落ちこぼれ令嬢とペットのブチ 〜みんなに内緒で捨て犬に餌をやっていたのですが、犬はどうやら神獣だったらしいです〜
「ジュリア、あなたってば本当にトロいのね。それじゃあ約束通り、聖堂の掃除一週間、あなた一人でお願いね!」
少女たちは、ケラケラと笑いながら、練兵場から去っていった。
木剣を手にしてうつむく、ジュリアだけを残して。
彼女たちは、貴族令嬢であり、女騎士だ。
神殿が有する神聖騎士団は、男子禁制。貴く麗しき女性の騎士だけで構成されている。
ようは、国防の戦力として数えられない、お飾りの騎士団だ。
それでも、貴族たちからは絶大な支持がある。
神聖騎士団に娘を所属させておけば、酒や男や賭事といった不埒な遊びから、大切な令嬢を遠ざけておくことができる。それに、騎士団が定期的に行う貧者救済の慈善事業は、娘と家名に箔を与えてくれる。
子爵令嬢ジュリアもまた、父のそのような思惑のもと、神聖騎士団の女騎士として、名を連ねることになった。
だが、彼女は筋金入りの不器用だ。
剣も、槍も、弓も、てんでだめ。
格闘なんて、言わずもがな。
乗馬も下手で、どんな馬にも舐められている。
おまけに、つらい目に遭っても、誰にも相談せずに一人で抱え込む性質なので、先ほどのように悪い同輩に利用されている。
運動神経抜群の、マノン、オデット、サンドラの三人組に、勝てっこない三本勝負を仕掛けられたのだ。負けたら、聖堂の掃除当番を、一人で一週間やるという条件で。
内気なジュリアは、断れなかった。
それで案の定、敗北したのだ。
とぼとぼとした足取りで、ジュリアは聖堂に向かう。
この神殿の聖堂は、とても広い。
だから本当は、掃除当番は四人一組なのだ。
それなのに、一週間も、ジュリアは一人で掃除しなくてはならない。
だけど、ジュリアは手抜きはしなかった。
神殿は、天の神様が立ち寄る場所だ。
地上の様子を見に来た神様が、汚れた聖堂を見たら、どう思うだろうか。
きっと、がっかりするに違いない。
人間はみんな怠け者なのだと、勘違いなさるかもしれない。
だから、ジュリアはがんばった。重いバケツをうんうん運び、埃を浴びて咳き込みながらも、聖堂を隅から隅まで綺麗にした。
そして、仕上がりに満足してから、ジュリアは急いで聖堂の裏へと走って行った。
「ブチ、おまたせ。お腹空いたでしょ」
物陰でジュリアはしゃがみ込み、懐からチーズを出して、古いお皿に置いた。
それにすかさず食らいついたのは、一頭の薄汚れた仔犬だった。
白い体毛に、茶色の斑。ちょっとだけブサイクだ。
ジュリアは、仔犬の背を撫でて、ほほえんだ。
「ゆっくりお食べ。……ふふ、怪我も治ってきたね」
ジュリアがこの仔犬を見つけたのは、一ヶ月前のことだ。
真っ黒な雨雲が空を覆い尽くし、恐ろしい稲妻が何度も光っていた。令嬢たちは、部屋の中で毛布をかぶって震え、普段は頼りもしない神様の名前を繰り返し唱えていた。
その翌日、聖堂の裏で、傷だらけで弱りきったこの仔犬が落ちているのを、ジュリアは見つけたのだ。
それ以来、ジュリアは自分の食事を少しずつ隠して持ってきては、この仔犬に分け与えている。子爵である父から届いたお小遣いも、仔犬の怪我を治すための薬代にしてしまった。
仔犬はすっかりジュリアに懐いた。彼女は、仔犬にブチと名前をつけて、誰にも内緒で可愛がっていた。
「ブチ、あのね。私、今日もまた、剣の試合に負けちゃった」
膝の上にのせた犬を撫でつつ、ジュリアは一日の出来事を語って聞かせた。
「みんな強いなあ。とくに、サンドラさんは本当に強いのよ。彼女は侯爵令嬢で、お父様は辺境を守る大領主様なの。だから、騎士団に入る前から、武芸の心得があるのですって。憧れちゃうなあ」
ブチは、間抜けな顔でワオンと鳴いた。癒やされながら、ジュリアは笑った。
