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落ちこぼれ令嬢とペットのブチ 〜みんなに内緒で捨て犬に餌をやっていたのですが、犬はどうやら神獣だったらしいです〜

作者: たっこ

「ジュリア、あなたってば本当にトロいのね。それじゃあ約束通り、聖堂の掃除一週間、あなた一人でお願いね!」


 少女たちは、ケラケラと笑いながら、(れん)(ぺい)(じょう)から去っていった。

 (ぼっ)(けん)を手にしてうつむく、ジュリアだけを残して。


 彼女たちは、貴族令嬢であり、女騎士だ。

 神殿が有する神聖騎士団は、男子禁制。(とうと)(うるわ)しき女性の騎士だけで構成されている。

 ようは、国防の戦力として数えられない、お飾りの騎士団だ。


 それでも、貴族たちからは絶大な支持がある。

 神聖騎士団に娘を所属させておけば、酒や男や(かけ)(ごと)といった()(らち)な遊びから、大切な令嬢を遠ざけておくことができる。それに、騎士団が定期的に行う貧者救済の慈善事業は、娘と家名に(はく)を与えてくれる。


 子爵令嬢ジュリアもまた、父のそのような思惑のもと、神聖騎士団の女騎士として、名を連ねることになった。


 だが、彼女は筋金入りの不器用だ。

 剣も、槍も、弓も、てんでだめ。

 格闘なんて、言わずもがな。

 乗馬も下手で、どんな馬にも舐められている。


 おまけに、つらい目に遭っても、誰にも相談せずに一人で抱え込む性質(たち)なので、先ほどのように悪い同輩に利用されている。


 運動神経抜群の、マノン、オデット、サンドラの三人組に、勝てっこない三本勝負を仕掛けられたのだ。負けたら、聖堂の掃除当番を、一人で一週間やるという条件で。

 内気なジュリアは、断れなかった。

 それで案の定、敗北したのだ。


 とぼとぼとした足取りで、ジュリアは聖堂に向かう。

 この神殿の聖堂は、とても広い。

 だから本当は、掃除当番は四人一組なのだ。

 それなのに、一週間も、ジュリアは一人で掃除しなくてはならない。


 だけど、ジュリアは手抜きはしなかった。


 神殿は、天の神様が立ち寄る場所だ。

 地上の様子を見に来た神様が、汚れた聖堂を見たら、どう思うだろうか。

 きっと、がっかりするに違いない。

 人間はみんな怠け者なのだと、勘違いなさるかもしれない。


 だから、ジュリアはがんばった。重いバケツをうんうん運び、(ほこり)を浴びて()()みながらも、聖堂を隅から隅まで綺麗にした。


 そして、仕上がりに満足してから、ジュリアは急いで聖堂の裏へと走って行った。




「ブチ、おまたせ。お腹空いたでしょ」


 物陰でジュリアはしゃがみ込み、(ふところ)からチーズを出して、古いお皿に置いた。

 それにすかさず食らいついたのは、一頭の薄汚れた仔犬だった。

 白い体毛に、茶色の(まだら)。ちょっとだけブサイクだ。

 ジュリアは、仔犬の背を撫でて、ほほえんだ。


「ゆっくりお食べ。……ふふ、怪我も治ってきたね」


 ジュリアがこの仔犬を見つけたのは、一ヶ月前のことだ。

 真っ黒な雨雲が空を覆い尽くし、恐ろしい稲妻が何度も光っていた。令嬢たちは、部屋の中で毛布をかぶって震え、普段は頼りもしない神様の名前を繰り返し唱えていた。

 その翌日、聖堂の裏で、傷だらけで弱りきったこの仔犬が落ちているのを、ジュリアは見つけたのだ。


 それ以来、ジュリアは自分の食事を少しずつ隠して持ってきては、この仔犬に分け与えている。子爵である父から届いたお小遣いも、仔犬の怪我を治すための薬代にしてしまった。

