一月一日
一月一日、午前十一時、冬休みに入って一週間と一日。初詣で賑わう境内の入口で、僕は人を探していた。鳥居を潜り数歩進んで振り返った時には、彼の姿は消えていたのだ。
僕の友人の東原は、美人が大好きだと公言するオープンなバカである。教室であろうが道端であろうが、美人が居れば明りに寄っていく蛾のように、東原が後から付いてくる。『美人の後に東原在り』その格言を確実に体現する彼は、男子に一目置かれている。反対に女子からは、最初の内は一人だけを褒め続けていたので、喜ぶ子が大半であったが、美人を見つけては、誰彼構わず褒めるので、もう誰も、真に受けてはくれなくなってしまっていた。嘘ではないが言葉を信じてもらえない狼少年の如く、しっかり嫌われている。バカ正直に思った事を言える所が、僕は少し羨ましいが、女の子の外見だけしか見ないので、その点に少し問題がある。「容姿以外も大切なんじゃない?」という意見に、耳を貸す気はないのだ。人の忠告を聞かないのが、彼の最大の欠点である。今日も女子全員に用事があると断られたらしく、仕方ないから、僕に付き合えと、朝の十時に家にやって来たので、こうして神社にいる訳なのだが、案の定、彼は美人を追いかけて、姿を眩ませてしまった。お正月から僕だって怒りたくはないが、だからこそ、言わなければならない時もある。東原を見つけて説教をする為に、今こうして初詣の行列を眺めているのだ。美人を見付ける絶好のチャンスを、東原が逃すはずはない、まだ帰ってはいないだろう。不安材料があるとすれば、すぐに帰れるだろうと、腰までのダウンジャケットで来てしまった事だ。長丁場になると、寒さに負けてしまうかもしれない。この場所に立ち続けて、もう三十分以上経つ、そろそろ移動するべきだ。立ち止まっていても埒が明かない、前に進もう。そう思い、列の最後尾に視線を向けた時に、見知った顔がある事に気付いた。同じクラスの麻井沙絵だ。何度か連絡程度の会話をした事はあるが、それ以外ではあまり話した事はない。背中まで伸びた、曲がる事を知らない黒髪が、頭をすっぽり包み込んで、いつも表情を隠していたし、声も小さく、数人の女の子の友達と、静かに話をして微笑んでいるのを何度か見かけた。遠慮がちに笑うその声は、寝静まった森の中でしか聞くことが出来ない、小さな小鳥の囀りのように、気を付けて聞かなければ、耳まで届かない。運動も得意ではないが、全く出来ないという程でもない、麻井は目立つタイプの女の子ではなかった。しかし、今日は違った。腰まである髪は、頭の上で丸く結い上げられ、細い首筋が、世界と初めて触れたように白い。儚げで、風が吹いただけで折れてしまいそうなのに、背筋がしゃんと伸びてしなやかだ。時々隣にいる男に話しかけるのに、横顔が覗く、隠されていない顎の線が、くっきりと耳までの美しい曲線を描いていた。ここに東原が居たら、確実に話しかけていただろう。それ位今日の麻井は綺麗だった。そしてその理由も、僕には察しがついた。何故なら麻井が、男と腕を組んでいたからだ。短い紺色のダッフルコートと、白いパンツが長い足を際立たせ、髪型は長過ぎず、前髪をワックスで整えていた。見た目で分かる大人の男である。今日の麻井と見事に調和していた。何処を歩いていても、お似合いの組み合わせに見えるだろう。
そんな中、麻井の短いフェルトの青いスカートが、ふわふわと揺れながら、首とは対照的な、ふっくらと程よい肉付きの太ももを、寒い風に晒していた。制服では校則違反になってしまう長さだろう。僕が本能による無意識で、その色に見惚れていると、足が回れ右をして、こちらに近づいて来たので、ぎょっと顔を上げた。人を掻き分けて来る麻井とバッチリ目が合う。笑ってはいない。蛇に睨まれた蛙のように、動かない身体を無理やり動かして逃げようとしたけれど、間に合わなかった。
「見たでしょ」
「何を?」
「私が男と居たのを見たでしょう?」
誤魔化しが効かない、真っ直ぐ見据えるその目が、僕に正直である事を求めた。
「うん。見た」
「誰にも言わないで」
「どうして?もう、誰かが気付いているかもしれないよ」
「それでも、言わないで居て欲しいの」
「最初から誰かに話すつもりないよ」
「ありがとう」
その必死さは、自分がどうこうと言うよりは、相手の為であるように僕には思えた。あの男には、何か事情でもあるのだろうか。僕がちらと視線を向けると、男は顔をぱっと反らした。一瞬見えたその顔に浮かんでいたのは、心配と言うより、好奇心に近いもので、それだけが疑問だった。彼女が他の男と話していて、あんな表情になるだろうか。それとも、余程自信があるのか、ただ妙に落ち着かない気分だった。
