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第三章「祈りの聖夜に」

第一幕「広がりとその始まりに」


 ずっと遠くのその先までが、今では明らかなまでに見えるようになった。ずっと、小さい頃から願っていた、世界の広がりを、心の中だけでなく、この目で見てみたいという念願は、ついに叶ったのだ。だがこれが、私の望んだことなのか……? 確かに世界はとても広くて、見ていると自分という存在があまりに小さく思えて、少し怖くなってしまうほどだ。風も穏やかで心地よい。これだけでも多分に、今まで生き抜いて来られて良かったと満足しても良いはずなのだが、本心の方はそうは言っていない。なんだか、広い広い空の、淡く赤みがかったうす青色は、私の悲しい心の色が、そのまま現れ出たかのようだ。

 そうはいっても、完全にその寂しい色が、全天を占めているというのではない。いつまでも白い、無機質で不変の雲が、まるで空の蓋であるかのように上空に君臨している。以前は霧と呼はれていたそれは、今は空の彼方にのみ存在するだけとなったのだが、それはそれで手の届かない天高くから私たちを愚弄しているようで、いまだに好きにはなれない。

 私たちというのはそう、私とアイカ、それにもう一人のことだ。そのもう一人については、今はまだ語るまい。というのも、私は彼が傍にいない時に彼について語ろう等ということには、信用を置くことができないからだ。何かを語る時その何かを傍に置いて語る方がよほど信憑性が高いというのは自明の理だ。少なくとも私はそう信じている。


第二幕「折れた氷を抱くのなら」


 では、傍らにいてくれている、アイカについて語ろう。もう大分昔のことになるが、私はアイカを抱きかかえ、あの全てが赤く塗り尽くされた場所から、外へと向かった。私には、まだ捨てられないものがある。甘い揺らめきの中で、私が自らの意志で、その思いを力強く握り締めた時、私は、外に立ち向かう勇気を、外に向かう一歩を、何物でもない自らの力で勝ち取ることができた。その後に何があったか、語ることはできない。いや、語るべきではない。以前にも類似した内容に触れたが、これこそ私如きの意識の内に収まってくれるような事象ではなく、一つ次元上の世界に、対象を明確にするならば神に憧れるように、かつて触れ得たその世界については夢見るように語る術しか持ち得ないのだろう。

 話が大きく逸れてしまったようだ。いや、あながちそうともいえないか。アイカという一人の他人の中に起こった現象、いうなれば悪夢についてもまた、私は空想に想いを託して手探りすることしかできない。よって私が彼女について語ることというものは、彼女自体ではなく、彼女に対する私の想いということになろうか。

 彼女は言葉を失い、表情を失ってしまった。彼女の心を映し出す鏡は、彼女の心の在り所を示すものは、悲しいかな、全ては一片の氷を打ち砕くように、惨く、脆くも砕け散ってしまった。私の心に、小さな破片を突き刺して、それらの存在は、突然に私の前から姿を消してしまった。彼女の心は天高くして、今や、手の届かないところに……。

 背を背後の岩に凭れて、哀願するように、ただただ開けている地を、雲を、そして空を眺める。遥か向こうに見える、雲の端の方から光が漏れ出している。去来する想いに別れを告げ、私は、その方角へと歩を進めて行った。


第三幕「天空に落ちる陽のもとに」


 雲の下方から、少し少しと、光り輝く聖なる滴がその存在を現し始める。目を射る閃光。

 私は、その矛先のあまりの咳さに、思わずつと瞳を閉じる。瞳の中で、いつの間にかその鋭い刃は優しい温もりの海の一滴へとその姿を変え、私の淀んだ瞳を包み込む。そう、誰彼構うこともなく、私のような汚れたものにすら、溢れ余る清き慈悲を与え給うて下さるのだ。これが、神でないとするなら他に何をそれと呼ぶことができょう。このことにせめてもの感謝を捧げないのなら、その人はその人の何を人間らしいと呼ぶことができよう。

 意志か、それとも肉体の限界か、私は引き寄せられ歩くとも倒れるともままならぬ挙動を続けていたが耐え難く、遂には地面に腑甲斐なくもへたと座り込んでしまった。段々と、果実が実る様を、年月を短縮させて見ているかのように、黄の色一色に鮮やかに輝く滴が膨らみを増す様を、静かに垂涎して圧倒されて見守る。自然の造形美と呼ばれるものについて、こんなにも生命力に溢れ叙情味に溢れたものというのを、本当に今の今まで見たことがなかった。丸みを増して膨らんでいく様に、何だか、憧れとでも言いたくなるような感情が込み上げてきた。

