第二章「縷々たる日」
第一幕「不愉快な遺物」
それは、夢だったのか、幻だったのか……。それらのどちらに因るのかしれないが、そのある凄惨な風景から現実へと意識を戻した時、私は咽吐を催すような悪寒と、激しい動俸、溢れ出す汗との中にあった。さんざめく木々の葉の音が、いつになく不気味に感じられる。その音はまるで、私の見ていた光景の続きのように聞こえる。それは、死に逝く者の、命に縋ろうとする思いを、洗い流している音に、等しく感じられるのだ。
その光景は、神の記憶か、あるいは私の遠い祖先の記憶かというに相応しいものだった。ただ、それを懐かしむ、それに郷愁を覚えるといった類の物ではない。あるのはただ、絶望。血塗られたと形容するに最も相応しい、おぞましいものだ。
彼らは今まさに減びゆこうとする愚者たちだった。互いにいがみ合い、罵り合い……。ついには、彼らは、その心を憎しみの炎に燃やし、互いに折り重なるようにして燃え上がり、朽ちていった……。憎しみ、奪い合い殺し合うことが、何も生みはしないということを、彼ら私も悟った。だが、彼らにはもう、それ以上の未来は与えられなかった。神は、彼らへ向けた眼差し、完全に閉ざし、眠りついてしまったのだ……。
そして今、私たちが生きているのは、その破滅過ぎて後の名残とでもいうかのような、静かで何もない時間と空間。そして、この愚かな悲劇を見た前後からは、私たちの視界からは光すらも、その姿を消してしまった。光のない世界。それがどんなものだか想像がつくだろうか。
それは "夜" じゃない。純然たる "闇" の世界なのだ。何も、何一つ、物は見えない。アイカが今どんな姿なのかも知らない。火も、奪われてしまった。今の世界では、それが生じないのだ。私たちが今森の木々の中で、ふたりでなんとか生き抜いているということのほか、何もわからないのだ。
アイカは、ただ静かに眠っている。こんなか弱い少女が、なぜこんな目に遭わねばならないのか。そのやわな心で、今どんなことを夢見ているのだろうか.…。今はただ、普通の幸せが欲しい……。
第二幕「神なき世界」
そんな日々の中で、私とアイカの心の支えはやはりお互いの温もりと歌声だった。遠い日の私と彼女との思い出だった。しかし、そればかりを懐古していれば精神の健康が保てるというほど、現実は生易しいものではない。
次第次第に、アイカの精神が薄弱していくのを感じる。私とてそれに違いないが、ただ彼女に於いてはより一層深刻なようだ。精神の他にも、その不調に起因して肉体の疲労もまた増長している。睡眠も、今までらしくは旨く取れない。光と闇とが入れ替わり立ち替わりしてくれないのでは、精神がえも言われぬ不安に襲われる。食料らしき物も、近頃に於いては何一つ取れていない。ただ一つ、アイカにだけは、こうした苦悶は味わせまい、特として不自由なく、元気快活に生きていてもらえればと、いつでも願っていたというのに……。
歌を歌うにも、肉体がいうことを聞かない。歌を歌わなければ、精神が衰弱していく。この板挟みの中で、藁にも縋る思いで、二人はお互いに依存し合いながら、ぎりぎりの命を保ち続けている。我々のここから後の行く末に、幸多からん未来の光がいまだ遺されていることを、強く所望し祈り込むばかりだ。
第三幕「虚像の楽園」
今、以前なら夜に当たる時刻なのか、それとも、昼に当たる時刻なのか。いや実際にはあれはこの世界からの精神的逃避の中に産まれた幻想の楽園、私の、天国であったかもしれない。今となっては、いや何にせよ、私の知り得る範疇ではない。思うことは、いずれが現実と名のつく物であろうと、いずれが夢と呼ばれる物であろうと、そこに明白な相違が存在するべくはなく、ただ、我の中にあるのかそれとも、神の手の内にあるのか、それだけの認識を持つことすら危うい、ということだ。我々に取ってはその事象について、どちらも等価値であるはずなのだから。
