタルで最も名誉ある地位。この国には、栽培に適した土地、また産業の発達、その他の鉱物や資源など、他の国との交易となりそうな物に乏しかった。それ故にこの国に発達した物は、人々の内側から発する物、その一つの形としての音楽、特に歌だった。
他の国は、そうした人の心を浄化し潤してくれる物、いわゆる美と名づけられるものについて乏しかった。特に『力と炎の礎』、アーキ・ファルファという一帝国は、技術至上主義を掲げそうした物にひたすらに情熱を注ぎ込んできたため、この美の国と出会うまではその存在にすら勘づいていなかったほどだ。
それは世界という世界に広まった。他の国の技術と組み合わせ音を機械に記録できるようになってからは、その急速な浸透ぶりは目覚しい物だった。そうした経緯が、 エリクエク・エスタルを巨大な都市へと発展させたのだ。
誇り高い、守るべき文化なのだ。そう信じてきた。憧れていた。だが彼女の手にそれが届きそうになった瞬間、そのガラスのような澄んだ文化は、あまりにもひび割れた、その目的を失った物となってしまった。
世界の閉塞の時代。美しき惑星の肉体が、赤黒い血で覆われてしまっている時代。ありとあらゆる生命が、その活動を内へと押し込められてしまった。国と国とでお互いに補完しあうことが封じられ、人々は自分の国の中にのみ生きていくことしか叶わなくなってしまったのだ。そして恐らくは永久に。
自らの力だけでは生き延びていくことの叶わない、脆弱で巨大な子供。透き通ったガラスの体の中から優しく灰かな光を放つ、哀れで儚い少年。それが痛みに包み込まれた世界に突然投げ出された、この国の姿だった。食べていくための食物もなく、現在の発展を維持するだけの力も資源もない。あるとすれば、時折見ては忘れかけていた笑みを再び取り戻す、人々の内の弱々しい炎だけだった。
数少ない希望を絶やさないために自らを提供するのが、今の彼女の仕事だった。だが、そこにある隠すことのできない違和感は、彼女に自分が何処か別の場所に遊離しているかのような感覚にすら陥れ、彼女に苦しみとむなしさを与えるのだった。
それでも彼女は耐え、餌にすがる虫のような弱者に向けて、必死の対話を試みていた。人々の再生を強く願う思いを訴えていた、エイラさんなら、きっとそうしていたでしょうから。彼女は憧れの歌姫のことを思った。彼女もまた、弱者の一人だった。
あれから何日間か仕事を続け、精も根も疲れ果てたようになって、エウルカは帰路についていた。何だか、枯葉になっちゃったみたい。思春期にダイエットの効果でやせすぎてしまった時、通っていたアートルラム女子聖歌学校の同級生に全く同じように形容されはやしたてられたのをふいに連想して、エウルカは何だか悲しなって、苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。エイラ先輩にも、こんな辛いときがあったのかな……。聖歌、つまり宗教歌を歌っていたからといって彼女が特別敬虔な信者というわけではないが、それでもやはり人である以上彼女にも心のよすがはあるのだった。
以前は舗装されていて、見たりその上を友達と買い物をしながら歩いたりするのが楽しみだった街の歩道も、彼女が親からお金をくすねては毎日のように通いつめていた歌劇場へと続く、おしゃれな街路樹が並んだ色鮮やかなくねくね道も、帰り際訪れてみたが、あまりの変わりように驚きつつも試しにその上を歩いてみたが、やはり昔のような心弾む気持ちがわき起こっては来なかった。もう、ショーウインドーに可愛らしいスカートや羽根つきの大人びた帽子やずっと欲しいと思っていたネックレスや子供の頃だだをこねてねだり続けてもどうしても買ってもらえなかったくまのぬいぐるみは、どこにもない。もう、歌劇場に行くまでのくねくね道で一緒にけんけんぱをした仲の良かった友人たちは、何処にもいない。
少し出てきた風に舞い上げられた木の葉が、彼女の頬をちくりと刺して通り過ぎていった。彼女はなんども少し刺されただけの頼をさすった。なぜか、その頬は濡れていた。
「……あれ? なんでだろ? 今ので血が出て来ちゃったのかな? あれ? あれれ? おかしいや、そんなの。あはは。おかしいよねそんなの、おかしいよ、そんなの……」
彼女はその頼を押さえたまま、一人けんけんぱを始めた。
エウルカは、窓の方に寄りかかり、誰の視線も見ないようにして、アーキ・ファルファ製の国内用高速ワンウェイ・リフトのシートに腰掛けていた。といっても、乗客は彼女のほか二人しかいない。五十人はゆうに座れるだけのスペースを持ったリフトの中の空間が、まるきりそこだけ静止してしまっているようだ。
なんとなく耳障りな音があるのに気づいて、エウルカは視線をリフト内に泳がせてみた。同世代ぐらいに見える若い女性が、泣き叫ぶ赤ん坊をあやすのに苦心している。町に買い出しに出てきたのだろう。座席の横には買い物袋が山と積まれていた。
「うるせえぞバカ野郎!」
突然濁った目の中年男性が声を張り上げた。たぶんこの人はいつだからというんじゃなく、お酒を飲んで酔いつぶれた人だろうな。世界に振り回されているのね。かわいそうに……。服装が意外ときちんとしているのが、その泥酔の程度を際だたせていた。
目を戻すと先ほどの若い母親が、その男に向かってしきりに頭を下げている。男はまだ何か小声でぶつくさ言ったが、それきり大声は立てずいびきを立てて眠ってしまった。
エウルカの興味がそれるのと同時に、彼女の目はまた窓の外に向けられていた。リフトはきしる音も立てず、静かに動き出した。
リフトが高い位置にあるのでこの窓からは町を一望できるのだが、エウルカはそんな気分ではなかった。彼女の心は、今はまだ遠い故郷に向けられることもなく、何かに高ぶることもなくただ静かに彼女のうちに佇んでいた。
しばらく、リフトに揺られて長くけだるい時間が過ぎる。今はエウルカも少し落ち着いて、温かい我が家のことを思った。パトリック、どれくらい大きくなったかな。元気かな。お母様も健康でいらっしゃるかしら。あの人は、幸せにやっているかな……。
パーティ、パーティをしてあげなくっちゃ。とびきりおいしい料理を作って、パトリックと一日中遊んであげよう。エウルカの顔にもやっと安堵の表情と微かな笑みが浮かんだ。
キュツァ鳥を買っていなかったことや、パトリックが母親に手紙を見せたかなどということを考えるうち、視界に揺れる白い物があるのに気づいた。それが何であるか見定めるのには、それほど時間がかからなかった。
「雪……、雪だ……」
可愛らしい小振りな雪が、ゆっくりと舞い落ちている。そう前から降っていたのではないらしく、町はまだ乗った時に見た姿からあまり変わった様子にはなっていない。
「わあ。椅麗だなあ……」
さっきまでの母親を意識した考え方はうすれ、彼女の心は少し、少女というよりは子供の方に傾いていた。窓に手をついてうっとりと眺めている。
そう、こんな雪が降った日だったっけ。あたしが必死で泣きじゃくってて、お母さんがなだめてくれてた時、お父さんは、顔が見えなくなるくらい、おっきなおっきなくまのぬいぐるみを持って帰って来たんだわ。あたしの誕生日に、二人して雪を頭から肩から体中にどっさりかぶって! あたしはそれで嬉しくて嬉しくてしょうがなくって、そのくまのぬいぐるみを持って外に駆け出して行って、結局泥んこにしちゃったんだっけな。でもお父さんは言ってくれたわ、「お前がそうやっていつも元気いっぱいでいてくれるのが、パパたちへの最高のプレゼントだよ」って、頭をなでながら。
エウルカの暗い気持ちは、全部雪に洗われてしまったようだ。そうだ、パトリックの誕生日もあたしのあの時のと同じくらい、とびきり素敵なのにしてあげよう! めったにかまってあげられないんだもの、少しくらい貧しくたって、ぱーッと盛り上げてあげなくっちゃ!
