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それぞれの未来へ  作者: さき太
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第一章 木村浩文編

 木村(きむら)浩文(ひろふみ)は鬱々とした気持ちで新しい配属先へと向かっていた。警察官である浩文が本日付で配属し就くことになった任務は、特殊監房の監視官だった。死刑制度が廃止されて久しい現代、死刑の代わりに導入されたのが特殊監房での終身刑だった。特殊監房行きになった囚人は一生そこを出られず、死ぬまで自由を奪われ承認前の薬物の人体テストなどに使われるという刑。導入当初は人権がどうだの何だのと言われることが多かった刑だったが、その刑を受ける対象が元来死刑を受けるほどの罪を犯した重罪人であることや、アルバイトを募集して臨床テストを行っていたのを囚人に移行するだけということもあり、現在は一般的に受け入れられていた。特殊監房に入れられた囚人には一人につき一人監視官がつくことになっていた。表向きには凶悪な犯罪者を厳重に監視し管理するためと言う事だったが、仕事内容は囚人と共に過ごし、囚人の要望を聞いてそれに答えること。ようは監視官とは特殊監房の囚人たちがストレス発散する為のただのサンドバックだった。つまるところ特殊監房勤務とは問題のある警察官が行かされる追い出し部屋だった。自分の問題行動が目立つことは承知していたが、実際に特殊監房送りになってみると浩文は何とも言えない気分になった。そこに配属されて病院送りになった者がいるとか、殉職した者もいるという噂だ。いったい自分がどんな目に遭うのかと考えるだけで憂鬱にもなる。だからといって一日も働かないまま辞職するというのも噂を恐れて逃げ出したようで癪に障る。だから、自分を辞めさせたいのも解ったしとりあえず一日だけでも働いてから辞めてやろうと思って、浩文は勤務地に向かって歩いていた。

 新たな自分の勤務先である特殊監房のある施設に到着した浩文は、自分が担当することになった囚人の資料を見て眉根を寄せた。杉村(すぎむら)(すず)()、十九歳、女性。高校教師一家惨殺事件の犯人。その事件は大きくニュースで取り上げられたこともあり浩文も覚えていた。犯行当時、彼女は十七歳。未成年だった彼女の顔がメディアに出ることはなかったが、十七歳の少女の凶行ということもあり、どこでも連日その話題で持ちきりだった。裁判で彼女は自分の無実を訴えていたとのことだったが、結局彼女は有罪となり、初犯で未成年であったにもかかわらず特殊監房での終身刑が言い渡された。あの事件には謎も多い。惨殺された一家の主人、清水潔孝しむずきよたかが彼女の通う高校の教師だったということ以外、清水一家と彼女の接点はなかった。そのため潔孝と涼花の間に何かあったのではないかとの下衆な憶測も飛び交ったが、潔孝は同僚や生徒からの評判もよく涼花と特段親しくしていた等の情報もなかった。実際の犯行動機は謎のまま、凶器も見つかっていない。そんな状況での終身刑。あの事件は全てがおかしいことだらけだった。

 浩文は資料を返却し、手続きを行って勤務に入った。実際がどうかは解らないが涼花が特種監房送りになった凶悪犯だという事には変わりない。若い女性だからと言って気を抜いていると痛い目に遭う可能性も高い。資料によると前任者は彼女に病院送りにされている。警戒していかなくてはいけない。そんなことを考えながら浩文は自分の担当の特殊監房へ向かった。

 特殊監房の一つ目の扉を生体認証システムでキーを解除し浩文が中に入ると、自動で鍵が締まった。囚人も逃げられないけどこれで俺も逃げられないな、なんて思って浩文は苦笑する。二つ目の扉を同じように開け中に入るとそこは普通のアパートの一室のような場所だった。キッチンと窓がないだけで生活に必要な家財は全部そろっているように思う。もっと殺伐としたところなのかと思ってたら普通の部屋だな、そんなことを浩文が考えながら室内を見渡していると、ここの住人が奥から姿を現して浩文は目を見開いた。

 「はじめまして、杉村涼花です。あなたが今日からわたしの担当になる木村さんですか?よろしくお願いします。」

 そう頭を下げられ、浩文も慌てて挨拶を返した。顔を上げた涼花に笑い掛けられて、浩文はどぎまぎした。想像してたのと全然違う。普通に礼儀正しいし話し方は穏やかで、しかもすごい美人だ。こんなおとなしそうな美人が一家惨殺事件の犯人なのか?いや、人は見かけによらないのかもしれないけど。そんなことを考えて浩文はまじまじと涼花を見てしまった。

 「あの、木村さん。そんなまじまじと見られると、わたし・・・。」

 そう言って恥ずかしそうに顔を伏せる涼花を見て浩文は固まった。うわっ、やばい。仕事だって忘れそう。この美人と二人きりでここで過ごすのが仕事ってさ、俺より彼女の方が危険なんじゃないか?いや、なんかしたら俺、確実に懲戒免職になるけど。

 「ここに入れられる人は皆凶悪犯だから、初めてわたしを見ると大抵皆さん驚かれるんですけど。だから驚かれるのも解るんですけど。あの、男の人にそんなに見られると、やっぱりわたし、恥ずかしくて。」

 そう言ってもじもじする涼花が可愛らしくて浩文は自制するのに必死だった。いや美人だからって騙されるな。こいつは前任者病院送りにしたような奴だぞ。一家惨殺事件はわからないけど、前任者を病院送りにしたのは事実だからな。これで気を緩めたところになんかしてくるのかもそれないぞ。そんなことを考えながらそれでも落ちそうになっている自分がいて、浩文は心の中で悶えた。

 「杉村さんは何かしてほしい事とかありますか?」

 浩文がそう訊くと涼花は驚いた顔をした。それを見て浩文が疑問符を浮かべると、涼花は少し辛そうに言葉を紡いだ。

 「今ままでそういうこと言ってもらったことなくて。わたし囚人ですし。その、こうやって普通に話をしてもらうのも本当に久しぶりで。まして何かしてほしい事とか訊かれたことなんてここに来て初めてで。」

 俯いて涙ぐみながらそう言う涼花に、浩文は監視官の役割には囚人のストレス緩和のために要望を聞いて答えることも含まれているのだという説明をして、これが自分の仕事だからなにかあったら好きに言ってくださいと伝えた。それを聞いた涼花が顔を上げて浩文を見る。

 「浩文さんがいい人そうで良かったです。」

 はにかんだ涼花にそう言われて、浩文は落ちた。

 「あっ、わたし、木村さんの事、浩文さんだなんて。今日お会いしたばかりなのに馴れ馴れしく、ごめんなさい。」

 慌ててそう訂正する涼花に浩文は、そのまま浩文でいいですよと言っていた。じゃあ、わたしのことも涼花って呼んでくださいね、なんて言われて浩文はもうどうでもよくなった。こんな美人と恋人みたいに名前で呼び合って、こんなアパートで同棲してるみたいな環境で過ごせるとかさ、これ俺の妄想なのかな。こんないい夢見れたならこの後病院送りにされようがなんだろうがどうでもいいや。そんなことを考えて浩文は、今日一日勤務したら辞めようと思ってたけどもう少し仕事続けてもいいかもしれないと思った。とりあえず今日を無事に過ごせたらだけど。

 「わたし囚人ですし、あなたより年下ですし、そんな敬語とかいいですよ。今までの人もずっとそうでしたし。敬語で話されるとなんだか不思議な気分です。」

 涼花にそう言われて浩文は遠慮なく敬語を止めた。本当、こうやって話してると全く凶悪犯に思えない。いつこれが豹変するんだろ?この子が本当に犯人なのか?前任者病院送りにしたっていうのも本当なのか?こんな華奢な身体で一応は訓練受けた警察官の男を病院送りにするとか無理じゃないか?そんなことを考えて浩文の警戒心はどんどん薄れていった。

 「こうやって普通に話すのが久しぶりってさ、今までどんな扱い受けてたんだ?」

 浩文がそう訊くと涼花は沈鬱そうに顔を顰め深く俯いた。

 「わたしは本来死刑になるような囚人だから人権なんかないんだと言われて、色々罵倒されたりしました。わたし、清水先生のことも先生の家族も殺してないのに、そのこと色々言われたりとか。前の人は清水先生のことまで酷い事言って、先生はいい先生だったのに、先生がわたしに酷い事なんてしたことないのに。先生から色々されてたんだろって、自分にもやらせろって、そんなこと言われて襲われそうになって、わたし、無我夢中で必死に抵抗して・・・。」

 そんな話をしながらぽろぽろ涙を流して泣きだしてしまった涼花を見て、浩文は慌てた。どうしていいのか解らなくて、とりあえずタオルを持ってきて渡す。それを受け取って涙をぬぐうと、涼花は涙の後が残る顔で微笑んだ。

