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雨を待つ研究室

 いつもの研究室、ケンタはたぶん第2実験室にいるはずだ。とにかくも観測の準備を整えようと僕は心に決める。江川研究室というプレートのかかった白いドアを開けた。研究室に入ると、ちょうど先生が奥の部屋から出てきて、僕は先生と鉢合わせしてしまった。いや、この先生はなかなか捕まらないから、研究室に着いた早々に会えたのはラッキーと考えるべきだろう。

「先生、おはようございます。」

「ああ、ごくろうさん。定観は明日からだったな?」

 先生も僕たちも、数カ月に一度の定期観測のことを略して定観と呼んでいた。

「はい。」

「この前の実験、温度を変えられるようになったか?」

 そうそう、そうだった。観測の準備に気をとられていたが、先生にはこの前から実験のやり方を相談していた。

 雨粒が出来るまでを研究室の中で再現する実験だ。僕たちは雨粒のタネとなる小さな粒子の動きを調べていた。条件をいろいろ変えて、そのタネをパーティクルカウンターという器械で数える。この前から苦戦しているのは、送り込む空気を調節する方法だ。温度を一定に保つのが、なかなかうまくいかない。ケンタと僕は何度も実験器具を作り直していた。

「冷やすことは出来ました。でも、まだ、ちょっと困ってて。」

「空気の温度を細かく変えてデータをとってみなさい。」

 先生のアドバイスはこの前と変わらない。だから僕は、変えたことの報告からしなきゃいけないのだ。

「そのために実験装置を改良したんです。ちょっと見てもらっていいですか?」

 僕は荷物を足元に降ろすと、研究室の大机のすみに置いてあった器材を見せる。昨日のうちに第2実験室から移動しておいたのだ。

「これなんですけどね。箱を金属のにしてハンダづけして、液体窒素で冷やした状態でもやってみたんですけど。箱の中の温度とカウンターの数がずれてまして、なんか時間差があるみたいなんですよね。」

「冷却装置とカウンターの間は何もしてないのか。」

 先生はチューブの部分をつまんで言う。

「いい断熱材がなかったんで、タオルで包んではみましたけど、十分だったかどうか。」

 先生からのアドバイスはだいたい一言で終わることが多い。それも無理難題に聞こえることばかりだ。『もっともっと冷やしてみろ』と言われて、僕らは大慌てで手作りの冷却装置を作ることになったし、液体窒素の使いかたも覚える羽目になった。バイト先でもらった大きな空き缶とクーラーボックスで作った冷却装置、それで一週間くらいは時間がかかってしまった。たぶんまた面倒な展開になる、直前になってやっと僕は予感した。

「冷却装置の温度なんか測っているからいけないんだろう。もっとカウンターの手前だ。」

「そうですね。でも、温度計が入るのがこっちなんで。」

 パーティクルカウンターにのびるチューブを指して、先生はまた大胆なことを言い放った。

「この先で測ってみるのがいいんじゃないのか。」

「・・・。そうなんですけど、このチューブじゃあ。」

「温度計を突っ込んでみればいいだろう。」

「・・でも、入れる場所ないですよ。」

「じゃあ、カウンターの方を分解してみなさい。」

「・・そうですね。」

「じゃあ、よろしくな。」

 その一言を最後に、先生は満足げに出ていってしまった。僕はしばし呆然とする。分解するって、そりゃあムチャクチャじゃないか。先生は絶対に細かいことを言ってはくれない。いつもそうだから、僕はケンタといろいろ考えなくていけなくなる。

—温度計を突っ込んでみればいいだろう。

—じゃあ分解してみなさい。

 先生の言葉を反芻する。そりゃあ、その通りだ。温度をすこしでも正しく測るべきだろう。だけど、それは器械に直接繋がっているチューブに細工をするってことで、失敗すればカウント自体が出来なくなる。あの器械、どっかの研究施設のお古だけど二百万はするらしい。もし壊れたら、来年の卒研生の研究テーマはどうする気なんだろう。

「分かりましたよ。やればいんでしょ。やれば。」

 閉じられた扉へ僕はつぶやいた。それから冷却装置を持って、廊下の向かい側にある第2実験室へ向かう。隣の第1実験室が一番広く、屋上で観測したデータをリアルタイムで監視できる設備がある。第2実験室はケンタや僕が入り浸っていて、実験をする時に使う部屋だ。

