悪魔のキス、天使のいたずら
冬は良い。寒風というものが、まず良い。寒いという事が、とても良い。空が澄み、身を切るような空気に包まれ、乾いた風が容赦なく、唇から湿り気を、体から体温を奪っていく。その心地が、なんとも好きだ。
静電気に注意しながらアパートの鍵を掛け、原付のエンジンを回し、近場のATMへの道を走り始める。機械っていいな、と思う。手を掛けてやればやるだけ、こちらの期待に応えてくれる。手を掛けなくなれば、その機械は朽ちてただのモノになる。だから、機械は良い。
地元銀行のキャッシュコーナーに原付を横付けして、ショルダーポーチから財布と通帳、財布からキャッシュカードを取り出す。せっかくの冬だというのに、気分は憂鬱だ。この先に待っている結果が、余りに自分の理想と食い違っているから。
ATMにカードを入れ、残高照会のボタンを押す。やっぱりだ。何も私の期待通りになっていない。キャッシュコーナーに誰もいないことを確認してから、私は大仰にため息を吐く。どうしてあいつは、私の言うとおりにしてくれないんだろう。
続いて通帳もATMに入れて、記帳をする。
振込、給与、ZZ株式会社、35万円。
振込、報酬、XXプロダクション、113万円。
引き出し、ATM、4万円。
振込、YY銀行、8万円
引き落とし、家賃、9万7千円。
振込、報酬、XY有限会社、、215万円。
引き落とし、VISAカード、12万円。
……増える一方の預金残高に、私は嫌気が差す。大仰に、とても大仰にため息を吐く。嫌気が差し始めてもう何ヶ月にもなる。あいつが浪費しても良いように、いや、浪費できるように、私はずっとずっと身を粉にして働いている。キャバ嬢だってやるし、なんならアダルトビデオにだって出る。だが、この結果はなんだ? 使う宛のないお金は無意味に増え……通帳に記された最後の一行に、私は悲鳴を上げそうになるになる。
振込、オクダイチロウ、85万円。
……ふざけやがって……!
奥田一郎というのは、私の名目上の彼氏で、かつては私のヒモだった男だ。昔は色々してやった。彼がどれだけ怠けても良いように、彼がどれだけ浮世を捨てても良いように、金、セックス、娯楽、なんでも与えた。
それが今じゃ、これだ……!
つい一年半前、パチンコで12万負けて帰ってきて、ごめんよ、また負けた、勝てそうな気がしてたんだけど、ごめん小枝子さん、なんて言っていた男が、翌日慰めに買い与えた最新ゲーム機で、目を白黒させていた男が、翌日から、一緒に買い与えた種々のゲームソフトに、昼夜となく夢中になっていた男が、それに飽きると毎週のように女のいる店に通っていた男が、これだ。
最初は、自分の金でゲームソフトを買い集め始めた事だった。次に、毎月何十万と与えていたパチンコ代が、いつの間にかほとんどなくなっていた。キャバクラにも通わなくなったし、今ではどうやら、在宅かなんかで仕事までしているらしい。
あいつにはあいつでいてほしかった。あいつにはダメ男でいて欲しかった。あいつには何もしないでいて欲しかった。あいつには私がいないとダメだと、心底思っていて欲しかった。それが今じゃ、いっぱしに独立して、独歩して、私になんのつもりか送金までして来やがる。
冬の良い気分が台無しだ。憂鬱な、そしてむしゃくしゃした思いを胸に、もう一度原付にまたがって、アパートに戻った。
家に戻ってもすることがない。名目上の彼氏は自室にこもりっぱなしで、食事時にしか出てこない。さりとてDVの如きネグレクトを受けているかと言えばそうでもなく、夕食を作ってやれば笑顔で平らげ、外食に連れて行けばちゃちなファミレスでだって満足する。私が冬好きだからと、この前はバーバリーのマフラーを、早めのクリスマスプレゼントだなんて言って手渡してきた。
パチンコで12万、それも女の金で負けた男が、バーバリーのマフラー!
