表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第一章「枯葉の愛」

第一幕「白昼夢」


 深い純白の霧が、あたり一面を包み込んでいる。霧と霧の隙間からは、あたりの白さとは対照的な赤茶色の荒野、それが点々と見える。見れば見るほど、その生命感とは無縁の荒野は私の掲きを増幅させる。水が……欲しい。そう咳くこともしなくなって幾日が過ぎたのだろう。そんな無用な事柄を覚えて置くほど、私の記憶は便利にはできていない。

 だがしかし、心の渇きに悶絶することはない。何故なら私の傍らにはいつも、今は私におぶさられ、可愛い寝息を立てて眠る小さな天使がいてくれるからだ。いつまた手に入るとも知れぬ、いつまた尽きるとも知れぬ水、食料はこの子、アイカに最優先で与えることにしている。それは、この子を命に代えても守り抜きたい、という使命感に突き動かされてのみしているのではなく、この天使の笑顔こそ、私を癒してくれるからだ。この天使がいてくれたからこそ、私は生き抜いてこれたのだ。

 気づけば、出る汗という汗は、すべて出し尽くしてしまったようだ。とても血が通っているとは思えない私の腕は、まさに骨と皮しかないようにしか見えない。額にも胸にも足にも、口内にすら水分らしきものが感じられない。だが頭の機能はある。心持ちもしっかりしている。まだ、まだ、歩ける。呪文のように何度も繰り返しながら、私はひたすら歩み続けた。


第二幕「宵闇の灯火」


 夜。 静寂が、暗闇が、あたりを包み込んでいる。焚き火の灯が心許ない。その中で私は、闇への虞を忘れるほどに、少し大き過ぎる鳥肉の塊と悪戦苦闘するアイカを見つめていた。

「僕は要らないよ、アイカ。気持ちは嬉しいけどね」

「ダメっ。だってグリィ、いつもアイカにばっかりお肉くれるんだもんっ。今日はグリィとふたりで食べるのっ」

 今日の狩りでは上首尾に鳥肉を手に入れたのだが、依怙地にもアイカは鳥肉を二人で食べたいようで、先ほどから二人分に捌こうと躍起になっている。

「なあ、僕は本当に要らないよ。アイカの優しさで、お腹一杯になったからさ」

「ダメそんなのっ。グリィ、お肉もちゃんと食べなきゃ、げんきになれないんだよっ?」

 この子の頑なさには、常日頃から閉口させられている。しかし、だからといってこの要求をおいそれと受け入れる訳にもいかない。ここでアイカの思うままにさせて、後々ひもじい思いをされては本末転倒だ。今宵もまた、常からのように誑し込む術が必要とされるようだ。

「でもねアイカ。とりさんはそのお肉をアイカにあげたいって言ってたぞ。それを僕に分けちゃ、とりさんに悪いんじゃないのかい?」

 アイカには、動物は肉をくれるのだ、そのように理解させている。そこから自然と疑問が犇めき出すまでの良策を、これと判別したからだ。

「そーなのーっ? ふーん.....。でも、今はもうアイカのものなんでしょーっ?」

「え? そうだけどさ、でもとりさんの好意は大事にした方が……」

「いいのーっ。アイカにはグリィがいるんだから、いいのっ。とりさんフっちゃうのっ。それに、グリィ、アイカの王子様なんだから、しっかりげんきにアイカのこと守ってくれなきゃヤダもんっ」

 ハハ……、王子様か。当然ながら、私にそんな御大層な身分はないが、当たらずとも遠からずとは言っておくべきか。私にはこの子を保護保育する責務がある。そしてまた、私は王族の血統を引き継いでもいるのだ。