「あーあ。」

 ぼやきながら第2実験室のドアを開ける。

「やっぱり温度調整がうまく行ってないみたいだな。」

 ケンタはパソコンで昨日の実験データの整理をしていて、いつものポーカーフェイスで僕を出迎えた。

「あのさ、江川センセからだけど。分解して温度計を差せって。」

 僕は抱えていた冷却装置をケンタに見せると、そのチューブをケンタの方へ向けた。

「チューブに?」

「たぶん、冷却装置の温度じゃなくて、カウンターに入る直前の温度を測った方がいいってことだと思う。」

「なるほどね。」

「最初は冷却装置の温度が安定しないから、それを相談したんだけどさ、昨日話したろ。冷却装置の形が四角だとよくないのかとか。」

「ああ。」

「そもそも冷却装置の温度を測るのがダメだってことみたい。」

「で、冷却装置じゃなくて、カウンターに温度計をつけろってことか。確かにそれが一番かもな。」

「そう、そういうこと。」

 さっきの先生の指摘の意味をやっと理解する。卒業研究のことを考える時は、やっぱりケンタと話すのが一番だ。

「でも、あの器械、一台しかないだろう。分解して壊しちゃったら、実験続けられなくなるよ。」

「まあ、やってみようか。今日はたっぶり時間があるし。」

 実験となるとケンタは大胆だ。器械の分解にも、きっと自信があるんだろう。手作りの冷却装置は、結局ケンタにハンダゴテで仕上げてもらった。僕は手先はあまり器用じゃないが、ケンタのハンダづけはなんていうか、芸術的に綺麗なのだ。きっと工芸品っていう部類なんだと思う。

「時間ってそんなにあったっけ?」

「今日は雨待ちだからさ。」

「本当に雨降るかなあ。」

「まあ、明日が本命だよ。でも何があるか分からない。今日はレーダーとにらめっこだ。」

 そう言ってケンタはアプリの雨雲レーダーを見せた。労を惜しまないというのは美徳なんだろうけど、ケンタの場合は、もうちょっと手の抜き方を覚えた方がいい。

「それにしたって実験どうするかな。ヘタしたらカウンターが使えなくなる。そんなの僕たちにやらせていいのかな?」

「今のところ俺たちしか使ってないから、いいんじゃないの。」

 ケンタにはまるで躊躇がない。僕はまだ心の準備が出来てないので、実験の話を続けるのを一旦止めた。

「こっちはとりあえず今日はバイト。ランチタイムから夜までだけど、もし雨が降り出したら、店が終わった後はやれるよ。」

 実験の方は後でもできるので、まずはケンタとあれこれ観測の準備をする。ケンタと僕の研究は、気象による大気汚染物質の変化がテーマだ。やっているのは観測、実験、そして考察。一番は観測してどう変化するかを見極めることで、観測で分からなければ実験結果から推定する。推定したものは計算式にして観測データと比べ、いつかは確証に変えていくのだ。

 実験は器具の準備が面倒だし、計算式をプログラムにするのは頭の使い方が違って時間がかかる。でもどっちにしたって、いつでも出来ることだ。観測の場合は違う。条件が揃わないと良い観測データは得られない。だから僕らはチャンスをずっと待っていた。

 今日のうちにデータの観測方法を一通り確認しておく。交代で行う観測は全員の手順が全く同じでないといけないからだ。

「観測データは自動計測のも念のため全部メモしておこう。」

「みんな面倒くさがるんじゃないかな。」

「天気図とか後からでも取ってこれるからいいとしてさ。視程は器械でとれないから屋上行ってやるしかない。降り出したら雨水をとる。まあ、いつも通りだな。」

「この前使ったマニュアルの読み直しもまだやってない。足したり引いたりあるかもしれないし。」

「ああ、そうだね。」

 実際に観測する時には、マニュアルはほとんど見られない。それでも事前に作っておくことに、きっと意味はあるんだろう。二人でマニュアルを見直していると、どのくらいの間隔で観測を行うかの部分で目がとまる。ケンタはそこが気に入らないらしい。

