野火前夜
頬に当たるちくちくした感触で、自分が筵に寝かされていることがわかった。
脚がじくじくと痛む。先の戦で矢で射られたのだ。毒でも仕込んであったのだろう。一寸たりとも動く気配はない。
待て。寝かされている? 何が起こったのか思い当たり、即座に身を起こした。
部屋を見渡す。目に入る光景。そこの抜けた床板。崩れて竹の骨組みが晒されている土壁。破れた障子。蜘蛛の巣。埃。くすみきった仏像。長く人が住み付かない古寺か。
「起きたか」
張りのある男の声。振り向くと暗がりに若い男。
男の羽織の紋は鶴に紅梅。賊軍の証。
腰の刀を抜こうとするが、そこには何もなく。それどころか身に仕込んである武器の類は全て取り払われた後だった。口内に隠した自決用の丸薬でさえ。
「こ、殺せッ……」
声が震えた。長身の男は構わず向かってくる。男は私の前にやってくると、半身を起こした状態の私と目線を合わせるようにしゃがんだ。
「おなごにそういうことする趣味はないな」
「私は女じゃない!」
叫んだ拍子に男の襟首を掴んだ。
「……ッ」
両の手で男の頸を絞める。
男の顔が歪む。脂汗が浮かぶ。
しかし神経毒が盛られているのか、うまく手に力が入らない。縊り殺すまで行かずに全身の力が抜けた。
ゴホゴホと咳付きながら、男は床に崩れた。
「捨てた身だ。二度と女として扱うな」
そう言いながら息が上がっている。これくらいの運動でふらつくとは、屈辱だった。
「善処するよ」
男は起き上がりつつ言う。
私は深く息を吐くと、舌を出してそれを噛み切ろうとした。
「おい!」
私の企みに気づいたのか、一目散に男が覆い被さってきて私の口に指を突っ込んだ。
男はなぜか青ざめていた。青ざめたまま、私の体を堅く組み伏せている。身動きは全く取れなかった。普段だったら一発で形勢逆転できるというのに。
「何をしている!」
「敵軍の男に傅くなど武士の名折れ。なれば自らこうするしかない」
「くだらない」
男はため息をつくと、一瞬だけ唇を噛み締めた。
「殉じることが現実として効力を発揮するのはその行為自体が民の論を動かす時だけだ。誰にも知られず自らを殺めるなど、自己満足に過ぎない」
「貴様が貶そうが私の帝に対する忠誠は変わらん」
「その忠誠のために生きろと言っているんだ。忠義に則るなら生きて俺を殺すくらいしろ」
昼下がりの古寺に、爽やかな秋風が入り込んでくる。
「貴様、まさか……」
その瞬間、雲が晴れたのか格子の窓から日光が差し込んできて、男の顔を照らした。端正で、強い顔貌を。
「しかと両の眼に焼き付けておけ。俺は日永国第二皇子、日和だ」
帝の反逆者、総大将日和、その人だった。
その日から、男は何をするでもなく私の面倒を見た。麓に小さな村があるそうで、時折山を下りては食べ物をもらってくる。
そんなこんなで、十日は過ぎただろうか。
「貴様、なぜこんな古寺に一人でいる」
寺の濡れ縁に腰掛けて、握った麦飯を食べる。寺は山の中腹にあるらしく、側面は険しい斜面だ。逃げるにしてもこの脚で山歩きは到底無理な話だった。言うなれば自然の牢獄だ。
「人もいない、街道からも外れて静かだ。考え事をするにはいい」
麦飯を頬いっぱいに詰めながら男は言う。ぼかして言うあたり、一人で身を潜めなければならない理由でもあるのだろう。なんせ賊軍の男だ。
男は頬についた麦粒を指につけて食べた。
この男、皇子とかなんとか宣っていたが、それにしては下品で粗野だ。普通に民衆に紛れても何も違和感がない。第二皇子は山賊と繋がりがあるという噂に信憑性が増した。そもそもこの第二皇子だが、下女との間に生まれた不義の子であり、幼い頃は母方の家で育てられていたため、宮廷にはほぼ出入りしていないのである。滝口の武士である私が顔を知らないのも当然だ。