やるせない。本当にやるせない。普通なら、そう、至ってまともな女なら、彼氏が真人間になったと喜ぶべきだろう。ダメ男だった彼氏が、ついにはバーバリーのマフラーまで手渡してくるようになったと飛び跳ねるべきだろう。だが、私は生憎まともじゃなくて、そう、有り体に言えば依存されたがりな女なのだ。
電子煙草をセットして、ふぅ、と一服する。やるせなさは消えない。消える訳がない。メンソールの清涼感如きで、この心のもやもやが消えるとしたら、世の中もっとハッピーに出来てる。
がちゃり、と彼の部屋のドアが開く。ちらりと中を覗いてみると、煌々と照る大型ディスプレイ、隅っこにあるPCとゲーム機、その他諸々、要は整頓されて清潔な部屋だった。
「小枝子さん、もうすぐクリスマスだよね」
恥ずかしそうに、彼はそう切り出した。
「だから? もうあんたはおっパブのクリスマスショーにも行かないし、設定が良さそうだからって、パチスロにも行かない」
嫌みな事が、つい口を突いて出てしまう。だが、最近の私は常にこうだ。口を開けば、彼に対して嫌みばかり言ってしまう。
「はいはい。小枝子さんは世話焼きなんだから。それでさ」
一旦、彼はそこで言葉を句切る。ちょっとした決心をしてるみたいだ。嫌な予感がする。
「オリエンタルホテルのディナー、予約取れたんだ。24の夜。良かったらそこで……」
「ふざけないでよ!」
その瞬間、私の中で、何かが決壊した。
オリエンタルホテル? 一流ホテルでクリスマスディナー? ふざけんな……ふざけんんな!
「あんたがそういう所行くのは! 私にねだって行けば良かったの! あんたがそこで何をするつもりかもう分かったよ! 大方指輪でも渡したがったんでしょう! でもね、もう我慢出来ない!」
電子煙草を、思い切り床にたたきつける。
「あんたは! 私に頼り切ってれば良かったの! 私がいくら稼いでるか知ってる? 月収300万だよ300万! あんたがいつでもなんでも出来るように、私はこれだけのことをしてるの! もっと昔みたいに頼りなさいよ! もっと私に依存しなさいよ! えへへ、負けちゃった、って笑いながら言いなさいよ! ちょっとキャバクラ行ってくるって、私から十万受け取りなさいよ! ゲーム買うから金くれってせびりなさいよ! それがあんたは、それが……どうして……!」
「ごめんね、小枝子さん。だけど……」
彼がしょげかえって、心底申し訳なさそうな顔をするのが、目には見える。だが、私は断固としてそれを認められない。こんな彼は、もう、いらない。
「出て行く! もういい、出て行く! さようなら、二度と顔見せんな、金も送んな!」
啖呵を切るだけ切って、私はショルダーポーチと原付の鍵だけを手に、アパートを出た。
真冬の冷たい風を切って、ホンダのトゥデイを走らせる。機械は良い奴だ。改めてそう思う。ガソリンがなくなったら、オイルが古くなったら、タイヤの空気が抜けたら。全部私が世話を焼けば良い。そして、それを当然のこととしながら、私に答えてくれる。心地が良い。このトゥデイは、私がいなきゃ生きられない。
体がすぐに冷え切ってしまう。当たり前だ、ろくなライダースーツも着ていない。原付とは言え時速50キロは出る。寒くて当然だ。とりあえず幹線道路を南に走り、駅の駐輪場に駐める。走っているときよりはマシだが、やはり寒い。今日の気温は何度だろう。
駅前の雑多な商店街を、少しだけ歩いて、電子煙草をアパートに置きっぱなしだと気付いて、ローソンに入った。アイコスの新品を買おうかと思ったが、すぐに考えを改める。もうあいつに気を遣って、匂いが嫌だろうからと、たばこ臭い女を抱くのは嫌だろうからと、普通の紙巻きを忌避する必要もない。あいつと付き合う前に吸っていた銘柄をレジ前で探し、無事にその煙草と、百円ライターを買った。