「大事なのは上空のデータだ。前線が通過する時は一時間か三十分ごとがいい。」

 今までだと、これは三時間ごとになっている。

「そんなに出来ないんじゃないかな。」

「前線通過の時だけさ。極端な話、俺たちの研究だとその時間以外はなくても、まあなんとかなる。」

「なるほど、それならいいね。」

ケンタの言いたいことが分かったので、僕はすぐに同意した。そして研究室メンバーの役割分担に意識がいく。

「そこは人が多い方がいいよな。どのくらいだろう。通過する前後三回くらいあればいいかな?」

 僕はケンタの思う計画を確かめる。

「でも最低でも一時間ごとだ。」

「うーん、その時が勝負だね。」

「ところでバルーンって一人でも出来ないかな。上げたと同時に走ってセオドライトに行ってさ。」

「出来るかもしれない。でも今回は大事なデータになるだろうから、最低でも二人、できれば三人だな。」

「まあ、ここで冒険してもしようがないし。」

 この研究室でもそれなりに設備はあって、人が張り付いていなくてもデータは自動的に記録される仕掛けはある。どうしても人でないと出来ないのはバルーンと視程観測だ。僕たちはバルーンと言うが、正確にはパイロットバルーン観測、あるいは略してパイバルと呼んだりもする。風船を使って上空の風を測るものだ。もう一つの視程は、遠くの建物がどこまで見えるかを記録するもので、大気の汚れ具合の目安になる。僕たちの研究室では代々屋上から見える目印が引き継がれていた。大きな建物が完成すれば、そのたびに校舎からの距離が調べられる。そうして建物のリストは更新されていくのだ。

「バルーンの準備どうする。誰か呼ぶ?」

「ヘリウムはもう上だ。昨日、納品された時にそのまま運んでもらった。」

「じゃあ、確認はいいかな?」

「屋上に行こう。観測器の確認と、それにバルーンなしでテストさ。」

 ケンタはやっぱり手抜きはしないようだ。まあ、予測していたことではある。

「分かったよ。さっさと済ませてしまおう。」

 器械を担いだケンタと一緒に屋上に向かう。エレベーターの「R」で降りると、そこは薄暗い小部屋のようになっていて、外へ出る扉と機械室に入る扉の二つだけがある。屋上に通じる扉のわきには、ヘリウムのボンベがあった。ケンタはバルーンを一箱、ボンベのそばに置く。

「屋上まで来て、忘れ物に気づくやつがいるからな。」

「僕もやったことある。」

 しゃべりながらヘリウムボンベのメーターを確かめた。

「中身、大丈夫そうだね。」

「ああ、昨日と変わってない。」

 それから僕は鍵を取り出した。僕たちの研究室は屋上で観測をよくやっているから、特別に鍵を常に貸してもらっている。この観測は研究の一環で、それは大学からも認識されていることだ。

 屋上から見えるのは高層ビルと青空。白い雲が何本も横に長くのびていた。いつも僕たちは、最初に視程観測をする。というか、単純に見晴らしの良い場所に着いたら、そういうことをしたいのだ。

「東京タワーはばっちりだ。」

 ケンタは反対側を見て返事をする。

「スカイツリーもオーケー。」

 東京タワーもスカイツリーも見つけやすい建物だ。形が特徴的でも遠いほど探すのは難しくなる。新宿の高層ビル群、海沿いの観覧車、さらに遠くの目標物となると、はっきり見えている日に形を記憶しとかないと自信が持てなかった。

 屋上には気象の観測装置が中央にどーんと据え付けられている。そのすぐそばに、三脚をつけたままのセオドライトをおろした。ケンタは水平器を使って、三つの足の長さを調整する。水平器の十字の目盛りには気泡が一つ浮かんでいて、それで地面に水平になっているかを確認できるのだ。ケンタはあっという間に終わらせたが、慣れていないとこれで五分もかかる。それからセオドライトの電池を確認して、スイッチを押した。

 十秒ごとに音が鳴って計測のタイミングを知らせる。アラーム音が鳴り終わった時にセオドライトの情報が記録される仕組みだ。レンズを見て、バルーンを常に中央に入るようにハンドルを回して調整する。基本は三回ごと、つまり三十秒ごとの値を採用していた。ケンタと僕は一回ずつ、バルーンの動きを想像してセオドライトを動かした。