心の光を失う時が訪れるとするならばそれは恐らく、この虚像の、作り事の夢の世界を、すなわち自らの心の支えを、失ってしまう時なのだろう。 肉体はその意味に於いて、自らであるとはいえない。ただ、付属しているに過ぎない代物だ。肉体を支えるのは、肉、水、空気、太陽光、そうした物理的な物だ。精神を支えるのは、夢。他人の、声の中に、他人の、温もりの中に、生まれてくる小さな、夢。たとえ他者とは数あれど、彼らがもたらす物とは、結局自分の中で一つの夢へと昇華されていく。それを貪り、事実上は孤独と対面して、神の手中を放浪せねばならぬ脆弱な生き物、それが人間というものだろう。
事ここに至って人間が避けて通れない物、それは、夢の喪失への漫然とした不安にほかなるまい。喪失への恐怖があるからこそ人はまた、喪失その物を望むこともあろう。最初から、望まずに生きる場合もあろう。だがそれでは、きっと辛い。私が今ここでアイカを手放そうものなら、私の生存自体、危うい物となるだろう。人が生きる上で重要なことは、ヒトを好きになる、ということ。それが自分のためであったとしても構わない。完全に他人のために、などというのは不可能だ。ヒトを好きになったら、とことん尽くすべきだ。大切にするべきだ。結果はどうあれ、そうした行為は、そうした気持ちは、絶対に、自分の宝物になっていくはずだから。
私とアイカとで、手を携えて、希望の光を心に守って、危ういこの世界を綱渡りして行こう。その先に、明るい未来が待っていようものなら、それは、言葉では言いようもないほどに、とても嬉しいことだと思うから。
第四幕「言葉の大きさ」
アイカは眠りの中に、自らを置くことが多い。アイカの言葉を待たねばならぬのは、至極辛い。だがそれだけに、アイカの言葉は私にとって何より大きい。水や空気と並んで、私にとって掛替えのないものだ。ただ一言でいい。その言葉を聞けば、私の心は深く安まる。
吹き抜ける風が肌寒い。どうやら、闇が私たちを飲み込んでしまってから、徐々に気候が熱を失いつつあるようだ。故に、我々はお互いその姿を見ることもないが、衣服の着用を強要させられている。いや、その訳ではない。ただこの凍えるような冷気に耐えるためには、心内からしっかりと暖めねばならない。衣服は今や二人の過去を、人間であることの証明を繋ぐ絆となっている。こうした物に、微塵のような些細な物にも、縋っていたいのだ。
そして、依代としてふたつとない私の至高の希望が、今、暗闇という腕に抱かれて微睡んでいた意識を、明らかなまでに目覚めさせてくれた。
「ぐりい……起きてる?」
あの頃のような、発刺としてはちきれんばかりだった、躍るような、 小鳥の噂るかのような、可憐で美しい、張りのある声は、今はもう聞けない。彼女の心の無垢さが、その声に心地良い響きを与えているのはわかるが、その声は、翼の折れた白鳥が、天を仰ぎ、痛みに耐え兼ねて、今はなき過去の幸せを懐かしんで啼いているかのようで、聞く度に、喜びなどよりも、嘆きと不憫さが募り、苦しみごと彼女を抱擁してやりたい気持ちに誘われる。
だがそれはこちらから求めるまでもなく、彼女は起きると決まって、私の片腕に、華奢で今にも折れてしまいそうな体を擦りつけてくる。そして涙が、私の腕を伝い、指先から零れ落ちようとする。それを逃すまいと私は拳を軽く丸める。もう、彼女の何も失いたくない。涙さえも、この体に溶け込ませてしまいたい。私は、悔しさとやるせなさとを綱い交ぜにして、涙に濡れた片腕で、彼女を強く抱き締める。
「歌おう、アイカ……」
私に、ほかにしてやれることはない。私は肉体という壁を、心から憎んだ。その隔たりを少しでも縮めるには、言葉で壁を削り取る努力をせねばならない。そして、彼女にほんの少しでも、安らぎを感じてもらわねばならない。私のありったけの温もりを、少しでも感じ取ってもらいたい。
私の胸にしがみついて、涙で私の服にできた悲しみの湖に、深く打ち沈んでいるアイカ。私は、ただ一人で、歌を歌い始めた。私とアイカが一番好きだった歌を、二人の心に、一番強く響く歌を、私は、喉が枯れるまで、拳の涙が乾くまで、ひたすら歌い続けた。