 仔犬はすっかりジュリアに懐いた。彼女は、仔犬にブチと名前をつけて、誰にも内緒で可愛がっていた。


「ブチ、あのね。私、今日もまた、剣の試合に負けちゃった」


 膝の上にのせた犬を撫でつつ、ジュリアは一日の出来事を語って聞かせた。


「みんな強いなあ。とくに、サンドラさんは本当に強いのよ。彼女は侯爵令嬢で、お父様は辺境を守る大領主様なの。だから、騎士団に入る前から、武芸の心得があるのですって。憧れちゃうなあ」


 ブチは、間抜けな顔でワオンと鳴いた。癒やされながら、ジュリアは笑った。


「それでね、剣の勝負に負けたから、私は今週、一人で聖堂の大掃除なの。だから、ここに来るのが遅くなっちゃう。ごめんね、ブチ。明日も良い子で待っててね」


 ブチは寂しそうに鼻を鳴らした。

 その小さな音をかき消すように、ゴオン、ゴオン、と神殿の鐘が鳴った。

 点呼の時間だ。戻らなくては。


 ジュリアは、ブチを地面に戻し、頭を撫で回してから、「またね」と手を振ってその場を去った。

 手を振り返す代わりに、尻尾をぶんぶん振って、ブチはジュリアを見送った。




 シュガルヴェルグは、(あま)()ける(いくさ)()(がみ)テミリリスが使役する、最強の猟犬だ。


 魔物でさえも単独で噛み殺すシュガルヴェルグは、主の命令を無視して獲物を狩り過ぎた罪で、先日、地上へ()とされた。

 「血に飢えた凶暴な(さが)を改めよ」とのお叱りと共に、(いかずち)の矢をその身に受けて。

 今は、ブサイクな仔犬の姿に身をやつしている。


 本来は、体高五尺の巨体を誇る、白銀の美しい神獣なのだ。

 女神を背に乗せ、野を駆けたこともある。

 だが、(じん)(りき)で打たれて深く傷つき、力を失ったシュガルヴェルグは、もうその姿に戻ることができない。

 白地に(ちゃ)(まだら)の、ブサイクな仔犬が関の山だ。


(……と、思っていたのだがな)


 神官も、女騎士たちも寝静まった夜闇の中で、シュガルヴェルグは、仔犬の体をぶるりと振るわせた。


(魂の傷は、ずいぶん癒えてきたらしい。あの娘の、熱心な手当のおかげだな)


 月光のもと、仔犬の体が、二重に歪む。

 白装束の、白髪の男の姿が透ける。


『……ふむ。今はまだ、ヒト型の霊体をとるだけで精一杯か。肉の実体は仔犬のままで、かつての姿には戻れぬまま、と』


 重ねた(うす)(ぎぬ)、輝く鎧。瞳は()えたる(しん)()(いろ)

 シュガルヴェルグのヒト型は、そのような若武者姿であった。

 彼は、唇に指を当て、月を眺めて(ひと)りごちた。


『このまま過ごせば、かつての霊力も取り戻せるやもしれぬな。運良く、ここは聖域の一つ。ジュリア嬢もまた、神に仕える乙女のようだ。じっくり待てば、我もいずれは天へと(かえ)ることができよう。しかし……』


 ()(いろ)(まなこ)が、すい、と細まる。


『我が恩人は、ずいぶん(あなど)られているようだ。我も神獣、心清き乙女がなぶられているところを、黙って見過ごすつもりはない。お嬢と我とが二人で過ごす時間が減るのも、(ごう)(はら)よな』