 「今度の人が浩文さんみたいな人で良かったです。こうしてるとなんだか自分が囚人じゃなくて普通の人に戻れたみたいです。ありがとうございます。」

 そう言う涼花に浩文は、冤罪を晴らそうと言っていて、それを聞いた涼花が驚いた顔をしていた。

 「裁判の時だって無罪を主張してたし、君はやってないんだろ?ならこんな所にいるのも、そんな扱いされるのもおかしいだろ。冤罪を晴らしてここを出よう。」

 そう言う浩文に涼花は悲しそうな顔でお礼を言った。

 「でも、一度ここに入れられたら再審もしてもらえないし、絶対に出られないんでしょ?」

 そう言う涼花を浩文は力強く勇気づけた。

 「そう言われてても、犯罪を犯してない人間が極刑を受けるなんてあってはいけない。やってないんだろ?なら諦めるな。徹底的に調べ直して俺がお前の冤罪を晴らしてやるから。約束だ。俺がお前をここから出してやる。」

 それを聞いて涼花は顔を歪ませてまた涙を流した。お礼を言いつつそれでも無理だと言い続ける涼花に、浩文は何度も同じことを繰り返し言い聞かせた。浩文はいつも独断で単独行動に突っ走って、組織の方針に従わないでたてついてばかりで、何回か組織が出した結論を覆して組織の顔に泥を塗ったりもした。そんなことをしてばかりいてここに送られる羽目になったのに、浩文はそれを止める気にはならなかった。正義の味方になりたくて警察官になった。なら、辞めさせられるその時まで自分の正しいと思うことを貫いてやる。浩文はそう思っていた。

 「わたしのこと信用するんですか?」

 そう言う涼花に浩文は笑い掛けた。

 「調べれば本当のことが解る。それでお前が本当に犯人だったとしても、お前はもう極刑になってるんだから状況は変わらないだろ?でもそれでお前が無実なら、無実なのに極刑に処せられてる奴が一人助けられるんだ。なら調べるしかないだろ。無実なら胸張って堂々としてろ。そして俺を信じろ。こう見えて警察学校を首席で卒業した有能な警察官だぜ。本当のことを絶対に見つけ出してやる。」

 そう言って浩文は自分の胸を叩いた。

 「二年も前のことで記憶も曖昧になってるかもしれないが、事件当時のことを話してくれるか?」

 浩文にそう促されて涼花は、はいと返事して笑った。そしてどこから話せばいいのかわからないけれどと前置きをして話し始める。

 「わたし、両親のどちらにも似てなくて、それで赤ちゃんの取り違えがあったんじゃないかって話になって、家の中がギスギスしてて、あの頃それでわたし悩んでたんです。それで授業中の様子もおかしかったみたいで、生徒指導の清水先生が声を掛けてくれて、それでわたし清水先生にそのことを相談しました。清水先生は親身になって聞いてくれて、わたしが本当のことが知りたいって言ったたら先生が調べてくれることになったんです。それであの日はその結果を受け取る約束をしていて先生のお宅を訪ねました。呼び鈴を鳴らしても誰も出てこなくて、ちょっとお庭から中を覗いて見たら人が倒れてるのが見えて、それでわたし中に入ってしまって。そこに警察の人がやって来て、わたし捕まってしまって。訳が分からないまま気付いたら裁判になって、有罪になって、こうなってました。」

 涼花の話を聞いて浩文は、どこから家に入ったのか、鍵はかかっていなかったのか、中の様子はどうだったのか、清水邸に行くまでは何をしていたのか、向かう途中で何か見なかったか等色々と確認を取りながら頭を働かしていた。当時の調査資料を見直したいが、開示権限がない自分が勝手に見ることはできない。そもそも極刑が下されてる事件の再調査なんてやらせてもらえるはずがない。調査資料をどう入手するかは今後考えていくとして、とりあえずは自分の足で調べられるところから調べよう。そう考えて浩文は口を開いた。

 「涼花。とりあえず何でもいいから俺に毎日買い出しやらなんやら、外出する用事を申し付けてくれないか?そうすれば俺はそこそこ外で自由に動ける。」

 浩文のその言葉に涼花は、じゃあ毎日わたしに駅前にある琴葉という喫茶店のカフェオレ買ってきてください、と言って笑った。

 「浩文さんは本を読みますか?もし読むなら浩文さんのお勧めの本とか、あと落書き帳とか、そういう物が欲しいです。」

 そう言って涼花は浩文の手を取った。

 「浩文さんの気持ちは嬉しいですが無茶はしないでくださいね。本当はいけない事なんでしょ?せっかく浩文さんみたいな人が来てくれたのにいなくなってしまったらわたし嫌です。本当の子供じゃなかったかもしれないし、極刑を言い渡されるような娘です。裁判前だって一回も面会に来てくれなかったし、きっと両親はもうわたしのことは切り捨てていると思います。こうやってわたしの味方になってくれるのはもう浩文さんしかいません。冤罪を晴らしてくれなくてもいいですから、お願いです、わたしを独りにしないでください。」

 涼花に伏し目がちにそう言われて、浩文は頭から湯気が出た。出勤する時は憂鬱だったけど、俺ここに配属になってよかったのかもしれない。普通に生きてたらこんな美人とお近付きになれることも、こんな風に必要とされることも絶対ない。彼女の話が全部本当なら、思春期の真っただ中で、自分が両親の子供じゃないかもしれないなんて悩みを抱え、犯罪に巻き込まれて冤罪で極刑、そして二年もこんな場所に監禁され監視官からひどい扱いを受けていたなんて、絶望しかなかったに違いない。彼女が本当に犯人だったとしても、事件当時十七歳だった少女が極刑になってこんな目に遭うのはおかしい。十七歳の少女が急に世間から切り離されて、二年間も孤独と不安に耐えてきたのは紛れもない事実だ。だから今日会ったばかりの俺なんかでもちょっと優しくされたら縋りたくなるのも当然だと思って浩文は辛くなって、涼花の手を握り返した。

 「涼花。気をしっかり持て。俺は手伝えるが、お前の未来はお前の手で切り開かなきゃダメだ。ちゃんと生きてけるように強くならなくちゃダメだ。このままでいいなんて逃げちゃダメだ。お前が一人で立てるようになるまで、俺はお前の傍にいて支えてやる。お前を独りにはしないから、だから一緒に戦おう。」

 力強い浩文の言葉に涼花は驚いたように目を見開いてから、すっと目を細めて笑った。その顔が酷く大人びて見えて、さっきまでの弱弱しさが感じられなくて、浩文はドキッとして思わず見とれてしまった。

 「ありがとうございます、浩文さん。わたし強くなれるように頑張ります。だから、これからよろしくお願いしますね。」

 涼花がはにかんでそう言って、それを見た浩文は心の中で悶えた。涼花が美人じゃなくてもきっと同じことはしたけど、やっぱり美人からこういう事言われるとモチベーションの上がり方が違う。彼女の為ならなんだってやってやろうと思ってくるもんな。そんなことを考えて、浩文は自分の下心を必死に抑えた。


         ○                   ○


 浩文は駅前の喫茶店琴葉でコーヒーを飲みながら事件の整理をしていた。最初は涼花から頼まれたカフェオレを買いに来ただけだったが、浩文は今ではすっかりここの常連になっていた。静かな店内は考え事をするのにうってつけだったし、どこからも死角になっているテーブル席があり、マスターは余計な詮索はしないでくれるので事件の整理をするのにはうってつけだった。特殊監房内はカメラで監視されている。再調査していることがバレるのは問題ないが、再調査がどこまで進んでいるのかは気付かれるわけにはいかない。本当なら涼花も交えて整理をしたいところだが、あの中で下手なことはできなかった。だからここの存在は浩文にとってありがたかった。

 最初琴葉でマスターにカフェオレを頼んだ時、メニューにないと言われて浩文は戸惑った。人から頼まれてと言うとマスターは困ったように笑って浩文を死角の席に案内して、実はと言って話し始めた。

 「カフェオレはうちのバイトの子が牛乳がないとコーヒーが飲めなくて、自分用に勝手にうちの冷蔵庫に常備して作ってるんですよ。それをお友達が来た時に勝手に提供してるみたいで困ってるんです。どうしてもとおっしゃるのでしたら、もう少しでその子がバイトに入る時間なので待っていてもらってもいいでしょうか?」

 そう言われて浩文は了承した。そんな裏メニューを知ってるなんて涼花はその子と仲良かったんだろうなと思って浩文はそのバイトの子からも話が聞きたいと思った。

 「失礼ですがどうかこのことは内密に。あと、今後もしカフェオレを頼む時はその子がいる時間にこの席に着いてこっそり注文をしていただいてもよろしいでしょうか?」

 マスターにそう言われて、浩文はそれも了承しコーヒーを注文してバイトの子を待った。そうして暫くしてやってきた少女は綺麗な子で、姉妹かと思うほど涼花に面差しが似ていて、浩文は驚いた。