第五幕「空虚の狭間を」
また、アイカを寝静めることができた。喉が、焼けるように渇いてしまった。アイカがこうしてくれている時にしか、水分や食料を求めて歩くことはできない。私は、アイカを背に抱え、当て所もなく、命を繋ぐ物を求め歩き始めた。
手足がいつ、ほろぼろと朽ち果ててもおかしくはない、そんな感覚を覚える。ただ、今それ等に痛みはない。アイカの重みが手に微々たる刺激を与えている。地べたを踏む感覚もまた微少にある。そうした物で、私は自分の肉体に手足があるという事実を知ることができる。
しかし、痛みという痛烈な感覚が消えてしまっているという訳ではない。視覚に頼ることができないので、始終あちらこちらの木々に激突することになる。その痛みは、少々耐え難い。だが私の体など、いくら傷つこうとも特に気に掛けはしない。ただ、それでアイカを起こすことになって欲しくない。アイカには、夢の中にいてもらいたい。
「ぐっ!……」
私の願いを掻き消すかのように、森は私に激突を、アイカーに衝撃を与えることを強いる。木々の擦れ合う音は、私をせせら笑う声に聞こえる。あれらは寄ってたかって、我々を虐げるつもりなのだろうか。
私の足下で、骨が勢い良く砕ける音がした。と同時に鋭い痛みも込み上げてきた。不意だった。私は悲しくなった。もう、これきり歩けなくなったのだ、このままこの場に倒れて命が尽きるのを待つよりほかなくなったのだと、私は思った。
嘔吐するほどの絶望と嘆きに、口内が苦々しさで支配されて行き、滝のように、今まで溜め込んでいた物が、どっと溢れ出した。声にもならないほどの、圧迫され過ぎた私の激情が、今こうして反吐と一緒に吐蕩されている、そんな風にも思えた。
第六幕「闇の翼」
これを喰うのか? これをまた体に戻さなければ、私は生きていけないのか? 私は決断を迫られていた。これを喰うということはすなわち、人の肉叢を喰らうに等しい。人として生きるのか、獣として生きるのか、それを決断させられようとしているのだ。
先ほど砕けた足は、今どんな形をしているのか、皆目見当もつかない。激痛は、先ほどから休むことなく続いている。それが、私の意識を十分な活動状態にしている。これがそうでなければ、虚ろな物であったなら、私は何を構うこともなくこれを再び我が身に納めることも可能なのかもしれない。
その時、私の背中を湿らす物があった。始めはあまりにも細微な一滴であったが、濡らす回数を重ねるたび、その規模は大きくなってきた。雨、だ。
なんということだ。これに降られるということが何を意味するか。これで体を濡らし切ってしまうようなことがあれば、恐らく私は一日と生存できまい。今まで、縷々として繋がってきたこの命ではあるが、それが強靭を意味するでもなく、この自然という驚異の前には、私など、それこそ微塵のような物に過ぎないのだろう。
喰おうか喰うまいか、そんな理性の判断の在処など、私の頭にはなかった。雨であるという事実を確認するなり、私は足の痛みのことなど全く思うこともなく駆け出した。
ひどい空腹もあったにもかかわらず、私は驚くほどに俊速であった。絶対的に追い詰められた状況下においては、本能の錆びつぃた人間でも、それを呼び覚ますことができるということなのだろうか。木々に激突する回数が少ない気がするのも、それの働きに因って激突が自ずと回難されているからなのだろうか。
木々があるのは他方ではありがたい。体への降雨を大幅に減殺してくれるからだ。ただ、それが故、私が安らぎを得られるというのではない。この雨は折しも豪雨だ。いくら、森に身を潜めて、体を守ることができるとはいえ、これほどに激しいのでは結局事態は深刻だ。
雨が、反吐も涙も私の顔から洗い流していく。私の体を突き破り心臓を貫こうとする幾億の矢のようにすら思える。地表がそうであるように、私の体も、心も命も、私の何もかもが全て溶けてしまっているような、漆黒の海の中を駆けているような、言葉では成立しない世界に、私はいる。本能が、そうさせたのか、私は思わず両手を広げて、翼なき鳥となって、暗黒の空を駆け抜けた。刹那、その闇を飛んでいた私の朽ちかけた翼に、空が、光が、太陽が触れた気がした。