「でも、アイカ姫がしっかりお食事して下さらなかったら、僕も王子として悲しいんだけどなあ?」

「んー、そっかあ。じゃあ……。いーよっ。王子様のゆーとーりにしてあげるっ」

 ふう……。やっと、私がこれこそ要るとして頼んでいた物は聞き入れられたようだ。姫、王子を言葉に折り込めば、お姫様は大抵素直になってくれる。いくらか卑怯なせいではあるが、今という場合では、多少はそれも許されよう。それが結局、アイカの利延いては私の利ともなるのだから。ただ、アイカのわがままに対峠する上で格別のこの解決策が、いつまで通用してれるかが、些か気懸かりだ。

「ねえねっ? アイカえらいっ? えらいっ?」

「えらいよ。いい子だ。それでこそ、僕のアイカ姫様だな」

「エへへ……」

「では姫様。私にそのお肉を渡して下さいますか?」

「うんっ!」

 そして私が、アイカの手に因り美術作品とまで昇華された彼の鳥肉を受け取ろうとした途端、私とアイカの空腹の虫が、その作品のほどを評定した。アイカも私も笑った。もっとも、喉が渇き切っていた私の笑いは、もはやそれと呼ぶにはおこがましく、訝しいものだったが。焚火の灯に照らされて、そんな私とは対照的に、無邪気に笑うアイカの笑顔も、艶やかな鳥肉も、私には一際輝いて見えた。


第三幕「願い」


 結局、アイカの食べ切れなかった鳥肉で久し振りの食事ができた。そしてその後、いつものように歌を歌って、話を聞かせて、やっとおしゃまなお姫様を寝つかせた。あとは私が寝るだけだ。

 アイカと一緒に布団代わりの私の白マントにくるまって寝そべりながら、見る物もない上のほうを眺める。そこは霧に覆われただただ暗闇が広がるばかりだが、この霧の向こうには、果たして何があるのだろうか……。

 この世界は、少なくとも記憶に留め残している内では、私の経てきた空間は、その全てが霧に覆われていた。出会った人間は恐らく、アイカと私の保育者のみだろう。 私にそれなりの教養があること。うろ覚えながらそれと思しき人物が、私の記憶の片隅にあることから、保育者がある時期に私の傍にいたということは窺い知れる。

 扶養への感謝こそすれ彼を心の頼みとはしていない。記憶の中に、それもまた虚ろな印象しか持たぬ人物だ、寄り纏ることはできまい。私が寄る辺としているのは唯一アイカだけだ。私の時空を人の人たる生き方があるものとして強く印象付けているものは、まずこの子を措いて他にはなかろう。

 一生の星霜をこの子を守るのに捧げるのもまた一つ人道かもしれないが、それを敢えて放棄してまで私は自分の信じた道を歩もうと意を固めた。この霧を晴らそう。それが私の、苦悩を重ね、信じるに至った人道だ。それは、もう戻らない時を作ってしまうのかもしれない。しかしそれが人生だ。 私はこの霧を晴らす。 私の存在する意味を、この両の目に焼き付けるために。美しく眩い壮大な希望を、アイカの未来とするために。そして僕は、君の喜ぶ顔が見たいから……。この声が枯れてアイカと話ができなくなろうとも、この耳がアイカの歌声を聴けなくなろうとも、この喉が潰れるその時まで、僕は歩き続けて行こう。そしていつの日か、この霧を晴らすことができたなら……。

 アンニュイが、希望に打ち消されて行く。さらなる追撃のため、無意識にアイカの寝顔を見る。暗さ故にはっきりとは見えないが、すうすうと小さく寝息を立てて眠るアイカの平和な寝顔は、こんな荒んだ世界には相応しくない気がする。いや、混沌の内にこそ、天使はいてくれるのか。私は、この子という存在への感謝と愛おしさから思わず、締麗な髪の流れるアイカの小さな頭を、起こしてしまわないように軽く弄った。私は、この子だけは、アイカだけは、私が、世界がどうなろうとも、幸せになって欲しいと心から願った。そう、そしていつの日か、この霧を晴らすことができたなら……。


