第十幕「純粋な痛みと想い」
その姿は宵闇にあまりに自然に溶け込んでいたので、私は、そこにあるのはただ虫ばかりだと考えていた。いや、それは関係ない。私には、その虫がアイカの宝物であるという認識がしっかりあったはずだから。その事実を淘汰した。私の頭は、人との絆よりも、生物としての生存にこそ、重きを置いてしまったのだ。
今してしまったこと。もう二度と、取り返しのつかない、一生拭い去ることのできない物。罪。いやその程度ではない。冒読。いうなればそれだ。アイカという神聖を冒した。アイカの気持ちを、私は薄汚い手で足で、挟れるほどの傷をつけ、無遠慮に潰れるほどに蹂躙した。推し量ることなど、到底及ばない悔しさと悲しみ。最愛の人に裏切られ、気持ちを踏み躙られ、想いは、打ち砕かれ……。
息もできない、とはこの状況をいうのだろうか。ただ、愕然として恐怖に、絶望に、痛みに打ち震えるアイカ。かつて、虫を手にしていた可憐な花のような掌は、醜く、血に肉に汚濁した、おぞましい獣の唇に接吻されている。本能が吹き出す、生温く、纏わりつくような陵辱の吐息は、彼女の、その小さな花を少しずつ、少しずつ萎れさせていく。
抱き締めたい。瞬時に思いは込み上げてきた。だがこの汚れ切 った不浄の肉体では、許されない。誰よりも、私自身が許さない。
私の中で、激情が私に牙を剥いて渦巻いている。それは、悲槍を極めた絶望だった。汚辱にまみれた己への怨念だった。手中の希望を殺ぎ落とされた者の狂気であった。だがそれは何より、自らの手で希望を投げ捨てた愚者の悲嘆であった。
口先から血が滴る。だがそれは、彼の血か、それとも私の血か。わかりはしない。欲情の証。血痕はアイカの黒いしかし無垢で締麗なドレスに、また一つ、また一つと静かに刻まれていく。もはや、私は人ではないのだ、と緩りと実感が込み上げてきた。
唐突に、私の肌に触れる物があった。顔を上げる。私の頬に、優しく、アイカの手が触れている。小刻みに震えてはいるが、それでも、私をできる限り優しく包み込もうとしているのがわかる。何か、声にならない声が、彼女の喉で空回りしている。時間は意味を持たない。彼女の言葉が出てくるのを、私は待たねばならなかった。
永遠を越えて出てきたかのような声が、私の耳には懐かしかった。人として、私が存在することを祝福してくれている、聖母の歌声に思えた。
判断を司る私の何らかが、その時正常であったのかどうかは知れない。ただ、心地良い、私をいまだ受け入れてくれていることを知らせてくれる彼の旋律による身も震えるような喜びの中で、私の意識に流れ込んできた情報としての声は、記憶に従う限りは以下の通りだった。
私のことを、虫に話していたこと。私が、今日自分に対して優しくないと思っていたこと。それは、私に辛いことがあるからだ、と思ったこと。もっと優しくしてあげよう、と思っていたこと。それは私のことを、誰よりも愛しているからだということ……。
そこから先に記憶がない。ただ、誓ったことがある。この子を二度と傷つけるまい。そして、どんなに自分に絶望しても、この子のために、死ぬまいと……。