 ふたつある私の瞳には——こんな書き方をするのは、私にとって今、欠けていて不完全な状態であるものがあまりに甚大であるからだ——今、彼は欠落一つない極められた色彩美に彩られた、天女の羽衣のような、そう、アイカに着せてあげたくなるような、いや正確には着てもらいたくなるような姿で、理想、完全、永遠、一切、真実、至高、始祖、終末、唯一、無二、絶対、悲哀、勇気、絶望、強欲、享楽、憐偶、不遇、塵芥、そして祈り……、何故だろう、しかし見ていると畏れに呆然とした私の意識に錯綜してくる、多かれ少なかれそうした森羅万象とも呼べそうなものが凝縮された様々な顔を見せて現れてきている。がしかし、心の場合と同様にして私の瞳に映るものもまた、対象の外殻としか呼べないような貧しい姿なのであろう。そして人はこれを、希望や空想の絵の具を加えて天使とするなり、また実際現実に於いて天使と思える他者、または、悪魔や現実に忌み嫌う人間を投影したりするのかもしれない。ただ不幸か幸いかあいにく私の世界は殊人間的であるかないかという点で非常に狭い。また、それは絶妙に狭いものだと思っている。然る故に私の偶像は飽くまで自然、そしてその頂たる太陽にほかならないからだ。決して、自らの意志で汚れることなき絶対の存在としての、美の理想型としての自然なのだ。また同時に、非情に徹底する、完全他者、父としての自然でもあるわけだ。この点では、私は人に囲まれ過ぎて暮らす人々よりも幸せなのではないのだろうか、と信じている。

 こんな思索を巡らすうち——それといっても、この時間に関してはいつものことだが——太陽の、雲とそれとの最後の接点が、今まさに千切れようとしていた。彼らが秘密裏に行っていた蜜月も否応なくも終わり、太陽は、肉体を曝すことへの恥じらいからか、今までよりも一層輝いて、艶やかに揺らめいて見える。滴は零れ落ちる音も立てず、飽くまで、完全者としての地位と気品を漂わせている。そして、完全なる円形が、遂に私の眼前にその姿を現した。この形が、この輝きが、そしてこの華やかさが、私の脳裏にこびりついて離れてくれようとはしない。そして、彼がこの姿を曝してくれる時間を、私は決して逃さない。畏れ多くもいま、私の瞳にはその美しい図形が重なっていることだろう。そして反射投影の側面から捉えるならば、私を形作るものは、この太陽光を措いては他にない。私の精神の原型ともいえるものを構成するのが彼であるなら肉体という部分に於いてもまた、彼は私の創造主であるのだ。

 そして、厳粛なる神の御座の前に、私は祈りを捧げる只人となった。元々只人であるのを、心からそう思った、という訳だ。そして、大事な願い事もしておいた。明日にもこの、偉大なる神に祈りを捧げられますように。


第四幕「あるいは、その果てに目指すもの」


 夕食の時刻だ。幸い食料に事欠くことはない。今私たちが棲み暮らしている所のすぐそばには、果実と野菜の類が実に豊富に揃っているからだ。水分というものにも恵まれることとなった。以前は大分それ等に苦労させられていたものだが、いざ何不自由なくなってみると、案外に何でもないものなのだなと思った。結局は生きていく上になくてはならないものであって、それに四苦八苦することもなくなってみれば、空気を吸うことと同様、自然と生活の中に溶け込んでしまうものということなのだろう。太陽もまた、そうして呆気なくどうでも良いものとなっていくのでは、非常に寂しいことだ。

 いくら不自由しないとはいえども、それを得るためには当然取りに行かねばならない。太陽も地平の向こうに沈んでしまった。いつものように、散歩がてら食物を取りに行くとしよう。

 この地は、草原というにはほど遠いがしかしなかなか生命に満たされている。所々に草が群生していて、今のような夕刻過ぎにもなると、実際見たわけではないが大小様々の虫が、そこでそれぞれ思い思いに声高らかに合唱する。朝方には草の外で、日光を浴びて元気に這い回っているものもあるが、この時刻にはそうした虫は少ない。故に、草を踏むことさえ避ければあまり無碍に虫を殺すことをしなくてすむ。そして意味もなく小さな命を奪って不快な思いをしたくない私は、外出はその限りではないが大概はこの時間にしか歩き回ったりはしない。