 「わたしがかわいいからってあんまりじろじろ見るのはダメだよ、お兄さん。」

 そう言われて浩文は謝った。そして彼女がカフェオレの子か確認し、少し話ができないか訊いてみる。

 「もしかしてナンパ?」

 少女にそんなことを言われて浩文は腹が立った。誰がお前みたいなガキナンパするか。そう思ったが、堪えてナンパでないことを伝えると、少女はなんだ残念と言って笑った。

 「お兄さんかっこいいから、付き合ってあげてもよかったのに。」

 そうからかうように少女がそう言ってきて浩文はまた腹が立った。

 「思ってもないこと言って大人をからかうんじゃない。」

  そう言う浩文に少女は悪びれた様子なく謝って自己紹介をした。

 「ごめんね。お兄さんがあまりにも人の顔じろじろ見てたからちょっとからかってみちゃった。わたし、村上(むらかみ)香澄(かすみ)。よろしくね。」

 そう屈託なく笑ってくる姿に浩文は毒気が抜かれてため息を吐いた。

 そうやってふとここに初めて来たときのことを浩文が思い出していると、声がかかった。

 「あ、浩文さんいらっしゃい。今日も来てたんだ?毎日ヒマそうだね。いい年してもしかしてフリーターなの?かっこ悪い。」

 香澄にそう言われ浩文は、現職警察官だよと答えた。

 「警察官って毎日こんな時間にぶらぶらしてられるんだ?暇なんだね。この税金ドロボー。」

 からかうように香澄がそう言ってきて浩文はため息を吐いた。こうやって高校に通いながら放課後はバイトをして楽しそうに過ごしている香澄を見ると、涼花のことがいたたまれなくなってくる。本当は涼花だってこういう青春を送っていたはずなのだ。なのにある日突然その日常が奪われ、今だって本当はおしゃれやなんや楽しんでいたい年頃のはずなのに、毎日グレーの囚人服に身を包み、たいした娯楽も未来への希望もなく過ごしている。そんなことを考えて浩文は苦しくなった。

 「浩文さん涼花さんの事件調べてるんだ?」

 気が付くと香澄が手帳をとって覗いていて、浩文は慌てた。そんな浩文を見て香澄は大人びた笑顔を向けた。

 「大丈夫。内緒にするよ。」

 そう言うと香澄はマスターにちょっと休憩してていい?と聞いて浩文の席に着いた。

 「こう見えてわたし頭いいんだよ?ここら辺じゃ一番偏差値高い高校行ってるし、テストじゃ上位常連だしね。だから涼花さんの事件の再調査なんて表立って出来ないってことぐらい理解できるよ。浩文さんが何でわたしに涼花さんの事きいたり、毎日ここに来てたのかもこれで理解できた。」

 そう言って香澄は目を伏せた。

 「わたしは涼花さんとほとんど関わりないんだけど、うちのお兄ちゃん、涼花さんと同級生で同じ陸上部で仲良かったみたい。お兄ちゃんクールであまり感情的になる人じゃないけど、涼花さんが捕まった時はすごく憤ってた。だから、わたし浩文さんの邪魔はしないよ。絶対誰にも言わない。」

 そう言って香澄は真っすぐ浩文を見つめた。

 「ねぇ浩文さん。都市伝説って信じる?この喫茶店には噂があってね、何か欲しいものがあったら、この席に座ってペーパーに水で欲しいものを書いて置いておくと欲しいものが手に入るんだって。もし浩文さんが何か手に入れたいものがあるなら試してみれば?案外本当に手に入っちゃうかもよ。」

 そう言ってニシシと笑う香澄に浩文は、俺は女子高生じゃないんだから、と苦言を漏らした。願掛けみたいなもんだと思ってさ、ほらやってみてよ、なんて言われて、結局香澄に促されるまま浩文はペーパーに水で涼花の事件の調査資料と書いていた。水はすぐ乾いてそこには少しくしゃくしゃになったペーパーが残る。こんなんで本当に手に入ったら苦労しないんだけどな。そんなことを考えて浩文は苦笑した。

 「涼花さんとわたし、年も微妙に離れてるから同じ時期に同じ学校に通ったことないんだけどさ、中学生になった時わたしよく先生とか先輩とか知らない人に涼花さんの妹と間違えられてた。わたしは他人の空似ってやつだと思ってたんだけどさ、涼花さん有名人だったし、わたしと涼花さんが姉妹じゃないかって噂がワッて広がって、涼花さんの家は変な風になっちゃった。あの事件があって涼花さんの両親がDNA鑑定したら、涼花さん本当にあの人たちの子供じゃなくてさ、どっちとも血がつながってなくて、それであの人達は自分たちの子供じゃないって関係ないって開き直って、涼花さん見捨ててどっか行っちゃって。わたしどうしようもない気持ちになった。良く解らないけどうちにも色々言ってくる人が沢山いてさ、どうしていいのか解らなくて、怖くて、辛かった。うちお母さんいないし、お父さんは放浪人でたまにふらっと帰ってくるくらいでほとんど家にいなくてさ、家に頼れる大人がいなくて。でもお兄ちゃんや近所の人たちがわたしのこと必死に守ってくれて嬉しかったな。でさ、お兄ちゃんはどっかに身を隠そうって言ってたんだけど、なんかそうしたら涼花さんのことわたしも見捨てることになる気がしてわたしそれを拒否したんだ。今こうしてこうやって浩文さんに会えて、ここに残ってて良かったなって思ったよ。浩文さん、涼花さんの事助けてあげてね。」

 普段の天真爛漫さが消えて静かにそう言う香澄を見て、浩文は任せろと言っていた。

 「浩文さんって本当にかっこいいね。浩文さんから見たらわたしなんて子供なんだろうけどさ、あと二、三年してわたしがもう少し大人になったら、付き合ってくれる?」

 そう言う香澄に浩文は、何言ってんだと言った。

 「お前が大人になるころには、俺は三十近いおっさんだぞ。今だってお前ら高校生から見れば十分おっさんだろ。俺なんか将来性もないし、せっかく器量よしに生まれてんだから、わざわざこんなおっさん捕まえてないで同年代の将来性のあるいい男でも捕まえろ。」

 そう言う浩文に香澄は、本当に残念そうに残念と言った。

 「こんな美少女からの告白断るとか、浩文さんありえない。後悔しても知らないんだからね。」

 そう唇を尖らせて言う香澄に、自分で自分の事美少女って言うなよ、と浩文は突っ込んだ。確かに美少女だけどさ、初めて会った時から思ってたけど、お前自分の容姿に自信持ちすぎだろ。ちょっとは謙遜しろよ。そんなことを考えて浩文は呆れた気持ちになった。


         ○                   ○


 「いつもありがとうございます、浩文さん。」

 そう涼花に笑い掛けられて浩文は胸が高鳴った。嬉しそうにカフェオレを口にする姿を見ると暖かい気持ちになる。こうやって見ると涼花と香澄は本当に姉妹のように似ているな、なんて考えて、香澄もあと二、三年したらこんな風になるのかな、なんて思って、浩文はないなと思った。まず何年たっても香澄には涼花のような淑やかさが身につくとは思えない。それに姉妹のように似てて二人とも容姿端麗だけど、系統がちょっと違うもんな。涼花は完全美人系だけど、香澄はかわいい感じのほうが強い。背も涼花の方が高いし、全体的に涼花の方がすらっとしてて、顔立ちも涼花の方がしゅっとして凛としてて確実に涼花の方が美人だと思う。でも胸は香澄の方がでかいな。カフェオレの入ったカップを持つ手を目で追っていて、ふと涼花の胸が目に入って浩文はそんなことを思った。大丈夫、ない訳じゃない。ちょっと控えめだけどこれくらいあれば充分。むしろ涼花にはこれくらいの方が似合ってるというか、小さいのを気にする涼花を・・・

 「あの、浩文さん。さっきからその、視線が・・・。」

 涼花のその声を聞いて浩文はハッとした。やばい、今意識が完全にエロい方向に行ってた。恥ずかしそうに目を伏せている涼花を視界にとらえ、浩文は焦って必死に謝った。ぼーっとしてがっつり涼花の胸見ながら妄想するとか何やってるんだ俺は。バカだろ。そんなことを考えていると、浩文さんも男の人ですもんね、なんて困ったような顔で言われて浩文は消えたくなった。いくら自分のドストライクの清楚系美人だからってエロい目で見て妄想して本当にごめんなさい。浩文は罪悪感で胸がいっぱいになって泣きたくなった。