私が強く慕っていた帝、日暈様は、貴族の信頼が篤く身のこなしも雅だった。神々しいとはまさにこのことだった。いつも穏やかで、浮世離れした美しさがあった。この筋肉と汗と泥でできているような男とは真反対だ。父子がこんなに似ないことがあるのか。本当にこの男が第二皇子なのかすらわからないが。
「脚の具合はどうだ」
「動かせるようにはなった。まだ歩行は困難だが」
私は軒下でぶらぶらと足を動かした。
「よかった」
男の顔には余裕がある笑みが浮かんでいた。それがなんだか癪に触った。
「今日は佐吉の爺さんが柿を分けてくれた。お前も食べろ」
籠に山盛りになった柿を両腕で抱えながら、満面の笑みで男は山門を抜け寺に帰ってきた。木綿の襤褸着は泥まみれで、思うに農作業を手伝っていたのだろう。どう見てもただの農民にしか見えない。緩み切っている。何もかも。
「……ッ」
風が一陣吹いたであろうか。
「おかげさまでだいぶ脚の調子が良くてな」
私は男の首元に小刀を突きつけた。果物の皮を剥くための、切れの悪い小刀を。
しかし私の前では、それすらも鋭利な刀となる。
生粋の武人である私の前では。
柴郷士。平らな地面などない山中で育てられた武人たち。幼い頃から武術を仕込まれ、生を全て当代の帝に捧げる。帝の懐刀。それが私たち柴郷士だった。
そして私は、柴郷士のどの男よりも強く、優れていた。その名を背負うほど。
「情に絆されるとでも思っていたのか?」
ふ、と笑みが漏れる。
私を女と見たのは男の運の尽きだ。私は郷主の娘として産まれたが、幼い頃より石女になる薬を飲み、男として生きる宿命にあった。覚悟などとうにできている。絆されるわけがない。
しかし刃を突きつけられても、男は全く動じず口を開いた。
「帝はお前に何をした?」
「は?」
「重い税に戦続きでろくに食べるものもない、民と胡麻の油は絞れば絞るほど取れると言う男に忠誠を誓って何か変わるのか?」
風で紅葉が舞う。
脳裏に浮かぶ。宮廷の中庭に跪く民衆を見下し、穢らわしいものを見るような帝の目が。
あの日の蝉の鳴き声が。
うるさく鳴いていた。いつもよりひどく。
知っていた。背けていた。私の仕える主は、貴族の顔色しか伺っていないことなど。民衆をただの人足としてしか認識していないことなど。
知っていた。
男の髪が靡いた。黒に朱混じりの髪が。耳の後ろから生える鶴の羽が。皇族の、血が。
目の前の男は、それに対して。
農民一人一人でも、対等に話し、農作業まで手伝って。
「私は、先祖代々……」
「柴郷士の出だということくらい見ればわかる」
犬の耳と尾。私の誇り。
なにがあっても帝を守る使命を抱く武人。
「帝は死んだ。俺が直接手を下した。第一皇子は失踪。それからは貴族やら山法師やらが利権を取り合っててな。宮廷内にはもはや、帝の支持者は誰もいない。お前のいた柴郷士も、どこに尻尾を振るかで随分揉めてるようだな」
震える手から小刀が滑り落ち、境内に敷かれた苔むした石畳とぶつかって、キンと高い音を立てた。
「現実が辛いからと目を背けると、お前に災厄として降りかかってくるのは他ならぬ現実だ」
雨が降っている。
「貴様、なぜ私を助けた」
目を合わせられなかった。幸い風はなく、雨は吹き込んでこない。私は寺の窓の外をぼうっと眺めていた。何もかも無駄だったのだ。私の忠誠は、国を傾かせるために作用していた。私の仲間は、今や忠誠も何も忘れ去っていた。
雨は瓦に落ち、樋に流れていく。
流れる、何もかも。
「お前が怒らないと保証するなら言う」
「……今となっては、そんな気力もない」
「戦野で野晒しになっていて、可哀想だったから」
以前の私なら確実に怒っていただろう。誇りを踏み躙るな、と。
でも今の私には、何も残っていない。
帝の忠犬にもなれない。だからといって農民の女として生きることもできない。中途半端な人間だった。
「はは、仇から憐れみを受ける立場になるとは」
涙を流していることを、気づかれないように。柴郷士の恥晒し、今に始まった事ではないが。
「無常だな」
ぽつりと呟いた言葉は、雨音に消されて聞こえなかった。