そう思いながら、エウルカは、いつものように頭の中で手紙を書いていた。経済上の理由で、また、この国の窮状のために、手紙は彼女には簡単に手の届くものではないのだ。それでもいつでも彼女は、パトリックへ宛てた手紙を、頭にいくつも持っていた。いつかそれらを全部書くことのできる日を、エウルカは夢見ていた。
頰にまた液体が伝っているのを、彼女は気づいていた。 だが、 今度のそれは暖かい滴だった。
パトリック、見ていますか? お星様を見るのが好きなパットですもの、きっと好きになるわ。ほら、締麗でしょう? これは雪っていうのよ。ひとつ手にとってごらん。とても冷たいでしょう? でも、見ているととってもあったかい気持ちになるでしょう? きっとこれはね、神様が言って下さっているんだわ、「小さなことにくよくよするんじゃない、いいこともいっぱいあるんだぞ」って。雪には神様の真心がつまっているのよ。あたしたちが元気に生きていけるように、あたしたちが幸せに暮らせるようにって。それとも、パットがいい子にしてたから、神様が贈り物をしてくれたのかもしれませんね。
うふふ、パトリック。きっと手紙じゃ物足りないわね。おうちにもうすぐ帰るから、ちゃんとそれまでいい子で待ってるんですよ。じゃあ、さようならパトリック。
あなたのお母さんより、愛を込めて
◇花火
報告しまーす! エーと、あたしAMHー0 0 2 Tは今、みんなと一緒に山道を——座標でいうところの、N40.2、W55.3です——歩いているところです。 指令塔のみなさんが心配していた、N39.9、W54.7の崖のぼりの所で落ちてしまった人は誰もいませんでした。みんな無事です。嬉しいなあ! これからN41.6、W55.5の川を渡ります。みんな無事に渡ってくれるといいんだけど。では報告を終わります。以上AMHー002Tから指令塔へ。がんばります!
キャステは手首の外側についた小さな黄色のスイッチを押して、下腕部に内蔵された音声記録装置に吹き込んだ報告を、アーキ・ファルファの指令塔に転送した。グイングインと腕の中で何かが回転するような音がして、しばらくしてから報告が完了したことを知らせるチリリンという軽快な音が、キャステの耳に心地よく響いた。キャステは少し自分の過去のことを思った。この涼しげな音は、母国のアーキ・ファルファでの、自分の家の季節の風物を模した音色なのだ。
キャステは生まれこそアーキだったが、しかしその環境は他の周りの子供と比べて違っていた。だんだんと他の文化、食の文化や芸術の文化など、自国に於いて乏しかった物もろもろについて、アーキ・ファルファは子供がするのと同じくらい夢中になって吸収していたのだが、それでもまだその扱いについてあまり慣れてはいなかった。そんな環境にあってキャステが思う存分芸術に触れることができたのは、エリクエク・エスタル出身の母の影響にほかならない。
『輝ける真実の光』という名を冠する国は、他国から引っ張りだこの状態だった。この国で歌姫と呼ばれる地位につく女性たちが、その最たる物だった。他国からの要請に迫られ、また異文化への興味などから、他国に移住する彼女たちの数は徐々にその数を増してきていた。もちろん諸国は彼女らを歓迎し、一時期はそれが加熱しすぎて「いつかは歌姫」と謳う熱狂的な男性が増えてきて、それに業を煮やした地元の女性たちが腹いせに他国へと移住してしまうという始末だった。そういう顛末で、なぜだか女性という種族の中でだけ丁度良く国際化ができてしまっていたのだった。
それでも親にエリクエク出身者を持つ子供は、アーキの中では珍しかった。そして彼女の母親は移住してくる時に自国の様々な品々を持ち込んでいたため、キャステはおもちゃ貧困にあえぐアーキの中にあってそれに飢えを感じたことがなかった。といっても、そもそも子供というものはそれがないならないで自分で作りだしてしまう遊びの天才発明者ではあるが。
風に揺られてさきほどのチリリンという音を出す、糸に吊るされたまん丸い水晶球も好きだったが、可愛らしい音楽が封じ込められた赤い宝石が、キャステのいちばんのお気に入りだった。これは母親が仕事の時に首にかける代物であったらしいが、いつの間にかキャステが遊ぶ時に首からかける物に変わっていた。一日中、その宝石に音楽を奏でさせて外をスキップしながら歩き回るのだ。実際の所、音楽の伝道者は彼女なのかそれとも彼女の母親なのかは、よくわからなくなっていた。ただ片時も肌身離さず持っていたそれが、心ない人に奪われたりしなかったのが不思議だった。きっと、その宝石の旋律にはどんな人間の心も和ませてしまうような、素晴らしい魔法があったのだろう。
こうしてアーキのためにとある場所に赴く旅路の中でも、その宝石はちゃんと首から下げられていた。もちろん、音楽は凍りつくような赤黒い周囲の空気をほぐして鳴り響いていた。それは丁度、彼女の弾けそうな気持ちが表れているようでもあった。ちゃんとこのお仕事さえ済ませちゃえば、お母さんに会える!