 「浩文さん、疲れてるんじゃないですか?頑張ってくれるのは嬉しいですが、たまにはちゃんと休まないとダメですよ。」

 涼花がそう言って、良かったら寝室使って少し横になったらどうですかなんて言ってきて、浩文は胸が痛くなった。こんな気遣ってくれるとか、涼花って本当いい子だよな。本当、アホな事考えてすみません。あと、普段涼花が使ってる寝室で横になったりなんかしたら俺なんかいけない事しそうだから、これ以上何か妄想膨らませたら俺ここにいられないから。そんなことを考えて浩文は涼花の提案を断った。

 もし涼花とどうこうなりたいと思ってもそれは涼花の冤罪を晴らして外に出てからの話だ。この状況で何かするとか絶対許されないからな。自分しか頼るところのない彼女の弱みに付け込んで何かするとか最低な行為だからな。こんないい子にそんなことするとか下衆のすることだから。そもそもここ二十四時間カメラで監視されてるから、何かしたら懲戒免職。しかも涼花のそういう姿を大衆の面前にさらすことになるってこと忘れるなよ。浩文は自分にそう言い聞かせて、自分の下心を必死に抑えた。

 浩文はいつも通り特殊監房内では涼花と他愛のない会話をして過ごした。監視されてるからここで下手な話ができないというのもあるが、それがなくても何か希望を持たせられるほど手がかりになるようなことは見つかっていなかった。結局、自分が足で稼げるのは涼花の人物像と被害者の人物像、そしてそれらの人間関係等くらいしかない。目撃情報も二年も前の話しとなるとみんな記憶があやふやになっているし、そもそも信憑性もあやしい。進展を強いて言うならば被害者の清水潔孝の実家はこの国では知らない者がいないほど医療研究分野で勢力がある清水製薬の総帥一家だったことが、真犯人の動機かもしれないと考えられるということぐらいだろうか。あの清水家の人間として異例の教員と言う職業。実家との没交渉から考えて、清水潔孝が清水家の落ちこぼれだったことは想像に難くない。真偽は解らないが清水家は後ろ暗い噂も多い。そこら辺が動機になっていてもおかしくはない。例えば落ちこぼれの彼が実家の何か秘密を知ってしまいそのせいで殺害され、たまたまそこに居合わせた涼花がその濡れ衣を着せられたとか。あらゆる方面に権力を持っている清水家ならそれくらい簡単にできると思う。しかしなんにせよ涼花が極刑にされている意味は解らない。未成年に極刑が下されるなんてことは法的にありえないのに涼花には極刑が下された。きっとそれにも何か重大な理由があるはずだ。あの事件の真相を暴くためには事件から紐解くのではなく、もっと根本的なところから調べなくてはいけないのかもしれない。それこそ涼花の出生とかそんなところから。そんなことを考えて浩文は今まで調査して分かった事実を思い返してみた。

 涼花は一緒に暮らしていた両親のどちらとも血がつながっていなかった。しかし涼花の生まれた病院での取り違えは確認できなかった。取り違えを噂された病院が徹底的に調査した結果、涼花と同じ頃に生まれた子供たちの身元は全部判別し、その子等が間違いなくその子等の両親の子供だということは確認されている。なら涼花はいったいどこから来たのだろうか?香澄は涼花によく似た自分が中学に上がって涼花の取り違えの噂が立ったと思い込んでいるようだったが、実際は香澄とは関係のないあることで夫が妻の浮気を疑い、自分と涼花のDNA鑑定をして親子関係がないことを証明しそれを妻に突き付けて、不貞を否定した妻が取り違えられたのだと言い出し夫婦げんかに発展したことで涼花の家の不和に繋がっていた。そしてその後まもなく事件が起きて涼花は捕まった。そんなことを考えて浩文は何かが引っかかった。そういえば涼花の父親がDNA鑑定を依頼したのも清水家系列の会社だ。殺されたのは清水家の異端児。そして特種監房に入れられてる囚人が受ける臨床テストを一任されてるのは清水製薬だ。これは偶然なのか?そんなことを考えて浩文はそこに何か大きな陰謀めいたものを感じた。そして特殊監房の囚人がされているのは本当にただの臨床テストなのか、という疑問が湧いてきて浩文は背筋が寒くなった。

 「なぁ涼花。臨床テストってどんなん事やってるんだ?」

 浩文の問いに涼花は色々ですよと答えた。

 「薬渡されてそれを指定された通りに飲んだり、何か薬物の注射打たれたりして、よくわからない機械に色々かけられて何かを計測されたり、血液検査のために血を抜かれたりとか。後はほら、ここずっと監視されてますから、それで様子見てるんじゃないですか?どの計器で何を測るのかわたしにはよくわかりませんし。投薬されてる薬については何も教えてもらえないのでいったい何の薬を投薬されてるのか解らなくてちょっと怖いですけど。今の所この通りぴんぴんしてます。」

 それだけ聞くと臨床テストには間違いなさそうだが何の臨床テストを行っているかが問題だ。そっち方面も少し探ってみよう。浩文はそんなことを考えた。

 「涼花。涼花はさ、もしまた自由になれるならなんかしたい事ってあるか?」

 浩文の問いに涼花は困った顔をして想像もつきませんと言った。

 「ならさ、ここに入る前は将来の夢とかそういうのってどういうこと考えてた?お前陸上部で凄かったらしいな。そのまま陸上選手とか考えてたのか?」

 浩文のその言葉を聞いて涼花は懐かしそうに目を細めた。

 「そうですね。走るのは好きでしたが、それを自分の人生にしようとは思ってなかったです。選手としてやっていけるほどの実力はなかったですし。中学生の三年間は全部陸上に捧げてそのまま高校でも陸上を続けましたけど、自分の限界も感じてて、少し他のこともしてみたいなって思ってきて、それで陸上は高校で卒業にしようと思っていました。悔いが残らないように高校三年間は陸上をやりきって、それで、大学に進学したら今までしてこなかったおしゃれとか、そういう女の子らしい事に挑戦してみたいなとか思ってました。」

 そう言って恥ずかしそうに笑う涼花を見て浩文はかわいいなと思った。やっぱ涼花は普通の女の子なんだよな。本来なら今頃大学生で、学生生活をエンジョイしてたんだもんな。私服でおしゃれする涼花とか凄く見てみたい。こんな囚人服でも充分綺麗だと思うくらい美人なんだから、普通におしゃれしたら相当綺麗なんだろうな。成人式で振袖とか着たらまじで綺麗だろうな。そんなことを考えて浩文は、涼花が成人式迎えるまでには出してやりたいけどそれは時間的に不可能だなと思って、何とも言えない気分になった。今すぐ冤罪を晴らせるだけの証拠をかき集められたとしても、実際にそれを認めさせて涼花を自由の身にするまでには様々な手続きを含めかなりの労力と時間がいる。しかも勝率の低い賭けだ。さすがに今まで覆してきた事案とは訳が違う。任せろとか何とか言っといて本当はできる気が全くしない。まだ涼花を連れて脱獄する方が難易度が低そうなくらい無謀だと解ってる。でも逃亡するのでは意味がない。逃亡したっていつまでも逃げられないし、そもそもそんなことをしても自由は得られない。だから、いくら無謀でもやり切るしかない。浩文はそう思って自分に気合を入れた。


         ○                   ○


 帰宅中、浩文は人にぶつかられた。謝りもせず去って行く後姿を見て腹が立ったが、そんなこともあるさと気にしないことに決めた。こんなことでいちいち腹を立てていたら身が持たない。浩文は一人暮らしのアパートの扉を開けて中に入り、荷物を放り投げる。どさっと落ちたリュックの中から見慣れない封筒が出てきて浩文は疑問符を浮かべた。とりあえず鍵をかけ靴を脱いで部屋に上がり、その封筒を手に取ってみた。どこにでもある無地の大判の封筒。宛名も何もない。とりあえず厚みが凄い。外から見ても全く何か想像もつかなかったので、浩文は中を開けてみることにした。そして中を確認して浩文は固まった。思わず周囲を見回してみる。何だこれは。どうしてこんなものが俺の荷物の中に入ってる?そんなことを思って浩文は背筋が寒くなった。それは涼花の事件の捜査資料だった。封筒の中には証拠品を写した写真や事件に関する書類、そしてデータが入っているであろう記録媒体が入っていた。今すぐ中身を確認したいが何があるか解らない。セキュリティーが万全と言えない自宅でこのデータを見るのはまずい。そう考えて、浩文はどうするか考え、人を頼ることに決めた。電話をかけて了承を取るとすぐに支度をして家を出る。

