前夜の月
血湧き肉踊るとは、まさにこのことだったのだろう。この八十年を生きてきて、これほどまでに狩り甲斐のある獲物は久しぶりだった。
明日の夕刻は、遠い町から郊外の森のワシの家に、孫娘が一人がやってくることになっている。
……だがしかし、今はまず目の前の危険から排除せねばなるまい。
鈴虫の鳴く夜。
目の前には、威嚇する狼が一頭。満月の月光の下に、一人の老婆は、その本性を表した人狼と対峙していた。
老婆の手には、長年使われ続けて味が出てきた長杖が握られていた。杖の先端には、老婆の頭ほどはあろうかという巨大な宝珠が飾られている。
一方で狼は、何も持たず野生の狼然とした佇まいだった。
老婆が魔力を練り上げる。周囲の空間が揺らぎ、精霊たちが呼応する。
狼は姿勢を低くして臨戦態勢をとっていた。
数度の激戦の後に傷つきあった体は互いにボロボロで、家屋の中は物取りに荒らされたかのように散らかっている。
「ブレイク!」
老婆が魔法名を唱えた。
揺らいだ空間が人狼へと飛来するが、彼はそれを見切って回避する。間一髪のところで尾を守りきると、できた隙に狼は走りよった。
もう体力の限界に近い。
老婆は杖の先端を狼に突き刺すように構えた。
もつれ、埃や紙を巻き上げながら飛んでいく。
やがてその背中は食器棚へと叩きつけられた。
「うっぐ……!?」
頭上から落下してくる食器。老婆はすかさず防御の魔法を使ってそれを防いだ。
──しかし、それが間違いだった。
狼はその隙を見つけて、老婆へと噛みついた。
「ぐぅああっ!」
悲鳴をあげる魔術師。しかし狼の顎は容赦なく彼女の腕を噛み砕いた。
杖を握る手から力が抜ける。
「くそったれ!この、犬如きが……っ!?ぐああぁぁぁぁぁあああ!!」
するりとそれは手元を離れ、パキッと音を立てて宝珠が割れる。
「ラハール!」
朦朧とする頭で、老婆は最後の力を振り絞った。
宝珠がキラリと一瞬輝き、粉末へと変わる。
しかし、人狼はそれに目もくれず、目の前の餌へとかぶりついた。
バリッボリッと、骨を砕く音が屋敷に響く。
血が飛び散り、脳漿が空を舞う。
頭蓋が割れ、破片が脳に刺さる。
毛細血管は千切れ、ぴゅーと血液が迸り、狼の顔を血で濡らした。
血を啜り、肉を噛み千切る。
牛肉とも鶏肉とも豚肉とも言える食感に、狼は思わず舌鼓を打った。
血液は鉄の味がする。すこし塩の味もする。
血液にふやけた生肉は柔らかく、毛が口内につくものの、気にしなければどうということもない。
四年ぶりに食べる人肉は、至宝の味がした。
目玉の中はドロリとした黒い液体がたまっていた。これはとても食べられたものではない。
人のような長い指のない狼は、それきり頭部の咀嚼を諦めた。
喉を噛み千切り、モツを引き出す。
未だに慣れない下手な動きだが、なんとかそれを引きずり出して、最後のデザートにとっておく。
四肢は明日の夕食にでもしよう。他は全部食べても問題ないはずだ。
そう考えた人狼は、その四肢を引きちぎって奥の棚に隠した。
引きずった跡に赤い線ができる。
これは面倒だし明日にでも掃除しておこう。
残った胴体と、デザートにとっておいた部分をぺろりと完食する。
老婆を食し終えた狼は、ジロリと口元の血を舐めとった。
狼の目の前には、既に原型を失っている、かつて老婆だったものが横たわっていた。
いや、横たわるというには自棄に善良的な表現だった。
もっと詳しく、適当に述べるならばそれは『食い散らかされていた』が相当だろう。
「……まだ、足りない……早く人に戻らねば……」
あの獣人に姿を変えられて早二百年。
慟哭の日々は増すばかりだ。
日のある内は人でも、夜になると狼へと変化してしまう。
どうしても不便ではある。
人であった愛しきあの人は、この姿のせいで死んでしまった。
嗚呼、憎しき体よ。
──満月の夜に、人狼の遠吠えが森を響かせた。
次回、血湧き肉踊る
魔法解説。
ブレイク:この世界で一般的に使われている攻撃魔法。込める魔力の量によって、威力が増減する。初等魔術に分類。
防御魔法:魔力を練り上げて、硬質化させ障壁を作り出す魔法。スペルは必要ない。集中し続けないと発動できないため、かなりの熟練者でなければ、多方向の展開や、並行発動は不可能。初等魔術に分類。
ラハール:和訳では火山泥流。火属性の土砂災害を起こす。今回は死にかけだったので、発動はしなかった。高等魔術に分類。