隣に書店があった。そこへ入る。今の私は、何かをしていないと壊れそうだ。その何かは何でも良い。行動でさえあれば。
だからと入った本屋さんで、まず雑誌コーナーを見る。女性雑誌の美容記事にも、勿論恋愛記事にもセックス特集にも、嫌悪を覚える。男性誌のモテる髪型だのちょい悪だの、そう言った文言も気持ちが悪い。足早に通りすぎていくと、次に目に入ったのは「るるぶ」だった。色んな場所の旅行案内があった。
「るるぶ」の北海道版を見た時、私の心は決まった。一旦名古屋の友人に会いに行く。名古屋のマリオットで、好きなだけ滞在する。その後、飛行機か夜行列車で、北海道へ行く。
「るるぶ」北海道と一緒に、分厚い時刻表も買って、店を出た。店内は暖房が効いていて、少しの間寒さを忘れていたが、外に出ると、誇張でもなく身震いするほど寒い。そんな寒い時期に北海道に行こうだなんて、私も物好きなことだ。
携帯ショップで新しいスマホを買い、喫茶店で一休みし、今度は洋服。寒いのは好きだが、それは空気が冷たい感じが好きなのであって、バイクで冷え、薄着で冷えることを好むわけではない。だからダッフルコートや発熱タイツ、ついでにその店で一番値段がするマフラーも買った。
もう一度喫茶店に戻り、今まで着ていた服の代わりに、新しく購入した服を着る。不思議なモノで、見た目を少し変えただけなのに、ほんの少しだけ、生まれ変わったような気がした。このまま化粧品も買いそろえようかとも思ったが、いい加減体力が辛い。時刻表でもめくることにしよう。
ぱらぱらと数字の羅列をめくりながら、今、私の住所はあのクソ男と同じなんだよな、ということが頭の片隅に理解された。一度実家で落ち着こうか。いや、ダメだ。あの男を養っていると知られた実家には、私から絶縁状をたたきつけたも同然だ。今更どんな顔をして帰ればいい?
もういいや、根無し草のまま、しばらく過ごそう。まずは名古屋だ。名古屋のマリオットで、毎日パーティみたいな生活を送ろう。それから、久しく会っていない旧友と話をしよう。それで、その気になったら北海道に行こう。大阪発の夜行に、敦賀から乗れば良いだろう……。
新しくなったスマートフォンに四苦八苦しながら(今更、元のスマホをアイツの家に取りに戻る気にはなれない)、なじみのバイク屋さんに、しばらくトゥデイを預かってくれるよう頼む。それから、マリオットのサイトにアクセスして、とりあえず十泊、喫煙のクラブルームを予約する。今更あいつの世話を続けるのは癪だが、せめてもの嫌みとして、管理会社には何の連絡もせず、家賃の支払いは、私の口座から動かさずにおいた。
近鉄特急で名古屋に出る車中、あの山の中の田舎町にだって、住み慣れただとか、名残惜しいだとか、そういう感情を覚える自分に気付く。喫煙室へ入り、懐かしい匂いに包まれながら、私はそんな自分に、驚きを隠せなかった。スツールに腰掛け、流れゆく冬山を眺めながら、私ってそんな情の深い女だったんだ、と、自嘲気味に笑った。
煙草を吸い終わって客席に戻り、会おうと思っている旧友にメッセージを打つ。『彼氏と別れた。アパート出てきちゃってさ。今名古屋に出る近鉄の中。会えるなら会いたいな。名古屋には十日くらいいるつもりだから、暇な日があったら教えて』
ぷあん、と汽笛をぶっ放して、電車はトンネルに入った。何も焦ることなどないが、トンネルの中は、当然携帯は圏外だ。メッセージを早く送れて良かったと一瞬安堵し、続けて、何も見えない暗闇が、私に、うっすらと恐怖を覚えさせた。恐怖感の正体は分からなかった。ただ、暗さが嫌で、何も見えないのが嫌で、私はカバンから時刻表を取り出し、数字を目で追い始めた。
大阪発11時50分。札幌行きトワイライトエクスプレス。運転日注意。札幌到着、翌朝9時。