 真っ赤な舌が、ぺろりと唇を舐める。

 抑えきれぬ凶暴さが、口角をつりあげる。

 シュガルヴェルグは、喉を鳴らした。


『どれ。()(らち)な小娘どもに、ひとつ、目にもの見せてやるかな』




 その日は、(きゅう)(しゃ)の訓練だった。

 人目を避けて物陰に隠れ、(れん)(ぺい)(じょう)までやってきたブチは、低木の茂みに潜り込んで、若き女騎士たちの練習風景を見物していた。


 弓は、(いくさ)()(がみ)の最も好む得物である。

 猟犬とはいえ、シュガルヴェルグにも多少の心得はある。

 しかし、ジュリアの弓の腕は、そういう問題ではなかった。

 シュガルヴェルグは、呆れて言った。


『……お嬢、目を閉じていては、的に当たらぬぞ……』


 姿勢は良い。力もある。

 だが、()る瞬間、目をぎゅっと閉じるのだ。

 おかげで、明後日(あさって)の方向に矢が飛ぶ。

 逆に、よく事故が起きないものだ。


 呆れながらもしばらく観察して、シュガルヴェルグは、ジュリアの(あく)(へき)の理由がわかった。


『なるほど、怖がっているのだな』


 矢のない()()きの練習ならば、おかしなところは見受けられない。

 だが、いざ矢をつがえ、的を狙うと、ジュリアの瞳はふらふら揺れる。

 そして、しまいにはぎゅっとまぶたを閉じてしまう。

 ジュリアは、的に感情移入しているのだ。


『……優しすぎるのも、難儀だのう……』


 そんなジュリアに、三人の女騎士が声を掛けた。

 マノン、オデット、サンドラ。

 聖堂掃除を押しつけた、例の三人組である。


「ジュリア、あなたって、真面目に訓練する気はあるの?」


「わ、私はいつも真剣です。なかなかうまくいかないけれど……」


「嘘おっしゃい。目を閉じて矢を射るなんて、遊んでいるとしか思えないわ」


「あなたみたいにふざけた人がいると、他のみんなの迷惑なのよ」


「そ、そう言われましても……」


 うつむくジュリアに、三人はほくそ笑む。


「そうね、なら、あなたでも真面目に取り組めるように、こんな条件をつけるのはどう? 今から的当て勝負をして、負けた方は、食事当番を一人でやること」


 ジュリアは、泣きそうな顔で三人に訴えた。


「そんな……! 私、聖堂掃除もあるのに、食事当番まで……!」


「あら、勝てばいいじゃない。最初から負けるつもりだなんて、あなた、本当に不真面目なのね」


 クスクス笑う少女たちのうち、一人が前に進み出た。


「仕方ないわね。手加減してあげる。勝負の相手は、私、サンドラだけよ。負けたほうが食事当番。他の二人とは、勝負しなくていいわ」


 ジュリアは、ますます泣きそうになった。

 サンドラは、この騎士団で一番の実力者だ。

 どうやって勝てばいいのだろう。


 途方に暮れるジュリアを(しり)()に、サンドラはさっさと自分の矢を射た。

 一本目。的中。

 二本目。ハズレ。

 三本目。的中。

 四本目。(せい)(こく)に的中。

 取り巻きのマノンとオデットは、大喜びだ。


「さすがね、サンドラ。侯爵閣下譲りの武勇だわ」


「男の人でも、サンドラの弓にはきっと敵わなくてよ」


「ふふん、当然よ。……さあ、ジュリア。あなたの番よ。早く始めなさいな」


 ジュリアは、自分の弓を抱えて、うつむいて立ち尽くした。

 その足元に、ワオン、アオン、という鳴き声とともに、何かがトコトコ近寄ってきた。

 それは、白地に(ちゃ)(まだら)の、ちょっとブサイクな仔犬であった。


「……ブチ! なんでここに? 危ないから、来ちゃだめなのよ」


 手をひらひらさせて、優しく追い払おうとするジュリアに、ブチことシュガルヴェルグはにやりと笑って言った。


『お嬢に恩を返すまたとない機会、我が見逃すわけがなかろうよ。構えよ、お嬢。天の猟犬の(じん)(りき)の一端、不良娘どもに見せてくれよう』


 霊体の声は、人間たちには届かない。

 ジュリアには、ブチの鳴き声は、ワンワンアオンとしか聞こえていない。

 だが、シュガルヴェルグの霊体の手が、ジュリアの背を優しく押し、的に向かわせると、彼女の体は自然とそのように動いた。

 霊体に促されるまま弓を引き、ジュリアは内心首を傾げた。


(あれ、私、なんで構えて)


