お菊の皿+1
幽霊というのはいつの時代も怖い存在です。現代ならトイレの花子さん、口裂け女、なんてのが割と有名ですが、ちょっと昔ならお岩さん、お菊さんなんかが花形でして。
でも幽霊ってえのは難儀なもんで。人を驚かすのが仕事ですから、怖がってもらわないと商売にならない。
化けて出る方も大変だってえ話を一席。
八兵衛ってえ男がおります、ある時用事が立て込んでしまいまして、帰りがたいそう遅くなりました。
「こんな夜中になるまで仕事なんかするつもりはなかったんだけどなあ。
晩飯も食い損ねちまってどうしようもねえ。周りは暗ぇし腹ぁへるし、散々な一日だよまったく」
提灯片手にトボトボと歩いておりますってえと、突き当たりの、何とも古い屋敷のあたりから声が聞こえてくる。
「うらめしや……」
八兵衛、足を止めまして。
「うらめしや?……腹減しや、もしかして飯屋か。こんな夜中だろ、ああそうだよ屋台が屋敷に立ち寄ってるに違ぇねえ。こいつぁありがてえ、渡りに船ってもんだ。ちょいとごめんよ」
屋敷を覗いてみますってぇと、中は真っ暗。
「ごめんください、ここに飯屋の屋台でも立ち寄ったりしてやしませんかね。寿司とか天ぷらとか蕎麦とか」
八兵衛が暗がりに提灯を向けますと、その先に白い着物を着た女がひとり。
両の手を、こう胸の前に添えて、手の甲をこっちに向けて、立ってます。
「うらめしや……」
「いやあこいつぁ助かった!地獄に仏たぁこのことだ。あんた屋敷の女中さん?ここに屋台が立ち寄ってんだろ?おいら腹ペコでぶっ倒れそうなんだよ。こっちにも飯を作ってくれるように頼んじゃもらえねえかなあ」
「うらめしや……」
「そうか、裏口に屋台が来てんだな。ちょいと邪魔をするぜ」
八兵衛が女を押し退けて奥に進みますと、
「待ちな!」
女がでけぇ声で八兵衛を呼び止めた。
「さっきからあんた……怖くないのかい」
「怖い?なんで?」
「あたし、幽霊だよ?」
「へえ、そうかい。まあなんでもいいよ。こちとらはらぺこで死にそうなんだよで、蕎麦はあるのかい」
「ないよ!まったくなめんじゃないよ!あたいを誰だと思ってんだい?こちとら、ここいらじゃちょっとばかり名の通った幽霊、お菊だよぅ!」
「だよぅ、じゃねえよ。自分から幽霊名乗ってどうすんだよ」
呆れた八兵衛に、お菊と名乗る幽霊が恥ずかしそうに、
「あたいだって自己紹介なんてしたのは初めてだよ!」
「知ってるよ。皿数えて脅かすんだろ?次来たら驚いてやるから、飯食いに行かせてくれよ、頼むよー」
「身も蓋も無い言い方しないでおくれよ。だから飯屋なんかないって言ってるじゃないか…」
まあこのふたり、仲良くなったのか喧嘩してんのか、
八兵衛はというと、飯が食えねえなら帰ると言い出す。お菊の方は驚いてもらわねえと引き下がれない。幽霊の矜持ってもんがあると引き留める。なんやかんやで互いに座り込んじまって、話し込むことになりまして。
お菊さん、ぽつりぽつりと話し始める。
「あのね、八兵衛さん。あたし、ずっと考えてたんだけどさ」
「なんだい」
「生前ね、好いてた人がいたんだよ。身分の違う相手でね。この屋敷の旦那様だったんだよ。相思相愛でさあ。もう、それはそれは好いてたんだ。なのに皿が一枚足りないって、それをあたしのせいにされてさ。大好きな旦那様に切り殺されちまってさ」
「恐ろしい事をまあ、淡々と語るねえ。そりゃまたひでえ話だよなぁ。化けて出てくるのは当たり前だよ」
「恨めしかったんだ。悔しかったんだよ。悔しくて恨めしくてね。でもね、それでも今でも好いてるんだよ、あの人のこと。この思い、どこにぶつければいいんだい。旦那様はとっくに先にいっちまって、恨みだってもう晴らせやしないんだよ。残されたあたしはどうしたらいいんだよ、って」
八兵衛、少し考えまして。
「お菊さんさあ、簡単だよ。えぇ?後を追って成仏しちまえばいいじゃねえか」
「そう簡単にはいかないんだよ!」
「なんでだよ。今でもほれてんだろ?素直に旦那さんのとこに行きゃいいじゃねえか」
お菊さん、はぁとため息をついた。
「八兵衛さんさぁ。女ってものをわかってないねえ」
「わかってるよ。素直になるのが一番だぜ。よく見りゃ、あんたべっぴんさんなんだ。素直に『抱いて!』ってあっちに飛び込んで行きゃあいいんだよ。あの世でまで斬り殺されやしねえよ。そんな理由もねえだろ?」
「……そんなもんかねえ」
「そんなものよ。世の中小難しく考えたってどうしようもねえ。なるようになるってもんよ。あの世だって同じ」
お菊さん、しばらく黙っておりまして。
なんだか表情がふわっとやわらかくなってきた。
「八兵衛さん……なんかあたし、気持ちが軽くなってきた……」
ふわふわと体が浮き始める。
「ちょっ……あぶない!」
お菊さん、はっと我に返りまして。
「あぶないあぶない!もうちょっとのとこだった!」
「成仏しかけてたじゃねえか」
「うるさいよ!まだ成仏できゃしないんだよ!あんたが変なこと言うからだよ!何をしてくれてんだいまったく!」
「なんだよもう、面倒くせぇなあ。お菊さんさぁ、もうおいらぁ帰るぜ。腹が減って死にそうなんだよ。頑張ってこの世に未練残しときな」
「ちょっと待っとくれ!」
お菊さん、あわてて呼び止めまして。
「あたしだってメジャーな幽霊のはしくれだよ!おびえて帰ってもらわないと幽霊がすたるってもんだよ!そこに座って、ちゃんと驚いて帰りな!」
「幽霊てのは、ほんとめんどくせぇなあ…。わかったよ。驚いて帰ってやるから皿?数えてくんなよ」
「白けた事言うもんじゃ無いよ!脅かす手順と言っとくれ!こういうのをね、ルーティンっていうんだよ」
「ルーティン?」
「そうだよ。いくよ」
お菊さん、居住まいをただし始めます。
こう、手鏡を見ながら乱れ髪を幽霊らしくと、おくれ毛なんかをこう指で一つ一つねじっちゃあ伸ばして。
「いいかい?はい、そこすわんな。行くよ?」
八兵衛はというと、胡座をかいて片手を顎に乗せ、あくびを始める始末。
「お菊さんさあ。目ぇキラッキラさせちゃダメだよ」
「いちいちうるさいよ!いくよ!」
「一枚……二枚……三枚……四枚……五枚……六枚……七枚……八枚……」
ここで思わず八兵衛、あくびをこらえながら。
「お菊さんさぁ。おいら眠いよ。今何時だと思ってるんだよ」
「あいよ、ここのつ」
お菊さん、ふと手元を見る。
八兵衛とお菊さんの目が合う。
皿が一枚、残ってる。
「…………10枚」
ふわり。
お菊さん、なんとも言えねえ表情のまま、空に消えた。
八兵衛、しばらくそこに座っておりまして。
「お菊さん。成仏できたじゃねえか」
そう言って、しっかりと手を合わせまして。
「……あっけねえなあ」
(おしまい)