 そう、それにあまり外出をしないということは、他の意味でも多分に重要であるのだ。アイカを一人にしておく時間は、できれば避けたいものであるからだ。連れていけるならそうしたいが、それはできない。アイカは自分からは動くことすらできないのだ。いや、動く意志が、心がないのだ。そして私は、もう昔のようにアイカを抱えて歩くことはできない。私の足は、もうそれに耐えることができない。

 その点では不自由を知ったことはないであろう、そして此からに、それがあるのかもしれない体躯の二倍はあろうかという翼を勇ましく広げた鳥が、私に影を落としそして彼方へと去って行く。帰る家を、目指しているのだろうか。夕方の静かで肌寒い風が、私の体を通り過ぎて行く。早く、うちに帰ってあげなくっちゃ、な。咳いて、私は早足に深く沈んだ青い平原を歩いた。


第五幕「閉ざされたふたりのための光」


 長い長い家路を辿って行き着く先は、暗く暗黒に口を開けた洞穴だ。何か温かな出迎えがある訳ではない。家、居住するために自らが作り上げる空間というものに憧れを抱かなかったこともないが、今の私に、それを一から組み立てるほどの余力があるはずもなく、こうして何でもない小さな空洞の中に、仮の住まいを設けているのだ。そしてアイカさえ良くなってくれれば、この洞穴に長居する理由もない。

 採ってきた物たちを抱え、視界の利かない洞窟の中で壁にぶつかることのないよう、十分に留意してアイカの元へと足を運んで行く。もう道順には離れた。だが、まだ暗い所は苦手だ。あの時の、苦々しい記憶が、私の本心が生み出した愚直な行動が、目をつむろうとも、またアイカとの楽しかった日々を回想しようとしても、それらを打ち破り私の心を責め苛む。その度に、私は人間と呼べるのだろうか、私はこれ以上生きていく価値はあるのだろうかと脳が割れるほどに自間する。だが実際その考えは安らぎに逃避しようという愚かな考え方であるという事実もまた同様に良く己に唱える。アイカをああにまでした張本人である私がそう簡単に命を投げ捨てて良いものではない。死は単なる現実逃避、それで全てを償った気でいる自己満足、自慰行為だ。せめてもの償いをする、そのために己を捨て尽力するという道の他に、選ぶ道などない。そこに希望と呼びうる一条の光が、存在しようとしまいとおまえはいつまでもいつまでも、細長い闇に閉ざされた道を、命の砕け散るまで歩くことに没頭しなくてはならないのだ。歩け、歩け歩けあるけあるけあるけあるけあるけあるけあるけあるけ……。

 唐突に光を目にしてあたりを見回すと、果たして一方に於いては目指した所へと辿り着くことができたようだ。この洞窟の最も奥の広場には、夜でも光が届くようになっている。頭上に、空と我々とを遮る天井が存在せず、夜の微光がある程度差し込むようになっているからだ。その灰暗い中に、静かに佇みそして顔を青く照らされて、何処を見るともなく、沈黙して、どこか悲しげな眼差しで私の足下を見つめるアイカがいる。 いつもとおなじように。百年の昔から、そこを微動だにしたこともないという、厚い氷の壁に、封印されてでもいるように。


第六幕「愛に、祈りに、次なる調べを」


 締麗な花が、咲いたその地にアイカは静かに仔んでいる。奇遇といえば奇遇だ。素晴らしいといえば素晴らしい。そう何度と洞窟を探し回った訳でもなく、私はまだ小さかったアイカを両腕に抱いて這うようにして歩いていて、ふと目にした洞窟の口が、ここへと繋がっていたのだ。それ以来、私たちはここに居を構えている。

 そう、アイカは成長してくれているのだ。あたりに芽吹いた小さな花の子供たちと共に時を歩み、共に成長する。やがて咲いた花だけが、締麗に限りある時間を輝いたかと思うと今までの輝きが嘘であるかのように、生命を繋ぐものを逞しく残して、静かにゆっくり枯れていく。そんな風にして季節が巡り行く様を、私はアイカと一緒に何度も見送ってきた。その中にいてアイカはずっと、花のように美しかった。そして今なお、その輝かしさは廃れてはいない。アイカは、ずっと輝いていた。私の心の中でも、愛おしい思い出と共に、アイカは、ずっと輝いていてくれた。

 だだ現実に於いてはそれほどの輝きがあろうか。見た目の華やかさとは裏腹に、何の行動も取れない、華審なその手も、白く光るその足も、あの瑞々しい声も、愛らしい笑顔も、何もかもが、動きを止められてしまっている。この時、私は何をしたらいい? 私の手は、顔は、呼吸は、目は、鼻は、耳は、声は、一体何のために?

