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それぞれの未来へ  作者: さき太
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第三章 正蔵夫妻編

 『政木(まさき)先生、お元気ですか。このメールがあなたに届いているか解りませんが、決意表明のためにあなたにこれを送ります。』

 かつて使用していたフリーメールのアドレス宛に清水潔孝(しみずきよたか)からそのような出だしのメールが入っていたのを確認したとき、忠次(ただつぐ)は嫌な予感がした。

 『五十歳を過ぎた今になっても政木先生のことをよく思い出します。先生は私の恩師であり、目標とすべき素晴らしい方だと今でも思っております。若かりし頃の自分は非力で、事実を知ろうとする努力も現実と向き合う勇気も持ち合わせていませんでした。そうやって停滞していた自分と向き合い前に進むきっかけとなったあの時のことを、私は今でも鮮明に覚えております。こんな歳になった今、自分があの頃向き合うことができなかった現実と対峙する時がやってきました。今度こそ逃げず私は自分にできる限りの事を尽くしたいと思います。先生のことですからきっと万事うまくいったのだと思いますが、沙依さんを追いかけていったあの後、先生は無事にあの場所へたどりつき彼女と再会することができたのでしょうか。先生が現在あの場所で生活をしているのならば、美咲の現在を知っているでしょうか。美咲は元気で幸せにしているでしょうか。私は兄として美咲に何もしてやることはできませんでした。あの子を救ってくださったあの場所の皆様には本当に感謝しています。今でも私は兄として美咲の幸せを願っております。不躾なお願いで申し訳ありませんが、もし先生があの場所にいるのなら、どうか美咲のことを見守ってやってください。』

 その文面を読んで忠次は胸がざわついて、コンピューターを駆使して潔孝の現在を追った。そして彼が亡くなっている事実を知り忠次は胸が締め付けられた。このメールにもっと早く気がついていたとしてもきっと何もしてやることはできなかった。そうは思っても、後悔に似た感情が忠次を支配し、潔孝の死という事実が重くのしかかった。今の忠次は人間をやめ、人間社会から隔離されたターチェの国である龍籠で生活をしていた。軍が完全に国を管理運営している軍事国家で閉鎖的でもあるこの場所は厳しい規律によって管理されている。こうやってコンピューターを駆使して知り合いの現状を確認したり、まだ生存している両親に心配を掛けないために自分が生きていることを知らせることは許容されているが、あまり勝手なことはできなかった。この場所では一般人とはいえ許可なく国外に出ることも、かってに人間社会に干渉することも許されていなかった。そして軍規違反をすれば一般人でも粛清の対象となる可能性もあった。

 清水潔孝が亡くなった詳細を追って、忠次は高校教師一家惨殺事件の概要を知った。そして、現行犯で捕まり有罪になった犯人の画像を見て忠次はコンピューターの電源を落とし、天井を仰ぎ見た。犯行当時未成年であったにも関わらず、高校教師一家惨殺事件の犯人と名指しされネット上にたくさんの画像がアップされている杉村(すぎむら)(すず)()。その人物は、忠次の妻である正蔵沙衣(まさくらしょうい)が、前夫との間にもうけた娘に瓜二つだった。他人の空似ということもあるのかもしれないが、潔孝が殺されたことやその犯人として彼女が捕まったことから、忠次には彼女が清水家が何かしらの目的で作った検体だとしか思えなかった。そんな涼花との出会いが、潔孝にかつて清水家の実験体だった妹を助けられなかったという後悔を思い出させ、突き動かし、その結果彼は命を落とすことになったようにしか忠次には思えなかった。

 ターチェである沙衣は、かつて人間と結婚し、人間社会で清原沙依(きよはらさより)と名乗って何百年と生活していた。沙衣の前夫との間の娘は清水家の息子と結婚し、子供をもうけ、孫やひ孫にも恵まれ、享年二百歳超の大往生を果たした。そしてその遺体は不老長寿の研究のための検体として清水家に保管されることとなった。沙衣の娘を元に実験を重ね作られた清水潔孝と美咲という兄妹。兄の潔孝は沙衣の前夫を、妹の美咲は沙衣を再現したものだった。ただの人間である潔孝は清水の子として育てられ、ターチェの再現に成功し不老長寿の肉体を持った美咲は実験体として研究所の中だけで生きていた。親から妹は特殊な病気で研究所から出られないと言われ、不信感を抱きつつそれを受け入れて過ごしていた潔孝の目の前で美咲が誘拐されたのは、彼が忠次の生徒だった高校生の頃だった。そして潔孝が大学生の時、教育実習生として母校を訪れ、そこで沙衣と出会い、彼は自分たち兄妹の事実を知ることになった。沙衣の計らいで美咲との再会も果たし、彼の中でそのことは終わったはずだったのに。あれから三十年以上たった今更あのときのことが起因となって命を落とすことになるなんて・・・。そう考えると忠次はどうしようもない気持ちになった。

 「忠次さん、大丈夫か?」

 焦ったような沙衣が突然帰宅しそう言って、忠次は笑った。

 「大丈夫だよ。昔使っていたアドレスに届いたメールの確認をしていたら友人の訃報が入っていたから、感情が揺れただけだ。」

 そう言って忠次はそっと沙衣を抱きしめた。ターチェの婚姻の儀式である唯の儀を行った自分たち夫婦の間では、大きく感情が揺れたり、生命の危機に直面したりすれば虫の知らせでお互いのことが解ってしまう。自分の感情の揺れを感じて彼女が仕事を早退して帰ってきてくれたのだと思うと、忠次は愛おしい気持ちでいっぱいになった。

 「自分も人間をやめて三十過ぎから年を取ってないし、ここにいると感覚が狂うけど、人間だったら年を取って身体にがたがきはじめてもおかしくない歳なんだよな。だからといって五十代で亡くなるのはまだ早いとは思うけど、そこまで不思議なことでもないし、そろそろ俺も完全に人間社会から手を引く時期がきてるのかもしれないな。」

 忠次はそう言って、安心させるように沙衣の背中を撫でた。結婚して何十年とたった今でも本当に彼女のことが愛おしいと思う。こんなに愛おしい彼女と一緒になれて、そんな彼女からこんなに想われて、本当に幸せだと思う。

 「忠次さんに何かあったのかと思って気が気ではなかったんだ。あなたに何もなくて良かった。」

 自分の腕の中で心底ほっとしたようにそう言う沙衣の言葉を聞いて、そこまで想ってくれていることを嬉しく思うと同時に胸が締め付けられるような思いがして、忠次は強く彼女を抱きしめた。

 「一緒になってだいぶ経つけど、俺のことはまだ忠次さんなんだな。」

 そう口に出して、忠次はいったい自分は何を言っているんだろうと思った。沙衣は亡くなった前の夫のことは勢三郎(せいざぶろう)と呼び捨てにしていた。そして前の夫との間には子供がいる。でも俺のことを呼ぶときは今でも忠次さんで、結婚して三十年近くが経過しているのに自分との間には子供はいない。ターチェの女性は人間と違い、子供を望まなければ排卵しない。だから自分たちの間に子供がないのは彼女が自分との間に子供を持つことを拒絶しているからだと忠次は思った。

 「沙衣。俺のことを今でもさん付けなのも、俺との子供を望まないのも、怖いからか?今は違うとはいえ俺が元々人間だから不安なのか?」

 まるで沙衣を責めるような言葉を続けてしまい、忠次は苦しくなった。こんなことを彼女に言いたい訳じゃない。彼女が自分を心から愛してくれていると解っている。彼女が踏み出せないのは、彼女がまだ立ち直れていないだけだと解っている。自分だって本当に心から彼女を愛してる。なのに、どうして自分はこんな言葉を彼女に向けてしまうんだろう。

 大昔から人間とターチェの間には因縁があり隔たりがあった。そして沙衣は、自分が人間と結婚し子をもうけ人間社会に居座り続けていたことで、人間が欲を出し清水家の非人道的な実験につながり、清水兄妹の不幸が生まれたのだと思っていた。そして、だからこそどんなに想いを寄せている相手だったとしてももう人間とは関わりたくないと沙衣は龍籠に戻った。そんな彼女の意思を受け入れて一度は自分の想いを諦めようとしたけれど結局諦めきれなくて、忠次は人間をやめてここに来た。彼女がまだそれに囚われていることなんて解りきった上で一緒になったはずなのに、どうして俺は今更それを受け止められなくなっているんだろう。

 いくら人間をやめ不老長寿となっていても今の自分の存在がどういうものなのか忠次自身よく解らなかった。そもそもどうやって自分が人間をやめられたのかすら、その原理を全く理解できていなかった。そんな自分が子を成したとしてその子が不老長寿になれるかどうかも解らないし、子供にどのような影響が出るのかも解らない。そのことに自分でさえ不安を感じるのだから、彼女がそれに大きな不安を感じて臆病になるのも解る。そういう不安の他にも彼女には彼女の不安や恐怖があって、それらを総合した結果でこうなっていることは理解できる。頭では解っているのに、忠次はやはり彼女との間に子供がほしいと思うし、今でもさん付けで呼ばれることが寂しいと感じた。お互いに想い合っていることも実感を伴って良く解っているし、こうやって一緒にいられるだけでも幸せだと思う。でも時折、彼女からまだ完全には受け入れられていないのだという思いがよぎってどうしようもない気持ちになった。

 不安げに沙衣が自分の名前を呼び、すまないと呟いて、忠次は苦しくなった。

 「沙衣、愛してる。」

 そう言って忠次は沙衣に口づけをした。少しでも彼女の不安を取り除けたらと思う。少しだけ、最初から彼女と同じ生き物だったら良かったと思う。

 忠次からすると全ての元凶であると思われる清水家。でも、その清水家が存在しなければ自分は生まれなかったし、彼女と出会うこともできなかった。彼女の娘と瓜二つの人間を作り出して、清水家は何をしようとしているのだろうか。あの家はいったい何を目指しどこまで行くつもりなのだろうか。沙衣を基盤にしたあの研究が継続され、再び美咲の時のような実験が行われているのだとしたら。犠牲者が出ているのだとしたら。そんなことを沙衣が知ったら・・・。以前、実験の事実を知った沙衣が自殺をしようと身投げした時のことを思い出して、忠次は胸が締め付けられた。彼女に責任のないことで彼女が自分を責めるようことをもうさせたくない。させられない。清水家が存在し続ける限り、同じようなことは何度だって起こる。そしてどんなきっかけがあってそれが彼女の耳に入るか解らない。あの頃はどうやったら彼女と一緒になれるかしか考えず清水家のことは放置していたが、あれを潰さない限り根本的な問題は解決しない。そうだ清水家がある限り彼女はあれに囚われたまま前に進めない。清水家がなくなってしまえばいい。そんなことを考えて、忠次は心を決めて思考を巡らし、機会を待った。


         ○                   ○


 「忠次の消息が掴めなくなった。」

 情報司令部隊隊長の児島成得(こじまなるとく)からそう言われたとき、沙衣の頭は一瞬その意味を認識することを拒絶した。何かの冗談だと思いたい。でも、普段いつも人を小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべ軽い口調で話す成得が真剣な顔と声音で自分と対峙している現状が、その意味を痛いほど伝えていた。実際に消息が掴めなくなっているはずはないだろう。消息が掴めないという体にしてくれているだけだと言うことは解っていた。