 それが終わると、屋上に設置されている観測器の外観に異常がないか確認をする。特に変わった様子は見つからなかった。

「この後は自動観測データの点検だな。午後から電源を全部入れて異常がないか確認だ。」

 自動観測用の器材の管理は、研究室で最も詳しいケンタに毎回任されていた。

「そっちはケンタの専門だな。僕はそろそろバイトに出なきゃだし。」

「ああ、バイト終わったら一応メッセージ確認しといて。なんか入れとくから。」

「うん、分かった。あ、あとはペーハー計もあったか。」

「そうだな。そっちもやっとくよ。」

 時間を確認しようとしたら、メッセージが二つ入っているのに気づく。一つはバイト先の副店長からだ。

『紙テープ忘れずに』

『赤 白 緑 あと領収書』

 それで僕は思い出す。バイト先で行く前に買い物を頼まれていたんだった。そして、もう一つのメッセージは栄からだ。

『忘れてないよね』

『連絡ちょうだい』

 そうだ、両方忘れていた。僕は今日忙しいんだった。


 ビルばかりの学校の敷地の一角には、自販機とベンチが並んでいるスペースがある。僕が待ち合わせの場所に行くと同じ研究室のノブがいて、そのすぐそばに栄が座っていた。僕が声を出すより早く、ノブがいつもの笑顔を浮かべて話しかけてきた。