「それでね、剣の勝負に負けたから、私は今週、一人で聖堂の大掃除なの。だから、ここに来るのが遅くなっちゃう。ごめんね、ブチ。明日も良い子で待っててね」
ブチは寂しそうに鼻を鳴らした。
その小さな音をかき消すように、ゴオン、ゴオン、と神殿の鐘が鳴った。
点呼の時間だ。戻らなくては。
ジュリアは、ブチを地面に戻し、頭を撫で回してから、「またね」と手を振ってその場を去った。
手を振り返す代わりに、尻尾をぶんぶん振って、ブチはジュリアを見送った。
シュガルヴェルグは、天駆ける戦女神テミリリスが使役する、最強の猟犬だ。
魔物でさえも単独で噛み殺すシュガルヴェルグは、主の命令を無視して獲物を狩り過ぎた罪で、先日、地上へ堕とされた。
「血に飢えた凶暴な性を改めよ」とのお叱りと共に、雷の矢をその身に受けて。
今は、ブサイクな仔犬の姿に身をやつしている。
本来は、体高五尺の巨体を誇る、白銀の美しい神獣なのだ。
女神を背に乗せ、野を駆けたこともある。
だが、神力で打たれて深く傷つき、力を失ったシュガルヴェルグは、もうその姿に戻ることができない。
白地に茶斑の、ブサイクな仔犬が関の山だ。
(……と、思っていたのだがな)
神官も、女騎士たちも寝静まった夜闇の中で、シュガルヴェルグは、仔犬の体をぶるりと振るわせた。
(魂の傷は、ずいぶん癒えてきたらしい。あの娘の、熱心な手当のおかげだな)
月光のもと、仔犬の体が、二重に歪む。
白装束の、白髪の男の姿が透ける。
『……ふむ。今はまだ、ヒト型の霊体をとるだけで精一杯か。肉の実体は仔犬のままで、かつての姿には戻れぬまま、と』
重ねた薄衣、輝く鎧。瞳は飢えたる深紅色。
シュガルヴェルグのヒト型は、そのような若武者姿であった。
彼は、唇に指を当て、月を眺めて独りごちた。
『このまま過ごせば、かつての霊力も取り戻せるやもしれぬな。運良く、ここは聖域の一つ。ジュリア嬢もまた、神に仕える乙女のようだ。じっくり待てば、我もいずれは天へと還ることができよう。しかし……』
血色の眼が、すい、と細まる。
『我が恩人は、ずいぶん侮られているようだ。我も神獣、心清き乙女がなぶられているところを、黙って見過ごすつもりはない。お嬢と我とが二人で過ごす時間が減るのも、業腹よな』
真っ赤な舌が、ぺろりと唇を舐める。
抑えきれぬ凶暴さが、口角をつりあげる。
シュガルヴェルグは、喉を鳴らした。
『どれ。不埒な小娘どもに、ひとつ、目にもの見せてやるかな』
その日は、弓射の訓練だった。
人目を避けて物陰に隠れ、練兵場までやってきたブチは、低木の茂みに潜り込んで、若き女騎士たちの練習風景を見物していた。
弓は、戦女神の最も好む得物である。
猟犬とはいえ、シュガルヴェルグにも多少の心得はある。
しかし、ジュリアの弓の腕は、そういう問題ではなかった。
シュガルヴェルグは、呆れて言った。
『……お嬢、目を閉じていては、的に当たらぬぞ……』
姿勢は良い。力もある。
だが、射る瞬間、目をぎゅっと閉じるのだ。
おかげで、明後日の方向に矢が飛ぶ。
逆に、よく事故が起きないものだ。
呆れながらもしばらく観察して、シュガルヴェルグは、ジュリアの悪癖の理由がわかった。
『なるほど、怖がっているのだな』
矢のない素引きの練習ならば、おかしなところは見受けられない。
だが、いざ矢をつがえ、的を狙うと、ジュリアの瞳はふらふら揺れる。
そして、しまいにはぎゅっとまぶたを閉じてしまう。
ジュリアは、的に感情移入しているのだ。
『……優しすぎるのも、難儀だのう……』
そんなジュリアに、三人の女騎士が声を掛けた。
マノン、オデット、サンドラ。
聖堂掃除を押しつけた、例の三人組である。
「ジュリア、あなたって、真面目に訓練する気はあるの?」