何に腹を立てたのか、キャステはむっすりとふくれ顔で、肩を、純銀の鋭く光る鋼鉄の肩をいからせながらひとり草原の中を歩いていた。何よ何よ何よ! どうしてあんなに冷たくなれるのかしら! 「済んでしまったことはしょうがないのよ」だって! アイセルったらちょっと番号が上だからって調子に乗ってるんじゃないかしら! 彼女なりにいろいろな物を抱えているらしい、ここはそうっとしておいてあげよう。
だんだん前方に深くて暗そうな森が見えてきて、キャステは少し身震いした。ただでさえ、もう仲間の所に合流しようとか、 アイセルと仲直りしたい——本音のところではそうなのだが、彼女はそれを認めるはずがない。彼女が言うには、もう反省した頃だろう、許してやるかということだそうだ——とか、そんなことを考えていた矢先だったので、いつもの彼女だったら、回れ右して仲間たちの所へ戻っていただろう。だが今日の彼女はいつもとは違った。何しろ、あんなに衝撃的で悲しい光景を見てしまったのは、初めてのことなのだ。
アイセル……。あんながんこなおじさんとわからず屋のおばさんに育てられちゃったから、あんなへそ曲がりな子になっちゃったのね、かわいそうに……。なにか、先ほどと少し考え方を変えながら、キャステは親友のことを考えている。 いつもなら見かけただけで飛び退いてしまいそうな、だいの苦手の緑の光の粉を飛ばす小さな飛び虫のそばを通った時も、彼女はてんで気づかぬ風だ。通り過ぎて行く彼女を、虫も不思議そうな目で見ている。
森に入ってあたりの視界は急に暗がりに覆われた。しかし、それは結局彼女の連想癖の手助けをしただけのようだ。子供の頃から——といっても今でも十分それと呼べるが——、キャステは外で遊び回る子供だった。自分の親が両方とも外出がちだったことや、旧友のアイセルの家の親は異常なまでの技術狂で、機械いじりばかりしていて二人に構ってくれないどころか追つ払おうとするしまつだったことなどがあって、二人の居場所は、必然的に太陽の、不健康な録画された偽りの太陽の下に限られた。キャステもアイセルも、他の全員の子供たちと同様、この太陽が好きではなかった。ひらけた遊びの舞台に明るい光を添えてくれるこの子供の味方であるはずの物は、その嘘も、やはり同じく子供によって見つけられてしまうのだ。
そこで二人はちょくちょくと、この太陽を遮れる場所へとおもむいた。遮れるなら何処でも良かった。「ネズミごっこ」と称されたそれは、縁の下からのき下から、木のかげや、先ほどの飛び虫に顔面に飛びつかれたこともある草原の中や、時にはその名の通り下水道にまでおよんだ。泥んこになって随分と怒られた気もするけれど、その時のウキウキする気分は、今も彼女は忘れてはいない。
たしか、あれはそんなことをしていたある肌寒い日の夕方のことだった。さんざんいろんな所をうろつき回って、しまいには自分たちが何処にいるのかもわからなくなって、それでも熱中してさびれた裏通りの一つを入った所にある鉄とかび臭い廃ビルの中で、ガンガンと階段を踏みならして遊んでいた。そうしているうち、突然見知らぬ何者かに肩に手を置かれた時は、さすがのキャステも背筋に寒いものを感じたが、その人の妙に温和な顔と、そして何よりその言葉が、キャステを安心させた。
「ねえ、お嬢ちゃんはお母さんに会いたくないかい?」
そのあと、アーキの外の世界を見せてくれるということや戦争ごっこをさせてくれるということに、二人はすっかり興奮してはしゃぎ、そして……、そして、二人は今に至っている。眠らされて、目覚めたとき体じゅうに妙な重くて機械のようなものがついているのをキャステは変に思ったが、正常な判断をするには興奮しすぎていて、キャステはそれどころではなかったのだ。ここ数日は本当に全く顔を見せてくれない母親に、少しでも早く会いたかったのだ。キャステは、ネズミごっこの時たとえ太陽を遮れるからといって決して行かなかった、暗くて寒い我が家に、家族みんなが揃って集まるところを想像した。それだけで、キャステは胸が高鳴って嬉しくなってきてしまうのだった。
あの時、何でアイセルは一緒にアーキの外に行くって言ってくれたのかな……。本当に戦争ごっこをしたり外の世界を見たりしたかったのかな。あの時、仲間のみんなが川を渡る時に流されてしまった時、アイセルが見せたあの辛そうな瞳は、ただの冷たい人間のそれとは全然違う気がする。
「ちょっと、大人げなかったかな……」
あまり反省していないような口調で、彼女は後悔を口にした。そういえば、随分と森の深くに来てしまったようだ。あたりの空気も大分冷え込んできている。やれ戻ろうかと回れ右しようとした時、彼女の体はバランスを失った。
「れれっ?」
ドシンっ、と思いきり良く尻もちをつく。慣れない体が彼女の自由を奪っているのだ。
「つつっ……」
年がいもなく、尻から腰にかけてからだがズキズキと痛む。そんな自分がおかしくて、彼女は思わず年老いた自分を演じながら起き上がる。
「どっこいしょ……あ、れ?」
彼女は自分の年寄りじみた発言をすぐに後悔した。起き上がり目を向けたそこには、不安げな表情の青年が彼女をじっと警戒して見ていた。
何より彼を安心させたのは、キャステの首に下げられた宝石から流れ出るその懐かしい音色だったらしい。キャステが見るうちにもその青年のかたく強張った顔は和らいでいった。キャステの方はといえば、表情をころころと変える青年を前に、いったい何をしたらいいものか考えあぐねている様子だ。いまだに絶えず強張った笑みを浮かべている彼女の表情は、今の青年の微笑みとはひどく対照的だ。
だがそんなキャステにも、次の言葉を告げるチャンスが訪れた。
「あ、あー! そ、その宝石って……あたしのに、そっくり……」
そう、奇遇にも青年の首にかけている物もまた、キャステの物に瓜二つの宝石だったのだ。
ぐう……。時刻が今実際にどうなのかはわからないが——キャステは、さっき見ていた空がずっと赤かったので、本物の夕方はずいぶんと長いなあと思っていて、時刻の感覚をもう失っていた——、でも確かに彼女の高度に精密な腹時計は、ちゃんと時を刻み続けていたようだ。聞き間違えようもないこの可愛らしい小さな音が、その動かぬ証拠だ。キャステは、何も金属などのついていない自分のお腹のあたりを軽くなでた。ああ、何でもいいから、いややっぱりキュツアーが一番だけど、とにかく何か食べたいや……。
キャステはそーっと青年の方を見ると、やはり今回も彼女の失態は見つけられてしまったらしい。今までブルースハープを自由自在に吹いていたはずの口元は、今度は微笑みという別の音色を奏でている。キャステはちょこっとドキッとした。しかしそれ以上に、彼女の胸は恥ずかしさで一杯だった。少し芽生え始めたそんな女心をまるで知らぬ風に、彼女のお腹は厳しくしかるべき処置を要求するのだった。ああんもう、キュツアーなんていらない!
少しその後沈黙が流れた。それというのにも訳がある。二人は言葉で何かを交わすことが許されていない、つまり、二人とも別の言語を持っているのだ。先ほど出会ってから二人が理解し合ったことといえば、二人がエリクエク・エスタルの宝石を持っていること。この青年はエリクエクの出身らしいが、キャステは生粋のアーキ人だということ。それだけだった。そして会ってから今までは、キャステはこの青年の奏でる、自分の宝石の曲と全く同じものを聴いていたのだ。別に、聴き惚れていたとか、青年に見とれていたとか、そういう風ではない。アイセルの所へ戻ろうと考えていてそわそわしていたが、外の世界を見に来たからにはやっぱり、この青年には目を離せないところがあったし、あの宝石は何だろうと考えていたことなどがあって、キャステはどっちつかずの状態だったのだ。
しかしこの恥ずかしい腹時計の音は、良いきっかけかもしれない。そう思った彼女は、ここで帰ることに決めた。
「あ、あたし帰ります! どうもありがとうございました!」
アーキの言葉を修得していたので、エリクエクの言葉はあまり話さなかった母からかろうじて習っていたエリクエクの基本単語を駆使して、キャステは何とか意志を伝えようとした。下げた頭をそーっと上げると、少し青年は寂しげな表情をしていたが、意志は通じたらしく、何かひとこと言って納得したように領いて見せた。きっと別れの言葉だろう。何だか母親からも同じような言葉を聞いたことがあるような気がして、キャステは急に寂しくなった。ううん、そんなことない! これから、この仕事を終わらせちゃえばすぐに会えるんだから! キャステは自分を奮い立たせた。
仕事……。はるかかなたのエリクエク・エスタルに 「行く」こと。そうとだけ言われている。それが戦争ごっこだと、そう言われている。それって、おもしろそうじゃない? だって、戦争ごっこって、ただ戦争のふりをし合うってことなだけでしょ?