朝起きると、なんだか胸騒ぎがした。いつもより騒がしい気がする。
犬耳をそばだてて、周囲に注意を払う。
「柴郷士の女が紛れ込んでるとは」
確かに聞こえた。武士か賊かわからないが、私の敵であることは確かだ。女、ということまで掴めているとなると、村の人間が誰かが漏らしたのだろうか。そもそもあの戦から追ってきた者かもしれない。私はとうに女ですらないのに、嫌なところで女という扱いはされるのだな、と思う。
ぬかるんだ地面を踏む足音が近づいてくる。どうする。この寺からどう道が続いているのかわからない。
ふと、手が掴まれた。
振り返ると日和が手を握っていた。いつも着ている襤褸着ではない。しっかりとした旅装で刀を携えている。どこに隠していたのか、私の武器を差し出してくる。
「ここは危ないな。脚に負担をかけるが我慢してくれ」
日和は小声で囁いた。腕を引かれて忍足で仏像の後ろに回る。
いつからこんなものがあったのか、そもそも元々あったのか、床板を外すと崖下に伸びる洞穴があった。
「行こう」
私は無言で頷いて、日和の後をつけていった。
長い洞窟を抜けて、深い森の茂みに身を潜める。座り込んで、竹筒の水を飲み干した。
「流石にここまでは追ってこないだろう」
二人ともいつの間にか息が切れていた。
「私は敵軍の狗だぞ、捨て置けばよかったのに」
私の言葉に構わず、裸足で逃げてきたその足を見て日和は懐から布巾を取り出した。
「今ので出血が起きているな。このままでは化膿してしまう。触れるぞ」
「おい」
私の静止も虚しく、竹筒の水で布巾を湿らせている。
「やめてくれ!!」
敵が迫っているかもしれないのに、大きな声が出た。
日和はきょとんとした目で私を見つめ固まっている。布巾を絞るその動作のまま。
「こんな屈辱、もう十分だ」
負けて。
裏切られて。
憐れまれて。
血の滲むほどの、恥を味わって。
「殺して、くれ……」
もう、生きている意味など、ない。
日和は布巾を傍に置き、泣きじゃくる私の腕を取った。
「離せ」
「断る」
日和はするりと私の両手を包み込むように握った。こんな時なのに、悔しいほど温かかった。
「お前のことが可哀想だと思ったのは嘘ではない。それ以上に」
覚悟を決めるように、息を飲んだ。
「戦場でお前が槍を持ち騎馬で駆けるのを見た。美しいと思った。そのひたむきな横顔に、一目で惚れたんだ」
日和の顔が、へにゃりと崩れた。
思い出した。
あれは宮廷が襲われた夜。逃げる反乱軍を迎え撃ちするための部隊に配置された私は、馬上からちらりと敵の総大将の顔を見た。
血を浴びて強い目をぎらつかせていたのは、この男ではなかったか。あの時は、こんな粗暴な男が皇太子なわけないと思っていたが。
「……ああ、だめだな。あんなに女扱いするなと言われたのに」
「なんだ。ただの下心じゃないか」
でもなぜか、悪い気分ではなかった。
「言い返せないな。しかし、お前に生きていて欲しいのは全くの本心だ」
こう見ると、やはり少しだけ、帝に似ている。彼も浮世離れしている。その瞳の輝きが。
でも彼は帝と決定的に違う。第二皇太子日和は、絶対に民を見下したりしない。
「……お前は、私が私でいてもいいのか。この脚じゃもう滝口の武士はできない。誇りも身分も何もない、ただの死に損ないだ」
「当たり前だ。柴郷士以前に、お前はお前だろう」
日和は、別になんともないように、言う。
「標野だ」
武人になる前の名前だった。子供の頃の、まだ何者でもなかった頃の名前。深い山中の、秘められた郷の名。平らな土地などほぼない柴郷の奥に、奇跡的にある花畑の名。幼い頃はこんな名前、いかにも女っぽくて嫌だった。
「ただの、標野という女だ」
「良い名だ。お前に似合っている」
それだけ言うと、日和は満足げに微笑んだ。
悔しいのは変わらない。
「この名を褒められたのは、初めてだな」
ただ、少しだけ、この男のために生きてみても良いか、と思ったのだった。