 自転車を走らせて浩文は電話の相手の住居へ向かった。なんか手土産持ってかないとあいつうるさいか、なんて考えて途中でコンビニによってビールとつまみを買う。あいつに関してはとりあえずビール持ってけば機嫌よくなるだろうけど、あいつが居候してるとこの先生はどうだかわかんないな。なんかちゃんとしたもん持ってったほうがいいのか?そう考えたが、時間が惜しくてそのまま適当に手土産になりそうなものを追加で買って、コンビニを後にした。

 「よう。特殊監房送りになったおちこぼれ。元気そうだな。」

 住居に到着した浩文は電話の相手の塩田(しおた)源蔵(げんぞう)にそう声をかけられて、ほらよと手土産を渡した。

 「お、気が利くじゃねーか。ってかなんで饅頭まで入ってんだよ、酒に甘いもんとかいらねーだろ。」

 そういう源蔵に浩文は、お前じゃなくて先生用だよと答えた。コンビニにそれっぽい手土産がそれしかなかったんだよ。せんべいは無駄にでかかったし。そう言う浩文に源蔵が、修二(しゅうじ)は今日はいないぞと言い、浩文はなら買わなきゃよかったと肩を落とした。

 「あ、でもお前ラッキーだな。修二はいないが、今すげー美人がいるぞ。しかも巨乳。修二の幼なじみだか何だかで、ちょっとこの街に用事があって来たらしくてな。そいつも医者で、診療所の手伝いする代わりにちょっと前からここに下宿してんだよ。」

 それを聞いて浩文は胡乱げな視線を向けた。源蔵が住んでいるこの場所は、昔道場をやっていた爺さんが道場をたたむ際に、門下生の下宿先にしていた場所を部屋に鍵だけ取り付けて格安アパートに改築したところだった。風呂トイレ炊事食事場が共同の挙句恐ろしくボロなアパート。今の住人は爺さんから管理人を任され、道場があった場所に診療所を開いている河原(かわはら)修二医師と、ギャンブルで有り金全部なくして以前住んでいたアパートを追い出され古い知り合いだった河原医師に泣きついて居候したこの塩田源蔵の二人だけだった。ひょろっとした長身にひどいくせ毛の無口な中年医師と、大酒飲みでギャンブル大好きな無駄にでかくてごつい不良警官という組み合わせの男二人だけが住んでるこんな場所に、手に職持った美人が下宿とかありえないだろ。しかも美人なだけじゃなくて巨乳とか絶対ない。先生はともかく巨乳好きのこいつがそんなのがいて何もしないとかありえないし、こんな胡散臭い場所にいくら知り合いが管理してるからって女が入居するわけがない。浩文がそんなことを思って向けた視線を無視して、源蔵は彼を室内に入るように促した。

 「ところで何の用なんだ?電話で言えないこととか、またお前なんか馬鹿なことしてんだろ。お前が今特殊監房勤務してること考えるとアレだな、高校教師一家惨殺事件がらみだろ。お前、杉村涼花の担当にでもなってまた妙な正義感が出ちまったんじゃねぇのか?」

 源蔵にそう言われて浩文は肯定した。それを見て源蔵があからさまにため息をついた。

 「アレは止めとけ。極刑がありえない未成年が状況証拠だけで特殊監房送りになった。それだけでも充分真っ黒だろ。お前がどんだけ正義感振りかざしたってどうにもできない真っ暗闇の陰謀だよ。真実を解き明かしたところで何にもならねぇ。お前の身が危険にさらされるだけだ。」

 そう諭しつつ源蔵はどうせ何言ったって聞かねんだろうけどな、と呆れた様に言った。言って聞くようなら特殊監房送りになんてされてないか。お前頭悪くないのに本当に馬鹿だよな。そう言って笑う源蔵を見て浩文も笑った。

 「さすがにアレに関しては俺も手伝えねぇぞ。どう考えても国家ぐるみの陰謀だろ。俺に手が出せる問題じゃない。俺はお前と違って無駄に正義感振りかざして目をつけられるようなことは絶対しないからな。そんなことお前も解ってるだろうに、いったい何を頼みに来たんだ?」

 源蔵にそう言われて浩文は、例の封筒を丸ごと渡した。疑問符を浮かべて受け取った源蔵が中身を確認して固まる。

 「お前これどこで入手した?なんだこの記録媒体は?中に何が入ってる?」

 当たり前のその反応に、浩文は入手した経緯を話しその中身が知りたくて来た旨を伝えた。源蔵が納得し、そして難しい顔をする。

 「お前の言いたいことはわかる。俺の悪いこと用のコンピューター使えば安全に開けるかもしれないが、さすがにこのデータ開く勇気はないぞ。情報元が怪しいうえにこの件に関わるのはリスクが高すぎる。何かで足がついたら完全に俺が破滅するからな。」

 源蔵のその言葉を聞いて浩文はそこを何とかと頼み込んだ。渋い顔をした源蔵と無言のせめぎあいになり、しばらくして源蔵があきらめたようにため息をつき、それを見て浩文が顔を輝かせる。

 「勘違いするなよ。俺は何もしないからな。ただ、それに興味を持って中身見そうな心当たりに掛け合ってやるだけだ。」

 そう言って源蔵は立ち上がり浩文についてくるように促した。とりあえずついていくと源蔵は数個隣の部屋の前に行き、ノックした。

 「沙依さより、入るぞ。」

 住人の了承も得ないまま源蔵がドアを開けて中に入り、部屋の住人から叱責を食らっていた。浩文は状況について行けず、二人が話している間とりあえず部屋の外で待っていた。

 「お前がこそこそ何かしてんのは解ってんだよ。お前は本当はどこの誰で、何の目的でここにいる?」

 ドスのきいた源蔵の声が聞こえ、話しかけられた人物は黙り込んでいるようだった。

 「都合が悪くなったらだんまりかよ。お前、警察内部のこと探ってるだろ?ここに来たのも俺に近づくためか?そのくっそエロい身体使って俺からなんか聞き出そうって魂胆だったのか?あぁ?言ってみろよ。本当のことをさ。」

 源蔵のその言葉が終わると同時に、わたしに触るな、という女性の声が聞こえて、浩文は部屋に飛び込んで源蔵を投げ飛ばしていた。そして部屋の中にいた女性を目にして、浩文は固まった。

 「あなたが母親か。」

 その言葉に、部屋の中の二人が怪訝そうな顔をして浩文を見た。浩文は自分で言って自分で言った言葉の意味が解らなかった。部屋の中にいた女性は十代後半からせいぜい二十代前半に見えるにもかかわらず、その女性を見た瞬間浩文はこの人が涼花の母親だと思った。涼花だけじゃない。香澄の母親もこの人だと思った。涼花にも香澄にも似たところがある容姿端麗な美人。顔立ちに少し幼さが残っていてひどく若く見えるが、大人びていて妙な色気がある幻想的な雰囲気の美人。ぱっと見十七・八くらいに見えるのに自分より遙かに年上なのだと言われても納得してしまえそうな、そんな現実感のない彼女を見て、浩文はふとあることを思い立って口にしていた。

 「涼花は、あなたと清水潔孝の娘か。」

 涼花には清水潔孝と涼花の母の不倫の末できた子供だという噂があった。それは涼花とその母親に血縁関係が認められなかったことで否定されたが、潔孝と涼花の血縁関係は不明のままだ。そもそもそんな噂がたったのは涼花と清水潔孝がどことなく似ていたからだった。浩文自身、写真で清水清孝を確認したときなんとなく似てると思った。全体的には似ていないが涼花と潔孝は目元がよく似ていた。そして今目の前にいる女性見て、浩文の直感が涼花は彼女と潔孝の間の子供なのだとそう言っていた。

 「涼花とは誰だ?わたしの娘は勢三郎せいざぶろうとの間に生まれた静江しずえちゃん只一人だ。」

 心底状況が解らないという様子で戸惑ったように女性がそう言って、浩文は自分の直感は正しくはないと思った。正しくはない。でも何か関係はある。そう感じて浩文は捜査資料を女性に渡していた。源蔵が何か言いたげに浩文を見ていたが結局何も言わなかった。女性は怪訝な顔をして封筒を受け取ると、その中に入っていた書類の束を取り出しめくって固まった。大きく見開かれた女性の目から大粒の涙があふれてきて、浩文は慌てた。書類を握りしめわななく姿は今にも叫びだしそうな様子だったが、女性は叫びを飲み込んで声を出さなかった。