第四幕「輝く瞳」


 翌日、私の目覚めは朝の煌きに迎えられた。霧を抜けて降り来る淡い光のヴェールが、それを物語っている。情眠を食らずに済んだ微かな喜びが、私の心を潤してくれる。

 昨日傍らで安眠していたアイカの方を見ると、何故か、その姿はなくなっていた。目覚めた時に、それを迎えるべきであった私の怠慢への報復とでもいうのだろうか。願わくば、朝ばかりは爽快でありたいものだ。

 だが白色の支配する霧中にただ一ヵ所黒霧が現れ、すぐ様に、私の憂さは白けたのだった。

「あーっ、グリィ、起きちゃったーっ」

 私の杞憂も知らぬ風に、開口一番に斯うと切り出された。幾分かは、此方の気配りも心に留めていて欲しいものだ。

「こら、何処に行ってたんだ。心配したんだぞ」

 アイカは私と世界という現実から目を背けて、

「いんですよーだっ。紳士さんのお誘いをお受けするのはレディーの礼儀ですーっ」

 と自らの独立独行を正当化する。だがそれは許されない。この霧の中で分け隔てられるのは、本当に危険なのだ。今回はアイカが無事戻って来てくれたのだから、結果としては事なきを得た。しかし、もしアイカが私の居所を見つけ出せず、私を捜して行復うというような事態に陥れば、アイカと私は、もはや二度と出会うことがないほどに分け隔てられてしまうことも起こり得るのだ。ただの、小さな戯れさえ死に直結し得るという呪われた現実を、概言して戒めなくてはならない。

「それじゃ駄目なんだよ、アイカ。何かがいたからってついて行ったりしないで、ちゃんと僕に教えなさい。……えっ、何だって?」

「紳士さんっ! ほら見て見てっ!」

 彼女は嬉々として、纏っている黒い衣服に乗せた一匹の虫を見せた。我々に、神の瞳の輝きたる光を齎す存在、伝承上の尊大な神住まう星、太陽を思わせる、幾つかの橙色の斑点を持つ体、その小さな身体には似つかわしくない不釣合いな巨大な顎を持つ、我々にとって極々ありふれた虫だ。食すにはあまりにも矮小なその肉体は希望の依代足り得ないが、この虫がいるという事実はすなわち、海洋という希望に至る存在と直結する物だ。そして、今までの旅の進路も、この地点をもって終了ということになろうか。

 彼女が彼らを「紳士さん」と呼ぶには少々訳がある。彼らは海辺界隈に息づく生物であり、我々が海洋の傍に寄ると、いつでも彼らの姿を見受ける。それがアイカには出迎えているように思えるらしく、その事実をもってアイカは彼らを「紳士さん」と信じ切っている、という訳だ。彼女の海好きも手伝って、彼女の大好きな生き物の一つになっている。因みに一番好きな生物は「グリィ」 らしい 。

 ついていく気持ちはわからなくもない。だが、私の見ていない所でそうされる訳にはいかない。説教の終結には甚だ不十分だ。早速それに掛かろうとすると、即座にアイカがロを開いた。

「へへへ……紳士さんったら礼儀正しいよっ? ほらほらっ」

 話をすぐに逸らそうとする、彼女の悪い性癖だ。しかし、彼女はその故の他、生き物という子供の至高の玩具を手に入れた喜びが一入であるに相違なく、それ故からに、私に同意を求める向きもあるのだろう。ここで、彼女の話の腰を折ることを望まない。私は取りあえず、話に同調することにした。

「うん、かわいいね」

「……」

 何故かしら、彼女の機嫌を損ねてしまった。思い当たる節はと思い、ただいまの言動を振り返るが、いまいちその節は見当たらない。だが、その解答は容易に得られた。

「アイカのほうがかわいいのに……」

「あ、ああ、そうだよね」

 そして、彼女は恐るべき謀の全容を吐露した。

「せっかく、紳士さんが噛みついてグリィ起こしてくれるんだったのに……ねえっ?」

 ああ、なんて危険な子供なんだ。子供ほど残酷な生き物はない、身に刻むべきアフォリズムだ。躾をしっかりつけないと、非情の悪女と化す恐れもある。しかし、海があるならば様々なことで困憶を洗い流して、それこそ海にたゆたうが如き時が過せる。そうした平和を慈しむ幾日間も考えられよう。