「わ、私はいつも真剣です。なかなかうまくいかないけれど……」
「嘘おっしゃい。目を閉じて矢を射るなんて、遊んでいるとしか思えないわ」
「あなたみたいにふざけた人がいると、他のみんなの迷惑なのよ」
「そ、そう言われましても……」
うつむくジュリアに、三人はほくそ笑む。
「そうね、なら、あなたでも真面目に取り組めるように、こんな条件をつけるのはどう? 今から的当て勝負をして、負けた方は、食事当番を一人でやること」
ジュリアは、泣きそうな顔で三人に訴えた。
「そんな……! 私、聖堂掃除もあるのに、食事当番まで……!」
「あら、勝てばいいじゃない。最初から負けるつもりだなんて、あなた、本当に不真面目なのね」
クスクス笑う少女たちのうち、一人が前に進み出た。
「仕方ないわね。手加減してあげる。勝負の相手は、私、サンドラだけよ。負けたほうが食事当番。他の二人とは、勝負しなくていいわ」
ジュリアは、ますます泣きそうになった。
サンドラは、この騎士団で一番の実力者だ。
どうやって勝てばいいのだろう。
途方に暮れるジュリアを後目に、サンドラはさっさと自分の矢を射た。
一本目。的中。
二本目。ハズレ。
三本目。的中。
四本目。正鵠に的中。
取り巻きのマノンとオデットは、大喜びだ。
「さすがね、サンドラ。侯爵閣下譲りの武勇だわ」
「男の人でも、サンドラの弓にはきっと敵わなくてよ」
「ふふん、当然よ。……さあ、ジュリア。あなたの番よ。早く始めなさいな」
ジュリアは、自分の弓を抱えて、うつむいて立ち尽くした。
その足元に、ワオン、アオン、という鳴き声とともに、何かがトコトコ近寄ってきた。
それは、白地に茶斑の、ちょっとブサイクな仔犬であった。
「……ブチ! なんでここに? 危ないから、来ちゃだめなのよ」
手をひらひらさせて、優しく追い払おうとするジュリアに、ブチことシュガルヴェルグはにやりと笑って言った。
『お嬢に恩を返すまたとない機会、我が見逃すわけがなかろうよ。構えよ、お嬢。天の猟犬の神力の一端、不良娘どもに見せてくれよう』
霊体の声は、人間たちには届かない。
ジュリアには、ブチの鳴き声は、ワンワンアオンとしか聞こえていない。
だが、シュガルヴェルグの霊体の手が、ジュリアの背を優しく押し、的に向かわせると、彼女の体は自然とそのように動いた。
霊体に促されるまま弓を引き、ジュリアは内心首を傾げた。
(あれ、私、なんで構えて)
『ようし、よし。……お嬢は、姿勢は悪くないのだ。真剣に練習している証左よな。的に心を乱されなければ、良い射手になれるはずなのだ』
シュガルヴェルグは、うっすら笑んで、ささやいた。
『そんなお嬢に、うってつけのお呪いがあってのう。戦場で戦士の恐怖を消す業だ。それに加えて、矢が自ずから的を追う呪も、お嬢にかけてあげような』
深紅の妖しい瞳が光る。誰にも聞こえぬ霊の声音で、シュガルヴェルグはこう唱えた。
『黒鉄刀と為す如くして御霊打ち焼べ砥ぎ給え。影と形が目合う如く鏃焦がれよ鵠の目』
ジュリアは、射た。初めて両目をつぶらずに。
矢は、的の中央、正鵠を、あやまたず射た。
誰もが目を丸くした。ジュリア本人すらも。
ただ一人、いやただ一頭、シュガルヴェルグだけを除いて。
彼は、くつくつと喉で笑った。
『そうら、上手だ。残り三本、続けてごらん』
二本目。正鵠に的中。前の矢を貫いて。
三本目。同上。
四本目も。
明確な勝敗。
サンドラが顔を青くするのを眺め、シュガルヴェルグは大笑いした。
『ふはははは! これで、当番はそなた一人か。己の言い出した約束だ、しかと守れよ。これに懲りたら、二度とお嬢を虐めぬことだ』
しかし、ジュリアは、彼の台詞を自分の口で言い直すことはしなかった。少女は、サンドラの表情に深い深い後悔を見て取ると、歩み寄って、その手を取った。