 「わたしが連れ戻す。」

 そう言うと成得が指令書を差し出してきて、沙衣はそれに目を通して、少しの間目を瞑った。

 「沙衣、解ってるな。」

 その言葉だけで彼が何を言いたいのか充分に伝わって来る。まだそれだけで対処できる程度の問題。彼の采配でまだどうにかできる問題だからこそ彼がそんな恩恵を与えてくれているのだと沙衣には解っていた。しかし釘を刺している調子で彼はもう既に自分たち夫婦を殺す覚悟を決めていることが伝わってきて、沙衣は心の中で謝った。多分、忠次さんを送り出した時点でこうなることは想定内だったに違いないと思う。本来ならば自分を行かせる訳にはいかないはずなのに自分を送り出すというのは、後悔しないように好きなようにしろと言っているのだ。それに伴うリスクも、もしもが起きた場合それを処理することになる自分自身の負担も顧みずこのような決断した彼に対し、沙衣は申し訳ないと思った。

 「余計な物を背負わせて悪い。」

 沙衣がそう言うと成得はいつもの薄ら笑いを浮かべ、最初から余計な物を背負わせる気で行くんじゃねぇよと言った。

 「悪いと思うならちゃんとあのバカ連れて戻ってこい。お前が戻ってこなかったら、うちの子供は誰が取り上げるんだよ。お前らになんかあって、あいつがショック受けて流産とかなったら許さないからな。」

 そう言われ頭を撫でられて沙衣は、善処すると答えた。

 「そこは善処するじゃなくて、いつもみたいに気安く人の頭撫でるなとか、わたしにそうやって触れていいのは忠次さんだけだとか言っとけ。弱気は作戦の成功率を下げるぞ。」

 せいぜい頑張ってこいと言って去って行く成得の後ろ姿を見送って沙衣は目を伏せた。善処すると言っておきながら、無事に戻ってくる気なんてさらさらないことがバレている。覚悟は決めていても成得が最悪の事態を避けたいであろうことは解るが、私情で勝手な行動をして姿をくらました忠次を追ってどうやって無事にすませられるのか沙衣には解らなかった。しょっちゅう大きく揺れる彼の感情は伝わってくるが、彼が何を考えているのかも何をしているのかも解らなかった。自分が追って行ったからといって彼が帰ってきてくれるのか沙衣には解らなかった。

 少し前、大昔に龍籠で第一管理棟統括管理官を務め人間との戦争の際に亡くなった山邊陽陰名義で情報司令部隊に報告書が送られてくるという騒動があった。最初の兄妹の魂を持っている彼が転生後に記憶を持っているのは不思議ではない。その状態で何らかのトラブルに巻き込まれ龍籠に助けを求めるなら解らなくはないが、救助要請ではなく報告書が送られてきたということが物議を醸した。報告書を送ってきた人物の真意はともかく、その報告書の真偽を確かめるために人間社会に調査に出た忠次が消息不明になった。報告書が届く前に清水潔孝から忠次宛てにメールが届いていたことを沙衣は知っていた。そして潔孝が亡くなっていることも。そして報告書の内容に清水家が関わっていることから、調査に便乗して忠次が潔孝の件に首を突っ込んで何かしようとしたのではないかと想像はできた。彼が故意に姿を消したのは明白だった。単独行動に出ざるをえなかったのだろうと言うことも解るが、彼が自分に何も言ってくれなかったことに沙衣は胸が締め付けられた。相談してくれれば軍議でそれに対処するように働き掛けることだってできたし、それがかなわなくても一緒に対応することだってできたのに。どうしてそんな危ないことを一人でやろうとしたんだ。どうして、忠次さん。どうしてわたしを置いてくの。わたしを一人にしないって約束したのに、ずっと傍にいてくれるって言ってたのに。そんなことを考えて沙衣は泣きそうになった。もう二度と大切な人を失いたくはない。あんな痛みをもう二度と味わいたくない。そんなわたしのわがままを理解して、絶対にわたしより先に死なないって言ってたじゃないか。言ってたのに。忠次さん。そんなことを考えながら沙衣は出国する準備をしていた。あなたを一人で死なせたりなんかしない。あなたが何かをしようというのなら、わたしも一緒にそれをして、わたしも一緒に死ぬから。だから、わたしが追いつくまで無事でいてくれ。

 「沙衣。忠次さんを追って行くんだね。」

 声がして沙衣が振り向くとそこに沙依(さより)がいた。

 「最初から無事に戻ることを諦めちゃいけないよ。」

 そう言って沙依が近づいてきて沙衣の手を取る。

 「大丈夫。まだ二人が誰かに殺される未来は確定してない。二人とも無事に戻ってこれるよ。わたしを信じて。」

 沙依にそうまっすぐ見つめられて、沙衣は彼女の瞳に吸い込まれるような思いがした。

 「沙衣にとって明るい未来への道がどんなに細い糸のような物に感じたとしても、運命が二人の味方をする。だから信じて。死ぬ事なんて考えちゃいけない。沙衣はただ忠次さんと無事に帰ってくることだけ考えて。そうすれば大丈夫だから。」

 未来を見ることができる彼女にそう言われると本当に大丈夫な気がしてきて、沙衣は不思議な安心感に包まれた。しかし自分の能力を制御できなかった彼女がいったいいつから思い通りに能力を使えるようになったのだろうかという疑問が頭をよぎって、もしかしたら気休めでそう言っているだけなのかもしれないという思いが浮かんできて、沙衣は視線を落とした。そうすると彼女の少し大きくなったお腹が目に入ってきて沙衣は少し前に忠次に言われたことを思い出した。もしかして忠次さんは、わたしが今でも彼を忠次さんと呼ぶことや子供を持とうとしないことでわたしと一緒にいることが嫌になってしまったのだろうか。あの時忠次さんはいったいどんな気持ちだったのだろう。あの時わたしに疑問を投げかけた後、愛してると言ったあの人からは痛いほどの苦しい思いが伝わってきた。あれは今でもわたしを愛してると思い込みたいからそう言っただけだったのだろうか。人間の婚姻とは違って一度唯の儀をしてしまえば本当に死が二人を分かつまで夫婦をやめることはできない。もしかしたらそれが彼を苦しめているのではないだろうか。そんなことを考えて沙衣は辛くなった。

 「沙依は成得と唯の儀をあげないのか?」

 沙衣の口をついて出たその問いに、沙依は笑って絶対あげないと言った。あまりにはっきりあっけらかんと言うので、沙衣は思わず顔を上げて沙依の顔をまじまじと見てしまった。

 「ナルはさ、わたしに幻想を抱きすぎだと思うんだ。わたしナルが思ってるほどいい子じゃないし、純粋じゃないし、隠し事もいっぱいしてるし。いつだってナルはわたしのこと受け止めてくれるからいつも我慢しないで全力で甘えちゃうけど。それでそれを受け止めてもらって凄く安心できて幸せな気持ちになるけど。それと同じくらい嫌われたらどうしようっていつも怖くなる。ナルがいつかわたしに見切りをつけてどっか行っちゃたらどうしようって怖くなる。そしてさ、もしそうなった時、そんな思いを抱えたナルを死ぬまで自分に縛り付けて自由にできないなんてわたしには耐えられないと思うんだ。ナルを想ってじゃないよ。そう思ってるナルの感情をずっと受け止めて生きていく事に耐えられないっていう自分勝手な思いでだよ。ナルはどんなわたしだって受け止めてくれるって解ってるけど、解ってるんだけどさ、でも自信が持てなくて、怖くて。ナルが本当に心からわたしと結婚したいって思ってるのも解ってるけど、そんな感じでその気持ちに応えられなくて。そのくせ、そんな風にナルの気持ちを拒絶して傷つけてるから、そのうちナルも諦めて、わたしのこと嫌になってどっか行っちゃうんじゃないかって余計不安になる。子供だって生まれるのに全然家庭を持つ心の準備ができてないんだよ。わたしどうしたらいいんだろ?」

 困ったようにそう言う沙依を見て沙衣は、じゃあどうして子供なんて作ったんだと呆れたように言った。

 「その時はさ、この人と家庭を築きたいなって思ったんだよ。わたしと家庭をもって子供がほしいって思ってるナルの気持ちが凄く伝わってきてさ、わたしもそうなりたいなって。ナルとそうなれたら幸せだろうな、子供ほしいなって思ったんだよ。実際できて幸せだなって思うし、あの人と家庭を持ちたくないわけじゃないんだよ。結婚したい気持ちはあるんだよ。あるけどダメなんだよ。だからさ、人間式の結婚だったらわたしも躊躇せずに踏み出せるんだよ。でも、やっぱり唯の儀となると自信が持てない。わがままだとは思うけど、未婚のまま家庭を持つって選択肢があっても良いんじゃないかななんて思う。それはそれでまた色々言われそうだけどさ。」

 沙依のその言葉を聞いて沙衣は自分とは逆だなと思った。忠次と唯の儀をあげた時は、ただ彼と一緒になれることが嬉しくて、彼と魂の絆を結んだ夫婦になれることが嬉しくて、全く躊躇しなかった。でも子供を作るとなると話は別だった。彼が自分との子供を望んでいることは解っている。自分も彼の子供がほしくないわけじゃない。でも、一度夫と娘に先立たれ、娘が死後尊厳を奪われ検体として扱われた経験が、それに伴い検体として人の手で作られた者達が受けた仕打ちが、沙衣に二の足を踏ませた。忠次さんがもう人間ではないことは解っている。でも、人間をやめられたなら急に人間に戻ってしまうこともあるのではないだろうか?元人間である彼との間の子供は不老にはなれないのではないだろうか?もしなにかの拍子に自分の子供が人間に捕まって、研究対象として酷い仕打ちを受けるようなことがあったらどうしよう。そんなことが頭をよぎっていつも怖くなった。多分今でも忠次さんを呼び捨てにできないのも、彼がもう完全に人間でないという確証が持てなくて、先立たれるのが怖くて、心のどこかで一線を引いてしまっているからだ。そんなことをして気持ちに溝を作って、こうやって置いていかれて、彼を失うかもしれないという不安や恐怖に苛まされていたのでいたのでは本当に本末転倒だと思う。そう考えて沙衣は、忠次さんを無事に連れ戻したら、自分の抱えている不安や想いをちゃんと話して、彼の話しもちゃんと聞いて、二人でこれからのことをちゃんと考えていこうと思った。そしていつの間にか自分が彼と二人で無事に戻ってくる事を自然と考えている事に気がついて、沙衣は不思議な気分になった。

 「沙衣。わたしの眷属達を連れて行って。わたしはこの身体だから今は国外を出歩けないし、ここにいる限り皆がついてなくてもわたしは大丈夫だからさ。」

 そう言って沙依は沙衣に微笑んで武運を祈ってると言った。その言葉に背中を押されて沙衣は家を後にした。

 沙衣は城門近くについたとき、情報司令部隊副隊長の来栖(くるす)(かえで)に呼び止められた。

 「現在の山邊陽陰が誰なのか目星がついたので確認のためにわたしもあちらに行くことになりました。ですので、もしもの時はわたしが即対処する予定です。行動には充分気をつけてください。」