キャステは、今キュツアーのことを考え、それをどうやって食べれば良いものかと思い始めた。キャステは自分に口がないことを知っている。そう、そんなもの最初からないんだ。でも、じゃあこのキュツアーっていったい何? 何で、あたし食べられもしないのに大好きなの? それに、お母さんと一緒に歌った、あの歌は、ロがあったから歌えたんじゃなかったのかしら? でも、あたしには口なんて初めから……あれ? あれれ? あれれれれ?
突然、後ろから誰かに抱き締められた。身体全体を覆う鋼鉄越しに、その人の体温が伝わってくることはなかった。だが、確かに、こんなことがむかし間違いなく、いつか、どこかであったことを思い返した。誰か、大人の、温かい人に、こうして抱き締められた記憶が、片隅に埋まっているのを、彼女は思い返していた。
ほろり、と小さな液体が、今では冷たく光るだけの頬を滑り落ちた。彼女は、それが何なのか知らなかった。でも、それを流したくないということは、彼女の胸に刻まれていた。そうだよ、だって約束したんだもの、あの時、もう一人で生きて行かなくちゃいけないんだってわかった時、ちゃんと約束したんだもの。あたし負けないよ、あたしは、大丈夫だよ、お母さん……。今では意味もわからないこの単語を、キャステは何度となく繰り返した。
森を抜けた時、弱々しい風と同時に視界がもうすっかり暗くなっているのを感じ取った。夜、だ。これもアーキの中と変わんないんだなあ……。意外に外の世界に平凡を感じて、彼女は少しがっかりした。しかし、自分がその中に立っていることをすっかり忘れていた草原は、彼女の期待を裏切るどころか、それ以上に、素晴らしい物だった。
「うわあ……」
あたり一面、見渡す限りに、緑の灯りが明滅している。それが何による夜の芸術であるのかは、彼女には一番よくわかっている。こんな光景を一度でも見せられていたなら、彼女が彼らを嫌うことはなかったに違いない。
「アイセルにも、見せてあげたいな……」
その彼女の言葉に呼応するように、夜空に一筋の光が舞い上がっていくのを、彼女は見た。まるで、夜の中の数少ない光を集めた、全ての人々への、微かな灯火のようだと、彼女は思った。
<最終章序編 がんじがらめの小鳥、と、もの悲しげな庭師>
第四幕「刃物」
少年と、刃物。
少年は、起き上がった時、その手に持っていた金属を少しずつ少しずつ、研ぎ澄ましていきました。なぜ、その金属を握っていたのか、なぜ、削っては削っては涙がはらはらと零れ落ちるのか、少年は全然わからないまま、金属を削り続けました。
少年は、空を見上げてみます。しかしそこには、あるべき何らかの色はなく、その代わり、まっ白な空気だけが、少年を囲んでいました。見ると目が沁みました。だから少年はひたすらうつむいて、一心に金属を削り続けました。
夜が来ることがありました。本当はいつも来るものだったのですが、少年は、それを知りませんでした。いつであろうと、何処であろうと、少年は金属を研ぎ続けました。
一度、少年は金属で手を切りました。舌で、その傷をなめました。
その金属で、少年は生きていくことを学びました。その金属で、少年は生きていく力を得ました。そしてその金属が、少年に大切なことを教えました。
もう少年に金属はいりません。なぜなら、それは刃物だから。もう、痛いということは、十分すぎるほど学んできました。もう、あんな思いはしなくても、もう平気なんです。大きくなった少年に、もう金属はいりません。なぜなら、それが刃物だから。
第五幕「青空」
□眩しいほどの快晴
俺は時々思うんだ。なあ、お前はどうして、ここにいるんだよってさ。
地上って呼ばれてる場所を歩き回っても見たけれど、もうどこにも俺がいていいみたいな場所はなかったよ。 あくまで俺の場合だぜ? それだけの話だけどさ。 でもよ、笑っちまうよな。じゃあ何が悲しくてこんなとこにいなくちゃいけないんだよ。お前がここにいてくれって言ったから? こうまでされて、それでもここにいるのが立派だって、言われたんだっけ? 冗談じゃねえよ。なあおい、冗談じゃねえんだよ。俺は、俺は絶対に、そんなことのためにここにいるんじゃねえんだよ! 違うんだよ! 絶対違うんだよ。ホントに、ホントに、違うのに、なんで、何でだってこんなとこに、こんなとこに……。
□気怠い曇り空
……お前、俺のことを見てるかい……? 見えるかい? 俺がどんなねじ曲がった顔してるか、見えるかい? 俺が空気を震わせてるのが、わかるかい? ——ああ、お前はいつもこれを奴らの言葉で "聞こえる" って言ってたっけ……——それとも、もう見えちゃいないのかい? お前のさっきまでの小さな目ン玉は、もう、ダメになっちまったかい?……それも仕方ないさ、たぶん、そうなっちまうのが流れだって、そういうことなんだろうさ。
□終末の明るき夜
……もうダメだな。なんて言うんだろうな、その "しおどき" ってのが近いみたいだよ、へヘッ。でもよ、俺もお前もよ、良くやったんだと思うよ。だってよ、こんなにお互い、押し潰しそうになってんのに、それでも何とかそいつら——イノチ?——を、繋いできたんじゃないのかい? そうだろ? だったら、それでいいんだよ。 たぶん俺たち、——ああ、最後に "俺たち" って、呼ぶことができたな——が、やってきたことは、誰かさんが見て、誰かさんが知って、……それで、それできっと、ずっと消えずに、残って行くに、決まってるぜ……。
□青く、ただそれだけの光
………… "死" ? 死ってのは、こんなに青くて眩しくて、力強いものなのかなあ……。どう思うよ? もうそんなこと、考える時間も、力もお互いありゃしないか。でもよ、言わせてもらえるかな? もしもお前さえ、構わないならさ。結論からいって、俺はここにいて良かったんだなって、思えるようになったよ。死んだからって、きっと何も変わりゃしないんだ。ただ、減るかもしれないものがあるだけでさ。でも、結局はどこかでまた生まれるものがあるわけだろ? ——そう、奴らに言わせりゃ "リンネ" ってとこだ——そうゆう時にさ、俺たちは……何か、残すことはできるのかなあ? 本当に、何か見てくれるやつはいるのかなあ? 見てくれないようだったら、もしもそんな皮肉なリンネが続くようだったら、俺たち、いや、きっともっと無数にいるはずの俺たちと同類の奴らは、それで、終わりになっちまうのかな。ただ見守ってるだけなのかな? ……きっとそんなことないよな。でもよ。悔しいよな。俺たち、何もできなかったな。見てるだけでさ、破壊されていくのを見ながら、ただ存在しているだけ