「サンドラさん、食事当番は、一緒にやりましょう」
「えっ。ど、どうして?」
「だって、大変でしょう。一人で終わる仕事じゃないわ」
「……だけど、私たちがふっかけた勝負なのに……」
「サンドラさん。私たち、今はこうして競い合う仲だけど、同じ騎士団の仲間なのよ。有事の際は、背中を預けて一緒に戦うの。だから、困ったときは協力しましょうよ」
サンドラは、両目にじわりと涙を浮かべた。
「……ごめんなさい、ジュリア。私たち、これまであなたにひどいことをしたわ。それなのに、ありがとう。今まで本当にごめんなさい」
取り巻きのマノンとオデットも、口々に謝った。
「ごめんね、ジュリア。聖堂掃除、私たちがやるわ。あなたは一週間休んでちょうだい」
「武芸のことで、困ったことは、何でも聞いて。ジュリア、今までごめんなさい」
あわあわしながら、同輩たちとの仲直りを喜ぶジュリアを、シュガルヴェルグは呆れて見つめた。
『……お嬢は、ほんに、お人好しだのう……』
結局は、食事当番も聖堂掃除も、仲良く四人で済ませたらしい。本来の当番表通りというわけだ。
その日の夕暮れ、聖堂の裏で、ジュリアはブチを膝にのせて笑った。
「ブチもありがとう、応援に来てくれて。ブチの顔を見たら、心が落ち着いて、今までで一番上手に射ることができたの。なんでかな?」
『……さあて、不思議だのう』
むすっとして、シュガルヴェルグはそっぽを向く。
ジュリアには、ワフンという鳴き声にしか聞こえない。少女は構わずブチを撫でた。
「あのね。今まで、怖かったの。もしかしたら、私もいつか人間を射る日が来るのかな、って思うと、どうしても怖くて、的をじっと見ていられなかったの。でも、ブチが来てくれたら、不思議と勇気が湧いてきたのよ」
『……』
「……ブチのこと、守らなきゃ、って思ったのかも。もし、私が一人で食事当番になったら、ブチに会いに来る時間が無くなっちゃう。ブチにご飯をあげられないものね」
えへへ、と照れ笑うジュリアを見つめて、シュガルヴェルグは、ため息一つと、「ワオン」を吐いた。
彼女にかけた呪いは、あるいは不要だったかもしれぬ、と、内心こっそり悔いながら。
平和な日々が、しばらく過ぎた。
ジュリアは、あの三人組と、すっかり仲良くなったらしい。
弓も、剣も、それから槍も、『霊刃金の呪い』が無くとも、おびえずに取り組むことができているようだ。
凶暴きわまるシュガルヴェルグは、三人組に仕返ししてやればよいのに、と思う。
だが、当のジュリアが、友人たちとの楽しい鍛錬の日々を、ブチを撫でつつ、にこにこと語るものだから、口出しする隙がない。
せいぜい、ワフンと鳴くだけだ。
しかし、その日は、久方ぶりに、ジュリアは浮かない顔をした。
「あのね、ブチ。今度、騎士団の遠征があると噂されているのよ。国境付近の難民の方を、助けてあげるためなのですって」
『ふむ。慣れぬ土地、気をつけねばな』
「……でも私、上手に馬に乗れないの。練習しなくちゃいけないから、明日から、あんまりブチとおしゃべりできないね」
『なんと。それはいかん』
「ご飯だけは持ってくるからね。ブチ、いい子で待っててね」
名残惜しげにブチを撫でてから、ジュリアはその場を立ち去った。
ブサイクな仔犬はアオンと鳴いて、彼女をずっと見送っていた。
『まあ、手助けせぬわけがない』
翌日、当然のような顔をして、ブチは馬場へとやってきた。
端の方でちょこんとおすわりして、一人きりで鍛錬に挑むジュリアの奮闘をしばし見る。
やがて、がっくりと肩を落とした。
『……お嬢、馬に舐められすぎだ……』
首を起こせない。
鞭を使えない。
手綱を短くすることができない。
ジュリアが馬に気を遣いすぎるせいで、馬はジュリアをあるじと認めていない。