 そう釘を刺されて沙衣は解ってると答えた。

 「あまり余計なことをしてうちの隊長の手を煩わせるようなことはやめてください。あの人の負担が増えるとわたしの仕事も増えて迷惑です。まったく、うちの隊長を振り回してわたし達に迷惑を掛けるのは青木沙依だけにしてほしいですね。それに正蔵の当主を失うというのはこの国にとって多大な損害です。あなたの後継者にふさわしいと思われる人物は軍人にはなりたくないそうですし、あなたの穴を埋めるのは本当に骨が折れる作業なので迷惑です。」

 普段と変わらない無表情で感情の読み取れない単調な調子で楓にそう言われて、沙衣は無事に戻ってこいということだな、と解釈した。

 「正蔵忠次にはわたしの知り合いを紹介しました。彼はその人物の協力を拒んだので接触しても情報は得られないと思いますが、一応伝えておきます。」

 そう言って楓は沙衣に折りたたまれた紙を渡した。

 「彼が彼女の協力を拒むのは想定内でした。彼女は人間ですが、清水家が作り出した超能力者でわたしと同等程度の思念能力者ですから、彼がそんな彼女を巻き込むわけがない。」

 それを聞いた沙衣は渋い顔をした。

 「報告書の内容が本当ならば、人間はその程度の能力者を作り出す技術を確立したと言うことになります。我々の能力は魂に起因するものですが、それと同じようなことは術式で再現可能ですし、卓越した者は段階を踏んで術式を組まなくも行程を略し祝詞一つ唱えず奇跡体現を行える者もいるくらいです。天性の素質で生まれつきそれができてしまう人物が人間社会では超能力者と呼ばれているんでしょ。ならば能力者を人工的に作る技術を確立したというのはなんの不思議もありません。コーリャンのレベルには到達しなくても、それにほど近いわたし程度の威力を持った能力者の大量生産というのは我々も看過できない問題です。正蔵忠次には伝えていませんが、彼は既にそれに対する作戦に移行しているのだと考えてください。」

 それを聞いて顔を顰める沙衣に、楓はしれっと別に軽蔑してくれてかまいませんよと言った。

 「命令違反をして単独行動の末に失踪という事実が、わたしの指示の元作戦に従事していたとなった方があなた方夫婦にも都合がいいと思いますが。二人で心中したいのでしたら好きにしてください。そうでないのならわたしの指示に従って作戦の遂行に尽力してください。あなたへの指示はその紙に書いてあります。それだけこなしてもらえれば後はこちらでなんとかしますので後は好きにしてください。状況によっては追加でこなしてもらわなくてはいけないことが出てくるかもしれませんが。この作戦については作戦終了まで公にしないように。また連絡します。」

 そう言って楓は立ち去っていった。その場に残された沙衣は渡された紙を握りしめ目を閉じると、深呼吸をしてから目を開いて一歩を踏み出した。


         ○                   ○


 忠次はかつて自分が教鞭をとっていた高校がある街に訪れた。自分が最後にここに訪れてから実に三十年近くが過ぎている。ずいぶんと街の様子は変わったが、その町並みに懐かしいものを感じて忠次は感慨深い思いがした。

 自分が教師をしていた頃の教え子である清水潔孝からのメールを見て、彼の死を知ってから数ヶ月。忠次はずっと何をすべきか、何ができるかを考えていた。訓練を受けたとはいえ軍人でない自分は軍人のような立ち回りはできない。軍の方針に口を出す権限もない。だから、まずは人間社会で好きなように動くための口実が必要だった。それさえできてしまえばあとはやるべき事は解っている。清水家の調査をし、全ての研究資料を廃棄し、現存する検体を葬り、全てを無に返す。そうすればもう沙衣を起因とした悲劇は起きない。でも、もし美咲のような生きた検体が存在していたら、それがターチェでなく保護ができない存在だったなら、その時はどうすべきなのだろうか。そんなことを考えて思い詰める忠次を沙衣がとても心配していたのは解っていたが、忠次は彼女に本当のことは話せなかった。彼女の不安や動揺が自分に伝わるように、彼女にも自分の不安や動揺が伝わってしまう。自分を心から心配している彼女に伝わらないように心の平穏を保たなくてはと思うが、彼女の顔を見る度に心が締め付けられて、忠次は辛くなった。彼女を不安にさせないように強がりたいのに、どんなに繕おうとしても彼女に全て伝わってしまう。大切な人の前で格好をつけることさえできないなんて、唯の儀とはやっかいなものだなと忠次は思った。そう思っては沙衣を抱きしめて愛してると伝えた。あなたのためだったら俺はなんだってする。人道にも反しているし、あなたはそんな事は望まないのは解ってる。でも、それで二度とあなたがあの時のように傷ついて思い詰めなくてすむのなら、俺は・・・。そんなことを考えて、本当にそれ以外方法はないのかと疑問に思って、忠次は結局何も覚悟が決められなかった。

 そんなことを続けていたある日、謎の報告書の出現騒動があった。結婚した後もコンピューター技術や自身が使える術式を駆使して沙衣をストーキングしていた忠次は、その過程でそれを知りチャンスだと思って、調査のために現地に行く人員として自分を売り込んだ。

 「お前の本当の目的ぐらい目星がついてんだよ。それで行かせると思ってんのか?」

 いつも通りの薄ら笑いでいつもとは違って酷く冷たい視線を向けられ、冷え切った声音で馬鹿にしたように成得にそう言われて、忠次は真剣な目を彼に向けた。

 「報告書の内容が事実なら俺の目的はこの国の驚異の排除にもなる。軍人でない俺が勝手にそれを行うというのは悪くない案だと思うが。」

 そう言う忠次に成得は是とは言わなかった。

 「一般人が口を出すな。それともお前、腹くくって入隊するか?確かにお前はうちの部隊に欲しい人材だが、現段階で軍人として使い物になるようなレベルじゃない。入隊したとしても最低三ヶ月はみっちり訓練させるし、その間に戦況は動いてお前が現場に出られるようになる頃にはこの件は片がついてる。人一人殺したこともない挙げ句、本気の殺気向けられて震えてたような素人に何かできると思うなよ。解ったら引け。」

 そう言った成得から殺気を向けられて、忠次はそれに耐えた。

 「殺気を向けられたぐらいでもうすくんだりしない。あの場所ならこの国の誰より俺の方が詳しい。清水家に関しても。そして俺にはつても技術もある。戦闘訓練も受け、難易度の高い術式の使用も可能だ。」

 暫く見つめ合ってから、成得が口を開いた。

 「私情に支配された感情は作戦の成功率を下げるぞ。今のお前が冷静だとはとても判断できないし、絶対にお前を行かせるわけにはいかない。そもそも一般人のお前が内部情報を不正に取得し、こうして俺と対峙しているということが問題だと解ってないのか?今の時点でお前はここで俺に殺されてもおかしくないということが解ってるのか?」

 薄ら笑いを引っ込めた成得に見据えられて、忠次は理解した上でここにいると答えた。それを聞いて成得が大きなため息をついた。

 「お前の沙衣へのストーカー行為を容認しておくべきじゃなかったな。何を知っても行動さえ起こさなければ見逃しておこうと思ってたが、それが甘かった。もうお前はアウトだ。お前は絶対あいつを苦しめるようなことはしないと思ってたんだけどな。」

 そう言って成得は好きにしろと言った。

 「お前の行動は完全にアウトだがまだうちに危害が及ぶようなものじゃないから、今のところは目を瞑っておいてやる。どうせ死ぬなら好きなようにして死んでこい。それくらいの恩情はくれてやる。だが、もし途中でこちらに危害が及ぶような事態になったら、その時はお前の目的が途中だろうがなんだろうが容赦なくお前を殺す。」

 そう言って成得は指令書を書いて忠次に渡した。

 「まだ引き返せる。沙衣はああ見えて直情的だから絶対お前を追って無茶するぞ。それこそ自分の命捨ててでも。お前は本当にそんなこと望んでんのか?あいつともっと腹割って話した方がいいんじゃないか?今ならまだ引けるし、引かないとしてもお前が上手くやったならごまかしてやることだってできる。だから行動するときはよく考えてからにしろ。お願いだから、俺に二人も友達を殺させるようなまねしないでくれ。」

 そう懇願するように言う成得は、忠次がうまく目的を果たせるとは思っていない様子だった。彼が指令書を書いてよこしたのは、そうしなければ今すぐ自分を殺さなくてはいけない事態になることが目に見えていたからだと忠次には解っていた。そしてその時点で彼は正蔵夫妻を殺す覚悟を決めた。彼が、どっちに転んでも殺さなくてはいけないのならわずかでも殺さないですむ可能性がある方にかけてみたということが解っていたから、忠次は心の中で彼に謝って、自分のわがままをきいてくれたことに感謝した。

 自分がこの街に戻って来る事になった時のことを思い出して忠次は目を閉じた。解ってる。自分一人で目的を果たすのは不可能に近い。人間だったときだったら確実に不可能だっただろう。でも今の自分ならやってできないことはない。そんなことを考えて忠次は最初の目的地へ向かった。

 駅前の琴葉という喫茶店の前に立った時、忠次はなんともいえない思いが溢れてきた。ここは忠次が高校の教師になったばかりの頃の教え子が経営している喫茶店だった。龍籠を出るときに、一人で行動するのは限界があるでしょうからと楓からある人物を頼るようにメモを渡されていた。その人物との待ち合わせの場所がこの喫茶店で、待ち合わせの相手の名前が村上(むらかみ)香澄(かすみ)。ここの経営者の小林邦(こばやしくに)(ひろ)と学生時代いつもつるんで悪さばかりしていた村上(むらかみ)辰也(たつや)と同じ名字の人物。どう考えてもあいつの関係者にしか思えない。そんなことを考えながら忠次はドアを押して中に入った。

 「いらっしゃいませ。」

 そう言って顔を上げた人物を見て忠次は思わず年取ったなと呟いていた。邦宏が怪訝な顔をして忠次の顔を凝視し、驚いた声を上げる。

 「お前、忠次か?嘘だろ。全然歳食ってないじゃん。どうすればそんな若いままを維持してられんだよ。なんかヤバい薬でもやってるのか?」

 それを聞いて忠次は笑って薬には手を出してないよと言って、カウンター席に腰を掛けた。

 「邦宏、久しぶりだな。元気そうでなによりだ。」

 そう言うと戸惑った様子の邦宏が曖昧に返事を返して来る。

 「お前、本当に忠次か?そっくりさんとか息子とかで俺のことからかってんじゃないのか?最後に会ったのもう三十年くらい前なのにその頃と全然見た目変わってないってどうゆうことよ。俺らもう五十八だぜ?お前どう見てもまだ三十代だろ。いってどうにか四十ジャストくらいならまだ見えなくもないかもしれないけど、その見た目で五十八はない。」