でさ。でも……俺はこう思ったんだ。存在しただけでもさ、こうやって結局は破滅させちゃったけどさ、ちょっとした短い間でも、こうやって奴らを繋ぎ止めてきたってのは、きっと良かったんだよってさ。へへっ、柄にもねえよな。じゃあな、ありがとよ。最後にわかりあえた、それだけは嬉しかったぜ。
第六幕「灰色」
「……お前、ちょっとそこにある新聞を取っとくれよ」
「……? 新聞って、あなたの手にある、その新聞のことですか?」
「ん? ああ、何だ本当だこんな所に。いや、最近すっかりボケが激しくなってしまったようだよ」
「(笑い声)やですよあなたったら」
「いやすまんすまん。あいつがいなくなってから、何だかすっかり老け込んじまったみたいだよ」
「(沈黙)」
「(同上)」
「(吐息)そうだった、そうだったな。これは言わない約束だったな」
「ええ、もうあんな恐ろしいことは、思い出さない方がいいわ。私たちには、とても耐えられることなんかじゃないんですから」
「(沈黙)」
「(同上)」
「なあ、耐えるって、どういうことなんだろうな?」
「(振り向く顔)え?……どういうことって、それは……」
「たとえばだよ、たとえば。たとえば、この新聞紙は、いったい何に耐えているのかな?」
「やめてください! 変な冗談を言うつもりだったら、あたし……」
「いやすまんすまん。ちょっと思うことがあったものだからな。そんなつもりは全然ないんだ。
だが、ちょっと言わせてもらえるかい?」
「……」
「……変な気分にさせるつもりじゃ、なかったんだ。許しておくれ。(うつむく瞳)……たとえば、だ。この新聞。この新聞はさ、心なんかないじゃないか? だからこれは、印字される痛みも知らないし、こんな不祥事を体中に埋め尽くされる恥辱も知らないし、手に取られ、捨てられるまでの、そのあまりの短さも知らない。その後新聞は、収集され処理場まで運ばれて、熱却されるだけだ。そんなむごい刹那の一生も知らないで、この新聞はここにいる。何でだろうな? やっぱりそれも知らないだけだから? いていいのかいない方がいいのか、そういうことがわからないから? ……どうなんだろう? 本当は、こういうことなんじゃないのかな?」
「(沈黙)」
「(同上)」
「(同上)」
「(誰かの、笑う声)」
「…… そうだよ。お前は耐えすぎたんだ。本当は、こんなにいろんな痛みを知ることはなかったのに、本当は、こんなにぼろほろになるまで生き続けることはなかったのに。お前は、私たちがそうであるように、耐えすぎたんだよ……」
第七幕「羽根」
飛んで行くのかい? 誰も止めはしないさ。それはそうなのさ。でもさ、君は本当に、飛んで行くのかい?
そんな汚れて傷ついた羽根で、どこまで飛んでいけると思うんだい? そういうことを考えさえしなければ、どこまででも飛んでいけると思っているのかい? フラフラ、そんな風に不安定に飛び続けていれば、いつどこでその羽根にひびが入るとも知れないのに? ガタガタ震えるその顎が、寒さによるものでは決してないことを知っているのに?
危なくたって、恐くたって、飛んで行けるさ。それは君の自由だよ。自分の好きにしていればいいさ。でも、君は知ってしまったよね。本当に自由になんてなれないんだってことを。自由だと思っているものは、実はただ言葉だけの大きさだということを。自由。どこまで行っても、君は結局自分の艦から出られないんだと、わかってしまったんだよね。
君がそれが自己欺購だと思ってる。思ってしまったから、飛んで行かなくちゃいけないんだと思ってる。どうしてなのかも知らないのに、いつも襲ってくるその痛みの原因が実に単純明快であるのも知らないで、君は飛んで行こうと思ってる。行こう、と思ってるんだね。危ないよ、危険だよそれは。今なら、まだ間に合うんじゃないかな。未来の君が、まだいてもいい場所があるんじゃないかな。そんながむしゃらな低空飛行を続けないで、もっと高いとこを飛びなよ。君は本当は、君が今思っているよりも自由なのに。君は空気の色を選ぶ権利すらあるのに。ああ、もう、だめかな。行っちゃったね、バイバイ。君の耳障りな羽音だけはどうか消しておいてくれよ。
第八幕「祝福」
え? こんなに素敵な世界があったんですか?
ああ、あれ! あのチカチカ光っている明かりの名前は何というのだろう? もっと近くに来てくれないかな、そしたらお話しできるのに。でも ……とっても遠いいや。
じゃあ、あれは? あそこでクルクル回っている綺麗な幾つかの丸いもの! ああ、いろんな、いろんな世界があったんですね! 誰かに聞かせてあげたいな、見せてあげたいな、誰か、どなたかここにいらっしゃらないんですか? あたし、一人なんですか?
どれか、一つでも良いから、あの素晴らしいもののそばに近づけないのかしら? あんなに綺麗なものが、あるのに、ただそれを見ているだけだなんて……。なんでかな? あたし、今まで一生懸命やってきただけなのに。まだ、一生懸命やらなくちゃダメなのかな?
ああ、そうだ! あたしは、いったいどんな形で、どんな色をしているのかしら! わあ! 見たい、早く見たいな。あの全ての綺麗なもののように、あたしも素晴らしい姿をしているかしら? もしそうだったら……あたし、それだけで十分!
……緑色してる。細長い。……これだけなの? もっと、素敵なものはないの? やっぱり、あたしはまだ一生懸命が足りなぃのね。もっと頑張ろう。もっと頑張って、もっと素敵な世界に近づけるようになろう、もっと素敵な自分になろう。
……あ。 今こうして、自分がいることがわかっているこの部分は何かしら。自分の嬉しさや、悔しさや、やる気が出たり入ったりしている、この不思議な部分は何? こんな、いろんな素敵なことを知ったり、ダメなことをわかったりしている、このいろいろなことが起きているところは、一体なんて名前? どんな色? どんな形? ああ、あたしに知ることはできないのかな? 見ちゃいけないってことなのかな? そんなの悔しいな。やだな。ねえ、誰か、誰だか教えてくれませんか。あたし、どんな姿をしているんですか?
