恋人!
「何で、冬ちゃんがここに……?」
ゴキブリ共に囲まれ半分死を覚悟していた俺の目の前に立っていたのは、誰あろう俺の恋人、伏見真冬ちゃんその人だった。夏らしく麦わら帽子をかぶり、襟のついた白いノースリーブのシャツに薄い青のロングスカートを履いている。今朝彼女といた時はラフなジャージ姿だったので着替えてきたのだろう。太陽の光を背にした立ち姿が儚くも凛としていて妙に様になっていた。
冬ちゃんは玄関の扉を開けたまま、壁に張り付いて腰が抜けている俺を見下ろしあからさまなため息をこぼした。
「……夏くん」
突然自分の名前を呼ばれ、思い出したかのように心臓が大きく跳ねる。大量の虫を前にして先程まで活動を停止しかけていたというのに、都合のいい心臓だ。
「は、はい……」
カラカラに乾いた喉から捻り出すように声を紡ぐ。冬ちゃんは相変わらずの無表情で、実に格好よくこう言った。
「そこ、動かないで」
言って後ろ手にドアを閉めた彼女の両手には、どこから持ってきたのか一本のハエタタキと殺虫スプレー(しかも氷結タイプ)が握られていた。
え、と思ったのも束の間。冬ちゃんは部屋の中、虫の中心へと踊るように飛び込んだ。
そんな彼女の顔が楽しそうに笑っていたのは、きっと気のせいではなかっただろう。
*
「夏くん、相変わらず虫が苦手なんですね」
同日、空の色がオレンジ色に染まり出した頃、冬ちゃんはちょんとベンチに腰掛け、あつあつのたこ焼きを口に運びながらそう言った。
俺たち二人は学生寮のすぐ近くにある公園で、夕方になると出没する謎のたこ焼き屋、“焼き杉”の屋外ベンチに腰掛けたこ焼きを食べている。このたこ焼き屋、“焼き杉”という名前に似合わずその焼き加減は絶品そのもので、二百円という安さも相まって入学した頃からお世話になっている。おかげで店主とはすっかり顔なじみだ。
この公園は小高い丘の上にあるため、今の時間帯は大変に涼しく過ごしやすい。それに夏の訪れを告げるひぐらしの声や、夜の香りをはらんだ風、どこからか漂ってくる夕飯の匂いが、なんだが懐かしい気分を抱かせる。ここは俺のお気に入りの場所なのだ。
ゴキブリとハエに襲われ、地獄絵図と化していた俺の部屋に冬ちゃんが飛び込んできてから、事態はあっという間に収束した。
冬ちゃんは左手で持った殺虫スプレーで俺の周りを旋回していたハエ共を撃ち落とすと、右手のハエタタキでこれまた見事にゴキブリ共を叩き潰したのだ。まるで虫など恐れる様子も見せず、踊るようにゴキブリをちぎっては投げる彼女の勇士に俺は口を開いて見とれていることしかできなかった。
そうして角も俺の部屋に侵入した害虫たちは冬ちゃんによって駆逐され、その死骸の後片付けを二人で済まし、今こうしてお礼のたこ焼きを振舞っているというわけだった。
俺は手元のたこ焼きを食い終わり、一息ついたところで冬ちゃんに聞いてみた。
「なあ、そういや何で冬ちゃん俺の部屋にきたんだ? いや、おかげで俺は命を救われたわけだけど」
部屋の掃除をしている時から聞きたかったことではあったのだが、バラバラになったあのおぞましい害虫の死骸を片付けている間、俺が半狂乱に陥っていたため聞くに聞けなかったのだ。
冬ちゃんは「命だなんて大げさな……」と言いながら、たこ焼きを食べていた手を止めた。
「……お礼しようと思ったんですよ」
「お礼? 何の?」
「……今朝まで宿題手伝ってくれたお礼、しようと思ったんですよ。一緒に買い物でも行って、何か夕飯でも作ってあげようかと思ったんです」
「……冬ちゃん」
「……それで夏くんの寮の玄関に行ったら何だか異臭が漂ってるし、部屋の中から何かと戦ってる夏くんの声するし、これは虫でも出たのかなーって思って」
それですぐ近くのコンビニまで走り、ハエタタキと殺虫スプレーを引っさげ颯爽と戻ってきてくれたというわけか。