 「お前、本当にあの事件の関係者と繋がりがあったのか?」

 源蔵のその問いに女性は少し考える素振りをしてから肯定した。

 「塩田さんはわたしが怪しいことをしていると思っていたのにわたしを調べなかったのか?」

 女性に問い返されて源蔵は難しい顔をした。

 「調べたさ。調べたけど、あんなめちゃくちゃな記録を信じろって言うのか?調べた結果はお前の胡散臭さが増しただけだ。」

 そう言う源蔵に女性は困ったように笑って、全部事実だよと答えた。

 「調べたなら解るようにわたしは人間じゃない。人間ではないが、かつて清原沙依(きよはらさより)という名前でこの街で暮らしていたれっきとした市民だ。清水潔孝はわたしの直系子孫に当たる人物で、わたしが一時期高校に通っていた時にそこに教育実習生としてやってきた学生であり、わたしの夫、正蔵(まさくら)忠次(ただつぐ)の教え子だった人物だ。この国で婚姻届を出した訳ではないから、記録の上では忠次さんはまだ政木まさき忠次のままだし、わたしも清原沙依のまま、わたし達夫婦に結婚の事実は存在していないけどな。」

 そう言うと女性は一度目を伏せて、何かを決心したように顔を上げた。

 「わたしの名前は正蔵沙衣(まさくらしょうい)。この街には失踪した夫を探しに来た。数年前に清水先生から夫宛に連絡があって、夫はずっと彼のことを気にかけていた。事情があって訪ねることができなかったが、数ヶ月前に夫は所用でこの街に来ることになり、きっと清水先生のことも調べたんだと思う。そして夫はそのまま行方不明になった。」

 そこまで話すと沙衣は浩文にも事情を尋ねた。浩文の直感は彼女が本当のことを言っていると言っていた。でも、まだ全ては話していない。彼女から情報を引き出すためには、駆け引きではなく全て洗いざらい話した方が賢明だと判断して、浩文は自分の知り得ている全ての状況と、自分が捜査している事情を話した。

 「悪いことは言わない。あなたはここで引いた方がいい。」

 じっと浩文の話を聞いていた沙衣は話を聞き終わるとそう言った。源蔵と同じことを言う沙衣にそれでも進む意思を示し浩文は沙衣の目をまっすぐ見つめた。それを見つめ返した沙衣の瞳は酷く冷たく鋭くて浩文は一瞬怖じ気づきそうになったが、気を立て直して強い意志を持って更にその瞳を見つめ返した。

 「あなたは本当に命をかけるってことがどういうことか解るか?時には自分の命を失うことになってもやり遂げなくてはいけないことや、無駄死にだと解っていても引けないときがあることはよく承知している。しかしこれはあなたにとってそれほどのことなのか?何の力も持たないただの人のあなたは関わるべきじゃない。もしその涼花という子を助けたいのなら、正攻法で真正面からぶつかるのではなく彼女を連れてどこまでも逃げるべきだ。なのにそんなやり方で突っ走ろうだなんて、あなたのやろうとしてることはただの偽善で誰も助けることなんかできないし、あなたが無駄死にするだけだぞ。」

 酷く冷たく響く沙衣のその言葉に浩文は胸が詰まる思いがした。こんなことをしたって実際に涼花を助けることなんてできないと理解してはいた。何の権力も持たない自分が国家権力に敵うはずがないなんて解りきっていた。でも間違っていることをそのまま見過ごすことはできなかった。間違いを正せなくても、間違っていたということを知らしめたかった。だから、沙衣の言う通り自分のやっていることはただの偽善の自己満足なのだと浩文は理解している。でも、だからといって後には引けない。偽善でも自己満足でも間違っていることをそのままにしておけないというのも、涼花を助けたいというのも本心なのだ。だから浩文は絶対に引くわけにはいかなかった。そんな浩文の様子を見て、沙衣は困り果てたように笑って、そして源蔵を見た。源蔵があきらめろという視線を沙衣に送って、それを見た沙衣は何かを諦めた様子だった。

 「塩田さん。これから先はだいぶ踏み込んだ話になる。だから関わる気がないならあなたは聞かない方がいい。知らなくていいことを知っているというのは、それだけでリスクがつきまとうことだからな。」

 そう言う沙衣に源蔵は、今更のけ者はなしだろと言った。

 「どうせ聞かなくても今の時点でなんかあったら何か知ってると思われてもおかしくない。疑わしいやつをほっといてくれるのかも怪しいのに事情を聞かないわけにはいかないだろ。お前がここに居座ってる時点でとっくにこっちは巻き込まれてんだよ。自分の身を守るためにも最後まで聞かせてもらおうか。」

 そう言う源蔵に沙衣は、それもそうだな、と薄く笑った。

 「正直今起きていることはわたしには解らないし、清水先生が殺害された事件に関してもわたしに解ることはない。涼花という人物についてもわたしは全く知らない。ただ、全てに清水家が関わっていることだけは確かだと思う。かつて清水家はわたしの娘の遺体を元にわたしを解析し、不老長寿の研究を行っていた。涼花という人物はわたしと前の夫との間の子供に瓜二つだ。彼女が娘の遺伝子を継いで清水家の手で生み出された検体だということは間違いないと思う。どういう事情で普通に暮らしていたのか解らないが、たぶん清水先生の事件を名目に実験体として連れ戻されたと考えるのが妥当だろう。清水先生は清水家が不老長寿の研究を行っていた時にできた副産物で、わたしの遺伝子を全く次いでいない個体だった。清水家が把握していたかは解らないが、彼は自分の出生を知っていた。涼花という人物を見て彼は何かを感じて、それで何かしらの行動を起こし殺害されたと考えるのが妥当だと思う。」

 そう言って沙衣は調査資料のあるページを出した。それは殺害現場と遺体の写真が納められたページだった。

 「凶器が見つかるわけがない。これは凶器など使用されてない。清水先生一家の殺害は、所謂超能力というものを使用して行われたものだ。今、清水家が研究しているのは兵器としての能力者開発らしい。清水先生はその実地テストに使われたのだと思う。」

 沙衣のその言葉に浩文と源蔵は怪訝な顔をした。

 「超能力って、そんな現実味のない話しを信じろって言うのか?そもそもお前の話は突飛すぎる。確かに清水家ならあり得るかもしれねぇと思うし、大筋は本当のことを言ってるんだろうけど、いくら記録上そうとしか考えられなくてもお前が人間じゃないっていうのもそう簡単に信じられるもんじゃない。しかも今の話はほぼ推測だろ。なんか裏付けがとれることはないのかよ。」

 源蔵のその言葉に沙衣は、信じられないなら信じなくてもいいと言った。

 「わたしの目的は夫を見つけることだ。だから別に信じてもらえなくても問題ない。塩田さんたちに不信感を持たれてもわたしには支障はない。」

 そう言って沙衣は記憶媒体を手にした。

 「この事件はわたしにとっても重要なことに思える。この中を見てもかまわないだろうか?」

 浩文にとってその提案は願ってもいないものだった。浩文は沙衣にそれについての注意を促し、自分もそれの中が見たいのだという話をした。その話を聞いて沙衣は、問題ないと言って彼女の使用しているコンピューターに記録媒体を差し込んだ。記録媒体の中には膨大なデータが入ったフォルダと、それと別に一つの音声データが入っていた。沙衣がそれを選択して再生する。音声が流れ始めると沙衣が、忠次さんと呟いて息をのんだのを浩文は見逃さなかった。音声の内容は沙衣に宛てたもので、彼女の推論を裏付けるような内容や入っているデータの内容の説明が続き、最後に短いメッセージが入っていた。それを聞いた沙衣は深く眉間にしわを寄せて険しい顔をして、ものすごい勢いでデータの中身に目を通し始めた。文章データ全てに目を通した沙衣は少し思案げな様子を見せて顔を上げた。

 「木村浩文。ありがとう、お前のおかげでわたしはわたしの知りたいことが解った。わたしは夫を追ってここから姿を消す。もうここには戻らない。」

 沙衣はそう言って浩文をまっすぐ見つめた。

 「最後の忠告だ。死にたくなかったらなりふり構わず即逃げろ。お前はもう踏み込みすぎている。杉村涼花はお前の思っているような女じゃない。あいつはいつだって逃げ出せるし、一人でどうにでもできる。お前はあれに利用されているだけだ。これから事態は急変する。このままあそこに居続ければお前は確実に巻き込まれ、そして最悪殺されることになる。できることならばわたしはお前に死んでほしくない。」

 本当に懇願するような顔でそう言う沙衣に、浩文は何も答えられなかった。

 「塩田さん。河原先生に世話になったと伝えておいてくれ。」

 浩文から視線を外し源蔵にそう言うと、沙衣はぱっぱと荷物をまとめてそのまま部屋を出て行った。浩文はその姿をただ呆然と見ていた。沙衣に言われたことが認識できない。いったいこれから何が起こるっていうんだ?涼花が俺の思ってるような女じゃないってどういうことだ?そんな疑問が頭の中をぐるぐる回って浩文は頭の中がごちゃごちゃになった。