『ようし、よし。……お嬢は、姿勢は悪くないのだ。真剣に練習している(しょう)()よな。的に心を乱されなければ、良い()()になれるはずなのだ』


 シュガルヴェルグは、うっすら笑んで、ささやいた。


『そんなお嬢に、うってつけのお(まじな)いがあってのう。(いくさ)()で戦士の恐怖を消す(わざ)だ。それに加えて、矢が(おの)ずから的を追う(しゅ)も、お嬢にかけてあげような』


 (しん)()の妖しい瞳が光る。誰にも聞こえぬ霊の声音で、シュガルヴェルグはこう唱えた。


(くろ)(がね)(かたな)()(ごと)くして()(たま)()()()(たま)え。(かげ)(かたち)()(ぐわ)(ごと)(やじり)()がれよ(くぐい)()


 ジュリアは、射た。初めて両目をつぶらずに。

 矢は、的の中央、(せい)(こく)を、あやまたず射た。


 誰もが目を丸くした。ジュリア本人すらも。

 ただ一人、いやただ一頭、シュガルヴェルグだけを除いて。

 彼は、くつくつと喉で笑った。


『そうら、上手だ。残り三本、続けてごらん』


 二本目。(せい)(こく)に的中。前の矢を貫いて。

 三本目。同上。

 四本目も。


 明確な勝敗。

 サンドラが顔を青くするのを眺め、シュガルヴェルグは大笑いした。


『ふはははは! これで、当番はそなた一人か。己の言い出した約束だ、しかと守れよ。これに()りたら、二度とお嬢を(いじ)めぬことだ』


 しかし、ジュリアは、彼の台詞を自分の口で言い直すことはしなかった。少女は、サンドラの表情に深い深い後悔を見て取ると、歩み寄って、その手を取った。


「サンドラさん、食事当番は、一緒にやりましょう」


「えっ。ど、どうして?」


「だって、大変でしょう。一人で終わる仕事じゃないわ」


「……だけど、私たちがふっかけた勝負なのに……」


「サンドラさん。私たち、今はこうして競い合う仲だけど、同じ騎士団の仲間なのよ。有事の際は、背中を預けて一緒に戦うの。だから、困ったときは協力しましょうよ」


 サンドラは、両目にじわりと涙を浮かべた。


「……ごめんなさい、ジュリア。私たち、これまであなたにひどいことをしたわ。それなのに、ありがとう。今まで本当にごめんなさい」


 取り巻きのマノンとオデットも、口々に謝った。


「ごめんね、ジュリア。聖堂掃除、私たちがやるわ。あなたは一週間休んでちょうだい」


「武芸のことで、困ったことは、何でも聞いて。ジュリア、今までごめんなさい」


 あわあわしながら、同輩たちとの仲直りを喜ぶジュリアを、シュガルヴェルグは呆れて見つめた。


『……お嬢は、ほんに、お(ひと)()しだのう……』




 結局は、食事当番も聖堂掃除も、仲良く四人で済ませたらしい。本来の当番表通りというわけだ。

 その日の夕暮れ、聖堂の裏で、ジュリアはブチを膝にのせて笑った。


「ブチもありがとう、応援に来てくれて。ブチの顔を見たら、心が落ち着いて、今までで一番上手に射ることができたの。なんでかな?」


『……さあて、不思議だのう』


 むすっとして、シュガルヴェルグはそっぽを向く。

 ジュリアには、ワフンという鳴き声にしか聞こえない。少女は構わずブチを撫でた。


「あのね。今まで、怖かったの。もしかしたら、私もいつか人間を射る日が来るのかな、って思うと、どうしても怖くて、的をじっと見ていられなかったの。でも、ブチが来てくれたら、不思議と勇気が湧いてきたのよ」