 そんな邦宏の言葉を聞いて忠次は、これが普通の感覚だよなと思った。自分が年をとらなくなって久しく、周りの人物も皆歳をとらない事が当たり前の環境で過ごしていたので、人間が年をとるという当たり前感覚が薄れていた。人は年をとり老いて亡くなるという当たり前の流れを理解しているはずなのに、それがすっかり遠いものになっていた。

 「大陸に渡ったときに知ったアンチエイジング方を実践してるんだよ。俺の奥さんは若々しくて美人だからな、彼女に釣り合う男でいるために頑張ってるんだ。身体も鍛えてるし、昔より今の方がマッチョだぞ。」

 そう言う忠次を見て邦宏はため息をついた。

 「確かに昔より厳つくなった気はするな。昔からお前のやること現実的じゃないし、お前なら何でもありな気がするよ。実は不老不死の薬を開発して飲みましたって言われてもお前ならあり得る気がする。」

 そう言う邦宏に忠次は笑って、そんな非現実的なことあり得るわけないだろ、と言った。だよなと言って笑い返す邦宏を見ると忠次は妙な安心感に包まれた。

 「そういや奥さんってお前結婚したのか?若くて美人って、もしかしてお前の奥さんってさ、ここにも連れてきたことあるあの巨乳美少女?あの大人っぽくて妙に色気があったあの超美人の女子高生?」

 ふと思い出したようにそう言い出して興奮気味で問い詰めてくる邦宏の勢いに、忠次は苦笑した。

 「間違ってないけど、根本的なところが間違ってる。彼女は生徒の保護者で、当時もう成人していた。一人暮らしだったところに事情があって遠縁の親戚の子供を引き取ることになった関係でいきなり高校生の保護者になっただけで、当時彼女には配偶者もいなかったし不倫とかもしてないからな。」

 それを聞いた邦宏は軽蔑に近い視線を忠次に向けた。

 「ずいぶんと大人びてるなとは思ったけど、あの子実際に大人だったのかよ。十七・八くらいにしか見えなかったけど単純に童顔だったってことか。ってか、生徒の保護者に手を出して自分の勤める高校の制服着せて連れ回すとか変態だな。何、お前そういう趣味があるの?制服プレイとか好きな感じなの?お前確実に教師とかしちゃいけない人種だわ。良かったな、あの頃に教師辞めておいて。絶対お前ニュースとかになるアレだわ。」

 そう暴言を吐かれて忠次は酷いなと呟いた。

 「確かに告白するのは清原の卒業を待ってからにすべきだったとは思うが、彼女が制服を着ていたのは彼女が学校に通ったことがないと言っていたから学生というのを体験させてあげようと思ってのことだし、放課後一緒にいたのは彼女の買い出しの手伝いを申し出たからであって連れ回してなんかいない。故郷に帰った彼女を教師辞めて追いかけて行って結婚するまでは手だって出してない。ん?結婚する前にキスはしたから、あれは手を出したことになるのか?でも彼女がこっちにいた間は手を出してないからな。そもそもあの頃は付き合ってすらいなかったし。付き合ってもないのに何かするわけがないだろ。」

 真面目にそんなことを言う忠次を見て邦宏はどん引きしていた。

 「昔から思ってたけど、お前本当にズレてるわ。マジで頭おかしい。そんでもってそんなお前を受け入れるとか、お前の奥さんもそうとうおかしい。たまたま童顔で違和感なかったけど、いい年した大人が高校の制服着てそこら辺歩き回るってかなりの羞恥プレイだぞ。そんな提案したら普通どん引きされて終わりか、下手したら通報されるレベルだからな。」

 そう言われて忠次はそうかもしれないなと思った。彼女は本当に天然で、出会った当時だって自分の異常な行動を少しもおかしいと思わずに受け入れてくれていた。普通に受け入れて、生徒のためにここまでするなんて政木先生は良い先生ですね、政木先生が(のぶ)君の担任の先生で良かったです、なんて言って笑っていた沙衣の姿を思い出して忠次は胸が温かくなった。口調も表情も今の沙衣はあの頃と全然違う。でも中身は今でも変わらない。今でも彼女は純粋で、まっすぐで、繊細で、傷つきやすくて、怖がりで。この人の傍にいてあげないとといつだって思うのに。どうして俺は今あの人を置いてここにいるんだろう?今でも彼女を愛してる。彼女のためなら何でもしたいと思う。でもこれは本当に彼女のためか?彼女はこんなことは絶対に望まない。彼女を置いて俺が一人で危険な橋を渡る事なんて絶対に望む訳がない。それが解ってるのに、彼女のためを言い訳にどうして俺は清水家を崩壊させようなんて考えてここにいるんだろう?そんなことを考えて、忠次は自分の中に広がっているもやもやを意識した。

 「琴葉が亡くなってからお前は結局ずっと独り身通してるのか?」

 忠次がそう訊くと、邦宏はずっと一人だよ、もうこの年じゃ誰か探そうって気にもなれないしなと言って笑った。

 「あの頃は本当に若くてバカだったな。高校出てすぐ琴葉のこと孕ませちまって、でも結婚したいつったら俺たち両方親に勘当されて、未成年だったせいで結局結婚できなくて。お互い進学した先退学することにもなったし、世間は俺たちみたいのには冷たいしで、お前がいなかったら二人でのたれ死にだったと思うよ。」

 そう言って邦宏は懐かしそうに思い出話をし始めた。

 「同い年なのにあの頃からお前は本当に凄かったな。お前が天才なのは知ってたけど、あんなことさらっとやってのけるとは思ってもみなかった。急に放り出されて途方に暮れてた俺たちの所にお前来て俺たちの境遇なんてたいしたことないみたいなこと言ってさ、これからどうしたいだとか、将来の夢とか、暗い話しじゃなくて明るい未来を想像させてさ、そんな中で、琴葉がやりたいって言ってた喫茶店を二人でやろうって話になって。そんな夢みたいな話し無理だろって思ってたのに、お前はちゃちゃと事進めちまって、気がついたらここに店開けることになってて、あいつ凄く喜んでたんだよな。なのにここが完成する前にあんなことになって、子供はあいつの親に取り上げられるし、罵倒されるし。あの頃お前や辰也がいてくれなかったら俺はあいつのこと追って自殺でもしてたかもなって思うよ。」

 そう言うと、邦宏はサービスだと言って忠次にコーヒーを差し出した。

 「俺もあの頃は若かった。結局、子供を取り返してやることもできなかったし。今思うとあんな状態のお前らに勝手にお膳立てして急に店の経営しろとか無理難題押しつけるなんて、何をやってるのかと思うよ。」

 そう言う忠次に邦宏は感謝してると笑った。

 「ここがあったおかげで俺は生きられたしな。あの時の俺にはもうここしかなかった。あいつが楽しそうに話してた夢を、あいつと描いた夢を守りたい一心で必死になれたし、必死になることで現実逃避できた。収入基盤はお前から教わった株が主だから、店は趣味みたいなもんで好きなように拘れたしさ。おかげで辰也の趣味にも付き合わされて、ここは秘密基地みたいなもんになっちまったけどな。あいつに子供ができたらできたで子供達の第二の家みたいになってるし、あいつの子供の成長見ながらそこに自分の子供重ねてさ、琴葉が夢見てた未来ってこんな感じだったのかな、なんて考えながら辰也の代わりに子供達の世話焼いてるうちに気がついたらもう六十近くだぜ。あいつの子供たちがさ、俺の子供じゃないのに俺の子供みたいな感覚でさ、別に新しく家庭なんか持たなくても今のままで充分な気がするんだよ。」

 そんな邦宏の言葉を聞いて忠次は、辰也の奥さんは?と訊いていた。辰也の放浪癖は昔からだからあいつが無責任に子供を置いてふらふらしているのは理解できるが、話しに母親が出てこないことが気になった。

「あいつ結婚してないよ。俊樹の時は、まだ赤ん坊だったあいつを急に連れてきてこいつ俺の子供だからよろしくって世話させられるし。それでもまだ俊樹の時は小学校に上がるくらいまではちゃんと一緒に暮らしてたけど、香澄の時なんか小学生だった俊樹に世話押しつけて姿眩ませやがったからなあいつ。そっから放浪癖がそれまでよりはるかに酷くなって、今もどこで何してるのか解らないし、本当にあいつはこの年になってもガキの頃のまんまだよ。」

 そう憤慨する邦宏を見て忠次は、あいつは今でもバカな正義の味方ごっこ続けてるのか?と訊いた。それを聞いて邦宏が苦笑して、ごっこじゃなくて今も昔もあいつは本気で正義の味方してるつもりなんだよ、と答えた。

 「人を巻き込むわけにはいかないとか言って一生独身宣言してたくせに子供こさえてくるし、昔から俺たちのことは平気で巻き込んでくるし、自分の子供に英才教育施して後継者に仕立てあげるし、やることなすことめちゃくちゃだけどな。」

 それを聞いた忠次は、危険な遊びに子供を巻き込むとはどういうつもりだ、と憤った。

 「そう怒るなよ。あいつにはあいつの考えがあってのことだろ。あいつのやることははちゃめちゃだが、別に子供に強制したわけでもないし、それに何かできる事がある、やれることがあるって言うのは良い目眩ましになる。子供にやらせてる仕事っていうのは自分が本当にやってる事から子供達の注意を逸らすための目眩ましなんだよ。んでもって大切な何かがあるっていうのはあいつ自身のモチベーションにもなるんだろ。お前が憤るのも解るけど、人の家庭のことに口出すなよ。どうしても出したいなら、あいつ捕まえて直接やってくれ。」

 そう言われて忠次はそれもそうだなと言って矛を納めた。

 「お前にだから言うことだけどあいつはもう引けないところまで来てるんだよ。あいつの娘な、あいつが清水家から盗んできた何かの研究の完成品なんだ。そんなもん盗み出して、あいつは清水家の闇を光の下に引きずり出して制裁しようなんて大それた事を本気でしようとしてた。俺はあいつを止めることもできなかったし、頼まれたとおり子供達の面倒見るくらいしかできなかったけど、お前ならあいつを見つけ出して連れ戻すことも、あいつを助けることもできるんじゃないか?」

 そう言って邦宏は、いくらお前でもそれは無理だよな、忘れてくれと言って困ったように笑うと話題を切り替えて世間話をし始めた。

 「なぁ、邦宏。もしも辰也に子育て押しつけられてなかったとして、お前が良いなって思える女性が現れて、その人に一緒になりたいって言われていたらどうしてた?琴葉のこと忘れられたか?」

 忠次がそう話しを振ると邦宏は困ったように笑った。

 「そうだな。琴葉のことを忘れることなんてできないよ。忘れられないけど、それも受け入れて一緒になりたいって言ってくれる人がいたとして、それで俺もそいつと一緒になりたいって思うなら、この店は畳むかな。一緒にやってくれるって言ってもきっと畳む。ここはあいつの夢で俺がやりたかったことじゃないしさ。俺は夢に目を輝かしてたあいつの横にいたかっただけだから、隣にいるのが別の誰かになるならこの店はもう卒業すべきだと思うから。」

 そう言って琴葉を偲んでいるように見える邦宏を眺め、忠次はそうかと小さく呟いた。そうやって二人で他愛のない会話をしながら、忠次は色々な事を考えた。沙衣のこと。自分自身のこと。自分たち夫婦のこと。これから自分がしようとしていること。しなくてはいけないこと。何が正しいのか解らない。自分が本当に何をしたいのかも解らない。