 そこに答えを求めることはできない。そもそもその答えはない。しかしそれでも私の体は彼女に捧げるためのものであるはずだ。いくらかまた萎れだしてきた花々を摘み取り、座り込んだ彼女の手にそっと握らせ、締麗な顔を覗き込む。

「行って来るからね、アイカ……」

 私には、この夜の間にどうしてもやり遂げねばならないことがあった。その運命の時刻の、私自身の覚悟の確かさを確認すべく、限りなく狭い空を見上げる。そこから私の目に射し込む光が、私の瞳を獣のように細くさせた。


第七幕「蒼き、蒼きものたちの刃」


 私は、ある事象を発見していた。ある時期の、ある夜になると決まって現れ出るものがあった。それが実在なのか虚無なのか、それはまだ知らないのだがしかし少なくとも、希望の光をうちに秘めた存在に思えた。前に言った彼とはこの存在を指し示す。

 ある時期というのを知ったのは至極偶然からだ。いま天に広がる雲の隙間から、光が射し込んでいる。夜であるにもかかわらず、今夜のように不思議で暖かな光が地に降り注ぐことがあるのだ。初めてこの現象を目にした時、私の精神はひどく揺らいでいたのだが、少し心が洗われたような気がして、何の気なしにふらふらと散歩したい衝動に駆られた。そして私は、彼との邂逅を果たしたのだ。

 出会ったところは、私とアイカの住む洞窟に間近い快く澄んだ滝だった。ここは普段から水の宝庫として、また水浴びなどにも愛用しているもので、その夜も少し落ち着ける場所をと思ってそこへ赴いたのだった。

 私は我が目を疑った。今現在にして太陽が煌々と照りつけているのではないかとすら思ったほどだ。滝より手前にいたのか、それとも後ろ側にいたのかそれはわからなかったが、宙に浮いた水の塊の中に光源があるかのように、青白い強烈な光を発するものが、滝に佇んでいたのだ。その詳しい外形については何も言えないが、無駄のない締まった体の、勇ましい獣のような姿だったように思う。鬣らしきものを、常に風に吹かれているかのようになびかせ、鋭そうな角らしきものが、整った顔と共に、まっすぐに天を向いていた。

 それでも、どんな物体であるのか皆目見当がつかなかった。しばらく、本当に永いこと我を忘れてその蒼き炎に魅入っていたのだが、一向に立ち去る気配がない。それどころか微動だにしない。じっと、力強く天を見つめて静かな滝の中にいる。生き物には違いなかったが、とてもこの世のものとは思いがたい姿と立ち居振る舞いだった。

 先に立ち去るのは決まって私の方だった。接触を試みたかったが、どうしても踏ん切りがつかなかった。アイカがどうのということではなく、単純に恐ろしかった。死への恐怖というのも少し違う気がする。ただ、触れてはいけないと全身が命令していた。触れたら全てが壊れてしまう、そんな気がした。

 立ち去ってから、夜を越えて朝が来て、私はいつも滝の様子を見に行った。しかし、そこには彼が実在したことを示すどんなに些細な証左も残されてはいないのだった。

 今もそう、彼に会いに行こうとしているのだ。そして彼を、狩る。悲しい決意を胸にして、私は滝へと続く細い草原の中の道を歩む。前方からの、神々しいまでの目映い光が私の瞳に届いて来た。


第八幕「その矛先は……?」


 そこに、私が今さっきまでに思い描いていたとおり、またこの明るい夜に合わせていつものように、彼は闇を蹴散らして涼しげな滝の中で水や陽を浴びていた。実際に、浴びているのかそれはわからないが、滝の水は彼の到来を驚喜して、はやる気持ちを抑えられずに彼の体に降り注いでいるように見える。彼の方でも満更でなく、水を受け入れているように見える。ただ、そう見えるだけで、実際には彼は何の動きもとっていない。