『……』


「……ブチのこと、守らなきゃ、って思ったのかも。もし、私が一人で食事当番になったら、ブチに会いに来る時間が無くなっちゃう。ブチにご飯をあげられないものね」


 えへへ、と照れ笑うジュリアを見つめて、シュガルヴェルグは、ため息一つと、「ワオン」を吐いた。

 彼女にかけた(まじな)いは、あるいは不要だったかもしれぬ、と、内心こっそり()いながら。




 平和な日々が、しばらく過ぎた。

 ジュリアは、あの三人組と、すっかり仲良くなったらしい。

 弓も、剣も、それから槍も、『(たま)()(がね)(まじな)い』が無くとも、おびえずに取り組むことができているようだ。


 凶暴きわまるシュガルヴェルグは、三人組に仕返ししてやればよいのに、と思う。

 だが、当のジュリアが、友人たちとの楽しい鍛錬の日々を、ブチを撫でつつ、にこにこと語るものだから、口出しする隙がない。

 せいぜい、ワフンと鳴くだけだ。


 しかし、その日は、久方ぶりに、ジュリアは浮かない顔をした。


「あのね、ブチ。今度、騎士団の遠征があると噂されているのよ。国境付近の難民の方を、助けてあげるためなのですって」


『ふむ。慣れぬ土地、気をつけねばな』


「……でも私、上手に馬に乗れないの。練習しなくちゃいけないから、明日から、あんまりブチとおしゃべりできないね」


『なんと。それはいかん』


「ご飯だけは持ってくるからね。ブチ、いい子で待っててね」


 名残惜しげにブチを撫でてから、ジュリアはその場を立ち去った。

 ブサイクな仔犬はアオンと鳴いて、彼女をずっと見送っていた。




『まあ、手助けせぬわけがない』


 翌日、当然のような顔をして、ブチは()()へとやってきた。

 端の方でちょこんとおすわりして、一人きりで鍛錬に挑むジュリアの奮闘をしばし見る。

 やがて、がっくりと肩を落とした。


『……お嬢、馬に舐められすぎだ……』


 首を起こせない。

 鞭を使えない。

 ()(づな)を短くすることができない。


 ジュリアが馬に気を遣いすぎるせいで、馬はジュリアをあるじと認めていない。

 全然走らず、地面の草など()んでいる。

 かと思えば、勝手に(かけ)(あし)、勝手に(はや)(あし)