終局「哀歌」
一歩退く。男。
女。うつむく。
喋る。どちらか。
唾を飲む。あきらかに男。
女。女が喋っている。
女。女が喋っている。
男。耳を傾けている。
見ている。
聞こえていない。
話しかけたいのに、
本当は話なんてどうでも良いのに、
話し、かけることが、できないでいる。
女。女が喋り続けている。
青。比較的白い。
白。あまりにも白い。
青。渦巻いている青。
白。停滞し俯瞰する白。
青。白に浸食されて行く。
白。青を食いつぶす音。
滴るものの音。
男。目を上げる。
女。……話し続ける。
走る! 白がそれを覆う。
男。男が居ない。
女。男に抱きしめられている。
白、そして女。
泣いている。世界が泣いている。
世界の中心で泣いている。
世界の中心で全ての事象が泣いている。
世界の中心で、一人の男が泣いている。
腕の中で、一人の男が泣いている。
えがお。えがおにみたされて。
ひとりなんかじゃないよ。
いつもいっしょだから。
ずっとみてるから。
なかないで。
いつもいっしょだよ。
だから……
いつでもえがおをわすれないで……
さようなら…………。
<最終章 雪降る野原に、愛を繋いで>
第四幕「A Boy and His Shining Knife」
青い空。白さは皆目見られない。先ほどまでのそれは、何処かへ溶け込んで行ってしまった。お前はまた、私に嘘をついていたんだな……。空も、太陽も見上げたくない。もう私に、それらを見上げる意味はない。もう私に、それらに対する思いもない。それら自体の価値もない。そう、そして私自身、生きていこうとする所に、その価値はない。
聞こえるような気がするのは、弱まることもなく、強いこともなく、一定の速度で歩を進めて来た、私の跫音だろうか。耳から入り、頭の中で、かき回すように激しく加速し、聞こえるような音の波が、世界へ広がって行く。意識は薄れない。私の心象は、停滞している。
振り返ると呼べるのだろうか。私の時間は、いまだ存続しているのだろうか。それを立証するのではない。そのつもりはない。ただ、自らの自由意志として、最後に残された生命の余韻として、今この場で、この心、この思いのままに、歩んできたその足跡を、今一度遡り続けてみたい。大河に授かりし命を、蒼き流れの懐に抱かれる中で、再び原初に還そうとする、小さく巨大な水魚のように、もしくは、この上もなく瞬ける白い光の中で、一つの黒点が、回り続けるその周回の最後に、立派で美しい明かりをほうっと灯すように、何処までも深く、何よりも透明で、白い微かな勇気の証を、この人生の確かな終止符としたい。
第五幕「Infinite Blue」
「グリィ! こっち来てこっち!」
呆れるほどにはしゃぎ回るアイカの元気さには、とてもついていけない。今までの日々に辛く耐え難いことが多くあっただけに、今のこの静かな暮らしが、楽しくてしょうがないのだろう。ただ見ただけで、頬の筋肉が崩れてしまう。
「はは。どうしたんだいお姫様?」
「プレゼントだよ王子様!」
「なんだい? またこの前みたいに振り向きざま土をひっかけるんじゃないだろうな? あの時はシャツの中にまで土が入って本当に……」
「違うよう。そんなんじゃないの」
また私はよけいなことを言ってしまった。どうも、最近のアイカには調子を狂わされる。昔からよく慣れている子供らしいあどけないアイカと、成長に伴って現れてきた少女らしいしおらしいアイカとが私の目の前にいるのだ。彼女は今も俯いて恋するような微笑を浮かべている。
「そうかゴメン。じゃあ、何なのアイカ」
「うん。……ほら見て」
「ふふ。グリイおいしい?」
何故こんなことになるのだろう。何故、こんな恐ろしい気分にならなくてはならないのだろう。アイカのプレゼントは、鳥だった。蒼く雄々しい精悼な鳥。これを、彼女が仕留めたというのだ。自らの手で。私が作れなくなってから、コツコツと作り続けてきた矢で。心からの贈り物のつもりで、昔の私の見よう見まねで、ただ、肉を得ようとしただけなのだ。殺すという、動物に死が訪れるということを知らずに、やってしまったのだ。
「うん、すごくおいしいよ」
「よかった。グリィちっともお肉食べられなかったものね。まだまだいっぱいあるよ。あたしは昔いっぱい食べさせてもらったんだから、今度はグリィがいっぱい食べる番だよ」
もういいよ。もう十分なんだよアイカ。君の優しさだけで十分なんだよ。君は世界の真実なんて知る必要もないし、成長してくれる必要だってないんだよ。君は昔の君のままでいてくれれば良いんだ、それで良いんだ。僕は、もう君を傷つけたくないよ……。
「……本当、こんなにおいしい鳥肉なんて、食べたことないよ、はは、はは……」
「グ、グリィ泣いてるの? おなか痛くしちゃった?」
「……ううん、人間は、嬉しい時でも泣くんだよ……」
「グリィ……あたし幸せ……」
傍らで眠っているはずのアイカの声がした。見ると、愛らしく微笑み眠るアイカがいた。寝言のようだ。安堵のため息をもらす。私が苦しむ姿を見たら、彼女がどれだけ心配することか。
これから、どれだけ彼女を傷つけねばならないのだろう。 私はそれが恐ろしくてたまらない。幸せになれるんじゃなかったのか? 霧を晴らして、それで、世界は変わるんじゃなかったのか? それとも、一度犯した罪は、もう拭うことはできないということなのか。
幸せは、どこにあるんだろう。アイカにもらった艶やかな青い羽根を見つめる。昔私が話した物語に出てきた、『幸せの青い鳥』のことだという。それで、獲物に青い鳥を選んだのか。あの話は、私の希望を託すつもりで何度も話したものだ。青い鳥。「そして青い鳥は、もっともっと青い澄み渡った空の真ん中に、嬉しそうに嬉しそうに向かって行きました」か。私は結局、地べたでずっとこの子を傷つけ苦悩しながら生きていくのか。だとしたら、もう生きていたくない。消えてしまいたい。世界に溶け込んでしまいたい。ただし、この子を置いて、絶対にそんなことはできない。この子がいるなら、私は生きる。生きていたいのだ。生きていなくてはいけないのだ。だが、そうすれば私はこの子を傷つける。また私はこの子を壊してしまうかもしれない。なら、いったい私は、どうすれば良いんだ……?
「ねえ、グリィも……幸せ?」
「わあ。綺麗な水だねグリィ……」
久し振りに川を見つけた。朝の陽光が反射して、その水面の美しさは形容しがたい。アイカは川の傍にしゃがみ込んでうっとりしている。純粋に自然を愛でるその姿に、何かしらの痛みが影を落としているようには思われない。そう、君はそれで良いんだ。
昨日は、私は何とかあの鳥の死のことは隠し通した。初めてそれを知るという時に、彼女がそれをもたらしていたというのではあまりに衝撃が大きすぎる。もう少し待たなくてはならない。待って、そして彼女を傷つける姿形のない物を根こそぎ取り除かなくてはならない。
しかし、彼女がこれから繰り返し繰り返し狩りを続けるつもりなのであれば……? そして何度も無実の罪を重ねた後、ようやく自分の過ちを知らされるというのであれば……? どのみち、彼女を傷つけることは避け得ないだろう。もう、これ以上そんな物に対処できるだけの力はない。私にも、アイカにも。悔しい……。どうすればいいのだ? これでは何のために生きてきたというのだ?