 入り口の鈴が鳴り、邦宏がにこやかに挨拶した。その視線を追って入り口を見て忠次は一瞬固まった。邦宏から辰也の子供達だと紹介されて、感慨深い思いがすると同時に、心の奥になんともいえないもやもやが広がった。そこにいた少女。邦宏が清水家の研究の完成品だと言っていた辰也の娘。彼女には沙衣の面影があった。あぁ、この子は例の研究の検体だ。ぱっと見ただけでも混ざり物が多い彼女はターチェであるはずがない。本当にターチェではない沙衣の血を引いた生きた検体が存在していた。そう考えて忠次は自分がどうするべきなのか解らなくなった。楓さんの言っていた協力者は間違いなく彼女だ。でも彼女は自分がその相手だと気がついていない。ならここはこのままごまかして、約束をすっぽかされたと思ってもらおう。そう思ったのに、結局香澄に自分が楓から言われた協力すべき相手だとバレて、忠次は全力で協力を拒絶した。

 兄妹が店から去って行き忠次は肩の力を抜いた。

 「兄は妹の事情を知ってたみたいだが、あいつが知ってるってお前は知ってたのか?」

 俊樹から渡された記録媒体を眺めながら忠次がそう訊くと、邦宏は知らなかったと答えた。

 「子供って言うのは大人の知らないところで成長してんだな。今の俊樹見てそう思ったよ。」

 そう言う邦宏を見て忠次は、あの兄妹に余計なことさせるなよと釘をさした。

 「それが辰也の願いでもあるんだろ?なんとかできるかは解らないが、兄の方に言った通り俺がここに来た目的は清水家を潰すことだ。あいつも似たような目的で動いてるならどっかで会うこともあるだろ。会ったら説教してくるよ。」

 それを聞いた邦宏が任せたよと言ってきて、それを聞いて忠次は琴葉を後にした。

 忠次はかつて沙衣が身投げして自殺しようとした場所に来て街全体を眺めた。沙衣、解ったよ。俺は君のために清水家を潰したいんじゃない。ただどこかに八つ当たりがしたいだけなんだ。君の弱さも君のトラウマも解っているのに、君にかつて心の底から愛して添った相手がいてその相手との間に子供がいたことも知っていたのに、全部理解した上で君と一緒になったはずなのに、それでも今君が俺を心の底の底では受け入れきれていないという事実が辛いんだ。前の旦那さんに嫉妬して、君が俺を受け入れることを躊躇する原因になった事柄に憤って、それの元凶である清水家に怒りの矛先を向けてるだけなんだ。本当は、いつまでも過去を引きずって俺を拒絶する君に憤って、それで君が置いていかれることを酷く恐れていることを知っているのに、君に相談すらせず一人でここに来た。ずっと君のためを想ってきた。ずっと君の気持ちがちゃんとできるのを待っていた。いつだって君に寄り添って、君の不安を取り除くように心がけてきた。君が願うことならなんだって俺は受け入れてきた。本当は君に危険なことはしてほしくないとか、安全な場所で待っていてほしいとか、そういう自分の気持ちは全部我慢して君の望む通りにしてきた。そうしていればそのうち君が心から安心できるようになる時が来て、本当に心の底から一緒になれる時がくると思って・・・。

 「本当に昔から君は人の気持ちが解らない。辛いのは君だけじゃないんだ。俺だって辛いし、苦しいんだよ。いくら寿命がなくなったって俺はまだ人間の平均寿命すら生きてない若造だぞ。君にとったら三十年なんてあっという間かもしれないけど、俺にとったらずいぶんと長い時間なんだよ。」

 そう呟いて忠次は胸が締め付けられる思いがした。いくら同じ時間を生きられるようになったって実際に生きてきた時間の差は埋められない。ずっとごまかしていた。自分の憤りを考えないように、感じないようにしてきた。だけど沙衣、このままじゃ俺は嫉妬や憤りで狂ってしまいそうだ。君はきっと俺を追ってくる。俺を止めにじゃない。俺を連れ戻すためじゃない。きっと俺と死ぬために君はやってくるんだろ?沙衣、愛してる。だから、俺が完全に狂ってしまう前に、俺がまだ君を心から愛しているうちに、君への愛が憎しみに変わってしまう前に、俺と一緒に死んでくれないか?そんなことを考えて忠次は涙を流した。違う、そんなことを俺は望んでいない。俺は君を幸せにしたんだ。沙衣、愛してる。この街には君との思い出が溢れていて、所々でそれが蘇っては君の姿が見えるよ。好きだ。今でも、本当に大好きだ。俺は君と生きたいんだ。そのために人間をやめてまで君を追いかけて行ったんだから。でも沙衣、俺はもう一人じゃ止まれない。だから、もし俺を追ってきてくれるなら、一緒に死ぬためじゃなくて、一緒に生きるために俺を見つけ出して、俺の暴走を止めてくれ。


         ○                   ○


 沙衣は三十数年ぶりにかつて自分が暮らしていた街に訪れた。なんとなくかつて自分が住んでいた場所に足を伸ばし、まだそこに家があることを確認して安堵に似た思いが湧いた。周囲や住人に気づかれないように様子をうかがう。表札の名前、そして家の中で団欒する家族の様子を見て胸の中に暖かいものが溢れてきて、それが涙に変わりそうな気配がして沙衣はその場を後にした。大人になって家庭を持った伸君の姿が見られて良かったと思う。家の中はだいぶ改築されているが、それでもあそこに住み続けてくれていると言うのも嬉しかった。そんなことを考えて沙衣は忠次に想いを馳せて、わたしと一緒にならなければ彼もこういう家庭を築いていたのかもしれないなんて考えて辛くなった。沙依の妊娠を知ってから彼の感情が揺れることが多くなった。きっと彼も本当はこういう家庭を築きたいのだと思う。でもきっと、わたしの気持ちを慮って、ずっと我慢して、わたしを追い詰めないように何も言わないでいてくれていた。

 気がつくと沙衣は自分が自殺しようとした場所に来ていた。風龍を呼び出してその背中を撫でる。ここから身を投げた時のことを今でも覚えている。その時忠次さんから言われた言葉も覚えている。その前からきっと彼に惹かれていたのだと思うが、きっとあの時が彼に恋した瞬間だった。初対面の日に告白された時は驚いたが、その時と変わらずずっと想い続けてくれていることが嬉しかった。人間をやめるなんていう大きな決断をして彼が追いかけてきてくれて、彼と一緒になれて嬉しかったはずなのに、なんでわたしは彼をちゃんと大切にしなかったのだろう。

 「ここでわたし、人の気持ちも考えろって忠次さんに怒られたんだ。他にも色々怒られて、本当にわたしのことが好きなんだって伝えられて、あの時わたし反省したはずだったんだがな。」

 そう呟いて沙衣の目から涙が流れた。忠次さんが酷く苦しんでいるのは知っていた。自分に相談もしないでいなくなった後も、彼が何度も辛い思いに身をやつしていることを知っている。彼が強く自分を呼んでいるのを感じていた。なのに、わたしは自分の事しか考えていなかった。彼がどうして苦しんでいるのか訊こうとすらしなかった。自分のことが嫌になったのではないか、自分といるのが辛くなったのではないか、人間をやめたことを後悔しているのではないか、そんなことが頭をよぎって怖くて何も訊けなかった。そのくせ彼を失うことが怖くて、彼の感情が大きく揺れると不安になっていつだって彼の元に駆けつけた。今は彼の感情が大きく揺れているのを感じても駆けつけることができない。彼がどこにいるのかも解らない。それに対しても自分を置いていなくなった彼に憤って自分の非を考えなかった。彼はいつだってわたしのことを想ってくれているのに。こんなにわたしに向けた彼の心の叫びが伝わってくるのに、どうしてわたしはこれを見て見ぬふりをし続けてたんだろう。今でも彼はちゃんとわたしを愛してくれているのに、唯の儀をして繋がって、言葉にしなくたってそれを実感できるのに、どうしてそれを無碍にし続けてしまったんだろう。自分が傷つくのが怖いからって逃げて見ないふりをして、昔も今もわたしは自分勝手でどうしようもない。わたしは結局忠次さんに甘えきってたんだな。そんなことを考えて沙衣は風龍の背中に顔を埋めた。

 「沙依お姉さん?」

 そう声が聞こえて、沙衣は顔を上げて声のした方を向いた。そこにはひょろりとした長身で酷い癖毛の三十代半ばくらいに見える男性が立っていた。見覚えのない男の姿に沙衣が眉根を寄せると、男は、河原(かわはら)(しゅう)()だと名乗った。

 「覚えていませんか?あの頃の私は幼かったのでぱっとは思い出せないかもしれませんが、昔祖父が開業医をしていた所にあなたは時々手伝いに来てくれていて、私もよく面倒をみてもらいました。」

 そう言われて沙衣は記憶を掘り起こして、あっと声を上げた。

 「河原医院のシュウ坊か。ずいぶんと大きくなったな。全然解らなかった。」

 そう言う沙衣に修二は、もういい大人なのでシュウ坊はやめてくださいと言って苦笑した。

 「祖父から、あなたは祖父が幼かった頃から姿が変わらないとは聞いていましたが、実際にこの目で自分が子供の頃と変わらない姿のあなたを見ると不思議な感じがします。」

 そう言って近況等を話してくる修二の言葉に沙衣は耳を傾けた。

 「あの小さかったシュウ坊がこんなに大きくなって今じゃ立派なお医者さんか。時間の流れを感じるな。」

 感慨深げにそう言ってから沙衣は少し表情を曇らせた。小さな子供が成長し、大人になり、独り立ちして、人生の折り返し地点に近づく程の時間。一般的な人間の寿命さえまだ超えていない忠次さんにはそれはどんなに長い時間だっただろう。そうやって忠次のことを考えると沙衣は胸が苦しくなった。

 「沙依お姉さんはどうしてこの街に?」

 そう問われて沙衣は言葉を詰まらせた。それを見て修二は何か事情があるんですねと言って言葉を続けた。

 「もし行く当てがないのなら私が管理しているアパートの部屋が空いているので来ませんか?汚くて古い建物ですが雨風をしのぐくらいはできますよ。あと粗暴な不良警官が住み着いていますが、根は悪い奴ではないですし、もし何かしたら追い出すので安心してください。」

 そう言われて沙衣は少し考えてからその提案を受け入れた。潜伏先がないわけではない。でも、忠次さんを見つけ出すには自分を餌に清水家と関わりのあるものに接触し情報収集、内部に入り込むのが一番に思う。それをするには見つかりやすい場所にいた方がいい。彼には迷惑をかけてしまうかもしれないが、利益の無い余計ないざこざはあちらも仕掛けては来ないだろうから危険に巻き込むようなことはそうそうないだろう。

 「家賃もろくに払わずにうちに居座っている不良警官がいろいろ面倒な人間なので、あなたのことは祖父の医師仲間の孫で、祖父が健在だった頃はうちの診療所によく遊びに来ていた私の幼なじみということにでもしておきましょうか。どうみても今じゃ自分の方が年上なのに沙依お姉さんと呼ぶのもおかしいので、沙依ちゃんと呼んでも良いですか?」