 まったく馬に乗れていない。

 ただ、背中に座っているだけだ。


『……優しすぎるのも、難儀だのう……』


 いつかも言った台詞とともに、シュガルヴェルグは歩み寄った。

 ちょうど、ジュリアがよたよた馬から降りて、飲み物を取りに去って行くのを見届けてから。


『しもべの領分をわきまえぬ馬を、少々おどしつけるとするか』


 ジュリアの馬は、あるじの苦労も気に掛けず、のんきに蝶を眺めていたが、白地に(ちゃ)(まだら)のブサイクな仔犬がトコトコ寄ってくるのを見つけた。


 そして、びくりと身を震わせた。

 動物は、人間よりも勘が鋭い。

 シュガルヴェルグの(しん)()に気づいたのだ。


 天の猟犬は、ヒト型の霊体の美しい(おもて)を、酷薄に歪めて笑いかけた。


『そこな馬。お嬢の(おん)(とく)にあぐらをかいて、無礼を恥じぬ不届きな馬よ』


 馬は逃げたがった。

 だが、できない。

 シュガルヴェルグの霊体が、()(づな)を掴んで離さない。


『あるじがしもべを手厚く迎えるのは、しもべがあるじの役に立つからだ。それを履き違えた愚か者は、いっそ馬肉にでもなったほうが、却って喜ばれることだろうよ』


 馬には、言葉がわからない。

 霊体が見えるわけでもない。

 ただ、足元の変な仔犬が、恐ろしい殺気を向けてくるのがわかる。

 おまけに、なぜだか逃げられない。

 馬はすっかり涙目だ。


 そこへ、ジュリアが駆け戻った。


「ブチったら、こんなところまで来ちゃったの! ……あれ、お馬さん、どうしたの?」


 馬の(はな)(づら)をすりすり撫でて、ジュリアは優しく声をかけた。


「どうしたの、何が怖いの? もう大丈夫よ、泣かないで」


 シュガルヴェルグは、ふん、と笑って、捕らえた()(づな)を離してやった。

 殺気もひょいと引っ込める。


 馬には、ジュリアが女神に見えた。

 あの怖かった謎の仔犬が、ジュリアの前ではおとなしい。

 本能に、力関係が刻まれた。

 一等がジュリア、二等が仔犬。自分は三等に過ぎないのだと。


 それからは、馬は従順だった。

 ジュリアの命令を何でも聞いた。

 なんならば、(つたな)いジュリアを補うように、自ら進んで手助けもした。


 ぱかぱか駆ける馬の背中で、ジュリアは心底嬉しそうだ。

 腕組みをしてそれを眺めるシュガルヴェルグも満足だ。


『しかし、(はく)(しゃ)は、もそっと強く掛けてもよいと思うがな。まあ、いざとなれば、また(おど)かすか』


 殺気を感じ、馬は再びびくついた。




 そして、遠征の日が訪れた。

 隣国の内紛によって焼き出され、住む場所を無くした人々を、神殿の神聖騎士団たちの手で保護してやるのが目的らしい。


 仔犬のブチは、ジュリアの(はい)(のう)にこっそりと忍び込んでいた。

 すっかり彼女の番犬気分なのである。

 初日の休憩時にブチを発見し、ジュリアは彼を撫でて、言いつけた。


「お願いだから、静かに隠れていてね、ブチ。お仕事にワンちゃんを連れてくるなんて普通じゃないのよ」


『無論、心得ているとも。お嬢に迷惑はかけんよ』


 シュガルヴェルグは、うやうやしくジュリアの手に口づけた。

 霊体の見えないジュリアにとっては、仔犬のブチが指をペロリと舐めただけだったが。


 途中、危険な瞬間もあった。

 神聖騎士団に同行している司教の男が、ジュリアをあわてて呼び止めたのだ。


「そなたから、禍々(まがまが)しい血の気配を感じる。(じゃ)(あく)(ばら)いの儀式をせねば!」


 ジュリアも、同輩も、目を丸くした。

 彼女ほど(けい)(けん)な騎士は、他にはいない。

 何かの間違いではないのか、と。


 馬を降り、地にひざまずくジュリアに対し、杖を掲げた司教ロベールも、「妙だな」と首を傾げていた。


「おかしなことだ。邪悪が消えた。そなたは、まこと清らかである。……しかし、先ほど、確かに感じた。血に飢えた凶暴な気配を……」


 (はい)(のう)に隠れたブチは、毛を逆立てて身を固めた。


(まさか、人の身で、我に気づいたか?)


 司教がその場から遠ざかるまで、シュガルヴェルグは息をひそめた。


(……お嬢に、汚名は着せられぬ。大っぴらには出歩かれぬな)




 国境の町は、難民たちであふれていた。

 みな、薄汚れ、うつむいていた。

 隣国から、着の身着のまま逃げてきたのだ。


 神聖騎士団は、不幸な難民たちを救うため、町の外の(きゅう)(りょう)に、力を合わせてキャンプ地を築いた。

 風雨をしのぐ天幕を張り、寒さから身を守る毛布を配り、天幕五つごとに炉を掘って、衛生のための(かわや)も掘った。

 ひときわ大きな二つの天幕は、即席の病院と、物資の配給所だ。


 ジュリアたちは、身を粉にして働き、難民たちをキャンプに誘導した。

 彼女たちがれっきとした高貴な身分の騎士であること、また全員が女性であることが、難民たちを安心させた。


 町の一部の人々も、女騎士たちを手伝った。ただ、それは、大量に押し寄せた異国のよそ者を、引き取ってくれることへの感謝からくる行動であったが、騎士たちはそれを追求はしない。