いっそ、もう打ち明けてしまった方がいいのだろうか? そうかもしれない。いつ言ったところで、そう変わる物ではない。彼女が辛いなら、それを受け止める努力をしてみよう。それで駄目なら……それまでだ。
「ねえ、アイカ……」
……? 頬が冷たい。水をかけられてしまったようだ。
「グリイったら、全然あたしのことなんか聞いてないんだから。ふん、どうせ昨日の鳥肉うまかったなあとか考えてたんでしょ。グリィの考えてることなんか、全部わかっちゃうんだからね、ベーッだ!」
言うなり駆けてどんどん向こうの方へ行ってしまう。もう、これは取り返しがつかないことなのかもしれない。どんどん遠くへ行ってしまう。もう声が届かないところ行ってしまう。私はもう、彼女を二度と取り戻せなくなる。そうなることが今は、何より恐ろしい。アイカ。今だけは、もうこれから先はそうでなくたって構わない、せめて今だけは、私のそばにいてくれ。私を、そばにいさせてくれ、アイカ……。
「……はは。鬼ごっこか。ようし、負けないよ! すぐに、すぐに捕まえてやるからなっ!」
「無理だよー、グリィになんか、ぜったい捕まえられっこないよーっ! へへっ!」
「言ったな、こいつめー! はは、ははは、ははははは……」
第六幕「Gray Colour」
「ねえアイカ、見てよ、今日は星がとっても締麗だよ」
「あたしとどっちが締麗だと思う?」
「え? そんな、そんな何も真顔で聞かなくても……」
「ぷーっ。グリィったら照れてもくれないんだから。もういいよ」
「……」
「……」
「……ねえ、さっきから何をそう怒ってるんだよ。僕が何か悪いことしたかい? アイカじゃあるまいし」
「別に。何でもないよ、怒ってるわけじゃないし」
「何でもない、か。まあいいよ、そういう時もあるんだろうさ」
「……」
「……」
「ねえ……?」
「ん? なんだい今度は?」
「あの星たちを見てさ、グリィどう思う?」
「どう思う? うーん、そりゃ、いつ見ても締麗だなって。あ、いやアイカももちろんいつもかわ……」
「そういうんじゃないの。星たちを見て、寂しそうだなとか、辛そうだなとか、美しさ以外に星たちから感じること。そういうの」
「じゃあ、アイカはそんな風に感じているってことかい。僕は、 ……そうだね、僕も何だかあの必死で輝いてるような姿が寂しげに見えるよ」
「そうか……。星さんたちも大変だよね」
「え? うん……」
「……」
「……」
「あの……さ。もしも、もしもだけど」
「え? ああ、うん」
「その、もしもあたしがグリィの前からいなくなって、そのままもう会えなくなってしまうとしたら、グリィどう思う? 寂しい? 悲しい?」
「そんなの、もちろんだよ! アイカがいなくなって、僕が悲しまないわけはないじゃないか!」
「本当? 本当にそう思う?」
「ああ、もちろんさ」
「そう、か。そうだよね、ゴメンね、変な質問しちゃったね」
「……」
「……」
「どうしたのアイカ? 何だかさっきから変だぞ。何で怒ってるんだ? 何でそんなことを僕に聞くんだ? どうしたんだよ?」
「止めて、あたしをそんな風に責めないでよ」
「あ、ご、ごめん……」
「……」
「一人で、人が一人で生きていかなくちゃいけないんだとしたら、それってとても痛くて悲しいことだよね……」
「……」
「ごめんねグリィ。ごめんなさい……」
「……」
第七幕「Touching Views」
螺旋を描き、視界に収まるぶれ、歪み、暗転そしてありのままへの回帰それら全ての能動性を失った、いやむしろそれら存在の存在の是非を問うことすら許されない私の渇き伸び切り潤滑な外部との接触を断ち切った心の奥底の生み出した、極度に静止した単色の画像の直中に、何もかもを巻き込み、貫き、 向こうへ向こうへと伸びていこうとする強力なる物が、緩やかに密やかに、到達点への短い天空旅行を進めている。歩み行く道がどれだけ惨い夢であるのかも知らず、ある一例として命と呼ばれる物への愛が、ある時点に於いて永劫断ち切られるのを知らず、舌なめずりをするのが克明であるのを認識する組織が形作られてすらいないのだと言いたげに、歪曲する曲線——それは零に至ることはない——は、幾つもの、何千万もの、時には何億もの実在、現象、形骸化された欲望、包含し得ない物質、ありきたりの刻印を押され時には不運にも絶叫の金切り声を上げながら破滅へと滑り落ちて行くだけのとある蒸気をも、意識に捉え得る最大と言い切れるだけの大きさを持たない巨大さを保った減速し入り乱れ続けるあ
まりにも種類の少ない色の中に、その内容量の異変に感づくこともなくたゆたわせている。あの時気づかず気づかずに観察を続けていたかったのだが時はすでに、私の居場所を透明な液状の内容のない球の中心に限定していた。泣いて懇願したが無駄だった。私の身体の穴という穴に踏み潰された枯れ草と良く似た幾つかのパターンが流れ込み、何処にあり得たとも知れぬ奇怪な貴族の建物のような良く構築された何らかが組み立てられて行き、混濁していた情報は理路整然と結合して、恐ろしく膨大なイメージを私の心に植えつけた。今でもそれは、私の心から取り除かれることはない。そして世界に投げ出された時、私は理解した。何もかもを含め全てが、飛期していくのだと。
第八幕「White Twilight」
「グリィ、おはよう、グリィ、起きて、グリィ、早く起きて。あたし言っておきたいことがあるの、グリィ、あたしの声が聞こえる、グリィ、あたしがいなくなってしまう前に、グリィ、あなたと話をさせて……」
声がする。確かに、アイカの声だ。
起きてくれと呼びかけている。だが、いくら自分に起きなくてはと呼びかけてみても、体がいうことを聞かず、目も開けることができず、ただ意識だけが確かな中で、私は横たわっている。
「起きられない、起きてくれないのね、グリィ……」
待って、待ってくれアイカ。今、今すぐ起きるから、どこにも行っちゃ駄目だ、行かないでくれ、アイカ……。
「……きっとグリィ起きてない方がいいんだな、だってもし起きてたらグリィの目が涙で溢れ返っちゃうかもしれないもんね。うん、きっとこれで良いんだ」
誰か私を起こしてくれ、頼むから、誰か私を起こしてくれ。
「ふふふ、………可愛い寝顔。きっといい夢を見ているのね。あたしの夢かな。だといいな。寝ていてねグリィ。たとえ聞いてもらえなくても、私ちゃんと話をするから」
ああ、ちゃんと聞いてるよ、だから何処にも行かないでくれ。君の夢を見ていただけだなんて、そんなの嫌だよ……。
「何処から何処を話せばいいかな。全部を話してしまうのは、ちょっと悲しすぎる気がするものね。グリィ、ううんグリエル、私はもうあなたと一緒にいることはできません。もう、一緒にいられる時間が終わってしまったの。だからこれで、お別れです」
そんな、そんなのあんまり一方的すぎるじゃないか。今度の君のわがままは聞いてあげないぞ。やめてくれ、どこにも行かないでくれ、アイカ……。
「グリエル? こんな話を聞いたことある? 植物はなぜさやさやと風に揺れるのか。それはね、ここで今生きていることが嬉しくてしょうがないから。植物はなぜ、その場にじっと佇んでいるのか。それは、生きている物たちの声に耳を傾けるため。周りの全ての物とじっくり対話するためだし、周りの全てを愛するためなの。そして植物はなぜキラキラと輝くのか。それは太陽のせいだけじゃないわ。生きている物たちの優しい気持ちが愛しいから、生きている物たちの思い出がとても美しいから、植物は輝くの。そして、植物はなぜそのどれもが枯れていくのか。それはね、生きている物たちの愛が消えてしまうから、生きている物たちの思い出が溶けていってしまうから、生きている物の心が、憎しみに支配されて行くから、悲しくて悲しくて植物は枯れるの。