 そんなことを修二が言い出して沙衣も、ではわたしはシュウ坊のことを河原先生と呼ばせてもらおうかなと言った。そうして沙衣は修二の管理するアパートに拠点を定め、忠次の捜索にあたることにした。

 修二について彼の管理するアパートに着き、沙衣は彼が不良警官と称する塩田(しおた)源蔵(げんぞう)に紹介された。源蔵はあからさまに胡散臭そうな視線を向けてきたが沙衣は気にしないことにした。怪しまれて話題にあげられることも、それで調べられることも好都合だった。情報司令部隊の把握している情報によれば、自分がこの街で暮らしていた頃には存在しなかった特殊監房という存在は清水家の保有する実験施設にあたるらしい。それを考えると以前自分がいたときよりもはるかに清水家の勢力は増し、強大な権力を手に入れている。そして警察という組織ももはや清水家の傘下だと思っても過言ではないということだろう。この国はもはや清水家の手の内で回されている。それが良いことなのか悪いことなのか沙衣には判断がつかなかったが、ただ自分にとって気持ちの良いものではない事だけは確かだった。

 修二に案内された部屋で荷解をし、沙衣はこれからのことを考えた。楓から渡された紙には清水家を崩壊させるための作戦が記されていた。約一ヶ月後、沙依の未来視でこの国全土で大きな地震が発生することが確認されており、それを利用しての大規模作戦。作戦の規模に対し作戦に当たることができる人材はわずかで、楓がどのようにそれだけの規模の作戦を仕上げるつもりなのか沙衣には解らなかった。そのなかでの沙衣の役割は何人かの人物の暗殺。騒がれないように病死や事故死に見せかけて清水の重要な人物を殺すことが沙衣に当てられた任務だった。暗殺対象が清水家の人間というのも沙衣にとって好都合だった。どうせ清水に接触するつもりなのだ、自分の目的のついででできる。

 「忠次さん。忠次さんは今どこにいるんだ?」

 そう呟いて、沙衣は忠次に想いを馳せた。清水先生からのメール。清水先生の死。陽陰からの報告書。清水家の研究。そして今だって痛いほど伝わってくる自分への想い。清水家の研究員が残っている限り、いや人間の知的好奇心や欲求が続く限り、検体を全て葬ろうが研究データや資料を抹消しようがそれこそ研究員を根絶やしにしたって、何をしてもいずれ同じような研究は行われ、同じような実験が行われて被害者は生まれる。それが悪かと言われればそうとも言い切れない。何かを生み出すためには犠牲はつきものだ。きれい事だけでは発展はあり得ない。だからといって人間を根絶やしにしてしまえば良いなんて発想もありえない。彼なら何をしても一時しのぎにしかならないことが解っているはずだ。それでも彼が何かしようとするならば、それは研究を止めるためじゃない。新たな犠牲者を増やさないためでもない。

きっと忠次さんは、わたしを根源にする研究を二度とさせないために、わたしと繋がりがある検体を抹消するつもりだ。

 そう考えがいたって沙衣は胸が締め付けられた。あり得ないと思う。でもそれ以外に忠次が失踪した理由が思い付かなかった。忠次さんそれは無理だ。だって清水家は静江ちゃんの遺体からわたしと勢三郎のコピーを作り出した。技術が発展すれば、もっと離れた血縁関係の人物からでもそれができるようになる可能性だってある。それに美咲のように自我を持った生命として活動している検体ももう存在しているかもしれない。そもそもわたしに繋がる全てを消し去ろうなんて、そんな行動は忠次さんらしくない。もしかして忠次さん、あなたが失踪してからずっとわたしの心に響くわたしを呼ぶこの叫びは、わたしに止めてほしいから?そう考えて、沙衣は天井を仰ぎ見た。

 自分が自殺しようとしたときのことを覚えている。崖から身を投げたわたしを忠次さんは抱きしめて一緒に落ちていった。他人を自分の自殺に巻き込んではいけないと、風龍を呼び出してわたし達はその命をつなぎ止めた。あの時の忠次さんは泣きそうな顔をしていた。無事で良かったとわたしを抱きしめて優しく撫でてくれた。あなたに何かあったら俺がどんな思いをすると思っているんですか。自分のことを大切にしないのは自分を大切に思ってくれている人への冒涜ですよ。そんなことを言われ、他にも色々と沢山小言を言われ、怒られて、そして彼はわたしを強く抱きしめて無事で良かったと泣きそうな声で呟いた。沙衣にとってその出来事は本当に大切な思い出だった。その時のことを思い出すと沙衣はいつでも胸が温かくなった。でも改めてその時のことを思い出してみると、忠次にとってはあの出来事はトラウマになっているのではないかと思えてきた。自分にとって幸せで大切な記憶が、相手にとって同じとは限らない。だから忠次さんは・・・。

 わたしのせいだ。沙衣はそう考えて、その考えを振り払った。確かにわたしのせいかもしれない。でも、そうやって自分の中に引きこもって逃げたらあの時と同じだ。わたしが成長しないから、わたしが前に進むことを怖れているからあの人を追い詰めた。いつまでも逃げていたらいけない。いつまでも逃げていたら、今度は忠次さんを失ってしまう。あの人はいつだってわたしを助けて支えてくれた。今はわたしがあの人を助ける番だ。そう考えて沙衣は決意を固めた。


         ○                   ○


 あぁ、彼女が来ている。忠次はそう感じて自分の胸に手を当てた。自分を想う彼女の気持ちが伝わってくる。沙衣、俺には解るよ。君の感じている想いで、俺には君がどこにいるのか解る。君は今あの場所にいるんだね。そして俺を想ってくれている。沙衣。もう二度と君にあんな思いはさせない。君にあんなことはさせない。君には笑顔がよく似合うから、俺は君にずっと笑っていてほしいんだ。そのためだったら俺は・・・。そんな事を考えて、琴葉で会った少女の姿を思い出して、忠次は頭を押さえた。どうかしてる。彼女のために誰かの命を奪おうなんて、そんなことをしたらそれこそ彼女から笑顔を奪ってしまう。そんなこと彼女が望むわけがない。そもそもそんなことをしたって問題は解決しない。検体を全て抹消しても、彼女の因子がなくなるわけじゃない。彼女の血を引く全ての人間を殺すことなんてできるわけもない。そう考えて狂気に走りそうになる自分の感情を抑えつつ、頭の片隅に、彼女が望むわけがないというのは自分が人殺しをしたくないからそれを言い訳にしているだけではないのかという考えが浮かんできて、忠次は頭が締め付けられるように痛んだ。

 自分を呼ぶ沙衣の声が聞こえた気がして忠次はふと我に返った。そうだ、今自分がしているのはただの八つ当たりだった。だから関係のない人間を殺す必要はない。だれも手に掛ける必要もない。ただ清水家の研究をめちゃくちゃにできればそれでいい。そして沙衣のためというならば、娘さんの遺体を取り戻すことが先決だ。長い間実験に使われどれだけ残っているのかは解らないが、あの清水家がオリジナルに最も近い検体を全て使い切るはずがない。いくらそれを元にその代役とするべくクローンを作ったとはいえまだどこかに保管されているはずだ。そう考えて忠次は今まで調べた清水家の情報を洗い直した。

 清水家は特殊監房という目立つ拠点を築き、その裏側では以前よりはるかに闇に潜った。昔に研究施設を破壊され検体を盗まれ、その後にも何人かの職員や重役が襲撃され機密情報が漏洩したうえに何者かに施設に潜入されてデータを盗まれた経験があるだけあって、今のセキュリティーは以前の非ではなかった。表向きの職員と後ろ向きの職員は全く別だし、それどころか後ろ向きの職員は戸籍などの記録さえ抹消され存在すらしていないことにされている。これでは沙衣も以前のように職員を捕まえて拷問して吐かせるなんてできないな。ハイテクな調査方法が不得意な彼女がどうやったら俺の所まで追いつくことができるだろう。彼女自身を餌にしたところで研究が最終段階に入ろうとしている今の状態では彼女の確保は優先順位が低いから、とりあえず監視はしておいて泳がせられるのがおちだ。監視も街の至る所に設置された監視カメラで行動を見張られる程度だろうから、監視されていると気がついても彼女にそこから追跡することはきっとできない。そう考えて、忠次は今まで自分が調べあげた全てをまとめてデータ化し、俊樹から受け取った記録媒体に保存した。

 作業を一通り終えると忠次は一つため息をついた。まぶたを閉じるとはっきりと沙衣の姿が底に浮かんで胸が苦しくなった。沙衣。君は今どんな思いで俺を追ってきてるんだ?今君がどんな気持ちでいるのかは伝わってくるよ。またそんなに自分を追い詰めて、君はいつだって大切なことが解ってない。君は俺に追いついてそれからどうするつもりなんだ?沙衣。ちゃんと君の想いを君の口から聞きたい。ちゃんと君が想いを伝えてくれるなら、君がどんな選択をしたとしても俺は君の願う形に従うよ。そんなことを考えながら忠次は記録媒体に音声データを残した。

 コンピューターから記録媒体を取り出して忠次はそれを眺めた。いったいこんなものを作って俺は何がしたいんだろうな。沙衣がこれを手にすればきっと俺が何をしようとしているのか、俺がどこにいるのかも伝わると思う。これを作ったのは彼女に自分を捕まえてほしいからだとは解る。でもどうやったらこれが彼女の手に渡るっていうんだ。彼女に会いたい。でも会いに行けない。俺はもう立ち止まれない。今のまま自分から彼女の元に戻ることはできない。そんな事を考えて記録媒体を握りしめた。清水家の研究データや機密情報が詰まったこんなもの、間違って下手な人間に渡ればそれこそ大変なことになるのに俺はこれを人の手に託すのか?そんなことを考えつつ、半ば自暴自棄に忠次はこの記録媒体を元の持ち主である俊樹に託すことにした。


         ○                   ○


 調査を始めて二週間が過ぎた現在、沙衣は大した手がかりが掴めずにいた。楓から受け取った情報を元にある程度の範囲は絞ったがそれでも候補が多すぎて、手当たり次第当たって忠次を見つけるということはあまりにも現実的でない運に頼った方法だった。それでも今の沙衣にはそれしか方法がなかった。ダメ元で清水潔孝邸を調べたが案の定手がかりにあるような情報はなにも残されていなかったし、内部情報を知っているであろう人物は暗殺対象者であり、下手に接触し拷問して吐かせることもできなかった。向こうからの接触もない。こんな状況でいったいどうすれば彼に追いつくことができるのだろう?そんなことを考えて鬱々とした気持ちになった所に、入るぞと声がして了承もなく源蔵が部屋に入ってきて沙衣は憤った。