 希望に胸の膨らんだ私は、奇人宜しく瞳を輝かせながら、アイカに訓垂れることとなってしまった。合わせ鏡であるかのように、煌くアイカの笑顔が私に、この子に今通じているのは説教ではなく、私の顔の内容だけだということを教えてくれた。


第五幕「黄昏に抱かれて」


 ひどいものだ。これを神の気紛れと言わずして何と言い表すことができよう。いやそれでは済まされない。神は人では無し。人は定められた運命には抗えぬというのか。こんな苦しみの中を生きることを人に強いるというのか。もはや、神を頼みとはできない。自分の力だけで生きてみせる。そう、そしてアイカさえいれば……と思って前を見る。そこには、まるで幸せが躍っているかのような、両手に魚の全形を留めた骨を持ってくるくると舞い躍る、夕日に染まった少女がいた。魚が、彼女が食べる分の二匹しか捕らえられなかった不運。

 私たちは今、浜辺に沿って旅を続けている。腫れ上がった顔に、潮風が染みる。説教が全く通じないため体罰に及ぼうとしたのだが、アイカにお手持ちの虫で襲われて転んでしまって、その隙に馬乗りされて顔をポカスカと殴られてしまった不運。

 夕日があるであろう海のほうを見る。霧も海も、夕日に染まっている。魚が、海に犇めくようにして、悠々と我が物顔に泳いでいるに違いない。しかし、もはや体力も、腕の疲労具合も限界にまで陥ったただ今をもっては、彼らに対しいかなる捕獲手段も講じ得ない不運。心ばかりが、やるせなさで一杯に溢れている。

 再びアイカを見る。満足げな笑顔が妬ましくなってきた。

 私は、それまで特に意味もなく手にしていた壊れた釣り竿を握り締めると、夕日の方へと向き直り、一気に駆け出した。そして、姿の見えない夕日に向かって壊れた釣り竿を投げつけた。私は心の中で、様々なものと訣別していた。涙が、潮影に飲まれていった。


第六幕「奇人を哀れむ歌」


「……ィ、グ……」

 ……?

「グリ……、グ……ィ」

 何だ? 誰かが私を呼んでいる。

「グリィ、グリィ! 私たちは仲間だよ、家族だよ、忘れちゃったの?」

 誰……だ……アイカ?

 はっ。私はふとした心の緩みからアイカを妬み、勝手に訣別してしまったのだ。こんなことではいけない。ここからも、この程度のことはたくさんあるだろうというのに。情けない。こんなことで大丈夫なのだろうか。

 そう、私たちは家族だ。シンガルの民だ。二人で、いつでもどこでも、どんなことがあっても、助け台って生きよう、笑いながら歌いながら生きていこうと心に決めたのだ。それが我々、シンガルの民の基本理念なのだ。シンガルというのは、私たち、つまり私とアイカだけの言葉だ。スペリングはSINGAL。その心は、「事あるごとに、全てを歌う」つまり、シンガルの民の基本理念を反映させたものだ。 SING 部分にSING(歌う) THING(事)、AL 部分にALL(全て)の意味を込めている。そしてシンガルの民とは、私とアイカだけの、小さく慎ましやかな民族。そして明るく楽しい民族だ。

 私が二人だけでいることの孤独から霧を晴らそうとしているのかといえば、そうではない。一緒にいる人数こそ寡少だが、この世界だからこそ築ける真の絆というものがあるはずだ。それ以前に、寂しさに共にいられる人数は関係ない。結局、状況がどうあれ「寂しき者」とは、他を出抜いてでも生きていこう、おいしい目に会おうという自己中心者だろう。

