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やみこさん

作者: あかみんご
掲載日:2026/06/14

私の家には、「やみこさん」がいる。

いや、いるらしい。


私は一度も見たことがない。

だけど父も母も兄も、やみこさんがいることを疑わない。


朝になるとみんな、誰もいない空間に

「やみこさん、おはよう」

と声をかける。


夕食になれば五人分の食器を並べる。

テレビでお笑い番組を見ているときは、


「やみこさん、こういうの好きだよな」


などと言う。


私が物心ついたときからだ。

最初は冗談だと思っていた。

家族みんなで続けている、ごっこ遊びのようなものだと。


だけど、小学生になっても終わらなかった。

中学生になっても終わらなかった。

高校生になってもまだ終わらない。


昔一度だけ、家族に聞いたことがある。


「やみこさんって、誰なの?」


小学三年生のときだった。


すると父も母も兄も、箸を止めた。

三人とも不思議そうな顔をした。


まるで「空って何?」と聞かれたみたいな顔だった。


「誰って……やみこさんだろ?」


それ以上の説明はなかった。

それ以来、私は二度と聞いていない。


中学時代に一度だけ、友達を家に呼んだことがある。

テスト期間が終わった日のことだった。


母は張り切ってケーキを買ってきて、居間をきれいに片付けた。

友達の真理は最初こそ楽しそうにしていた。


「あれ?」


けれど、母がケーキを運んできたとき、真理が小さく首を傾げた。

テーブルの上を見つめている。


「誰か来るんですか?」


その言葉に、私はハッとした。

母が当然のように、四人分の皿とフォークを並べていたからだ。


私と真理と母。

そして、やみこさん。


私は言葉に詰まった。

母は何の迷いもなく答えた。


「ううん、みんないるよ」


そして空いた席に向かって微笑んだ。


「ね、やみこさん」


真理の顔が引きつった。

結局、ケーキの味なんてほとんど分からないまま、気まずい時間が過ぎた。

夕方になり、真理を見送る帰り道。彼女は恐る恐る聞いてきた。


「ねえ……あの席、誰かいたの?」


私はしばらく黙っていた。

答え方が分からなかった。


「……うちの家族みたいなもの」


そう言うと、真理はますます困った顔をした。

翌日から、彼女は私の家の話をしなくなった。

二度と遊びに来ることもなかった。


私もそれ以来、家に友達を呼ばなくなった。

恋人も作らなかった。

誰かを家に連れてきたら、説明しなければならない。


説明できるはずがなかった。

やみこさんが何者なのか、私自身が知らないのだから。


高校生になる頃には、私は家族と食事をするのが嫌になっていた。


理由は自分でも上手く説明できない。

ただ、食卓に当たり前のように並ぶ「五人分」の光景が、

狂気としか思えなくなっていたのだ。


母はいつものように大皿の唐揚げを配分していく。

父はテレビを見ながらビールを飲んでいた。

兄はスマートフォンをいじっていた。


どこにでもある平凡な夕食。

違うのは、誰も座っていない席の皿に、一番大きくてジューシーな唐揚げが乗せられ、湯気の立つご飯と味噌汁が添えられていることだけだった。


食事が終わると、母は食器を片付け始めた。

私は手伝うふりをしながら、流し台を見る。


泡まみれになっていく、五つの茶碗と、五膳の箸。


「やみこさんって誰?」


小学三年生のときに聞いたあの日以来、私は二度と口にしていない。

それでも毎日名前だけは聞こえてくる。

まるで天気の話でもするみたいに。


「やみこさん、今日は静かだな」

「やみこさん、それ好きだったね」

「やみこさんの分、残しておこうか」


そのたびに思う。


本当にいるのなら、なぜ私は一度も見たことがないのだろう。

本当にいないのなら、なぜ家族はこんなことを続けているのだろう。


そして一番怖かったのは、十年以上もそんな生活を続けているうちに、

私自身、その異常さを上手く説明できなくなっていたことだった。


だから高校を卒業し、地元の大学への進学が決まったのを機に、私は家を出ることにした。


「自立したいから」と、もっともらしい理由を並べたけれど、本音は違った。

あの見えない「五人目」がいる異常な空間から、一刻も早く逃げ出したかったのだ。



引っ越しの日の朝。

居間には、私の荷物が入った段ボールが並んでいた。

母は朝食の準備をしながら、ずっと鼻をすすっている。


「本当に、行っちゃうのね……」


母が涙を拭いながら、ぽつりと言った。


「やみこさんも『行かないで』って、さっきからずっと言ってる」


母の視線は、私のすぐ後ろに向けられていた。

誰もいない空間。

普通なら背筋が凍るところだが、今日で最後だと思えば、

怒りのような感情が勝った。


私は何も答えなかった。

ただ強く唇を噛み締め、引っ越し業者のトラックに乗り込んだ。

後ろを振り返ることはしなかった。


新しいアパートは、狭いけれど快適だった。

ここには父も、母も、兄もいない。

そして何より、「やみこさん」がいない。


荷解きを終え、その日は泥のように眠った。

生まれて初めて、家の中で気を張らずに過ごせた気がした。


やっと、普通の人間になれたのだ。


翌朝、私はカーテンを開けた。

眩しい朝の光を浴びる。

気分が良かった。

お腹も空いている。


キッチンに立ち、買っておいた食パンをトースターに入れた。

フライパンで目玉焼きを焼く。

チチチチ、とタイマーが回る音が心地よかった。


トーストの香ばしい匂いが狭い部屋に広がり、やがて――チン、と軽快な音が響いた。

私はお皿を取り出した。

焼き上がったトーストと目玉焼きを盛り付けて、テーブルに運ぶ。

それから、引き出しからマグカップを取り出して、テーブルに並べた。


「……あれ?」


手が、止まった。

テーブルの上を見つめる。


そこには、トーストと目玉焼きの乗ったお皿が二枚。

湯気を立てるマグカップが、二つ。


綺麗に、()()()の朝食が並んでいた。


冷気が、足元から這い上がってくる。


この食器は、誰の分だろう。

私が、無意識に並べたのか。


それとも――


静まり返った部屋の中で、

向かい側のマグカップから立ち上る湯気が、ゆらりと揺れた。




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