 「何の用だ?許可する前に人の部屋に入ってくるな。」

 そう言うと源蔵は見下したような視線を向けてきて、人の留守中に勝手に人の部屋に入って家捜ししてた奴に言われたかねぇよ、と吐き捨てた。

 「お前、俺が警官だって忘れてないよな?何にも盗られちゃいないが、お前のやったことは立派な犯罪だ。逮捕するぞ。」

 あくどい笑みを浮かべながらそう言って手錠を指に引っかけてくるくる回す源蔵を見て、沙衣は好きにしろと言った。

 「その程度の罪で逮捕された所ですぐ釈放される。それとももっと重大な犯罪を犯したとでっち上げてわたしを監房送りにするか?」

 沙衣がそう挑発すると源蔵は笑みを引っ込めて眼光鋭く睨み付けてきた。

 「お前は何を探ってる?特殊監房のことか?それとも高校教師殺害事件か?初めて会ったときから思ってたけど、お前あの事件の被疑者と似てるよな。関係者か?」

 そう問われて沙衣は言葉に詰まった。

 「お前がこそこそ何かしてんのは解ってんだよ。お前は本当はどこの誰で、何の目的でここにいる?」

 ドスのきいた声で源蔵に怒鳴りつけられて、沙衣は黙り込んだ。その様子を暫く眺め続けて口を開かないと解ると、源蔵は沙衣に詰め寄り顔を近づけ低い声で恫喝した。

 「都合が悪くなったらだんまりかよ。お前、警察内部のこと探ってるだろ?ここに来たのも俺に近づくためか?そのくっそエロい身体使って俺からなんか聞き出そうって魂胆だったのか?あぁ?言ってみろよ。本当のことをさ。」

 そう言いながら源蔵の手が伸びてきて、力強くそれを払って沙衣はわたしに触れるなと叫んで彼を睨み付けた。それと同時に部屋に男が飛び込んできて源蔵を投げ飛ばし、大丈夫かと問いながら沙衣の方を見た。その瞬間男の目が見開かれて一瞬固まる。

 「あなたが母親か。」

 男のその呟きの意味が解らなくて沙衣は顔を顰めた。この男は何者だ?いったいわたしを誰の母親だと思っている?そんな疑問が頭を浮かんだ時、男から涼花はあなたと清水潔孝の娘かと言われて、沙衣は余計訳がわからなくなった。わたしの子供は静江(しずえ)ちゃん一人しかいない。清水先生とはそんな関係になったことはない。そもそも涼花とは誰だ?そんな疑問が沙衣の頭を巡った。

 男が木村浩文きむらひろふみと名乗り自身の素性を明かし封筒を差し出してきて、沙衣は状況が理解できないままそれを受け取り中を確認した。記録媒体と何か書類の束が入っている。書類の束を取り出して表紙をめくり、そこにあったものを確認した瞬間、沙衣は思わず叫びそうになった。違う、これは勢三郎じゃない。どうにか叫びを飲み込んで、そう自分に言い聞かせて心を落ち着かそうとするのに、目に映るそれが勢三郎が死んだときと重なって、手が震えて涙が溢れてきた。それは血まみれで横たわる清水潔孝の写真だった。違う、勢三郎が死んだのはもっと若い時だった。これは勢三郎じゃない。そう自分にいくら言い聞かせても、勢三郎に瓜二つな潔孝の命が絶えた姿が勢三郎のそれと重なって、夫を亡くしたときのあのときの痛みが蘇ってきて、どんなに押さえようとしてもあの日の記憶が鮮明に蘇り止めどなく涙が溢れ、沙衣は気が狂いそうになるのを必死に押さえつけた。

 あの日は良い天気だった。あの日勢三郎は早く帰ってくると言っていた。娘も嫁いで落ち着いたから、また二人で旅に出ようと約束していた。二人でわたしの故郷を捜す旅に、生きている仲間を探す旅に出ようと約束していた。そのためにあの日彼は仕事を辞め、早く帰ってくるはずだった。二人とも旅には慣れていた。野宿も慣れていた。旅賃がつきてもその場でなんとかする術も持っていた。だから仕事を辞めたってかまわないと彼は言っていた。残りの人生を、残されるわたしのために遣いたいのだと言ってくれた。わたしはそれが嬉しくて、胸を躍らせて彼の帰りを待っていた。故郷が見つからなくても良かった。仲間を見つけることができなくても良かった。ただ彼の気持ちが嬉しくて、また彼と旅ができることが嬉しかった。そして彼が老いてその命を終えていくのを、ずっと彼の傍にいて最後まで寄り添って看取るのだと思っていた。そんなことを思いながら退職した彼を労うためにわたしはご馳走を作って待っていた。なのに、勢三郎はいつまで経っても帰ってこなかった。外が薄暗くなっても帰ってこない彼が心配になって彼を探しに行ったその先で、血まみれで倒れている彼を見つけた。動かない彼を見てわたしは現実を受け入れることができなかった。見つけたときには既に事切れていたのに、わたしは必死で彼を呼んで、揺すって、そして・・・。

 「お前、本当にあの事件の関係者と繋がりがあったのか?」

 源蔵のその声で沙衣の意識がこの場所に戻った。彼の顔を呆然と見つめて、問われた内容をようやく認識してそれを肯定する。

 「塩田さんはわたしが怪しいことをしていると思っていたのにわたしを調べなかったのか?」

 そう沙衣が問い返すと源蔵は難しい顔をした。

 「調べたさ。調べたけど、あんなめちゃくちゃな記録を信じろって言うのか?調べた結果はお前の胡散臭さが増しただけだ。」

 それを聞いて沙衣はこれが普通の反応かと思った。人間が、人間じゃないわたしの存在を最初から普通に受け入れられる方がおかしいのだ。勢三郎だって最初は人間じゃないわたしを殺しに来た。最初からわたしという存在を受け入れてくれていたわけじゃない。そんなことを思い出して、お前になら殺されてもいいと伝えたときの勢三郎はわたしの自殺を止めにきたときの忠次さんと同じような顔をしていたな、と沙衣は思った。そういえば忠次さんに惹かれたきっかけは彼に勢三郎を重ねたからだった。姿も声も全然似ていない。でもその眼差しや行動の端々に勢三郎の姿が重なった。忠次さんと出会って勢三郎が恋しくなった。そんなことを思い出して、沙衣の脳裏に忠次の姿が鮮明に蘇った。次々と忠次との思い出が溢れかえってきて、沙衣は彼に会いたくなった。そういえば忠次さんは最初からわたしのこと普通に受け入れてくれていた。忠次さんはいつだってわたしの全てを受け止めようとしてくれていた。あぁ忠次さん、わたしはあなたのことが好きだ。わたしは今凄くあなたに会いたい。会って話がしたい。

 書類に目を通しながら沙衣は二人と話しをした。浩文に了承を得て記録媒体の中を確認し音声データに目がいって、それを再生した。コンピューターから忠次の声が聞こえてきて沙衣は思わず彼の名前を口にして息をのんだ。聞き慣れた彼の声がいつもと違った響きで聞こえる。解る。彼はわたしを待ってる。彼もわたしと会いたがっている。

 『沙衣、愛してる。』

 その言葉が耳の奥で響いて、沙衣は心の中でわたしも愛してると呟いた。彼に会いに行かなくては。これは彼からわたしに宛てたメッセージ。このデータの中にわたしの知りたいものはある。その一心で沙衣は記録媒体の中のデータを片っ端から確認した。確認しながら沙衣は忠次を傍に感じていた。解る。これを知った時の彼の気持ちが。これを作っているときの彼の気持ちが。あの人の元に行かなくては。沙衣は荷物をまとめ浩文に忠告をして部屋を出た。

 アパートを出て、沙衣は一度振り返った。陽陰。お前にとって彼はいったいどんな役割を持った駒なんだ?お前が何を考えて何を成そうとそんな場所にいて行動を起こしたのかは解らないが、あまり無関係な人間を巻き込むことは感心しないぞ。沙衣はそうかつての同僚に想いを馳せ、踵を返して忠次の元へ向かった。


         ○                   ○


 忠次は清水家の保有する隠された施設の一室に姿を現した。自分が得意とする空間移動の術式はとても便利だと思う。移動できる距離や範囲は自分の力量次第でその日の体調でも変わるし、出現場所の設定には細かい注意が必要だが、一瞬で遠い場所に移動できこうやって警備に引っかかることもなく目的の場所につけることはとても便利だった。

 『お前は人間をやめたんだな。』

 そう機械を通した音声が聞こえて、忠次はお前もなと言葉を返した。お前らもって言った方がいいのか、と言い直して忠次は言葉を続ける。

 「ハッキングに対するセキュリティーがどう考えてもコンピューターまかせじゃなかった。でも人間が全てを管理するなんてできるはずがない。疲れも知らず、休みもせず、ミスなく活動し続けられる人間なんていない。それだけのためにそれができる優秀な人材を何人もさくなんて事をするわけもない。だからこんな事じゃないかとは思っていた。」

 そう忠次が視線を向けたのは大きなコンピューターだった。

 「あいつらが天才を作りたかったのはこういうことだったのか?それともお前を検体にした実験で利用価値を確信して回収したのか?」

 忠次のその言葉を受けてコンピューターから音声が返ってきた。

 『そもそもお前は何のために天才を作り出す実験をしていたと考えている?本当に天才を作り出すプロセスを導き出すためだけにあれだけの量の検体を清水家が作ったと思うのか?』

 それに対し忠次は何も答えなかったが、音声は言葉を続けた。

 『俺は元々こうなることを前提に作られた個体だ。お前と同じ前提で全てを人工的に作られ、お前と違い全てを管理された研究所で育った。俺は生まれたときからこのシステムを管理するためにコンピューターに組み込まれることが決定されていた個体で、そのための教育を思想の段階からすり込まれた個体だった。だから元々俺には自由なんてなかった。俺が俺たちを作り出した研究のデータを全て消したのは自由になりたかったからじゃない。俺は自分の代わりをつくらせないためにデータを消した。特別な存在は俺だけでいい。』

 それを聞いて忠次は目を伏せた。

 『外の世界で生きていたお前らが自由になれたのは研究データが消えたからじゃない。いずれ俺の一部になる時のために様々な経験を積ませ情報を蓄積させるためだ。データが消えたところであの実験の検体がどこの誰でその所在も解っているのだから問題はなかった。そして基準を満たした個体は時期になれば回収され皆俺の一部になった。基準が満たせなかった個体以外で俺の一部になっていないのは最早お前だけだ。お前は俺の中で最も回収順位の高い個体だった。清水のバカ共はお前の工作に騙されてお前を失敗作だと決めつけていたが、俺はお前が一番の成功個体だと思っていた。今こうして人間をやめてここに立つお前を見て、自分の認識が正しかった事を確信したよ。』

 そう言う音声を静かに聞き終えてから、忠次は口を開いた。

 「自我が残っているのがお前一人だけで助かったよ。そしてお前があのときデータを消したのが自分の身を投げ出して俺たちを自由にしようとしてのことではなくて本当に良かった。」

