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恐慌!

 俺が叩き飛ばした“G”は、床に転がることなく壁に張りついて死んでいた。死んでいたとひと目で分かったのは、原形をとどめず、体液を撒き散らして潰れていたからだ。


 自分でやっておいて言うのも何だが、気持ち悪いなんてものじゃあない。後で掃除しなければならないことを思うと怖気が走る。


 だが、ここで怯んではいられない。ここは主な生活スペースである六畳間。奴らが最も侵攻しているであろう台所へと続く扉を開けていないのだ。夏場の腐った米と野菜炒めは、奴らにとって最高の餌場となっているだろう。そこがどんな惨状となっているのか……想像するだけで恐ろしい。


 俺はハエタタキを左腰に携え、しっかりと柄を握ったまま一歩を踏み出した。目指すは台所。神経を研ぎ澄まし、いつでも切り込める態勢でゆっくりと進む。


 と、再び右の壁を走る黒い影。

 

 それが視界に入るや否や、俺は躊躇なくハエタタキを振るった。

ズパンッ! と小気味よい音が響き、背後の窓に白い体液が散る。

後のことなど考える余裕はない。優先すべきは奴らの殲滅だ。


 俺は部屋の隅にある横開きの扉に手を掛け大きく息を吸った。

躊躇いは一瞬。勢いよく扉を横に叩きつけた。


「……うっ!!」


 最初に俺を襲ったのは、猛烈な臭気だった。米が腐った臭いなのだろうか、脳天まで突き刺さるような強烈な悪臭。それが鼻から口から俺を包み込むように出迎えた。

 思わずハエタタキの柄から手を離し鼻を覆う。もし空気に色がついていれば、この部屋は茶色と紫色とでさぞ禍々しい様相を醸し出していただろう。こみ上げてくる吐き気を堪えて顔を上げた俺は、腐敗臭で目が痛くなるということを、この日初めて知った。


 そして涙で霞む視界の中、そんな死の臭いなど気にも留めず水を得た魚のように蠢く黒い影。体が石になったかのように動かなくなった。


 朦朧とする意識の中で俺が見たのは、餌場に入り込んだ侵入者を見つめる黒い無数の目だった。


 ――ああ、ここは地獄だ。色のない灰色の世界なんかじゃない。色鮮やかな、現実という名の地獄だ。


「……ぅ、ぁぁあああああッッ!!」


 先に動いたのは俺だった。いや、動くことしかできなかったというべきか。想像を絶する恐怖に耐えきれなくなったのだ。


 手にした唯一の武器を滅茶苦茶に振り回しながら台所へと突入する。目の前にいた一匹をハエタタキで力の限り叩き飛ばした。続けて二撃、三撃、真っ白になった頭をフル稼働しハエタタキを振るい続ける。一体自分は何をやっているのか、何を殺しているのか。ともすれば忘却してしまいそうな儚い理性を必死に繋ぎとめながら、猛然と腕を動かし続けた。きっとこの時の俺はすでに半泣きだっただろう。間違ってもこんな姿は彼女には見せられない。


 そんな俺を嘲笑うかのように、うじゃうじゃと這い回る奴らの中から突然何者かが大量に飛び上がった。何事かと目を凝らす俺は、息を呑んだ。


「……ひぃぃぃっ!?」


 それはこれまた膨大な数のハエだった。当然だ。腐った食い物に集まるのはGだけじゃあない。

 突然の攻撃に飛び上がったハエ共は、俺を敵と見なすや否や、数にモノをいわせて押し寄せてきた。当然虫全般を苦手とする俺はたまったもんじゃない。


「うぎゃあああああああ!!!!」


 頭の中で“ぼきん”と何かが折れる音がした。金属が折れるみたいな音だった。

 鮮やかな弧を描きながら俺めがけ飛来する黒いハエ。怖いなんてもんじゃねえ!


 そこから俺の行動は早かった。


 手にしたハエタタキを迷うことなくほっぽり出して、尻尾を巻いて逃げ出した。そのまま愛すべき六畳間へと転がるように飛び込み壁を背にして固まる。


「はあ……はあ……はあ……!」


 大量のハエ達は耳障りな羽音を撒き散らしながら、逃がすものかと俺の周囲を取り囲んでいく。当然、唯一の逃げ場である玄関への扉もだ。


 しまった、と思うがもう遅い。ほんの数秒の間にハエやらゴキブリやらに周囲を囲まれ、気がつくと俺は部屋の隅に追い詰められる形となっていた。一体どこにこれだけ潜んでいたのかと思うほどのおびただしい数だ。背中を嫌な汗が流れていく。


 これで全ての退路を塞がれた。今の俺は三角コーナーに追い詰められたボクサーのような有様である。壁の隅に追いやられ身動きも取れず、ただやられるのを待つばかりか……。

 俺は静かに目を閉じた。


 この大学に入学してからはや三年。思えば長いようで、短い時間だった。


 俺は勉学はあまり得意ではなかったが、好きな本を読むために図書館に通いつめそこで知り合った同じ学部の後輩と仲良くなり、途方もない苦労の果てにようやく恋仲にまで至ったのがおよそ一年前。

 楽しかった。彼女と過ごす時間は。

 一つ年下の彼女は恥ずかしがり屋で、何を考えているのか分からない無表情で、それでも照れながら笑う顔が可愛くて。俺はこれからの時間を彼女のために使おうと本気で思ったりして。どうしようもなく彼女のことが好きになって。

 恋仲になってからも苦労はあった。勉学のことで悩んだり、デート場所について言い争ったり、二人の将来について語り合ったことも幾度となくあった。辛いこともあったが、それでも俺の短い人生の中で一番輝いていた時間だったと胸を張って言えるだろう。


 瞼の裏に彼女の顔が浮かんで消えた。


 もう彼女の顔を見れないかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうに痛んだ。


「…………ちゃん」


 逃げ場のなくなった自分の部屋で、あたり一面を大量の虫に包囲されて、最後に俺の口からこぼれたのは、好きな女の子の名前だった。


「……ごめん、冬ちゃん」


「……何で私に謝ってるんですか」


 突然玄関の扉が、聞き慣れた声と共に開かれた。




 

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