全然走らず、地面の草など食んでいる。
かと思えば、勝手に駈歩、勝手に速歩。
まったく馬に乗れていない。
ただ、背中に座っているだけだ。
『……優しすぎるのも、難儀だのう……』
いつかも言った台詞とともに、シュガルヴェルグは歩み寄った。
ちょうど、ジュリアがよたよた馬から降りて、飲み物を取りに去って行くのを見届けてから。
『しもべの領分をわきまえぬ馬を、少々おどしつけるとするか』
ジュリアの馬は、あるじの苦労も気に掛けず、のんきに蝶を眺めていたが、白地に茶斑のブサイクな仔犬がトコトコ寄ってくるのを見つけた。
そして、びくりと身を震わせた。
動物は、人間よりも勘が鋭い。
シュガルヴェルグの神気に気づいたのだ。
天の猟犬は、ヒト型の霊体の美しい面を、酷薄に歪めて笑いかけた。
『そこな馬。お嬢の恩徳にあぐらをかいて、無礼を恥じぬ不届きな馬よ』
馬は逃げたがった。
だが、できない。
シュガルヴェルグの霊体が、手綱を掴んで離さない。
『あるじがしもべを手厚く迎えるのは、しもべがあるじの役に立つからだ。それを履き違えた愚か者は、いっそ馬肉にでもなったほうが、却って喜ばれることだろうよ』
馬には、言葉がわからない。
霊体が見えるわけでもない。
ただ、足元の変な仔犬が、恐ろしい殺気を向けてくるのがわかる。
おまけに、なぜだか逃げられない。
馬はすっかり涙目だ。
そこへ、ジュリアが駆け戻った。
「ブチったら、こんなところまで来ちゃったの! ……あれ、お馬さん、どうしたの?」
馬の鼻面をすりすり撫でて、ジュリアは優しく声をかけた。
「どうしたの、何が怖いの? もう大丈夫よ、泣かないで」
シュガルヴェルグは、ふん、と笑って、捕らえた手綱を離してやった。
殺気もひょいと引っ込める。
馬には、ジュリアが女神に見えた。
あの怖かった謎の仔犬が、ジュリアの前ではおとなしい。
本能に、力関係が刻まれた。
一等がジュリア、二等が仔犬。自分は三等に過ぎないのだと。
それからは、馬は従順だった。
ジュリアの命令を何でも聞いた。
なんならば、拙いジュリアを補うように、自ら進んで手助けもした。
ぱかぱか駆ける馬の背中で、ジュリアは心底嬉しそうだ。
腕組みをしてそれを眺めるシュガルヴェルグも満足だ。
『しかし、拍車は、もそっと強く掛けてもよいと思うがな。まあ、いざとなれば、また脅かすか』
殺気を感じ、馬は再びびくついた。
そして、遠征の日が訪れた。
隣国の内紛によって焼き出され、住む場所を無くした人々を、神殿の神聖騎士団たちの手で保護してやるのが目的らしい。
仔犬のブチは、ジュリアの背嚢にこっそりと忍び込んでいた。
すっかり彼女の番犬気分なのである。
初日の休憩時にブチを発見し、ジュリアは彼を撫でて、言いつけた。
「お願いだから、静かに隠れていてね、ブチ。お仕事にワンちゃんを連れてくるなんて普通じゃないのよ」
『無論、心得ているとも。お嬢に迷惑はかけんよ』
シュガルヴェルグは、うやうやしくジュリアの手に口づけた。
霊体の見えないジュリアにとっては、仔犬のブチが指をペロリと舐めただけだったが。
途中、危険な瞬間もあった。
神聖騎士団に同行している司教の男が、ジュリアをあわてて呼び止めたのだ。
「そなたから、禍々しい血の気配を感じる。邪悪祓いの儀式をせねば!」
ジュリアも、同輩も、目を丸くした。
彼女ほど敬虔な騎士は、他にはいない。
何かの間違いではないのか、と。
馬を降り、地にひざまずくジュリアに対し、杖を掲げた司教ロベールも、「妙だな」と首を傾げていた。
「おかしなことだ。邪悪が消えた。そなたは、まこと清らかである。……しかし、先ほど、確かに感じた。血に飢えた凶暴な気配を……」
背嚢に隠れたブチは、毛を逆立てて身を固めた。
(まさか、人の身で、我に気づいたか?)