「よお。」

「ああ。」

「とりあえずコーヒー、飲む?」

「おごってくれんの。」

「あんまり軍資金がないのが悩みの種さ。」

 ノブはケンタと違っておしゃべり好きだ。ノブとケンタと交互に話すのは、僕の精神に良い効果がある気がする。

「ノブ、ちょっとごめん。待ち合わせなんだ。」 

「あら。私は別にいいのよ。三人でお話しましょうよ。」

 突然入ってきた栄に、ノブは両手を上げて、おおげさに驚いてみせる。身体を使った表現がノブは豊かだった。

「この子、バイト先が近くでさ。昨日、飲み会で一緒だったんだ。」

「あ、どうもはじめまして。」

 それから栄とノブは簡単に挨拶と自己紹介を交わす。

「ごめん、話ってなんだっけ。もうすぐバイトだからさ。」

「何時から?」

「もうすぐ」

 できれば早く済ませたいから、僕はわざと曖昧に言った。すると栄はそれを勝手に解釈する。

「じゃあ大丈夫ね。」

「なにが?」

「時間。」

 たぶん、からかわれているんだろうと僕は思った。

「はは・・」

「なんだか楽しそうだな。」

 ノブに言われて僕は心の中で愕然とした。

「今日は朝から忙しいんだよ。実験やら定期観測も始まるしさ。」

「まあ、いつでも楽しそうだから救われるよ。誰もお前が不機嫌だとは思わないさ。」

「そうなの? 誰にでもいい顔してるってこと?」

 栄がノブの言葉に反応する。

「ああ、ノーテンキな奴だと思われている。」

「嫌われている人とかいないの?」

「仲悪いのはいないんじゃないの。それに、こいつの友達変わったのが多いんだ。変人マニアじゃないかってくらい。友達に統一性がないよな。」

「そうかなあ。そうでもないと思うけど。」

 僕のつぶやきをノブはあっさり聞き流す。

「ケンタは変わりもんだし、あと稲垣とか村田とかとも仲良さそうだし。」

「八方美人?」

 その時、栄は顔の向きをすっと変えて片目だけ僕に向けた。その目が光ったように僕には見えた。

「っていうか、ふつうはそういう人格あり得ないよな。精神分裂じゃなきゃね。」

「稲垣も村ちゃんも、スポーツとかつまんない馬鹿話をするだけさ。」

「警戒なく話せるだろうと思うんだ、リョウって。俺だってそうだしね。どんな人の輪にいても警戒されないで馴染めるってのは、立派な特技なんじゃない。」

「なんでよ? 猛獣じゃないんだから、ふつうは警戒されないでしょ。」

「ところがそうでもないよ、ふつうは。だから話しやすいしね。」

「よく分かんないな。」

「そのへんが変わってるんだ。まあノーテンキだからさ。それがいつでも変わらないから、なんだかペンキで顔を塗りたくっても色がついてない感じだな。」

 顔中にペインティングされて前に押し出される自分、げんなりする想像だ。

「はは、そんなのヤダよ。」

「じゃあ、なんで笑ってんのよ。」

「・・あのさあ、とっても困った顔しているのに、笑ってるって言われることが多いんだよね。」

「なんとなく分かる気がする。」

 ノブの言葉に栄が同意した。僕はもう少し何か言いたかったが、いや小さいことだと思って、抵抗するのはやめておく。

「・・まあ、じゃあ、ほめてくれてると思っとくよ。で、相談ごとってなんだっけ?」

「誰か友達を紹介してもらおうと思ったんだけど、もういいわ。ノブくんに学校とか研究室のこと聞くの。」

「え、おれ?」

 ノブは栄の方を気にするそぶりを見えた。そう思うと急につまらなそうに自販機の方に目を向ける。なんだか不自然な動きだ。

「缶コーヒー、買わないの?」

 ノブが思い出したようにぼそっと言う。

「いや、すぐ行くし。お金もったいないよな。今度から魔法瓶買って、持ち歩こうかな。」

 僕はあまり考えずに思ったことを口にした。

「は?」

 ノブの目が丸くなったように見えた。僕はまた何か変なことを言ってしまったのだろうか。

「ほら、ちっちゃいやつ。」

「何を持ち込むって?」

「え、魔法瓶。温度が変わらない魔法のビンって書くやつ。」

「マホービンって、普通言わないぜ。一瞬分からなかったよ。」

「えー、そうかな。」

「そうだよ、いつの時代の人だよ、俺と同じ年だろ。そう言えばさ、この前もそんなのあったよな。なんだっけ? ロッカーの所でさ。思い出したハンガーだ。」

「ああ、衣紋掛けのこと。」

「そうそう、エモンカケ。言わないぜ、いまどき。」

 それからしばらく、ノブは一人で思い出し笑いをしていた。昔から人が面白がるポイントが分からなくって困ることがある。僕は呆れ顔になったのだが、それを見てまたノブは笑った。

「そんなに嬉しそーな顔すんなよ。」

 ノブはてんで見当違いなことを言う。こんなことに自分の時間を使っている場合なのか、なぜだかそんな気がしてきた。

「そろそろ時間だから行くわ。」

「いってらっしゃい。ノブくん、もうすこしここで話していい?」

「別にいいよ。」

 ノブは、自分の頭の後ろに手をやって、なんだか照れたように笑っていた。まあ、二人のことは放っておこう。僕の次の予定はアルバイトだ。僕はノブたちに背中を向け、早足で下りていった。ソソクサという音がしていたかもしれない。

 そのまま道路を歩いて僕はバイト先へ向かう。白いすじ雲がきれいな青い空、気持ち良い風だ。空のはしっこに、白いのっぺりした雲も出てきた。雨、本当に降るのかな、僕はまた同じことを思った。


 バイトに行く前に買い物しとかないといけない。僕は飾り付けの紙テープを頼まれていた。赤と白と緑の三色だ。最初、大学の生協が思い浮かんだが、紙テープなんてしゃれたものが置いてあるとは、どうにも思えない。だから僕は神楽坂にある文房具屋へ向かった。地下鉄の出入り口のすぐ近く、『紙店』という看板だが僕は文房具屋だと思っている。たぶん老舗だ。

「すいません、紙テープなんてありますか?」

 接客に出てきたのは着物姿の女性だ。髪の毛は真っ白だった。

「ありますよ。何色かしら?」

 意外としっかりした口ぶりで彼女は言う。

「赤と白とそれに・・」

 その時、もう一色を度忘れしてしまっていた。

「それに青だとトリコロールね?」

「トリコロール?」

「フランスの国旗、自由と平等とそれに友愛よ。」

 紙店としては常識レベルなんだろうか。穏やかな語り口で博識を披露する。

「青と白と赤。緑、白、赤だとイタリアね。」

「はい、イタリア料理屋なんです。明日は特別企画なんで、そのために飾り付けをするんで。」

「じゃあ、あと一色は緑ね。赤と白の紙テープ、赤と白と緑。」

「イタリアの国旗の色なんですね。」

「イタリアは赤、白、緑。緑、白、赤だったかしら。」

 三本の紙テープを重ねて横に並べる。そして上を半分だけ手で隠して見せる。それで彼女の手の中で小さな国旗ができた。

「とにかくイタリア料理の店なんです。」

 僕は最初からイタリア国旗の三色を知っていたように言った。ともかくも博識な彼女がいる間は、この店は安泰だろう。僕はすこしだけこの店に愛着を持った。

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