今乗っている電車。名張発13時24分、名古屋行き近鉄特急。名古屋着14時49分。
トワイライトエクスプレスに乗るには、敦賀からより大阪まで出た方が良さそうだ。名古屋朝9時のアーバンライナーに乗れば、大阪の難波に着くのが11時、地下鉄に10分揺られれば大阪駅で……。
ごうごうと唸るようなトンネルの中特有の音は、時刻表に夢中になっているうちにいつしか消え、外には、冬の山が再び見えるようになっていた。そう気付いた頃に、スマートフォンがぶるぶると震えた。画面を見るとメッセージの着信があった。
『あれ? 最近その人仕事始めたとか言ってなかった? 前みたいなダメ男じゃなくなったのに別れたん? 不思議ー。名古屋ではどこに滞在予定? あたしも今、院が休みで暇でさ。今どのへん?』
旧友の朱美のあっけらかんとした口調が、そのままメッセージになっていて、私は少しばかりほっとした。だが、『ダメ男じゃなくなったから別れた』などとは、一般的に言って少々理解に苦しむ事だろう。だから、『色々あるのよ、男女の仲には』の一言でそのことを誤魔化し、『さっき長いトンネルを出たところ。ホテルはマリオット予約しといた。名駅すぐだからどこでも行けるよ。朱美が危篤でも駆けつけられる』『マリオット? 超一流じゃん。すげー。そこに十泊もするなんて、流石小枝子、お金持ちだね。遊びに行って良い?』『歓迎するわ。一人でぼんやりしてちゃ、どうにかなりそうだし』『じゃあ電車の中で何してんの』『時刻表とにらめっこ』『笑える。煙草とキスは?』『ディープなのをしまくりよ』『じゃあさ、今夜飲み行く? モチ、小枝子のおごりで』『望む所よ。その代わり愚痴をたっぷり聞いてもらうんだから』『じゃあその前に栄とか、金城の方とか行くかー。近鉄の改札で待ってんね』『荷物多いから、ホテルまでは運んで』『お駄賃くれる?』『モチ』
お駄賃、という子供っぽい言葉が、とてもいいな、と思う。少女の感性のまま大学院で難しい研究をしている、朱美その物みたいだ。
朱美は、この電車の名古屋到着時刻を私に訊かなかった。時刻表マニアで鉄道マニアである彼女にしてみれば、メッセージのあった時間から到着時刻を割り出すことなど容易なのだろう。
電車は定刻通り名古屋の駅に着き、薄暗く狭っ苦しく、そして古くさい駅の中を、買い物袋だらけで、私は改札まで歩き始める。陳列された駅弁と赤福を横目で見、真正面遠く、ひょろ長でショートカットの、人好きのしそうな見知った顔が笑っている。
「おー、よく来たよく来た。事情が事情じゃなければ完全に歓迎ムードだけど、そうじゃなくてもあたしは歓迎するよ」
早速、私の荷物を半分以上奪いながら、きゅ、と彼女は私を抱きしめる。欧米暮らしがあった訳でもないのに、彼女は何かと人に抱きつく癖があった。その癖が、今日このときばかりは、有り難かった。
「なーにー、買い物袋の山だね。その割に着替えとかないみたいだけど。さては喧嘩別れだな?」
すたすたとマリオットの方へ歩き出しながら、何のてらいも嫌みもなく、朱美が切り出してくる。
「前から溜まってた鬱憤が、どっかーん、よ」
道案内をすっかり彼女に任せて、複雑な地下街を私たちは歩いて行く。
「話してもどうせ理解なんてしてくれないでしょうけど、とにかく前から彼にはイライラしっぱなしだったの」
「けどさ、どっかーん、って事は、イライラが導火線だとして、火種はどこよ? お、このトーストうまそ」
喫茶店の食品サンプルの感想なんて挟みながら、彼女は私に続きを促す。
「クリスマスディナー」
ふん、と私は鼻から息を吐いた。
