第1話 海に隠れろ
平安時代の末期、栄華を誇った平氏が源氏に追われていきます。いくつもの合戦を経て壇之浦(今の山口県下関市)で最後の合戦を行います。味方の寝返りもあって、平家は滅亡します。その時、数えで8歳、今でいえば6歳の安徳天皇が、祖母である二位の尼に抱かれて海の藻屑となりました。しかし、実際は安徳天皇は生きていた!というお話です。作者としては十分あり得る話だと思っています。
敵の印は、白い旗。
白い旗を立てたお船が、こちらに向かってやってくる。
それもあんなにたくさん。
ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう……数えきれないよ。
後ろを見ると、……味方だったお船の旗が、いつのまにか紅から白に変わっている。
……なんで?
「白くてぽっちゃりしていて、女の子のようにかわいいね」
なんて、初対面の武将に言われたりするが……
わたくしは、こう見えても6歳男児、安徳天皇だ!
長門の国の関門海峡という、都から離れた海の上にいる。
わたくしたち平家は源氏の義経っていう侍たちと戦っているのだ。
「……負けちゃうのかなあ」
わたくしは心配になってきた。
姫がわたしくしを叱りつけた。
「一宮様、何をおっしゃっているのですか? 平家は負けませんよ!」
一宮とは、呼ばれるわけは……
わが家には4人の男子がいるので、一番上のわたくしを
皆が一宮と呼んでいる。
安徳天皇という名は、つまり《《よそゆき》》の名。
改まったときに呼ばれる名だ。
もちろん二宮・三宮・四宮もいる。
しかし、戦場は危ないので弟たちは京で暮らしている。
姫は妹たちである。
姫はふたり、船の上にいる。
侍女たちも負けじとかぶせてきた。
「わたくしたち平家はすごいのですよ!」
「日本中の富の半分は平家のものなのです!」
「平家にあらずば人にあらず!つまり、平家じゃないものは人じゃないと……」
「都の人は、みんなそう言っているのですよ!」
伊勢が扇をパシッと閉じた。
「そなたたち! 源氏の兵が乗り込んできたときに……こんなに散らかっていては……笑われてしまいますよ!」
侍女たちは立ち上がって、お船の中を片付け始めた。
侍女たちが、玩具やら食べかけの豆菓子などを小箱に入れ美しい布で包んでいく。
白旗のお船が前から後ろから迫ってきた。
おじ様たちがやってきて大声で怒鳴るので、耳を押さえた。
―――平家は負ける。
6歳の男児にだって、戦のゆくえはわかるんだ。
こんなときも、女たちはおしゃべりだ。
なんだかんだ、わあわあ、わあわあ、言っている。
平家のお侍が射られ、斬られ、海に落ちていく。
おじ様も敵を両脇に抱えて、飛び込んだ。
「波の下にも都がございます」
おばあちゃまはそう言って、わたくしを抱きしめた。
衣に焚き染めた伽羅の香りが都を思わせた。
わたくしのおじいちゃまは、平清盛。
その妻であるおばあちゃまは二位の尼と呼ばれている。
おじいちゃんが死んでしまわれたから、尼になられたんだ。
おばあちゃまは、まるで熱いお風呂にでも入るように、そっとお船から海へ入った。
―――冷たい!
海のお水は冷たくてぶるっときたけれど、おばあちゃまとくっつけたほっぺたは温かかかった。
だけど今はもう、ほっぺたもふたつの手も、わたくしの体から離れようとしていた。
(どうして……? 離れないでよぉ)
おばあちゃまの紫色の衣をつかもうとしたけれど、つかめない。
泡がぶくぶくと立ちのぼり、おばあちゃまはゆっくりと海の底へ沈んでいった。
そうだ、さっき袂に石を入れていた。
石は重いから、沈んでいくんだ。
わたくしは取り残された。冷たい海の中に、ひとりぼっちで。
――死ぬのかなあ。まだ子どもなのに
そう思った。
でも、違った。
海の水が口に入る。
息が苦しい。
この苦しさはあの夏に知ったものに似ている。
ひたすら泳がされたあの昼さがり。
海の水はもっとぬくかったな。
……そう、あれは、屋島の御殿で暮らしていた時の事だったな。
伊勢は侍女のくせに、わたくしに厳しかった。
「スイレンです」と言われて、海へ突き落とされたことが何度かあった。
伊勢は時をみつけては、「やれスイレンだ」「やれケンジュツだ」「次ははだしでカケアシだ」とわたくしにキツイことばかりさせてきた。
ほんとに伊勢は侍女のくせに……帝と呼ばれるわたくしに厳しかったな。
お母さまやおばあちゃまに言いつけても、ただ笑うばかりだったのは、
……この日のためだったのか
(伊勢め、お前のせいで……海が怖くなくなったぞ)
息を止め、足をかく。必死で水を蹴った。
今、ここで死んでしまえば――皆の想いも、何もかも、泡になって消えてしまう。
「ぶはぁぁ!」
水面へと浮かびあがると、傾いたお日様が波をきらきらと照らしていた。まぶしい。
波しぶきが頬を打つ。しょっぱい海の水が口に入ってくる。
「きゃああああっ!」
姫の叫び声が、遠くに聞こえる。
「東男にひどい目にあわされるぞ」
大人たちが姫たちにいつも言っていたが、今がそれなのか?