「ところでさ、足寒くないの?」
「寒いわ。真冬に素足なんてバカみたい」
「ならどうして?」
「私の足が好きだって言うから、会える時しか、見せてはあげられないし」
「乙女だね」
「女の子が乙女で、問題があるの?」
「全く異存はございません」
今乙女じゃなかったら、いつ乙女になるというのか。好きな人の為にお洒落をするのは当然だろう。
「ふふ」
「何?」
「やっぱり良いね。クラスで議長をやった時に、委員決めをしたでしょ。最初に全員を指名した後で、反対意見を募って、『君がそう思うならそうなんだろう。じゃあこの委員をトレードしよう』って、ぱっと決めていったでしょう。誰も文句を言えない位見事だった。そんな潔さがとても気に入ってるの」
「面倒な事が嫌いなだけだよ。決めてしまえば、そうする以外ないから。さっさと決めちゃうんだ。ダメなら変えればいい。その方が簡単でしょ?」
麻井はそれを聞いて、嬉しそうに笑った。
「ねぇ、一人なの?」
「東原と逸れたんだ」
「また美人を追いかけて、旅に出たのね」
「そうなんだ。困った友人を持つと苦労するよ。一緒につるんでる僕も、たまにそう思われている時があるし」
「他のクラスの人には、事情が伝わりにくいかもね。全然違うのに」
「そう?」
「そう。同じクラスの子達は皆知っているから大丈夫よ」
「それは有難い」
話し込んでいる内に、列が大分前へ進んでしまった。行列で頭一つ分飛び出ている彼氏が、こちらを振り返っていた。
「そろそろ戻った方がいいんじゃないの?」
「彼氏と二人きりだと目立つから、一緒に並ばない?」
「それは普通に遠慮したい」
了承するには、僕にだってとんでもない晒し者になる覚悟が必要だ。学生同士の情報網は、結構侮れないものなのだ。
「いいからいいから、こんな所で一人で居るより、一緒に並んでしまった方が温かいよ。人間って結構良い風除けになるんだから」
「それは一理あるけど…」
僕の意見などお構いなく、麻井は僕の腕を引っ張って、するりと元いた場所に戻った。視線が痛いが、仕方ない。申し訳ないけれど、今回だけ並ばせてもらおう。ここから去るのも面倒だ。進行方向に右から麻井の彼氏、麻井、僕という順番である。
「こんにちは」
「こんにちは。いつも麻井さんにはお世話になってます」
「まぁ、仲良くしてやってよ」
誤解があっても困る。僕はただのクラスメートだし、こんなに話したのだって、今日が初めてだ。不敵に笑う彼氏を横目で見ながら、自分が噂避けの為にここにいるのだと、心の中だけの言い訳を繰り返す。
「私にこんな素敵な彼氏、似合わないよね?」
「そんな事ないよ。お似合いだと思う」
「そう。なら良かった」
表情で笑って、麻井は彼氏の方を向き、小声で何かを話して、彼氏が小さな声で笑った。笑い方が良く似ているが、好きな者同士なら、似る事は多い。一人仲間外れなのは承知していたが、やはり断るべきだった。引っ張られて来たとは言え、手を振り払う事は出来たはずだ。なのに、僕はのこのこと付いてきて、居座ってしまった。もう少し、今日の麻井と居たいという下心に、負けてしまった事が悔やまれる。横顔を眺めて、いつもより長い睫毛、頬の桃色、唇の紅の濃さに気付く、少女の様なあどけなさを匂わせると同時に、大人っぽさも感じる。とても似合っていた。僕が気付かなかっただけで、元々麻井は綺麗な子だった。たまに東原が気にしていた。
「ねぇ、冬休みの課題って終わった?」
「国語の課題以外は」
「国語の時間だけ、先生に良く質問してるものね」
「言葉から、人間の心理を読み解くのが苦手なんだ。国語の問題だと、『登場人物が何故そう考えたのか、理由となる文章を書きなさい』という問題が多いでしょ。人間の考える事なんて、一文で推察出来る程単純ではないし、どうしてそこだけで判断しなきゃいけないんだろうって、いつも不思議で仕方ないんだ。だから、先生に質問してしまう。けれど、まともな答えを得られた事は殆どない。それでも、簡単にそうなんだって決めつけたくなくて。自分勝手な意見で授業を遅らせて、皆に迷惑かけているかもしれないけど」
「そんな事ないよ。私いつもそこで気付かされるの。感情の答えなんて、私たちが勝手に決められる事じゃないんだって、テストの答えは一つかもしれないけど、日常にある答えは、いくつもあって、しかもそれは本人にしか到底決められないものなんだって」