「理解して、なんて言わないけどね? あいつには、オリエンタルホテルのクリスマスディナーなんてさ、私にねだって行って欲しかったのよ。それが、なんのつもりか分かんないけど、すっごい改まった様子で。そんなの、何をしようかなんて見え見えじゃない? しかも先月末に私の口座に80も入れてんの」
「なにそれ」
けらけらと朱美は笑った。
「お金も指輪ももらえるなんて最高、なんて普通の女は考えるんだろうけどさ」
一旦、駅の外に出る。こちらが近道なのだという。
「あんたがそういう女だったら、ヒスって家を飛び出したりしないし、彼氏に三行半も突きつけない。根が深そうなのは分かったから、とりあえずこの荷物、フロントに預ければ良い?」
「うん、察してくれてアリガト」
「あたし、頭だけは良いから」
にやっと快活そうに笑って、彼女は自動ドアをくぐった。頭上を見ると、なるほど確かにマリオットホテルの図案が描かれている。自動ドアの向こう側は、別世界のようなシックな照明になっていて、正面にエスカレーター。その上がフロントだった。
「予約の飯田です。荷物をとりあえず部屋に入れて頂きたくて。あとチェックインと」
フロント係の美人に、やや緊張しながら、私はなんとか事務的に事を言う。
「本日から十泊の飯田小枝子様ですね。お待ちしておりました。こちらご記入ください」
言って、フロントの美人は私に用紙を差し出す。当然そこに、嘘偽りなく、名前から住所まで書かねばならないことを、今の今まで忘れていた。しょうがない、ここは実家の住所を使おう。
「ご記帳ありがとうございます。お部屋、27階のクラブツインをご用意しております。ラウンジには……」
「あー……そういうのは、また後ほど」
隣で、朱美が目を爛々と輝かせているのを感じた私は、不承不承ではないが、フロントの美人の言葉を遮った。
「大変失礼致しました。お荷物はお連れ様がお持ちの物を、お部屋までお運びすればよろしいですか?」
「はい。お願いします」
仕事柄、こういう高級ホテルには割と縁があり、その中でも別格と言われるクラブフロアも何度か利用したことがある。だがこれも失策だった。朱美は、私が所謂カネモチなのは知っているが、その生態までは知らないのだ。
荷物がすっかりなくなってさっぱりした、というような朱美は、びっくり半分、好奇心半分と言った顔立ちで、
「何、ラウンジ? クラブ? 踊る訳じゃないよね」
「流石に踊りゃしないけど、ラウンジはラウンジでも元の意味の方よ。談話室」
ちょっとだけ肩をすくめてみせる。
「クラブフロア、っていうのの語源は知らないけどね。まぁその談話室で、アペタイザー……軽食でもつまみながらお話ししましょ、って所よ」
「うひゃあー!」
自分がここに不釣り合いだと察しているのだろう、足早にホテルを後にし、大げさに彼女は驚いた。
「あぺたいざー! 聞いたこともないよそんな言葉。とにかく凄い所だってのは分かった。アレでしょ、ホテルステイが既になんていうか」
「確かに、そういう側面もあるわね。言わんとしてることは分かるわよ」
「なるほどね……けど、それにしちゃファッションが貧相じゃない?」
彼女は私の正面に立つと、私の服装や格好を、品定めするように見た。
「しょうがないでしょ」
私は苦笑した。
「かっとなって着の身着のままで飛び出してきて、駅前のいかさない洋服屋さんでそろえた間に合わせよ、これ。マフラーだけは良い値段したけど」
「ふーむ。ミンク、って訳でもなさそうだけど。それにしたって、そんな高級ホテルに、ダッフルコートにストレッチデニム、おまけに靴はスニーカー。アクセの一つも付けてない。ダメだね、そういうの。前々から思ってたんだけど、小枝子、あなた自分の美しさを隠そうとしてない?」
彼女は、私を駅前の喫煙所に手招きした。私たちは二人でそこに入り、お互いがお互いの煙草に火を付ける。