 「あいつの言ってることの真偽はともかく、杉村涼花が曲者なのは確かだぞ。お前があの女に利用されてるだけだっていうのは俺も同感だ。まぁ、あれだけの美人にしなだれられたら、のぼせ上がるのも解るけどな。」

 そう言って源蔵がファイルの中のデータを一つ開いた。それは涼花の監房に取り付けられた監視カメラの記録映像だった。浩文はそれを見て目を見開いた。浩文は目に映るそれを信じることができなかった。こんなことあり得ない。これは何かの間違いだ。そう思う浩文に、源蔵が静かに言葉をかけた。

 「このデータは本物だぞ。」

 それが浩文の頭の中に響いて反響した。これが本物?じゃあ、普段の涼花はいったい何なんだ?涼花はいったい何者なんだ?浩文は動画から目が離せなかった。それは前監視官に襲われそうになった涼花がそれを返り討ちにして病院送りにする一部始終が納められた映像だった。襲われそうになって無我夢中で抵抗したなんてものじゃない。動画の中の涼花は、冷静に、的確に、確実に狙って、手慣れた様子で相手に大怪我を負わせていた。道具も何も使わずにその身一つで大の男をあっという間に制圧した涼花は、息を切らすこともなく、表情一つ変えず、つまらないものを見るような視線を血まみれで倒れる男に向けて立っていた。


         ○                   ○


 「浩文さん、元気ないね。どうかしたの?ほら、わたしが浩文さんのために淹れた、浩文さんの好きな濃いめのブラックコーヒーだよ。こんな美少女がこんなにサービスをしてあげたうえに、なんと今日はわたしが奢ってあげるから元気出して。」

 コーヒーを運んできた香澄にそう言われて浩文は、気持ちだけでいい、ありがとう、と声をかけた。それを見た香澄は浩文さんがしおらしいと驚いたように呟いた。

 「いつもだったら何言ってんだとか、ガキに奢られるほど落ちぶれてないとか言ってくるのに。今日の浩文さんなんか変。」

 そう言いつつ香澄が、でも弱ってる浩文さんもかわいい、と言っていたずらっぽく笑ってきて浩文はため息をついた。

 「お前、大人をからかうのもいい加減にしろよ。そんな風に大人の男からかって遊んでなんか危ない目にあったらどうすんだ。自分で自分のこと美少女って言うのはどうかと思うけど、実際お前そうとうかわいいんだから気をつけろよ。」

 浩文がそう言うと香澄はなぜかはにかんで嬉しそうに笑って、浩文さんにかわいいって言ってもらっちゃった、なんて呟いた。それを見て浩文が怪訝そうな顔をすると、香澄はもう少しでバイト終わるからちょっと待っててねと言って去って行く。待っててくれなきゃダメだよ。絶対待っててね。なんて去りながらもそんなことを言って念を押してくる香澄の姿を見て、浩文は何なんだと思いつつ少し鼓動が早くなった。はにかんで嬉しそうに笑う香澄を見た時ちょっとドキっとした。いやいや相手は十六のガキだぞ、いくつ年が離れてると思ってんだよ。そんなことを考えて、少しだけ香澄とプライベートで仲良くしている自分を想像して、それから浩文は沈鬱とした気分になった。涼花によく似ている香澄もまたきっと清水家の検体なのだろうと思う。あんなに天真爛漫で屈託なく普通の高校生をしている様に見える香澄もまた、何か大きな秘密を持っているのかもしれない。香澄が実は清水家の超能力者開発の検体で高校教師一家惨殺事件の真犯人だったりしてな。そんなことを考えて浩文は苦しくなった。そんなことを考える自分が嫌だった。誰が何の目的で何をしているのか全く理解できない。何を信じればいいのか解らない。何が正しいのか解らない。自分がどうすればいいのかさえも解らない。涼花の冤罪を晴らして彼女を自由の身にすることが目的だったはずなのに、そのために奮闘していたはずなのに、たった一晩の出来事で浩文には全てが解らなくなってしまった。

 涼花、お前はいったい何者なんだ?いったい何が起きてるんだ?これから何が起こるっていうんだ?記録媒体の中に入っていたデータのほとんどは清水家の行っている研究のデータで浩文には理解できないものだった。浩文がかろうじて理解できたことは、特殊監房の囚人を対象に何か壮大な実験が行われているということだった。

 「おまたせ浩文さん。ちゃんと待っててくれたんだね、すごく嬉しい。浩文さんのことだから待っててくれないんじゃないかなって思ってたんだ。」

 そう言って笑う私服姿の香澄を見て、ふと時計を見て、浩文はだいぶ時間がたっていたことに気がついた。物思いにふけっていてこんなに時間がたっていたなんて気がつかなかった。すっかり冷めてしまった全く減っていないコーヒーを見て、香澄が小さく笑って浩文の隣に腰掛けてきた。

 「わたしがせっかく浩文さんのために淹れたのに全然飲んでくれないなんて酷い。」

 香澄がそういつもと変わらないようなことを酷く優しい口調で言いながらくっついてきて、浩文は慌てて場所をずれて距離をとった。ここなら誰にも見えないから大丈夫だよ、と呟いて香澄が詰め寄ってきて、浩文はそう言う問題じゃないと焦った。なんか凄くいい臭いするし、柔らかい。いや、ちょっ、腕絡ませてくるな、胸当たってるから。そんなことを考えて浩文は本気で焦った。

 「そんなに焦っちゃって浩文さんかわいい。こんなにかわいい子にくっつかれて嬉しい?少しは元気になった?」

 ちょっと不安げにそう言う香澄は本当に心配してくれてるんだと思う。そう思うけど、元気づけ方が色々間違ってる。これじゃ違うところが元気になるから。俺を犯罪者にする気かお前は。浩文はそんなことを考えて香澄の額をぺシっと叩いた。いてっと言って香澄が額を押さえて、浩文さん酷い、と上目遣いに抗議してくる。

 「本当お前人をからかうのもいい加減にしろ。」

 ため息をついてそう言うと香澄が存外真剣な目を向けてからかってなんかないよと言ってきて、浩文は息をのんだ。

 「初めて会ったときは確かにちょっとからかっちゃったけど、でもそれは浩文さんが変な人じゃないって解ったからだし。あのとき以外わたし浩文さんのことからかってない。」

 そう言って香澄はうつむいて、少し頬を染めて口を開いた。

 「わたし誰にでもこんなことしてるわけじゃないよ。わたし、浩文さんのことが好きだから、だからちょっとでも意識してもらいたくてさ。それで今まで色々頑張ってきたつもりだし。浩文さんから見たらわたしなんて子供なんだろうけど、わたしもう結婚だってできる年だし、そんなに子供じゃないよ。ちょっと顔はまだ子供っぽいかもしれないけどさ、あと二、三年もすればわたしだって・・・。」

 そう言って香澄が顔を真っ赤にさせて、わたしじゃダメかな?なんて潤んだ瞳で見上げてきて、浩文は頭の中が真っ白になった。

 「ねぇ、わたしじゃダメ?子供にしか見えない?少しはさ、浩文さんもわたしにドキドキしてくれないのかな?」

 そんなことを言って香澄が身体をすり寄せてきて、わたしだって身体はもう大人だよ、なんて呟いて浩文の手を取って自分の胸にもっていこうとして・・・。

 「香澄、男へのアプローチの仕方が色々間違ってる。それじゃただの痴女だ。」

 声と同時に頭を本で直撃されて香澄が撃沈した。

 「うちの妹がすみません。」

 香澄を物理的に撃沈させた青年がそう頭を下げてきて、浩文はこいつが香澄の兄貴か、香澄の兄貴だけあってイケメンだな、とどうでもいい感想が頭に浮かんできた。色々衝撃的すぎて頭がついてきていなかった。香澄と兄貴は血がつながってないんだから似てるって逆におかしいのか?実は兄妹そろって検体なのか?いや、俺の勘違いでやっぱ香澄は検体じゃないのか?そんなことを考えて浩文が今起きたことを認識することから逃避している横で、香澄が兄に噛み付いていた。

 「妹の一世一代の告白を邪魔したあげく、本でかわいい妹の頭殴るとかさ、お兄ちゃん酷すぎる。」

 そう抗議する香澄を一瞥して、青年が口を開いた。

 「近く寄ったついでにバイト終わりの妹を拾って帰ろうと思って来たら、男性が変質者に襲われてた所に遭遇したから俺は男性を助けただけだ。」

 淡々とそう返す青年に香澄はまた、お兄ちゃん酷い、と言った。

 「わたし変質者じゃないもん。ちゃんとお兄ちゃんの部屋にあった本で勉強して、頑張ったのに、酷い。」

 香澄のその言葉に青年の顔が少し青ざめた。

 「お前、俺の部屋にあった本ってさ・・・。」

 「お兄ちゃんが机の引き出しの奥を改造して隠し扉作ってしまってあったやつ。」

 香澄がそうむくれながら言って、青年は額を押さえた。あれは恋愛の参考書じゃない。ああいうのを参考にしたらダメだから。ってかお前人の隠してるもん掘り出すなよ。そんなことを青年はぶつぶつ言って、再び浩文に頭を下げた。