 だからといってこの状況に満足はしていない。前にも言ったように、いつの日か、この霧を晴らしてみせる。そう、私がこの霧を……。

 そう思うと同時に、私の周りに突然に光景が戻った。私は釣り竿を投げ込んだ時の位置のまま、海に立っている。太陽が沈んで青みがかった霧と海が、私の眼前に広がっている。もう夜になったのだ。海が鮮やかな銀色で波打っている。つまり、失神していたということか? もしそうであれば、相当に長い間、気を失っていたことになる。

「かわいそうなグリィ……」

 声のした方を見てみると、私の服を掴んだアイカがいた。奇人を哀れむような瞳が痛い……。

「こんなにかみつかれてしまって……」

 とアイカは言って、今度は私の足を見る。釣られて私もその方を見る。

「え?」

 そこには、十数匹の虫に噛みつかれた、私の足があった。


第七幕「黒い嵐」


「いたっ! も、もう少し優しくやってよ……」

「ダメです! グリィさんのじょうちょは、今タイヘンふあんていなんです。じっとしてなさい。また、おいしいおくすりをぬってあげますから……はい紳士さんおくすり」

 何故虫が薬を運んでいるのか、そんな不可解なことに回答はできないが、ただ今わかっているのは、今私は、アイカに傷の手当をしてもらっている、ということだ。いや、塗られている、といった方が正解か。というのも、アイカは私が変人だから薬をつけさせろと言って聞かなかったのだ。

「はいありがと……うーん、あまくておいしー。 じゃあグリィさん、今たーっぷり、おくすりをぬってあげますからねー」

 アイカの指先には、異常な量の薬が塗りたくられている。かれを一度に塗られた時の痛みを考えただけでも、背筋が寒くなってくる。

「もう少し減らしてくれた方が、嬉しいんだけどなあ……」

「もうへんじんはうるさいったら! はい紳士さんかみついて」

「いたたたっ!」

 もう、全ての気力が一気に萎えてしまった感じだ。こうして時折、変人はアイカのお仕置きを受けて、黙らせられてしまう。その上、この時噛まれるのは傷口なのだ。ここを注意しようとしても発声は何もかも、変人がまた発狂していると取られてしまう。ここでは、傷は一向に治らない。足が痛くて逃げることもできないので、とにかく、何一つ対抗の術はない。以前から考えていたのだが、私はアイカにこうして治療をしてもらっている時が、生涯で一番危険な瞬間であるような気がする。ひょっとして命を落とすことがあるとすればそれは、今のようにアイカのおもちゃとしてなのかもしれない。悪魔のような天使、いや天使のような悪魔か。

「はーい、おくすりですよー」

 夜の闇に、私の悲鳴が轟く。薬がまた酷く傷口に染みるのだ。量のこともあるが、傷の深さにもその一因がある。気絶していた合間にそれこそ無数の虫が噛んでつくった傷らしく、その損傷は相当に激しい。情けないことに歩けなくなってしまったので、私の足の治療も兼ねて近くの岩場で夜を越すことにした。そこでアイカの治療を受けているという訳なのだが、アイカは妙に楽しげなのが始末が悪い。最初は確かに哀れむように労わるようにやってくれていたのだが、段々と面白さが先行してしまったのだろう。

「あ、もうおくすりなくなっちゃった。じゃあ、治療はおしまいです。静かにしていて下さいね」

 やっと、嵐は過ぎ去ったらしい。気になって足の方を見る。

「えっ?」

 この少量は、一体どうゆうことなのだろう。足には、何がついているのか皆目見当がつかない。というよりも、以前と何も変わっていない気がする。つまり薬は、この子のおなかの中に、流れ込んでいってしまったということか。その性格が、その薬で治療されてくれることを切に願う。今日はもう疲れてしまった。私は、いつしか眠りの泥沼に飲み込まれていった。


第八幕「傷と絆と」


 しばしの間、微睡んでいたか、気絶していたようだ。あたりから聞こえてくる音は、ただ波が浜辺に打ち寄せてくる音ばかりだ。実に妙な静寂だ。周りにアイカがいれば、こうであるはずはないのだ。