第七幕「血塗られた欺繭」
気づくと、私に触れる物は、ただ静かな岩肌だけになっていた。雨がすっかり上がってしまったのかとも思ったがどうやらそうではない。耳には、遠くの方でまだ雨が降り注いでいるのを教える音がある。とすれば、ここは一体何処なのか……。
立ち上がってその確認をしょうと思ったが、重心がぐらりと揺らいであろうことか転んでしまい、顔面をきつく岩肌にぶつけてしまった。そういえば、私の足は、もはや正常には機能し得ないのだった。私はそれと同時に、先ほどまで私がしていたことを思い起こしていた。雨の中を、ただひたすら走り続けていたのだ。体の濡れ具合を手探りしてみるが、致命的というほど、その表面は濡れていない。どうやら、助かったようだ、我々は……。
アイカ? 私は、アイカを、ここに連れて来たか? 焦りと不安に、私は激しく焦燥した。
「アイカ! アイカ!」
私はあたりをすぐに探し始めた。あの時の記憶は定かではない。私はひょっとして、彼女を抱えてここまで連れて来ていたかもしれない。そう、彼女は私におぶわれていて、そしてここまで……。
しかし、それはあり得ないことを悟った。なぜならば、私はあの時、両手を彼女から解放してしまっている。彼女を、その時点で落としたに違いない。なんということだろう。私に縋りついて、涙で顔を濡らしていたあの子を、他に頼るものもなく、必死で私に継りついていたあの子を、無情にも、むざむざ死ぬためにあるような場所に叩きつけて放置したというのか。あれだけ、この子だけは守り抜こうと、心の中で何万回と唱えていたというのに、捨て置いて来てしまったというのか。
私は心の中で何百回と己を呪った。何百回と己を殺した。何故そんなことをした? 何故そんな愚かなことをした? 何故? 何故だ? 何故なんだ!
もう生きてはいけないことを覚悟で、雨の音のする方へと急いだ。いや、自殺をしに行ったというのが、より適切かもしれない。あの子なしでは生きていけない。生きていく価値もない。命を、その時、全て彼女に捧げた。
第八幕「甘く匂うもの」
言葉の壁を越えるのは辛いことであるが、痛みという苦しみを越えるのもまた、辛いことだ。私はどれだけ走ったのか知れないが、足の具合は丁度今、最悪であるようだ。血の流出が止まったのはわかる。だが、足の痛みがあまりにも激しい。体内の神経が地表に直接触れているのではないかというほどの、いまだかつて体験したことのない激痛だ。
だが今は、こんなことに神経を奪われていてはいけない。 アイカをどんな手段を講じてでも、見つけ出してそして抱き締めてやらなければならい。そのためなら、この足の一本ぐらいどうなったとしても構わない。今この場で獣たちに生きたまま、この足が喰われようとも、アイカのためであるならば一向に構わない。
しかし、見つけるための手掛かりという物が、本当に何一つない。 私は、一体何処をどう駆けて、あの洞窟らしき所まで至ったのだろう。
私が、駆け続けながら流していたであろう流血の匂いを辿る、という術も一時は考えた。だがそんな物は今では無効だ。逢か昔に、雨が何事もなかったかのように洗い流してしまっているだろう。
降り頻る雨が、徐々に私の体温を奪っていく。意識の確かさも今はない。視界という物が存在しないので、目に見える物のぶれ等はないが、耳に聞こえる雨の音が、まるで心地良い川のせせらぎのような音に薄れてきている。足下も危うい。私は、もはや方向を定めて歩くことはできなくなっているようだ。
途端に私の体は、一本の木にぶつかり、容易にその場に倒れ込む。その拍子に、頭を地面に強く打ちつけてしまった。またしても、それもまた激痛であるはずなのだが私の体はもうその痛みを捉えることができない。子供の頃、何か温かい人に揺さぶられていた時のような、穏やかで静かな揺れを感じるだけだ。
