序章 円環のヒストリア 1
「もう一度言ってくれないかしら? 一番最初から」
美冬ちゃんはそう言った。
今になって思えば、これが全ての始まりだった
***
お昼の鐘がなり、午前の授業の終わりを告げる。
一時間の昼休み。普段ならもう少し元気があるものだが、今日はそうではない。
「夕夏、元気ないね。いつもお昼時はもっとテンション高くない?」
横から沙耶ちゃんに声をかけられる。
隣の席で寮のルームメイトでもある彼女からもそう思われていたようだ。
「まあね。それより、それじゃあわたしが食い意地張ってるみたいじゃん」
「私はあくまで夕夏の普段の様子からの帰納的推測をのべただけなんだけどねえ」
「キノウテキスイソク?」
元陸上部で、スポーツ少女という印象の強い沙耶ちゃんだが、頭もいい。沙耶ちゃんはよく私の知らない言葉を使う。
「いつもそうだからそうなんだろうってことだよ。ま、詳しいことは女王様にでも聞きな」
これは聞き捨てられない。
「……そういう呼び方はよくないと思う」
女王、姫、魔女、そういったあだ名で呼ばれる子はこの学校に一人しかいない。
――人を寄せ付けず、ひとり、天上に佇む一輪の花
その印象はもっともだし、そんなに間違っているわけじゃないけど、だからといってそれが正解だというわけでもない。彼女にだって年相応に子供っぽいところもあるし、可愛いところもある。
彼女のことを他の人よりは知ってるわたしだから、彼女がそういうあだ名で呼ばれるのを見過ごすことはできなかった。
「……わかったよ」
沙耶ちゃんは申し訳なさそうに目をそらした。
「で、話は戻るけど、夕夏はどうしてそんなに落ち込んでるわけ?」
「……レポート」
「レポートってあの森山の?」
「そう」
「で、そのレポートがどうしたって」
「存在、忘れてたことにさっき気づいた」
沙耶ちゃんは呆れたように目を覆う。
「出されたの、いつだっけ?」
「2か月前」
「提出期限は」
「明後日」
「無理だね」
少し間をおいて沙耶ちゃんが言った。
レポート、それがただの宿題なら徹夜でもなんでもすれば終わるのだ。
けど、森山先生のレポートは違った。
文集――正式名称、櫻花学園雑文集。
「レポート」とは、その文集に載せる原稿のことだ。
言ってしまえば自由研究のようなものだ。
ジャンルは理文を問わず、あらゆる分野について何かしらの「研究」をし、その成果を何ページかのレポートにまとめるというもの。
もちろん、高校生のやることなんて高が知れているが、それでも桜花に文集ありとまで言われるくらいのもので、高い水準の内容か、少なくとも何かしらの努力の痕跡が求められる。
2、3日ででっち上げたものを提出してしまったらどんな目に合うかわかったもんじゃない。
「沙耶ちゃんは?」
「私はとっくに出してるよ」
正式に課題として出されたのは2か月前だが、前もって知らされているので、それ以前から準備をしている子は多い。沙耶ちゃんもたぶんその一人だろう。
「逆に聞きたいけど、どうやったら忘れられるわけ?」
たしかにそうなのだ。
ふつうに考えれば、こんな大事なことを忘れるはずがない。
「だから落ち込んでるの」
そんなわたしを見た沙耶ちゃんは。
「まあ、諦めることだね」
と言った。
「あるいは、彼女に頼んでみるとか?」
***
彼女とは東雲美冬さんのこと。
そして、彼女はさっき沙耶ちゃんが女王と呼んだ人と同一人物。
正直あまり乗り気ではなかったが背に腹は代えられない。
わたしはだめもとで頼んでみることにした。
アドバイスくらいなら貰えるかもしれない。
***
「駄目ね」
……一刀両断。
長い黒髪をなびかせて彼女――美冬ちゃんは言った。
「やっぱそうだよね」
「だいたい代筆ってどういうことよ。貴方の責任でしょ」
返す言葉もない。
美冬ちゃんはわたしの頼みを切って捨てると目を手に持った本に戻した。
彼女はいつも本を読んでいる。だいたいが厚いハードカバーのもの。もしかしたら学術書なのかもしれない。
左手には購買のサンドイッチ。いつものようにハムサンド。彼女がそれ以外のものを食べているのを見たことがない。
彼女の顔は真剣で、もともと人を寄せ付けないような美しさがあるから、ますます怜悧だ。そのおかげで、左手にハムサンドという格好でも、まるで1枚の絵画のように完成されている。踊り場の窓から差し込む光もコントラストを添えている。
ここは北校舎4階から屋上へ向かう階段の途中。
ただでさえ人が少ない北校舎、まして屋上は当然閉鎖されているわけで、どこにも続かない階段の先っぽに来る人なんて誰もいない。
ある意味、学年で一番有名な彼女がお昼時ここにいるということをわたしが知ったのは、本当にたまたまのことだ。