司教がその場から遠ざかるまで、シュガルヴェルグは息をひそめた。
(……お嬢に、汚名は着せられぬ。大っぴらには出歩かれぬな)
国境の町は、難民たちであふれていた。
みな、薄汚れ、うつむいていた。
隣国から、着の身着のまま逃げてきたのだ。
神聖騎士団は、不幸な難民たちを救うため、町の外の丘陵に、力を合わせてキャンプ地を築いた。
風雨をしのぐ天幕を張り、寒さから身を守る毛布を配り、天幕五つごとに炉を掘って、衛生のための厠も掘った。
ひときわ大きな二つの天幕は、即席の病院と、物資の配給所だ。
ジュリアたちは、身を粉にして働き、難民たちをキャンプに誘導した。
彼女たちがれっきとした高貴な身分の騎士であること、また全員が女性であることが、難民たちを安心させた。
町の一部の人々も、女騎士たちを手伝った。ただ、それは、大量に押し寄せた異国のよそ者を、引き取ってくれることへの感謝からくる行動であったが、騎士たちはそれを追求はしない。
町民たちに礼を伝えて、難民たちをいたわった。
こういう場面で、ブチは無力だ。
犬や鼠は、病を伝染させるので、怖がられる。まだ姿を見せてはいけなかろう。
シュガルヴェルグは、荷物に紛れ、ジュリアの奮闘を見守っていた。
事件が起きたのは、食料配給の待機列だった。
ひとりの難民の男が、「偽善者どもめ!」と大声をあげた。
「何が救済だ、拝み屋ども! おれたちは、お前らの宗派同士の対立で始まった紛争のせいで、家も畑も失って、焼け出されてここへ来たんだ。それを、今さら救世主面しやがって、恥知らずの悪党どもめ!」
その男は、手に錆び槍を持っていた。
明らかに正気ではなかった。
一番近いのは、列整理をするジュリアだった。
(これは、いかん)
ブチは素早く飛び出して、ジュリアのもとへと駆け出した。
仔犬が辿り着くより早く、ジュリアは難民たちをかばって、一歩前へと進み出た。そして、男に語りかけた。
「お気持ち、お察しいたします。私たちは聖職者ですが、確かに、あやまちも犯します。ですが、今は日が沈む前に、食料を配らせてください。小さな子どももいるのです。どうか、槍を置いてください」
「うるさい、黙れ、偽善者め! なにが神だよ、糞喰らえ!」
『お嬢、弓だ、すぐに構えろ! 必ず我が射抜かせてやる!』
シュガルヴェルグの必死の叫びは、しかしジュリアには届かない。
怒りで顔を赤黒く染めた男は、槍を振り上げた。
ジュリアは、矢をつがえなかった。
剣も、抜き放たなかった。
恐怖に涙を浮かべながらも、難民をかばい、両腕を広げた。
男が叫ぶ。
錆び槍が飛ぶ。
ジュリアがぎゅっと目をつぶる。
シュガルヴェルグは、仔犬の体で、槍の穂先からあるじをかばった。
彼の口から迸った血は、人間たちには、キャイン、と聞こえた。
「……ブチ!? ブチ、いやぁ! 死なないで!」
叫び。ざわめき。誰かの泣き声。
男を取り押さえる騎士の群れ。
薄れる意識の最後に、ブチは、頬に降りかかる涙を感じた。
次に気がついたときには、シュガルヴェルグは、天界にいた。
見間違えようはずもない。かつて、無尽に駆けた野原だ。
懐かしき天の狩場には、懐かしきあるじも待っていた。
天駆ける戦の女神。
尊き御名はテミリリス。
シュガルヴェルグは、ひざまずいた。
『ご無沙汰しております、我があるじ』
『やれ久しいのう、シュガルヴェルグよ』
テミリリスは、輝く美貌に面白がるような笑みを浮かべて、彼に尋ねた。
『お前、なぜ、あの男を噛み殺さなかった? かつてのお前は、迷わずそうした』
『はい。それは、お嬢……ジュリアが、それを望まぬと、わかっていたからでございます』
『ほう?』
『ジュリアは、心の優しい娘です。矢を射るときさえおびえて目をつぶる、馬さえ憐れんであなどられる、そういう性格の娘なのです』