言い終わると、冬ちゃんは再びたこ焼きを口にほうりはじめた。そんな様子につい笑みがこぼれる。
だって、いい言葉じゃないか、お礼。相手を思い、見返りを求めずに奉仕する。言葉にしてしまえば陳腐なものだが、そこにあるのは相手を気遣う思いやりの心だ。それをいつも無口な冬ちゃんが俺に対してお礼だって? 嬉しくないわけねえだろ。
「なあ、冬ちゃん」
「……はい?」
「何かお礼させろよ。虫退治してくれたお礼。俺本気で助かったからさ」
「お礼、ですか」
冬ちゃんは可愛らしく小首を傾げて空を見上げた。彼女は何か考え事をするとき空を見る癖があるのだ。
そうしてしばし考え込んだあと、冬ちゃんは何かを思いついたように手を打った。
「……どこか、連れてってください」
「どこかって、どこ?」
「どこでもいいです。一緒にどこか、遊びに行きたいです……」
急に恥ずかしくなったのか、声のトーンが下がり俯いていく冬ちゃん。顔真っ赤っかだ。
俺は必死に笑いを堪えながら、
「おっけ。どこでも連れて行ってやるよ。とりあえず冷えてきたから、このデートの打ち合わせは帰ってゆっくりやるとするか」
「や、で、デートとか、そんなんじゃ……!」
慌てて立ち上がり抗議する冬ちゃん。そんな彼女が可愛らしくて、俺は声を上げて笑った。
俺たちはたこ焼きの容器を丁寧にまとめてゴミ箱へと持っていき、店主に一言挨拶をしてから歩き出した。
しかしこうして改めて思うと、冬ちゃんはとてもよく出来た子だと思う。基本的に無口な子なのだが挨拶はしっかりできるし人当たりもいい。料理もできるし掃除洗濯もお手の物、さらに虫まで平気で駆除できる、まさに完璧な女の子だ。自分で言うのもなんだが、俺には勿体無いくらいの女の子だと言ってもいいだろう。苦手なものなどあるのだろうか。ゴキブリすら平気で掴む冬ちゃんが苦手とするもの……うーん、想像がつかない。
そうして俺は頭をひねりながら歩き、不思議そうにこちらを見ながら前を歩く冬ちゃんが公園を出ようかというその時だった。
「……おろ?」
俺の足元で一匹のカエルが跳ねた。どこから迷い込んだのか、土にまみれてすっかり汚れている。いや、これはヒキガエルか。土の上で生活する珍しいカエルだ。
俺はのっそり跳ねるヒキガエルの背中をつまみ、手の平に乗せた。
「おい見ろ冬ちゃん! おもしれーもん拾ったぞ!」
俺の声に、何ですかと言いたげないつもの無表情で振り向いた冬ちゃんは、手の平の上で収まっているカエルに焦点を合わせた途端、固まった。
「見ろ見ろ! こいつはヒキガエルっつってな、このあたりじゃあんまり見ない珍しい……」
俺がよく見せてやろうと手を冬ちゃんに向けた瞬間だった。
「ぎょえええええええええええ!?」
冬ちゃんの漫画のような叫び声が公園中に響き渡った。俺が何事かを問う前に冬ちゃんは走り出し、目の前にあった階段を文字通り転がり落ちていく。
「ちょ、冬ちゃん!? 大丈夫かおい!?」
ヒキガエルをその場におろし慌てて駆け寄ってみると冬ちゃんは、
「こっち見てたこっち見てたこっち見てたこっち見てた……」
と、まるで呪文のように呟きながら猫のように体を丸めて震え上がっていた。
「……もしかして冬ちゃん、カエルがダメなのか?」
俺の声に冬ちゃんは一瞬ビクッと体を震わせ、その手にカエルがいないことを確認すると、泣きそうな顔をしながらとんでもない力で抱きついてきた。肩口で綺麗に切り揃えられた髪がふわりとなびき、思わずドキッとする。が。
「カ、カ、カエルだけはダメなんです。ほんとにほんとにダメなんです。見ただけで三回は吐けます……うぷっ」
そして俺の腕の中に顔を埋めたまま盛大に吐いた。
「…………」
台無しだよ。
冬ちゃんと付き合い初めてはや一年がたつが、彼女の意外な一面を知ることができた、そんな暑い夏の日だった――
/了
私も虫が平気でカエルがダメです。だって、気持ち悪いじゃないですか?