「あれ、アイコス辞めたんだ。まぁそのほうがあんたらしいよ。まぁそれは置いといて。銀のネックレス一本、ハイブランドのコート一つで、あんたは化けるんだよ。そこ、分かっててわざと、安っぽい格好してるでしょ?」
「しょうがないでしょ」
ふぅ、と煙を吐く。
「確かに、私は美人なのを自分で知ってる。だけど職業が職業よ。あんまり着飾りすぎても、ね? 分かるでしょ、私の言おうとしてること」
「女優だっけ? 確かにさ、分かる。そういうの、すっごい分かる。でも、あると思うんだよね」
落ちそうもない灰を、彼女は灰皿に落とす。
「女優は女優でも、『夜の』女優よ。それで? 何があるって言うの?」
「美しく生まれた責務」
「!?」
朱美は、至って真面目にそんなキザな台詞を吐いた。私は驚き、思わずむせる。
「えほ……。責務って何よ、責務って」
「とびきりの美声の持ち主が、歌手も声優もやらない、ってのは、才能の持ち腐れだし、その才能に対する罪だと思うのよ、あたしは。あんたは女優だからまだマシだけどさ、あんたのやる演技なんて、悦ばせ方だけでしょ? 美しく魅せる事っていうの、してる?」
朱美はまた、落ちそうもない灰を落とす。
「エロく魅せる努力は怠ってないわよ。カメラが回れば」
「あんたの美貌は、その程度じゃないんだなぁ……」
今度は頭を掻く。
「侘しい花瓶に一輪の椿。こういう美じゃないんだ、あんたのは。沢山のバラがあれば花束にしなきゃでしょ?」
「まったく、さっきからこっぱずかしい台詞を臆面もなく……」
私は煙を吸い、吐いた。
「あんた、ドレスとか持ってるの? 夜会服。勿論プライベートの」
「仕事着しかないわ」
「宝石のついた指輪、貴金属のネックレス、そういうのは?」
「一切趣味じゃない」
「これだもんなぁ……」
また頭を掻いて、今度は煙草もきちんと吸った。
「あたしだってさ、お金ないなりにお洒落はしてる訳よ。自分が人並み以上には美人だって知ってるから。それが責任の取り方」
言われて彼女の姿を見てみれば、大ぶりな黒縁眼鏡、赤いマキシコート、さりげない胸元のペンダント、細い腰によく似合うホットパンツに真っ黒なニーハイソックス、ブラウンのローファーの上で輝くアンクレットまで、一分の「隙」もない。
「これ全身でたったの二万よ。古着屋巡りが趣味っていうのもあるけど。どう? お洒落に興味沸いた?」
「そうね……」
私は腕組みして、数秒思案し、
「あなたの隣にいてもおかしくないくらいの格好はさせてもらうわ。この近くだと栄?」
「名鉄デパートで良いでしょ」
「じゃあ連れてって。あなたのセンスで、私に責任を取らせて頂戴」
まるで朱美に口説かれたような格好だが、悪い気はしなかった。むしろ心地よかった。つい数時間前、男と別れたばかりだというのに。
「善は急げって言うけどさ、実を言うと、あんたに見せたい物があるんだよね。名古屋じゃなきゃ見れないし、今日って言うのも良いし、時間も良い感じ。あんた、タクシーに一万二万出すの躊躇しない人でしょ、吸ったら拾おう」
「お洒落はどうするのよ」
少し眉をしかめると、
「平気平気。デパートは八時までやってる」
にべもなかった。
タクシーは30分ほど町中を走り、暮れなずむフェリーターミナルに着いた。しかし、驚いたのはそのフェリーの大きさだ。どれだけの長さがあり、どれだけの高さがあるのか、何メートルなのかと見当も付かない。これだけ大きな物が海に浮かんでいるのが、不思議なくらいだ。
「見せたかったのって、この船?」
「うん、凄いフェリーっしょ」
ターミナルの向こう側にある巨大なフェリーは、まるでビルが横倒しになり、そのまま浮かんでいる、というようなサイズ感で、白い船体を黄昏の海に浮かべている。
「これ、北海道行くんだ」
その言葉に、私の心がドキリとした。名古屋での滞在を終えたら、それとも……?