……でも、それで全てが終わってしまうわけじゃないわ。そうして終わってしまっても、たとえ誰の記憶からも消えてしまっても、誰かが感じた喜びは、ちゃんと消えずに残っていくの。その先に、新しく生まれてくる物があるんだから、それがまた静かな喜びを紡いでいくんだから、愛しく思う気持ちを繋ぎ止めておくことができたなら、それで大丈夫、上手くやっていけるよ。
……あ、もう、お迎えが来ちゃったみたいだ。えへへ、信じらんないな、これでグリィと、ホントに、お別れなんだな。……グリィ、今までほんとにありがとう。今は静かに寝ていて。おやすみ、いままでわがままばっかりでごめんね」
いつだったか、その話はどこかで聞いた覚えがうろ覚えながら、私の片隅にある。誰かと手を繋いで、自然の匂いをかいで、明るい世界に心躍らせながら、優しい声でその話を聞かされた気がする。私のことを天使だと言って、暖かく包み込んでくれた人がいたことを、私は知っている。誰だかは、いったいいつのことなのか、何処でのことだったかは思い出せないが、ただ一つだけはっきりしていることがある。私もその人のことが大好きだということだ。
急速に視界のような映像が意識の中に流れ込んできた。初めに目についた物は、軽快なメロディーでも奏でているかのようにばらばらと舞い落ちてくる雪だった。そのひと粒ひと粒に、私とアイカのかけがえのない思い出が詰まっているように思える。落ちては積もっていく純白の雪。その白い景色の中に、雪に彩られ出した見事な大木がある。幾多の年月を経てきたその幹は、生命に充実していて力強い。
その木の陰に、若い男女が休んでいる。女性は幹に凭れながら、男性の頭を膝の上にのせて寝かせている。 女性の顔は見えない。ただ、この時間が永遠に続いてくれればと願う気持ちは、その穏やかな物腰から伝わってくる。男性は、眠っているのではない。女性の顔を見透かすように、大木にほとんどを遮られた上空を見上げている。雪は何処から来るのだろうか。そんなことを思っているのかもしれない。暖かそうな色が、幾つもの葉の周囲にぼんやりと浮かび上がっている。腹の上に何の不服もないように合わせられていた手が、やがて上空の方へ、滑るように、無気力を根気へと変える過程のように、時折ためらいがちに減速しながらそれでも確実に伸び上がっていく。彼の視界の前に、その骨太の手が立ち塞がった時には、——この時初めて、男が私自身であることに気づいた——指のつけ根の部分から、爪先や、手首の周囲に至るまで、棘のような光が、針先をこちらに向けて付着していた。手は、構わず上方を目指していく。半狂乱のように震えるその手は、付着する光の針が、実際は氷の細かな柱であり、少しでも早くそれを解かして欲しいがために、天に向かっているのだでも言いたげだ。 指の間から、葉の隙間から、一つの光の集団の存在は見て取れる。しかし、これは届くより先に、手が凍えて死んでしまうのだろう。あの光は、雪を生んだのだろうか。私は、その男となって考えた。
届かないことがわかっているのに、天を目指し続ける手は、雪に埋もれていくように、静かに段々小さくなって、私の視界から消失していった……。
終曲「Before Moon」
火をくべる男。その横に、
寒そうな目に期待を浮かべる女の、
白い光の揺らめく顔。
肉が焼かれる。
その肉を刺した棒を、握る
男の手、
柔らかくもなく、太くもなく。
棒を操る。
瞳に映る色。
明らかに緋の色のようであり、
元の姿に何があったのか。
飢えて凍えた孤独の色
それは一方で力強かったであろう。
いまは、
幸せの躍る、
静かな上質の燈色。
待ち焦がれる女の肩
寒さに震える
それとも愛しさゆえか。
下向き加減の視線
見ているものは
思い浮かべる情景なのか。
ふいに よこぎる風。
女の
雫の
流れ行く方向。
向けられた視線は、
反対の
空洞の
風穴の方へ。
怯えている。
瞳が悲しい。
相も変わらぬ男
だが、火は追い詰められたように、
揺らめき小さくなっている。
食いちぎられる
命の音。
命を繋いでいく
生産の証。
沈黙する
二人の間。
風はない
火は二人を染め上げる。
風が過ぎていく。
「……」
そちらに気取られるよりも前に、
火は役目を終えて尽きてしまった。
暗闇が、二人を支配し始めた。
「……?」
そう思いかけて
諦めかけて
うつむいた瞬間それと悟った。
光が……こぼれだしている。
外に急ぐ!
それを知らない
それを知るより前に
男が、女が、
外に立っていた。
「……!」
息を飲む
数刻。
そこに見たものは
知らなかったものは
二人を照らした光は
空に浮かんでいたものは
丸く美しい夜の太陽だった。
彼らを照らす光。
それは祝福の優しさ
誕生の喜び
始まりへの、賛歌だ。
生命の溢れる世界が、
その産声を上げたのだ。
終幕「天使」
わたしのからだが、こおりついていく。ごちごち、かくじつに、しずかにこおりついていく。わたしのこころをとじこめていく。すべてのきもちをとめてしまおうとしている。きおくがおわっていく。せかいがとじられようとしている。わたしとよべるわたしがすべてきえてゆく。
あるいてきたみちをふりかえってきた。とてもながくて、とてもおもいでぶかい、すべてをおもいだすことなどとてもできないわたしのみち。わたしがいきてきたきせき。それは、このばでようやくねしずまろうとしているのだ。
いまになってすこし、わたしのいきたみちをりかいできるようになってきた。わたしはずっとこどくだとおもっていた。だから、アイカをこどくにしてはいけない、ひたすらあいさなくてはいけないとおもっていた。だが、わたしははじめから、うえもだえなげきいたみをかんじなみだをちをながしながらもとめてきたあいにつつまれていたらしいじじつを、いまもってしった。いっしょだったんだ。はじめから、ずっといっしょだったんだね……。
……おとが、かぜの、わたしをつつむおと、が、がさがさ、した、ききなれない、ものに、かわっていく。……じめん、が、わたし、の、からだに、せつごうする。……そらのいろ、が、しろく、なめらかなもの、に、へんようする。……わたしが、いなくなって、いくからだと、はっきり、とわかる。
こわい、よ……。さみしい、よ………。だれ、も、そば、に、いて、くれない、よ……。ぼく、ひとり、は、いやだ、もう、ひとり、は、いやだ、だって、とても、とても、あれ、は、いたい、きぶん、だから……。
で、でも、ぼく、は、ひとり、でも、いき、て、い、く。な、ぜ、って、アイカ、と、やく、そ、く、したん、だ、いえ、なか、った、け、ど、ひ、とり、でも、いき、て、いく、よ、って、あの、ひと、に、だっ、て、や、くそ、く、した、ん……ダ、ぼく……いき、て、いく、ヨって……。
アイカ…アイ…カ…ア…イ…カ…あ……か…あ………い…………か。あ…あ……り………が…と…………う。さ……よ………な…………ら……………。す…す……き………だ…………て…す…な……お………に……い…え………な………く………て……ご……………
Finale of the Song for the Rose and the Leaf