「そうかな。ただ複雑に考えてしまってるだけかもしれないよ」
「いいじゃない。考えられるから人間なんだもの。たくさん考えればいいのよ。納得出来るまで何度でも」
その方が楽しいでしょ?そう言わんばかりに、麻井は前を見て静かに微笑んだ。
頬を撫でるようにふわりと風が抜けていく、神社の入り口に立ち並んでいる屋台から、美味しそうな匂いが漂ってきた。
「もうすぐお昼だね。帰りに屋台で何か買おう。奢るよ」
「本当?実はお腹ペコペコだったの」
そういえば、財布を忘れてきてしまった。携帯電話とバスの定期しか持っていない、それが何だか、妙に恰好悪い気がした。高校生と大人の違いを、思い知るみたいで。
「君は何食べたい?」
「いえ、僕は家に帰ってから食べるので」
「いいからいいから、若者は大人しく奢られてなさい」
「探している友達が見つからなかった時は、お願いします」
そんな強がりだけで精一杯だった。本当に東原を見付けなければ、このままこの場所に留まるのが、だんだん苦痛になってきている。列はかなり進み、中間程にある神門も潜って、本殿まではもう少しである。
「そうだわ。おみくじを引かなきゃ。初詣の醍醐味と言えば、おみくじよ。今年一年の運勢を占わなきゃ」
「女の子って、占いが好きだよね」
「そうね。私はおみくじと星座占い位しか見ないけど。たくさん在りすぎて、それぞれ違う事を言っているし、何を信じれば良いのか分からなくなっちゃうのは困る」
「そうゆうものかな」
「私の場合はね。あとね、悪い事は信じないの。良い言葉だけを信じていれば、きっと良い事が起こる。そんな気がするから」
「麻井って凄く前向きだったんだね」
「そうなの。近頃自分でもびっくりする位前向きなんだ」
言葉通り、前を見据えた麻井の視線の先には、神様が宿る本殿が鎮座していて、その頭上では、果てしのない空が広がっていた。空はいつでも青い。何者にも、汚す事が出来ない位。
「そろそろよ。お賽銭の用意しなきゃ。私は五百円玉で勝負」
「僕は四十五円」
「何か意味があるの?」
「本に、『始終ご縁がありますように』という願いを込めて、その金額にしていると書いてあって、名案だと思ったんだ」
「人との縁を大切にしたいって事ね。しっかり前向きじゃない」
「後ろを向いても、良い事はないからさ。通って来た道にある過去は、同じ失敗を繰り返さない為にあるんだと僕は思う。経験して分かる事があるし、知って始めて次の事を考えられる。科学の実験みたいにさ、時々振り返って、結果を確認するだけで良いんだ」
「壮大な話になったわね」
「知らなかった?人生って壮大なんだよ」
「私達なんて、まだまだスタートしたばかり」
「先は長いね」
ようやく参拝の順番が来た。麻井は右手に握り締めていた五百円玉を、少し離れている賽銭箱に見事に投げ入れ、手を合わせた。僕も深く二度礼をして、胸の前で二回手を打ち、最後にもう一度深く礼をした。二拝二拍手一拝。神様にお願い事を届ける為の、大切な習慣だ。「今年も元気に過ごせますように」僕の願い事は、いつも同じだけどね。麻井はまだ眉間に皺を寄せ、真剣に何かを願っていたのだが、その最中に後ろから声がかかった。
「あら、麻井君。初詣来てたんだ」
「ああ、みっこか。家族で?」
「ぶー。友達とです。麻井君誘ったのに断られたから、傷心女子で初詣に来たの」
「ごめんごめん。妹に頼まれて仕方なくさ」
「可愛い妹さんね」
「あ、ありがとうございます」
すらっとした、とても綺麗なお姉さんが、麻井の彼氏だったはずの男と腕を組んでいた。麻井の顔は生気を失くしたように色がない。
「美人発見!俺とカラオケ行きませんか?」
「東原!おまえ今まで何処に」
「やば、見つかった」
「待て、逃げるなよ」
目を輝かせて、その場に突如乱入してきた東原を、すかさず追い掛けようとしたのだが、右腕をぎゅっと捕まれていて動けなかった。震えているのが、皮膚を通して伝わってくる。そうだった。麻井の彼氏が麻井君で、つまり彼等は兄妹だったのである。
「今おみくじを引いたら、絶対に凶だわ」
「どうして?」
「ごめんなさい。高瀬君と一緒に並びたくて、たくさん嘘ついたの、私、私ね、」
涙がぽろぽろ溢れ出して、華やかな化粧が落ちていった。袖で強引に拭いて、もうぼろぼろだ。でも、それすら可愛らしい。途切れ途切れに紡がれる告白を、聞き逃さないように、僕はただ麻井の隣で耳を澄ました。