 町民たちに礼を伝えて、難民たちをいたわった。


 こういう場面で、ブチは無力だ。

 犬や鼠は、病を伝染させるので、怖がられる。まだ姿を見せてはいけなかろう。

 シュガルヴェルグは、荷物に紛れ、ジュリアの奮闘を見守っていた。


 事件が起きたのは、食料配給の待機列だった。

 ひとりの難民の男が、「偽善者どもめ!」と大声をあげた。


「何が救済だ、拝み屋ども! おれたちは、お前らの宗派同士の対立で始まった紛争のせいで、家も畑も失って、焼け出されてここへ来たんだ。それを、今さら(きゅう)(せい)(しゅ)(づら)しやがって、恥知らずの悪党どもめ!」


 その男は、手に()(やり)を持っていた。

 明らかに正気ではなかった。

 一番近いのは、列整理をするジュリアだった。


(これは、いかん)


 ブチは素早く飛び出して、ジュリアのもとへと駆け出した。

 仔犬が辿り着くより早く、ジュリアは難民たちをかばって、一歩前へと進み出た。そして、男に語りかけた。


「お気持ち、お察しいたします。私たちは聖職者ですが、確かに、あやまちも犯します。ですが、今は日が沈む前に、食料を配らせてください。小さな子どももいるのです。どうか、槍を置いてください」


「うるさい、黙れ、偽善者め! なにが神だよ、(くそ)()らえ!」


『お嬢、弓だ、すぐに構えろ! 必ず我が射抜かせてやる!』


 シュガルヴェルグの必死の叫びは、しかしジュリアには届かない。

 怒りで顔を赤黒く染めた男は、槍を振り上げた。


 ジュリアは、矢をつがえなかった。

 (つるぎ)も、抜き放たなかった。

 恐怖に涙を浮かべながらも、難民をかばい、両腕を広げた。


 男が叫ぶ。

 ()(やり)が飛ぶ。

 ジュリアがぎゅっと目をつぶる。


 シュガルヴェルグは、仔犬の体で、槍の()(さき)からあるじをかばった。

 彼の口から(ほとばし)った血は、人間たちには、キャイン、と聞こえた。


「……ブチ!? ブチ、いやぁ! 死なないで!」


 叫び。ざわめき。誰かの泣き声。

 男を取り押さえる騎士の群れ。

 薄れる意識の最後に、ブチは、頬に降りかかる涙を感じた。




 次に気がついたときには、シュガルヴェルグは、天界にいた。

 見間違えようはずもない。かつて、()(じん)に駆けた野原だ。

 懐かしき天の(かり)()には、懐かしきあるじも待っていた。


 (あま)()ける(いくさ)()(がみ)

 (とうと)()()はテミリリス。

 シュガルヴェルグは、ひざまずいた。


『ご無沙汰しております、我があるじ』


『やれ久しいのう、シュガルヴェルグよ』


 テミリリスは、輝く()(ぼう)に面白がるような笑みを浮かべて、彼に尋ねた。


『お前、なぜ、あの男を噛み殺さなかった? かつてのお前は、迷わずそうした』


『はい。それは、お嬢……ジュリアが、それを望まぬと、わかっていたからでございます』


『ほう?』


『ジュリアは、心の優しい娘です。矢を射るときさえおびえて目をつぶる、馬さえ(あわ)れんであなどられる、そういう性格の娘なのです』


 テミリリスは、にやにやと笑んで、聞いている。


『しかし、ただの臆病者ではありません。己を(いじ)めた同輩に仕返しをする機会を捨てて、手を貸すような娘です。難民を守るためならば、我が身を犠牲に一歩も退()かぬ娘なのです。だからこそ……』