 『時間稼ぎのために話しをしていたのはお互い様という訳か。』

 そう言う音声に忠次はそうだな、と返した。こいつは俺の脳みそがほしい。俺はこいつが抱えてるデータがほしかった。欲しいものはもう手に入った。そしてこいつを壊す準備も整った。忠次はここにたどり着くまでに色々な事を考えて今という状況にたどり着いた。その間、自分を追ってきている沙衣の様々な思いも伝わってきて、沢山彼女のことを想った。そして彼女が感じた身が裂かれるような心の痛みが酷い衝撃として自分に伝わってきたとき、忠次は自分がすることを決めた。俺は彼女を愛してる。たとえ彼女が以前の夫や娘のことを忘れられず過去に縛られたままでも。自分がそれに酷く嫉妬し、自分とのことに前向きになってくれないことに腹を立てていたとしても。それでも俺は彼女を愛してる。だから彼女の過去を受け止め一緒に背負っていけるように、俺は彼女の夫だった人と娘の遺体を清水家から取り戻す。彼女が故人を想って手を合わせられる場所を作ることで一緒に過去と向き合っていけるように。彼女が大切に想っていた人たちが死んでなおもう二度と尊厳を失わなくてすむように。

 『お前の目の前の箱を壊したところで自我を電子の海に拡散させている俺を消し去ることはできない。これを壊されたところでお前が手に入るなら充分に採算がとれる。お前の負けだ。』

 そう告げられて忠次は、それはどうかなと答え、組み終わった術式を発動させ目の前のコンピューターを破壊した。爆風に巻き込まれないように空間移動の術式を発動させ目的の場所へ移動する。そして目的のものの一つを手にした時、忠次はなんともいえない気持ちになった。元々一人分の遺体。それが今では自分の片手に収まる程度でそれが人の遺体とは見ただけでは解らない物体になっていた。娘のこんな姿を見たら沙衣はどう思うだろう。そう思うと忠次は苦しくなった。しかしまだ行かなくてはいけないところがある。そう気持ちを切り替えて、手にしたそれをしまい、忠次は次の目的の場所に移動しようと座標指定に入った。術式を発動させる前に殺気を感じ飛び退く。衝撃波が忠次を掠め、さっきまでいた場所のすぐ後ろにあった棚が破壊される。この場所には軍事開発で作られた清水家が抱える能力者はいないはずだ。なのにどうして?そんなことを考えながら攻撃が放たれた方を見て、忠次は一瞬思考が止まった。

 「辰也・・・。」

 そう呟いて、それが信じられなくて、忠次は目をこらした。その間にも次々に攻撃が放たれ、それを紙一重で躱していく。

 「嘘だろ、辰也。なんでお前が?」

 自分の声にも姿にも反応しない、意思の宿らない虚ろな瞳をしたかつての友人の姿。自分を殺すことしか考えていないその行動。現実ははっきりと目の前にあるのに、脳がそれを認識することを拒否していた。意味が無いと解っていながら必死に言葉を重ねていく自分の声が酷く遠く忠次には聞こえた。自分が混乱しているのか冷静なのか解らない。現実を受け入れられないのに身体は勝手に動く。何かの命を奪うということはとてもハードルが高いから、まずは自分の命を守ることを無意識でもできるくらい身体に染み込ませないといけないよ。自分に修練をつけていたときの沙依の言葉が思い出されて、忠次はこれがそういうことなのかとまるで他人事のように思った。

 「辰也。お前の帰りを待ってる奴らがいるぞ。いい年してバカやってないでそろそろ落ち着けよ。」

 「辰也。お前がしたかったのはこういうことじゃないだろ。」

 「いい加減に目を覚ませ。辰也!」

 そう叫んで忠次は反撃に出た。自分が放った衝撃波で辰也が吹っ飛び壁に打ち付けられる。起き上がって飛びかかってきた辰也の攻撃を躱しながら胴体に術式を乗せた掌底を打ち込もうとし、忠次は術式を発動させられずただの掌底を打ち込んだ。自分を殺しにかかる友人の姿を目の前に忠次は胸が締め付けられた。辰也の姿を見れば一目瞭然。彼が清水家の研究の実験体にされ壊されてしまったことは解る。でも・・・。そう感情が縛られた一瞬の隙に忠次は追い詰められ、正面からまともに攻撃を食らってしまった。壁に強く背中が打ち付けられ吐血し、そのまま床にずり落ちる。自分を殺しに来る辰也の姿が霞んだ視界に映って、声にならない声で忠次は友人の名を呟いた。

 「忠次さん!」

 意識が朦朧としかけたところに沙衣の叫びが聞こえて忠次は一気に目が覚めた。辰也の攻撃対象が沙衣に変わり、彼女に向かっていく彼の背中が見える。沙衣が殺される。そう思った瞬間忠次の身体は勝手に動いていた。辰也の身体がゆっくりと倒れその先にいた沙衣と目が合う。彼女が無事で良かったと思う。思うのに。これは何だ?辰也が倒れている。今、自分は何をした?この手の感触はいったい何だ?倒れたまま辰也が起き上がらない。視線を落とし呆然と自分の手を見つめ、忠次は自分が震えていることに気がついた。それに気がつくと目の前の状況が一気に現実として自分の中に入り込んできて、忠次は力が抜けたようにその場にへたり込んだ。

 辰也が死んだ。俺が辰也を殺した。俺が・・・。

 「忠次、教師っつっても同い年だろ?お前も一緒に嵌め外そうぜ。」

 そう笑った辰也の顔が忠次の脳裏に蘇った。

 「つまんないこと言うなよ。この学校のコンセプトは青春を謳歌せよだろ。なら教師も青春を謳歌したって構わないだろ。自分が謳歌してないのに生徒にはそれしろっていうのか?青春の醍醐味も解ってない頭でっかちがろくな教師になれると思うなよ。」

 「いいじゃないか少しくらい。ようはバレなきゃいいんだからさ。お前頭いいんだから、俺たちとバカしてもバレない方法考えろよ。つまんないより楽しい方が絶対いいだろ。世の中楽しんだもの勝ちだって。せっかく仲間に入れてやるって言ってんだからのっとけ。」

 「おっし、思いついた。俺たちで秘密結社作ろうぜ。悪を暴いて正義を成す謎の組織とか格好よくね?俺たちならできるって。」

 「やっぱお前すげーわ。さすが天才。この学校入れる時点で俺らもそこそこ頭いいはずなんだけどな、お前には敵わないや。まぁ、頭で勝てなくても顔なら俺の方が上だけどな。」

 「今日で卒業か。高校三年間ってあっという間だな。なんだかんだ言っていつも尻ぬぐいしてもらったし、お前同い年のくせに結局ちゃんと教師してたよな。いっちょ前に説教たれてくるしさ、本当お前ムカつく。一年の時は女子にどん引きされてたくせになんだかんだでモテてたのも腹が立つ。でもま、これで俺とお前は生徒と教師じゃないからな。見てろよ、お前に尻ぬぐいされなくても自分で自分の尻ぐらい拭けるようになってやるから。そしたら今度は本当に友達になろうぜ。」

 次々と溢れかえってくる辰也との思い出に押しつぶされて忠次は吐きそうになった。お前ならあいつを見つけ出して連れ戻すことも、あいつを助けることもできるんじゃないか?そう言った邦宏の顔が。もしどっかでくそ親父に会ったら、とっとと帰ってこいって伝えといてくれ。俺も妹も待ってるって。そう言っていた俊樹の顔が思い出されて忠次は声にならない声で呻いた。俺は、俺は・・・。

 「忠次。わたしを見ろ。」

 そう言う声が厳しい音で耳に響いて沙衣と目が合う。自分をまっすぐ見つめる瞳の力強さに暖かいものを感じて忠次は彼女に全てを委ねた。


         ○                   ○


 沙衣がその場所にたどり着いたとき目にしたのは、敵からの攻撃を受け吐血し崩れ落ちる忠次の姿だった。

 『殺しちゃダメ!』

 敵を排除しようとした時、そう言う沙依の声が頭の中で響いて、

 「忠次さん!」

 沙衣はそう叫んでいた。攻撃対象が自分に移り向かってくる敵の姿を確認し沙衣は迎え撃つ体制に入った。真正面からの戦闘は不得意だが、仕留めるタイミングを失った今はそれをやるしかない。沙衣が気を集中し、相手の攻撃に合わせて迎え撃とうとしたその瞬間、敵の動きが止まり、その身体が崩れ落ちた。そこに呆然と立ち尽くす忠次の姿を見て、君が無事で良かったと呟く彼の声が空しく響いて、沙衣は胸がざわついた。

 「忠次さん!」

 その場に崩れるように跪き身体を震わす忠次に駆け寄り沙衣はその身体を抱きしめた。

 「忠次さん。大丈夫。大丈夫だから。」

 ダメだ。反応が無い。このままじゃ忠次さんが壊れてしまう。沙依の声で幻聴が聞こえたのは彼の前で人殺しをすることに拒否感を覚えたからだと思う。彼にはそんな姿を見られたくないという意識が勝ったせいで、わたしが躊躇したせいで、わたしがちゃんと殺さなかったから、彼に手を汚させて彼をこんな風にしてしまった。わたしのせいで・・・。忠次を強く抱きしめながらそんなことを考えて、沙衣は思い直した。違う。今はそんなことを考えている時じゃない。甘ったれるのもいい加減にしろ、それでも龍籠の女か。しっかりしろわたし。忠次さんを失いたくないのならそのようにちゃんと行動しろ。いつまでも彼の優しさに甘ったれるんじゃない。今はわたしが彼を支え助ける時だろ。

 目を瞑り沙衣は彼に想いを馳せた。解る。彼の中に渦巻く感情が、処理しきれない感情に押しつぶされて壊れそうになっている彼の心が伝わってくる。いつも大きく頼もしく思えた彼の存在が今は酷く弱く小さく感じる。現実を受け入れたくないのなら逃げたっていいのに彼はそれをしない。そのまま向き合おうとすれば壊れてしまうのに逃げ出さない。変なところ酷く真面目で不器用で真っ直ぐで。そんな彼だからわたしは彼が好きだ。彼が逃げないことを選ぶなら、それならばわたしは・・・。

 「忠次。わたしを見ろ。」

 沙衣は忠次の頬に両手を添えると自分の方を向かせ、彼の目を真っ直ぐのぞき込んだ。彼と目が合って、彼が自分を認識したことを確認し、沙衣は語りかけた。

 「大丈夫だ、忠次。わたしが傍にいる。あなたの全てはわたしが一緒に背負うから。」

 見開かれた忠次の目から涙があふれ出て、沙衣は優しく微笑んだ。そっと彼を抱きしめその頭を優しく撫でる。大丈夫。彼の中にわたしが入っていくのが解る。

 「忠次。あなたの痛みも苦しみも全てわたしのものだ。あなたの全てはわたしの全て。唯の儀をした夫婦とはそういうものだ。」

 そう言って沙衣は目を閉じた。

 「忠次、愛してる。だからこれからもわたしと共に生きてくれ。一緒に帰ろう。」

 沙衣がそう言うと忠次が抱きしめ返してきた。すがりつくように強く抱きしめられ、沙衣はこの人はこんなに弱かったんだなとしみじみと感じた。

 「忠次、愛してる。」

 もう一度声に出して伝えてみる。わたしはこの人を愛している。だからもう逃げない。そう考えて沙衣はこれからのことを考えた。まずはここを無事に脱出しなくては。この状態の彼を連れて自分にそれができるのだろうかという不安が頭によぎったが、沙衣はそれでもやりきるしかないと腹をきめた。


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