「それでさ、所要時間が凄いの。二日かかる。それも良いでしょ? で、こいつに自分の車乗っけて、北海道を縦横無尽に走る……。修士号を取れたら、まずしたいのはそれかな……」
まるで遠くをみるような彼女の目、遠い未来を語るような彼女の声。まるで夢を語る少年のそれだ。言葉の隅々から、『絶対に実現してやる』という決意がにじみ出ている。
不意に私は、これを叶えたい、と思った。
「その前に、まず車買う貯金して……いやいや、研究を頑張らなきゃだけど。とにかくさ、夢なんだ、あたしの。ささやかだけど、でっかい夢」
やっぱりだ。これは少年の夢だ。憧れの大地に、憧れの船で行く。憧れの大地では、憧れの車で走りまくる。胸の奥が熱い。鼓動がまるで聞こえるようだ。……叶えたい。猛烈に。
「冷えちゃったね。さっさとタクシー戻ろ。それとも一本吸ってからにする?」
「ん……」
私は自分に、これは正しく、楽しく、幸せなことだと言い聞かせる。
「乗っちゃおう。フェリー」
「……へ?」
朱美が間の抜けた声を出す。当たり前だ。車までは流石に叶えられないが、それでも、と思ってしまう私が、そもそもおかしいのだ。
私は朱美の手を握った。あったかかった。
「着替えとかはないから今日は無理だけど、マリオットの日程短縮して、乗っちゃおう。この船で北海道行こう。どんな船室だって、私が出してあげる。私がそのまま根室でも稚内でも行っちゃおう。帰りもこの船で名古屋に帰ってこよう。何日も北海道を旅しよう」
私はじっと朱美の目を見つめていた。朱美から目をそらした。それでも私は朱美の顔を見つめ続けた。
「マジで? ……本当に、マジ?」
朱美は、戸惑いに戸惑っている。
「マジだよ」
決意を持って、私は言う。
「マジに、マジ」
「もー!」
やおら朱美は、私を思いきり抱きしめてきた。
「もー! なんで小枝子が、あんなダメ男じゃなきゃダメなのか分かっちゃったよあたし! いいよ、そしたら、あたし、思い切り小枝子好みのダメ女になってやるから! 小枝子がいなきゃ何も出来ない女になってやるから!」
「うん」
抱きしめてくる腕に、自分の手のひらを重ね、
「なって、朱美。院が夏休みに入るころには、車も買ってあげる。その車で、私を北海道のそこらじゅう、連れ回して。どこへだって付いて行ってあげる。だって、朱美なんだもん」
「もー……! もー!」
壊れたラジオみたいに、彼女はそれを繰り返した。
名鉄デパートで服や装飾品を買いそろえる頃には、もう閉店も間際で、そして足は歩くのが億劫なくらいになっていて、またタクシーを拾って、今度は飲み屋街へ向かった。適当な居酒屋に入る。土手煮と日本盛の店だった。
朱美の話では、次の北海道行きは明後日とのことで、私は、彼女があっと驚くような部屋を(いや、こんな部屋まであるのか、と私自身がまず驚いたが)、スマートフォンで予約した。ホテルには、急用が出来たと正直に言い、明後日でチェックアウトすることを詫びた。
「それにしてもさぁ」
冷めてしまった、土手煮の牛すじを箸先でつんつんとつつきながら、相当酔いの回った様子で、朱美が言う。
「小枝子がダメ男ダメ女好きなのは分かった。分かったよ? だけどさぁ……」
日本盛を一口、ぐびりとやる。
「ううっぷ。切欠ってのはあった訳っしょ? ああ、この男に尽くしたい、って思わせたなんかがさ」
「キスよ」
私ももう常温と区別の付かない燗酒を一口飲む。
「キスぅ?」
「あいつ、素人の男優だったのよ。視聴者参加型の企画物でね」
冷めて固くなったおでんを一口食べる。
「その時キスされたので、落ちちゃった」
「なにそれぇ……」
にんまり、と朱美は笑った。
「悪魔のキスじゃん、そんなのさぁ……」
朱美はにまにまと笑っている。何が楽しいのかは分からないが、なんとなく、自分も楽しくて、口角を緩める。
