星を見上げて
「はぁ......」
会社からの帰り道、もう何度目かわからないため息をつく。これでもかというほど狭い歩幅で歩く。家に帰りたくない、と思った。帰ったら笑ってただいまを言わなくてはならない。1人の時間を少しでも引き伸ばしたくて必要以上にのろのろと足を動かしているとふと道沿いにある公園が目に入った。公園といっても運動場の半分くらいの大きさの池とその池の淵に沿うように数脚のベンチがあるだけである。朝方には池をぐるりと回るように犬の散歩やジョギングをしている人を見かけることもあるがこの時間にもなると静かなものだ。たまには寄り道もいいかもしれない、そう思った私は公園へと足を向けた。
「ふぅ......」
一脚のベンチの端に腰を下ろしてもう一度ため息を吐く。街灯もあるにはあるがここからは距離があるため、あたりはすっかり闇に沈んでいる。目の前の池も今はブラックホールのようにぽっかりと暗い穴を空けている。本を開くにも暗すぎるため、ぼうっと暗い池を眺めた。こんな風に何もせずとりとめもないことを考えて時を過ごすのはいつ以来だろうか。
まだ季節は冬。寒さに身を縮こまらせながらもそうして池を眺め始めて10分くらい経っただろうか。そろそろ帰ろうかと思い始めたとき、ふと人の気配がした。
「となりいいですか?」
声から男の人だとわかった。私は顔を動かすのもおっくうで池を見つめたまま「どうぞ」とだけ答えた。彼がベンチの逆端に座った気配がする。公園に他に人の姿はない。他に数脚あるベンチもすべて空いているのに、どうして私の隣なのだろうか。たった一言の会話に少し喜びを覚えている自分を自覚する。会社の人や家族以外と話したのが酷く久しぶりな気がした。もう少し話せるだろうか。相変わらず目線は真っ暗な池に向けたまま考える。もう少しだけここに居ようと思った。
それきり会話もないまま池を眺め続けた。彼もまた何をするでもなくただ池を見つめている。彼が隣に座ってから10分ほど経っただろうか、さすがに体も冷えてきたので帰ることにして立ち上がって帰路につく。先ほどよりも少し広い歩幅で道を歩いた。ほんの少しだけ気分が晴れた気がした。
翌日。会社からの帰り道、昨日の公園が見えてきた。少し迷った末に私は今日も寄っていくことにして公園へと足を向ける。今日も会えるだろうか、という淡い期待があったことは否定できない。果たして、10分ほど経った頃人の気配がした。
「となりいいですか?」
昨日と同じ声。私は昨日と同じように池を見つめたまま「どうぞ」と答えた。そのまま、やはり会話はないまま10分ほど池を眺めてから帰路につく。その日から、仕事帰りに公園に寄るのが私の日課になった。顔も名前も知らない誰かと10分間池を、そしてたまに夜空を眺めるだけの時間。いつからか最初の一言を交わすことが私の楽しみになっていた。最初はベンチの端と端だった座る位置は日を追うごとにほんの少しずつ中央に近づいていった。
そうして一週間ほど経った日、人の気配がしたがいつもの声が聞こえなかった。不思議に思いつつも池を眺めていると隣に人が座る気配がする。私がいつも「どうぞ」と答えるからもう聞く必要もないと思われたのだろう。一抹の寂しさを覚えながらも、こうして池を眺めている時間も好きだったのでまぁいいかと思い直す。それから、一言の会話もない日課が続いた。2人の間の距離はいつしか人2人分から1人分ほどにまで縮まっていた。
そんな日々が続いてどれだけ経っただろうか。その日は日課ができてから初めての満月だったからきっと1月も経っていないのだろう。終始無言だった彼がその日はぽつりと言葉を漏らした。
「月がきれいですね」
その言葉の意味するところがわからないほど私も疎くはない。しかし、本当にそういう意味で言ったのだろうか。一瞬迷ってから私も言葉を返した。
「星も、きれいですね」
それに対する返事は特になかった。黙って池を眺めて過ごしてからいつもの時間に立ち上がって帰路についた。
翌日、彼は来なかった。20分間1人で池と、たまに夜空を眺めて過ごす。その翌日も、そのまた翌日も彼が現れることはなかった。彼が来ないのならもうここに寄る意味もないな、と思いつつもまた会えるかもしれないという淡い期待のもと私は日課を続けた。1人のベンチはいつもより少しだけ肌寒く感じた。
そんな日がどれだけ続いただろうか。少しずつ日が長くなり始めて闇に沈んでいた池も今は傾きかけた陽の光に照らされている。人の気配がした。彼だろうか。少しだけ弾む気持ちを抑えながらも視線は池から外さない。隣に座る気配がする。そのまま、私たちが言葉を交わすことはないまま10分が経った。帰る時間だ。池は夕日に赤く照らされている。時期に暗くなるだろう。立ち上がりかけて、ふと気づいた。今なら、彼の姿を見ることができる。立ち上がりながら不自然でないようにさりげなく横へ視線を向けてから、道へ出る。我が家への道を歩きながらちらりと見えた彼の姿を思い起こした。夕日に照らされた彼の顔はよく見えなかった。黒いスーツ。黒いバッグ。そして、左手の薬指に光る指輪。自然と笑みがこぼれた。少しばかりの寂しさと、それ以上の喜ばしさに気分が明るくなる。明日からあの公園に寄るのはやめよう。そう思って、私は今日も愛しい夫の待つ我が家に向けてあの日から少しだけ広くなった歩幅で道を歩いたのだった。