 「うちの妹が本当に馬鹿で本当にすみません。帰ったらきつく言っておくので。本当すみません。」

 そう謝り倒す青年を見て、浩文は兄貴も大変だなと思った。妹に隠してたエロ本見つかるってだけでも辛いだろうに。そんなことを考えて浩文は青年にひどく同情した。お前も謝れと言われて、わたし悪いことしてないもんなんてぶー腐れる香澄を見て、青年はため息をついた。青年がまた浩文に謝って、帰るぞと香澄を半ば引きずるように連れて行く。

 「浩文さん。わたし本当に浩文さんのこと好きだよ。みんながおかしいと思ってるのに良しにしちゃったこととか、そういうこと良しとしないで戦うとこ、本当にかっこいいと思う。無謀だって解ってても悪を許さず立ち向かうとこがさ、正義のヒーローみたいで本当にかっこいいよ。わたしそんな浩文さんが大好きだから。わたしそんな正義の味方を支えるヒロインになるから。だから元気出して、諦めないで。」

 兄に引っ張られて連行されながら香澄が振り返ってそう叫んで、浩文ははっとした。香澄が満面の笑顔を向けて手を振ってくる。兄妹の姿が見えなくなると浩文はため息をついた。香澄はあれは本当にただのガキだな。最近のガキはませてると思ってたけど、香澄はただの馬鹿だ。そんなことを考えて浩文は小さく笑った。香澄に言われた言葉が胸に響く。そう、俺は正義の味方になりたくて警察官になった。涼花が何者でも、彼女がとらわれの身で非人道的な実験の対象にされていることは間違いない。俺は涼花に利用されているのかもしれない、でもそれは彼女が助けを必要としてるってことだ。ならやるべきことは決まってるだろ。それにどういう理由で普通の高校生をやってるのか解らないが、本当に他人の空似なのかもしれないが、香澄だって巻き込まれて同じように実験体される危険性があるんだ。そんな事見て見ぬふりして自分だけ逃げ出すなんてできるわけがないだろ。たとえ無謀でも自分にできることなんてなくても、それで自分が殺されることになったって、俺には突っ走ることしかできないだろ。そう考えて浩文は決心を固めた。


         ○                   ○


 数日ぶりに浩文が出勤すると特殊監房の様子がなんとなくいつもと違っているように思えて、第六感が何か警鐘を鳴らしていた。何かは解らないけれど何かが起きている。そんなことを感じて浩文は急いで涼花の監房に向かった。監房の中に入り、浩文は目を疑った。狭い部屋の中に数人の男が倒れており、険しい顔の涼花が一人の男と対峙していた。

 「おはよう、木村浩文君。特殊監房勤務になってだいぶ経ったが、ここでの勤務にはもう慣れたかな?」

 男が振り返ってにこやかに浩文にそう言った。その男はこの特殊監房の施設長だった。部屋の様子とは裏腹に施設長が世間話を振ってきて、訳もわからないまま浩文はそれに答えていた。

 「ちょっとこの施設内に問題が起きてしまってね。囚人たちに別の場所への移動をお願いしていたのだが、彼女がおとなしくしたがってくれなくて困ってるんだよ。ちょっと手伝ってもらえないかね。」

 施設長にそう言われて、浩文は涼花を見た。戦闘体制をとっている涼花は普段と別人に見えた。強い意志を持った力強い瞳、身体全体から溢れる殺気、目が合った涼花からは何かすれば浩文のことも殺すという意思が見えて、浩文は本当に俺は全く信用されてなかったんだなと思って辛くなった。浩文は意志を固めて涼花に視線を向けて、施設長を掴むと投げて床に叩き付け絞めおとした。

 「とりあえず逃げるぞ。」

 浩文は施設長からマスターキーを奪い取ると涼花の手を引っ張って出口に向かった。

 「浩文さん、なんで?」

 戸惑ったような涼花の声が聞こえて浩文は笑った。

 「俺は正義の味方になりたいからさ。」

 答えになってるのかどうか解らない浩文の返事を聞いて涼花があきれたように笑って、お前本当に馬鹿だろ、と呟いた。

 「どうみても怪しいのはわたしの方だし、わたしの方が悪役だし、浩文さんはあっち側の人なのに、こんなことして本当バカ。」

 そう言って涼花は浩文の手をふりほどいた。

 「わたしはここで誰にも干渉されずに動くためにお前を利用してただけで、こうなった以上お前は用済みだ。わたしはまだここでやらなくちゃいけないことがある。だからお前は一人で逃げろ。巻き込んで悪かった。」

 そう言うと涼花は微笑んで、そっと浩文の頬に触れた。

 「お前のことは嫌いじゃない。だから無事に逃げ切ってくれ。」

 涼花の声が聞こえて、気がつくと浩文は全然知らない場所にいた。いったい何が起きた?ここはどこだ?浩文が状況が把握できず混乱していると男の声がした。

 「お前、陽陰(よういん)じゃないな。いったい何者だ?どうやってここに入った?」

 声の方を見ると明るい茶髪で薄茶の目をした二十代前半くらいの男が訝しげな顔で浩文を見ていた。

 「この人はわたしの願いを叶えるのに必要な人だよ。」

 扉が開く音とともに今度は女性の声がして、男は声の方を見て渋い顔をした。

 「沙依、お前またなんかしたのか?ここが俺の執務室でたまたま今ここに俺がいて、しかも俺だけだったから良かったものの、こいつが出てきたのが詰所内とかだったらどうすんだよ。」

 男の苦言を笑って聞き流して沙依と呼ばれた女性は浩文に近付き軽く笑いかけると、男に向き直った。その姿がつい先日会った沙衣にそっくりで浩文は驚いた。

 「ナルもあっちで皆が何をしているのか把握しているでしょ?もう大きな騒動が起きる未来は確定してる。でもあっちにいる皆だけじゃその騒動を丸く収める術はないよ。かえでさんや沙衣、忠次さんはここに戻ってこればいい。でもあっちに残る人たちはそれを背負ってかなきゃいけないんだ。だからお願い。表向きに大きな立ち回りができないのは解ってる。でも今回だけは最後まで面倒を見てあげてほしい。陽陰がここに彼を送ったのもナルを信頼してるからだよ。陽陰は今ナルの助けを必要としてるんだよ。だからさ、わたしからもお願い。陽陰に力を貸してあげて。人間として生きることを選ぶ仲間への最後の手向けだと思ってさ、事後処理してあげてよ。」

 少し男の顔を伺うように沙依がそう言って、男は渋い顔を更に渋くさせた。

 「ナルなら余計な騒動が起こらないように上手く立ち回ってなんとかしてくれるって信じてる。コーエーだって協力してくれるってわたし信じてるよ。わたしは自分の大切な人たちには皆幸せでいてほしい。ナルだって同じでしょ?だからお願い。」

 沙依がそう一押しすると、男は仕方がないなと言って諦めたように笑った。それを聞いた沙依がナルありがとう大好きと言って男に満面の笑顔を向け、男は今回は特別だからな、かわいいからって何でもわがままが通ると思ってんなよ、と呆れたように言って本当に愛おしそうに沙依を見つめていた。そんなやりとりを見て浩文は、何で俺この夫婦のイチャイチャ見せつけられてんだ?と思った。女の方は妊娠してるみたいだしこの二人夫婦だよな?何この状況?ここ本当にどこだ?そんなことを考える浩文に、沙依が向き直って笑いかけてきて、まるでおとぎ話の中の悪魔か神様がかけてくるような問いを投げかけてきた。

 「あなたの願いを叶えてあげるよ。これからあなたはどうしたい?」

 そう問われて浩文は涼花を助けたいと言っていた。

 「じゃあ、元の場所に戻らないとね。大丈夫うまくいくよ。自分の想いを信じて、強く願って、まっすぐあなたは進み続けて。そうすれば道は開けるから。」

 沙依の声に背中を押される思いがして、気がつくと浩文は特殊監房のある施設に戻っていた。何が起きたのか解らない。何が起きているのか全く理解できない。でも、自分がどこに向かわなくてはいけないのかがはっきり解って、浩文は想いに促されるまま走った。たどり着いた先で浩文は涼花を見つけ、驚いた顔の涼花と目が合って、そして白い閃光にに包まれた。


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