「悪魔のキス、言い得て妙ね。なら今私が契約してる悪魔は、朱美な訳だ」
「あたしが悪魔かよぉ……ふふ。あんたがサキュバスやってるDVD、エロ屋で見たことあんぞぉ……」
朱美の呂律は、若干怪しい。だが、なんとなくお開きにする気にもならず、だらだらと私たちは飲み続けている。もう一口、コップ酒をぐびりとやると、朱美のコップは空っぽになり、私はおかわりを注いでくれるよう、それから私には米焼酎を一杯頼んだ。
「そりゃあ職業サキュバスだもんねぇ、私。悪魔はあなたじゃなくて私?」
「あなた、って……笑える」
ふふ、と鼻先で朱美は笑った。
「じゃあ、そのあなたであるところのあたしは、どんな悪魔なの?」
「優しい優しい悪魔さんだけど、きっと私から身ぐるみ剥ぐんじゃない? いいけどね、そこに愛があるから。愛があったら、悪魔とだって天国よ」
「悪魔と天国って」
また、朱美は鼻先でふふっと笑った。
「しかも、愛って。笑える……」
おかわりの注がれたコップ酒を、朱美はまた一口飲む。私の米焼酎もすぐに来た。私は飲むより前に煙草に火を付け、朱美もそうした。
「あーあ、あたしレズだったのかぁ……しかも職業サキュバスと付き合うことになるなんてさぁ……最っ高に笑える……」
朱美は緩んだ口元のまま、煙草をゆっくりと吸った。
「それで、明後日の何時出航なの? フェリー」
彼女がへべれけにならないうちに、それだけは確かめようと思った。正確に言えば、出航時刻はすでにサイトを見て知っているが、長距離フェリーというものにどう乗れば良いのか、まるで知らないからだ。
「出港は夜7時じゃなかったかなー。確か夕方5時に、バスセンターから連絡バス出るはず……」
朱美は、ういー、とでも語尾に付けそうな様子だった。だけれど口元は相変わらず、楽しそうに緩んでいる。それを見ていると、私は何かが満たされて、やっぱり、口元が緩む。
「バスなんて嫌。二人きりでいたい、タクシーで行こうよ」
「もうすっかりその気かよぉ……最高かも……。じゃあ、確か出航の90分前までに乗船手続きだから……えっと……」
「夕方4時に、名駅の太閤口で待ち合わせましょ」
焼酎を一口飲む。煙草を吸う。
「うーい、覚えた。忘れるかもしんないから、スマホのアラートかけとこ……。あー、もう飲めねー」
怪しい手つきで、朱美はスマートフォンを操作する。きちんとアラートをかけられているか心配だから、明日、昼ぐらいに私からメッセージを入れてやろう。
「悪魔のキスかぁ……」
いい加減頃合いだろう、と、二人して思ったらしく、私たちはその一杯でお開きにし、冬の夜風に当たる。
「あたしに出来る?」
ふらふらした足取り。けれど私を見据える目は真剣だった。
「……女の子とのキスは、仕事以外じゃしたことないから、分かんない」
思わず目をそらし、ぽっぽする顔を幸せに思いながら、私は答えた。
「はぁい! 門倉朱美、悪魔として精進していきますでありま……うー、飲み過ぎたぁ」
勢いよく言い出したかと思うと、朱美は座り込んでしまった。隣にかがみ込み、彼女の背中を撫でてやる。
「ダイジョブ、ダイジョブ、吐いたりしない……けど、これで電車は無理ぃ。ごめん、タクシーおごって」
「分かってるわよ」
盛り場の中心、タクシーがたむろしている辺りへ、私たちはゆっくりと歩き出す。途中の自販機で水やコーヒーを買ったり、悪魔のキスをしたい、と、朱美が連呼したりしながら。
「それじゃ、また明日ね」
朱美をタクシーに乗せ、私は少しだけ熱っぽく、そう言った。
「んえ? 明後日じゃないの?」
「明日は朱美の家でおうちデート」
「ん、分かった。じゃあ、また明日」
朱美を乗せたタクシーはネオンの向こうへ去って行った。
心が、酷く充足している。冷たい風が心地良い。
ああ、神様。私は本当に、悪魔に弱いようです。