テミリリスは、にやにやと笑んで、聞いている。
『しかし、ただの臆病者ではありません。己を虐めた同輩に仕返しをする機会を捨てて、手を貸すような娘です。難民を守るためならば、我が身を犠牲に一歩も退かぬ娘なのです。だからこそ……』
シュガルヴェルグは、女神を見据えた。
『……だからこそ、その意に反して、男を殺せば、ジュリアはきっと悲しんで、男のために泣くだろう、と……それがわかっていたから、殺さなかったのです』
女神はにっこりほほえんだ。
『お前はすっかり改心したね。地に堕とした甲斐もあったというもの。どうだ、再び天に戻るか? 今ならば、また私の第一の猟犬として迎えてやろう』
シュガルヴェルグは、無言になった。
確かに、かつてはそれを望んでいた。
だが、今は。
『ありがたきお言葉。ですが、謹んで辞退いたします』
『ほう? なぜだ?』
『私は、まだジュリアを見守っていたいのです。心優しく高潔なあの娘のゆく道に、最後まで付き従っていたいのです』
そして、わずかに口ごもって、続けた。
『それに、いま私が天に戻れば、ジュリアはきっと泣くでしょう。自分をかばって、ブチが死んだ、と』
テミリリスは、大声で笑った。
『よろしい、叶えてとらそう。シュガルヴェルグよ、そなたはブチとして、あの娘を生涯にわたって輔け支えよ。これは天命である。務めを果たし終えるまで、天に戻ることは許さぬ』
『ありがたき幸せ』
ひれ伏すシュガルヴェルグを見つめ、戦女神は優しく告げた。
『かつてのお前は、誰よりも強く猛々しい猟犬だった。しかし、身勝手で凶暴だった。今のお前は、心を捧げる主を得て、真に優れた忠犬となったね……』
目が覚めるなり、待っていたのは、べそべそに泣き濡れたジュリアの顔だった。
「……ブチ! 先生、ブチが目を覚ましました!」
わあわあ泣いて嬉し涙におぼれるジュリアを、マノンとオデットとサンドラが、よかったねえ、よかったねえ、と、もらい泣きして肩を抱く。
薬草師がブチを診て、「山は越えたか、強い子だ」と、しわしわの手で頭を撫でる。
その場に居合わせた司教ロベールは、ブチを眺めて、首を傾げた。
「おや、この仔犬から、ものすごい聖性を感じるぞ。それに、キャンプ地からただよっていた、血に飢えた気配が消えてしまった」
「司教様、それはもしかして、ジュリアを襲った不幸の気配だったのでは?」
「ううむ……そういうことに、なるだろうか。では、身を挺してそれを祓ったこの犬は、あるいは天の御使いであろうか」
シュガルヴェルグは、痛む体を休めながらも、内心司教の言葉に笑んだ。
(概ね、そのようなものさな。我は神獣、天の猟犬ゆえ)
本当は、血に飢えた気配も彼のものだが、女神テミリリスの言うとおり、改心したので、気配も少し変わったらしい。
ジュリアは、ブチを優しく撫でて言った。
「なんでもいいんです。ブチが死ななくて、本当によかった。神様、本当にありがとうございます」
透明な涙をぽろぽろ流す、ジュリアの笑顔はきれいだった。シュガルヴェルグは、その霊体で、彼女の頬に口づけた。傍目からは、仔犬が涙を舐めたようにしか見えないだろうが。
『ま、これくらいは、役得かのう』
怪我は重い。しばらく不便はするだろうが、そのぶん、ジュリアに構ってもらえるので、それも良いか、とシュガルヴェルグは満足そうにほほえんだ。
その後、ジュリアは聖騎士として、さまざまな活躍を打ち立てた。
難民キャンプでの挺身によって一躍名を馳せた彼女は、神殿組織の宗派対立の収束に関し、多大な功績を残した。
それがきっかけで、隣国皇帝に見初められ、紆余曲折の末、皇后となる。国籍を問わず民を慈しみ、国同士の親睦を深めた彼女は、多くの人々に愛され続けた。
そんなジュリアのかたわらには、白地に茶斑の、ちょっとブサイクな愛犬が、常に寄り添っていたという。