 彼は何のためにこの地に来るのだろう、私はふと思った。ここで天を仰いで、何を思っているんだろう。私に見えない何かが、彼には見えるのだろうか。私も、彼が見上げる方向に目を向けてみた。だがやはり、以前霧に覆われていた頃ほど白くはないのだが、それでも白さがまだ残る静止した夜空があるだけだ。彼の方に視線を戻す。そして矢に手をかける。今日の狩りが最後の狩りになるだろう、私は思った。

 矢にありったけの力を込める。掌が次々とすり減っているような狂おしいほどの痛みが矢を支える私の手を襲う。矢を作り、矢を射続けてきた手は、もう寿命が近いようだ。何とか叫ぶのを堪えて、じっと滝の方を見据える。あまり見ていれば焦点が合わなくなってしまいそうなほどに眩しい。そう長くないうちに、彼を射らねばならないな、 私は心の中でぽつりと咳いた。

 何故こうなってしまうのだろう。 何故こうでなくてはならないのだろう。体を震わせながら、私は波紋一つない水面のように穏やかな思考を広げていた。できるなら彼ともっといい形で出会いたかった。話などできないだろうが、交流したかった。彼と一緒に空を見上げたかった。太陽の日を浴びたかった。アイカの傍にいて、アイカの心を癒して欲しかった。

 だが、出会いは残酷だった。私には、アイカが一番大きいのだ。夜の中で何もかもを明るく照らすその体を、その体の中に流れているであろう、清い川のような赤い血を、彼女にどうか分けてやってくれ。愚直な男の最後の祈りを、聞き届けてやってくれ……。

 明日の涙が乾かないうちに、今日の祈りがついえないうちに、言葉が力に耐えられるうちに、力がふたりを壊さないうちに、矢を、夜を越えて最後に打とう。手のひらが、矢に静かに別れを告げた。


終幕「巨大樹にささげる歌」


 孤独な男は、歌を歌っていた。それは思い出の歌であるらしく、男は、一言一言を懐かしむように、何かを愛おしげに想うような歌声を発している。その目には涙が浮かんで、音もなく、地面にしみを作っていく。顔は、涙でひどく汚れたようになってしまっているそして掌も、涙で屈折したようになっている。

 天まで昇って行くように、歌声は空へと駆け上がって行く。見えない何かに、躍りながら飛翔して行く。翼のない鳥が、仰ぐのは、決まって彼の故郷の空であるように、その彼の祈りの声もまた、仰ぐことのない、地を蹴り上げてゆっくり、ゆっくり、天の明るきを目指す。明るい空に、涙が溶けていくのかもしれない。男の瞳は、今は涙を止めた。仰ぎ見て、自らの声が声でないかのように、目を見開いて、天に近づいて行く歌声を眺めている。その間にも、絶え間なく、男の口からは静かに旋律が続いている。

 天が口を開けた! まるで歌声を受け入れるためであるかのように、その時、勢い良く空が割れた。ああ、何という輝かしさだろう! 太陽が太陽でなく太陽のスープになってしまったように、全天が黄金に輝いている。降り注いでいく。降り注いでいく。夜に微睡み静かだった木々も、突然に起こされて騒いでいるし、動物たちも、花々も、みんな驚きつつもその顔は安らぎと幸せに溶けてしまっているようだ。男の顔は、みるみるうちに希望で洗われていくようだ。

 男はあたりを見回した。愛しい人の髪の毛のように、優しく揺れる金色の草原が、木々があった。そして木に凭れるようにして、少女に特有のはにかみを浮かべて、一人の可愛らしい少女が男を見つめている。何か、言おうとしていたようだがそれより先に、男が駆け寄ってそしてもつれて転んだ。少女は、少し笑うと男を優しく起こしそして今度は男に凭れた。どんな瞬間よりも安らげる、落ち着けるのがその男の胸にいる時であるとでも言うように、幸せそうな微笑を浮かべて。男は、しばらくされるままでいたがその少しの沈黙の後、少女を思いきり抱き寄せた。何か、男がささやいている。少女は静かではあるがそれでも滑るような頬はしっかりと赤らめて、それを聞いている。二人の時間は、ただ静かに、静かに流れていった。


The End of Singalio Rou' Se lef Episode 3




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