 起き上がってみて私は足の負傷のことを思い出した。酷い痛みだ。やはり、何も先ほどから変わりはないようだ。そして先ほどアイカが治療をしてくれていた所には、アイカの姿はなかった。全く、彼女には説教というものが効かないのだろうか。体罰までも意味を成さないとすれば次には一体どんな手があるだろう。だがとにかく、今はアイカを捜すよりほかない。私は、足の痛みの耐え難きに耐え、その場を離れることにした。

 足の痛みに耐えつつも、しばらく歩き続けて来た。気づけば、あの忌々しい浜辺に来ていた。今日の憂き目は、全てはここから始まっているのだ。

 こんな足の状態で活動するのももう限界だ。私は、その場に腰を下ろした。

 乱れた、獣のような荒げた息で呼吸して肩を上下させながら、白みがかった黒い天を仰ぐ。何故私がこんな目に遭わねばならないのか。本当に今日は災難続きだ。これで、もしもアイカが見つからないなんてことがあれば……いや、そんなことを考えてどうするというのだ。そんなはずはない。私の悪い傾向として、状況に不安を覚えるとすぐに気落ちしてしまうところがある。そんなことでは、状況は悪化の一途を辿るばかりだ。落ち込んでいる暇があれば、一刻も早くアイカを捜した方が良い。アイカを捜さなければ、アイカに会えないのだから。当たり前のことだが、ともかくはその考えは、私の体を再び立ち上がらせる一助にはなったようだ。

 が、しかし。立ち上がった途端、アイカにのみ向けられていた私の意識は、目の前に仔むある一つの愛くるしい生き物へと集中していった。神よ……。悲しみに削む私の心が、悦びで満ち満ちていくのがわかった。


第九幕「欲情の渦」


 暗き夜に降り注ぐ微量の光をその一身に集め打ち放つ、燃え盛る紅蓮の赤き炎のような体が、そのものの生命力を表しているかのように思える。激しくその存在を自己主張する姿は、獣に我を食えと訴えかけてきとているようにしか見えない。もはや飢えた獣の世界は、己とその赤い灯火を包含するのみになっていた。愛すべき者も、彼を苦悶させていた後肢の痛みも、彼の心中にはない。野獣は何を省みる事もなく、獲物との空間を削り取っていく。そうそれはまるで、煮えたぎる欲情の証で満たされた彼の口内という竃の中で、彼の目の前にある空間が蒸発し白い吐息となって吐き出されている、そんな印象であった。

 そして彼が獲物との間にあったはずの空間を全て飲み尽くし、いまだかつて知り得たはずのない絶望、驚愕に微動をも封ぜられ風前の灯となったその生き物を、彼が愛おしげに覗き込みそして、ついには飲み込みいざ噛み砕かんとしたその利那、彼は、自ら犯した、罪の重さに、頭を鋼鉄の塊で思い切り殴打されたような気がした。

「ぐりい……どうして……」


第十幕「純粋な痛みと想い」


 その姿は宵闇にあまりに自然に溶け込んでいたので、私は、そこにあるのはただ虫ばかりだと考えていた。いや、それは関係ない。私には、その虫がアイカの宝物であるという認識がしっかりあったはずだから。その事実を淘汰した。私の頭は、人との絆よりも、生物としての生存にこそ、重きを置いてしまったのだ。

 今してしまったこと。もう二度と、取り返しのつかない、一生拭い去ることのできない物。罪。いやその程度ではない。冒読。いうなればそれだ。アイカという神聖を冒した。アイカの気持ちを、私は薄汚い手で足で、挟れるほどの傷をつけ、無遠慮に潰れるほどに蹂躙した。推し量ることなど、到底及ばない悔しさと悲しみ。最愛の人に裏切られ、気持ちを踏み躙られ、想いは、打ち砕かれ……。