そのことを知って以来、わたしはよくここに来ている。
何故と言われてもわからない。なんとなくほっとけなかったのだ。
むしろ、そんなわたしをあの「東雲美冬さん」が受け入れてくれたことの方が驚きだ。
「ちなみに美冬ちゃんはもう書いたの?」
「名前で呼ぶのやめてって言ってるでしょ?」
本当に受け入れてくれているかは微妙だ……
「いやだ! 美冬ちゃんは美冬ちゃんって呼びたい」
「……」
ちなみに、何回このやり取りをしたのかはもう覚えていない。
わたしはことあるごとに彼女を名前で呼ぼうとするがいまだに反対されている。
とはいえ、彼女もそこまで嫌がってるような感じはしないのでそのまま押し切っている。
「で、美冬ちゃんはもう書いたの?」
「とっくの昔に」
「そうなんだ……」
少しの間沈黙。
「ああ! どうしよう」
空白に耐えられなかったのが半分、本心が半分、わたしは大げさに言った。
わたしと美冬ちゃんの会話はだいたいいつもこんな感じだ。わたしが一方的に話してることがほとんど。
冷静に考えてみると読書の邪魔をしているだけだが、彼女はとくに迷惑に思っているようなそぶりを見せない。無理に我慢しているというわけでもない。だいたい、彼女は嫌なものははっきりと嫌という性格だ。
今回もとくに美冬ちゃんからの応答を期待したわけではない。
「あきらめるしかないんじゃない」
本から目は話していないが、珍しく返事が来た。
「そんなこと言われても……」
「本気で仕上げるつもりならあと何日もないんだから今のうちにできることをしないとだめでしょ。というか私と話している暇あるの?」
ぐうの音も出ない正論。
「たとえばの話だけど、美冬ちゃんだったらあと2日で仕上げること、できる?」
ふつうに考えれば、できるわけがない。
たとえば、歴史に関する調べ物をテーマにするんだったら最低10冊の参考文献を読み込むことが求められる。それでさえ簡単なほうだといわれているのだ。理系科目の実験をやるんだったら最低でも1週間は時間が必要だ。
しかし、
「できるわ」
彼女は即答した。
「というより、今回も前回もその程度しかかけてないもの」
――天才
みんなは彼女のことをそう呼ぶ。
実際に、学校の試験では2位を圧倒的に引き離しての1位。去年の「文集」の原稿は最優秀賞をとったと聞いている。
けれど、そのために周囲との軋轢は深まるばかりだった。
彼女は思ったことを率直にいう。
わたしにはわからないけど、実績を伴った人に言葉で切り捨てられるというのはとても怖いことなのかもしれない。だから、彼女を苦手とする人は多い。沙耶ちゃんもその一人だ。自然と、美冬ちゃんは一人になっていった。
わたしはなんとなくそんな彼女を放っておけなくてつきまとっている。
「お願い!! 手伝って!! アドバイスだけでもいいから」
「さっきも言った通り自分で何とかしなさい」
「そんなこと言われても……、それじゃあもう中庭の猫に頼むくらいしか方法がないよ……」
「中庭の猫?」
美冬ちゃんが尋ねた。
「たしか櫻花女学院七不思議とかいうのの一つだよ。知らない?」
「私の交友範囲の狭さは知ってるでしょ。貴方が私に教えてないのなら知らないと思ってくれて結構よ」
そんなに堂々と言われても……
「この学校に七不思議なんてあったのね」
「うん。結構有名だと思う、たしか……
一つ、誰もいない音楽室から夜、「運命」の音が聞こえてくる。
一つ、図書館の閉架書庫の奥には呪われた二冊の本がある。そこには自分の過去と未来が書いてあるという。見つけても決して読んではいけない。読んだら呪われてしまう。
一つ、高校校舎には地下室がある。1階のどこかが秘密の入り口になっている。
一つ、校庭の隅にある桜の木のどれかで、昔、生徒が首を吊った。
一つ、中庭には人の顔をした猫が出没する。目を合わせることができれば3つだけ願いをかなえてくれる。
一つ、渡り廊下にある鏡を4時44分にのぞくと中に引き込まれてしまう。
一つ、北館には亡霊が彷徨っている。そのため、北館では生徒の数が合わないことがある。
だったと思う」
長くしゃべったせいで少し喉がつかれた。
前を見ると美冬ちゃんが本から目を離し、こちらを向いている。
「どうしたの?」
「貴方、そんなに記憶力がよかったかしら」
……ひどい
「わたしだってこれくらい覚えられるよ」
「そう、失礼」
そう言うと、また活字に目を戻した。
「それで、貴方がさっき言ってたのがその願いを叶えてくれる猫ね」
「そう、もちろん冗談だけど……」
すると、美冬ちゃんは驚くべきことを言った。
「それにしてみればいいんじゃない?」
「え?」
何を言い出すのだろう。本当に人の顔をした猫に相談しに行けというのだろうか?
