朝の天気予報
僕らは雨を待っていた。ぱらぱらした雨でなく何時間も続く強い降り。そんな雨をずっと期待していた。
『低気圧が接近中』
朝一番のメッセージはケンタからだ。すぐにアプリで天気予報を見ると太陽のアイコンがいばっている、今日は晴れだ。では明日はどうだろう・・、曇りのち雨のマーク。うん、いいぞ、いい感じだ。
勝負は次の雨、それはずいぶん前から分かっていた。その雨がいよいよやってくる。目覚めたばかりの僕には、明日がひどく運命的に感じられた。それに、これならバイトのシフトもちょうどいい。
布団の中で雨のマークを眺めてぼんやりしていたら、ケンタから電話が来た。どうやらメッセージの返事を待ちきれなかったみたいだ。
「おはよ。今日は遅刻なしな。」
「分かっているよ。」
僕は遅刻しないタイプなんだけど、ケンタは全然そう思ってない。
「バイト行くんだろ? その前に準備をやっときたいんだ。」
「今日でバイト先の点数を稼いどかないとさ。明日からしばらく休むし。」
「だから、その前な。」
「ああ、午前中にひと仕事しに顔出すよ。」
バイトに行くのは今日だけなのに、なぜだか僕は言い訳口調になっていた。たぶんケンタの方は、すでに万全の状態で雨を待ち構えている。
「雨が予定より早く降り出すかもしれない。そしたら、一日早めにスタートさせよう。」
大学の研究室で行う定期観測はちょうど明日からだ。この期間は、研究室の学生が交代で、気象や汚染物質の観測を続ける。だから情報量は飛躍的に上がるのだ。これを毎日できないのは、観測だけで卒業研究は出来ないし、学生はそれだけで卒業したくないからだった。
「一日早めるなんて、そんなこと出来んの。もうみんな予定組んでるだろ。」
このところ雨がなく、大気中には汚れがよどんでいる。小さな粒子は空に浮かびながら、じわじわと固まり始めているのは間違いない。だからこそ、次の雨が研究材料として貴重だ。でも、それはあくまでケンタと僕だけの事情であった。
「二人で出来るのだけやればいいんだ。それなら誰も文句はないだろ。できれば夜中のデータもほしいし。」
二人っていうのは、たぶんケンタと僕のことだ。
「あっ、そういうこと?」
分かったよ、僕の文句は聞こえないってことだね、と心の中で納得する。とにかくも具体の話を確かめようと僕は質問をした。
「じゃあ自動計測と視程観測くらいか。」
「バルーンも上げよう。器材はだいたい揃っている。」
バルーンとは風船のことで、この風船の位置をしっかり追うのが僕たちの重要な観測だ。
「研究準備は、さすが抜かりないね。」
そもそもケンタは、研究以外はしっかりやる気がないのだ。それから一つ思い出したことがあったので僕は聞く。
「器材って新型ってことだろ?」
ここ数日、僕たちは新型バルーンのテストをしていた。風船につける豆電球と電源を改良して小型にしたものだ。
「ああ、もちろん。もう使っても大丈夫。」
「それは楽しみだね。」
ケンタが細やかな工夫を入れて試作品を作り、それを僕が何度も試す。二人でやりとりを続けていくうちに器材は完成するのだ。僕はその役割を結構気に入っていた。
「それにセオドライトの動作確認をやっておこう。」
「この前やったばかりじゃないか。」
セオドライトは三脚つきの経緯儀のことで、バルーンを追う器材だ。僕たちはそれを使ったテストを二、三日前にもしていた。
「そう。だから今日やるんだ。確認しなきゃいけない器材はいっぱいある。」
ケンタの理屈だと、昨日やってないから今日やる、であって、昨日より昔の動作確認は信用していない。要は出来るだけ確認をしないとケンタは気が済まなくて、それに一番付き合うのはたぶん僕だ。
「分かった。分かりましたよ。」
「まあ、そういうわけだから遅れるなよ。」
話を閉めるようにケンタは最初と同じことを言った。論文みたいに言いたいことを繰り返す。つまりは、電話してきた一番の目的は、僕の遅刻防止だってことだ。
「いつだって間に合ってるじゃないか。まあ、用心深いのはいいけどさ。」
「用意周到ってこと。」
ぶっきらぼうな言い方しか出来ないので誤解されやすいが、ケンタの人柄は決して悪くない。嘘はつかないし、ごまかしたりしない。僕なんかから見ると、決めたことから逃げない姿勢は尊敬に値する。だからといって、人の和や雰囲気なんてのを理解しないのは、人として相当に劣っている部分である。
ケンタの言葉のおかげか、部屋を出る準備が手早く済んだので、僕はすぐに部屋を出る。もうすこし部屋でゆっくりしたかったけど、それはやめた。小さいことは諦めるのが大事、自分の中で決めているルールの一つだ。
きれいな青空。僕は空を見上げながら、すこし早足で駅へ向かった。本当に雨なんて降るんだろうか、天気予報を見ていなければ、どうにも信じられない空だった。青空を見ていたら、ふいに何かのイメージが浮かぶ。今朝見ていた夢だ。
僕は砂漠にいた。確かそうだ、ただ漠然と砂漠を歩き続けていた。それはよく見る夢なんだけど、砂漠を歩いている理由がいつも分からないのだ。そんなことを思っているうちに駅に着く。