波の間から見えた。
平家の紅旗が倒れ、船が燃えていた。
東の沖には白旗を立てた源氏のお船があんなにたくさん。
そして西にも白旗の船がすぐ目の前に迫っている。
これじゃあ、すぐに見つけられて弓矢で射られてしまうよ。
そういえば、おばあちゃまに抱かれる前、伊勢は生意気なことを言ってたな。
「わたくしたち平家のお船は挟み撃ちをされて、漕ぎ手を射られて、潮に流されているのですよ。……だけど、よくお聞きくださいまし。あなたさまが帝なのです。きっと平家を再興してくださいましね」
伊勢はそう言って、わたくしを後ろから抱きしめてきた。
沈香の香りで伊勢だとわかる。
だけど、お母さまは首を横に振った。
「平家再興など、もう、どうでもよろし。一宮は生き延びるのですよ。生きていれば、それでよろし」
そしておばあちゃまは辞世の句を短冊に書いていた。いつもながら見事な筆だった。
「さあ、イチ。いきましょう」
おばあちゃまに抱き上げられたんだった。
ほんの少し前の出来事なのに、昔話のように思える。
バシャッ
大きな波が顔にかかる。
「……どこにも……逃げ場がないよ……」
源氏にみつからないように、また海に潜った。
そして、船を避けて、傾いたお日様の方に向かった。
潮の流れに身を任せる。
浮かんでは沈み、また浮かぶ。
海は生き物のように、わたくしの体をもてあそぶ。
遠く、鬨の声。
泣き叫ぶ姫君たちの声。
煙の匂いがする。そして、煙で目がしみる。
ギギーーっとお船が軋む音。
大きくて豪華な、平家自慢の唐船が沈んでいく。
この世が終わる音だった。
日は沈んだ。
薄暗い空の向こうに、岸の影がぼんやりと浮かびあがる。
そこに、ぽつんと鳥居が立っていた。海辺の社か。
あれが神様のいる場所なら、きっと助けてくれるだろう。
でも、神様などいない。
いるのなら、どうしてこのような地獄をお許しになったのか。
わたくしは、そのまま、静かに目を閉じる。
次に目を開けるときは、おばあちゃまの腕の中だ――
時が過ぎる。
誰にもみつからないように波間に隠れるんだ。
足に何か当たった。
黒い大きな魚が見えた。
……怖い。
沈まないように足で掻いているのに、わたくしをエサだと思ったのかな。
そうか、わたくしは魚のエサになるのか。
それもしかたない。
目を開けるとあちこちに浮かぶ、沈みかけた舟。
遠くからはまだ怒鳴り声も聞こえる。
どこに行っても、敵がいるだろう。
生きていると知られれば、きっとわたくしは殺される。
(だって、わたくしは……平家の一宮で、安徳天皇なんだもの)
だから、隠れなきゃ。
この海の中に。波の間に間に。息をひそめて。
ずっとずっとここにいて、魚のエサになって、白い骨になるまで。
……泣かないぞ。
そのときだった。
がしっ。
「う……?」
ふくらはぎに、何かが触れた。
お魚? 海豚?
……いや、手だ。
「おいっ!」
声がした。
目の前に、童がいた。
……え?!誰なの?!どこからきたの?!
暗闇で良く見えないけれど、荒く息をしている。なぜか怒っているようだった。
「生きてんだろ!? こっち来い!」
返事をする暇もなかった。
わたくしの衣の襟を引っ張り、童は勢いよく泳ぎ出した。
波を切り、舟をめざす。小さな木舟が、浜の木の根元にくくりつけられている。
「ばかか、おまえ! なんで海の中にいるんだよ!」
そう言って、わたくしを舟へと引っ張り上げた。
「……う……」
声が、出ない。
でも、何か言わなきゃ。
「たすけて……」
少年は驚いたような目をして、それからふっと笑った。
「助けたさ。――オレはハヤテ。漁師の子だ。名前、言えるか?」
言えなかった。
けれど、その問いは心に残った。
わたくしの名前……言えるはずがない
いかがでしたでしょうか。
これから安徳天皇、つまり一宮は名前を変え、逃亡します。多くの平家の者たちも九州は本州のあちこちに逃げ隠れします。見つかって殺されたものもありますが、うまく隠れて平家の落人村を作った者たちもいます。全国で伝説となっている平家の落人村、あなたの近くにもあるかもしれません。