「別に猫に相談しに行けといってるんじゃないわ。それを原稿のテーマにすればいいんじゃない?」
「テーマって、実際に検証してみるってこと? さすがにそれじゃあ通らないんじゃないかな」
仮に真剣にやるとしてもたぶん時間が足りない。
彼女は首を振った
「民俗学って知ってるかしら?」
「ミンゾクガク? 民族のお勉強?」
「いえ、民俗学。英語で言うとフォークロアね。独語でいうならフォルクスクンデ」
彼女は指で宙に字を書く。鏡文字をすらすら書けるのは地味にすごいと思う。
「そもそも一枚岩の学問とは言えないけど、無理に言うなら、民間伝承や文化の歴史的変遷、形状の変化を調べる学問ね」
「要するに歴史ってこと? それが七不思議と何の関係があるの?」
「歴史は歴史なんだけど、たとえば王様や権力者みたいな人物や、何人もの人が記録に残しているような大事件を扱うわけじゃないの。むしろ逆に、普通なら決して記録に残らないような市井の民草が当たり前に持っていた文化や常識を対象としてるわ」
「だから、それと何の関係が?」
「一般人が対象だから、現代の民話、言うなれば都市伝説や風評、噂なんかも対象として扱えなくはないのよ」
「なるほど」
わかったようなわからないような……
「その、民俗学っていうやつでどんなことがわかるの?」
「心理学に片足を突っ込むことになるけど、神話や噂、都市伝説や七不思議、そういった口承で伝播していくものっていうのは人間の意識を強く反映するのよ。伝言ゲーム、したことある?」
それならある。小学校の頃クラス三十人で。最初とは全く違う言葉になって驚いた記憶がある。
それを伝えると、
「そう。口頭で伝えられた情報っていうのは簡単に歪んでしまうのよ。人工的にルールを設定された伝言ゲームでさえそうなんだから、況や日常生活をや、ってことね。
そして、その情報の歪みにはある種の法則性がある。伝えている当人が意識するわけじゃないけど、その情報は自然に人間にとって語りやすい、理解しやすい形になるの。極論だけど、人間が共通して持つある種のイメージに近いもののみが長い時間を経て生き残り、語り継がれ続けるという学者もいる。昔話に似たような話が多いことなんかを証拠に挙げてね」
「いずれにせよ、そういって口頭だけで伝えられて生き残っていった情報はそれを伝えていった集団の平均的な思想を反映するものに変化していくのよ。ここまで言えば、なんとなく何をするのかわかってきたんじゃないかしら?」
なるほど、つまり、私がすることは
「いろんな人に七不思議について聞いたり、昔の学校新聞や文集なんかを調べてとにかく、七不思議についての情報を集めればいいんだね。あれ、でもそのあとはどうすればいいんだろう?」
「それは集まったものを見て考えればいいと思うわ。たとえば、時間的に顕著な変化が見られるんだったら時代背景と照らし合わせて考えてみればいいし、所属している集団間で差異が認められるなら、どういう差がどういう原因に起因しているのかを考えればいい。
このテーマの利点は、調べるべき対象、資料が全てこの学校内にあることね。必要な本が図書館にない、なんてなったら目も当てられないでしょう? それに、学問的価値がないわけでもない。民俗学の研究では本当にどうでもいいような一市民の残した記録が重要なことを語る、なんてこともある。たとえば、一日の入浴回数とかね。そんな当たり前のことを記録したものが役に立つことがあるのよ。だから、全寮制の女子校に伝わる七不思議に関する記録がいつか役に立たないとも言えないわ。少なくとも、物理法則から自明に導けることを必至こいて実験してまとめるよりは格好がつくと思うのだけど、どうかしら?」
「うん、やってみるよ」
異論などあるわけがない。
というか、なんだかんだでアドバイスしてくれてることからもわかる通り、実は美冬ちゃんはやさしい。みんなは知らない、私だけが知ってる彼女の秘密だ。
そうと決まればじっとしてられない。
とにかくたくさんの情報を集めなきゃならない。テーマを工夫したおかげで探す範囲は学校内の、しかも限られた資料と直接のインタビューだけに限定していいが、なんにせよ数がないことには話にならなさそうだ。
「じゃあ、早速みんなに聞いてみるね。何か注意したほうがいいことってある?」
「そうね、いろいろあるけど……まず、今のうちにあなたの知ってること全部をまとめておいた方がいいかもしれないわ。後になったら、いろんな人の意見を無意識に取りこんでしまう可能性があるから。
あなたの知ってる七不思議を言ってくれない?」
わたしはうなずく。
お安い御用だ。
「櫻花高校七不思議、
一つ、誰もいない音楽室から夜、「運命」の音が聞こえてくる。
一つ、図書館の閉架書庫の奥には呪われた二冊の本がある。そこには自分の過去と未来が書いてあるという。見つけても決して読んではいけない。読んだら……」
「ちょっと待って」
美冬ちゃんが止めた。
その表情は今日見た中で一番真剣だ。
「もう一度言ってくれないかしら? 一番最初から」
美冬ちゃんはそう言った。
その有無を言わせない強い言葉に、わたしはうなずくしかなかった。