 シュガルヴェルグは、女神を見据えた。


『……だからこそ、その意に反して、男を殺せば、ジュリアはきっと悲しんで、男のために泣くだろう、と……それがわかっていたから、殺さなかったのです』


 女神はにっこりほほえんだ。


『お前はすっかり改心したね。地に()とした甲斐(かい)もあったというもの。どうだ、再び天に戻るか? 今ならば、また私の第一の猟犬として迎えてやろう』


 シュガルヴェルグは、無言になった。

 確かに、かつてはそれを望んでいた。

 だが、今は。


『ありがたきお言葉。ですが、(つつし)んで辞退いたします』


『ほう? なぜだ?』


『私は、まだジュリアを見守っていたいのです。心優しく高潔なあの娘のゆく道に、最後まで付き従っていたいのです』


 そして、わずかに口ごもって、続けた。


『それに、いま私が天に戻れば、ジュリアはきっと泣くでしょう。自分をかばって、ブチが死んだ、と』


 テミリリスは、大声で笑った。


『よろしい、叶えてとらそう。シュガルヴェルグよ、そなたはブチとして、あの娘を生涯にわたって(たす)け支えよ。これは天命である。務めを果たし終えるまで、天に戻ることは許さぬ』


『ありがたき幸せ』


 ひれ伏すシュガルヴェルグを見つめ、(いくさ)()(がみ)は優しく告げた。


『かつてのお前は、誰よりも強く猛々しい猟犬だった。しかし、身勝手で凶暴だった。今のお前は、心を捧げる主を得て、真に優れた忠犬となったね……』




 目が覚めるなり、待っていたのは、べそべそに泣き濡れたジュリアの顔だった。


「……ブチ! 先生、ブチが目を覚ましました!」


 わあわあ泣いて嬉し涙におぼれるジュリアを、マノンとオデットとサンドラが、よかったねえ、よかったねえ、と、もらい泣きして肩を抱く。

 薬草師がブチを診て、「山は越えたか、強い子だ」と、しわしわの手で頭を撫でる。

 その場に居合わせた司教ロベールは、ブチを眺めて、首を傾げた。


「おや、この仔犬から、ものすごい聖性を感じるぞ。それに、キャンプ地からただよっていた、血に飢えた気配が消えてしまった」


「司教様、それはもしかして、ジュリアを襲った不幸の気配だったのでは?」


「ううむ……そういうことに、なるだろうか。では、身を(てい)してそれを(はら)ったこの犬は、あるいは天の()使(つか)いであろうか」


 シュガルヴェルグは、痛む体を休めながらも、内心司教の言葉に笑んだ。


(おおむ)ね、そのようなものさな。我は神獣、天の猟犬ゆえ)


 本当は、血に飢えた気配も彼のものだが、女神テミリリスの言うとおり、改心したので、気配も少し変わったらしい。


 ジュリアは、ブチを優しく撫でて言った。


「なんでもいいんです。ブチが死ななくて、本当によかった。神様、本当にありがとうございます」


 透明な涙をぽろぽろ流す、ジュリアの笑顔はきれいだった。シュガルヴェルグは、その霊体で、彼女の頬に口づけた。(はた)()からは、仔犬が涙を舐めたようにしか見えないだろうが。


『ま、これくらいは、役得かのう』


 怪我は重い。しばらく不便はするだろうが、そのぶん、ジュリアに構ってもらえるので、それも良いか、とシュガルヴェルグは満足そうにほほえんだ。




 その後、ジュリアは聖騎士として、さまざまな活躍を打ち立てた。

 難民キャンプでの(てい)(しん)によって(いち)(やく)名を馳せた彼女は、神殿組織の宗派対立の収束に関し、多大な功績を残した。

 それがきっかけで、隣国皇帝に見初められ、()()(きょく)(せつ)の末、皇后となる。国籍を問わず民を(いつく)しみ、国同士の親睦を深めた彼女は、多くの人々に愛され続けた。

 そんなジュリアのかたわらには、白地に(ちゃ)(まだら)の、ちょっとブサイクな愛犬が、常に寄り添っていたという。

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