「アイ……カ ……」
そう咳いてみるがそれはもう言葉にはなっていなかったかもしれない。喉のかなりの部分が、渇きで機能しなくなっている。雨が、口を開ければ自ずとその中に入り込んでくる。そして喉に流れ込みそこに水が溜まって、口を開け発声をすることすらままならなくなってしまった。
ならばもう、あえて何もするまい。私は、アイカとの過去の楽しかった日々を、心の中で反芻していた。アイカの締麗な歌声、アイカのかわいい笑顔、アイカの仕草、アイカが私におぶさられている時の、背中に掛かるアイカの寝息..…。私は、彼女のおかげで素晴らしい時を過ごすことができた。だが私は、彼女を幸せにしてやることができたろうか。私の愛は、それに値するだけの幸せを、彼女に与えることができたのだろうか。
彼女は今、どうしているだろう..…。私と同じように、天を仰いでただ死の訪れを待ち続けているのだろうか。それとも、そんなことは知らず、死の前の安らぎに、辛く傷ついてきた心を癒しているのだろうか。それとも、ひとりぼっちの恐怖の中で、いつまでも私を捜しているのだろうか。それとも、細々と、最後の命を燃やしながら、何処かで私が迎えに来るのを待っているのだろうか……。
しかしもう私は、君を迎えに行くことはできない。許してくれ。最後にこんな別れ方をしなければならなくなったことを、私の完全な過失から、こんな叔しい人生の終わり方をさせねばならない ことを、どうか、許してくれ…。
私の意識は、感覚に支配され始めた。甘い快楽が、心も体も埋め尽くしていった。
終幕「赤」
私は、世界の眩さに、改めてその意識を取り戻した。後頭部が酷く痛む。先ほど打ちつけてしまった時のものだろう。だがそれは私にとって嬉しい知らせ、生きていることの証だ。悪い気はしない。
雨もすっかり上がっている。つい今までの印象とは打って変わって、木々と、その葉の間を抜けて降りて来る木漏れ日とは実に爽やかで、何故かしら今まで考えることも気づくこともしていなかった、瑞々しい木々の香りと相侯って、私の目と鼻を楽しませてくれる。木の葉のさんざめきも今や、悪しき暗黒の空間を洗い流している音のように感じられる。人間の感覚とは、斯くも不安定で不思議な物なのかと改めて実感した。
しかし、そんな物に満足して良いような光景では、決してなかった。ふと地面を見渡すと、そこにはあまりに対照的な異形のものが広がっていた。赤。今までに見たどんな赤よりも、鮮烈で美しく安らいだ、赤。血の赤。いやそれともまた異なるものか。目に入るものが赤いのか、それとも目その物が、全てを赤だと捉えているのか。もしかすれば私は、自ら待ち望んだ、いや手に入れようとついそこまで手を伸ばしていた、快楽の園へと、足を踏み入れたのかもしれない。
あたりを、静けさと荘厳さとの織り成す私の周囲を見渡してみる。赤く揺れる空。法悦に身をよがらせているかのような木々。ここにあるものは私の自由。あらゆるしがらみから解き放たれた、何物からも束縛されない、幸せを約束された空間の直中に、私は存在しているかのようであった。
だが、私を許していた者は、どうやら、私だけであったようだ。
そう、何気ないあるただ一つの
"生き物" の行動は、
私の瞳を捉えて離さなかった。
私は、その生き物のあまりの変わりように、一瞬それが何であるかわからなかった。いや、わからないふりをした。だが、現実はそれを許さなかった。私の正面の、注意を捉えて離さない生き物は、紛れもなく、私の可愛いアイカだった。
私は何を思う間もなく、アイカの方へと駆け寄った。そして、両の腕でしっかりと抱いた。私の脚を、私の顔を、アイカは殴り傷つけてくる。だが、そんなことは、私にとってはなんでもない。むしろ、贖罪として、受けねばならない物だ。ただ、私はひたすら、懇願した。
The End of Singalio Rou' Se lef Episode 2