大学のある駅の改札から迷路のような地下道を抜けた。いつもの通学路をたどったら、また日の光を浴びる。そこから花屋のわきを通れば大学までもうすぐだ。神楽坂に面した花屋には人の気配がない。昨日の朝に通った時は盛況で、見事な花や切り取られた茎なんかが次々と運ばれていた。今日はずいぶんと雰囲気が違う。発泡スチロールやダンボールが積まれていて、店の奥は薄暗い。まだ店は動き出していないみたいだ。たぶん仕入れの都合なんだろう。花屋のわきを抜けようとした所で、背後から誰かに呼び止められた。
「こんにちは。」
女の子の声だ。ふいをつかれると身体がふっと軽くなった感じになる。童話の世界に入ったみたいに地に足がついていない中、僕は振り返った。はっきりした目鼻立ち、スポーツによるものか肌はすこしだけ焼けている、昨日も同じような印象だった。
「あっ・・栄ちゃん?」
僕は慌てて昨日の記憶を呼び起こす。なんとか両足を踏ん張って、足のうらで地面の感じを確かめた。栄は、僕が驚いているのを心底楽しそうに見ている。
「偶然だね。こんな所で。」
「そうでもないわ。会おうと思ったからこうしてるの。」
わざと混乱させるようなことを言う性質なのだろうか。昨日の夜、仲間たちとの飲み会にいたコだ。以前から栄の顔はなんとなく知っていたが、その時に初めて彼女と会話らしい会話をした。もちろん名前を知ったのは昨日の夜のことだ。
昨日も会ったコだ、それが分かってふわふわとした感じは落ち着いたが、なんだか居心地が悪い。このコはなんでここにいるんだろう。僕はすこしだけ歩きかたをゆっくりにして、会話の糸口を探す。
「昨日はちゃんと帰れた?」
「うん、別に酔っ払ってなかったし。」
「まあ強い方なんだね。」
「そうかな。・・ねえ、あのあたりよ。私がお鍋を持ってるとこ見かけたのって。」
そう言って、栄は通りの向こうを指差した。
「あ、ああ。」
それは神楽坂入り口の洋菓子屋のあたりだ。僕は何日か前、壊れた鍋のフタを持って、神楽坂をうろうろしていた。ぼんやりと昨日の会話の断片を思い出す。あの時、彼女は偶然僕を見ていて、昨日の飲み会で自己紹介もそこそこに、まずその話をしてきた。
「あの人はなんで鍋のフタだけ持って歩いてるんだろうって、とっても不思議だったの。よくパンを取りに来るアリオの人だって、すぐ分かったわ。」
アリオとは僕のアルバイト先、イタリア料理屋の名前だ。このコがバイトをしているパン屋さんも同じビルの中にある。
あの時、じつは鍋のフタは取っ手が壊れていた。もう何年も店長が使っていた圧力鍋、おいしい料理を作り続けた相棒だ。その頑丈なフタは、僕が鍋を洗う時にちょっと手を滑らせただけで、簡単に壊れてしまった。むき出しになっていた水道管にぶつかって、ゴムの部分が欠けたのだ。とんでもない熱さになる圧力鍋なので、取っ手のゴムがなくてはもう使えない。昨日の夜、僕はそれをどこまで話したんだっけ。
「今日はバイトじゃないの?」
面倒になったので適当な質問をすると、彼女は元気に笑って返事をする。
「今日は夕方から。」
「ふうん。」
「ねえねえ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、お茶でもしません?」
今日の予定はもう決まっているから、お茶をする時間は僕にはないはずだ。
「ごめん、今日は忙しいんだ。これから研究室に顔出して、その後はアルバイト。明日から研究室で定期観測が始まるしさ。」
「時間は合わせるわよ。」
強い意志がある感じのしゃべり方だ、やっぱり手強い。そう、昨日の夜も感じたことだ。自分の意志が明確なのはケンタに似ているけど、相手に曖昧さを許さない。だから話していると、ずいぶん疲れるのだ。
僕は昨日の彼女の印象をゆっくりと思い出してきた。昨日の夜の結論としては、とにかくこのコは悪い人ではない、ということだ。
「いったいなんの話さ。」
「八方美人と独善の話。」
「そうか。えーっと。」
そういえば昨日そんな話をしたけど、よく覚えていない。
「とりあえず研究室に顔出さなきゃいけないから、アルバイト行く前でいいかな。十時半くらい?」
まずは研究室に行くのが優先だ。このまま栄と場所を変えて話すってのは、観測の準備をしているケンタの方に具合が悪い。
「いいよ。じゃあ落ち着いたら連絡して。」
「ああ、そうだね。」
研究室とアルバイト、それが最近の僕の全てだ。それで十分なのに、今日は栄に付き合う用事も入ってしまった。どうにも順番が難しい。僕には頼みごとをしやすいんだろうか。まあ単に損な役回りばかり回ってくる性質なのかもしれない。
キャンパスに入ったところで栄と一旦別れた。僕の目的地は一号館の八階だ。エレベーターの中は僕一人、上昇中に昨日の栄との会話をいくつか思い出してきた。そうだ、確か彼女は怒り出したんだ。僕が何か気に触ることを言ったせいで。それは八方美人の話だったような気がする。八方美人の話、それは確か・・、そこでエレベーターの扉が開いたので、僕は栄のことを思い出すのを止めた。