幕間:「柚香の過去 - 天才の孤独な軌跡」
静寂に包まれた研究所の一室。5歳の天羽柚香は、大人用の白衣を身にまとい、顕微鏡を覗き込んでいた。周りには彼女の背丈よりも高く積まれた専門書の山。壁には複雑な数式が所狭しと書き連ねられている。
「柚香、もう寝る時間よ」
母の優しい声が部屋に響く。しかし、柚香は顕微鏡から目を離そうとしない。
「もう少し……もう少しで解けそうなの」
柚香の小さな声に、母は深いため息をつく。
「わかったわ、あなた言い出したら聞かないからね。でも、30分したら必ず寝るのよ」
返事を待たずに母は部屋を出て行った。柚香は再び顕微鏡に集中する。両親は柚香の天才性を誇りに思う一方で、その異常な集中力と社会性の欠如を心配していた。
幼稚園に通わせようとした試みは失敗に終わった。他の子供たちとうまく交流できず、いつも一人で難解な本を読んでいる柚香。先生たちも彼女の知性についていけず、適切な教育を施すことができなかった。
結局、柚香は5歳にして大学の研究室に通うことになった。そこで彼女は、自分の知性が周りとかけ離れていることを痛感する。
「柚香ちゃん、この計算間違ってるよ」
ある日、優しく微笑む大学院生が柚香のノートを指摘した。しかし、柚香は冷たい目で彼を見つめ返す。
「間違っているのはあなたの認識です。これは新しい数学理論に基づいた計算方法です」
その説明を聞いた大学院生は、驚きと困惑の表情を浮かべた。柚香は人々の無知と無理解にストレスを感じ、次第に他者とのコミュニケーションを避けるようになっていった。
7歳の誕生日。両親は珍しく休暇を取り、柚香のためにパーティーを開いた。しかし、柚香の関心は誕生日プレゼントの最新のスーパーコンピューターにあった。
「柚香、ケーキを食べましょう」
父の声に、柚香は不機嫌そうに顔を上げる。
「ケーキの糖分摂取よりも、このコンピューターでの計算の方が重要……」
両親は悲しそうな顔を見せたが、柚香にはその意味がわからなかった。彼女にとって、研究こそが最も大切なものだったから。
9歳の時、柚香は初めて国際学会で発表を行った。会場は彼女の研究に驚嘆し、スタンディングオベーションで迎えられた。しかし、柚香の表情は終始無表情だった。拍手の中、彼女が感じたのは達成感ではなく、孤独だった。
「素晴らしい発表でした、柚香さん」
ノーベル賞受賞者の老科学者が柚香に語りかける。
「ありがとうございます。しかし、私の理論にはまだ改善の余地があります」
柚香の冷静な返答に、老科学者は驚きの表情を見せた。
「君はまだ9歳だよ。もっと人生を楽しんでもいいんじゃないかな」
その言葉に、柚香は首を傾げた。
「人生を楽しむ? 私にとって研究こそが人生です」
その夜、ホテルの一室で柚香は初めて涙を流している自分に気がついた。
なぜ自分は他の人々と同じように「楽しむ」ことができないのか。
なぜ自分の言葉が人々を困惑させるのか。
答えの出ない問いに、柚香は一人悩み続けた。
そしてその問いは今でも続いている。
だが柚香はなぜか澄月の中にその答えがあるような気がしてならなかった。