 息もできない、とはこの状況をいうのだろうか。ただ、愕然として恐怖に、絶望に、痛みに打ち震えるアイカ。かつて、虫を手にしていた可憐な花のような掌は、醜く、血に肉に汚濁した、おぞましい獣の唇に接吻されている。本能が吹き出す、生温く、纏わりつくような陵辱の吐息は、彼女の、その小さな花を少しずつ、少しずつ萎れさせていく。

 抱き締めたい。瞬時に思いは込み上げてきた。だがこの汚れ切 った不浄の肉体では、許されない。誰よりも、私自身が許さない。

 私の中で、激情が私に牙を剥いて渦巻いている。それは、悲槍を極めた絶望だった。汚辱にまみれた己への怨念だった。手中の希望を殺ぎ落とされた者の狂気であった。だがそれは何より、自らの手で希望を投げ捨てた愚者の悲嘆であった。

 口先から血が滴る。だがそれは、彼の血か、それとも私の血か。わかりはしない。欲情の証。血痕はアイカの黒いしかし無垢で締麗なドレスに、また一つ、また一つと静かに刻まれていく。もはや、私は人ではないのだ、と緩りと実感が込み上げてきた。

 唐突に、私の肌に触れる物があった。顔を上げる。私の頬に、優しく、アイカの手が触れている。小刻みに震えてはいるが、それでも、私をできる限り優しく包み込もうとしているのがわかる。何か、声にならない声が、彼女の喉で空回りしている。時間は意味を持たない。彼女の言葉が出てくるのを、私は待たねばならなかった。

 永遠を越えて出てきたかのような声が、私の耳には懐かしかった。人として、私が存在することを祝福してくれている、聖母の歌声に思えた。

 判断を司る私の何らかが、その時正常であったのかどうかは知れない。ただ、心地良い、私をいまだ受け入れてくれていることを知らせてくれる彼の旋律による身も震えるような喜びの中で、私の意識に流れ込んできた情報としての声は、記憶に従う限りは以下の通りだった。

 私のことを、虫に話していたこと。私が、今日自分に対して優しくないと思っていたこと。それは、私に辛いことがあるからだ、と思ったこと。もっと優しくしてあげよう、と思っていたこと。それは私のことを、誰よりも愛しているからだということ……。

 そこから先に記憶がない。ただ、誓ったことがある。この子を二度と傷つけるまい。そして、どんなに自分に絶望しても、この子のために、死ぬまいと……。


終幕「悲しみは海の彼方に」


 もう、浜辺には誰もいない。また、私とアイカの二人きりだ。以前はそれでも良かったはずだった。でも今のこの寂しさは……。

 アイカ。ひとりぼっちの微睡みの中で、彼女は今どんな夢を見ているのだろう……。昨日の楽しかったひとときに、心躍らせているのだろうか……。裏切られる悲しみを夢想だにせず、だだあの時の安らぎに心寄せていたはずのこの子。それは、彼女にとって、知るべきではない心地よさだった。その心地よさに酔ってしまえば、それを削がれた時の痛みもまた、大きな物となってしまう。その痛みに、この子は、果たして耐えられるほど強い子なのだろうか……。

 私がいればいい? いやそれは違う。この状況で、この子に信じたものの崩壊を体験させるのは、回避されるべきことだった。だがもういまさら、どうすることもできない。ただ、祈ることはできる。それはとても小さなことだけれど、今私ができる最大のことだ。 だから、お願いです。 貴方がくれたこの世でたった一つの、私の小さな太陽が、その可憐な心を凍えさせて、輝きを失ってしまうことのないようにして下さい……。揺るぎない、一つの灯火を、私に与えておいて下さい……。

 そして彼女が目覚めたら、何よりすばらしい食べ物を食べさせて、何よりすばらしい歌を聞かせてやろう。そう、夢の続きを、この子に見せてあげるんだ。だから、今ここで僕は、立ち止まっていちゃいけない。歩いて、歩いて、歩き続けなくっちゃ……。

 できる限りの優しさのつもりで、アイカを抱きかかえる。依然として白濁した霧は、そして、私を現実へといざなうのだった……。


The End of Singalio Rou' Se lef Episode 1

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